2009.03.21

藤野から猿橋・・・(甲州街道)

本日の万歩計43,839(28.5Km)

昨年の12月13日からの久しぶり歩行である。3月に入ったら再開と考えていたが、週末は雨が多く、やっと歩くことが出来た。
藤野駅には8:22分着の電車で、先輩と待ち合わせ、8:30の出発となった。
出発して直ぐに左手の山の中腹に、前回よりも間近に「緑のラブレター」のモニュメントが見える。
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今日は、空には雲ひとつ無い快晴で青い空が広がっている。
しばらく進んで、JR中央線を横断橋で横切り中央高速の下に設けられた歩道を過ぎると、増珠寺があったが早朝のためか境内への入口は閉じられていた。ここには寛政11年(1799年)当地関野に生まれた、力士追手風喜太郎が五具足・燭台などを寄贈した寺との案内板が建っていた。追手風は土俵を退いてからも年寄となり相撲会所の要職に着き、その部屋は現在まで続いていて 元立浪部屋の力士、大翔山が1998年から追手風親方として部屋を構えている。
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増珠寺から600mほど進んで、名倉入口の信号機を見て国道20号線から右に離れ急な坂道を下りて行くと、境沢に架かった境沢橋がある。どうと言うことも無い橋だが、ここがかつての相模の国と甲斐の国の国境であったところである。少し進むと、相模湖の湖尻に架かる境川橋があり、ここが現在では神奈川県と山梨県の県境となっている。橋の上には「わかさぎ」釣りの人達が糸を垂れていた。「橋上での釣り禁止」の警告板が幾つもぶら下がっているのにである。
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甲州街道は、この境川橋を渡らず、右にUターンして九十九折の急坂を上って行く。坂の終わりに近づいたところに、「甲州街道史跡案内図」があり、道路の反対側には「諏訪番所跡」の碑が建っていた。
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街道としての面影はまるで残っていない道を進むと、諏訪神社があり、杉の大木が歴史を感じさせてくれた。少し進むと、右手に旧甲州街道の巨大な石碑があったが、「あいさつをかわす思いやりの道」とはいかにも現在の世相を反映した言葉に見える。
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中央高速を下に見て陸橋を渡ると、「疱瘡神社」がある。ここは「塚場の一里塚跡」でもあり、江戸から17番目とのこと。疱瘡は今では死語になった感があるが、主に天然痘を指し、私の子供の頃は予防接種を受け、そのあとが上腕部に残っている。
この神社を過ぎると、上の原の市街地に入って行くが、ここも街道の雰囲気はほとんど残っておらず、本陣跡は「ホテルルートイン」とのことだが、何の表示も無い。しかし、上野原は「酒まんじゅう」が名物らしく何軒かの店があったので1軒の店で1つ買って食べながら歩いた。なかなか美味しかった。
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さほど大きくない上野原の市街地区は直ぐに過ぎて、国道20号と分かれて500mほど進み、再び20号線と出会って、その上を陸橋で渡る。陸橋の上からはこれから進む「鶴川宿」がパノラマとなって望むことが出来る。
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国道20号線を渡って、鶴川への道路を進み、大きくカーブしているところは、歩行者だけのショートカット通路を進み、鶴川橋に向かって進む。
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鶴川橋を渡ると、「鶴川宿」の碑が建っており、ここから立派な家屋の多い静かな家並みが続く。
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300mほどで街並みは終わるが、本陣跡も分からない。火災で宿が全て焼けたからだろう。家並みを過ぎて左に曲がり急坂を上る。さらに家屋がまばらになるが、石作りの立派な蔵があった。家の疎らな集落を700mほど進むと、中央高速にぶつかり、陸橋を渡って、大椚宿(おおくぬぎしゅく)に入って行く。
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直ぐに、真新しい「大椚一里塚」の碑があり、静かな集落が続く。また、このあたりは、大きな敷地の片隅に、「二十三夜」や「馬頭観音」の石塔を多く見かけ、紛れも無くかつての街道を思わせてくれる。
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少し進むと、右側に古い祠と石碑が現れ、椚宿発祥の地と書かれていた。「椚宿」は鶴川宿と野尻宿の間の宿かと思っていたが、距離的に間の宿を置く必要もない場所であることから、江戸期以前の古いの宿であったのであろうとのことである。少し進むと、「吾妻神社」があり、大きな杉の木が見えてきた。
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吾妻神社には街道歩きにはありがたい公衆トイレもあり、階段をで上の台地に上ると、真新しいお堂が建っていた。まだ、賽銭箱もなく開眼の儀式もまだなのではと思われた。
この神社を過ぎると。道路の左側は広大な「オリンピックゴルフ場」が続き、500mほど進んだところに、「長峰砦跡」の碑があった。
武田信玄の家臣の加藤丹後守が、北条の侵入に備えるために砦を築いた場所であるが、中央高速の建設で、ことごとく損なわれたため、せめてもの思いで石碑を建てたとのこと。
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長峰砦跡から500mほどで「野田尻宿」への高速を横切る陸橋がある。しかし、ここでは渡らず、そのまま500mほど進んだところの、中央高速のサービスエリアで昼食をとることにした。三連休の真ん中の快晴で、サービスエリアは大変混雑していた。昼食をとった後は、元の横断橋に戻り野田尻宿の方に進む。しかし、往復1Kmで途中は小峠を越えるような地形で体力の消耗も無視しえず、良い選択ではなかったと、いささか後悔するはめになった。
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野田尻宿も静かな街並みで、歴史的な遺構は残っていない。明治天皇御小休所址の碑は、ここに本陣があったのだろうか。そして、鶴川宿と同じデザインの野田尻宿の碑が建っていた。
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小さな宿で、直ぐに終わりになり、街道は左に曲がって進む。直ぐそばに「談合坂サービスエリア」があるが、隔絶され静かな時間がゆるやかに流れているように感じる。最後は「長嶋神社」で宿は終わる。
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街道の道なりに左に曲がって行くと、西光寺の門前に「お玉ケ井」の碑がある。伝説に語られる女性はいつも美女であるが、「旅籠の恵比寿屋の美しい女中、実は竜が、長峰の池の主である竜神との念願の恋を実らせたお礼にと、水不足で悩む野尻宿の一角に、澄んだ水をこんこんと湧き出させた」という。正面にある「西光寺」は裕福なお寺と見え、立派な建物が林立している。
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西光寺を右側に回りこんで行くと、高速道路に沿って急な上り坂になり、上りきったところに、石畳風の高速道路を跨ぐ歩道橋がある。渡って進むと、舗装の無い道路となり、杉林の中の進む道となるが、直ぐに県道30号に合流する。
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県道に出て右折すると、向こうからご夫婦で歩いている方に出合い、何処まで行くのかお聞きすると、我々が出発した藤野までだという。右手の石垣の上には「荻野一里塚跡」の説明板があた。そして、また中央高速を横断橋で渡る。
渡ると直ぐに右に上って行く道があり、これが旧甲州街道である。入口には「矢坪坂の古戦場跡」の説明版が立っている。
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細い上り坂を上って行くと、武甕槌(たけみかづち)神社入口の立派な鳥居前に到達する。既に上ってきた方が鳥居の根元で休んでいて、盛んに神社まで行って来ることを勧めるが、神社はかなり上のようであり、久しぶりの歩行で疲労も蓄積してきたのを感じていたので、寄らずに甲州街道を進むことにした。
神社を過ぎると、道は細く片側は崖になっていて、手すりがないと怖いと感じる道になる。「座頭転がし」の立て札もある。このような危険な場所にはよく「座頭ころがし」の名前が付いている。
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細く険しい道が突然終わり、舗装道路に出ると、犬目宿の看板があった。犬目宿も山間の静かな宿で、上野原市の共通デザインの「犬目宿」の碑が、犬目宿直売所の前に設置されいた。何を売っているのかと覗くと、野菜、果物などで、休んで行ってとの声を聞き流しながら先に進む。
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少し先には、犬目の兵助の生家の説明板があった。天保4年の飢饉に続いて天保7年(1836)の大飢饉がやってきて、各村の代表者は救済を代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、米穀商に穀借りの交渉をしても効き目はないので、犬目村の兵助と下和田村(大月市)の武七を頭取とした一団が、熊野堂村(東山梨郡春日居町)の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出た。一揆後、兵助は逃亡の旅に出るが、その『逃亡日誌』が残っていて、埼玉の秩父に向かい、巡礼姿になって長野を経由して、四国にまで渡り、更に伊勢を経ている。この間の人々の善意の宿や、野宿を重ねた1年余りの苦しい旅のようすが伺えるという。晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応3年に71歳で没してるとのこと。
そして、犬目宿の枡形になって直角に右折するところに、「龍澤山寶勝寺」がある。
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直ぐ横には「空」と書かれた大きな球形のオブジェがあった。そして、進むと「君恋の一里塚」。ほぼ完全に残っているようで貴重だ。以前伝えられた裏側の崩落は、防止工事がなされていた。
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急坂の下りで、膝や関節に痛みを感じるようになって、途中で休憩を取りながら下って行き、中央高速を潜ると、ようやく国道20号線にぶつかり、歩いて行くと「鳥沢駅」入口で、一里塚、鳥沢の表示杭が見つかった。
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ここで、帰ることも考えたが、まだ3時であり、今日は何とか猿橋が見たいということと、次回の予定も考慮して、進むことにした。少し進んで国道20号線から右に分かれると、かなり古いと見られる水路の橋が見える。後で調べたら東京電力の水力発電所の放水路のようであった。
重い足を引きずり、2Kmほど国道を進み、ようやく右に逸れて「猿橋」にたどり着く。説明板があるが、7世紀に建てられたのではないかと推察されていて、当時、日本に渡来した百済の職人が、猿が藤蔓を伝って川を渡るのを見て作ったと言われ、戦国時代は戦略の要所であり、江戸時代に至っては文人墨客がここで杖を止めて多くの作品を残したと書かれている。現在の橋は昭和59年8月に架け替えが完了したもので、橋の長さは30.9m、橋の幅3.3m、川面まで30mで、総工費3億8千3百万円だったとのこと。紅葉の季節は渓谷美が殊更に彩られるという。
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最後は、猿橋駅に向かって歩き、「三嶋大明神」の鳥居を右に見て、もう一歩も歩くのは嫌だとの感じで駅にたどり着く。
長いブランクの後の歩行で、かつ甲州街道を歩き始めて最も長距離の歩行で、厳しかったが、楽しい一日でもあった。


2008.12.13

高尾から藤野・・・(甲州街道)

本日の万歩計32,479(21.1Km)

今日は、おそらく今年最後の街道歩きである。予定では高尾から藤野までの、およそ20Kmを歩く。8時半に高尾駅に到着した。若干遅くなると言っていた先輩の到着を待って見渡せば、陣馬高原の方にでも向かうのか、大勢の登山客の姿を見ることができた。
8時50分には先輩も到着して、今日のコースを考え駅前のコンビニで多少の食料を買い込み出発した。いつの間にか、登山客の姿も疎らになっていた。国道20号線を歩き始めるが、土曜日の朝は、人通りも、車の通行もさほど多くは無い。
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ほどなく、南浅川に架かる両界橋に着く。国道とJR中央線が同時に川を渡っている。川を眺めると、国道も鉄道も無い頃は、なかなかの景観を誇っていたのではと思えるものであった。100mほどで旧道は国道と別れ右に入って行く。車の通りはあるが、静かな街並みである。
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山中にあると勝手に思い込んでいた、小仏関跡が簡単に現れた。戦国時代には富士見関と呼ばれていたという。江戸時代に入り徳川幕府の管轄になり、他の関と同じく「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まった。2つの石が据え付けられているのは、前の方には手形を置き、後の方の石に手をついて通行の許しを乞うたとのこと。しかし、地元の人々は交代で下番として勤めさせられていた関係で比較的簡単に通行できたようである。
関所跡の屋敷跡と思しきところは、広場となっていて「甲州街道駒木野宿」の大きな看板が立っていた。
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道端にはどのような由緒のものか分からないが、お地蔵さんと墓石が屋根の下に納まっており、街道らしい情緒を醸し出していると思っていたら、高速道路の圏央道へのジャンクションが見えてきた。
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高速道路は圏央道へのジャンクションだけでは満足できないと見え、国道20号線へ繋ぐトンネルでも穿つのか、大工事が継続していた。対照的に水行を行う道場である「蛇滝水行道場入口」の道標が立っていた。
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戦国武将の行き交った道も、空を切り裂くように幾何学模様の道路が空を横切る風景は夢想だにされることはなかっただろう。近年の科学文明の凄まじさを見る思いがする。そして、そのジャンクションの下に忽然と現れたのは、豆腐を製造販売する峰尾豆腐店である。摺差(するさし)の豆腐と呼んでいて、寄せ豆腐やおからドーナツが人気で、高尾山ハイキングの帰りにわざわざ寄る人も多いという。
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そして、真新しい本堂の常林寺を過ぎると、浅川国際マス釣り場である。
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マス釣り場を過ぎると、道は尾根を回って中央線の線路から離れるが、回り終えると綺麗なレンガのトンネルを潜る。明治34年の八王子ー上野原の開通に合わせて作られたのであろうが、当時は単線であったが、将来の複線化を考慮して幅を決めて作ったのか、後に幅を拡張した気配もない。トンネルを過ぎると、鉄道の線路と道路の間に水路が設けられていて、途中に堰きとめられて「やまめ」が泳いでいるのが見える場所もある。そして鉄道は小仏峠のトンネルに姿を消す。
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バスの折り返し点に着いた。登りの勾配も徐々にきつくなって来て汗も出るようになり、着込んでいる衣服を脱いで歩行を再開。
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寶珠寺というお寺があり、立派なお寺のようであるが本堂は階段の遥か上の方であるので、入口からのお祈りで済ませて、先に進むことにした。まだ舗装道路が続いているが、九十九折で急な坂道を上って行く。紅葉の時期は過ぎたが、最盛期は美しいことを想像させるもので、まだ余韻も感じられる。
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終に舗装道路も尽きて、砂利を敷いた道となる。少し進むと水場があったので、水筒に水を補給して益々急になる道を進む。
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最後の登りは、流石にキツイ。30分ほどで小仏峠の頂上に着く。旅人の無事を願って建てた小さな地蔵があり、花が添えられている。
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小仏峠の頂上は広場になっていて、かつては茶店もあったが今は閉鎖され、青いシートか被せられて、危険防止のため立ち入りを禁止している。竹で作った幾つかのベンチは置かれているので、コンビにで買ったおにぎりをかじり、しばし休息を取る。影信山から陣馬高原へ向かう登山道、城山から高尾山への道も、ここから通じているので、ハイキングを楽しむ人達も多く行き交う。街道歩きの我々は「小原宿」への道標にしたがって下って行く。
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小仏峠からの下りの道は、落ち葉の積もる道であったが、歩き易い道であった。最も下りだから言えることで、上りとなるとやはりキツイ道であろう。
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舗装道路に出て50mほど進み、Uターンして美女谷の方に進む。美女谷の美女とは、中山道の加納から垂井に出てきた、照手姫のことである。再度記すと、伝説では、武蔵・相模の郡代の娘だった照手姫は、愛する小栗判官を殺されたうえに青墓の長者へ売られてしまう不運な女性である。
高速道路を潜ると、直ぐに相模湖への分岐点となるので、ここで左折する。
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この辺りは谷が深く、綺麗な流れを見ることが出来る、そして、直ぐに再び高速道の下に来る。ここには甲州道中板橋と書かれた木杭が立てられ、旧甲州街道はここから登って高速道路の下を進んで小原宿に出るが、今は通行不可能と書かれていた。
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少し進んでレンガ作りのガードで中央線を潜ると、国道20号線に合流して右折すると、ほどなく常夜燈を模した「小原の郷」の大きな看板が見えてくる。
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小原宿の本陣前に着く。日野本陣、花咲本陣と合わせ甲州街道では3つだけ残る本陣である。最近まで人が住んでいたが、相模市に管理を委託したそうで無料で公開されている。内部を見学させてもらったが、2階は明治に入って養蚕に使われていたとのことであり、古い道具類が展示されていた。
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本陣を後にして500mほど進むと、右に旧道の入口があり中央道の近くまでどんどん国道から離れて行く。眼下にJR中央線がトンネルから出ては直ぐまたトンネルの情景を見ながら進むと、道は左に曲がってトンネルの上で中央線を越すと、直ぐに「えんどう坂」と書かれた標識が立っている。ここで鋭角に曲がってガードレールの切れ目から階段を降りるが、この階段が「えんどう坂」である。道なりに進むと直ぐに国道20号にぶつかり、ここに「甲州街道与瀬宿」の標識があり、右折して進めば直ぐに相模湖駅入口の交差点である。
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お昼時間を大分過ぎていたが、少し先に「見晴らしドライブイン」と言うのがあることが、地図で分かったので、相模湖を眺められる素晴らしいところとの期待を込めて歩いていった。少し進むと、与瀬神社の大きな鳥居と、分断された参道のために高速道路を越す横断歩道への階段が続いているのが見えた。そして、「甲州道中横道」の表示杭が立っていた。
kobotoke_45a.jpg時々相模湖の湖面が見られ期待は高まったが、着いて見てがっかり。室内からは湖面も見えない、いわゆる大衆食堂。お腹も減り諦めて食べることにしたが、味覚的にも何とも冴えない食事であった。食事を終えて国道を少し戻り、旧道への右の入口を上って行く。ここからはアップダウンが多いが、中央道を左に見ながらの、のどかで静かな旧道を進んで行くと、道端に庚申塔や二十三夜の石碑があり、かつての街道を行く人々の姿を髣髴とさせる。

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「横道配水池」への鍵の掛かった門が右に見えてくると、少し先で左折して坂道を下る。直ぐに中央道を歩道橋で渡り、さらに進むと「観福寺」の横を通り、なおも進む。道端に「椚戸(くぐと)」の表示杭があり、またもや石仏が建っていてここが旧街道であることを示している。
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ようやく、国道に出て、右折して進むと左側に「吉野宿ふじや」と書かれた資料館があり、無料で見学できた。この家は江戸時代は「旅籠」を営んでいて屋号が「ふじや」であったが、明治29年の大火で消失したのを期に、養蚕農家として再建した家だとのこと。この地方で見つかった古文書のコピーなどが多く収集されており、2階には古い道具類も収集されて並べられていた。向い側は本陣跡で、ここも残念ながら吉野大火で消失してしまったとのこと。
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沢井川に架かる吉野橋を渡ると、直ぐに右に旧道は別れ、少し進むと藤野中でその校門前には色々な廃材を利用したロボットのモニュメントがあった。
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その後は、JR中央線の線路脇の道を藤野駅に向かって進むと、藤野町が掲げる芸術村構想で、金属造形のアーティストの高橋政行氏作「緑のラブレター」の大きな屋外アートが見えてくる。
藤野駅に着くと4時少し前で、今日はここまでと、3時59分発の電車に乗り帰宅した。


2008.11.30

分倍河原から高尾・・・(甲州街道)

本日の万歩計36,950(24.0Km)

今日の甲州街道は、先週の続きの分倍河原からであるが甲州街道側とは南武線の分倍河原駅の反対側(西側)の新田義貞の銅像前で待ち合わせ、2人で歩き始めた。
新田義貞の銅像は府中市が建立したもので、元弘3年(1333)5月8日に兵を挙げた新田義貞が北条泰家率いる幕府軍を破って鎌倉に攻め上がり、終に140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させた史実を後世に伝えるために建立したと説明板にあった。甲州街道に戻ると、直ぐに京王線の踏切を渡る。ちょうど電車の通過に遭遇した。
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今日は、雲ひとつ無い晴天で清々しい空の下を歩いて行くと、とんでもなく立派な冠木門の家に遭遇した。内藤家である。屋敷も広く、これほど立派な門は、東海道、中山道を歩いてもお目に掛かれなかった。旧家なのであろうが、現在に到るまで家勢を保ち続けているのはすごいことだと思う。
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本宿町(ほんじゅくちょう)の交差点で、国道20号に合流する。合流点の三角地帯には本宿の碑が建っていた。200mほど進むと道の右側に「熊野神社」があり、緑がかった色彩の注連縄(しめなわ)が鳥居にぶら下がっていた。この注連縄の材料は木材パルプを原材料にした天然成分繊維(レーヨン)のアンダリアで、土に還る環境に優しいものであるが、雨にも強い全天候型である。正直なところは、稲藁が最近手に入り難いことから採用されたものであろう。
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神社本殿裏には、全国で最大最古の上円下方墳とされた古墳の発掘が始まっていたが、まだまだ一般公開するかしないか、するとしても何時か全てが予定もたっておらず、長い期間を要するものであるらしかった。本当に今日は良く晴れている。南武線を越えて国道を進むと富士山も白く輝いて見えた。
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国道は国立インター入口交差点で、左に離れて行き500mほど進むと、左手に「谷保天満宮」がある。ここの天満宮の本殿は街道から下った、多摩川の河岸段丘の崖下に建っているが、平安時代の頃は街道も崖下を通っていたとのこと。また、多摩川の河岸段丘の崖下はハケと呼ばれていたそうで、湧き水も多く、まず人々が住みついたところであったとのことである。階段を下りて行くと、湧き水を模した流水もある。
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谷保天満宮は菅原道真の3男の道武朝臣が建立して、父道真の像を刻みここに祀った。しかし、その像の出来が今ひとつであったため谷保天(野暮天)と呼ばれるようになったとのこと。それにしても、流石に合格祈願の絵馬の数がすごい。写真のような絵馬を掛ける場所が4箇所も設けられていた。それに、天満宮と言えば牛の像があるが、これは菅原道真が亡くなったとき、牛が悲しんで遺体を乗せた車を引こうとせず、動かなくなったとの伝承によるものである。
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天満宮本殿の左には、道真公が5歳のときに詠んだ「紅わらべの歌碑」があり、「美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」とある。毎年この歌を元に作られた巫女舞が2月末に小学校低学年の女の子によって行われるとのこと。
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歩いて行くと、立派な家が多く、その中でも目を引いたのは手入れの行き届いた庭木の間に、つるべまで置いてある井戸が見えたことである。もう使ってはいないのだろうが、昔の井戸を潰さずに大事に残してあるのだろう。そして、矢川駅の入口の交差点の手前で左に入ると、長い参道の南養寺がある。
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この寺は臨済宗建長寺派の古刹で、庭の木々が紅葉していて綺麗であった。寺を後にして進むと直ぐに矢川の小さな流れを渡るが、住宅地にあって、綺麗な水の流れを保っていた。
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矢川を渡ると、道の右側に「五智如来」がある。道路の向こう側で車の通りもはげしく、道路の反対側から写真撮影を行った。五智如来とは仏教で言う五種類の智を備えた仏様で大日如来の別称とのこと。江戸時代に八王子在住の越後人数人がこの地に移り、郷土で信仰していた「五智如来」を祀るため建立したと書かれていた。500mほど街道を進むと、元青柳村の秋葉常夜燈がある。植え込みに囲まれ大事にされている。
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左側に「至誠学舎」の施設を見ながらさらに進むと、日野橋の交差点である。ここは五叉路になっているが、奥多摩街道の方に進む。200mほどで左に曲がる十字路に出るので旧甲州街道と道標の出ている通りの方に左折する。
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100mほどで、右側に柴崎市民体育館があったので、お手洗いを借り、根川緑道の綺麗な流れを眺めて進むと、日野の渡し場のモニュメント。「多摩川の渡し場跡なる我が住まい河童ども招びて酒酌まむかな」の歌碑があった。
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多摩川の堤防に出て、右折して立日橋(たっぴばし)を渡る。多摩川モノレールが同じ橋を高架で渡る。
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橋から川面を見ると、釣り人が櫓に乗って川面に腰を下ろし、鯉を狙って糸をたれていた。この立日橋からも富士山が綺麗に見えた。
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立日橋を渡ると、日野市街が近づいてくる。国道にぶつかり左折すると、直ぐに「日野本陣」がある。甲州街道に3つ残っている本陣の内の1つである。以前は「蕎麦屋」としても使われたとのこと。見学料を払って内部を見学する。上段の間が無いと思ったら、別棟になっていて今は別のところに移設されたという。このため国の文化財に指定されないのだという。正面の入口の構えなど、立派なのにと案内人は、残念がっていた。本陣を出ると向い側にある図書館には問屋場跡の碑が建っている。
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300mほど進んで日野市役所入口の交差点をすぎると、八坂神社がある。説明板によれば、「むかしむかし、この付近の土淵と言うところで多摩川の洪水の後、淵に妖しい光が数夜に渡って見えたので、故老が拾い上げると、金色燦然と輝く牛頭天王の神像であったという。その像を祀ったのがこの神社の起源で寛政十二年(1800)のものです。」とある。9月中旬の例大祭の千貫神輿は近県でも有数な神事で絢爛豪華な祭り絵巻が繰り広げられるとのこと。
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八坂神社を過ぎて、次の信号を左折し、宝泉寺にぶつかったら右折して日野駅横のガードを潜る。ここで、昼食をとり、しばし休憩して、大坂の急な坂を上って行く。坂を上りきると国道20号と合流して、ここから、日野自動車、コニカミノルタ、オリンパスなどの大きな工場が続き、3kmほど進んで石川入口の交差点に達すると、とうふう料理で有名な「うかい」がある。
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国道16号線との交差点を過ぎると、左に300mほど続く旧道への入口があり、久々に静かな旧道の雰囲気を味わう。そして、大和田橋のたもとに出て橋を渡る。昭和20年8月2日に日野市全体では2時間で1600トンもの焼夷弾を受け、80%の家屋が消失し450名の人が亡くなった。このとき多くの人がこの橋の下に逃げ込み助かったが、もちろん、この橋も50発もの焼夷弾を受けたとのこと。橋を渡って振り向くと「ホテルニューグランド」付属の結婚式場「グランド ビクトリア」で挙式したカップルが大勢の人達に祝福を受けているのが見えた。焼夷弾が降り注ぐ時代とは正反対の平和な光景だ。
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大和田橋を渡って右折し、八王子五中を過ぎた角で細い通りに入って行くと、100mほどで右側に小公園があり、竹の鼻一里塚跡がある。公園の名前は竹の花だが、武蔵名勝図会などには竹の鼻と書かれているとのこと。直ぐ隣には永福稲荷神社があり、大きな力士像がある。説明板によると、八光山権五郎という力士で江戸中期に全国を遊歴して相撲を取り、終に敵するものがなくなり、天皇から御盃と錦のまわしを賜った。帰郷後に、稲荷神社で相撲を興行し、それ以来毎年8月2日に近郷の力自慢によって相撲が奉納されるようになったと記されていた。
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道は突き当たって、左折すると200mほどで国道20号線に突き当たり左折する。八王子駅入口の交差点を過ぎて進む。流石に賑やかな通りであるが、昔の面影はほとんど残っていない。わずかに、八日市宿跡の石碑があり、説明板も設けられていた。
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そして、古い蔵と「なかのや」の染め抜きの暖簾のある「こんにゃくや」が見つかった。しかし、今日は休みか閉まっていた。
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国道を2Kmほど進むと、合流していた陣馬街道と別れて国道20号は左斜めに進む。ここからは街路樹として銀杏が植えられていて、この銀杏並木は高尾駅までの4Kmほども続く。
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西八王子駅入口を過ぎて300mほどの長房団地入口で右折し、僅か7?80mで左折する。この左折の場所には二基の石碑が建っていて、一つには右高尾山、左新覚寺と書かれていて、もう一基には昭和2年に国道が出来た当時の様子がイラストで書かれていた。
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旧道は300mほどで終わり国道に再び合流するが、ここで珍しくもチンドン屋に出くわした。最近は見ることもなくなり、本当に珍しい。そして国道を渡れば「長安寺」である。家康の命を受け五街道を敷設した大久保長安が眠っているとあっては、ご挨拶して行く必要がある。長安はもと武田信玄の家臣で大蔵藤十郎と言ったが、家康に仕えるようになって大久保長安と称した。計数に明るい才能を家康に認められ、金山、銀山の開発、五街道の敷設などを行い、総奉行として権勢を誇ったが、本多正信の陰謀で金山経営で不正があったとされ、一族ことごとく処刑された。長安も、もちろん罪人で葬式すら許されなかったが、この寺の草創が1626年の長安十三回忌の年であるので、その頃には許されたのか、お寺には葵の御紋まで付いているのを見ると、本多正信との政争が見直され、功績が再評価されたものと思われる。
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また、銀杏並木の国道を1Kmほど進むと、多摩御陵入口に達し、直ぐに右に旧街道の入口がある。
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この残っている旧街道も立派な家が多く、600mほど続く。だいぶ日も傾いてきて、旧道が尽き、国道に合流して400mほど進むと今日の目的地の高尾駅である。時刻は4時で、駅の近くでコーヒーを飲んで休憩して帰路に付いたが、今日は天気も良くミシュランに紹介された高尾山への登山客の帰りにもぶつかり、高尾駅のホームは賑わっていた。
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2008.11.22

笹塚から分倍河原・・・(甲州街道)

本日の歩行距離(26Km)

今日の歩行も、会社の先輩が一緒に歩きたいとのことで、2人での歩行となった。万歩計を忘れたが、先輩の万歩計で歩行距離を知ることが出来た。どうも、甲州街道は最後まで2人で歩くことになりそうな気配で、それはそれで始めての経験で面白そうだ。
さて、7:30に京王線の笹塚駅で待ち合わせ、歩き始めた。相変わらず、国道20号線に首都高速がかぶさり、楽しい歩行道路ではない。少し進むと「環状7号線」との交差点だが、環7も土曜日の早朝でも大変な交通量だ。
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環7との交差点を過ぎると、左側に「玉川上水」が見える。「玉川上水」は青梅線で立川から2駅行った羽村で取水され、四谷の大木戸までの43Kmを流れ江戸の民衆に生活用水を供給していた。開渠となっているのは、今では羽村から杉並区の久我山までで、それ以降はほとんどが暗渠で流れを見ることは出来ないので、このポイントで昔の姿の「玉川上水」の姿が見られるのは貴重である。
800mほど進むと、右側に明治大学和泉校舎が見えてきくる。国道に平行して走る京王線の駅名も明大前である。街路樹と明治大学の植樹に挟まれて少しは、気も晴れる心地の道路が続くが、この辺りは幕末には幕府の「煙硝倉」があったところで、いち早く官軍に押収されたとのこと。幕府にはまともに、戦略/戦術を立てる気もなかったのであろうか。
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明大を過ぎると大きな霊園が続き、その先で右側にある街道の名残の小道に入って行くと、なんと6つのお寺が次々と連なっている。最後に現れる「永昌寺」はもともとは江戸・四ッ谷に有ったのが、明治43年に当所へ移転したそうである。山門前の地蔵尊は1677年建立で300年以上の古いものである。左端にある庚申塔も古そうである。
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首都高が上を走る国道20号線で昔の面影を偲ぶのは無理な相談かと思いながら、歩いていると茶器を売る店があり、所狭しと湯飲みが並べられていた。何となく懐かしい風情の店で、ほっとさせられる光景であった。竹細工の店も以前は30軒ほどあったそうだが、今は明治40年創業の「竹清堂」1軒とのことであったが、残念ながら閉まっていた。
最寄り駅が京王線の「桜上水駅」の辺りに来ると、覚蔵寺(左側写真)と宗源寺の名のお寺が並んでいて、宗源寺には不動堂(右側写真)があり、かつて高台にあった不動堂が高井堂と呼ばれ、高井戸の起源とも言われている。
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上北沢でようやく、首都高速は右に逸れて行き、芦花公園が近づいて国道20号線も右に逸れてゆく。新宿から歩いてきた国道20号線ともしばしお別れである。
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旧道に入って直ぐに、野菜の自動販売機に出くわした。今も農業を営んでいる家なのだろう、奥が見通せないほど広い屋敷の入り口に置かれていた。やっと都心から離れてきた感じがする。そして、「大橋場跡の碑」と「地蔵」が建っている場所があった。碑の形からしても、ここはかつては川が流れていたことが窺える。地蔵は、江戸時代にこの辺りで繁栄した下山一族が建立したものとのこと。だんだん街道らしくなってくる。
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左の写真は千歳烏山付近である。2kmほど続いた旧道も仙川(右側の写真)を過ぎると、また国道20号線に合流する。
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700mほど進むと、右側に「瀧坂旧道」の石碑が建っている。数百メーターで終わってしまうが、残っている本当の旧街道である。瀧坂旧道が終わると、直ぐに右の細い道路の奥に赤い門が見えてくる。大雲山 金龍寺である。
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このお寺の開基は宋より茶の種を持ち帰り宇治に広めた、明庵千光国師栄西禅師で、義経・弁慶が梶原景時の讒訴のため奥羽に落ちるときもこのお寺に立ち寄ったいう。また、閻魔十大王の石像は源頼朝の祈願によるもので、川越から鎌倉に到る街道に十王街道の名として残るとのこと。境内には立派な銀杏の木もあり、保存木となっていた。
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高速道路から分かれた、国道としての甲州街道は東京オリンピック当時に植えられた欅(ケヤキ)の街路樹が大木に育って延々と続く。菊野台交番の横には「妙円地蔵」がひっそりと建っている。若くして金子村に嫁いだ妙円は、夫に先立たれたうえ両目を失明して、尼僧となって村人のために毎日路傍で鉦を叩き、念仏を唱え続けたといわれいる。
村人からの浄財をもとにこの地蔵菩薩を建てたのは文化二年(1805)で、その後もこの菩薩の前で祈り続け村人に加持祈祷を行ってきたという。この話に感動した滝沢馬琴は玄同放言の中で紹介し、渡辺崋山もこの菩薩を描くことになったのである。妙円の墓は深大寺にあり、そのとき叩いた鉦も調布市郷土博物館に保存されているそうである。
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700mほど歩くと、「野川」を渡り、その後再び国道20号線と分かれる。旧甲州街道入り口の表示がある。
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京王線布田駅の近くに達すると、道路の左側には「円福寺」があり、赤い前掛けの六地蔵が旅人を見送っており、すぐそばの道路の反対側には、常性寺があり境内には成田不動尊の分身を祀り、布田のお不動さまとして近在の人々に信仰されてる。
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調布駅北口入り口の交差点に着いた。11:30である。お腹も空いた。近くのラーメン屋で食事を取る。12:00に出発して布多天神社の長い参道を歩く。参拝客が三々五々歩いている。やはり菅原道真を祭る天神様で合格祈願の絵馬が多い。少し遅いが七五三で晴れ着を着せられた少女の姿が目に付く。
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進んで行って、中央高速を潜る手前に「西光寺」があり、近藤勇の大きな像が山門前にある。近藤勇はこの辺りの出身であり、調布市の『近藤勇と新撰組の会』が観光事業の一助となることを願って没後百三十年を記念し、建立したとのこと。近藤勇の銅像は東海道の本宿(もとじゅく)の「法蔵寺」にあり、板橋駅前にもあった。ここで3つ目の銅像を見ることとなった。
車返団地入り口に達し、建っていた観音院で少し休むことにした。子供を遊ばせていた若い母親はこの観音院の関係者でもあるのか、本堂の階段で座っていると、休憩室がありますので、どうぞと勧めてくれた。墓参りの檀家の休憩所かなにかなのだろう。
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甲州街道を歩いていると、調布あたりから元農家と思しき敷地の大きな家が多いが、中には大金を得て豪華な家を建てたのも多いように見える。写真は御影石の塀を施した家であるが、なんと周りの景色が写る塀である。それにしても、景色の写る塀を見るのは始めてである。
西部多摩川線の踏切を渡る。南武線の南多摩駅と多摩川を挟んで対岸の「是政駅」から中央線「武蔵境」を結ぶ短い路線である。1Kmほど進むと「常久神社」がある。領主に常久なる人物がいて多摩川の近くに名田を持つ村落があったが、度重なる洪水を避けこの地に住むようになったととのことだが、村落全員で引っ越して神社を建立したのだろうか。
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府中が近づき、だんだん賑やかな街並みになってくる。府中市八幡町を歩いていると「武蔵国府八幡宮」があり、入り口には「八幡宿」のモニュメントが建っていた。
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ついに府中の「大国魂神社」に到着する。神社名を刻んだ巨大な石碑がある。明治以前は武蔵国の主要な六神社を集めて祀ってあるので六所宮と呼ばれていたそうだ。大国魂神社は5月の「くらやみ祭」が有名とのことであるが、暗闇祭りは、いわば性開放の日であったとのこと。近年では風紀を乱すという理由で、祭りの場を明るくすることになったが、本来は、わざわざ、文字どおり暗闇にして行なったもので、昔はその日に子種をもらうことを、神の子をさずかることと同じに考えていたようだ。
長い参道は、沢山の提灯が吊り下げられていて、本殿に近づくと七五三でお参りに来た親子が目に付いた。本殿左脇には水神さまが祀られており、名水であったのかペットボトルに汲んでいる人がいた。もっとも用心してか煮沸しないで飲まないでくださいと書かれていた。
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大國魂神社から1150mの府中市役所前の交差点には大国魂神社の御旅所(おたびしょ)がある。御旅所とはお祭りで神輿などが途中で休む場所である。ここに、高札場もあったが、もう少し整備してはと思わざるを得ない。

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さらに、300mほど進むと左側に「高安寺」がある。平将門を討ち鎮守府将軍となった、藤原秀郷の館跡に建てられたもので、立派な仁王門と優美さの感じる山門がある。本堂も古刹を感じさせる気品がある。義経と弁慶もここに立ち寄り、頼朝の怒りを解くため般若心経を書写したことがあるとのこと。なお、藤原秀郷は俵藤太の名前でも知られており、瀬田の唐橋から三上山のムカデを弓で退治したとの話しも伝わっている。
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sasazuka_48.jpg3:00頃に分倍河原駅への入り口に達し、今日はここまでとして、駅前の喫茶店でコーヒーを飲みながら今日を振り返り休憩して、次回を約して帰宅についた。


2008.11.02

日本橋から笹塚・・・(甲州街道)

本日の万歩計31,004(20.2Km)

東海道、中山道を歩き終えて、何となく次は甲州街道と思っていたが、3連休でもあるので歩き始めることとした。今まで、常に一人で歩いていて甲州街道も一人旅と思っているが、今日の初日だけは一緒に歩いてみたいとおっしゃる会社の先輩がいて、初めて2人で歩くこととなった。
朝の8時に日本橋で待ち合わせた。3度目の日本橋である。歩き始めを記念してセルフタイマーで自分の写真を撮っている人もいる。
歩き始めて直ぐに永代通りで右折する。布団の西川がある。元和元年(1615)に幕府の許可を得て蚊帳の販売を始めて現在に到る近江商人の店である。残っている勘定帳は日本で最初の決算書類の始まりとのこと。
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少し進んで呉服橋の交差点で右折して「一石橋(いっこくはし)」に向かう。なお、呉服橋は交差点の名前として残っているが、江戸城の外濠が埋め立てられて、今はもう存在しない。この橋の名前の由来は、北側に金座支配の後藤家、南側に呉服支配の後藤家があったので、後藤(五斗)の両方を合わせて「一石」になったという説があるが、出来すぎている。最も確からしいのは、慶長13年(1608年)に明の永楽帝の時代に作られた永楽通宝の通用を禁止し、国産の寛永通宝等の国産の銭を通用させるため、幕府が永楽銭1貫を「米1石」と交換したことによるとのこと。
また、橋のたもとには「一石橋迷子しらせ石標」がある。この辺りは江戸時代も賑やかで子供が迷子となることも多く、そのための伝言板が設けられていたのである。
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「一石橋」を渡ると日本銀行があり、左に目を転じると「常盤橋」がある。高速道路が上を走っていて、ビルの頭のみが見える。そして何時もながらの工事風景を見ることにもなる。
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甲州街道に戻り、レンガ作りのJRのガード下をくぐって進む。名だたる会社の本社があるオフィス街の大手町に入って行く。
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大手町の交差点で右折して1つ目の交差点で左折すると、平将門の首塚がある。酒井雅楽頭の屋敷の中庭であった場所という。しかし、東海道歩きで掛川で十九首という地名の場所に将門の首塚があった。どちらが本当の首塚か分からないが、ここの説明板には、「天慶の乱で憤死した平将門の首級は京都に送られ獄門にかけられたが、3日後東方に飛び散り、武蔵の国豊島郡柴崎に落ちた。その時雷鳴がとどろき、真っ暗になった。村人は恐怖し、埋葬したのがこの地だった」と書かれていた。やはり、都に対する関東住民の意地の発露という気がする。
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将門の首塚を見て、内堀通りを大手門前まで進み日比谷通りに戻って、お濠を見ながら進むと「和田倉橋」のレプリカが見えてくる。
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和田倉橋を渡って、噴水公園を訪れることにした。初めてであったが、美しい広場であった。
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日比谷通りから和田倉門への入り口には明治期に設けたと思われる警護員の詰め所がある。東の方を望めば東京駅の正面である。道路が工事中でいささか趣を損ねるが、やはり東京駅のこの外観は残しておきたいものの一つである。
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馬場先濠に沿って南下する。お濠と柳が調和し、道路側も生垣と街路樹でその間を通る歩道は、都心であっても美しい景観を作り出している。
進んで行くと、左手に昭和9年(1934)3年7ヶ月の歳月をかけ竣工した、重要文化財の明治生命館が見えてくる。設計は大正時代から昭和初期にかけ歌舞伎座、ニコライ堂修復、日本銀行小樽支店等を手がけた、東京美術学校教授の岡田信一郎で、古典主義様式の最高傑作として昭和の建物では初めて重要文化財に指定された。またこの建物は終戦後にはアメリカ極東空軍司令部として使用するためGHQに接収され、米、英、中、ソ、4カ国による対日理事会の会場として使用された歴史がある。
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日比谷交差点手前には第一生命館があり、ここもGHQに接収された歴史があり、マッカーサーの執務室や昭和天皇と会見した部屋が当時のまま残されているとのこと。日比谷公園に交差点の角から入ると、直ぐに「日比谷見附」の石垣の一部が残っている。
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公園から道路に復帰して200mほど進むと「和田倉門」である。二重橋方向に行く人、出てくる人が大勢通り過ぎて行くのが見える。左側には法務省の赤レンガ棟が緑に映えて美しい。「米沢藩上杉家の江戸屋敷」が在った場所である。
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お濠に沿って北のほうに曲がるのを間違え「国会議事堂正面」に出てしまった。ここで右折して憲政記念館の敷地に沿ってすすむ。ここは桜田門外の変で水戸藩士を中心とする一団に殺害された井伊直弼の屋敷跡である。確かに桜田門は近い。
三宅坂を過ぎた辺りのお濠を見下ろす景観は本当に素晴らしい。
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半蔵門に向かって歩いて行くと、大勢の人がランニングしているのに出会う、本当に切れ目無くの状態で外国人も多い。そして、半蔵門である。大手門から1里(4Km)であり、ここで左折して皇居から離れて行く。
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半蔵門の交差点から新宿通りを見ると「FM東京」と「ワコール」の目立つビルが迎えてくれるようだ。休日の朝で新宿通りは交通量も少なげだ。
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「聴く」と題名を付けられた少女の銅像がある、冨田憲二作と書かれている。そして、四谷駅が近づくと「上智大学」の建物が見えてきた。
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上智大学に隣接する「聖イグナチオン教会」の特色のある丸い建物を左に見て、四ッ谷駅で右折すると、四ツ谷見附の跡の石垣が見える。ここは江戸時代は枡形になっていて門があり、警護の者が詰めていた。
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道路の左側を歩いて、東急ステイ四谷というホテルの脇の細い道路を入って行くと、「西念寺」というお寺がある。ここには「服部半蔵」と家康の長男の「信康の供養塔」がある。戦闘指揮に抜群の才能を発揮した信康は、武田勝頼と通じたと疑われ(言いがかり)て信長から切腹を命じられ、半蔵が介錯することとなったが、あまりの悲しさに果たせず後に供養塔を建立した。また、半蔵が家康から拝領した「槍」もこのお寺に保存されている由である。
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「西念寺」の次に近くの「愛染寺」に入り組んだ狭い道路に迷いながら行き着き総検校となった「塙保己一」と内藤新宿の創設を幕府に申し出た「高松喜六」の墓を探したが、看板はあれど「高松喜六」の墓石は見つからなかった。おそらく墓地を丹念に探せばあるのであろうが、大勢の人の墓地をうろつき回るのは気がひけて諦めた。
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四谷三丁目の交差点の右側に消防博物館がある。到着したのが11時で、ちょうど始まった人形が動き演奏が聞こえるのを家族連れが大勢見上げていた。建物は10階建てで、複数階に渡って昔から現在に到る消防用機具などが展示されていて、期待以上のものであった。
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10階に上ると、見晴らしも良い。下の左は四谷方面、右は新宿方面を撮影したものである。
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ヘリコプターもあれば、馬で引っ張って行く蒸気ポンプの消防車まで展示されている。小学生ぐらいの子供は喜ぶことだろう。
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消防博物館を出ると、どうしても「於岩稲荷田宮神社」を訪れる必要がある。家格は高いが経済的に困窮していた田宮家のお岩さんは、一生懸命働きお家の再興を果たして、その功績で「於岩稲荷田宮神社」として祀られるが、その人気を利用して「鶴屋南北」が200年も後の文化文政時代に当時起こった猟奇事件と組み合わせて現在にまで人気が続く「四谷怪談」を書いた。中村時蔵、歌右衛門など多くの歌舞伎俳優の寄贈した石柱が並ぶ。実在のお岩さんは怪談話と関係ないが、やはりお参りして街道歩きの無事を願うにしくはない。道路を挟んで「於岩稲荷陽運寺」がある。しかし、これは戦後作られたものであり、道路を挟んだ向い側にお岩さんを利用したお寺を作るとは呆れた根性だ。
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四谷四丁目の交差点は5叉路である。国道20号線は新宿御苑の下にもぐりこみ、旧甲州街道は斜め右に続く。この交差点には玉川上水水番所跡、四谷大木戸跡碑、水道碑記の説明板がある。そして大きな水道碑記の石板である。
四谷四丁目交差点から、新宿二丁目に向かう途中で「大宗寺」に寄る。江戸六地蔵の一つの大きな地蔵がある。今までに品川の品川寺(ほんせんじ)、巣鴨の真性寺と合わせ3つの地蔵にお会いした。あとの3体の地蔵にもいずれお会いすることになるであろう。境内には閻魔堂があり、金網から覗くと怖いお顔の閻魔さんが鎮座していた。
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新宿三丁目の交差点まで進んできた。伊勢丹があり、流石に賑やかな通りである。ここで左折して新宿四丁目で右折する。右折して直ぐにうなぎの「登亭」があり、ここで少し遅い昼食をとった。
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昼食を終えて、新宿南口の横を通る陸橋を通る。下に新宿らしい賑わいが見える。陸橋を過ぎても若い人の賑わいが続き、どこまで続くのかと思いながら歩いて行くと、文化学園があり、文化祭の最中であった。
shinjyuku_50.jpgshinjyuku_51.jpgshinjyuku_52.jpg高架の高速道路が大きく空を塞ぐ明治神宮への西参道口の交差点の直前に「正春院」がある。徳川秀忠の乳母は初台で、地名として残りその娘は三代将軍家光の乳母となり正春院を称した。これで、このお寺と少し先の初台の地名が繋がる。
東京オペラシティが右側に見えてきた。新しくて素晴らしい施設だ。オペラシティータワーの高いビルが聳え立っている。新国立劇場も素晴らしい。
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創業明治25年の提灯屋があった。ガラス戸に景色が反射して見難いが、珍しい店で思わずシャッターを押した。進んで行くと幡ヶ谷である。幡ヶ谷の地名は八幡太郎義家が後三年(1083)の役の後に上洛した際、この地にあった池で軍旗を洗ったことに起因する。初日の歩きで一緒に歩いている先輩も大分疲れたようであり、笹塚駅まで来て、コヒーショップで休憩の後、今日はこれで切り上げることとした。


2008.10.19

愛知川から草津・・・(中山道)

推定歩行距離37Km

旧中山道を歩く旅は10月19日に草津宿に無事到着し、完了。

彦根のホテルで1泊して、車両1両だけの編成の近江鉄道で「愛知川駅」にやって来た。旧東海道歩きで鈴鹿峠を越えて土山から水口に歩いたのを思い出す、貴生川(きぶかわ)行きの電車であった。中山道に復帰すると、地蔵堂が建っていたが、このような街角に建つ地蔵堂がこれ以降も時々お目にかかることになる。
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朝一番の歩き始めは心地く快適に進む。明治4年に郵便制度が始まったときに用いられたポストが復元して置かれていた。もちろん、普通に葉書、手紙を投函できる。少し先に、何の看板もなく使われていないようだが、立派な建物があった。銀行かなにかの建物だったのだろうか。
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枝振りの良い赤松がある料亭竹平楼があった。昔の旅籠竹の子屋で、創業は宝暦8年(1758年)とのこと。明治天皇も巡幸の時ここで休憩された。
そして、不飲(のまず)川に架かる不飲橋である。欄干には愛知川の伝統工芸の「びん細工手まり」を模した置物が飾られている。伝承によると、この不飲川は源流である不飲池で激戦があり川が血で真っ赤になった。それ以来、忌み嫌ってこの川の水を飲まなくなり「不飲川」と呼ばれるようになったとのこと。
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国道に出てしばらく進むと、愛知川を御幸橋で渡る。川幅の大きな川であるが、水量は僅かである。この辺りは水田が多く慢性的に水不足で農業用灌漑ダムでほとんど全量堰きとめられているためだとのこと。これでは琵琶湖にもほとんど流れ込まない。橋を渡って五個荘宿へと進んで行く。
東嶺禅師御誕生地の碑があった。9歳で出家し、白隠禅師に師事したとのこと。白隠禅師は臨済宗の中興の祖と言われる名僧で晩年は旧東海道で沼津の次の原にある松陰寺で過した。街道は手入れが良く歩き易い道が続いていた。
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五個荘に入ってから、何軒かの茅葺の家が目に付いた。まだ、茅葺を保っているとは驚きだ。それにしても手入れが行き届いていると思っていたら、旧家片山家立場本陣で、大名や公家がここで休憩したという。そして「天秤の里」のモニュメント。近江商人を多く輩出した五個荘に相応しい。流石に、歩いていてもどっしりとした立派な家が多い。
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街道は国道に合流するが直ぐに右に分かれて、清水鼻町に入って行く。直ぐに「清水鼻の名水」がある。現在でも大事にされていて、もちろん美味しい水を飲むことができる。清水鼻の町は短く、直ぐに終わり、国道と新幹線に交差して進むが、その直前に広い田圃一面ににコスモスが咲いていた。地元の人達が大勢あつまり「コスモス祭り」とでも言えばよいのか、大人も子供も花を見ながら楽しもうとしていた。
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地下歩道を通って国道を渡り、200mほど進むと、奥石神社の大きな鳥居がある。神社を囲む森は老蘇(おいそ)の森と呼ばれる。説明板には、「今から約2250年前、孝霊天皇のとき、この地一帯は、地裂け水湧いて、とても人の住むところではなかったが、石辺大連(いしべのおおむらじ)という人が神の助けを得てこの地に松・杉・桧を植えたところ、たちまち大森林になったと伝えられています」とある。参道、拝殿、本殿ともに立派な神社である。
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老蘇町を歩いて行くと、次に出会うのは「武佐宿(むさしゅく)」である。武佐宿に入って直ぐに牟佐神社があった。途中に蕎麦屋ぐらいあるだろうと思いながら歩いてきて、お昼時間もだいぶ過ぎた。食事の出来る処は見つからず、しかたが無いので神社の境内で朝買った、おにぎり、菓子パンで空腹を満たした。
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武佐宿を進むと、武佐町会館の場所に冠木門があり脇本陣跡の表示が出ていた。その次には文化庁の登録有形文化財になっている「旧八幡警察署の武佐分署庁舎」があり、引き続いて武佐本陣の門のみが残っていた。
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近江鉄道の武佐駅の踏切りを渡ると、伊庭貞剛(いばていごう)の屋敷跡がある。伊庭家は、近江守護佐々木家の流れを汲む名家である。近年になって、長屋門を構えた広大な建物は解体され、楠だけが残されたとのこと。
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国道を歩くのは騒音が酷くて辛いので、国道からの分岐点に一刻も早く到着できることを願って、ひたすらに歩く。1.7Kmほどで旧道に復すと、早速綺麗な茅葺屋根の家屋に出会った。静かで良い感じの街並みが続いている。東横関町である。
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街道は日野川にぶつかり、当然渡しは無いので、国道に架かっている「横関橋」に回る。橋を渡ると直ぐに右に曲がって旧街道の方に向かう。誰も通っていない道で心配になるが、国道を進むよりはるかに心地良い。小さな集落を通り過ぎて行く。
西横関と書かれた信号機のところで、一旦国道に合流すると竜王町で、300mほどで間の宿の鏡の集落に入る。江戸時代は間の宿だが、それ以前(東山道)では、ここが宿場であったとのこと。宿は直ぐに終わり再び国道にでると鏡神社がある。この神社は近江源氏佐々木氏の一族鏡氏が守って来た源氏ゆかりの神社だったので、この地で義経も元服し、源氏の再興と武運長久を祈願した。
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境内に鏡山古窯址が鏡山一帯に広がっているとの案内板があり、どうしてだろうと思い神社の縁起板を読むと、鏡神社の祭神は日本書紀による新羅国の王子、天日槍命(あめのひぼこのみこと)で垂仁天皇3年の御世(BC3年)に須恵器の技術者集団を連れて来朝し、この地で亡くなったとのことであった。この辺りの鏡の地名も王子が持ってきた神宝の日鏡をこの地に納めたことから生まれ、その神社は陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師などの多くの技術者を供にして渡来して文化を伝えた王子を祀る古社なのであった。
進むと、義経元服の池と石碑がある。牛若丸が、藤原秀平配下の金売り吉次と東国に下る途中、ここで元服し、源義経となったところである。平家の追っ手が迫っているのを警戒して、ここの池で前髪を剃って元服することになったのであろう。
余談だが、NHKの大河ドラマでは元服の場所が義朝が殺された、尾張・内海庄になって、ここでは観光で潤うと期待していたのにと怒りの声が上がったらしい。
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またまた、国道歩きである。野洲市に入り進んで行くと、左手に「村田製作所」の広い工場が見えてくる。工場の前を通り抜けると東池と呼ばれる大きな溜池があった。野洲は多数の溜池があり、少し先にも西池の堰堤が延々と続く。水田の灌漑用として作られたのであろうが、歴史は古く、雄略天皇(418?479年)が近江に築いた48池の一つとされているとのこと。広く稲作が広まって行った時代なのであろう。
国道と別れ辻町に入って行く。これ以降は草津まで国道を歩くことはない。やはり旧街道は落ち着いて歩ける。家棟川の橋を渡る。以前は天井川で、川の下をトンネルで潜ったが、今は河川が整備され真新しい橋を渡る。旧東海道の水口から石部の間にも幾つか天井川でトンネルを通ったのを思い出す。
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桜生(さくらばさま)史跡公園がある。知っていないと読めない読み方だ。公園内には、国指定史跡の大岩山古墳群があり、円山古墳、甲山古墳(かぶとやま)古墳と名づけられた古墳がある。銅鐸も多量に出土したそうだ。見学したかったが相当に広く、日も傾き時間も気になり道路から写真撮影だけで通り過ぎた。直ぐ横を新幹線が空気を震わせ通り過ぎて行く。
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小篠原の集落に入ってきた。中山道以前の東山道では篠原宿があった場所だ。何となく古い街の匂いがする気がする。そして、野洲市行畑に着くと、「背くらべ地蔵」がある。鎌倉時代のものとされている。子供達がお地蔵さんと背比べをして、右の小さい方の地蔵と同じくらいの背になれば一人前と言われたという。ここで毎年7月に「行畑地蔵まつり」が行われているそうだ。
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野洲川橋を渡る。水量は少ないが大きな川だ。中山道では一番大きい川ではないだろうか。
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野洲川を渡れば「守山宿」である。南井金物店という昔ながらの金物屋さんがある。今では見ることがなくなった、ハサミ・包丁研ぎを致しますの立て看板もでている。
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甲(かぶと)屋の跡と言うところがあった。甲屋は、全く知らなかったが、仇討の舞台となった宿屋で、謡曲「望月(もちづき)」に出てくるとのこと。謡曲では旅籠となっているが、実際は本陣であったという。中央の四角いものは、昔の防火用井戸である。
歩いて行くと、左は読めないが「右 中山道 美濃路」と書かれた道標があった。
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守山宿の終わりが近づき東門院というお寺があった。最澄が793年に比叡山延暦寺を建てたときに、このお寺も建てたとのこと。比叡三千坊の中の東の端にあったことから東門院と呼ばれるようになった。また、比叡山延暦寺を守る寺と言う意味から守山寺とも言い、守山宿もこれから名付けられた。江戸時代には朝鮮通信使の宿ともなっていた。山門は仁王門となっていたが、中山道沿いのお寺で仁王門を見たのは初めてである。
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左側に今宿の一里塚が現れた。滋賀県では現存する唯一の一里塚で、大きな榎は2代目とのこと。日本橋から草津までは、一里塚は全部で129箇所あり128番目の一里塚である。草津まではあと4Km(1里)であるが、だいぶ日も傾いてきた。急ごうと思うが、疲れたし、足も痛い。
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栗東(りっとう)の町に入ってきた。大宝(だいほう)神社がある。大宝神社は名前の通り大宝年間(701?704年)の創建で、この地の産土(うぶすな)神である。広い境内は大宝公園となっているが、時間が無く通り過ぎる。
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琵琶湖に注ぐ葉山川の支流を渡ると、もう草津である。JR琵琶湖線と草津線の低いガードを潜る。さらに、低いガードもあるらしいが、ここはそれほどでもない。写真は入り口と潜り抜けた出口て振り返って撮影したもの。
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JR線を横切ると、排水溝の蓋の上になっている中山道を通る。目隠しのための薄い生垣の中で洗濯物を取り入れる物音が聞こえる。これも中山道であることに間違いないのは、写真の左上に貼り付けた手作りの「中山道」の道標でもわかる。少し進むと伊砂砂(いささ)神社が左手にある。変わった名前の神社である。明治以前は渋川大将軍社とか天大将軍社と呼ばれていて、渋川の産土神である。祭神が、石長比売命(いしながひめのみこと)と寒川比古命(さむかわひこのみこと)そして、寒川比売命(さむかわひめのみこと)であることから頭の1文字をとって「いささ、伊砂砂」となったとのことである。
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草津駅前を通り過ぎて「サンサン通り」を横切ると中央分離帯に「一里塚跡」の手作りの表示板があった。今宿の一里塚から4Km歩いてきたことになる。旧中山道では、始めての屋根つきアーケ?ドである。「カラーモール夢大路」と名付けられている。東海道でも四日市と水口がアーケードになっていたが、かなり衰退していた。しかしここでは、草津の街の規模であってみれば当然だが、賑やかである。
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既に廃川となっている天井川である草津川の下を抜けると、ようやく中山道と東海道の追分に達する。「左 中山道 美のぢ、右 東海道 いせみち」と書かれた常夜燈がある。
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10mほど先には東海道で既に訪れた草津本陣があるので、そこまで行って中山道の旅を終えることにした。「本日は休館日です」と書かれた札が架かっていた。時刻は午後5時である。草津駅に向い、米原まで新快速のJR琵琶湖線に乗り、新幹線「こだま」に乗り、再度名古屋で「のぞみ」に乗り換え帰路に着いた。最後は少し駆け足のようになってしまったが、ともかく無事に終えた感慨に浸りながら・・・


2008.10.18

醒ヶ井から愛知川・・・(中山道)

推定歩行距離28Km
9月28日に歩いてから、ようやく歩きに来ることができた。今回は途中で万歩計の電池がなくり、残念ながら歩数はカウントできず、歩行距離もおよその推定となってしまった。
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ともかく、醒ヶ井駅には8時25分に着いた。これが一番早く着く電車である。前回、見逃した了徳寺に寄ろうと前回は通らなかった駅からの道を進んで行く。まだ、この時間だと観光客も歩いおらず、ひっそりした街並みである。
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国登録文化財の旧醒ヶ井郵便局局舎があり、いまは資料館となっているが早朝で、まだ開いていなかった。目的の了徳寺には国の天然記念物の「御葉附銀杏」があり、葉面上に銀杏を実らせるとのこと。沢山の銀杏が落ちており、上を見上げると沢山の実が生っていたが、葉に付着するものは見られなかった。ガッカリ。
本来の中山道に戻り、500mほど進むと国道21号線に合流する。ここに、「一類狐魂等衆の碑」というのがあり、説明板を読むと何とも奇怪な物語が書かれていた。
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『江戸時代後期のある日、東の見附の石垣にもたれて、一人の旅の老人が、「母親の乳がのみたい・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と、自分の乳房をふくませてやりました。老人は、二口三口おいしそうに飲むと、目に涙を浮かべ「有り難うこざいました、本当の母親に会えたような気がします。懐に七〇両の金があるので、貴女に差し上げます」と言い終わると、母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生をとげました。この母親は、お金は頂くことは出来ないと、老人が埋葬された墓地の傍らに、「一類狐魂等衆」の碑を建て、供養したと伝えられています。』
また、500mほどで国道から右に分かれて旧道に入って行く。ここは樋口立場で、先ほど過ぎた醒ヶ井を思わせるような水路が流れている。空き家の民家を改造して「いっぷく場」と「憩」の字の看板を掲げた、茶屋道館と名付けた旅人の休憩所があった。まだ、開いていなかった。同類の歩行者が説明板を読んでいた。
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国道を横切ると「息郷」の集落で、「敬永寺」の前を通って中山道は進む。それにしても、お寺の山門前にはよく車が駐車している。
進んで北陸自動車道を潜ると、「久禮の一里塚跡」である。一里塚そのものは無くなっているが、石碑を建てたちょっとした広場となっている。江戸から117里目である。
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一里塚跡を過ぎると、楓の木の並木道を歩く。紅葉の季節は綺麗だろうが、緑の楓も涼しげで好きな風情である。やがて「番場宿」の入り口に到着する。手作りの看板が建っている。宿の中も小学生が作った案内板が建っていた。「番場」と言えば長谷川伸作「瞼の母」に登場する「番場の忠太郎」を思い出すが、もちろんフィクションの演劇の人物である。
ここは右に行けば直ぐ米原に出られ、皆な勤めに出ている半農で高度成長期に家を建て替えたところが多く、ほとんど昔の遺構は残っていない。中山道では宿場を前面に出して村おこしをしているところが多いが、そんなことになるとは思いもよらなかったとは地元の言である。
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江戸方見付けには大きな石碑が建っていたが、他の宿の村おこしに刺激されて急遽整備したように思える。ここが本当の宿の入り口であった。
そして、近江が近づき弁柄(ベンガラ)が塗られた家が目に付くようになってきた。立派な家屋の北村家の前には「明治天皇番場小休所」の碑が立っていた。
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左に折れ曲がって200mほど進み名神高速を潜ると聖徳太子が建立して「法隆寺」と呼ばれていたのを鎌倉時代に一向上人が土地の豪族土肥元頼の帰依を受けて再興し時宗一向派の本山とし、その後幾多の変遷を経て現在では浄土宗となっている「蓮華寺」がある。
山門は修復中で撮影できず残念だったが、ここには元弘3年(1333年)、六波羅探題北条仲時が足利尊氏に攻められ、鎌倉へ逃げようとしたが、佐々木道誉らに行く手を阻まれ、この寺で部下ともども432名が自刃したところである。寺には巻物形式の432名の過去帳が残っており、写しを見せていただいた。432名の墓は本堂の右手の樹林を登って行ったところにあり、延々と続く墓石に圧倒される。なお、門前の小さな溝は「血の川」という。街道に戻り進むと高速道路に沿って進むようになり、ついには高速道路がトンネルとなっている上を通って進む。高速道路から離れる地点を過ぎると「摺針峠(すりはりとうげ)・彦根」の石の道標があり、いよいよ峠道となる。
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「摺針峠」は峠とは言っても短い登りで頂上にたどり着く。左に「神明社」の急な階段がある。階段を上った所には昔は「望湖堂」という茶屋があり、琵琶湖が見え繁栄したという。今も再建された建物の前には明治天皇が休憩を取られた石碑がある。そして、待望の「琵琶湖」が望見できた。視界をさえぎる白い塔が邪魔ではあるが。
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「摺針峠」の下りに差し掛かると左側に手すりが見えて樹林の中に入って行く。心細い道であるが、直ぐに舗装道路に戻り、そのまま下って行く。そして、国道にぶつかり左折すると、直ぐに旧街道への入り口があり、なかなかにユニークなモニュメントが立っていた。いよいよ「鳥居本宿」である。
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街道らしい街並みを進むと、茅葺の家が残っており、かなり古いのか屋根には苔がむしていた。
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進んで行くと、屋根の重なりが豪華な家屋が見えてきた。江戸時代から現在に到る300年以上も「赤玉神教丸」という道中薬を作り続けている有川製薬である。右側にある大きな門の前には「明治天皇鳥居本御小休所」の碑がある。本陣、脇本陣があっても、明治天皇はこの有川製薬で休憩したらしい。
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三角形様の変わった形の看板をぶら下げた家があった。「鳥居本宿」は合羽の製造販売でも江戸時代は有名で、その合羽屋の看板である。合羽は和紙を多数重ねて皺くちゃに揉み、柿渋と油を何度も塗り重ねたもので、紙であっても丈夫で雨から身を守るのに有用であった。大正期には17軒の合羽屋があったようだが、昭和17年ころ、滋賀県油紙工業組合は解散し、今はもう合羽を作られることは無くなった。
右方向に向かう道路があったので、覗いてみると近江鉄道の「鳥居本駅」の可愛い駅舎が建っていた。
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少し進むと、また合羽屋の看板が屋根の上に載っていたが「包紙紐荷造材料」と書かれていた。元は合羽屋さんだったのか、それとも鳥居本の伝統であった道中合羽の形を使ったのか・・・。
そして、何故か聖徳太子に縁があり太子堂がある「専宗寺」。
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宿の終わりが近づいたところに、「右彦根道、左中山道・いせ・京」の古い道標が現れた。中山道は彦根を避けて進むが、彦根道は別名「朝鮮人道」と呼ばれ、彦根、安土、近江八幡、野洲間を約10里で結ぶ。一般通行人は彦根を避けさせたが、大事な朝鮮使節団は通行を許容して、彦根城で供応したのであろう。鳥居本宿を過ぎると、中山道は新幹線と名神高速の間を通り、徐々に狭まってくる。新幹線の線路の向こうにある八幡神宮の入り口の常夜燈が建っており、親は野良仕事でもしているのか、女の子が一人で遊んでいた。
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いよいよ新幹線の線路が狭まったところに「小野小町塚」があった。小野小町は全国に20数箇所も、ここが生誕地と主張しているところがあり、秋田県もお米の名前に「秋田こまち」と付けている。
ここで、同じく中山道を歩いているという年配の方に会い、色々と情報交換して楽しかった。とにかく、歩くことが好きだと言っていた。
新幹線のガードを潜って進むと原の町で右側に「原八幡神社」があり、「芭蕉 昼寝塚 祇川 白髪塚」と書かれた真新しい石碑が立っている。神社の方を覗くと綺麗な紅葉が早くも見られた。
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国道と交差して進むと「五百らかん 七丁余」の石碑がある。五百羅漢のある「天寧寺」への道標で、井伊直中(なおなか)が、腰元若竹(わかたけ)の不義をとがめ罰したが、その後相手が自分の息子とわかり、自分の過失を認め、腰元と初孫の菩提を弔うために創建したとのこと。
1Kmほど進んで芹川を大堀橋で渡る。小さな流れだがこの川は琵琶湖に注いでいる。橋を渡ると小さな地蔵堂があり、傍らに30体ほどの石の地蔵が色とりどりな前掛けを着けて並んでいる。
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直ぐに「石清水八幡宮」がある。祀神は16代応神天皇とその母、神功皇后で小さな境内だが、正一位で格式は高い。神社への階段の途中に扇塚がある。井伊藩では能が盛んで江戸から招いた喜多流能の宗家9世の喜多古能(このう)が彦根を去る時に残していった愛用の能の面と扇を弟子達がここに埋め塚を建てたという
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高宮宿をひたすら進んで行くと左側に、高宮神社がある。創建は鎌倉時代末期とのこと。高宮は粗い麻布の主産地で、これを商うため当時は7つの蔵があり、集荷、出荷を年に12回以上行ったという。今でも5つの蔵が残されているとのこと。
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高宮は今でも往時の面影を残しており、多賀神社の門前町として栄え、街道に面して、宿場の中央に大きな鳥居がある。高さ11mもあり、寛永11年(1634年)に建て変えられたものである。ここから多賀神社までは約3Kmで、ここが一の鳥居となっている
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小林家の前に芭蕉の紙子塚があった。紙子とは紙で作った着物で小林家が新しい紙子を芭蕉に贈り、古い紙子を埋めて塚を作ったという。
芭蕉は「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」と詠んだ。
そして、明治天皇も立ち寄った圓照寺。明応7年(1498年)高宮氏の重臣、北川九兵衛が仏堂を建立したのが起源でなかなかに優美な姿を見せている。
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犬上川を渡る無賃橋で、高宮宿は終わりである。この橋は江戸時代から通行料を取らず「無賃橋」と呼ばれて現在に到る。平素は川の水はいたって少ない。
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足利二代将軍の側室が京への帰路、ここで産気づき、男子を出産した。しかしその子は幼くして亡くなり、側室は尼となり、付け人の9名の家臣は生活の糧に竹と藤づるで葛籠を作るようになった。それでここを「葛籠」の地名で呼ぶようになったとのこと。側室の結んだ庵の近くに祀ったのが産の宮である。そして、道路を隔てて向い合わせに建つ了法寺と還相寺。写真は了法寺山門から還相寺を撮ったもの。
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葛籠町を過ぎて松並木を進むと彦根市の終わりで、入り口にあったと同じようなモニュメントがある。荷物を運ぶ人足、旅人、麻の原料を運ぶ女性の像が乗っかている。
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進んで行くと、コスモスの花が畑一面に咲いているところがあった。優しい感じのする秋の花の代表で好ましい。そして、一時旧校舎を建て替える計画に対して、町長と反対派住民が対立して、町長リコールにまで至り、テレビでも報道された「豊郷小学校」があった。設計は神戸女学院大学、関西学院大学などの設計で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズ、施工は竹中工務店が担当し、建設費用、設備費用は当時のお金で合計約60万円で、郷土出身で丸紅商店専務の古川鉄治郎氏が全額まかなったという。60万円は、当時の古川氏の財産の3分の2にあたる。昭和初期の大阪城天守閣の再建費用がが約50万円だったというから大変な金額であったのが分かる。
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豊郷小学校を過ぎると、間の宿石畑である。かつて宿の中心に一里塚があったので「一里塚の郷」と表記した石碑が立っている。八幡神社に小ぶりながら一里塚の復元を試みていた。そして、近江の商家の立派な家屋の街並みが続く。
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伊藤忠商事・丸紅の創業者である伊藤忠兵衛の功績を偲んで建てられた「くれない園」がある。伊藤忠兵衛は安政5年(1858年)17歳で高宮上布の行商から身を起こした。伊藤長兵衛は忠兵衛の兄であり、博多新川端にて「伊藤長兵衛商店」を開業している。長兵衛と忠兵衛の作った商店が合併・分割を繰り返しつつ伊藤忠商事、丸紅商事を形作っていったとのこと。
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伊藤長兵衛が豊郷病院に寄贈した屋敷跡地と伊藤忠兵衛の旧邸がある。
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「金田池」と書かれた井戸のモニュメントがある。かつて50m北で清水が湧いていて旅人の喉を潤したが、枯れてしまったためモニュメントを作り当時を偲んでいるとのこと。
下の右側の写真は「又十屋敷」で、豪商藤野喜兵が、文政(1818?1830年)の頃北海道で漁業や廻船業を営んだときの商号である。その旧宅を、明治百年記念資料館と民芸展示館として整備し公開している。見学したかったが、先を急ぐためスキップした。
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火災に遭い焼失した千樹寺を弘化3年(1846年)に再建して、遷仏供養のとき一般民衆向けの音頭が作られたのが江州音頭の始まりとのこと。江州音頭発祥地の石碑と石の説明板があった。
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石畑の最後は、宇曽川に架かる歌詰橋(うたづめはし)である。この川は昔は水量が多く、水運に大いに利用されており「運槽川」と呼ばれていたのが「宇曽川」になった。
また、天慶3年(940年)、藤原秀郷が平将門を討ち京都に凱旋途中、この橋を渡ろうとした。その時、目を開いた将門の首が追いかけて来たので秀郷は将門の首に対し、歌を一首所望すると歌に詰まった将門の首が橋の上に落ちたという。これで橋が「歌詰橋」と呼ばれるようになったという。
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「歌詰橋」を渡ると「愛知川宿」である。下の左の写真の分岐点で右の道に進むと、直ぐに「愛知川小学校」がある。最近見かけることが無くなった「二宮尊徳」の銅像がここでは健在であった。
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中山道 愛知川宿のアーチが見えてきて、今日はここまでと近江鉄道の愛知川駅に向かう。愛知川駅の駅舎は地域のコミュニティーハウスを兼ねているようで、内部は土産物の販売や地域の芸術家の展示会が開かれていた。30分ほど待って初めて乗る近江鉄道の電車で今日の宿を予約した彦根に向かった。
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2008.09.28

垂井から醒ヶ井・・・(中山道)

本日の万歩計39,140(26.2Km)
泊まったホテルは大垣駅に隣接したアパホテルで、大垣発6:00の電車で垂井駅に着き、中山道に復帰して歩き始めた。朝が早く人通りにもほとんど無い。コーヒーを一杯飲みたいが、もちろん開いているコーヒーショップなど見当たらない。進んで行くと枡形と思われる道路のカーブがあり、続いて十字路の左に大きな鳥居が建っていた。鳥居には「正一位中山金山彦大神」と書かれていた。南宮大社の鳥居であるが、かつては美濃国の一宮であったとのこと。
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鳥居を潜って100mほど進むと、垂井の地名の由来となった「垂井の泉」がある。昔から歌に詠まれて有名であったようで、現在でも歌が多数掲示されており、短冊も用意されていて誰でも投稿できるようになっていた。芭蕉の「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」の句も飾られていた。後の寺院は玉泉禅寺である。
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歩いて行くと、築200年の旅籠「長浜屋」が、今は休憩所になっていた。そして奥の細道の芭蕉が一冬過した本龍寺がある。鐘楼はじめ建物の屋根のカーブが優美である。
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そして、西の見附で垂井宿は終わる。隣接して「八尺地蔵尊」がある。
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続いて「松島稲荷」があり、少し進んで東海道本線の踏切を渡る。
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江戸末期に常盤御前の墓所に建てられた「秋風庵」を明治になって移設して旅人の休憩所とした「日守の茶所」がある。隣には「垂井の一里塚」がある。中山道で志村の一里塚と合わせて2つだけの国指定史跡となっている一里塚である。
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「これより中山道 関が原町」と書かれた道標があった。静かな街道が延々と続く。
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ようやく、関が原の闘いのときに家康の下知で「山内一豊」が後詰の陣を張った場所に達した。ここは松並木が綺麗に残っている。そして、「六部地蔵」である。説明板には「六部とは六十六部の略で厨子を背負って全国の社寺を巡礼して修行する人を指す。「宝暦十一年頃」(1761年)この地で一人の巡礼者が亡くなられたので里人が祠を建てお祀りされたといわれております」とある。
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左手の小高い所に、家康が最初に陣を置いた「桃配山」が見えてきた。壬申の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)に献上された桃を皇子がうまいと喜び、兵士全員に桃を1個づつ配りたいと言い出した。近隣の村々の桃を全て買い上げ配ったところ、兵の士気もあがりその後連戦連勝したと言われているところである。
家康もこの故事を知って最初の陣地にしたのであろうか。そして、ここから関が原の平野が始まるのである。
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関が原宿は国道が通ったからか、街道筋には歴史的な家並みはほとんど無くなっている。バイパスが出来、車の数が減ったのが、せめてもの救いである。脇本陣であった家が、門のみ その面影をのこして建っていた。
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街道から右折して東海道線を跨いで関が原の古戦場を訪ねることにした。ここは、慶長5年9月15日に家康4男 松平忠吉、井伊直政が陣を構え、午前8時、軍監本田忠勝の合図で開戦のため前進を開始したところである。
下の写真は、戦いの後で討ち取った敵の首実検をし、埋めた首塚である。ここは東の首塚で別に西の首塚もある。JRの関ヶ原駅の直ぐ側である。
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北に向かって数100m進むと「桃配山」に陣を設けた家康が、戦況が見えにくいこと、戦況が好転しないことに業を煮やして、前進して最後に陣を置いた場所がある(左の写真)。右の写真は戦いの後で、東軍諸将を集めて、西軍の首実検を行った場所。
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直ぐ横には、歴史民族資料館がある。9時からの開館であり、時刻は8:45であったが、入れてくれた。関が原の合戦での両軍武将の陣の配置、鎧、刀、槍などをはじめ種々な武具が展示されていた。さらに1Kmほど進むと、最終決戦地がある。石田光成の陣の笹尾山からも至近距離である。
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石田光成の陣を張った「笹尾山」である。家康の最終陣より1.5Kmである。低い山であり、階段状の道を通って山頂に登ることが出来る。
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「笹尾山」に登ると、関が原全体が良く眺められる。ここから東軍の陣立てを見ながら兵を進退させたのか。史跡の石碑もあり、大きな案内板も設けられていた。島左近と蒲生氏郷が先鋒であった。
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戦場をざっと見学したので、街道に戻り進むと、しばらくして「西の首塚」があった。霊を慰めるためのお堂が二つ建っている。
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「西の首塚」を過ぎて進むと、中山道は国道21号線と分かれて左に入って行く。少し進むと「不破の関の碑」がある。また、「不破関資料館」がある。「不破の関」は壬申の乱(じんしんのらん:672年)後に、畿内と東国の接点のこの地に築かれたもので、都で天王の崩御などの大きな事件があると、地方に影響が伝播しないよう通行を停止した。また、単なる関所の役目に留まらず、兵も常駐して軍事、警察機構としての役目も持っていた。
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「不破の関」からは急な下り坂で、下りたところに「藤古川」が流れている。壬申の乱(天武元年、672年)の戦場となったところで吉野軍(大海人皇子、後の天武天皇)、と近江軍(大友皇子)が陣を敷いたところである。なお、藤古川は、「関の藤川」とも呼ばれ、歌枕にもなっていた。
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「藤古川」を渡り、坂道を上って行くと、「大谷吉隆」の墓がある。大谷吉継もしくは大谷刑部の方が有名であるが関が原の戦いに際し、吉隆と改名した。吉隆が自害するとき介錯したのが湯浅五助で、その後藤堂仁右衛門に遭遇し首の隠し場所を内密にしてくれるように頼んで討たれ、仁右衛門は家康に聞かれても場所を明かさなかった。そして、後に藤堂家で「大谷吉隆」の墓を建てたのである。
少し進むと、壬申の乱の時水を求めて大海人皇子軍の兵士が矢尻で掘ったという「矢尻の池」があった。立派な柵に囲われていたが、少し地面が窪んでいただけだった。しかし、いままで残っていたとは・・。そして、すぐに国道21号線を横断して300mほど進むと、「黒血川」というすごい名前の川がある。小さな流れだが想像の通り、壬申の乱の激戦地で川が血で黒く染まってこの名が付いた。
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進んで行くと、3つのお堂が並んで建っていた。柿の実が色づき始めているのを見ながら歩いて行き、新幹線のガードをくぐると直ぐに「常盤御前」の墓がある。小さな墓石が幾つか建っている。我が子の義経が鞍馬山を抜け出し東国へ脱出したと聞きここまで追ってきたが、この地で土豪に襲われ非業の最期を遂げたという。それを哀れんで地元の人が塚を築いて葬ったという。藤原院呈子(ふじわらていし)が近衛天皇に嫁ぐおり、供をさせる女房たちを厳選して当時都の中でも評判の美女を1000人選び、それを100人・10人と絞っていった最後の1人、言わば選りすぐりの美人の常磐がここに眠っているのである。
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道はJR東海道線に沿って進むようになり、今須峠に差し掛かる。さほど急な上りも無く静かな道である。下に東海道線のトンネルの入り口が見える。かなり古いトンネルの様相である。
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20分ほどで峠は越えられ、国道21号線を渡ると「今須の一里塚」がある。近年になって修復したものであろうか、美しすぎる。
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今須の街に入ってゆくと、問屋場跡の山崎家が残っている。美濃国十六宿にあった問屋場で当時の姿をそのまま留めているのはここだけだそうだが、立派な家屋である。少し行くと、板塀に説明板付きの常夜燈が建っている。説明板によれば、京都の問屋河内屋が大名の荷物を運ぶ途中で紛失し、金比羅様に願をかけてお祈りした。幸い荷物が出てきたので、感謝してここに常夜灯を寄進したのだという。
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南北朝のころ「二条良基」という公家が「不破の関」が荒れ果て、破れた板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、牛車に乗ってここまで来たが、「不破の関」の屋根が直されたと聞き、引き返した。それで、ここを「車返しの坂」という。「不破の関」の修理は、地元の人達が都から貴人がくるので、荒れ果てているのはまずいから修理したのだという。それにしても、何とも酔狂な御仁がいたものであると思うし、当時の貴族と一般大衆の差異の大きさに驚く。
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「車返しの坂」を過ぎて、国道21号線と東海道線の踏み切りを渡り、左の方に進むと芭蕉の歌碑があり「正月や 美濃と近江や 閏月」とある。これは芭蕉が熱田からの帰りにここで詠んだ句であるが「のざらし紀行」の碑に加えて「奥の細道」と書かれた碑もある。
直ぐに、美濃の国と近江の国の境界線がある。現在は岐阜県と滋賀県の境界であるが、小さな溝を挟んでいるだけである。この辺りは寝物語の里と呼ばれるが、艶めいた話しではなく、昔はこの溝を挟んで両国の番所や旅籠があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われている。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣の宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも「源義経を追ってきた静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられている。
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さらに進むと、道路の右側に楓の木が植えられた「楓並木の道」になっていた。松並木や杉並木はよくあるが、楓並木は珍しい。しかも、楓の木は相当に太く年輪を得たものであった。これだけまとめて太い楓の木を見たのは初めてだ。並木は4?500mほど続き、終わったところに大きく新しい中山道の道標が設置されていた。
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また、JR東海道線と交差して柏原の宿に入って行く。本陣跡は、単なる石碑のみであった。
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宿場町にはよくあることだが、この柏原でも家の前に江戸時代の屋号を表示している。際立って目を引くものが無い宿だが、趣のある古い建物は多く残っている。
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「柏原宿」の終わりに「柏原の一里塚」がある。ここの一里塚も近年に復元したものであるようだ。その後、少し進むと「北畠具行卿」の墓所への案内看板が立っていた。
北畠具行は後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府を倒そうとした正中の変(1324)の中心人物だが、事前に露見して幕府に捕まり、この場所で処刑された。計画に加わっていた日野俊基らは赦免されるが、北畠具行卿が処刑されたのは、最も中心をなしていたとされたからであろう。しかし、日野俊基も2回目に計画したときも露見して鎌倉で処刑され、鎌倉の源氏山に墓所がある。東海道の菊川の宿も参照されたい。明治天皇もこの近くを通りかかったとき、側近のものを墓参に使わしたという。見学しようとしたが草ぼうぼうの道になっており、スキップすることとした。
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直ぐに、旧道への分岐点があり、新しい石の道標が立っていたので、旧道を歩くこととした。
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樹林の中の道を抜けると、新しく大きな石の道標が建っていた。そして、「梓川」沿いの道となって進んで行く。
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名神高速と国道21号線が平行して走っているが、静かなたたずまいの集落を進んで行くと、途中には松並木もある。
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静かな集落も終わりが近づくと、特殊なホテルが何軒か現れて国道を横断して進むことになる。国道を横断して進むと、「中山道」と書かれた大きな石の看板があり、ここから国道を離れて「醒井宿」に入って行く。最初に「八幡神社」があった。
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直ぐに「醒井宿」の枡形があり、古い宿場町の面影を残す街並みが始まる。
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醒井宿の第一湧水点である「居醒(いさめ)の清水」がある。古事記にも記述されている名水である。日本武尊の銅像も建っている。説明板があるので、読んで見ると、「景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅する人々を困らせておりました。そこで天皇は日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。尊は剣を抜いて大蛇を切り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめました。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。」とある。
鈴鹿山脈の北端の霊仙山の地下水流で、今でも枯れることなく湧き出している。
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「居醒の清水」を水源として、街を貫いて綺麗な小川が流れており、水中には梅花藻(ばいかも)が茂っている。20℃以下の清流に住む絶滅危惧種の「ハリヨ」も生息している。少し先には問屋場が完全な形で残っていて、今は醒井宿資料館となっている。
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流れに気をとられがちだが、街並みも趣きがあり、素晴らしい。それにしても綺麗な水の流れる街は癒される気がする。
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二つ目の湧水、「十王水」である。平安時代に浄蔵が開いた泉で浄蔵水と呼ばれていたが、近くに十王堂が有ったので十王水と呼ばれるようになったという。
そして、醒井大橋という小さな石の橋があり、ここで「醒ヶ井駅」の方に進む道と、中山道を進む道に分かれる。
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西行水を見るため、中山道を進む。100mほどで西行水があり、綺麗な広場になっていたが、我が物顔に2台の車が留められているのは腹が立つ。ともかく、三つ目の湧水で、説明板には「西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産した。その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じてこれ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り
 水上は 清き流れの醒井に
   浮世の垢をすすぎてやみん
と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡になった。西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたという。今もこの辺の小字名を児醒井という。
」とある。今日はここまでとして「醒ヶ井駅」に向い、電車で米原駅に着いて新幹線で帰宅の途についた。
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2008.09.27

加納から垂井・・・(中山道)

本日の万歩計52,029(34.9Km)
今年の初秋は雨が多いが、この週末は晴れ時々曇りの予想で中山道の旅に出かけることにした。8:12分に岐阜駅に着き駅前の通りを進んで中山道を歩き始めた。休日の朝で岐阜駅前の通りも閑散としている。
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中山道に復帰して進む。この辺りは秋葉神社が多いようであるが、それ以外には歴史的な匂いは希薄となっている。戦争で街が焼けたこととも関係しているのだろう。
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加納宿の西の見附を過ぎると、中山道はJR東海道線のガードを潜って長良川の南側で「鏡島(かがしま)」という地域に入って行く。鏡島の弘法さんと呼ばれる「乙津寺(おっしんじ)」がある。弘法大師が梅の木で作った錫丈を上下逆であったが地面に突き立てたところ、枝が生じ葉が茂ったという、「弘法大師杖の梅」がある。また、「千手観音立像」、「毘沙門立像」、「韋駄天立像」は国指定重要文化財である由。
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乙津寺の裏側には「長良川」が流れていて堤防への階段には「小紅の渡し」の文字が見える。なんとここでは「舟による渡し」があるのだ。旧街道を歩いていて始めての経験である。県道の一部岐阜県道173号文殊茶屋新田線になっていて、岐阜市が岐阜県に代わり運営している。県道であるから当然無料だ。
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「長良川」の堤防に上がると、遠く金華山と山頂の岐阜城が見える。
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長良川の堤防から見た「河渡宿(ごうどじゅく)」である。昔の面影と思われるものは見ることが出来なかった。しばらく行くと天王川にかかる「慶応橋」を渡る。川は水量が豊かで水は澄んでいる。
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その後も歴史を感じさせるものが無い街を進み、糸貫川に架かる「糸貫橋」を渡る。
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さらに進んで「五六橋」を渡ると、美江寺宿である。「五六橋」の名は江戸を1番と数えたときに美江寺は56番目であることによる。
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道路脇に旧中山道の標識が建っていて、曼珠沙華(彼岸花)の花が一面に咲いていた。朱色の花は毒々しく、朝鮮か中国からの帰化植物である。また、球根にはアルカロイドが含まれ毒性がある。
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樽見線の踏み切りを渡り「美江寺宿」の中心部に入って行く。樽見線は旧国鉄時代には国鉄樽見線であったのが、第三セクターの路線となったとのことで、大垣-樽見間を運行している。そして、重厚な構えの今も現役の酒屋の「布屋」があった。
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「美江寺宿」の名前の由来の「美江寺」は元正天皇が養老3年(719)創建した十一面観音を本尊とした寺院で大いに栄えたが、太田道三が稲葉山城(岐阜城)に移設し、地名のみが残ったのだという。なお、このあたりは海から50Kmなのに海抜10mで、とても平坦である。人口582人の小さな宿場で直ぐに終わってしまう。
「美江寺」は無くなったが、旧中山道が左に直角に曲がるところに「美江神社」があり(左の写真)、奥には元の「美江寺」にあった観音堂のみ再建されている。
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また、曲がり角には本陣跡の石碑が建っていた。本陣の家屋は無くなっていたが、直ぐの場所に庄屋の「和田家」の立派な建物は残っていた。
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400mほど進むと今度は右に直角に曲がる。直ぐに「千手観音堂」がある。そして、犀川を渡る。やはり水量が多く、水が綺麗だ。なお、この辺りは「富有柿」の原産地でこれが全国に広まったという。犀川沿いにも多くの柿畑が見られる。
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「美江寺宿」を過ぎると、田園風景が広がり広々とした感じになる。そして「巣南中」の校門前の道路を跨いだところに、中学校校舎で断ち切った中山道に対する申し訳か、中山道のモニュメントの公園があった。また、中山道の道標が2つ並んで、かつての中山道の道幅を表わしていた。
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やがて、「揖斐川」に架かる「鷺田橋」が見えてくる。橋を渡るために相当に離れた信号まで歩いて道路を横切る必要があった。流石に堂々とした一級河川である。
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「鷺田橋」を渡ると、立派な鐘楼のある「良縁寺」があった。そして、左折して進むと「呂久の渡し跡」に和宮記念公園とも言われる「小簾紅園(おずこうえん)」がある。和宮さまが、「呂久の渡し(呂久は現在の揖斐川)」を舟で渡るとき、舟の舷側に馬渕孫右衛門の庭の紅葉の一枝を立ててあり、これを眺めて「おちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」と歌を詠まれた。そして、昭和の始めに当地の人々の和宮様を記念したものを作りたいという強い希望でこの公園が作られたという。手入れが行き届き、紅葉の木を多く配した公園であった。
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少し進んで、平野井川に架かる「柳瀬橋」を渡ると大垣市に入る。川の堤防下の道を進んで行くと、「右すのまた宿道 左木曽路」の道標が立っていた。堤防に茂る丈の高い草に半分埋もれて文字が見えにくい。もっとも、この道標を頼りに歩く人も居ないであろうが。
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近鉄養老線の踏切を渡る。直ぐ近くに「東赤坂駅」が見える。さらに、1Kmほど進むと「杭瀬川(くいせがわ)」がある。「くぜがわ」とも呼ばれる。672年に天智天皇の太子大友皇子(おおとものみこ)と皇弟大海人皇子(おおあまのみこ)が争った壬申の乱(じんしんのらん)で、大海人皇子軍が黒地川の戦で疲れきった身を、この川で清めつかれを癒した。すなわち苦癒(くいや)せ川と、そして杭瀬川と転化したという。「苦医瀬(くいせ)川」が転じたという説もある。
また、関が原の闘いの節に、家康の率いる大軍に浮き足立つ西軍の士気回復のため石田光成が自分の禄高の半分を与えて召抱えた島左近が戦を仕掛けて大勝したところでもある。東軍中村隊の武将野一色頼母(のいっしきたのも)が戦死したのもこの闘いである。
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赤坂宿の中心部に向かって進んで行くと、良く目立つ「火の見櫓」が見えてくる。今では本来の役目より赤坂宿のシンボルとなっているのだろう。
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そして、赤坂港跡である。今は川筋が変わってしまい、単なるモニュメントになってしまっているが、かつては「揖斐川」がここを流れていて、明治になっても近くの金生山(きんしょうざん)で採れる石灰の積み出しで出入りする船は500隻にも上ったとのこと。少し先には本陣跡がある。和宮様も宿泊した本陣であったとのこと。
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赤坂宿の中心が近づくと、古い街並みが残っている。本当に街道らしい家並みで街道歩きの気分が高揚してくる。
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脇本陣跡の隣に「宿場の駅 五七処」がある(左の写真)。赤坂宿が江戸日本橋から57番目にあることから五七処の名を付けた。特産品を販売する傍ら赤坂の情報提供を行っている。赤坂宿西外れには兜塚がある。関ヶ原合戦の前日、島左近の仕組んだ杭瀬川の戦いで東軍中村隊の武将野一色頼母(のいっしきたのも)が討死し、その死体と鎧兜を埋めたと伝わっている。
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兜塚を過ぎ、彼岸花に彩られた、西濃鉄道昼飯線の廃線跡を越えると赤坂宿は終わりである。線路向こうには石灰の採掘で山肌を露わにした金生山が覗いている。また、昼飯(ひるい)の前方後円墳がある。
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昼飯(ひるい)の地名であるが、昔仏像を善光寺に運ぶおり、ここで昼飯をとったことによるとのこと。その後「ひるめし」では上品さに欠けるとして、「ひるいい」と呼ばれるようになり、最後は「ひるい」と呼ばれるようになったとのこと。その後JR東海道線のガード下を潜って進むと、青墓と呼ばれる地域に入ってくる。やがて照手姫水汲井戸の道標があり、中山道から外れて左の道路に入って訪れた。伝説では、武蔵・相模の郡代の娘だった照手姫は、愛する小栗判官を殺されたうえに青墓の長者へ売られてしまう不運な女性。遊女として働くことを拒んだため、一度に百頭の馬に餌をやれとか、籠で水を汲んで来い等と無理な仕事を言いつけられこき使われたという。その照手姫が籠で水を汲んだと伝わるのがこの井戸である。
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青墓を過ぎると次の地名は青野で、美濃国分寺があったところである。国分寺跡は、広々とした公園となっている。そして、青野の一里塚跡。一里塚は壊され、常夜燈が建っていた。
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そして、「喜久一九稲荷神社」を過ぎると、相川に架かる「相川橋」を渡る。
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大きな観光案内版があり、この案内を良く見て垂井駅に向かった。新しく綺麗な駅であった。JR東海道線で大垣に戻り宿泊した。
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2008.09.14

鵜沼から加納宿・・・(中山道)

本日の万歩計33,430(22.4Km)
昨日は2ケ月ぶりの歩行で足が痛いと思っていて、ホテルに入ってソックスを脱いで見たら3個もマメが出来ていた。右が2箇所、左が1箇所である。マメ用の絆創膏で手当てをしたが、明日の歩行は無理は出来ないなぁーと思いながらベッドに入る。
早く寝たので6時に起床し、7時に朝食をとり早速出発する。足の痛みはあるが、なんとか歩ける。名鉄で「苧ヶ瀬駅(おがせえき)」に戻り7:40から歩き始める。
ただひたすら、国道を歩く、歴史的な遺構もない。殺風景な感じのJRの「各務ヶ原駅」が国道に接していた。この辺りの交通の主役は完全に自動車であることを感じさせる国道の風景である。高山本線といえども無人駅とならざるを得ないのもうなずける。
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国道歩きは騒音が大きく嫌で疲れるので、早く逃れたいと念じながらひたすらノルマをこなす感じで歩き続ける。二十軒、三柿野駅を過ぎてようやく国道から県道に入って行く。少しほっとする。六軒を過ぎて、各務原市役所前駅が近づき、立派な各務ヶ原市役所の前を通る。街の状況に比して立派過ぎる建物のようにも思える。
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市民公園で少し休憩して、那加橋を渡る。桜の季節は見事であろう。そして、なか21モールと書かれた通りに入って行く。通り過ぎて県道とも分かれ、さらに進むとようやく街道らしい家並みも見られるようになる。間の宿の「新加納」に入ってきたのである。
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新加納一里塚跡に新加納立場の看板があった。街道らしい家並みも続く。
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高田橋、手力、切通駅を過ぎると「小木曽薬局」という古風な薬屋があった。最近は個人商店がどんどん姿を消してゆくなかで残っているのは珍しい。もっとも、営業している気配はなかったのだが。
そして、細畑駅の近くを通り抜けると「細畑の一里塚」が立派に残っていた。街の中で残っているのは珍しい。
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少し進むと、伊勢街道との追分があり、「地蔵菩薩堂」がある。道標石には伊勢、名古屋ちかみち11里、西京道 加納宿18丁と書かれている。そして、由緒ありそうな立派な家が建っていた。
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暑さが増してきて、アイスコーヒーでも飲もうと喫茶店に入った。時計を見ると11:30で食事をしている人もいる。それではと、食事もしてゆくことにした。
そして、JR高山線を潜り、名鉄の踏切を渡って進むと加納宿の東番所跡に到着した。
さらに進むと「専福寺」がある。このお寺には戦国時代の文書が多く保存されていて、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、池田輝政制札状の3通が岐阜市の重要文化財に指定されていて、戦国時代の情勢を知る重要な手がかりという。
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何度も直角に曲がる街道を進んで行くと「加納城大手門跡」があり、ここでも直角に曲がって進むと、本陣跡の石碑があった。脇本陣跡の石碑もあったが、後ろの家は門構えであっても脇本陣とは関係がないのだろう。
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少しお昼を過ぎた時刻に岐阜駅まで来たが、足のマメが痛い。しかし、歩けないことは無い。何とか進むことも考えたが、せっかく岐阜に来たのだから、金華山に上り、岐阜城に行ってみたい。もう二度と来ることもないとも思い、本日の中山道歩きはここでやめることとした。
岐阜駅のコインロッカーにリュックを放り込み、バスで岐阜公園までやって来た。
美しい噴水が迎えてくれ山の上に岐阜城が小さく見える。岐阜城は斉藤道三が土岐頼芸(とさよりあき)に賭けで勝って手に入れた側室の深芳野(みよしの)の生んだ子(実は頼芸の子)の義龍の居城であったが、織田信長が落として、新たに縄張りして新城を築き岐阜城と名付けたものである。

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岐阜公園内には、板垣退助の銅像と遭難碑、織田信長の居住跡などもある。

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そして、ケーブルカーで山頂に上る。ケーブルカーを下りて、天守閣には7分ほどさらに上る必要がある。やはり展望はすばらしい。城の立地条件としても素晴らしかったであろうが、信長は商業地としても適した安土に新たに城を築くことになる。
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やはり、2ケ月のブランクは厳しかった。しかし、金華山にも登ることが出来、満足してJR東海道線で岐阜駅から名古屋駅に向い、新幹線で帰宅した。


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