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2011.11.23

中欧の旅(4日目:11/18)・・・(旅行)

今日は、バスでドレスデンに向かいドレスデンを観光して、夜には再びプラハに戻ってきます。約3時間の距離を往復です。
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ドレスデンに着き、ドイツらしいソーセイジとじゃがいも、キャベツのコールスローの昼食を済ませ、オペラハウスのゼンパー・オーパー前の広場でバスを降りました。
道路を隔てた向こう側には、旧カトリック宮廷教会(左の写真)とドレスデン城が見えます。
ドレスデンの歴史的な建築物が、黒い色をしているのは、煤煙で汚れたわけではなく、多く用いられている「エルベ砂岩」には豊富に鉄分が含まれていて、長い年月で酸化が進み黒くなるためだそうです。

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そして、ゼンパー・オーパーの名で呼ばれるオペラハウスの前には、この劇場の発注者のザクセン王ヨハンの騎馬像があります。また、広場の東方向には、ツヴィンガー宮殿が見えています。
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最初に、まずツヴィンガー宮殿に入ります。この宮殿は、1694年にザクセン選帝侯となったフリードリヒ・アウグスト1世(アウグスト強健王)がバロック建築の巨匠ダニエル・ペッペルマンに命じて1711年に建築に着手した宮殿で、ドレスデンのシンボルとなっています。入り口の門となっている建物は、アルテ・マイスター絵画館になっています。ここを通り抜けると広い中庭があり、正面には「王冠の門」が見えています。
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正面の王冠の門から左右につながる回廊を覆うように建物がありました。
そして、広場の中心で左に向かうと、丸い建屋のカリヨンがあり、マイセン焼の鐘と時計が組み込まれています。内部には、マイセンの磁器の展示室があり、階段を上って、上のテラスに上ることができます。
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テラスから中庭を眺めると全体の規模がよく分かります。
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テラスの手摺にも石像が建てられ、優美さを醸し出しています。
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ツヴィンガー宮殿を出て、次にレジデンツ城(ドレスデン城)に向かいました。
歴代のザクセンの君主が住んだレジデンツ城は1945年の爆撃で大きな被害を受け、85年から修復が始まりました。
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2005年にオリジナル部分を組み込んだモダンな内部が完成し、2006年9月にはオリジナルに基づいて再現された歴史的な緑の丸天井(Historisches Grünes Gewölbe)がオープンしました。それに続いて2009年の1月31日、3連結した中庭のうち、中央の中庭が新しい入口のホワイエ(ロビー)としてオープンしました。
エルベ川方向の門から出て進みます。
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フリードリヒ・アウグスト1世(1750?1827)の座像のあるドレスデン地方裁判所の前を通り、ブリュールのテラスへの階段を上ります。なお、座像の王は、裁判所の前に相応しく、左手に「法」と書かれた本を持っています。
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旧王室芸術アカデミー校の円屋根のある建物の手前で、右に階段を降りおしゃれな店の並ぶ通りを進みます。
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フラウエン教会の前にでました。11世紀に創建され、18世紀に塔の高さが95mの大バロック様式の教会に建て替えられましたが、大戦で瓦礫と化し、そのまま放置されていたが、1994年から再建が始まり、全ての瓦礫に番号が付けられて整理され「世界最大のパズル」といわれた作業を経て元の場所に戻されました。
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内部は、教会の名前に相応しく、祭壇も内装も美しく素晴らしいものでした。
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再びレジデンツ城の城壁にでました。馬小屋の外側に得がれたアウグスト強健王の「君主の行列」と題される、マイセン焼のタイル25,000枚の長さ101mにもおよぶ壁画です。1200℃で焼かれたマイセン磁器なので、連合軍の空爆で城が炎上しても、この壁画だけは耐えたといいます。
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行列最後尾には壁画作者のW.ヴァルター自身が描かれています。
最後に旧カトリック宮廷教会の正面入口前を通りました。この教会は、1755年に建てられ、ザクセン州最大の教会で鐘楼の高さは85mです。壁には諸聖人の彫像が飾られています。
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これで、ドレスデン観光を終え、
プラハに戻り夕食です。
チキンがメインの食事でした。

中欧の旅(3日目:11/17)・・・(旅行)

3日目になりました。今日は、プラハに向かい、プラハの街を観光します。
朝食を済ませて、8:00にバスで出発してチェコのプラハに向かいます。プラハまで約5時間のバスの旅です。
途中の森の中では、霧氷が木々を飾っていました。とても寒そうです。
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森を過ぎて、田園地帯も霧で幻想的です。
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プラハの市街に着きました。気温は3℃で少し上がって、霧氷などは見られません。
まずは、レストランに向かい、昼食です。メインは牛肉とタマネギ、パプリカなどから作られるシチュー料理のグヤーシュです。美味しかったです。
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食事を済まし、プラハ城の北門に向います。聖ヴィート大聖堂の尖塔が見えてきました。
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北門も両側に衛兵が直立不動で立っています。中に入ると第二の中庭で、正面に1764年に建てられ、1856年に建て直した聖十字架の礼拝堂とコールの噴水があります。
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さらに、第三の中庭に進むと、大きな聖ヴィート大聖堂があります。大きくてカメラに収まりません。大きさは奥行き124メートル、幅60メートル、高さ96.6メートルもあり、14世紀のカレル4世の時代に現在のような堂々とした建物にする工事が始められ、最終的な完成は20世紀になってからというのも驚きです。
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中に入りました。入り口上部には丸い「バラ窓」と呼ばれる窓があります。
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大聖堂の入り口を出て、左にまわって行くと、聖ヤン・ネポムツキーの像がありました。聖ヤン・ネポムツキーの像は、プラハ市街のあちこちで見られるとのことですが、常に頭に5つの星を配して造られています。
南ボヘミアのネポムクの出身であったことから、聖ヨハネのネポムクとも呼ばれ、その殉教の背景には、当時のボヘミア王ヴァーツラフ4世とカトリック教会との対立があり、空席となっていた大修道院長の人選をめぐる問題があったとする説や、司祭として知りえた王妃の告解の内容を王に明かすことを拒んだからとする説などがあるそうです。いずれにせよ王を怒らせた聖ヨハネは拷問を受け、1393年3月20日に落命しました。その遺体はカレル橋の上から投げ捨てられましたが、同年4月17日、ヴルタヴァ川の川岸で発見されました。
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大聖堂と間に第三の中庭を挟んで建つ旧王宮は、現在はチェコの大統領府として使用さています。そのため国旗が掲揚されています。衛兵の交代がありました。
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プラハ城の正門に向かいます。正門の両側の門柱の彫刻は、戦う巨人たちでインパクトがあります。当然門柱には、衛兵が直立不動の姿勢で立っていて、観光客とよく一緒に写真撮影されます。
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正門を出て、左に進むと、プラハの街の赤い屋根が美しく見渡せます。そして、階段を下って行きます。
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下って行くと、英国大使館があって、チャーチルの胸像がありました。パイプをくわえていないのは、最近のご時世にならって禁煙したからでしょうか。
そして、トラムの走る道路に出て、さらに下るとカレル橋にでます。
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午後4時ですが、夕闇が迫ってきた気配です。カレル橋(カルルーフ・モスト)は、観光客は必ず訪れるところで、大勢の人が歩いています。、プラハを流れるヴルタヴァ川(モルダウ)に架かっている橋で、ヨーロッパに現存する最古の石橋です。神聖ローマ皇帝カール4世の治世下1357年に建設が始まり1400年に完成しました。最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていましたが1870年よりカレル橋と呼ばれるようになったとのことです。橋の長さは516mで、橋の欄干には15体ずつ、合計30体の彫刻が並んでいます。その中でも有名なのは聖ヤン・ネポムツキー像で、台座の左側のレリーフに刻まれた聖人をなでると幸運が訪れると信じられていて、皆が触るので金色に輝いています。
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聖人の像の傍らには、物乞いの乞食もいました。寒いので同じ姿勢を保つのは厳しいことだと思います。生活保護制度からも漏れる人が居るのでしょうか。橋の下では、今日もヴルタヴァ川が豊かに流れています。
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日本人には、馴染みの深い聖フランシスコ・ザビエルの像もあります。カレル橋を渡って行くと、向こう側の橋にも塔が建っています。
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516mのカレル橋を渡り終え、旧市街広場に急ぎます。ひときわ高くそびえているのは時計塔です。時計塔と西に続く建物が旧市庁舎で、世界遺産です。

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広場の東側にはティーン教会(正式にはティーン(税関)の前の聖母マリア教会)の2つの尖塔がライトアップされて美しく輝いて見えます。
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広場の中央には、ヤン・フスの銅像があります。ヤン・フスは、チェコの宗教改革の先駆者として知られていて、ローマ教会の堕落を厳しく批判したため、1415年に火あぶりの刑になりました。銅像は、1915年フス没後500年を記念して造られたものです。
広場の西北の隅には、聖ミクラーシュ教会があります。18世紀に完成した豪華で壮麗なバロック様式の教会で、1787年、モーツァルトがこの教会で演奏したオルガンが現存しているとのこと。
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カフカ( 1883 – 1924)が生まれた家が、聖ミクラーシュ教会の北側にあります。現在、カフカカフェが入っている建物です。
時間があるので、火薬塔を見に行きました。火薬塔は15世紀終わりごろにプラハの旧市街の入り口として建てられた門です。17世紀に火薬置き場として塔を使ったので塔はその時代から火薬塔と呼ばれています。19世紀に塔の建て直しが行われ、現在の塔の高さは65メートルです。
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火薬塔の隣には市民会館がありました。アールヌーヴォー様式の建物で1906年に建設が始まり、1912年11月22日に完成しました。
1918年チェコスロバキアの独立宣言した場所であり、今は、プラハの春音楽祭のメイン会場として有名で、音楽祭は、1946年より始まり、毎年スメタナの命日5月12日に開幕します。
この近くのレストランで魚料理の夕食をとり、今晩のホテルに向かいました。

2011.11.22

中欧の旅(2日目:11/16)・・・(旅行)

今日は、ウィーン観光です。
昨日は、ホテルに着いてお風呂に入ったら直ぐに眠ってしまいましたが、時差のため朝は早く目が覚めます。6:30からのバイキングスタイルの朝食も待ちかねるようにして済ませ、8:45のバスでの出発まで時間があるので、少しホテルの周りを歩いて見ました。気温は3?4℃程度でしょうか、かなり寒いです。
ホテルの前には小公園があり、冬枯れでほとんど葉の落ちた木立になっています。トラムの駅もあるので、ここで乗れば、ウィーン西駅まで行く事ができます。
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8:45になり、バスで世界遺産である、近くのシェーンブルン宮殿に向かいました。かなりな濃さの霧で、写真が綺麗に撮れません。今回の旅行中は、毎日が霧で太陽を見ることは有りませんでした。
1619年頃、狩猟の途中にこの地に足を踏み入れたハプスブルク家の皇帝マティアスが、良質の湧き水を発見し、「おお、美しき泉よ。」と言ったところから、この名前がついたといいます。シェーンは美しい、ブルンネンは泉です。
ハプスブルク家唯一の女帝にして最大の権力を誇ったマリア・テレジアと、彼女ゆかりの宮殿内には豪華な部屋があります。1740年に23歳の若さで即位したマリア・テレジアは、強靭な精神力と巧みな政治手腕で帝国に繁栄と安定をもたらし、夏の離宮だった宮殿を大改築して、1400室以上のロココ風の部屋と幾何学的な広大な庭園を持つ豪壮なものにしたのです。
外壁は、マリア・テレジア色といわれる黄色になっています。内部の豪華な装飾の部屋を見学しましたが、内部は、残念ながら撮影禁止でした。マリア・テレジアに招かれ、モーツアルトが6歳でチェンバロ演奏を披露し、床で転んで、後にルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットに助け起こされ、「将来君と結婚してあげる」と言ったのもこの宮殿です。
上層階の侍従たちが住み込んでいた部屋は、国営の賃貸アパートとして一般人が住んでいるとのことですが、世界遺産に住めるとは驚きです。シェーンブルン宮殿宛の手紙を貰うのは、さぞや良い気分だと思います。
正面入口前には、大きなクリスマスツリーが既に立てられていました。
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宮殿の右横の庭園を見ながら、宮殿裏に向かいました。広大な庭園です。
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裏側から見た宮殿です。
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裏庭を真っ直ぐ500mほど進むと、ネプチューンの噴水があり、さらにその先にはグロリエット戦勝記念碑があります。噴水の水は出ていませんでしたが、立派な噴水です 。写真を撮りに行って、集合時間に遅れそうになりました。
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正門前には石畳の広場があり、その四隅に支配者の象徴であるスフィンクスが鎮座しています。前足の先端近くまで女人像で胴体はライオン像です。さらに真っ直ぐに通りが伸びています。
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シェーンブルン宮殿を後にして、シュテファン大聖堂に向かいます。途中には、1784年から87年までモーツアルトが住居とした建物もありました。この家で「フィガロの結婚」を作曲したそうです。
シュテファン大聖堂は、ウィーン市街の中心にあり、ハプスブルク家の歴代君主の墓所であるほか、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとその妻コンスタンツェ・ウェーバーの結婚式と葬儀が行われた聖堂としても知られています。壮大な建物で、何処から撮影しても全体は収まりません。観光用の馬車が何台も停まっていました。
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シュテファン寺院から伸びるケルントナー通りを進みます。ウィーンの目抜き通りで、有名ブランド店が並んでいます。既にクリスマスの飾り付けも一部始まっていました。

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ケルントナー通りの最後には、ウィーン国立歌劇場があります。世界屈指の歌劇場であり、国際的な舞台で活躍するトップアーチストたちが出演しています。毎日演目を変えて上演されており、50のオペラとバレエが約300日間にわたって上演され、公演日数は世界でもっとも多い劇場です。ここで、一度ゆっくりとオペラでも鑑賞したいものです。

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次は、ホーフブルク(王宮)です。自然史博物館の前辺りから入って行くと、広い中庭が広がっています。ひときわ目に付くのは、カール大公とオイゲン公の騎馬像です。
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カール大公(左の写真)は1771年9月5日、オーストリアで神聖ローマ帝国皇帝の第三子として生を受けます。フランス革命戦争が勃発、その時期にカール大公は軍隊入りし頭角を現し、皇帝の弟でもお飾りの司令官ではなく、自ら作戦指揮をして一度はナポレオンを退却させるなどの活躍をした大公です。
一方、オイゲン公(右の写真)はフランス貴族でありながらオーストリア皇室に仕え、オスマン帝国のドナウ川中流域奪回の最後の試みを挫折に導くなどの活躍をしました。
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駆け足の観光で、ヘルデン門(ブルク門)から外に出ます。道路を跨ぐとマリア・テレジア広場で、クリスマスマーケットが始まりつつある感じで、何店舗か開かれていました。そして、マリア・テレジアの銅像があります。
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マリア・テレジア広場の左右には、自然博物館と美術史博物館が対象な形で建っています。
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自然博物館の隣は、国会議事堂です。1883年、アテネで教鞭をとっていたデンマーク人のテオフィル・フォン・ハンセンによってつくられた国会議事堂で、民主主義の象徴として、その発祥の地アテネにちなんで構想されたといいます。前面には、アテネの女神像まで建っています。
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昼食は愛想の良いおやじさんのいるレストランでシュニッツェルを食べ、その後、自由行動の人達と別れてウィーンの森に向かいます。ウィーンの森といってもウィーンの西側に広がる丘陵地帯で、広大な領域で、まずハイリゲンクロイツ(聖十字架)修道院に向かいました。到着して、バスを降り、クリーム色の建物の中央の入り口の門から中に入ります。バーベンベルク家レオポルト3世によって1133年に創設され、オーストリアでは一番古いシトー派の修道院です。回廊に取り囲まれた中庭の奥の方には聖母マリアの像があり、台座の周りは泉になっていて、その外側にはプラタナスの大木が立っていました。
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一方、中庭の出口に近い方には、三位一体の塔が建っていて、その塔と向き合うようにチャペルの建物が建っています。そして、他の建物と違い歴史を感じさせるものでした。
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帽子を脱いで、チャペルの中を見学します。フラッシュを使わなければ撮影も許されるとのことで、正面祭壇を撮らせてもらいました。
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次は、小さな街マイヤーリンクにある小さな修道院教会に向かいます。ここは、オーストリアの皇帝フランツ・ヨゼフ帝と皇后エリザベスの1人息子である皇太子ルドルフ(当時31歳)が、17歳の愛人のマ リー・ヴェッツェラ男爵令嬢と一緒にピストル自殺を遂げたところです。元々皇太子の別荘で狩猟の館であったのですが、事件の後、フランツ帝が2人が心中をした場所を祭壇として、2階をを取り除いて礼拝堂に作り変えてしまいました。「うたかたの恋」の題名の映画にもなりました。

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10人ほどの修道女の方がいらっしゃるそうです。
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祭壇は、可愛い造りで、入り口上部のステンドグラスも綺麗です。別室には、マリーが1889年から1959年まで眠っていた棺と、壁にはマリーの写真が飾られていました。
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次に向かったのは、温泉で有名な小さな街のバーデンです。バスから降りると、果物屋があり、思わずシャッターを押していました。リンゴとラ・フランスがいっぱいです。
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クリスマス用品などを売る店のショーウインドウを覗きながら歩いて行くと、シューベルトとリストのプレートが掲げられた建物がありました。温泉のあるこの地を良く訪れたそうです。また、その先で細い通りに入ってゆくと、この地を愛した音楽家のひとり、ベートーベンの暮らした家がありました。建物の入り口には、ベートーベンが1821年から18233年の間の夏にこの家に住み、「第九交響曲」を作曲したと書かれていますが、彼は既に耳は聞こえなくなっていました。ウィーンに住むようになって、2人の弟を呼び寄せたが、28歳の時から患っていた中耳炎が悪化し始め、殆ど耳が聞こえなくなり、絶望の淵に追い詰められて自殺を決意し、2人の弟へ宛てた手紙をしたためました(有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」です)。しかし、思い直し、こんな素晴らしい曲を作ったのです。 説明を聞いたグループから、思わず第9の合唱のメロディーの口ずさみが沸き起こりました。
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細い道路を進んで行くと、ペスト記念碑が見えてきます。町の中心地ハウプトプラッツ広場です。ペスト記念碑は、欧州で猛威を振るったペストが治まったのを記念して建てられた塔です。
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この広場に面して、市庁舎もあります。
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広場につながる通りを歩くと、有名ブランドの店が並んでいます。
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クリスマスの飾りを売る店は、覗いているだけで楽しくなります。
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だいぶ暗くなって来ました。ウイーンのホテルに戻り、夕食です。
メインは、チキンにお米を敷いたもので、美味しかったですが、デザートは甘すぎるとは皆さんの意見でした。忙しい2日目も終わりました。
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中欧の旅(1日目:11/15)・・・(旅行)

中欧(オーストリア、チェコ、ドイツ、スロバキア、ハンガリー)の旅に家内と出かけました。
宿泊は、ウィーンとプラハ、ブダペストにそれぞれ2泊づつで、毎日荷物のパッキングをしての移動よりは楽ですし、同じホテルに2泊なので下着類は洗濯もできます。
季節的には少し遅いのですが、出来ればクリスマスマーケットも観てみたいと、この時期を選びました。
11月15日、成田空港に10時15分集合なので、少し余裕を見て6時40分にタクシーを呼び、YCATから7時30分発のリムジンバスに乗りました。
交通はスムーズに流れて、9時10分ぐらいに成田空港に着きました。まだ、集合時間に1時間もあるので、とりあえずお金をユーロに替えたりしている内に集合時間が近づいて、人も集まってきました。
今回の旅行の参加者は、38人で少し多いグループで、添乗員さんは大変です。当然、熟年夫婦の参加が多いのですが、若い女性の一人旅に加えて、大学生(男)と父親、若い息子と両親の組み合わせもありました。
ウィーンまでの航空券を受け取り、チェックインを各自済ませて、皆が揃うの待って出国しますが、チェコのお金のコルナ(1Kc ≒ ¥5)とハンガリーのフォリント(¥1 ≒ 2Ft)も成田で替えて置く方が、レートが良いとのことなので替えることにしました。しかし、コルナ、フォリントは、逆に円に替えるのは大変なので、最小限にして足りなくなったら現地で追加で替えることにしました。どうせ、高額なものはクレジットカードで払えば良いことです。
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出国手続きをすませて、搭乗ゲートに進むとウィーンまで乗る、オーストリア航空の飛行機が駐機しています。オーストリアのフラグ・キャリアですが、資本的には、ルフトハンザドイツ航空の傘下にあるそうです。ウィーンと成田の便ということで、日本人のフライト・アテンダントも乗っています。また、フライト・アテンダントは洋服のみならず、ソックスも靴もカバンさえ赤で統一されています。
これから、ウィーンまで12時間のフライトです。

出発して水平飛行に移った頃、飲み物サービスに続いて、食事がでました。鮭かチキンのチョイスで、私は鮭を、家内はチキンを選びました。オーストリアの頭文字のAを型どった容器に入ってきて、日本蕎麦も付いています。味は、よかったですが、野菜サラダ、デザートがなく、他社と比べて少し劣る感じでしたが、私には十分でした。家内が「有名なマンナーのウエハースがついている」と喜んでいました。
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いよいよウィーンが近づいてきて、着陸まで1時間半ぐらいの所で、2回目の食事がでました。
下にご飯を敷き、とろみを付けてシーフドを煮たものをかけてあります。これは美味しかったです。
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ようやく、ウィーンに着きました。バスでシェーンブルン宮殿近くのホテルに向かいましたが、空港出口からバスの駐車場所に向かう僅かな間でも日本に比べて、相当に寒いのが感じられました。ホテルに着くと、夜食として紙袋に、パンにシュニッツェルを挟んだものと、チーズを挟んだものにリンゴを添えたものを入れて、配られました。ホテルの前にはトラムが走っていて、地下鉄の駅も遠くはないのですが、疲れてホテルの外に出る気も起こらず、お風呂に入って、パンをひとつだけ齧って、寝てしまいました。

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2010.11.11

トルコとエジプトの旅(9,10日目:11/6,7)・・・(旅行)

今日は、カイロ歴史地区のオールドカイロを見学した後、エジプト考古学博物館を見学して昼食をとり、カイロ空港に向かい午後4時55分発のエジプト航空で成田に向かい帰国します。
6時起床で窓の外を見ると、今日も霧が出ています。今日は帰国なので6時30分ころスーツケースをドアの外に出し、朝食に行きました。トルコでコーヒーを頼むと驚くことに、レストランでも、ホテルでもネスカフェのインスタントコーヒーなので、コーヒー中毒の私も手が出なくて我慢していたので、今日はゆっくりとコーヒーを飲みました。上等なコーヒーでなくてもインスタントコーヒーより、はるかに良いです。
出発は8時なので、ロビーに座り込んで時間を持て余しぎみでした。
出発して、バスの窓から見ると、トルコより一段と貧しさが伺われます。GDPで見るとトルコの五分の一程度で、日本の三十分の一です。トルコはG20メンバーですから差があるのは当然かも知れませんが。
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オールドカイロ地域に入って行きます。歴史地区と言われ、歴史的に意味があると思える建物が見られますが、事前に勉強もしておらず、ガイドさんが説明してくれても頭に残りません。
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途中で、大勢の人が佇んでいるのを見かけました。ガイドの話では、今日の仕事にあり付こうと待っているとのことでした。日本も大変ですが、もっともっと大変な国があります。
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スルタンハッサンモスクに着きました。オバマ大統領も訪れたモスクで、マムルーク朝の1356年から1363年にかけてスルタン・ハッサンが建てたものです。マムルーク建築の傑作といわれています。建物の石材は、ギザのピラミッドのものを使っていて、高さ81mの尖塔(ミナレット)が立っています。建築を指揮したスルタン・ハッサンの治世は短く、完成を見ずにこの世を去ったそうです。
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9時20分にエジプト考古学博物館に着きました。収蔵点数が20万点のぼると言われています。事前に見たい物を系統別に決めておかないと、漠然と見ても限(きり)がない感じです。
誰でも見たい人気のあるものは、ツタンカーメンの黄金のマスク、人型棺、首飾りなどの装飾品であると思われます。ガイドがの後ろに付いて説明を聞き、ガイドは入れないというツタンカーメンの展示室をゆっくりと見てきました。特に、黄金のマスクは、日本に来たときに見逃していました。
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当然ながら博物館内は撮影禁止なので、博物館の外で、エジプトの若いお嬢さん方にカメラを向けました。皆にっこりと微笑んでくれました。
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この後、金のアクセサリーを売る店に行きました。ここでも巧みな日本語で講釈してくれます。
エジプトの象形文字で名前を刻んだペンダントヘッドがお勧めのようですが、刻む文字数によって値段も変わるようです。
エジプトで最後の食事の昼食を取るため、直ぐ隣にあるレストランに向かいました。ここで食事をしている間に、名前を刻んだペンダントヘッドが出来上がって届くという仕掛けです。
バイキングの昼食でしたが、なかなか美味しかったです。しかし、混んでいて席は少々窮屈でした。
昼食の後、車窓から街の風景を眺めながら、空港に向かいました。
道中色々と、歴史的な建物を見せてくれますが、解説を聞いても頭に残りません。
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厄介なセキュリティーチェックも慣れてきて、エジプト航空にチェックインして、時間があるので免税店をうろうろしましたが、ちょっとした小物のお土産を買ったぐらいで、特に欲しいものも見当たりません。そして、いよいよ搭乗して飛び立った頃には、日本は11月7日になっています。しばらくして食事が出て、その後は疲れのためか、ほとんど寝ていました。
日本時間の12時に無事成田に到着して、流れ解散のため入国審査、荷物ピックアップ、税関と通り抜けて、リムジンバスでYCATに向かい帰宅しました。
少し長かったが、楽しい旅行でした。参加したメンバーにも恵まれたと思っています。
11月になれば、トルコは雨が多くなり、雨が降れば内陸部は相当に寒くなると聞かされていて、旅行の時期を間違えたかと思ったりしましたが、全行程を通じてほとんど雲もない快晴にも恵まれました。

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