2008.09.13

御嵩から鵜沼・・・(中山道)

本日の万歩計47,050(31.5Km)
夏の暑さを避けていて、7月13日から2ケ月ぶりの中山道である。
台風が石垣島あたりに停滞しているが遠くて問題なく、天候も曇りで暑さが緩和されて良いのではと思い3連休でもあり、でかけることにした。新横浜7:11発の「のぞみ99号」で名古屋に向い、名鉄に乗り換え「御嵩」には9:10に着いた。
休日の朝で、人通りの少ない町を歩いて進む。
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枡形で右折して直ぐに国道に出て進むと「鬼首塚」があった。説明板によれば、西美濃不破の生まれの男が岩窟にすみ悪行を重ねていたので、この地の地頭に頼み退治してもらった。その首を京に運ぶ途中、この地で首が重くなり、縄が切れて首が転がり落ちたが、その首も重くて動かせなくなったのでこの地に首を埋め首塚とした、とある。
首塚を過ぎて何度か国道から逸れるが、2度目の場所には「比衣の一里塚跡」があった。
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3度目に国道に戻り、少し進むと伏見の本陣跡に伏見公民館が出来ており、本陣跡の大きな石碑が建っていた。宿場の通りが国道になっているのが難だが、僅かに街道らしい雰囲気も残っている。
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早く国道歩きから逃れたいと思いながら歩き続け、ようやく太田の「今渡の渡し」に達した。ここでは「太田橋」を渡ることになるが、事前に調べた情報では太田橋は歩道がないばかりか、側端のラインすらない橋で車の通りも多く、渡るのが怖い橋とのことであった。しかし、立派な歩行と自転車用の橋が増設されていた。橋の袂には渡しのモニュメントも作られていた。
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橋の直前に「ホワイト・リリィ」と言うキャバレーのような名前の喫茶店があり、その横を通って10mほど行くと「弘法堂」があり、この辺りが昔の渡し場があったところとのこと。また、「錦紅水」という可児(かに)の名水が湧き出していた。飲んでみたが、ことさら美味い水とも思えなかったが、昔は旅人が渡しの舟を待つ間に喉を潤したのだろうか。
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木曽川の方を見ると雄大な流れが目に入る。飛騨川が合流して水量も多い。水面はかなり下だ。
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立派な歩行者専用の橋を渡り、木曽川の堤防を歩く。写真の左はこちら側の渡し場のあった辺りであるが、カヤックらしい練習風景も見える。かなり長い間堤防を歩いて行くことになるが、途中には「岡本一平終焉の地の石碑」があった。岡本一平より、妻の岡本かの子の方が有名で、岡本太郎の父であるが、ここで亡くなったとは知らなかった。
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堤防の道から「太田宿」に入ってきた。街道らしい街並みである。枡形のところに祐泉寺があり、芭蕉、北原白秋、坪内逍遥の歌碑が建っている。
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祐和寺の隣に無人の休憩所の「小松屋」がある。2ケ月ぶりの歩行で、足が痛く少し休憩を取った。古い商家を休憩所にしたものであるらしい。槍ヶ岳開山で有名な「播隆上人」、「小説神髄」をあらわした「坪内逍遥」の展示があった。坪内逍遥の父は尾張藩士で太田代官所の手代を勤めていた関係で逍遥は太田で生まれ子供時代を過ごしたとのこと。
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次に、脇本陣の林家の豪壮な建屋があった。国指定重要文化財で中山道でも有数の歴史遺構とのこと。建てられたのは明和6年(1769)とのこと。一部は公開していて当時の座敷の様子などを見ることができる。
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本陣跡があったが、ここは門だけが残っていた。なかなか立派な格式のある門である。そして太田宿の終わりの枡形で再び木曽川に接するようになり、「虚空蔵堂」がある。ここは坪内逍遥の生誕の家にも近く、ここで良く遊んだらしい。また、この辺りは「承久の乱(後鳥羽上皇率いる朝廷軍と鎌倉幕府軍の戦い)」の戦場の北端であったという。
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ここから、再び木曽川の堤防道を歩く。川の中には落ち鮎釣りであろうか、釣り人が見える。真っ直ぐな道の突き当りには城山があり頂上は猿啄城(さるばみじょう)址で展望台が見える。織田信長が丹羽長秀を総大将として東美濃攻略を開始し、丹羽長秀の先鋒である川尻鎮吉が猿啄城を攻略し、落城。川尻鎮吉が猿啄城城主となり、城名を「勝山城」と改称したという。しかし、10年ほどで川尻鎮吉が岩村城に移り、廃城となた由。
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左手に流れる木曽川は岩の間を流れる急流となっていて、日本ラインの名称で川下りで有名である。川原も気持ちの良い草原で親子連れが木陰で楽しんでいるのが見える。
そして、城山の麓を左に回りこむように進むと、「岩屋観音」への上り道がある。昔は木曽川が山の急な崖に接していて、少し高いところを通るようになっていて露出した大きな岩肌を掘り込んで「観音堂」を建てたようである。この観音堂から見る木曽川は流れも特に急で勇壮である。
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岩屋観音を過ぎて、進んで行くと「うとう峠」を越えることになる。うとう峠のうとうは「疎う」という言葉に名の由来あると言われていて、旅人には嫌われていた峠越えらしい。「うとう峠」は右手の方の「鵜沼の森公園」となっているところを通るのだが、入り口が分かり難い。国道の左手に廃業してしまった「カフェテラスゆらぎ」の建屋が残っており、その駐車場の入り口(ロープが貼られて立ち入り禁止の様相)を入って直ぐの隅に国道とJR線を潜り抜ける通路に下りる急な階段がある。和田峠でビーナスラインを潜ったと同じような、水路の片側に通路のあるものであったが、今年の続いた雨のためか、通路も濡れていて水蘚できわめて滑り易い状態であった。「鵜沼の森」の道は、さすがに樹林のなかで涼しく快適であった。
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しかし、歩いて行くと写真のような「まむしに注意」の立て札があった。メインの歩道から右に分岐するところにあった立て札で、進行方向は大丈夫だろうが、それにしても「まむしに注意」の立て札は初めてであった。
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やがて、「中山道いこいの広場」の看板のある開けた場所に出て、ここからは石畳となっている。
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この後も上りは少し続くが、直ぐに下りとなり急に開けて「うとう峠の一里塚跡」があり、うとう峠越えは終わりとなった。さらに下ってゆくと「合戸池(かっこいけ)」と呼ばれる池があり鵜沼の方に下りて行く。
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下ってゆくと「うとう峠の地蔵堂」があり、ここで右にほぼ直角に曲がって中山道は続いて行く。鵜沼宿は明治24年の濃尾地震でほとんど壊滅的な被害を受けて、ほとんど古い建物は残っていないが、「絹屋」の屋号の旅籠が復元されていた。
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脇本陣の坂井家跡には芭蕉の更級紀行の旅立ちの記念碑が建っていた。芭蕉は坂井家を3度も訪れており、そのときに詠んだ俳句の句碑も建っていた。
 汲溜の 水泡立つや 蝉の声
 ふぐ汁も 喰えば喰わせよ 菊の酒
 送られつ 送りつ果ては 木曽の穐

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津島神社と言う何か由緒のありそうな、神社があったが全面改装中で全体が覆われていた。石垣の石の並び形状が見事である。
2ケ月ぶりの歩行で、相当に足が痛い。時刻は16:30だ。ここで1日目を終えることにして、名鉄の苧ヶ瀬(おがせ)駅に向い、今日の宿を予約した名鉄各務ヶ原(かがみがはら)市役所前駅に向かう。


2008.07.13

大湫から御嵩・・・(中山道)

本日の万歩計31,055(20.8Km)
今日のルートでは、途中で食事をとるところが無い。昨日夜にコンビニで「おにぎり」、「菓子パン」などを買い込み、今朝はホテルで朝食を済ませ、恵那発7:30の電車で釜戸に向い、釜戸からタクシーで昨日にタクシーに乗った地点までやってきた。
昨日は気が付かなかったが、タクシーに乗ったところで左に折れ、僅か20mほどのところに、コミュニケーションセンターと称する観光案内所があった。今は、8:00でまだ開いていないが、後で調べたら歩行の案内図などもいただけるそうで残念なことであった。
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もう、大湫の本陣は残っておらず空き地になっているが、そこに和宮さまが江戸に下られたときに宿泊されたのを記念して、モニュメントを最近作ったようである。
そして、脇本陣も中の家屋は、小さいものとなってしまったが、入り口の門が往時の面影を残していた。
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その後も、街道らしい家屋が続く。山中と思えないほど優美である。
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そして、大湫の神明神社である。平凡な小さな神社と思っていたが、境内にある杉の巨木には驚いた。樹齢1200年という。それにしても、圧倒される存在感だ。
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大湫宿は本陣1、脇本陣1、旅籠30軒で宿泊のための建物は美濃16宿の中では多い方であったが、宿の長さは500mほどで、すぐに高札場となって宿も終わりになる。
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高札場を過ぎて500mほど進むと、左の写真の母衣岩(ほろいわ)と、右側の烏帽子岩と呼ばれる、巨大な2つの岩がある。高さはともに、6mで幅は母衣岩が18m、烏帽子岩が9mである。
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また、500mほど進むと左の方に突如として山中には在りえない、立派で大きく近代的なビルが見えてくる。大湫病院である。車社会になって、成り立つ立地条件なのであろう。そして、右手に「琵琶峠」への入り口がある。
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「琵琶峠」の石畳の石は大きく歩き易い。現存する街道の石畳では落合宿の十曲峠、旧東海道の箱根よりも長く日本一の長さとのこと。旧中山道が廃止されてから使用されずにそのままの状態で放置されていた為、枯葉や土で埋まっていたのをそっくり発掘することが出来、損傷も少なかったとか。約500mほどで峠に達する。顔の周りにまとわりつく虫が」うるさい。
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琵琶峠頂上は、狭い領域で馬頭観音と和宮様の歌碑が建っていた。歌碑には、「住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび」とある。残されている和宮様の歌はどれも江戸に下るのが嫌でしょうがないと言っているものばかりに思える。都を1度も出たたことの無い16歳の姫にとっては不安であったのは分かるが。
峠の頂上から下ってゆくと「八瀬沢一里塚」がある。道の両方に見事に残っている。
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石畳の道は舗装道路にぶつかり、その後は草の道となり、軟らかく歩くに気持ちのよい道であった。結局、「琵琶峠」を越える道は、上り口から1Kmほどで終わり、舗装道路に出てしまう。
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700mほど進むと、国際犬訓練所の立派な建物がある。訓練施設も入場料を取って見学させている。また、500mほどで天神辻という場所になり、天神辻の地蔵尊がある。
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1kmほどで、弁天池があり真ん中に小さな島があって、そこに弁才天が祀られていた。この辺りは、全般的に湿地帯のようである。
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尾根を通る舗装道路が続き、アップダウンも少なく木陰の道で歩き易く、車の通りもほとんどない。自転車で颯爽と走って行く人を見かけた。そして、ようやく細久手宿に到着。
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細久手宿は恵那から御嵩までの13里で、唯一宿泊可能な旅館がある。尾張藩が常宿としていた「大黒屋」がいまも営業しているので、ある程度は賑やかな宿ではと思っていたのだが、大湫より小さな宿であった。自動販売機はあったので飲み水を補給して、進んで行った。
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進んで行くと、「旧中山道くじ場跡」と書かれた碑があり、駕籠かきたちが大湫宿や御嵩宿への荷の順番を決めてたむろしていた場所だという。
その後、平岩辻という太い道路が交差した集落で、また飲料水を補給して歩き始め、少し進んで舗装道路から土の道路に入って行く。秋葉坂を上り始めると、直ぐに平岩の秋葉坂三尊がある。この石窟の上には秋葉様が祀られているので秋葉坂と呼ぶとのこと。これ以降も石で囲われた地蔵などを見かけるが、3尊も揃っているのはここだけである。
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樹林帯の中の道を1Kmほど進むと「鴨之巣一里塚」があり、さらに林の中の道が続く。道路の状態は、通る人も少ないような感じで、所によっては雨の流れで荒れていて歩き難い。
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長い樹林野中の道を過ぎ、藤あげ坂を下ると周りが開けてくる。酒造業を営んでいた豪商 山内嘉助屋敷跡があり、小さな集落が見えてくる。間の宿津橋である。
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津橋を過ぎると、ここにも石で囲われた地蔵がある。さらに進むと一軒家があり、最近では珍しく鶏が放し飼いされている。こういう鶏の肉は焼き鳥にすると締まっていて美味いのだろうなどと考えながら進む。
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急な上りの「諸の木坂」が始まり、登りつめたところが「物見峠」で「馬の水のみ場」があり、御殿場があった。御殿場は和宮様降嫁のときに休憩のための仮御殿を建てたところで、天気がよければ御岳山、恵那山が見えるとのことであったが、曇が多く無理であった。
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峠を過ぎて直ぐに「ラ・プロバンス」という洒落た喫茶店がある。手作りケーキが特に美味しいらしい。建屋の前には「ラベンダー」が咲いている。コーヒーでも飲んで休んで行こうと、入り口に来て驚いた。4?5人の人が順番待ちをしているのである。もちろん「諸の木坂」を上ってきた人達ではない。峠の向こう側からは車で来れるのである。若いカップルのお定まりのコースになっているようであった。
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物見峠を過ぎた下り坂は「謡坂(うとうさか)」である。説明板によれば、『この辺りの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らわしたことから、「うたうさか」と呼ばれていたのが次第に転じ、「うとうざか=謡坂」になったのだともいわれています。』とある。確かに京から江戸に向かう方向では急な上りで大変だ。しかし、苦しい上り坂で歌がでるものだろうか。毒吐くぐらいが関の山と思うのだが。ともかく、峠から400mほど進むと「唄清水」がある。旧謡坂村を知行地としていた尾張藩千村氏の千村平右衛門源征重(五歩)がこの清水を「馬子唄の 響きに波たつ 清水かな」と詠んだことにちなみ、唄清水と呼ばれるようになったとのこと。
坂を下って舗装道路に出たところには「一呑の清水」がある。この水は和宮様が大層気に入られた水で、上洛の際に多治見の永保寺での点茶のために、わざわざ取り寄せさせたという。また、岐阜の名水50選にもなっている。しかし、生水では飲めないとは残念である。
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再び、舗装道路から左に逸れて、進むと十本木立場で「謡坂十本木一里塚」がある。そして、謡坂の石畳が始まった。
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石畳の途中にも右手方向に石で囲われた「馬頭観音」があり、眺めながら石畳を下って行く。
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舗装道路に出て、しばらく行くと「耳神社」がある。耳の病にご利益のある神社で、錐を1本借りて耳にあて、治ったらその人の年齢の数だけの錐を奉納するのだという。簾のように奉納した錐が飾られている。耳神社を過ぎて2車線の道を左に離れると西洞(さいと)集落である。土砂の崩れ止めを施した道が面白い。
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木陰の気持ちの良い道を歩いて行くと、突然の急坂があった。「牛の鼻欠け坂」である。本当の名を「西洞坂」と言い、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な上り坂であるとして「牛の鼻欠け坂」と呼ばれた。
そして、この坂が横川から続いてきた山の中の坂道の最後である。なんだか寂しい気もする。
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早速、舗装道路に出てやがて国道21号線に出る。国道脇に半分放置されたような物置小屋があり、その裏に「和泉式部の廟所」がある。東山道を旅していて、御嵩辺りで病に侵され鬼岩温泉で湯治したが、寛仁3年(1019)この地で没したという。
碑には「ひとりさへ 渡ればしずむうきはしに あとなる人は しばしとどまれ」と刻まれている。和歌の才に恵まれ恋多き女性の伝承は全国に残っているそうである。
国道を歩いて、どこから旧道に入ってゆくのかと気にしていたら、「右御嶽宿 左細久手」と刻まれた古いタイプの道標があった。進んでいって右折すると、街道の宿を感じさせる家並みが始まった。
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豪商であった商家竹屋の建物があり、見学できるようになっていたが、スキップした。そして、やっと向こうに名鉄の「御嵩駅」が見えてきた。
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駅前まで進むと「みたけ館」という綺麗な建物があり、1階は図書館で2階では、宿に関する展示がなされていた。とても暑い日でもあり、中には座り心地の良い椅子もあったので、しばらく休憩させてもらった。その後「御嵩駅」で14:30分の電車に乗り途中「可児(かに)駅」で名古屋行きに乗り換えた。名古屋から新幹線で新横浜に向かった。


2008.07.12

中津川から大湫(おおくて)・・・(中山道)

本日の万歩計46,553(31.2Km)
梅雨の雨に加えて夏風邪を引いたりして、なかなか歩きに行けず、今週を外すと夏の暑さで9月中旬過ぎまでお休みとなると思い、出かけた。
新横浜6:18分発の「のぞみ1号博多行き」に乗り、中津川には8:49分着であった。これで、中津川駅は3回目である。
前2回では気が付かなかったが、駅前広場には「栗きんとん発祥の碑」があった。
駅前通りを進み中山道に行き着き少し進むと、早速「栗きんとん」本家の「すや」があった。
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街道は流石に情緒の残る通りであるが、直ぐに人一人がやっと通れる路地の入り口に「桂小五郎の隠れ家跡」の立て札があった。進むと当時の料亭の「やけ山」ではないが、趣のある古い家があり、説明板が建っていた。桂小五郎と言えば、尊皇攘夷に向かっていた長州藩が佐幕に転向して、藩に帰ることも出来ず幕吏にも追われて逃げ回るが、この中津川で平田一門の助けを得て隠れながら京に向かう藩主毛利慶親を待ち、中津川会議を行って尊王倒幕に向かうことになったとして歴史に記録されている。後の木戸孝允(きどこういん)である。
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本陣の建屋はもう残っておらず、単なる説明板だけであったが、さらに進むと「夜明け前」に青山半蔵の友人として出てくる小野三郎兵衛(本名は肥田九郎兵衛通光)という庄屋の家がある。美濃の家屋の特徴である卯建(うだつ)の立派な家である。その後も文化財指定の建屋が続く。
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枡形を曲がって突き当たると立派な店構えの日本酒「恵那山」の醸造元の「はざま酒造」があり、これを過ぎると、ほどなく中津川に架かる常夜燈を配した橋がある。そろそろ宿も終わりである。
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1Kmほど進むと、「小手ノ木坂」という階段状の坂道がある。坂を上ると男女の2つの頭を持つ「双頭一身道祖神」があるが、この種の道祖神は珍しく中津川市の指定文化財になっている。
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やがて、「上宿の一里塚跡」がある。中山道は期待していたより「一里塚」が残っていないと思っていたが、今回の歩行の後半の13峠では次々と「一里塚」を見ることができた。この一里塚がその一つ目である。
その後、中津川のインターを通り抜けて「千旦林」と呼ばれる地域に入って行く。少し進むと「六地蔵」がある。最初、6つの地蔵が並んでいるものと思っていて、説明板を見て内容を読むこと無しにあぜ道を通って道路際の家屋の裏を覗きに行ったが、常夜燈の周りに6つの地蔵が彫られているのを指すことが分かった。いささか拍子抜けであった。
そして、これぞ蔓木であることを示す立派な「ノウゼンカズラ」が咲き誇っていた。梅雨の花とされるそうだが、夏の花としてしてもよいと思える。
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本当に、のどかな風景の集落が続く。素晴らしい「格子戸」をみることが出来る。そろそろ。京の影響もあるのだろうか。そして、ここにも「尾州白木改番所」があったことを示す碑が建っていた。
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茄子川と呼ばれる地域に達すると、和宮、明治天皇もご休憩されたという茶屋本陣の「篠原家」の建物が残っていた。篠原家は加賀前田家の重臣篠原一孝の子の弥右衛門が17世紀始めに移り住んだとのこと。理由は定かでないが、江戸期は庄屋、村役人等を勤めたという。
岡瀬沢と呼ばれる小さな流れの手前に「中山道・岡瀬澤」と彫られた大きな石碑があり、また常夜燈も建っていた。常夜燈は安永5年81776)に建てられたものである。
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向こうに低い峠が見えてきた。甚平坂である。上は公園になっていて、東屋では自転車で訪れた父と小学校低学年の子供が休んでいた。よい休日を過しているのだろう。
なお、甚平坂の甚平とは、頼朝の家臣で信濃の国根津に住む甚平是清の名前に由来するという。
甚平坂を過ぎて、明知鉄道の踏切を渡るといよいよ「大井宿」の中心街に入って行く。大井宿の名は現在では消えて、恵那市となっている。進むと大井宿の本陣の表門がある。昭和22年に本陣は焼けてしまったが、表門の辺りは幸いにも残ったとのこと。説明板には樹齢300年の松があると書いてあったが、枯れてしまったようだ。
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枡形の角には、いまも旅館「いち川」として営業している元旅籠の「角屋」があり、その角を曲がって進むと間口27m、奥行き65mの敷地に建つ堂々たる大井村庄屋の古屋家がある。そして、突き当たりは大井宿の氏神様の市神神社で、毎年1月7日に行われる例大祭は大変な賑わいとのこと。
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コの字型の枡形を過ぎて、大井橋を渡る。地域の皆様でいろいろと手を加え、花を植えたり、手すりに安藤広重の絵を飾ったりしている。川には色鮮やかで見事な鯉が多数泳いでいた。橋を過ぎても情緒のある古い家が恵那駅への通りを過ぎても続いている。
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食事をして続いて歩いて行くと、中野村の庄屋の前に洪水のときに、板をはめ込む溝を掘った石が残っていた。浸水防止策である。道は左に曲がり、直ぐに右に曲がってクランク状に続くが、ここには民家に挟まれて「中野観音堂」が建っていて、古い町を感じさせた。
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クランクを過ぎると直ぐに永田川を渡るが、この辺りで宿の賑わった地域も終わり、残念ながら車の通りの激しい道を進む。800mほどで「西行硯水公園」がある。西行は2度目の奥州の旅から帰ってきた文治2年(1186)にこの地に3年間逗留し、ここに湧く泉の水で墨を擦ったという。3年間の逗留費用はどうしたのだろうと、下賎なことを考えてしまう。
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ohi_31.jpg西行硯公園を過ぎると、直ぐに県道を右に外れて中央線の踏切を渡り、田圃の中道を進んで中央高速の下を潜ると、すぐに「十三峠」が始まる。13峠と言うが、「13峠におまけが7つ」といわれ正確に数えたという人の話では21箇所と言う話もある。次の大湫宿まで山道が13Kmほど続く難所である。
直ぐに「西行塚」がある。公式には西行の墓は大阪府南河内郡河南町にある、弘川寺にあるものとされているが、この辺りで入寂したとの伝説もありこの塚が作られたのではと言われているようだ。いずれにしろ、墓石は室町時代のものとのこと。
展望台もあり、素晴らしい眺望を楽しみながら休息を取る。「武並駅」から歩いてきたという3人連れのご婦人に出会ったが、武並駅から恵那駅までが、ハイキングコースとして設定されているようだ。
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西行塚を過ぎると、しばらくは石畳の道が続き、直ぐに「西行の森」と銘打った桜の木を沢山植えた場所に着く。この辺りはもう石畳は終わっているが平坦で歩き易い。
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そして、ほどなく「槙ケ根一里塚」がある。ここも綺麗に原型を留めている。そして、1.5Kmほど進むと「槙ケ根立場跡」で、釜戸から土岐、多治見を経て名古屋に行く道への分岐点でもある。名古屋へは、中山道より18Kmも近く幕府は宿場を守るため荷物の運搬を禁止したが、人気があり商人や伊勢参拝の人々に多く利用されたという。説明板には、この近道は下街道と呼ばれたとある。
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800mほど進むと、右側に「姫御殿跡」の大きな石碑があった。この辺りに松の大木があり、松かさ(松の子)が多く付き、子持ち松と呼んだという。そして、この子持ち松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため子孫が続いて縁起がよいとして、お姫様の通行のとき仮御殿を建てて休憩された。そこで、これを姫御殿と呼んだとのこと。
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姫御殿跡の斜め前には「首なし地蔵」がある。説明板には、
昔、二人の中間(ちゅうげん)が、ここを通りかかった。夏のことで汗だくであった。「少し休もうか」と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった。しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいた。びっくりしてあたりを見回したがそれらしき犯人は見あたらなかった。怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵様の首を切り落としてしまった。それ以来何人かの人が首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったという。」とある。
直ぐに急な下り坂が始まる。 大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾が乱れるほの急坂であるがゆえに「乱れ坂」という。少なくとも上りでなく下りでよかった。
坂を下りると「乱れ橋」と呼ばれる橋が小さな流れに架かっているが、昔は石も流れるほどに急流だったとのこと。いまは、全くその面影はない。
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途中にある「四ツ谷」という小さな集落を過ぎ、「平六坂」を上ってゆくと急に開けて、日本の田舎の原風景のようなのどかな場所に達する。「びゃいと茶屋跡」である。びゃいとは「枇杷湯糖」と書き、枇杷(びわ)の葉に薬草を加えて煎じたもので疲労回復剤だったとか。そして、「紅坂の一里塚」である。
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一里塚を過ぎて紅坂を下って行く。石畳の片側の半分はアスファルト舗装であった。地元の人が、バイクで通れるようにしたのだろうか。途中には「ぼたん石」と呼ばれる石があり、本当に「ぼたん」か「バラ」の花を思わせる感じではあった。
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紅坂を過ぎると、次は「里すくも坂」である。下ると「佐倉宗五郎大明神」があった。佐倉惣五郎は下総(千葉県)の人であるのに、一字違いの名前の大明神は何故だろうと思って調べると、ここでも元禄年間に岩村藩で農民騒動が起こりそうになり、竹折村の庄屋田中氏は将軍に直訴して農民達を救ったが、当時の定めとして直訴は打ち首と決められていたため、首をはねられてしまった。田中氏の名前で神社を作るのは気がひけるので、下総の佐倉惣五郎のケースに似ているので、佐倉宗五郎大明神の名前で、田中氏を祀ったのではと言われている。
さて、ここは中山道から離脱して30分ほどで、JR中央線の武並駅に出られるポイントである。時刻は14:30で次のポイントの大湫宿までは6Kmほどあり、疲労感も強い。途中で飲み水の補給も怠り、残りの水も僅かである。しばし悩んだが、もしここで離脱すると、明日は午前中のみの行動で、それ以降は次のポイントまでの距離から無理となる。結局、2時間で大湫に着けるだろうと強行した。
直ぐに、「深萱立場:ふかがやたてば」で大きな案内板があった。そして、西坂を上って行くと「ばばが茶屋跡」の表示があり、三城峠を越えて下って行くと「中山道」の巨大な石碑があった。
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もう、水はほとんど残っていない。疲労は増すばかり。カメラのシャッターを押す頻度が低下する。なんとか水が手に入らないかと、そればかり気になる。やっと「権現山の一里塚」に到着。次いで「中山道ゴルフコース」を横切って進む。時々木立の隙間から芝生が見える。中ほどに、毎年8月1日にだけ、水が湧き出るという「巡礼水」があった。こちらは水が尽きた。気が逸る。
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ゴルフ場の中を横切る「びゃいと坂」とそれに続く「曽根松坂」を下って行くと「三十三観音」がある。石室に閉じ込められたようなユニークな観音である。直ぐに「尻冷やし地蔵」がある。旅人が喉を潤す貴重な水場で、湧き出す水が地蔵の尻を冷しているように見えたのだという。
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やっと、大湫宿に着いた。時刻は16:40分である。自動販売機がある。思い切り水を飲む。1軒だけある雑貨屋でタクシーを呼べるかたずねる。釜戸駅までタクシーで出て、恵那駅に向い駅前のホテルに投宿した。


2008.06.15

大妻籠から中津川・・・(中山道)

大妻籠を過ぎて、九十九折(つづらおり)の石畳の道を上ってゆく。石畳の道が終わって小さな木の橋を渡ると、道の左の少し高いところに「倉科祖霊社」がある。松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌が、主命で秀吉の関白就任祝いに行った帰り、馬籠峠で土豪の襲撃を受け、この地で従者30人とともに討ち死にした場所であり、その霊を弔うために建てられたお堂である。当時小笠原氏と木曽氏は何度も戦っており、そうした因縁からかと言われている。
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男だる川の「雄滝」(左写真)と一石栃沢の「雌滝」がある。滝の作り出す冷気が上り坂を歩いて汗ばんだ体に心地よい。吉川英治の宮本武蔵の舞台となったところとのことだが、筆者は読んでいない。
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「雌滝」から沢を渡り急坂を上ると車道にでるが、ほどなく沢に沿った心地よい道を進むことになった。馬込峠から下ってくる何組かの人達にも出会った。そして、車道を横切って進むと石畳の道になり、直ぐに「さわらの大木」がある。300個の風呂桶が作れる大きさと書かれている。下枝のかたちから神居木(かもいぎ)と呼ばれる木で、山の神、天狗が休む木で、傷をつけたりすると祟りがあると信じられていて、杣人は側を通ることもいやがったという。言われると意思を持った木のようにも見える。
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林の中を歩き、急に開けてきたと思ったら「一石栃の白木改番所跡」である。木曽から移送される木材を取り締まるために設けられたもので、檜の小枝一本まで許可を示す焼き鏝を押してあるか調べたという。そして、大妻籠で残り少なくなっていた飲み水がなくなり、自動販売機もない道なので困ったと思っていたら、茶屋の前に水舟があり水を補給できた。冷たく美味しい水であった。
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標高801mの馬籠峠への最後の上りは、きつかった。ようやくたどり着いたら、峠の茶屋が1軒建っていた。平成の大合併で馬籠が中津川市に入り、ここが長野県と岐阜県の県境となった。
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茶屋の横には正岡子規の歌碑がある。「白雲や青葉若葉の三十里」とある。あとは、ひたすら馬籠宿に向かって下って行く。道に白と土色の小片を混入させており、桜の花びらが散ったようにも見える。
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急坂を下ると、峠の集落で、ここは馬方ならぬ牛方が大勢住んでいて荷物輸送を担っていた。道が厳しいので馬ではなく牛を使ったのである。島崎藤村の「夜明け前」にはこの牛方が輸送賃をめぐってストライキを行う場面が出てくる。集落のはずれには、牛方を顕彰した「峠之御頭頌徳碑」がある。
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急な下り坂を下りて行くと、十辺舎一九の大きな碑とともに休憩所があり、「渋皮の むけし女はみえねども 栗の強飯ここが名物」と刻まれていた。さらに、車道を何度か横切りながら進んで行くと、沢に架かる橋を渡って車道と接するところに、「樹梨」と言う名の食事処があったので、山菜天婦羅定食を頼み遅い昼食とした。栗の強飯は美味しかった。77歳という地元の老人も食事をしていて、木曽について色々と話してくれた。
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食事を終えて進むと、直ぐ石畳の道になり上りきると、民家にぶつかりその軒下を通るような場所がある。
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magome_19.jpgさらに、車道を何度か過ぎりながら下って行くと、ようやく陣場と呼ばれる、見晴らしの良い場所に到着する。ここには島崎藤村の「夜明け前」の一節、実父の島崎正樹の漢詩、岐阜県になった記念碑などなど沢山の碑、看板が建っていた。遠くには恵那山も見える。若いカップルが沢山ベンチに座って景色を眺めている。
この陣場は、家康、秀吉の小牧・長久手の戦いで馬籠城と妻籠城を攻めるため、家康軍が陣を張ったところである。このとき、馬籠城は島崎重通が木曽義昌の命で守っていた。
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例によって、高札場は宿の街並みへの入り口にあった。流石に、ここからは観光客が多い。進んで行くと「夜明け前」の描写の通りに「大黒屋」がある。既に酒造業はやめているが、大きな杉玉がある。そして今はお土産屋になっている。
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magome_26.jpgそして、大勢の人通りに追われるように道の反対側の本陣跡である藤村記念館に入る。
急いで飛び込み、外から冠木門を撮るのを忘れてしまった。もう、本陣の建物は残っておらず土地も「大黒屋」の持ち物となっていたそうだが、長野県で馬籠宿に観光客を呼び込むための整備計画の段階で町に寄贈されたとのこと。唯一残っていた建物は祖父母の隠居所であるが、藤村(春樹)はこの隠居所の二階の座敷で、座敷牢で狂死した国学者の父、正樹(青山半蔵)から四書五経の素読を受けたと言う。また、お城のような石垣に囲まれた通路を見ると、半蔵が裏口から友を逃がす場面が頭に浮かぶ。
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今は梅雨の季節だが、よい天気に恵まれ観光客も大勢訪れていた。家並みはすっかり整備されて素晴らしいが、少し手を入れすぎな気もするがどうであろうか?
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magome_30.jpg街の通りから僅か200mほど離れたところに、島崎家の菩提寺の「永昌寺」がある。ここを訪れる観光客は居ないのか、静かに静まり返っている。島崎家の先祖代々の墓所は、あっさりとしたものであり、正樹の墓は少し離れて妻の縫子とともに眠っている。また、全く新しい場所に、島崎家の10人ほどの石碑を配した墓所があったが、島崎家の子孫が墓地を購入して最近整備したものか?島崎藤村の墓は大磯の地福寺にもある。
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階段の道は京口の枡形である。これを過ぎると、いよいよ馬込宿も終わりで「落合宿」への道を歩んで行く。しばらく行くと、馬籠城跡の説明板があった。既に城跡は私有地になり、もとの城域は判然としない。小牧・長久手の戦いでは島崎重通が守っていたが、徳川方のあまりの大軍に恐れをなし、夜陰にまぎれて木曽川沿いを通って妻籠城に逃れたと書かれていた。
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少し先には島崎正樹の顕彰碑。さらに進んで新茶屋という集落で「信州サンセットポイント百選」という場所があり、正岡子規の歌碑「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」があった。昔の人も長い木曽路を歩いてきて、大きく開けた景色に接してほっとしたのではなかろうか。そして、新茶屋の一里塚跡を見て、石畳の道を下って行く。
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magome_41.jpg落合の石畳の道は、少しの距離だろうと思っていたが、案外長く、しかも4ケ所ほどは江戸時代のものがそのまま残っていたという。石畳が終わり、しばらく行くと「医王子」がある。有名な枝垂桜は伊勢湾台風で折れてしまったが、今は二世が大きく育っている。
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やっと、落合宿に入ってきた。もう、昔の宿の雰囲気が損なわれていると思いながら歩いて行くと、本陣があった。私邸であり公開はされていない。
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magome_46.jpg「落合宿助け合い大釜」と言うのがあった。容量は1000リットル以上で、寒天を煮ていた釜だという。今はお祭りに千人キノコ汁を作ったりしているが、災害時の緊急用も兼ねているとのこと。落合も旧中山道には白い小片を混ぜた舗装で歩くのに間違いなく、安心して歩ける。そして、このような分かり良い道は中津川の近くまで続く。歩いて行くと、与野の立場跡の碑があった。
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magome_48.jpgそして、尾張藩の「白木改番所跡」の碑。ここで、「ひのき、さわら、あすなろ、こうやまき、ねずこ」の木曽5木を取り締まった。改番所は明治4年に廃止されたが、明治新政府の材木に対する取り締まりは、より苛烈を極め、島崎正樹(藤村の父)はこの闘いで精神に異常を来たした。
これを過ぎると、後は中津川まで一気に進めると思ったのが大間違い。急な上り下りが2回あって、相当にへばってしまった。しかし、芭蕉の「山路来て 何やらゆかし すみれ草」の句碑を見ると、もう中津川だ。急坂を下ると高札場があり、真っ直ぐに中津川駅に向かうことにした。
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magome_50.jpgその後16時34分のセントラルライナーで名古屋に出て、東海道新幹線で帰宅についた。セントラルライナーは初めて乗った列車だが、名古屋に住む子供たちに会いに行くという女性と隣り合わせになり、色々と話していたら新幹線で食べるようにと、大きな「ほうば寿司」を二個頂いた。ともかく、中山道歩きで、始めての東海道新幹線利用となった。


十二兼から大妻籠・・・(中山道)

本日の万歩計52,351(35.1Km)・・・十二兼から中津川までの歩数
昨日宿泊した中津川から電車で十二兼に7時12分に戻ってきて歩き始めた。しばらく進むと、柿其渓谷(かきぞれけいこく)へ渡る「柿其橋」が木曽川に架かっている。この橋を渡ることは無いが、中央付近まで進み木曽川の景観を見物する。
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この辺りの木曽川は「南目覚」と呼ばれているらしいが、なるほど「寝覚の床」の景観に似ている。白い花崗岩と青い水の対比が美しい。
さて、国道に合流して進むが、これから一里ほどは「羅天の桟道(らてんのさんどう)」と言われた、木曽路屈指の難所であったところである。木曽路名所図会にも、「道は深き木曽川に沿い狭きところは木を切り渡し、つた・かづらをからめてその巾をおぎない・・・」とあるとのこと。しかし、現在では近代土木工事の技術の成果として、全く危なげなく大型車がうなりを上げて走る国道となっている。歩くにはつらい道である。
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tsumago_05.jpg3Kmほど進むと国道と木曽川の間に数軒の家がある。「金知屋(かなちや)」という集落である。これを過ぎると、国道から左に外れ、県道264に入って行く。車もめったに通らず、樹木の緑も美しく、国道に比べると極楽である。
この辺りは今は南木曽町であるが、かつては「読書村(よみかきむら」であり、今も地域名としては残っている。この名前は、左手の方が与川村(よ)、向かっているのが三留村(み)、木曽川の向こう側が柿其村(かき)であったため、この三村が明治7年に合併して頭文字を取って「よ・み・かき」で「読書村」としたという。なかなか面白い命名である。
そして、三留宿である。連子格子の美しい家屋を見ながら進んで行く。
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tsumago_08.jpg歩いて行くと、古い木の「蛇抜橋」。蛇抜とは、木曽地方では土石流を指し、梅雨時などに大雨になり、山津波に襲われることが、多々あり恐ろしいさも込めて蛇抜けと呼んだのであろう。それにしても、この橋の下を流れる沢は、恐ろしい災害をもたらしたとは思えないほど小さな流れであった。
木の橋も相当老朽化しているように見え、車が通るのに耐えられるのが不思議だと思ったが、橋の下は鉄骨で補強されているようだ。
三留宿も終わりに近づくと、右手に木材の集積所がある。そして、南木曽駅を通過する。
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駅を過ぎると、薮原にもあったD51の蒸気機関車を展示したSL公園がある。何故木曽路はSLの展示が多いのであろうか。SL公園を過ぎて進んで行くと神戸(こうど)の集落があり、どの家も庭木が美しい。
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神戸を過ぎると、「振り袖の松」がある。木曽義仲が弓を射ろうとしたが、松の木の枝がじゃまになったので、巴御前が振り袖の袖を振って木の枝を払ったとか。何とも、荒唐無稽な話しだが、木曽の人々は木曽義仲と巴御前をよほど敬っていたのだろう。
そして、直ぐ近くに木曽義仲が創建した「かぶと観音」がある。「木曾義仲が、平家追討のため、北陸道から上京するとき、木曾谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門にあたるこの神戸の地に、祠を建てた。 その際、かぶとのてっぺんに飾っていた安全祈願の八幡座の観音像を祭った」という。江戸時代に参勤交代で通り過ぎる大名も必ず御参りしたという、観音堂である。
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「かぶと観音」を過ぎて、しばらく進むと石畳の道になる。道の両側の緑が心地よい。さほど長くない坂道を上りきると、上久保の一里塚がある。南木曾町には一里塚が4箇所あったが、原型を留めている一里塚はここだけで、草が茂って少し分かり難いが、見事に道の両側に残っている。
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本当に緑が美しい。このような道なら、幾らでも歩けると思いながら進んで行くと、今は廃墟と化した「しろやま茶屋」があり、直ぐ横が「妻籠城跡」への上り口である。
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誰も城跡には上らず真っ直ぐ妻籠に向かうようであるが、上ると展望がよいと分かっていたので、竹林と林の道を上ることにした。築城は室町時代のようだが、誰が築いたかは分からないとのこと。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、木曽義昌の家臣の山村甚兵衛良勝がここに籠もって徳川軍を防いだという。典型的な山城で、掘割も何箇所か残っている。
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最後の上りは、きつかったが頂上の城跡は広場になっていて、講の石碑などが建ち、期待通り妻籠宿が一望できた。
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妻籠城跡上り口まで戻り、妻籠への道を進むと直ぐに「妻籠の入り口」で家屋が数軒建っている。ここには、有名な「鯉ケ岩」がある。明治24年の大地震で形が変わり、鯉らしくなくなり、しかも蔓が茂って、少しも鯉には見えない。しかし、この地域の名前の「恋野」という粋な名前も、この「鯉ケ岩」から来たと言われている。
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tsumago_25.jpgいよいよ、街の中心に向かう。まず高札場である。高札場は旅人に読ませるのが主目的か、宿の入り口、出口付近に設けられている。入ってゆくと素晴らしい宿である。1軒の店に入り、コーヒーと五平餅を食べて休息しているときに聞いたのだが、妻籠は貧しくて誰も新しい家を建てることができず、古い家屋のまま我慢して住み続けていたのが幸いして、保存地域に指定され古い家をそのままの形で整備できた。しかし、保存地域となると、自分の家でも改修などは出来ず、快適な住まいとは言い難いと話されていた。たしかに、旅行者にはよくても、実際に住むとなると不便なことも多いであろうことは、想像に難くない。
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tsumago_28.jpg島崎藤村の母ぬいが生まれ、次兄の島崎広助が養子に来て最後の主人となった、妻籠本陣である。そもそも、妻籠と馬籠の本陣は同族で遠く三浦氏の出であると「夜明け前」にも書かれている。上がりかまち、玄関の間、上段の間等々を見学した。
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本陣と道路を隔てた向い側には「脇本陣」があり、合わせて見学した。明治10年に建設された、総檜作りで国の重要文化財に指定されている見事な建物で貴重なものである。脇本陣は問屋も勤め、「奥谷」の屋号で現在も酒造業を行っている林家が営んでいた。馬籠の酒造業の「大黒屋」の娘で島崎藤村の初恋の人と言われる、おゆふさんの嫁ぎ先でもある。島崎藤村がおゆふさんに贈った詩なども飾られていて、縁側からは妻籠城のあった城山も良く見える。案内してくれるおばさんの解説が面白く見事である。
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妻籠の郵便局は流石に江戸時代の遺構では無いであろうが、街並にマッチした建物で、郵便ポストも「夜明け前」に描かれている当時のものを再現したもの。ただし、材質は金属(鉄)になっている。
進むと、道は枡形に入って行く。
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宿の街並みはまだまだ続くが、桧笠屋さんがあった。帽子と違って頭に密着しないのでとても涼しいという。欲しかったが、これをかぶって街道を歩く勇気が無く断念した。釣りをする人は買っていた。
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妻籠を過ぎて、次は間の宿(あいのしゅく)の「大妻籠」に向かう。大妻橋を渡って樹林帯の中を上って行くと神明集落があり「大妻籠」の大きな看板が現れる。
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さらに進むと民宿を営んでいる立派な家3軒続いている。大妻籠である。このなかで「つたむらや」は秋篠宮様、紀子さまが独身時代に友人と訪れ宿泊されたところである。宮様が来るというので、慌てて水洗トイレに改修したそうである。
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大妻籠の最後には大きな塚があり、頂上付近には庚申塔が見える。一里塚であった塚である。そして、直ぐ側には民宿の「こおしんづか」がある。
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さて、これ以降は馬籠に向かう道を歩むことになる。


2008.06.14

須原から十二兼・・・(中山道)

本日の万歩計29,958(20.1Km)
木曽路に入ると、電車の便が悪く必然的に1泊して2日間の歩行となる。このため、ブログの記事を書いたり、次の予定区間の下調べ、宿泊ホテルの予約などを考えると連続した週の歩行は厳しい。しかし、既に梅雨の季節に入って晴天を逃せば、次はいつになるか分からないと考え強行した。
前回帰途に着いた須原駅に12時8分に着いた。これが、一番早い到着なのである。
もちろん、須原駅は無人駅で、駅前には江戸時代から「桜の花漬け」を製造販売する「大和屋」が店を開いていて、菓子やアイスクリームなども置いている。脇本陣と問屋を務め、現在も地酒「木曽のかけはし」の蔵元を続ける西尾家の店である。
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須原では、木の丸太をくりぬいて水場を作っているのを見かける。これを「水舟」という。左の写真のタイプがほとんどであるが、右のタイプもたまにはある。コップを置いてある水舟は飲料可能のサインのようであり、旅人も自由に喉を潤してゆく。
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もう、歴史的な遺構は少ないが街並みは街道の様相を見せており、右の写真は鍵屋の坂で、水路を挟んで両側に道がある。江戸時代の一般的な街道の様を残しているとのこと。
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塩尻からの電車の中で、隣に座った千葉在住で小学校の同窓会に出るため「寝覚の床」に行くと話した年配の方から、須原で是非寄りなさいと言われた「定勝寺」に向かう。臨済宗妙心寺派の寺で嘉慶年間(1387年?1388年)に木曾氏により創建されたとされる名刹である。山門脇には水舟があり、美しく素晴らしい庭園を持ち、樹木の緑が殊更に映えるお寺であった。
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須原宿を過ぎ、長坂と呼ばれる坂を上って、進むと山の斜面にヤグラを組んで配置されたお堂がある。岩出観音と呼ばれ、馬頭観音が祀られている。江戸中期の建立と伝えられる。
その後、道は左に曲がって山を回りこむような感じで大桑の集落に向かう。どこか懐かしい、のどかな田舎の道が続いている。
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途中、文禄年間(1592?1596)定勝寺七代天心和尚の開山の地久山天長院がある。須原の定勝寺の末寺である。色々な表情の小さな地蔵が並んでいた。東海道の興津の清見寺の五百羅漢を思い出した。
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天長院の辺りから見る風景は、日本の田園風景の原点のように感じられ美しい。のどかな道が続き大桑駅が近い。
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大桑駅を過ぎて国道に合流すると、「道の駅大桑」があり立ち寄って一休みし、しばらくは国道を歩くこととなった。ようやく国道を離れて野尻宿に入って行くと、「本陣跡」の木の立て札があったが文字が相当に薄れている。どうも、野尻宿は中山道の遺構の保存には無頓着らしい。それでも街並みはそれらしい姿だ。
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野尻宿を過ぎて、JRの踏切を2回渡って、進んで行くと国道の下にトンネルがあり、ここを潜るようになっていた。元来、水路としてのトンネルで、その中を人が通れるようにしたもののようだ。メッシュの底板の下には水が流れていて涼しい。夏に涼みにくるとよいのではと思われた。
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JR十二兼駅に着いた。時計を見ると午後4時17分。駅で列車の時刻表を見ると、中津川方面行きは4時24分である。少ない本数の木曽路の列車で、全くドンピシャリと言える時刻だ。迷うことなく、今日はここで終えることにして、今日の宿を予約してある中津川に向かった。


2008.06.08

木曽福島から須原・・・(中山道)

本日の万歩計38,074(25.5Km)
木曽福島で一泊して朝が来た。夜の間に雨が降ったようで、道路は濡れていて、しかも今にも降りそうな雰囲気。テレビの天気予報では木曽地方は曇りと言うのを信じて、7:30amに宿を出発して、今日の起点の木曽福島駅に向かう。
駅から路地のような細い道に入って行くと、木曽町役場にぶつかり右に回り込むような感じで進み、木曽福島の街並みが一望できる場所を通り、なお木立の中の小道を進む。
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小道を抜けて進んで行くと、右手に「木曽取水ダム」が見える。雨が多かったためもあり、豊かな水量である。
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一度県道に出るが、直ぐに静かな道を上って行き国道の下をくぐると、ぽっかりと口を空けたトンネルが見える。明治43年にJR中央線のために作られたトンネルだが、今は使われておらず、このトンネルを通り抜ける。あまり長いトンネルではないが、照明はあっても、中央部はかなり暗い。
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そして、神戸(こうど)の集落に進んで行くと鳥居峠とここの2ケ所の御岳山の遥拝所がある。そして、草の茂った道を通って行くと「沓掛馬頭観音」のお堂である。木曽義仲が名馬の死を悼み建立したと書かれていた。
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国道を進むと、有名な「木曽の桟(かけはし)」がある。今は、建設技術の進歩で大型トラックが激しく走ってもビクともしないが、昔は難所であったとのこと。桟道(さんどう)と言えば三国志に出てくる蜀の桟道(しょくのさんどう)が有名であるが、ここも同じく難所であったが、尾張藩の工事でずいぶんと改善されたらしい。下の右側の写真は、木曽川を渡ったところにある、桟温泉(かけはしおんせん)である。
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木曽の桟を過ぎて、長い国道あるきが続くが木曽川沿いであるので、流れる水を見ながら歩くと、気持ちも安らぐ。途中、釣りを行っている人も居た。
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やっと、国道19号から右に分かれて「上松宿(あげまつしゅく)」に進んで行く。宿場らしい街並みで、カーブしているのは鍵の手であろうか。
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上松の街の中心部は、あまり歴史的な遺構は残っていないが寺坂という細い坂道を上って行き上松小学校で茂吉の歌碑、藤村の文学碑を見て寝覚めの集落に達する。ここには、江戸期に茶屋本陣であった「田瀬屋(たせや)」、十返舎一九の「道中膝栗毛」にも登場する蕎麦屋の「越前屋」がある。浦島太郎が目覚めたとの伝説の「寝覚の床」は、この有名な2軒の間を下って行く。話しが前後するが、「寝覚の床」を見学して坂道を上がってきたら、家の石垣の上の草むしりをしていた、「田瀬屋」のおばあさんが、歩いているの?、よって行きませんかと声を掛けてくれた。「田瀬屋」は今では「民宿」を営んでいるようだが、江戸時代の建物が今に続く貴重なもので、釘が1本も使われていないとのこと。おばあさんいわく、私が嫁に来た時から建物の様子は全く変わっていないとのこと。長い江戸時代にここで、休んだ大名の記帳簿が何冊も残っていて、名前の知れた大名の名前が続いていた。話し好きのおばあさんで、ずいぶんと色々お話を伺った。
さて、「寝覚の床」である。坂道を下って、国道を渡ると「臨川寺」があり、入場料200円を払う。寺に入らなくても川に下りてゆけるが、大きく迂回する必要があるので200円払った方が便利だし、上から真下に見るのも趣がある。それに、何と言っても浦島太郎の「釣竿」が見られるのが面白い。誰も信じていなくても見たくなるものだ。
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他にも「臨川寺」には、尾張藩の4代藩主の徳川吉通が母堂の長寿を祈って建てた弁天堂や、浦島太郎が自分の姿を映した「姿見の池」がある。

kfuku_17.jpg kfuku_19.jpg水の流れが花崗岩を長い時間を掛けて削り、作り出した「寝覚の床」は、水の緑と花崗岩の白の対比が美しく、木曽で一番の景勝地と言われるのもうなずける。

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元の中山道に復帰して、進むと「上松町」で一番大きい「桂の木」。胴回りが4.1mもある。道は最後には草道になって、上松宿から離れて行く。
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国道に出てしばらく歩くと、広重・英泉 合作の中山道69次の浮世絵にも描かれた「小野の滝」がある。いまは、JR中央線の鉄橋が上に架かり、目の前には大型トラックがうなりを上げて通り過ぎる国道がある。それでも、かつては名所の1つであったことを十分に窺わせる風情が感じられる。
この辺りは、国道の開通で断ち切られた旧街道がポツポツと国道の両側に残っていて、小野の滝を過ぎると荻原の集落があり、少し進むと国道に出て次に4軒ほどの家が残っている宮戸の集落で草道を通って、再び国道に出る。
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またまた、国道を離れて立場のあった立町に入ると、なんと木曽川に架かる吊橋があらわれた。橋の中央あたりまで進んでみたが、ワイヤーが錆付き、かなり老朽化している。もう少し古くなったら修復するのだろうか、それとも朽ちるのにまかせるのか。
kfuku_28.jpgkfuku_29.jpgkfuku_30.jpgようやく、「倉本駅」に到る。鉄道により旧街道は完全に分断されており、駅を大きく迂回して、線路の反対側に出て残っている旧街道を進む。小さな集落が残っているだけだが、最後に国道に復帰するところは、感じのよい草道であった。本来、これが歩く道なのであることを感じさせてくれる。草の軟らかい感触が靴を通しても伝わってきて心地よい。そして、車のためであっても人のためでない道へと進んで行く。
単調な道が続き、何か変化のあることを期待していたら、何と踏み切りでもないところで、線路を跨ぐことになった。細い道が線路の両方にまで伸びてきているのだが、肝心の線路に踏切がないのである。「危険につき線路横断禁止。近くの踏み切り等を通行してください」の立て札がある。そんなこと言ったって1km以内には踏み切りは無い。責任を果たしたという免罪符としての立て札だろう。
渡ると、養魚池があり、ほどなくまた、同じ立て札のある場所で線路を跨ぎ国道に復帰する。
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国道脇に素晴らしい枝垂桜の木がそびえていた。花の季節は見事なものであるに違いない。やっと、今日の最終目標地の須原の駅に着いた。幸田露伴の文学碑があった。時刻は14時50分で、電車は15時17分だ。まだ早い時刻なので次の駅まで歩きたいが、15時17分の電車を逃すと、18時近くまで電車がない。これでは家に着くのが真夜中で遅すぎる。恐ろしいほどの不便さだ。今日はここで諦めて、帰宅することにした。
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2008.06.07

薮原から木曽福島・・・(中山道)

本日の万歩計31,683(21.2Km)
5月は雨が多く、また仲間の集まりなどもあり、一月ぶりの歩行である。
木曽は各駅停車の列車の本数が極端に少なく、塩尻に9:30分に着いても10:50まで木曽方面の列車が無いはずであったが、ラッキーなことに9:46分に薮原行きの臨時列車があった。奈良井の漆器祭りのお蔭だ。途中、特急の待ち合わせがあったりしたが、10:30に薮原に着き歩き始めた。
中山道は駅の出口と逆方向なので、前回線路を潜った通路を逆に通って、歩き始めると木祖村民センターがあり、一里塚跡の碑とD51の蒸気機関車が飾られていた。しばらくは国道の歩道を歩かざるを得ないが、狭い谷あいで緑が美しいのが救いだ。
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さらに進むと、谷は益々狭まり国道は「吉田洞門」へ。車の通りは激しいが、歩道は木曽川に面して歩き易い。
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10分ほど進むと、国道は「山吹トンネル」に入るが、トンネルを迂回するように走っている旧国道を進む。江戸時代に大勢の通行で賑わった旧中山道も、国道だ出来て忘れられ消え去ったところも多いが、その国道もより高速通行を図るためトンネルを穿ち、部分的に放棄された場所もある。そして、このような場所では自然が元の姿を回復すべく直ちに活動を開始しているのを見ることができる。そのせめぎあいを木曽川が横目で眺めながら滔々と流れて行く。
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少し進むと、ようやく国道から離れ「宮ノ越宿」の方に進む。車の騒音から逃れられてほっとする。電車の線路を上に見て進むと、直ぐに「巴淵」に着く。水が巴状に渦巻いていたから「巴淵」と呼ぶようなったとか、「巴御前」がよく水浴びをしていたからとも言われているそうだが、「巴御前」はこの淵に住む龍神の化身だというものまであるそうだ。大して大きな淵でもなく、少し木曽川の流れが澱んで青く見えるだけである。淵の上の山は「山吹山」であるが、「山吹」も「巴」も木曽義仲の愛妾なので、二人の名前を付けたかったからと言うのが、本当のところではなかろうか。
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「巴渕」を過ぎて「徳音寺」と言う集落に入って行く。お寺の「徳音寺」と同じ名前の集落だが、お寺までの1Kmほどの道は、国道を歩くのに比べると極楽だ。のどかで本当によい道で、もちろん車は通らない。
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ほどなく、お寺の「徳音寺」に着く。木曽義仲、母小枝御前、愛妾巴御前、樋口兼光、今井兼平の墓があり、また義仲の霊廟もある。木曽義仲の墓は東海道歩きで大津で義仲寺(ぎちゅうじ)でもお目にかかった。巴御前の馬上の像も建っていたが、顔が可愛すぎるように思えた。
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「徳音寺」を出ると、ふるさと創生事業の一環として平成4年に建てられた義仲館。入館せずに、建物正面の義仲と巴御前の像を見て、「宮の越宿」に入って行く。本陣跡には明治16年の大火以降に建てられた村上家の家が残っているが、今では住む人も無く、荒廃している。
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そして、江戸時代に掘られた井戸で名水とされた「御膳水」。明治天皇が行幸の際に飲まれたので「御膳水」と名付けられたものであろう。「宮の越宿は」今は静かな集落と化してしまい、疎らな家の並びの中を街道は進んで行く。
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やがて、街道は間の宿の「原野」に入って行く。木曽を歩いて感じたのだが、お墓が多く、かつ立派だということである。お墓の入り口には、多くの石仏を配したものも多い。そして、山の中腹には「明星岩」と呼ばれる三角形の岩が飛び出して見える。相当に大きな岩であるようだ。
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左を向くと「木曽駒ケ岳」が望まれ、なんと「中山道中間点」の立て札があった。江戸、京都 双方に67里38町(268Km)とのこと。もう、半分歩いたかと思うし、まだ半分かとも思う。
中間点を過ぎると直ぐに、小沢の集落でかすかに踏み跡が感じられるような道を進むことになる。直ぐに川沿いに出て草原を進み、農家の方が田圃に行くのに通る、メッシュで川面が見える鉄の橋を渡って進む。大きく立派な蕗が茂った家があり、街道らしい家並みが続いている。栗本の集落である。
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yabuhara_26.jpgyabuhara_27.jpgyabuhara_28.jpg進んで行くと、中原兼遠が木曽義仲の学問成就を願って京の北の天満宮を勧請して作った「手習い天神」がある。急な階段を上ると、小さな境内だが、相撲の土俵もあった。江戸時代には、参勤交代の大名もお参りしたという、小さいながらも古社としての風格がある。
yabuhara_29.jpg「手習い天神」を過ぎると、直ぐに国道に合流して長い道のりを進むが、やっと、大きな関所の門が見えてきて「木曽福島関跡」に到着する。復元された関所を見学するが、陳列されていた、ジオラマが当時の様子を良く表しているのでなかろうか。
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関所を過ぎると、島崎藤村の姉の園が嫁いだ「高瀬家」がある。代々木曽福島の関所番を勤め、藤原氏の流れをくむという名門である。江戸時代には公方さんにも献上したという「奇応丸(きおうがん)」も有名であったとか。展示館を作って色々なものを展示していたが、やはり島崎藤村に関係するものが多い気がした。そして、そこから下の道路に降りる、九十九折の坂道は「初恋の小径」と粋な名前が付いていて、初恋を歌った句が頻々と表示されている。
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「初恋の小径」を下りて、本町の商店街を進み「上ノ段」の方に曲がると「高札場」があり、古い町並みが見られる。距離は短くて10軒ほども続かないほどだが、格式を感じる家が並んでいる。
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木曽川は、音を立てて滔々と流れている。橋を渡って「山村代官」の屋敷跡に進む。
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ちょうど「ほうば祭り」が行われており、代官の屋敷跡の前の広場は、屋台なども出て、大賑わいだ。祭りの期間は代官屋敷見学は無料開放で見学できるとのこと。早速、入って、綺麗な庭園、使用されていた食器、鎖帷子などが展示されているのを見学した。
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yabuhara_43.jpg代官屋敷を見学して帰ろうとしたら、地元の人に中山道歩きですかと呼び止められ、そうなら木曽福島駅前の観光案内所で手作りの素晴らしい地図が貰えると教えてくれた。早速、駅に行き「素晴らしい地図」を貰って、今日の宿泊旅館の「さらしなや」に向かった。


2008.05.05

本山から薮原・・・(中山道)

本日の万歩計41,5435(27.8Km)
今日は朝からどんより曇った天気で、天気予報でも今日一日雨が降らずに済むかどうかが定かでない。塩尻から名古屋方面に向かう電車は非常に少なく午前中では6:54、8:10、10:50の3本だけである。ともかく6:54分発の電車で「日出塩駅」に向かい、7:02分着で歩き始める。
歩き始めて、しばらく行くと旧道は国道の下を潜って直ぐに合流し、1Kmほど進むと右手に「是より南 木曽路」の大きな石碑。松本領と尾張領との境界であったところだ。いよいよ木曽かと少し感じ入る。
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道路の左手を見ると、道路壁に進行方向に対して戻る感じで斜めに上る小道があり、ここから旧道に入って行く。途中には落石防止のネットもあり、直ぐ下に国道がちらちらと見える歩き易い道であった。
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直ぐに旧道は終わってしまうが、終わりのところには屋根付きの千手観音像。これ以降は、しばらくは国道を歩くが、1.5Kmほど進むと国道の上の方に「若神子の一里塚」がある。下ばかり向いて歩いていたら気が付かない位置だ。もともと旧道は少し高いところを通っていたのが分かる。
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その後、直ぐに「若神子」の集落を通る旧道への入り口があり、国道から分かれる。
途中で国道への分岐が何度かあり、贄川駅のごく近くまで辿ってゆける。国道、JR中央線が直ぐ下に見え、見晴らしが良く気持ちが良い。谷が狭まって耕作可能な土地がほとんどなくなってきたのが分かる。
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贄川駅に着いたが、やはり無人駅であった。通り過ぎて直ぐに線路を跨ぐ橋が2つ平行していて、新しい橋が車の通行用に完成したので古い橋は整備して歩行専用としたようだ。手すりには金属の筒がぶら下がっていて、備え付けてある小さな木槌で順番に叩くと「木曽節」が奏でられる。やってみたが、あまりうまくは響かない。
贄川は温泉が出て「熱川」の字をあてていたが後に温泉が枯渇し、また諏訪大社の神事の贄として、ここで獲れた魚を献じていたことから、この贄の字が当てられたという。橋を渡ると直ぐ左に「贄川の関所」が復元されていた。関所と言えば「木曽福島」の関が有名だが、秀吉の時代に木曽五木の持ち出しを取り締まる材木番所として設けられたのに始まり、後に四大関所の一つとなる福島関所が設置されると、その副関としての役割を担ったという。時計を見ると8時44分で9時にならないと見学できず、関所に付随して設けられている資料館も見学できない。
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narai_12.jpg諦めて、歩き始めると直ぐに水場があり、何とその前がゴミの収集場所になっていて、おばさんたちがゴミ袋を持って集まってくる。大概はゴミを捨てて直ぐに帰るが、2人が残って盛んに、おしゃべりをしている。飲み水を補給したいと思っていたところだったので、この水が飲めるかどうかを聞きたいのだが、おしゃべりが途切れない。しばらく待って我慢できず「この水飲めますか」と聞いたら2人から同時に「飲めます」と返事が返ってきた。冷たく美味い水であった。振り返ったら、2人とも居なかった。
贄川も歴史的な遺構は多くは無いが、国重要文化財の「深澤家の住宅」が残っており(下右)、家並みも何となく街道の様相である。
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贄川の宿は短く直ぐに終わるが、宿を過ぎると古い国道の廃トンネルが見える。最初に見えた方は土で塞がれていた。
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narai_17.jpg一度国道に合流し、また左に分かれて長瀬の集落を歩いて行く。ここも生垣が綺麗だ。また国道と合流して進んで行くと、道の駅の「木曽ならかわ」がある。ここでは木曽の木製品も売られているが工業製品と職人の手作業の製品の価格差を実感する。漆器など手が出ないほど高価だ。コーヒーでも飲んで休んで行こうとしたが、注文したコーヒーが待てど暮らせど出てこない。ざる蕎麦を頼んだ人は食べて出てゆくのを見て、頭にきて、もう要らないと断って歩き始めた。これも、国土交通省の天下り会社の経営のせいではなかろうか。
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進んで行くと、「平沢」の街に入って行く。「平沢」は今や最大の漆器の街である。漆器は当初、木曽福島で始まり奈良井に伝わり「平沢」は、その下請け的存在だったが、明治になり錆土という下地材が有ったため、主役に躍り出たのだという。立派な構えの漆器製造所、漆器店が続き、ここも斜交屋敷の建て方である。そして、ここほど狭い道路でも斜交によって生じる駐車スペースの便利さを感じている場所は無いように思える。
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平沢宿が終わると、道は線路を横切り直ぐに右折して奈良井川の堤防を歩く。川の流れの向こう側に江戸から64里の「橋戸の一里塚」が見える。川の反対側には「楢川小学校」があり、 外壁はさわら、ランチルームはひのき、廊下は楢の木、体育館はカラ松、給食の食器は漆器だという。
そして、奈良井大橋を渡ると点々と奈良井宿に向かう観光客が見える。
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奈良井は、流石に無人駅でなく、駅員さんが1人いた。しかし、電車の本数からして暇をもてあますのではなかろうか。駅前には5月連休とあって交通整理のおじさんも立っている。そして、宿に入ってゆくと観光客が大勢歩いている。ここは観光地だ。食事でも喫茶でも多くの店がある。
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街並みはタイムスリップしたような雰囲気であるが、歩いていて感じたのはテーマパークとして作られた街のように思ったことである。建物も「平沢」の方が本物であると思う。もちろん、訪れて損は無い場所ではあるのだが・・・
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屋敷は昔と同じく、間口は狭くても奥行きは深い。
そして、短気で道の駅で飲み損ねたコーヒーを飲もうと、古い様相のお店に入って、五平餅とコーヒーのセットを注文する。
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コーヒーに切干大根とたくあんが着いて来るのが面白い。五平餅は櫛に刺して焼いたものと思っていたが、出てきたのは丸めてたれを載せたものだ。胡桃とゴマの味がして美味しかった。まだ、11時だったので、店の女将さんに、これから「鳥居峠」を越そうと思うが、どれほどかかると聞くと2時間ぐらいでしょうとのこと。また、主人は先日皆で道路の草刈などしたから、歩き易くなっていると言う。ゆっくりといただき、店を出るとすぐに鍵の手があり、長い街も終わりが近づいてきた。
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それにしても長い街である。木曽では一番長く1Kmもある。江戸期は漆器の街として栄え、奈良井千軒といわれるまでに栄えた。約160年前の天保14年の調査では家数409軒、人口2155人と信濃、木曽の26宿で最大である。それに対して平成13年末人口は993人に過ぎない。今も減り続けているこの数字の持つ厳しい現実がある。
そして、最後は「鎮神社(しずじんじゃ)」で終わりとなる。
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「鎮神社」を過ぎると、直ぐに右側に石の階段のような坂道がある。階段を上って林の中の道を進むと、直ぐに一旦舗装道路に出る。ここで右に曲がって上って行くと右に分かれてまた、右に入って行く細い道がある。
もう観光客は1人も居ない。実は、ここで舗装道路を左に曲がり下っていって間違いに気が付いて引き返したが30分ほどロスしてしまった。
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石畳の道が続く。普通石畳の道は歩き難いと思っていたが、ここは石の間に土が詰まっていて歩き易い。奈良井宿で降り始めた雨が、この頃から本格的な降りになってきて、やむを得ず傘を取り出した。途中、木の桟を設けたところも何箇所もある。
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石畳は途中で終わるが、その後も歩き易い道が続く。そして「中の茶屋」と言う小屋に到着する。かなり汚れていて感じが良くない。そして直ぐ傍には「葬沢」がある。ここでは天正10年(1582)に木曽義昌が武田勝頼の二千の軍を迎撃して武田軍は500余名の戦死者を出して大敗し、この谷が死者で埋もれたといわれ、戦死者を葬った沢であることから、「葬沢(ほうむりさわ)」と言われると説明板にある。また、菊池寛の「恩讐の彼方に」でお弓が市九郎を恐ろしい計画に誘い込む場所でもある。一人で長居をしたくは無い場所である。
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また、木の橋を渡り、急坂を上ってゆくと、やっと「峰の茶屋」に着く。この小屋は新しく、内部も非常に綺麗である。湧き水も豊富に流れていて、飲み水を補給できる。どこかで、熊除けの鈴を着けなければと思っていたので、ここで雨を避けながら鈴を取り出し、ぶら下げた。
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直ぐ横には広い道が通っているが、左の旧道を上り進んで行くとやがて「熊除けの鐘」が吊るされていた。鳴らすとビックリするぐらい大きな音がした。このような鐘は全部で5箇所ほどある。
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「熊除けの鐘」を過ぎると、木祖村天然記念物の「鳥居峠のトチノキ群」があり、その中に「子産の栃」と呼ばれている、大きな洞のある栃の木がある。説明板によると、この洞に捨てられていた子を拾って育てたところ、孝養を尽くし幸福になったという。子産の栃の実を煎じて飲めば子宝に恵まれるという。
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やっと、峠に着く。「木曽御岳山」の遥拝所がある。天気が良いと「木曽御岳山」が見えるとのことだが、今日は雨で無理だ。それにしてもあまりにも多い石仏群。林を通して薮原宿が見える。そして、ここが千曲川となる奈良井川と木曽川の分水嶺で「伊勢に流そか 越後にやろか 鳥居峠のたちしょんべん」というざれ歌があるそうだ。
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少し下ると、手洗い水。飲料可能かどうかは定かでない。少し林の中へ上ると「義仲の硯水」。木曽義仲が北国攻めでの戦勝を祈願して願書を御岳山に奉納したときの硯の水とのことだが、湧き水は枯れ、単なる水溜りになっていて、落ち葉なども浮いている。
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ひたすら、薮原に向かって下ってゆくと、JR中央線の直ぐ上のところに、薮原御鷹匠役所跡がある。説明板には、毎年五?六月になると尾張藩鷹匠方の役人が出張し捕らえてきた鷹のひなを飼育した。木曽谷のうちでも味噌川からおろす子鷹は特に優秀であったと言われる。ここを今でもお鷹城と呼んでいると書かれていた。
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そして、線路を跨いで薮原の街を進んで行くと、本陣跡は杭のみが建っていた。そして、昔の旅籠の建屋のままで旅館を営んでいる「米屋」がある。
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進んで行くと、「防火高塀」の一部が残っていた。また、薮原名物の「お六櫛」の問屋があった。お六櫛とは、持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいというお告げを受けた。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治った。ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになったという伝説がある。
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薮原駅の入り口は、歩いてきた道路から線路を越した反対側である。線路を横切る地下通路があった。写真は駅入り口側を撮ったものである。
そして、薮原駅に着いた。時間は2時30分で、鳥居峠越えに途中の30ほどのロスを含め3時間ほどを要した。しかし、塩尻行きの次の電車は15:52分。1時間20分ほどの待ち時間である。ご夫婦で歩いておられる方が到着したが、話してみると今日は私と同じく「日出塩」からの出発だったと言う。既にご夫婦で東海道、奥州街道、日光街道、甲州街道を歩き終わったという。大ベテランである。
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塩山に着いて、16時41分発の「あずさ」で帰宅についた。


2008.05.04

下諏訪から本山(もとやま)・・・(中山道)

本日の万歩計42,835(28.7Km)
5月3日は天気が悪そうだったので、連休でもあり、4日に出かけけ1泊して歩くことにした。何とか宿泊のホテルも確保できスーパーあずさ1号で上諏訪に向い、ここで乗り換えて下諏訪には9:25に着いた。
早速、前回中山道から離脱した甲州街道との分岐点に行き、ここから歩き始める。丁字路に建つ「まるや旅館」の外観もこの地に相応しいものであり、その斜め前には「歴史民族資料館」がある。資料館も、元は旅籠の建物であり江戸期の生活用品などが展示されていた。そして、国道20号線との合流点には「御柱のモニュメント」。綱の太さが半端でない。
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20号線から離れて旧道に入ると、直ぐに「魁塚(さきがけづか)」がある。これは「赤報隊」の「相楽総三(さがらそうぞう)」他隊士の合同墓碑を建てて弔ったものである。慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると先発隊として中山道を「年貢半減」などの唱えながら東進したが、新政府軍の方針変更によって赤報隊が偽官軍とされ、相楽は捕縛され、下諏訪で処刑される。明らかに新政府の卑怯な策謀である。前年の戊辰戦争を引き起こす挑発行為として、江戸市中で放火や,掠奪・暴行などの蛮行を行ったことの、後始末としての犠牲であったのであろう。後に孫の木村亀太郎の努力により名誉が回復され、昭和3年(1928)に正五位が贈られている。砥川に掛かる富士見橋を渡ると、岡谷市に入り住宅街の道が続く。
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途中には「右中仙道、左いだ(飯田)道」と書かれた道標があり、ここが分岐点であったことがわかる。そして、「東堀」の交差点で20号線を横切ると直ぐに江戸から56里の「東堀の一里塚跡」の碑がある。
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いよいよ塩尻峠への上り口に達すると、今井家の茶屋本陣がある。和宮様をはじめ多くの大名、貴人がここで休憩を取った。建物は何度か建て直し、現在も住居として使用されているが、有形文化財に指定され堂々たる家屋である。
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中央高速の岡谷インターの横を回り込むように進み、本格的な上りに差し掛かると、「石舟観音」があり、急で長い階段の上に鎮座している。階段下には金命水と言う清水があり、昔も今もここを通る人の喉を潤す。おいしい水であった。
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塩尻峠に上ってゆくと諏訪湖と取り巻く市街が見えてくる。そして突然大きな石。江戸時代にも「大石」として有名で高さ3丈(6m)横幅2間余と記されており、盗人がこの石に隠れていて旅人を襲ったという。それにしても、大地震があれば転がりそうだが、江戸時代からここにある。案外地下に深く入っているのかも知れない。
益々、諏訪湖の眺望が開けてくるが、上りの勾配も厳しく、階段を昇っているような感覚である。
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やっと、塩尻峠に到達。ここにも「熊出没注意」の看板。石碑には「大帝の龍駕の峠さくらそう」とでも読むのか、大きな石碑。右手に少し上ると展望台の建物があり、上ると諏訪湖とその周辺、富士山、南アルプスの山々が見える。北側からは、遠くに北アルプスの峰々が輝いている。
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峠から急な坂道を下りると、峠の茶屋があった場所だが今は普通の民家となっている。明治天皇も立ち寄られたようで、「御膳水」の石碑と今は使われていない「井戸」が残っていた。少し進むと林の中に柔和なお顔の地蔵2体と、「伝説・夜通道(よとうみち)」の標識が建っていて、「美しい娘が岡谷の男に会うため毎夜この道を通った」と書かれていた。
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さらに進むと「東山の一里塚」が残っていた。もう、染井吉野ような早咲きの桜は散ってしまったが、今が盛りの八重桜とともに、桜草が可憐に民家の庭先を染めている。
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柿沢の集落に入ると、この辺りから塩山宿に到る地方独特の伝統のある民家が見えてくる。屋根の棟と直角な面が正面となり(妻入り様式)、正面の頂上には「雀おどし」がある。そして「長野自動車道」を渡る。「みどり湖」パーキングエリアが見えていた。
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道は塩尻宿の中心に向かって進んで行き、八重桜の見事な花がある。この辺りは生垣も手入れが行き届いている。
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ようやく、塩尻宿に入り国重要文化財指定の「小野家住宅」と「本陣跡」の大きな看板を見る。小野家住宅は宿場時代の現存する遺構で重要であるとのこと。
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少し先の陣屋跡には、笑亀酒造の重々しい建物と、大きな「杉玉」。そして「鍵の手」を右側に入って進んで行くと右側に「阿禮神社」があり、350mほどで本棟造りの建物としては頂点と書かれている「堀内家」の家がある。見学は事前に申し込んでおけば可能とのことであった。
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宿を過ぎて、中央線のガード下を潜って、昭和電工の700mもの長さの脇を通ると、「平出の一里塚」。塚の中央は松の木であるが、ここは武田信玄の軍師山本勘助が赤子を拾った伝説から「勘助子育ての松」と言われるとのこと。また、ここの松の葉を煎じて服用すると乳の出がよくなるとか。さらに、少し進むと平出の遺跡がある。発掘は今も進めているとのこと。
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この辺りは「葡萄畑」が多い。その田園地帯を通って、JR中央線の名古屋方面への踏切を渡る。通り過ぎて、踏み切りの警報機が鳴ったので振り返って特急列車の「ワイドビューしなの」の通過をカメラに納めた。ほどなく、国道に合流して進み、平出歴史公園の交差点で国道と分かれて旧道に入ってゆくと、ようやく「洗馬宿」である。少し行くと、「細川幽斎肱懸松」があり、細川幽斎が「」肱懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う風」と読んだと書かれていた。
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さらに少し進むと「善光寺道の分去れ」になる。写真は振り返って撮影したものだが、「右 中山道 左 北国往還 善光寺道」の表示碑が建っている。そして、狭い住宅脇の小道を入って行くと「邂逅(あふた)の清水」がある。義仲の忠臣今井四郎兼平が義仲の馬を洗ってやったのがここの清水で、これから「洗馬(せば)」の地名が起こったと言われている。
ともかく、「ふるさとの水20選」に選ばれている名水だというので、一口飲んでみたら美味しかった。しかし、直ぐ上には人家もあり水質には疑念も生じるのを排除できない。
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今日の目標到達地点の「洗馬駅」に着いた。無人駅で人の気配が無い。時計を見ると、まだ2時半で、塩山方面への電車の時刻までは1時間以上ある。ここで決心して、もう一駅進むこととした。街道に戻って「万福寺」の赤い山門が見えてくると、宿も終わりである。
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道はJR中央線の下を潜って進み、緩い坂道を上り始めると「牧野の一里塚跡」があり、江戸へ60里、京へ72里と書いてある。この辺りまで来ると、両方の山が近づいてきて、木曽路に向かう雰囲気が感じられるようになる。
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その後国道に合流し、700mほど進んで再び旧道が右に分かれて行くと「本山宿」である。道祖神などの石仏が多数並んでいる。これ以降の中山道でも一箇所に石仏が固まって並んでいる場所が度々出てくるが、これは鉄道や国道を作った際に、狭い谷筋にあって旧街道上に作らざるを得ないところが多く、そのときに取り払った石仏を1ケ所に集めたものと思われる。そういえば明日は5月5日で端午の節句だ。こいのぼりが上がっているのも当然である。
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宿には歴史的な遺構はほとんど残っていないが、街道らしい家屋が多少は並んでいるのを見ることが出来る。家は道路に対して少し斜めに建っており、斜交屋敷と呼ばれる。これは、真っ直ぐな街道にあって軍事上の配慮で建物の陰に隠れるためと言われている。何はともあれ、現在は家の前に車を停める良いスペースになっている。また、本山宿は「そば切り」の発祥の地として有名で、それ以前は蕎麦はそばがきなどの形で食べていた。宿の最後で旧街道が国道に吸収されるところに「本山神社」があり、この手前にも多数の石仏が見られた。
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その後、国道を1.5Kmほど進むと、左に分かれて線路を横切り旧道に入って行く。しばらく進むと「日出塩の一里塚跡」があり、江戸より61里、京へ71里とある。直ぐに「日出塩駅」に着くが、ここも無人駅である。人気の無い駅舎で電車を待っていると、やっと時間になって電車が来た。ホームにはワンマンカーを待つ場所の記述があり、電車が止まるとドアを開くボタンを押して整理券を取って電車に乗り込む。ワンマンバスと同じシステムだが、電車では始めての経験であった。
ともかく、今日は暑い1日であった。これで、塩尻に戻り1泊する。
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