2012.05.23

渋民から摺糠(奥中山高原駅)・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計44,027(28.6Km)

渋民から摺糠(奥中山高原駅)の歩行ルート

「竹乃家」で目覚め朝食を済ませて、7時に民宿を出発した。今日は、上空に冷たい空気がやってきて、にわか雨も予想されている。気温は寒くはないが、かなり低い。しばらくは国道4号線を進むことになる。
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3Kmほど進むと、「好摩駅」への入り口の交差点がある。この好摩駅は啄木が東京に旅立った駅である。その少し先には、右側に新塚の一里塚があった。岩手県指定文化財新塚一里塚である。
ふと見ると、現在の気温は11℃であった。5月23日としては低い気温である。止まると寒いが、歩いているとちょうど良い感じであった。
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500mほど進んで、街道は国道から右に分かれる。車の騒音から逃れられやれやれである。
直ぐに、左手に大きな石塔が並んでいた。小雨が降ってきたが、ウインドウブレーカーを着ていて傘をささずに歩いて行く。
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進んで行くと、「昔、このあたりに飛脚便(江戸時代)中継点があった」と手書きされた立て札が立っていた。教育委員会が標柱を立てることに期待したい。
そして、再び国道と合流すると直ぐに、祠があり中に地蔵尊、庚申塔があった。庚申塔には、寛延4年(1751)と刻まれていた。
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進むと、巻堀地区に入って行く。国道左の民家の庭に「明治天皇駐蹕之處」と書かれた碑が立っていた。その先の右側には、巻堀神社の鳥居が見えてきた。
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鳥居をくぐって進むと、女陰と男根をかたどった手水鉢がある。巻堀神社は、長禄3年(1459)創建の由緒ある神社で、祀神は伊邪那岐命・猿田彦命である。慶応2年(1866)に火災に遭い、焼失したが、その後、明治3年(1870)現在の巻堀神社に改称され、巻堀・馬場・永井三村の村社に官許された。ご神体は高さ60Cmほどの金勢大明神(男性のシンボル)である。古くから、縁結び・安産の守護神として信仰を集めている。なお、無明舎出版の奥州街道には、ユニークな縁起伝承が紹介されている。
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進んで次の信号手前の左側に「一字一石一礼供養塔」がある。江戸時代は、元禄、宝暦、天明、天保年間に大飢饉があり、大勢の人が餓死、病死したが、これらの死者を弔うため岩手町川口の明円寺14代住職の実秀和尚が、基底部の土中に法華経典を1つの石に1字づつ書写した小石を多数埋め安永7年(1778)に供養塔を建立したものである。
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1.5Kmほど進むと、盛岡市から岩手郡岩手町になる。直ぐの右側に「二ツ森一里塚跡」の標柱が立っていた。標柱の文字が消えそうだ、ここも教育委員会の奮起を期待したい。
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ここで、旧道は国道から右に分かれて進む。県道158号線である。進むと、左手に岩手町働く婦人の家があり、銅像がみえたので近寄ってみると、「女優・園井恵子」の名が書かれていた。川口小学校3年生ころから夢見た宝塚音楽歌劇学校に入学し、その後大女優への道を歩み始めたが、戦時中、広島に慰問巡演中、昭和20年8月6日原爆の被害にあって、一旦神戸の知人宅に逃れ、母宛の手紙を書き、これが絶筆となって、8月21日、32歳の生涯を閉じるとある。なんとも、不幸なことであった。
その先の右側には、長い板塀の広い屋敷が目に付いた。旧家なのであろう。
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川口町の中心に入って行く。通り抜けて進み、町の出口を過ぎ古舘川を渡ると右手に川口城跡がある。説明板によれば、城主は「川村四郎秀清」で文治5年(1189)頼朝公より岩手郡の内下給、川口古舘に居住、命により在名をに改むとあり、川口氏の祖で子孫の居城である、と記されていた。近世では、南部氏より領地安堵され、九戸の乱にも参陣している。その後、川口与十郎秀寛の代になり、寛文5年(665)八戸南部藩主直房公に従い八戸に移り四百石を賜り、後に家老となる、と記されていた。
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直ぐに、IGRいわて銀河鉄道の陸橋を渡り、右折する。300mほど先には左手に「御小休之趾」の大きな碑が立っていた。明治9年と14年の巡幸の際にお休みになったことを記念して大正4年に建立されたとのこと。
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先で、国道4号線に合流して進むと、丹藤川を渡る。北上川の支流であるが、IGRいわて銀河鉄道の鉄橋が架かるが、徐々に美しい流れを見せるようになってきた。この先で、右折して丹藤街道踏切を渡って進む。
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進む道が2つに分岐していて「芦田内一里塚入口」と書かれた白い標柱が立っていて標柱に従い左に進むと、細い流れにぶつかり行き止まりであった。流れの向こうに、こんもりしたふくらみが見え、これが一里塚かと思ったがはっきりしない。
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さて、向こう側に渡りたいと思い、強引に流れの下流方向に少し進むと、飛び石が見えたので、何とか川べりまで降りて、渡河を試みた。何とか渡れると見たのだが、左足だけ流れに足首まで突っ込んでしまった。渡ると、芦田内・番屋・跡地の標柱が立っていた。ここで、リュックからビニール袋を取り出し、小雨に濡れた草むらに敷き、その上に腰を下ろして濡れたソックスを履き替えた。何とか、細い橋でも架けてもらえないものだろうかとも思った。
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田圃の中の道を進み、芦田内踏切を渡る。国道を1.5Kmほど進むと沼宮内南の信号機があり、国道を左に分けて、沼宮内駅への道を進む。
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分岐点から、1Kmほど進むと、いわて沼宮内駅がある。IGRいわて銀河鉄道と東北新幹線の駅である。ここで朝から無性に飲みたいと思っていたコーヒーを飲み、一休みすることができた。
一息入れ進むと、街道は右折して陸橋を渡る。陸橋からは、これから歩く沼宮内の町並みが望まれる。
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沼宮内の町は、どことなく古い宿場の雰囲気を感じさせられる町並みが続き、その古い町並みに1908年開業で老舗の「上路旅館」があった。しかし、看板も外されており、営業を停止したように見える。通りかかった老婦人に聞いたら、良い旅館だったがホッケーの試合があるときだけ開くようになったのではと、おっしゃっていた。
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「上路旅館」を過ぎると、急に整備され町並みとなり、銀行なども軒を並べている町となる。
500mほど進んで右折して沼宮内小学校へと進むと、沼宮内尋常高等小学校の石碑と沼宮内代官所跡の説明板が立っていた。ここは、慶安4年(1651)から明治2年(1869)まで南部藩の代官所が置かれた場所で、半年交代の代官が2人、下役2人、物書2人の他、牛馬役、馬肝入、検断(警察事務)、同心数人がおかれていたとのこと。
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代官所跡の説明板を過ぎ、その先で左折して進むと沼福寺があり、その境内に明治天皇御料馬「瀧澤号」の墓がある。明治14年の明治天皇東北巡幸の折、御⾺が沼宮内駅付近で倒れ、短い間に亡くなり、当時の県知事⽯井省⼀郎の命で⼿厚く葬ったという。
街道に復帰して進むと直ぐに北上川に行き当たる。北上川もこの辺りに来ると、とても大河とは言えず、並な小川に見える。ここで、川に架かる橋を渡らず手前で右折して進む。
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右折して川沿いに進むと、直ぐに右側に大きな石塔群があった。奥には金比羅宮がある。
しばらく、旧道を進んで、国道4号線に合流し北上川を渡ると、向こうにライオンズクラブが建てた「岩手町北緯40°線」のモニュメントが見えてきた。
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やっと右手に「御堂駅」が見えてきた。今日はここまでと思っていたが、まだ午後1時である。進むことにした。700mほど進むと、右側に地蔵尊と念仏供養塔と刻まれた石塔が建っていた。
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地蔵尊より、2Kmも歩いたであろうか、ようやく前方に「北上川源流公園」の大きな看板が見えてきて、右の旧道に入って行く。しばらく北上川に沿う道となり、その後上り坂となる。
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坂道を上り詰めると、道標が立っていた。御堂新田の滝も訪れて見たいが、2Kmもあると往復で1時間もかかるので諦め、左のより急となった坂道を上って行く。
上って行くと、右側に「岩手町 川の駅」と名づけられた親水公園があり、左側には御堂観世音がある。
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御堂観音は、正式には「天台宗北上山新通法寺正覚院」で、寺伝によれば大同2年(807)坂上田村麻呂が立木十一面観音を自ら刻んで安置して草創したといわれ、また八幡太郎義家が前九年の役の際にこの地に仏堂を建立し観音を安置したと伝えられている。この地が北上川の源にあたり、清水が湧出しているところから、古く人々が清水を守る神々を祀り、そこに仏堂が建立されて、観音像が安置されたものと思われる。平安時代に蝦夷地の開拓に際して、天台宗の僧侶などが下って開いたものと思われ、平安時代にはすでに堂が建てられ、堂守が住んでいた模様である。宝暦8年(1758)、この堂が焼失すると、八幡太郎義家に由緒のある堂と言うことで、源氏の流れの藩主が復興を作事奉行に命じて行わしめている。しかし、その堂も昭和43年(1968)の雷火により焼失し、現在の堂は昭和45年(1970)に再建されたものである。
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境内には、「明治天皇叡覧之地」と書かれた石碑があり、また枯れているが、樹齢1,200年といわれる杉の大木がある。
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本堂右奥には「弓弭(ゆはず)の泉」があり、天喜5年(1057)前九年の役で源頼義、義家父子がこの地に進軍した時に、義家が矢を放った所を弓の端で堀り出すと清水がこんこんと湧き出し、猛暑にあえぐ兵の喉を潤したといわれている。まさにその場所がここで、岩の隙間から滲みだすように湧き出し、北上川の源流として現在でも健在である。
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御堂観音を後にして、坂道を上ると白樺も見られるようになり、御堂・馬羽松(みどうまはまつ)一里塚がある。
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一里塚を過ぎると、林が途絶えて大きく開けてくる。酪農の牧草地のようである。そして、進むと「擦糠(すりぬか)」の地名の標柱が立っていた。
「芦田内一里塚入口」のところで濡れた足で十分に乾かす間もなくソックスを履いたのが影響したのか、左足にマメができたようであること、また15:06分になっていたので、今日はここまでとして「奥中山高原駅」に向かうこととした。2Km強の道のりである。
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駅に着いたのが15:35分で次の盛岡行きの電車は16:09分であった。
徐々に集まってきた乗客のほとんどは地元の高校生のようであった。また、5月23日でも待合室にはストーブが燃やされていた。
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マメができて、最後はかなり辛い歩行であったが、盛岡駅前のホテルで宿泊して英気を養い明日に備えることとなった。


2012.05.22

盛岡から渋民・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計39,623(25.8Km)

昨日は金環日食を見て、今日から2泊して3日の歩行を計画して、「はやて13号」で盛岡に9:22分に到着した。盛岡駅を9:30分に出発して歩き始めたが、今日の開運橋の下を流れる北上川の水は、青く澄んでいた。開運橋は、明治23年の盛岡駅開業に伴い、当時の知事石井省一郎が、 私費で完成させたもので、翌年市が買収するまでは、通行1回1銭の橋銭が取られていた。 現在のアーチ型の鉄橋は昭和28年に架けられたものである。
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開運橋から南部氏の居城であった、盛岡城の跡地の盛岡城址公園に向かう。
公園下の交差点から坂道を上って行くと、本丸跡には南部家第42代当主の南部利祥(なんぶとしなが)公の騎乗銅像の台座のみが残っている。日露戦争が勃発し明治38年(1905)2月に中尉に進級し、近衛騎兵第一中隊第三小隊の小隊長を命じられ、最前線で指揮を執ったが、3月4日井口嶺の戦いで銃弾を浴び享年23で戦死した。後日、旧藩士らにより銅像が建立されたが、太平洋戦争で金属供出で撤去され台座のみ残ることとなった。
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本丸と二の丸の間には空堀があり、屋根のある御廊下橋が架かっていたが、現在では赤い橋が架けられている。二の丸に進むと、石川啄木生誕70年を記念して建立したの歌碑が立っている。歌碑の文字は金田一京助博士の書とのこと。
少年時代の石川啄木が学校の窓から逃げ出し、文学書、哲学書を読み、昼寝の夢を結んだ不来方城(こずかたじょう)二の丸がこの地だったのである。
不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心  (一握の砂)
なお、不来方(こずかた)は盛岡市を指す呼び名で、 南部氏による開府当時、居城名自体も「不来方城」であり、この時、都市名として「盛岡」という地名は存在しなかった。
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二の丸から三の丸へは、緩やかな下りで、三ノ丸から淡路丸・御台所屋敷に抜ける門跡の脇には、天然の巨石が地表に露出していて、それを避けるかのように石垣が組まれている。
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三の丸からまた、緩やかな坂を下って、右に進むと盛岡藩の初代信直の他、藩祖光行、二代利直、十一代利敬の4人の藩主が祀られている桜神社がある。
本殿背後には大きな奇岩が鎮座し、案内板によると「盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ2丈ばかり突出した大石が出てきて、この場所が城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後広く信仰され、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されている」とある。
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桜神社を最後に、盛岡城址公園を後にして進むと、元南部藩の家老であった北家の屋敷跡に盛岡地方裁判所があり、その前庭には盛岡のお国自慢の石割桜がある。約370年前落雷によって石が割れ、その割れ目に桜の種が落ち込んで生育したといい、また、一説には石のひびに桜の種が落ちこんで生育につれ石を割ったという。石は花崗岩で周囲が21m、桜はシロヒガン桜(エドヒガン)で樹齢370?380年と推定される。現在幹の周囲は4.6m、樹高10.8mである。
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次に、五百羅漢で有名な報恩寺に向かった。この寺は、貞治元年(1362)南部守行の開基、通山長徹の開山により、応永元年(1394)に南部守行によって陸奥国三戸郡に創建されたと伝えられる。慶長6年(1601)南部家27代南部利直の時、盛岡に移るに当たりこの寺も現在地に移された。荘厳な山門を持つ曹洞宗の寺院である。
morioka_13.jpg広大な座禅堂には五百羅漢(ごひゃくらかん)があり、報恩寺代17世和尚が、 大願主として造立、4年後に完成したことが分かっている。木彫りで499体が現存し、昭和41年(1966)に盛岡市指定文化財となった。石造りで屋外の五百羅漢は、いくつか見た経験があるが、屋内で木造は初めてであった。
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報恩寺から、岩手県の名前の由来となったと言われる「鬼の手形石」を見るため、三石神社に向かった。名刹のお寺が多い中で閑散とした印象の神社である。
伝説によると、昔この地方に住む羅刹(らせつ)という鬼が、住民を悩まし、旅人を脅していたので、人々が三ツ石神社お祈りをしたところ、鬼は捕らえられ境内にある大きな石に縛り付けられた。鬼は「もう二度と悪さはしないし、二度とこの里にやってこない」と誓ったので、約束の印として、三ツ石に手形を押させて逃がしてやった。この岩に手形を押したことから県名の岩手の名が生まれ、この地方を「不来方(こずかた)」と呼ばれるようになったとのこと。
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福岡市街で、だいぶ時間を費やした。11時になり、ようやく街道に復帰して進む。しかし、旧街道は、賑やかで華やかな通りとは趣を異にし、多少寂れた印象を受ける。400mほど進むと、左側に四ツ谷地蔵がある。「田中の地蔵さん」の名で親しまれている四ツ家の地蔵尊は,5代藩主南部行信の母堂の遺骸を荼毘(だび)に付した火屋(ほや)の跡に建てられたもので,以前は東禅寺門前の田圃の中にあったことに由来する。現在地に遷座されたのは,大正元年(1912)である。
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四ツ谷地蔵を過ぎると、直ぐに「山田線」の踏切を渡る。山田線は盛岡から宮古駅を経由し釜石駅までを結ぶ東JR東日本の鉄道路線である。
NHK前で盛岡バイパスを地下通路で渡り、市道上田深沢線を進むと緑が丘地区で、ショッピングセンターの「アネックスカワトク」の前に上田一里塚がある。進行方向に向かって左側のみだが、立派に保存されている。また、ところどころに街道の名残の形の良い松の木も残っていた。
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左手方向に「岩手山」が見えるようになってきた。東黒石野地区に入って進み、左側のフェンスの切れ目から入って、松園観音の方に向かう。
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急な上り坂の途中に、墓地を併設した松園観音と呼ばれているお堂がある。
壱万人で観音様を刻みましょうと書かれた、ポスター様の紙が貼られており、お堂の側壁にまで仏像が並んでいた。
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松園観音前の坂を上り詰めて、下りに差し掛かると「県立博物館」があり、その駐車場に「明治天皇駐蹕碑」が建っていた。博物館へのアプローチ階段も綺麗で入って行きたい気分にさせられるが、時間に余裕がなく先に進む。
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県立博物館を過ぎて、進むと「小野松一里塚」がある。塚樹は失われているが、道の両側に塚が残っている。
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一里塚を過ぎると直ぐに、四十四田ダムに架かる橋があるが、手前で右の細い道路方に進む。
小野松観世音の小さなお堂があり、道は右にカーブして進んで行く。少し先に「おの松かんのん清水」と石碑が立つ水場があり、冷たい水が湧き出していた。かつては、旅人の喉を潤したことであろう。
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このあたりから、四十四田ダムの湖面が望まれるようになり、岩手山も姿を見せ続ける歩行が続くことになる。
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進んで観音橋を渡り、県道16号線にぶつかり、左折して延々と続く16号線を進んで行くと赤く塗られた「岩姫橋」がある。この橋は渡らず、手前で右折して県道16号線と別れ進む。1Kmほど進むと「岩洞第二発電所」がある。
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発電所を過ぎると、ダムの貯水量が多いと湖面に飲み込まれてしまう笹平一里塚がある。今年は雨が多く、貯水量が多く一里塚には近づけないと思っていたが、貯水量にかかわらず道路工事のため、工事中は立ち寄れないとの記述がなされた紙が標柱に貼られていた。
この辺りから、北上川から離れて行くが、門前寺地区に入ると、田植えのために水を張られた田圃が続き、「岩手山」が何にも遮られず見えるようになった。
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門前寺地区を過ぎると次は渋民地区である。渋民バイパスをくぐって進むと、渋民一里塚跡がある。庭の土を盛り上げて、多少なりとも雰囲気を出す工夫が見られた。
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国道4号線に合流すると、直ぐに「愛宕清水」があり、今も冷たい水が湧き出していた。
その先には、愛宕神社の鳥居が建っていた。
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愛宕清水から500mほど進むと、啄木記念館がある。東京からは555Kmである。
石川啄木の人となり、文学についての顕彰と資料収集、保存、情報提供を目的に昭和45年(1970)に開館をし、その後、石川啄木生誕100年を機に新記念館建設運動が高まり、玉山村民、全国の啄木愛好者、岩手県、玉山村の協力により、昭和61年(1986)5月に現在の新館がオープンしたとのこと。入場料を払って入ると、啄木の人形が迎えてくれる。中には、啄木の生い立ち記や彼の歌が所狭しと展示されていた。
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記念館の横の庭には、啄木が代用教員として渋民小学校で教鞭をとっていたのを題材とした銅像のほか、当時の小学校の建物、啄木が間借りしていた農家などが移設されていた。
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啄木記念館を後にして進むと、道路の右側に大きな商業施設のイオン・スーパーセンターがあった。さらに、進むとコーヒーショップのよく目立つ看板が見えてきた。
今日の歩行はここまでである。この左に今日の宿舎の「竹乃家」がある。
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2012.05.08

日詰から盛岡・・・(旧奥州街道)

日詰から盛岡の歩行ルート

天気予報によれば、今日は午後から俄か雨になるとのこと。
午前中に可能な限り距離を稼ぎたいと思うが、ホテルの朝食は6:45からで、思うに任せない。
ともかく、ホテルの窓から盛岡の駅前付近を撮影してみた。流石に大きな街である。
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朝食を済ませ、盛岡駅に向かい7:31の日詰行きの電車に乗り紫波中央駅を降りると7:55であった。駅で降りる乗客は、ほとんどが通学の高校生である。
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昨日、駅に向かったのと逆にたどり、紫波中央駅入り口の交差点で左折すると、勝源寺がある。 勝源寺は慶長16年(1611)に開基した曹洞宗の寺院で、山門(楼門)は一間一戸の楼門で屋根が入母屋瓦葺きとなっている。本堂裏にあるカシワは「逆さカシワ」と呼ばれ、高さ20mだが直立しておらず、地面際で4本に枝分かれして地面を這うようにして生えている。推定年齢300年、枝張東西21.8m、南北27.7m、根元周囲5m、樹高12.2mで国指定天然記念物である。
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カシワは、概ね直立する木であるが、ここのような樹形は極めて珍しい。
先に進むと、城山公園の標識がある。城山公園は、町のほぼ中心にある小高い丘で、中世期には斯波氏の居城高水寺城が築かれたところである。
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国道から城山公園に向かう交差点で、左前方の民家の庭先に「二日町一里塚」の標柱が立っていた。江戸から135番目の一里塚である。
また、城山方向に向かって左側に大元帥陛下御幸新道と書かれた石碑が立っていた。昭和3年陸軍特別大演習の時に整備された道とのことである。
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300mほど進み、城山公園と反対方向に左折して進む。桜の花が終わり、リンゴの花が咲き始めている。しばらくは、のどかな道が続く。二日町の集落である。道路右側に旧家の風格の家が建っていた。この付近には、日詰長岡通代官所役屋(御仮屋)」があり、本陣としても利用されたという。
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進むと、右側に高水寺がある。平安時代の神護景雲2年(768)に称徳天皇によって創建された寺で、もとは一山40余坊が栄えていたといわれるが、戦火などによって衰え、後に頼朝軍が陣ヶ岡(現蜂神社付近)に布陣した時は16坊のみであったという。昭和35年(1960)に岩手県指定有形文化財に指定された「木造十一面観音立像」が保存されている。藤原末期の作と推定されるとのこと。階段を上ると、白壁の観音堂が建っていて、その奥の建物には高水寺の扁額が架かっているが、斯波氏が滅びて後、高水寺は他の5つの寺院とともに盛岡に移されたので、実際は片山寺の資材を使って作った観音堂とのことである。
siwa_13.jpgsiwa_14.jpgsiwa_15.jpg高水寺の隣には、走湯神社がある。高水寺の鎮守として、源頼朝によって文治5年(1189)に走湯権現を勧請した。走湯権現の御神体は熱海温泉の湧口の走湯(はしりゆ)で、ここの走湯神社は、もとは走湯山高水寺とか大槻観音ともよんで、神仏習合の神社であったが、慶応4年5月16日大政官達により神号、神体から仏教色を一掃することになり、走湯権現と称していたのを走湯神社と改称し、御祭神を天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に差し替えたとのこと。
走湯神社を出て進むと、木宮神社(きのみやじんじゃ)がある。桓武天皇の延暦年間(782-806)に坂上田村麻呂、蝦夷征伐東奥開拓のため下向され、山地に志和城を築き、城内の鎮守として伊豆国田方郡熱海鎮座の来官神社を御分霊勧請したと伝えられる。境内の欅の巨木は、紫波町指定天然記念物である。
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街道は丁字路に突き当たり、左折して国道4号線の方向に進む。国道にぶつかる100m手前で、右折して斜めに国道に向かい、古館駅入り口の交差点の手前で、再度国道から離れて右前方の静かな向畑の集落に進んで行く。
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進むと、蟠龍寺がある。承和元年(834)にもと高水寺第五代の伝法子法宥阿闍梨が祝融山(後改めて和融山と称す)をこの地に創立したが、文治年間(1185?90)に兵火で荒廃した。 1654年に紫波町栃内伝達和尚が北上川で流され、とどが淵の渦に巻き込まれたが、老人に助けられた。このとき、小さな社の中に老人に似た木像があり額には「土倉稲荷明神」とあったので、和尚は蟠龍寺を建立し、祀ったという。 なお、蟠龍はとぐろを巻いた龍を意味する。
先に進むと、「月の輪」の看板を掲げた、横澤酒造店がある。酒造業を創業したのは1886年で、新酒鑑評会で金賞の栄誉に輝く「大吟醸月の輪」を始めとして種々の日本酒を製造販売している。
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酒造・月の輪を過ぎて、五内川橋を渡り国道4号線に合流する。その先で、岩崎川に架かる三枚橋で紫波町は終わり、これより先は紫波郡矢巾町となる。
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真っ直ぐに北上する国道4号線の歩行が相当な区間続くが、西の方に見える山並みが盛岡に近づきつつあることを示している。
国道の右側には、徳田農協発祥の地の新しい石碑も立っていた。大正11年6月21日に谷村千代太氏が有志とともに徳田村産業組合を創設したことが、最初の始まりとのことである。
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次には「間野々(あいのの)一里塚」跡の標柱と看板か立っていた。江戸から136番目の一里塚である。1Kmほど先の信号機のある交差点の右方に徳田神社があり、境内には水準点もあったが、神社の来歴は不明である。
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1Kmほど進むと「徳丹城跡」の石碑がある。律令時代の政庁跡である。
征夷大将軍坂上田村麻呂は、延暦21年(802)に北上川中流域に、胆沢城(奥州市水沢)を築き、翌年その北方に志波城(盛岡)が築いたが、水害を理由に弘仁2年(811)、後任の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の建議により南方に移転した城柵である。
造営されたものの9世紀中頃には放棄されており、その後城柵は造営されていないことから律令体制最後の城柵と言われている。
外郭はおよそ、355m四方で、そのなかの政庁は77m四方の板塀で囲まれていた。胆沢城に比べれば規模は小さいが、それでも広大な敷地と言える。
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徳丹城の広大な敷地の北の部分に徳田小学校があり、徳丹城は国指定史跡であることから2020年までに小学校を移転する計画である。
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進むと、矢幅駅入り口の交差点に差し掛かった。通り過ぎて進むと、高田藤澤鎮守の稲荷神社が左に現れた。由来記によると、康平5年(1062)前九年の役の頃、征夷大将軍源頼義が、蝦夷征伐の戦場跡であったこの地・狄森(えぞもり)に鎮守のために熊野社を勧請した。 
元亀3年(1572)の頃、高田氏が屋敷内に棲む白狐を信仰していたが、しばらくして狐は北上川に近い石突に引っ越した。狐は五穀豊穣の種物の神である稲荷神の召使であるので、周辺の人々により稲荷社として祀られ崇拝されるようになったが、水害を避けるべく宝永4年(1707)に石突より当地へ遷宮したとのこと。
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境内には、大きな石塔が幾つか立てられていた。
そして、その先で見前川(みるまえがわ)を渡る。橋の名前も見前橋である。
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両側にお店も立ち並び賑やかな国道を3kmほどひたすら歩き、盛岡市三本柳から津志田に入ると、左側に大黒神社(右側)と八坂神社(左側)がある。由緒によると大国神社は文化7年(1810)盛岡藩主南部利敬公が津志田の総鎮守として創建したもので、御祭神は大穴牟遅之命(おおなむちのみこと)で、八坂社は素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る、とある。当時は遊郭の傍で賑わいを見せていたが、今は住宅地の一角に静かな佇まいを見せる神社に変貌している。
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大黒神社を過ぎて1Kmほど進むと、川久保の分岐点でようやく長い国道歩きから離れられる。
分岐点に明治天皇小次遺跡があるとのことであったが、見当たらなかった。
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分岐点から進むと、右に日蓮正宗の感恩寺がある。この寺は、嘉永5年(1852)10月12日に下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)、の遺児英穏院日淳贈上人が願主となり、相馬大作事件で処刑された父の菩提を弔うために建立した寺で、南部藩より建立を特別に許可されたものである。
相馬大作事件とは、盛岡藩士・下斗米秀之進を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた弘前藩主・津軽寧親(つがるやすちか)を襲った暗殺未遂事件で、後に幕府の役人に捕らえられ小塚原で獄門の刑となった事件である。相馬大作は、捕縛を逃れて江戸市中に潜むために名乗った名前である。
そして、道路を隔てた反対側には、小鷹刑場跡がある。江戸時代の300年にわたり、南部藩が小鷹の御仕置場と称して罪人を処刑した場所である。
天保7年(1837)、法華寺観明院日誠上人が、刑場で断罪に処せられた亡霊の供養鎮魂のため、藩庁に願い出て私財を投じて建立したお題目の供養塔が立っている。
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仙北町駅が近づいてくると、歩道も綺麗に整備されていて、盛岡が近づいたことを感じさせる。
そして、仙北町駅入口の交差点を通過する。この仙北町の駅名は、南部藩主第27代の南部利直公(1576?1632)が出羽仙北郡(現秋田県仙北郡)からの移住者を居住させたのが始まりである。城下町の中心部から川を挟んで独立している仙北町は、奥州街道や山形街道の出入り口の要所として、また北上川の舟運(しゅううん)による物資の交流の中心として活況を呈していたと言われている。
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仙北町駅口の信号を過ぎると、右側に長松寺がある。創建は不明で当初浄土宗で長昌寺と称していた。本尊は阿弥陀如来の立木像で慈覚大師の作と伝えられ、今も現有している。寛永年間(1624?1644)に宗旨を曹洞宗に改め長松寺と改称されたようである。
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長松寺の墓地の脇を通り北上川の河岸に進むと、高屋稲荷神社がある。宝永5年(1708)、南部家第32代南部利幹公の時代に仙北町、川原町を結ぶ新山舟橋、旧明治橋に通じる沿道に五穀豊穣、城下の往来者等の旅路、舟路の安全の神として伏見稲荷より勧請したといわれている。江戸時代は、北上川舟運の水主の信仰が厚く手洗い石等が奉納された。
神社としては小さいが、横にそびえる保存樹の「ケヤキ」が見事である。
そして、北上川の川岸に出て左に進み、明治橋を渡る。雨で増水して少し濁った水が、とうとうと流れている。江戸期なら川止めであろうか。
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明治橋を渡って、直ぐに右折して、川に並行した道を進むと、明治橋の記念碑が立っていた。明治6年造とも刻まれている。
また、ここは、盛岡市指定史跡の舟橋跡でもある。案内板によると「藩政時代、ここは盛岡城下の入口に位置し、北上川舟運の起点であって、人が集まり物資の流通も多く、奥州道中筋の要所であった。北上川は、この盛岡で雫石川、中津川、簗川と合流し、大河の様相を呈し、架橋が難しく当初は舟渡しであったが、延宝8年(1680)頃にこの場所に舟橋が架設された。舟橋は両岸に巨大な親柱と中島の大黒柱を立て、20艘ほどの小舟を鉄鎖で係留し、その上に長さ2間半から3間(約5?6m)ほどの敷板を並べて人馬が往来できるようにしたもので、増水時には敷板を撤収し、舟を両岸に引き揚げて、「川止め」とした。舟橋は大河に架橋できない当時の知恵であり、明治7年(1874)に木橋の明治橋が出来るまで存続したと記されている。
また、明治橋記念碑から道路を跨いだ反対側には、盛岡市指定文化建造物の御蔵がある。特徴としては,屋根構造にみられ、野地板を二重構造にして、中間に空気層を設け断熱の工夫をしており、米蔵としての目的に適したものとなっている。また,床組構造も床を高くして防湿のための換気のしやすさを考慮したものである。
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明治橋北の信号まで引き返し、今度は大慈寺町の方に進む。直ぐ右に円光寺があったので、山門を潜った。寛文年間(1661?72)に創建された浄土宗の寺院で盛岡三十三観音霊場第十一番となっている。本堂は盛岡市の保存建造物に指定され、案内板によると「本堂は、元禄年間(1688?1703)に再建されたといわれている。本堂正面の夫婦カツラは推定樹齢300年で雌木(本堂右)は目通り幹囲5.9m、樹高約22m、雄木(本堂左)は目通り幹囲5.4m、樹高約20mで盛岡市指定天然記念物に指定されている。
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本堂に向かって左の墓地には、盛岡市出身の内閣総理大臣「米内光政」の墓碑がある。
円光寺を後にして進み、丁字路で右折すると、鉈屋町(なたやちょう)で江戸時代の町並みを彷彿とさせる趣きのある古風な家屋が立ち並んでいる。保存に気を配っていることであろう。
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200mほど進むと、右側に大慈清水と書かれた水場がある。 環境省選定「平成の名水百選」にも選ばれた水である。天保4年に記された「盛岡砂子」に記述があることから、これらの井戸は、江戸時代から地域の人々の生活を支えていたとされる。明治8年に組織された用水組合は現在も活動をつづけており、伝統的なルールが守られているとのこと。少しいただいて飲んだら美味しかったので、ペットボトルを満たさせてもらった。
かつて名水とされた水も、今では「生では飲まないように」となっているところが多い中で、貴重な存在である。
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大慈清水からさらに進むと、消防第二分団の櫓が見えてくる。ここでは櫓も町の雰囲気を壊さないように気を配ったものとなっている。その第二分団の建家の手前にあるのが、岩手川の社名で酒造を行なっていた「浜藤の酒蔵」と呼ばれる建物であったが、2006年2月27日、岩手川(浜藤)は、自己破産申告をし134年の歴史を閉じることとなってしまった。
消防第二分団の建物の前で左折して進むと、酒造の「あさ開(あさびらき)」があり、酒造のみならずレストランも営業していた。安定経営のためには、多少の多角化も必要なのであろう。
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「あさ開」の前には、永泉寺がある。天正3年(1575)に開基した曹洞宗の寺院で、盛岡三十三観音巡りの第7番札所でもある。日本最初の溶鉱炉を造った大島高任、政治家田子一民などの墓がある。
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永泉寺を後にして、「らかん児童公園」に進む。ここには、十六羅漢と五智如来の合計21体の石仏が鎮座している。江戸時代、盛岡藩の四大飢饉といわれる元禄・宝暦・天明・天保の大凶作によって、領内には多くの餓死者がでたが、祗陀寺14世天然和尚は、その悲惨な餓死者を供養するために、十六羅漢と五智如来の合計21体の石仏建立を発願し、領内から浄財の喜捨を募って、天保8年(1837)工事に着手した。そして、起工から13年目の嘉永2年(1849)に発願した天然和尚の孫弟子にあたる長松寺13世泰恩和尚のときに、ようやく竣工にこぎつけた。しかし,宗龍寺は明治維新後に廃寺となり、明治17年(1884)の大火で寺院も焼失して、現在は21体の石仏群を残す市の公園となっているのである。
siwa_63.jpgsiwa_64.jpgsiwa_65.jpg「らかん児童公園」から永泉寺まで引き返し、次は大慈寺に向かう。大慈寺の創建は寛文13年(1673)で、明治17年(1884)の火災により伽藍の大部分が焼失したが、盛岡市出身の原敬の菩提寺という事もあり山門など堂宇が再建された。山門(楼門)は明治38年(1905)に建てられた竜宮門と呼ばれる形式の楼門で、下層が土壁で端部を曲線で仕上げ、中国など大陸でよく見られる形式である。大慈寺山門は盛岡市の保存建造物に指定され、境内を含む周囲一帯は環境保護地区となっていて寺町の雰囲気を今に伝えている。また、大正10年に東京駅で暗殺された原敬はここに埋葬され、妻の浅とともに眠っている。
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大慈寺を後にして、盛岡城警備惣門遺蹟碑に向かう。遺蹟碑の前には、木津屋本店の古いお店の建物がある。天保5年(1834)に建てられ、旧状が良く保存されている事から盛岡市の代表的な町屋建築として岩手県指定有形文化財となっている。
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直進して丁字路で右折して、中津川に沿うようにして、北上すると、左に旧九十銀行本店本館として、明治43年(1910)12月に竣工したビルがある。我が国の近代建築史上重要な建造物で、国重要文化財に指定され、現在は「啄木・賢治青春館」として利用されている。
その先の旧盛岡銀行である岩手銀行中ノ橋支店は、 市街地の中心部に位置し中津川・中の橋と一体となって盛岡の代表的な景観を形成している。 東京駅の設計者である葛西萬司(1863?1942 盛岡市出身)が設計しており、 外観が東京駅によく似ている。明治44年に建てられたもので、日没後はライトアップされ、その美しい輪郭が浮かび上がる。 宮沢賢治もこの建物が気に入っていたようで 「岩手公園」という詩の最後に、
弧光燈にめくるめき 羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり まちはしづかにたそがるる

と記している。
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岩手銀行の斜め前には、盛岡信用金庫が建っている。昭和2年に建てられたもので、 旧盛岡銀行と同じで、 東京駅の設計者である葛西萬司(1863?1919 平泉町生まれ)が設計している。 1階から2階まで立ち上がる6本の太い円柱、花崗岩に施した石彫りのパターン、 内部のステンドグラスなどが重厚感を与え、昭和初期のモダニズムを表現している。
その先で道路は、左に曲がり緩やかにカーブして続いており、道のカーブに沿うように茣蓙九(ござ九)の商店が建っている。茣蓙九は文化13年(1816)に創業した紺屋町にある商家で、盛岡市を代表とする町屋建築である。様々な建物が増築された為、時代背景による工法や素材などバラバラだが、格子窓や隣家との境にある土壁、中津川沿いに連なる土蔵群など印象に残る風景を醸し出している。盛岡市の保存建造物に指定されている。
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カーブを過ぎて進むと、菊の司の酒造倉庫があり、その先のRCマンションの前に、一里塚を示す石碑がある。
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一里塚の石碑のRCマンションを過ぎて、丁字路の突き当たり、左折すると、お餅・赤飯の看板を掲げた丸竹がある。初代(大平竹松)が、盛岡城撤去の2年前の明治5年(1872)に城内の内丸の一角に、その(丸)と竹松の(竹)を結びつけて「丸竹」の暖簾を掲げたのが始まりとのこと。
初代は、日本古来の餅を世に広げようと、独特な「黒蜜」と「きなこ」を混ぜて、元祖「あべ川餅」を考案。また岩手山より雪を持ち帰り、かき氷として「白雪」と名づけて提供(明治9年)したとの伝承がある。そして、いよいよ「上の橋(かみのはし)」で、中津川を渡る。
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雨続きにもかかわらず、比較的きれいな水が流れていた。
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上の橋を渡って、本町通りの交差点まで進み、そこで左折する。
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本町通りの交差点から南に向かって進み、左手に盛岡城の遺構を見ながら岩手公園下で、右折して盛岡駅に向かう。
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駅への道をひたすら歩いて、開運橋に到達すると駅はもうすぐである。
ここで、天気予報に違わず雨が降りだしたが、駅の近くまで来ていたのが幸運であった。
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北上川の川面を見ながら進み、ようやく盛岡駅に到着した。14時40分であった。


2012.05.07

花巻から日詰・・・(旧奥州街道)

4月になっても、天候不順の日が多く、5月の連休は避けたいと思っているうちに日が経ち、今日の歩行となった。なんと、今回は、万歩計まで忘れてしまった。
北上駅で新幹線から東北本線に乗り換え、花巻駅から歩き始めたのは、9時半近くであった。
花巻駅の駅前広場には、風車のように風で回るモニュメントがたくさん立てられていた。
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駅前広場から右に坂道を下って行くと、坂本町の交差点で、その左に瑞興寺がある。
応永4年(1397)、この地を支配していた稗貫氏の開基と伝えられ、かつて、鳥ケ谷崎城(後の花巻城)の地に建っていたが、天正19年(1591)にこの地方が南部信直の所領となり、家臣の北秀愛(きたひでちか)が鳥谷ヶ崎城を「花巻城」と改め整備したとき、現在地に移設されたものである。
坂本町の交差点から北に向かうと、この辺りが町の中心地で、江戸期には本陣、旅籠等がならび、盛岡藩、八戸藩、松前藩主一行が宿泊した場所である。
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花巻信金が左にある、交差点で左に折れ、直ぐに左折して大通りより一本左の道を進む。
これが街の枡形である。少し進むと、左に「花巻城下町発祥の地、四日町、一日市町」と書かれた標柱が立っていて、奥まったところに「明治天皇御聖跡碑」が立っていた。
説明板によると明治天皇は、明治9年に当地を訪れ渡辺宅に宿泊され、明治14年にも再び訪れられ伊藤宅に宿泊されたとのことである。
直ぐに道は丁字路にぶつかり右折して大通りにでると、古い家屋が一軒残っていた。
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北進して、四日町三丁目の交差点で右折して、国道4号線をぶつかって左折する。直ぐに枇杷沢川(びわさわがわ)を渡る。北上川に注ぐ川であり、上流には水辺公園が整備されているとのこと。
枇杷沢川の直ぐ先には、釜石線の高架線路があり、ガードを潜って進む。
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さらに進むと、瀬川にかかる瀬川橋とその先に釜石自動車道が見えてくる。下の右の写真は、瀬川の上流方向であるが、昨日までの雨で濁っている。この川も下流で北上川に合流する。
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右の方から花巻バイパスが合流すると、右手に広大な花巻空港の始まりである。
国道4号線は空港に沿うように北上していて、1Kmほど進んだ交差点の左に「照見地蔵」が立っている。出羽三山零場、羽黒山の分霊を奉載し、交通安全加護を祈願し、かねて事故により物故されたみ霊の冥福を祈念して昭和41年(1966)に着手して3年の月日を経て建立された旨説明板に書かれていた。また、台塔には、交通事故犠牲者の過去帳も奉納されているとのこと。
右の空港側を見ると、花巻市交流会館の建物が見える。以前は旅客ターミナルビルであったのが、新ターミナルビルが平成21年(2009)に落成したのにともない交流会館として利用しているのである。社会人になってまだ数年のころ、このビルより羽田行きの飛行機を利用したのを思い出す。
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空港の管制塔のあるビルは、気象庁の花巻空港出張所も同居している。フェンスの間から、2500mの滑走路を覗いてみた。発着本数は、極めて少ない感じで眺めてる間には、発着は見られなかった。新幹線の利用と、県南地域では仙台空港の利用の方が便数も多く便利であり、厳しい運行状態となっているようだ。
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空港を右に見ながら進むが、流石に2500mもの滑走路の空港は、通り過ぎるのに骨が折れる。
左側に林テレンプという会社で、タイルのモザイクでこの地方で有名な鹿踊りを表現した壁が現れた。自動車の内外装の部品を製造している会社とのことだが、なかない良い選択である。
そして、空港も終わりに近づくと、左に「新提」という大きな溜池が見えてきた。
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溜池の直ぐ脇には、油沢川の名の小さな流れがあり、ここの「花巻空港駅口」交差点で、左折するとJR東北本線の花巻空港駅である。大正11年(1922)に二枚橋信号所ができ、昭和7年(1932)に駅に昇格して二枚橋駅となり、昭和63年(1988)に花巻空港駅に改称された駅である。
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花巻空港駅口の交差点には、県立花巻農業高等学校の大きな案内標識がある。この高校は宮沢賢治が教諭として勤務した花巻農学校の後身に当たる学校としても知られているそうである。
進むと江曽地区となり、少し先に区画整理の碑と石塔が立っていた。碑文によると、この江曽部落は、平安中期の紀元1469年の計画移民地区で紀元1912年(建長3年:1251)には、大和国高市郡より藤原源太夫弘長が、ここ江曽館に居住し開発したと伝えられている。
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真っ直ぐに進む国道4号線を歩いて行くと、右側に江曽一里塚が残っていた。おそらく左側は国道4号線の敷設とともに消え去ったのであろうが、片方だけであるが保存状態は良好である。そして、その脇には、「明治天皇江曽御小休所」の石碑が立っていた。
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次には、国道の左側に「小森林(小森)館跡」の説明板が立っていた。説明書きによれば、館跡は、中世に稗貫郡を統治した稗貫氏の家臣・小森林氏の居館跡と伝えられる。小森林氏が、いつ頃からこの館に居住したかは不明であるが、永享7年(1435)の和賀地方の兵乱の記述の古文書には、小森治部少輔の参戦の記述があり、この頃には居住していたと考えられる。
また、館跡の規模は。東西・南北ともに400mで、現在確認できる稗貫氏家臣の館跡の中では最大の面積を有していることから、小森林氏の勢力が強大なものであったことが伺われるとある。
なお、稗貫氏は時勢に疎く天正18年(1590)の小田原の役に参陣せず、所領を没収されて滅亡した。この時小森林氏も滅亡したものとみられ、翌年から稗貫地方は南部氏が統治することとなった。
小森林氏の居館跡の北の端には、逆ヒバ(さかさヒバ)がある。伝説によると、今から1200年ほど前に、弘法大師が諸国を巡業の折、この地に立ち寄り、湧き水でのどを潤そうとして休憩し、その際、地面に挿した杖が根付いたのが逆ヒバといわれ、杖はそのまま根を張って大きくなったといわれている。
この逆ヒバは、植物名をクロベやクロビ、またはネズコと呼ばれ、これは心材が黒いヒノキ科の一種としての意味からであるという。根本の直径は2mあり、幹の周囲が4.75mとのこと。
脇には、昭和59年に再建された新しい観世音の石仏が立っていた。元々は小森林の館の守りとしての観世音が建っていたようである。なお、逆ヒバの根本付近からの湧き水は、近年の環境変化のためか、枯れつつあるようだ。
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逆ヒバを過ぎると直ぐに、滝池川があり、滝沢橋で渡る。続いて耳取橋で、流れる川の名も耳取川である。この辺りは、本当に川が多い。2本の川は、どちらも似たような川に見えるが、耳取川は一級河川である。川の名前は、阿倍軍が源氏軍に敗れ、阿倍の兵士の耳が集められたところとの説があるが、ハッキリしない。
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耳取橋を渡ると、向こうに石鳥谷バイパス南口の信号が見えてきて、ここで街道は右に国道4号線から別れて進む。
少し先に「八幡小学校」が見えてくる。明治6年開校の歴史を持つ小学校である。
学校の少し先で街道に面して、八幡村役場農協事務所跡の新しい碑が立っている。「光陰は百代の過客なり」との題名で重圧に耐えた藩政時代の八幡村から現在までの歴史が刻まれている。
明治22年(1889)に近隣の村が合併して八幡村となり、昭和30年(1955)には1町3村が合併して石鳥谷町となる。さらに、平成18年(2006)に花巻市、石鳥谷町、大迫町、東和町が合併し新花巻市となることが刻まれている。
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進んで「葛丸川」を渡る。奥羽山脈を源とする川で、上流では、バードウォッチングや森林浴、渓流釣りにハイキング、そして紅葉狩りなど、自然に親しむのに絶好なところで、宮沢賢治の童話『楢の木大学士の野宿』などの舞台となったところである。また、上流の 冬には「たろし滝」といわれる氷柱がみられ、毎年2月11日には、氷柱の太さを測り、その年の米の作柄を占う伝統行事「たろし滝測定会」が行われる。 氷柱の高さは13メートルあり、太さは、記録として残っているものでは、大豊作となった昭和53年の8メートルが最大とのこと。なお、この地方では「つらら」のことを「たろし」ということから、「たろし滝」の名が付いたという。
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5月の連休前までは、寒い日もあったが、既に田植えの準備の季節に差し掛かっており、所々で農業機械による代かき作業も見受けられた。
葛丸川より、1.5Kmほど進むと、道路の右側に「名木・杉生桜」がある。地上5mほどの高さで切られた太い杉の幹に寄生した山桜の木である。切られた杉は、奥州街道の路線変更が行われた明暦4年(1658)当時のものと推定され、昭和58年(1983)、安全対策上の理由で現在の高さで切断された。桜は毎年開花し、杉生桜の名を今にどめている。
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平成の合併で、花巻市となり石鳥谷町(いしどりやちょう)は廃止されたが、石鳥谷地区に入ると、凝った街路灯が目に付く。名産品などをデザインした絵を配したものの中で、南部杜氏(なんぶとうじ)の絵柄が一際目に付く。この石鳥谷の杜氏(酒造りの技術者の長)は、日本酒を造る代表的な杜氏集団の一つで、杜氏の流派として捉えたときには南部流(なんぶりゅう)と称される。杜氏組合としては、全国最大の規模を誇る社団法人南部杜氏協会を持つとのこと。この地方に酒造所が多いのもうなずける。
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街の中心付近には、好地一里塚(こうちいちりづか)の表示説明板が立っていた。実際の塚は壊され、跡形も残っていない。江戸から133番目の一里塚であった。
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一里塚の次の信号は、東北本線石鳥谷駅への入り口である。先に進むと、薬師堂川があり、下流は大きな水門を配して、北上川に合流している。
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北上川の堤防に出て眺めると、流石に北上川は大河である。一人の老人が水門付近で釣り糸を垂れていたが、川の濁りが強くて釣れそうにないと言っていた。
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街道に戻ると、左側に酒造「菊の司」がある。創業元和年間(1615?1623)、伊勢松阪から陸中郡山に移った初代が御宿を開業したのが始まりで、造り酒屋として220年もの伝統を築き上げてきた。現在は「菊の司蔵」と石鳥谷の「七福神蔵」の二つの蔵で醸造を行っているとのこと。
少し先に、「まちの駅いしどりや・酒蔵交流館」というのがあった。古い酒蔵を利用した施設のようで、各種イベントや集会などの会場として無料開放している他、内部には市民手作り小物の展示販売や、本が読めるリサイクルブックコーナーがあり、採れた野菜も販売している。立ち寄ってお茶をご馳走になり、休憩させてもらった。
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進むと、左に木の茂みが見えてきた。菊池数馬の墓である。説明板によると、数馬は、幼名を五郎と言い藤原道隆の後裔で延久2年(1070)に藤原則隆が肥後国(現在の熊本県)菊池郡に下向し、以降地名にちなんで菊池氏を称していた。北条氏が小田原城に入って後は、この北条氏に仕えていたが、小田原城の落城によって父正宗は殉じ、数馬は豊臣秀吉の助命により奥州に落ちのび石島谷に住むようになった。
五郎数馬は、石鳥谷を愛し新田の開拓や道路・橋の新設、改良などに力を尽くし、また犬淵村との境界争いにしばしば活躍し、境の平安を守ったといわれている。万治2年(1659)9月27日に75歳で亡くなるが、危篤の際に村内の若者たちを集め、自分が境の鬼となって好地村を守るので境に埋めてほしい」と遺言した。 遺言にもとづいて長坂の長根に葬り、それからはこの地を「数馬長根」といい、石鳥谷開発の恩人として崇敬されているとのこと。
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数馬の墓の直ぐ先には、境塚があった旨の説明板がある。石鳥谷町と紫波町(江戸時代は好地村と犬淵村)の境界で、また稗貫郡と紫波郡の郡界でもあった。境界に沿って、北上川から東北本線の間に9基の塚が築かれていて、周囲が10?13m、高さが0.5?1mとのこと。
この先で街道は、国道4号線に吸収されるが、この辺りは、時々形の良い松の木が名残の松として残っているところである。
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進んで滝名川を渡る。橋は道路舗装の補修中であり、川面の写真(下流方面)を撮るのが精一杯であった。滝名川上流には、農業の灌漑用水としてのダムがある。天保年間から大正時代に至るまで、水争いの絶えない地域に、この解決のために昭和27年(1952)に設けられたダムである。
平安を願って、ダム本体には上端から順に「平安・山王海・1952」の文字が植樹により描かれている。
滝名川橋を渡ると、少し先に、国道の左に馬頭観音が立っていた。
更に先には、民家の庭先に揚水紀年碑が立っていた。「昭和元年創建、甘木?耕地組合」と刻まれていた。昭和元年には、まだダムはなかったことでもあり、何の記念かは不明である。
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進むと、小さな流れの山吹川を渡る。橋の名前も山吹橋である。赤沢地区を支配していた藤原清衡の孫の樋爪俊衡(ひつめとしひら)が、頼朝の侵略に遭って樋爪舘を焼き払った時に、五郎沼の西を流れる川に砂金を投げ捨てたため、山吹(やまぶき)色に輝き、その後、山吹川という名で呼ばれるようになったと言われている。
山吹川に接するように五郎沼がある。藤原清衡の4男の藤原清綱の長男の俊衡の代に至り志和郡を治めることになり、姓を樋爪氏に変えたと言われているが、俊衡は、暴れ川だった滝名川の氾濫を防ぐと共に、灌漑の役割も担って五郎沼を造営した。俊衡の弟・五郎季衡(すえひら)がよく泳いだことが名前の由来と言われている。
現在は、当時より面積は小さくなったが、桜の名所として、また藤原泰衡の首塚から発見された蓮の種から発芽させた蓮が沼の隣に植えられていることで有名である。
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五郎沼の北東角から100m程度手前の桜の大木の脇に大きな石柱が立っている。地上に出ている部分だけでも2?以上の巨石だが、大部分が土中に埋まっているという。
五郎沼は造営直後は、何度か決壊することがあり、水神の怒りを鎮めるために人柱を立てることになり、付近に住む農家の娘が選ばれ、土手に生き埋めにされたという。娘が埋められた土手の上には巨大な石が供養碑として立てられたという。これにより大雨で堤防が決壊することはなくなったが、不思議なことが起こり始めた。夜に石の近くを通ると、しくしくという悲しげな娘の泣き声が聞こえ、いつしか夜泣き石と呼ばれるようになった。娘の遺体はその後、大荘厳寺に移されて手厚く葬られたという。巨石には何の刻印もないが、風化で消えたのか、最初からないのかは不明である。よくある人柱にまつわる言い伝えである。
流石に、普通に咲く桜は葉桜となっていたが、遅咲きの八重桜は、まだ美しさを保っていた。
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五郎沼を過ぎると、左側に旧家と思える広大な屋敷の家屋が見えてきた。そして、その先には東北新幹線のガードがある。
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ガードをくぐると、直ぐに「日詰駅入口」の交差点があり、その先の左側に大日堂がある。由緒は定かでないが、樋爪氏が山王権現薬師如来を館内に勧請し、四方に五智如来を鎮座したとの言い伝えがあり、その如来のひとつではないかと推察されている。境内には、多くの石塔、石仏が立っていた。
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大日堂の先で、街道は国道から右に別れて進む。車の騒音が軽減されてやれやれである。
1kmほど進むと、右側に志賀理和気神社(しかりわけじんじゃ)の赤い鳥居がある。この神社は、日本最北にある延喜式内社の南部一ノ宮であり、通称、赤石神社、赤石さんと呼ばれる神社である。
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鳥居を潜ると、参道の左に「南面の桜」がある。元弘2年(1332)、後醍醐天皇の命により陸奥に下った尊良親王(たかよししんのう)に同行した藤原頼之という公家が河東の領主川村少将の娘・桃香は、相思相愛となり、ここに桜を植えて、爛漫の春を夢見ていた。
しかし、命により、頼之は都へ上ることになり、二人は再会を固く誓って別れた。
やがて、植えた桜は見事に咲いたが、不思議にも、すべて花は南を向いて開いていた。桃香のやるせない心が、桜に宿ったものであろうか、と記されていた。
そして、桃香の歌が一首、
南面(みなおも)の桜の花は咲きにけり 都の麻呂(ひと)にかくとつげばや (桃香)
歌を受け取り、桃香のひたむきな思いに心を打たれた頼之は、ほどなく桃香を都に呼び寄せたという。
ともかく、この神社は延暦21年(802)に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の首長アテルイを滅ぼし、翌年、盛岡市太田に志波城を造営した後の延暦23年に、民衆を統制するための官社として定められた神社である。延長5年(927)に作られた全国の官社とされていた神社の一覧「延喜式神名帳」に「陸奥国斯波郡一座・小・志賀理和気神社」とあることからも、平安時代にすでに存在していたことが記録として残されている。神社名の「しかりわけ」は北海道の石狩川と同じくアイヌ語の「シカリ」と同じ語源からで、川がうねっている様子を表現する言葉で、すぐ近くを流れる北上川の大きなうねりを表現したアイヌ語由来するとのことである。
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志賀理和気神社を後にして進むと、右側に広大な紫波運動公園が見えてくる。
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そして、信号機のある交差点を過ぎると、左側に立派な建物がある。明治大正期の実業家12代平井六右衛門が建てた、店舗併用屋敷である。
平井家の初代は伊勢松坂の出で、代々六右衛門を襲名し、清酒,醤油の醸造業を営み、また大地主でもあった。12代六右衛門は明治26年(1893)に家督相続し、以後、岩手、盛岡、花巻の各銀行や南部鉄道、岩手軽便鉄道、盛岡電気など、岩手県内の有力企業の役員を兼任し、県内有数の実業家として活動した人物である。原敬とも親交があり大正4年(1915)に衆議院議員(政友会)に当選、8年には貴族院議員に選任されるが在任中に死去した。この屋敷に続く賑やかな街が日詰商店街の中心である。
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商店街を進むと、道の左に銭形平次の手形のモニュメントがあった。よく見ると銭形平次役をこなした北大路欣也の手形であった。この地出身の野村胡堂にちなんだモニュメントである。
なお、野村胡堂は、1882年に岩手県紫波郡彦部村(現在の紫波町)に農家の次男として生まれ、小学校時代に熱心に呼んだ「水滸伝」の登場人物の一人で投石を得意とした没羽箭張清(ぼつうせんちょうせい)は、後に銭形平次の投げ銭を考案するときのヒントになったという。第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学するが、学資が続かず退学し、1931年から 文藝春秋の依頼で銭形平次を主人公にした「金色の処女」を発表し、以降第二次大戦を挟んで1957年までの26年間、長編・短編あわせて383編を書いた。1963年4月14日 肺炎のため享年80歳で死去するが、死の直前、私財のソニー株約1億円を基金に財団法人野村学芸財団を設立。同財団は、経済面で学業継続が困難な学生等への奨学金の交付を目的のひとつとしており、これは学資の問題で学業を断念した胡堂の経験が背景になっている。
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街道左に、ふれあい公園の名の小公園があり、明治天皇聖跡碑が立っていた。
そして、その先の十字路で左折して紫波中央駅入り口の交差点を通り過ぎ、紫波中央駅に向かう。元々今日は日詰駅で切り上げる予定であったが、途中で紫波中央駅から電車に乗ることを強く勧められ急遽予定を変更したものである。
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駅までは、700mほどもあろうか、疲れた足にはこたえる距離である。しかも、紫波中央駅は東側には、入り口がなく東北本線のガードを潜って、大きく回って行く必要があった。
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紫波中央駅は、平成10年にできた新しい駅で、無人駅にもかかわらず、有人駅を上回る内容を誇っている。そもそも、首都圏でもないのに新しい駅ができるというのはかなり異例で、しかも中央駅のネーミングも都市圏でこそ見られるものと思われる。
調べると、ここは、、町役場からも近く、本来駅があってもおかしくない場所であるにもかかわらず日詰と古舘という2つの駅間に挟まれて100年に渡る新駅の請願も取り上げられることはなかったという。そして、終に地域住民がお金を出し合って、新駅設置費用約2億円を集め、この住民の動きに合わせて、駅の待合施設という名目で、町も建物を建設。しかも町産材をふんだんに使ってできたのが今の駅舎となっているとのこと。これで、紫波中央駅からの乗車を強く勧められた意義が分かった感じがした。
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紫波中央駅で切符を買ってホームにでると待つ間もなく電車が入ってきて、盛岡駅に到着した。
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駅前には、啄木の歌碑があり、今夜の宿泊のホテルルートインも見える。
後は、夕食を済ませ風呂に入って寝るだけである。


2012.04.17

金ケ崎から花巻・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計45,800(29.8Km)

水沢のホテルで一泊し、電車で金ケ崎まで引き返してきた。ちょうど8時である。
ホテルで朝食をするとどうしても遅くなり、この時間になってしまう。
さて、金ヶ崎駅舎は、昨日のブログにも書いたように地元商工会も同居しているので、PRのためのハリボテの布袋様のような像が置いてあった。
少し寂れた駅前通りを進み、県道で左折すると、すぐに正面に千田正記念館の案内板が見えてきて、街道は左に別れて行く。
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少し進むと、特に信号がある訳でもないのに、道路に長く車が停車しているのが目についた。
何と、保育園に子供を送ってきたお母さん達の車の列である。子供を預けて、それぞれの職場に向かうようだ。なるほどと思わされる光景であった。
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車の通りも少ない道を進んで行くと、宿内川に架かる宿内川橋が見えてきた。
宿内川は、駒ケ岳山系を水源として千貫石溜池に注ぎ、田畑を潤し北上川に合流している川である。千貫石溜池は天和2年(1682)仙台藩主・伊達綱村の命により、胆沢郡相去村六原の灌漑用水源として着工された。普請奉行は水沢領主・伊達宗景が務めた。初めの三年間は毎年大破したので「おいし」という若い女性を銭千貫で買い、牛とともに人柱にしたと言う悲しい伝説が残る。この池の名前の由来は「千貫で買ったおいし」から命名されていると伝わっている。
なお、北上川との合流地点には、金ヶ崎城があったとのこと。
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丸子館跡入り口の表示杭と案内板が立っていた。ここは室町時代の文安年中(1444?1448)に江刺七郎清義が丸子館主になり三ヶ尻(みかじり)と名乗った。その後、豊臣秀吉の奥州平定によって三ヶ尻氏はこの地を追われることとなった。三ヶ尻氏がこの地を治めたのは約150年間で江戸時代には伊達領になったとのことである。
その先の左側に、千田正記念館が見えてきた。まだ、朝が早く閉まっていたが、金ケ崎町出身で参議院議員3期、岩手県知事を4期務めた「千田正」の功績を後世に伝えるため整備さたものである。昭和5年建築の千田家主屋と昭和2年築の板倉、正光館と呼ばれる旧岩手県知事公舎の応接室からなり、少年時代から知事の時代に至る資料が展示されているとのこと。
千田記念館の案内標識には、アテルイの里の語句も記されている。アテルイは、平安時代初期の蝦夷(えみし)の大将で、延暦8年(789)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、田村麻呂の助命提言にもかかわらず京にて処刑された。
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進むと、道路の分岐があり右か左か一瞬迷ったが、よく見ると奥州街道の表記と矢印のある杭が立てられており、左側であるのが分かり有りがたかった。
しかし、右は歴史のある三ヶ尻小学校に通じており、それを見逃すことになってしまった。明治6年滴水小学校として民家を借用し創立し、児童数22名であったとのこと。
その先には、下渋川橋がある。下を流れる渋川の下流方向の写真を載せたが、この川も下流で北上川に合流する。
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渋川を後にして、進むと「瘤木丁(こぶきちょう)」という、珍しい地名の町に入る。右側には、大きな案内地図が掲げられており、そのすぐ横には赤い鳥居の神社が祀られていた。
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瘤木丁を進んでゆくと、途中で舗装が切れ三菱製紙の社有地となって行き止まりになる。写真のゴミの収集の保管ボックスのあるところで左折して六原駅の脇を通り、国道4号線に出て迂回する必要がある。
実は、この左折ポイントも少し先の右側に奥州街道と書かれて前方法を指し示す表示杭があり、進めるものと思ってしまう。通れるか否かにかかわらず、奥州街道の方向のみを示しているのだろうが、極めて不親切と言わざるを得ない。迂回路の方向を示す小さな注書きでも欲しいものである。
ともかく、花沢踏切という簡易な踏切が六原駅の脇にあるので、渡って六原駅に向かう。
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昭和12年2月、東北本線の信号所を廃止して開駅した六原駅であるが、無人駅かと思っていたが、駅員さんが1人勤務されていた。朝の通勤時間が過ぎると、電車の本数が極端に減るので、駅構内には誰もおらず、のんびりとしたものである。
タクシーも駐車していたが、商売になるのであろうか。
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国道4号線に出て北に向かうと、左側に立派な赤い鳥居がある。二ツ森稲荷神社の鳥居で社殿は4.7Kmも先にあるとのこと。延宝2年(1674)伊達候が勧請した神社である。明治維新の皇道復興のおりに布告あり、続いて明治4年(1871)胆沢県神社の格定めに当り村社に列した。
鳥居を過ぎて北上金ケ崎ICの信号で右折し、東北本線の踏切に向かう。この辺りは、平地でもところどころ、杉林が残っている。
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先に、右に進む小道があり、進むと「正作踏切」があり、線路を渡ることができた。信号機も付いていない踏切である。渡ると未舗装の小道で、進んで北上浄水場から続く街道に復帰する。振り返ると浄水場の威容が見えるが、三菱製紙と協調して街道歩きに便宜を図って欲しいものである。
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しばらくは顕著な歴史遺構もなく進むが、やがて東北新幹線の高架線路が見えてきた。ガードを潜る手前の左には、相去白山神社がある。
白山の神は、延暦21年(802)鎮守府胆沢城が築かれてからの平安前期頃に創祀されたと伝えられている。徳川時代に至り、仙台伊達と盛岡南部の藩境が定まり、宝永8年(1711)伊達藩命により神社として創建された。以来300年、奥州街道伊達藩境の町相去の氏神様として崇敬されてきた。創祀以来、相去を見下ろす高前壇の地に鎮座していたが、東北本線開通の明治23年、現在地に遷座したとのことである。
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相去(あいさり)は伊達藩の一番北の町で、南部藩と接していたところである。進むと、左側に相去御番所跡の説明板が立っていた。明暦2年(1656)伊達藩主二代忠宗公の時、北境の備えとして番所を設置、街道を挟んで両側に軽臣(足軽)102名を置いたとのこと。番所には、通行人を取り調べた建物と番所役人の控えの建物が配置されていて、番所トップの武頭は100日交代で仙台よりの出張だったとのことである。
番所跡より300mほど進むと、南部領と伊達領の領境塚がある。この塚は資料に基づき後日復元したものだが、同じ徳川幕府に従属する藩であっても、隣どうしで厳しく対していたことが窺われる。
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少し先には、鬼柳関所跡がある。鬼柳御番所とも言われ、江戸方面の関門として藩内に幾つかある関所の中で、最も重きをなしたという。通行人を取り締まる本来の関所の機能に加えて。鬼柳には藩主・公儀用の宿泊・休憩施設である御仮屋と、馬を継ぐ伝馬所などの小規模ながら宿駅の機能も備えていた。
そして、その先で東北新幹線と東北本線のガードをくぐる。手前が新幹線でその向こうに少し低く東北本線が見える。
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鉄道のガードをくぐって進むと、500mほどで道は右にカーブして和賀川に架かる9年橋を渡る。和賀川は、長さ75.3キロで北上川支流では最長である。雨のためか少し濁っていたが、普段より水量は豊富なようである。なお、9年橋の名は、後9年の役に由来するものと思っていたが、明治9年の明治天皇巡幸に合わせて架橋されたことによるとのこと。
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九年橋を渡ると北上市市街に入って行く。北上市は、昭和29年に黒沢尻町、飯豊村、二子村、更木村、鬼柳村、相去村、福岡村が合併してできた市である。中心部は、旧奥州街道の間宿の黒沢尻であった。本町通りには、Warner Mycalの映画館も入っているさくら野百貨店もあり、ななか栄えている街並みである。反面、歴史的な遺構は残っておらず、脇本陣も表示杭として場所が示されているのみである。
そして、右側には諏訪町アーケード。諏訪神社の門前町として発展してきた商店街である。
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さくら野百貨店を過ぎて、次の信号のある交差点にも脇本陣の標識杭が立っていたが、ここを過ぎると、市街地も終わりその先に北上線の踏切が見えてくる。
北上線は、岩手県北上市にある北上駅と秋田県横手市にある横手駅を結ぶ、JR東日本の鉄道路線である。単線で電化はされておらず、全列車普通列車で気動車によるワンマン運転を行っている。
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踏切を渡ると、黒沢川があり本宮橋を渡る。街道は徐々に東北本線に近づき、常磐台の跨線橋が見えてくる。跨線橋に上るスロープの下には、山神と大書された新しい石碑が立っていた。
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跨線橋を渡り、直ぐに左折して2Kmほど進むと、二子一里塚がある。道の両側にほぼ原型をとどめて残っていて珍しい。この付近は明治12年に国道が切り替わり裏街道になったために幸か不幸か塚が残っているのだという。
二子一里塚の右側の塚の背後には、塚腰稲荷神社がある。神楽伝承百周年記念碑が立っていた。
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雨が降ってきた。強い雨ではなく小降りだが、傘をさしての歩行は嫌だし、困ったと思いながら一時村崎野駅に避難する。ここから、もう帰ろうかとも思ったが、まだ午後の1時半である。
幸い20分ほど経ったらやんだので、出発した。
街道に復帰して進むと。八重樫長兵衛氏之像と書かれた胸像が立っていた。大正2年飯豊町の旧家で生まれた郷土の先覚者で、北上市長も務め正七位勲五等双旭日掌を受賞した人である。
その横には、天照御祖神社、通称は伊勢神社の階段が続いている。江戸時代に南部藩士奥寺八左エ門定恒が伊勢神宮より勧請した神社で330年の歴史をもつ。
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昭和36年に設立した財団法人北上市開発公社の主要事業として造成整備した総面積127haの北上工業団地を通過していると、産業基盤、生活基盤の整備を進め目的達成して公社を閉めるのを期に記念碑を立てた旨の記述があった。工業団地を過ぎ、降雨の跡が残る道を進んで行く。
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飯豊川に架かる成立橋が見えてきた。そして、橋を渡って緩い坂道を上ると、成田一里塚がある。ここも、道の両方にほぼ原型をとどめて残っている。日本橋から129里(506.6Km)で盛岡まで10里(39.3Km)である。原型のまま残っているのは、こことひとつ手前の二子一里塚だけとのこと。
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成田一里塚を過ぎると、左側に多くの石仏、石塔が集められた場所があった。この先で花巻市に入って行く。花巻市に入って2Kmほど進むと、右側に薬師神社がある。江戸期には薬師堂で開基は江戸初期とのこと。
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薬師神社と道路を挟んだ反対側の左には、円通寺がある。
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円通寺を後にして進むと、花巻東バイパスに突き当たり行き止まりとなる。しかし、直ぐ左の僅かの高さの土手を上れば、バイパスを渡る交差点に出られる。
バイパスを渡って進むと、南城小学校があり、上館の歴史の説明板が立っていた。前9年の役(1051-1062)で源頼義が陣所を置いたところと伝えられ、その後諸氏が館を作って住んだとのこと。
小学校の校庭には、奥州街道名残の松があり、寛文5年(1665)、南部藩士奥寺定恒が花巻から伊達藩と境界である鬼柳まで植えた松の一部との説明が、当時の街道図と合わせて書かれていた。
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進んで行くと、右側に花南地区コミニティ消防センターと書かれた、瀟洒な建物が立っていた。又、その先の信号には、宮沢賢治記念館への案内板が立てられていた。
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右折すると、茅葺きの同心家屋が見えてくる。同心の始まりは天正19年(1591)に起こった「九戸政実の乱」により豊臣方に従軍した浅野長政の家臣の一部が花巻に留まり、そのまま南部氏の家臣である北氏の配下に組み入れられた事による。当初は花巻城の二の丸にある馬場口御門付近に住んでいたが、延宝8年(1680)に同心組30組が現在の桜町に移り住んだという。
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今川家と平野家の住居である。
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同心家屋から北に向かう小道は、化粧タイルを配した散歩道のような様相で、進むと国道4号線を渡って元の街道に復帰する。そして、直ぐに豊沢川を豊澤橋で渡る。ここからいよいよ花巻市街である。
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豊沢川を渡って直ぐの交差点には、豊沢町一里塚表示板が立っていた。日本橋より130里の一里塚で、城下町花巻の表玄関に威容を誇っていた。別名錦塚ともいうと書かれていた。
街道は次の信号で左折する。突き当たると、松庵寺で、外観は石造り、屋根にはインド、ネパール等の寺院にあるパゴダ(仏塔)が立ち、堂内はタイル張りの床に椅子が並ぶ異風な寺である。
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この寺は昔、真言宗の学寮だったが念仏行脚の僧が足を留め、念仏の教えを広めた。後の永禄5年(1560)広隆寺5世良縁上人を開山に念仏庵となった。また慶長5年(1600)花巻城夜討ちの難のおり、当時住職の存泰和尚が止宿中の津軽浪人3名と共に城を守った功によって、城代北松斎公から寺名に「松」の一字をもらい、「松庵寺」と呼ぶことになったという。江戸期にはたび重なる飢饉、疫病に苦しむ庶民たちに奉行所の蔵を開放させ、施粥釜(せがゆがま)を施し、このお助け粥により多くの民の命を救うことができたという。また、高村光太郎が宮沢賢治を慕って花巻に疎開していた時、妻智恵子や父母の法要を行い、その菩提を弔った歌詞も残っている。
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松庵寺を出て北に向かうと、この辺りが宮沢賢治生誕の地だとのことであるが、今は面影もない。そして、花巻市役所で右折する。
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市役所の角には、大手門跡の碑と花巻城の時鐘がある。正保3年(1646)、南部氏28代目の城主重直が、盛岡城の時太鼓を鐘に改めるために時鐘として作ったが、小さいので花巻城に移したものである。明治維新までは、二の丸(現花巻小学校敷地内)にあったが、ここに移され、午後6時に打鐘して時を報せている。
なお、この時鐘は、当時の冶工鈴木忠兵衛、忠左衛門によって造られたもので、市の指定文化財に指定されている。
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大手門跡を過ぎ、進んで行くと、右側に四百年以上の歴史を持つ花巻祭りの山車の車庫が見えてきた。山車は高さ13mもあるので、車庫もビルの3階建てより高いほどである。
さらに、200mほど進むと、左に円城寺門がある。この門は、慶長19年(1614)に盛岡藩主南部利直の命により花巻城主南部政直が「花巻城」の築城整備を行った際に、飛勢城跡から花巻城三之丸搦手「円城寺坂」の上に移築したもので、「円城寺門」の呼び名は、これに因んでいる。現在の門は戦中戦後の混乱で荒廃していたのを昭和36年(1961)修復したもので、花巻城で唯一残る建造物として重要な文化財となっている。
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円城寺門を観て、引き返し途中で花巻小学校の方に進む。街道は花巻小学校の校舎とグラウンドの間を通っており、小学校の校庭らしい銅像も建っている。また、校舎の2階の壁には宮沢賢治のシルエットが描かれていたが、通りかかった小学低学年の女の子2人に、あの絵は誰と聞いたら、口を揃えて宮沢賢治との答えが返って来た。やはり郷土の誇りの人物なのである。
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小学校の北の端に接しているのは、花巻城址である。花巻城の地に最初に城柵を築いたのは、阿部頼時で、戦国時代は稗貫氏の本城となり、秀吉の奥州仕置の後は、稗貫氏は領地を没収され浅野長政の家臣浅野重吉が代官として入城した。江戸期には、南部氏家臣の北氏が入場したが、北松斎は慶長18年(1613年)に死去し、その後は、南部利直が次男政直に2万石を与え花巻城主とした。政直急死の後は城代を置いて明治維新を迎えるまで続いた。
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今日の歩行はここまでにして、花巻駅に向かう。駅前には「やすらぎの像」と書かれた銅像が立っていた。駅のホームには、鹿おどりの衣装が飾られていた。
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久々の街道歩きで足が悲鳴をあげていた。体も疲労困憊で、北上駅まで東北本線で戻り、新幹線に乗ってからは、東京駅に着くまでほとんど眠っていた。足の回復にも2?3日掛かりそうである。


2012.04.16

前沢から金ケ崎・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計39,437(25.6Km)

昨年の10月12日以来の久しぶりの街道歩きである。今年に入っても寒い日が続き、ようやく暖かくなってきてのスタートである。
一ノ関で新幹線から東北本線に乗り換え、前沢駅には9:15着であった。これが我が家からの最も早い到着である。在来線は、通学の高校生であふれていた。

さて、駅を出発して駅前道路を進み街道に出て右折すると、岩手県指定文化財の太田家住宅が建っていた。「太田家住宅」は、明治43年、県内有数の資産家であった太田幸五郎によって、凶作などで疲弊した地元の救済事業(お助け普請)として建築された屋敷である。屋敷には1600坪の敷地に、主屋と炊き場、前座敷、土蔵、門、塀、庭園が配されており、明治期富裕層の屋敷構成をよく残している。このうち主屋と庭園、土蔵などが時代性を反映した建物と屋敷構成であるとして平成9年に岩手県の有形文化財に指定された。
なお、太田家では初代から4代目までの当主は、幸蔵を名乗り、5代目から幸五郎と続くことから、地元では「太幸邸(だいこうてい)」とも呼ばれているとのこと。

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大田家住宅から進むと、左側に霊桃寺がある。承和5年(838)慈覚大師一刀三礼の十一面観音像を本尊として「北長谷漆寺(天台宗)」がこの寺の始まりで、その後文永6年(1269)北鎌倉の建長寺の第四世佛源大休正念禅師を勧請開山として迎え「宝林山興化寺」として復興された。さらに、天正年間(1573-91)に前沢領主大内定綱の菩提所として、「興化山宝林寺」に改められた。寛文6年(1661)に松島瑞巌寺の桂室和尚が入寺、その2年後に前沢領主飯坂内匠頭宗章が16歳の若さで亡くなり、宗彰公の法名「霊桃院殿心巌恵空大禅定門」から霊桃寺と改名され今日に至っている。また、墓所には、高野長英の母美也(みや)の墓がある旨が記されていた。

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階段を登って行くと、俳句の小道の石碑が立っていて、優秀作品の数々が歌碑として立っていた。上り詰めて本堂を眺めると、前沢領主の菩提寺に相応しいものであった。また、境内からは、前沢の街並みが眺望できた。

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霊桃寺の隣は、熊堅神社である。長い参道を進むと本殿がある。熊堅神社は熊野神社の異称なのか、調べたが分からなかった。

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街道に戻ると、直ぐに岩手銘醸の看板を掲げた、醸造会社がある。会社案内によれば、昭和30年、大正初期から続いた蔵元2社が合併し、胆沢郡前沢町に岩手銘醸株式会社が誕生。以来、岩手誉を代表酒に、大桜・陸奥の友のほか数々の銘酒を育てるとともに、近隣市町村の米を使用して、江刺の古歌葉・藤原の郷、胆沢町の胆沢舞、金ヶ崎町の宗任・白絲御膳など各地の地酒作りにも協力していると記されていた。
ちょうど、会社の朝の始まり時刻と見えて、商品を車に積んで出荷する風景を見せていた。
徐々に家並みも閑散としてきて、このあたりが前沢宿の出口付近であろうか、枡形の名残かと思える道路のカーブも見える。

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やがて、一級河川で下流で北上川に合流する「岩堰川」にかかる「岩堰橋」を渡る。

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1Kmほど進むと、明後沢川の名の小さな川を渡るが、この上流には竪穴住居跡の遺蹟があり、縄文土器等も多数発掘されたとのことである。

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さらに、1Kmあまり進むと折井の分岐点で、街道は国道4号線から左に別れてしばらくは静かな歩行となる。車の騒音からも逃れられ静かな街並みを歩くのは気持ちが良い。奥州街道の間の宿であった折居の集落である。

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進むと、入り口に鉄道の踏切の信号機を配した場所があり、一瞬こんな所に廃線でも残っていたかと思ったが、タミヤの鉄道模型屋さんであった。
そして、静かな通りは終わり、また4号線に合流すると、少し先に真城寺があった。

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真成寺の由緒は定かで無いかが、胆沢三十三観音霊場、第二十三番札所となっている。
金色の観音像が国道に面して立てられていた。

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満蒙開拓青少年義勇軍における自らの体験を綴った「土と戦ふ」という当時のベスセラーの著者で江刺郡福岡村口内出身の菅野正男を顕彰せんと、市内真城雷神の今野養市さんが昭和49年(1974)4月、独力にて建立した哈川神社(はせんじんじゃ)が左側にあった。
しかし、先日の強風のためか杉の大木が倒れかかり、鳥居も潜って進めない状態になっていた。満蒙開拓時代の記憶を薄れさせないためにに大きな存在であり、修復を願いたいものである。

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その先には、昭和稲荷神社があった。昭和稲荷神社と刻された石碑と、形の良い狛犬ならぬ狐の像が立っていた。
その少し先には、水沢市制50周年記念として、真城村役場跡の石碑が立っていた。
明治22年(1889)4月1日 – 町村制が施行され、中野村、秋成村の一部、常盤村の一部が合併し、胆沢郡真城村が成立した。その後、昭和29年(1954)4月1日 – 水沢町、姉体村、真城村、佐倉河村、黒石村、羽田村が合併し、水沢市となるが、それまでは、ここに村役場を置いていた。

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この辺りは、赤い鳥居の目立つ地域であるが、次に現れたのは、立木八幡神社である。
先に進むと、街道は左に国道4号線から別れる。すぐに真城の一里塚の案内板があるはずだが、見逃した。

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水沢市街が近付いてきて、左側に大林寺墓地の表示があったので坂道を上ると「斉藤實(さいとうまこと)」の大きな墓があり、墓標が立っていた。斉藤實は、水沢藩士斎藤耕平の子で、明治17年(1884)アメリカに留学、米公使館付武官を兼ねる。 1888に帰国し海軍参謀本部に出
仕、ついで多くの役職を歴任した。 1898年に海軍次官に就任、軍務局長・艦政本部長・教育本部長を兼任して軍政畑を歩き、西園寺内閣で海相となった。 以来5代の内閣に留任して在任9年におよんだ。大正元年(1912)大将に昇進、1919年の三・一独立運動勃発直後の朝鮮に総督として赴任、「武断政治」からいわゆる「文化政治」への転換をはかり、治安体制の整備拡充に務めた。 昭和2年(1927)ジュネーブ軍縮会議全権委員、枢密顧問官を勤めた。1929?31再び朝鮮総督に着任し、1931(5・15事件)の後を継ぎ内閣を組織。1935内大臣。2.26事件で暗殺された人物である。位階は従一位。勲位は大勲位。爵位は子爵であった。

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漸く、水沢市街の入口に到着して、近くの食堂で昼食を摂り、水沢公園に向かう。途中には古くから利用された水路が、整備された流れを見せていた。
公園への階段を上って、西の方に進むと、後藤新平のボーイスカウト姿の銅像が立っていた。後藤新平はボーイスカウトの初代総長だったのである。銅像は明治44年(1911)に建立されたが、太平洋戦争で応召し、その後昭和46年(1971)東北3県のライオンズクラブの年次大会で記念事業として再建が決まったとのことである。

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公園の北西の角には、陸中一宮の駒形神社がある。式内社で、旧社格は国幣小社で奥宮が胆沢郡金ケ崎町の駒ヶ岳山頂にある。祭神は「駒形大神」であるが、この神については、宇賀御魂大神・天照大神・天忍穂耳尊・毛野氏の祖神など多数の説があり、はっきりしない。現在は、天照大御神、天之常立尊、国之狭槌尊、吾勝尊、置瀬尊、彦火火出見尊の六柱の総称としている。駒形大神は馬と蚕の守護神とされ、馬頭観音あるいは大日如来と習合し、東日本各地に勧請されて「おこま様」と呼ばれている。馬の守護神とされたのは、古代、この一帯が軍馬の産地であったためと考えられる。
水沢公園を後にして、横町の交差点に差し掛かると、火消しのまといのような飾りがあり、心字の街と横町組長印の由来の説明板が立っていた。
水沢は、旧奥州街道の宿駅の一つとして形成され、江戸時代から宿場・街道交通関係や魚網生産等の産業で発展してきた。
町の中心である水沢城と六町(川口町、立町、柳町、大町、横町、袋町)は、防衛上の理由と繁栄の願いから「心」の字形を象って整備されたといわれている。この近世水沢の歴史は、度々起きた大火との戦いの歴史でもあったが、留守宗景の時代、江戸の大火を契機に、水沢でも火消しの原形となる組織が生まれた。その後、村景の時代、江戸の町火消組織に習い、六町に火消組が編成されたという。

その後始まった火防祭(ひぶせまつり)でも、先頭に並ぶ町印は、城主が火消組の印として六町にそれぞれ与えたといわれる。「仁心火防定鎮(じんしんかぼうじょうちん)」の6文字の一字、すなわち仁(川口町)、心(立町)、火(柳町)、防(大町)、定(横町)、鎮(袋町)が割り当てられた。ここは横町なので定である。

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横町の交差点から進んで最初の信号を左折して、日高神社の参道に向かう。600mあまりの長い参道である。最初の丁字路で右折すると、高野長英が9歳から江戸に出る17歳まで過ごした、母美也(みや)の実家がある。高野長英は、文化元年(1808)5月、水沢領主留守氏家臣の後藤惣助の3男として吉小路で生まれたが、9歳で父が没したため大畑小路の母美也の実家高野家の養子となり養父玄斎から蘭学を、祖父玄端から漢学を学んで育ったところである。
家は明治9年(1876)に一部改築されたが、開花の8畳、6畳は町営の居室としてよく保存されており、国の史跡に指定された。

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高野長英の育った家の左隣には、留守家の大番士を勤めた家臣の高橋家の家が保存されている。非公開であるが、屋敷内は江戸時代の建物配置をとどめ、明治7年(1874)から8年にかけて建てた母屋は唐破風の玄関と木彫りや障壁画で建物を飾り、当時としては珍しい窓ガラスやレンガも使った和洋折衷の建物でガス燈がひかれているとのこと。
ここからは、日高神社まで整備された美しい石畳の参道が一直線に通っている。

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日高神社の長い参道には、幾つかの武家屋敷が保存されており、趣きのある佇まいを見せる参道となっている。

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日高神社の創建は弘仁元年(810)嵯峨天皇の勅命によりこの地に勧請した事が始まりとされる。前九年合戦では源頼義が戦勝祈願し、源義家が安倍貞任を討った太刀を洗ったという「太刀洗川の碑」がある。また、境内には義家が酒宴で刺した箸が根付たとされる姥杉が奥州市指定天然記念物 となっている。その後も藤原氏、伊達氏などの支配者に崇敬され、特に初代伊達藩主政宗も参拝したという記録が残っている。水沢領主となった留守氏も代々の崇敬社としたとのこと。日高神社の本殿は寛永9年(1632)に建立された三間社流造の建物で国重要文化財に指定されている。神社の名称には諸説あり、前九年合戦の折、頼義が祈祷した所、雨が急に止み日が差し込んだ時に敵の将であった安倍貞任を討ったという謂れや、この場所は元々日高見国と呼ばれていた事などがある。

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日高神社の境内を後にすると、留守宗利の銅像が立っていた。留守宗利は、伊達政宗の祖父の伊達晴宗の3男に生まれ、晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、奥州の名族・留守氏を継ぐことになった留守政景の長男である。15歳で元服し父の移封に従い一ノ関に移ったが、18歳で父の政景が59歳で没し、その後金ケ崎城に移されたが、元和元年(1615)に願い出て許され、水沢城に移り、留守氏は幕末まで水沢城主として続くこととなった。宗利は水沢初代城主として、街区地割り、武士の住む四町八小路など水沢の街の建築、産業の育成などに力を注ぎ、多くの礎を築いたが49歳、道半ばで没した。嫡男宗直13歳のときであった。
日高神社を後にして、今度は新小路を通って引き返したが、途中で左に入ったところには、高野長英生誕の地の記念碑も立っていた。

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新小路にも幾つかの武家屋敷が残っていた。やがて大きな商業施設のメイプルが見えてくる。
元はジャスコ水沢支店であったが、撤退して地元資本に移ったようである。

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メイプルのある交差点で左折し、街道に復帰する。街中に「ひぶせまつり」のポスターが貼られている。進んで大町に入ると、やはり大町のシンボルの飾りが立てられていた。

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進んで乙女川を渡り、少し上流方向に向かうと、対岸に先人館がある。乙女川先人館では、山崎為徳、箕作省吾、吉川鉄之助の三先人についての資料等を展示している。
山崎為徳は、斉藤實、後藤新平と並び、郷土の3秀才と謳われ、学んだ同志社英学校でも開校以来の俊才と言われた。明治12年(1879)、郷里水沢の青年たちの招聘をうけ、夏季休暇中に帰郷、プロテスタントの教えを説いた。そのことが後に水沢にキリスト教を根付かせる要因ともなった。明治13年(1880)主著『天地大原因論』を発表。そのほか同志社英学校の校務や講演会など精力的に活躍するが、肺結核にかかり、明治14年(1881)京都市の新島邸宅内で24歳で死去した。

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乙女川の先の柳町の交差点を左折すると、ここから代官所跡までを立町で、かつては水沢宿の本陣、脇本陣が置かれ、土蔵を持つ豪商の店も立ち並んでいたが、鉄道の発達などにより商業の中心が大町や横町に移ったと言われている。途中に珍しく「太鼓屋」の看板があったが、二本松で見た太鼓店以来であった。しかし、覗きこんだ限りでは、閑散としてあまり繁盛しているようには見えなかった。

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突き当たって、立町の交差点には、代官所跡の石碑が立っていた。現在も立派な門構えの住居となっている。そして少し先には、もう馴染みとなった川口町の街のシンボル飾りが立っていた。

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街の火防飾りの隣には、大日堂がある。創建は不明だが、宝永5年(1776)の風土記「塩釜村御用書出」に、羽黒派九ヶ院の名前があり、その一つである喜楽院の修験道場が川口町にあったことが記載されている。
明治初年の廃仏毀釈で、修験道場は姿を消したが、現在は大日如来が本尊として祀られている。
少し先の境田堰に架かる不断橋の欄干に鉄道馬車(トテ馬車)のレリーフと説明がある。大正2年、水沢駅前からこの不断橋を通り岩谷堂船場まで約8キロメートルの間の運行を開始した。
ここは、水沢城下の北の出入口で、警備のために御不断組の家屋が配置され、「不断丁」(現不断町)と呼ばれていた。不断橋の名もこの不断丁に由来する。

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水沢市街を抜けて、進むと東北本線のと跨線橋がある。渡って左に下って行くと、赤い前掛けの地蔵さんが安座していた。
進んで中ノ町交差点を過ぎ、東水沢バイパスをくぐると、茂井羅堰中堰の細い流れがある。流れは細いが、用水路として重要な存在で歴史は古く、文書に見えるところでは、元亀年間(1570-72)に北郷茂井羅という女性が用水を開削したという言い伝えがある。しかし、土地に残された事物は、その遥か以前から水田が拓かれていたことを物語っている。
もう一つの重要な用水は寿安堰で、こちらは時期と工事を行った人がハッキリしている。江戸の初期、元和4年(1618)に伊達政宗の家臣、後藤寿安が着工し、一時の中断の後、地元古城村の千田左馬と前沢村の遠藤大学がこれを引き継いで寛永8年(1631)に完成した。

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堰の直ぐ先には、薬師堂温泉入り口の看板が見える。水沢区で始めて湧出した天然温泉で、日帰りの入浴、宴会場としての利用も多そうである。
道路の右側に高橋甚三郎先生碑と書かれた大きな石碑が立っていた。高橋甚三郎は、信長に攻められた朝倉義景が平泉寺に味方を頼むが断られ、また朝倉景鏡のは裏切りにあい六坊賢松寺で自刃したとき、鳥井与七郎とともに介錯し、その後、二人とも追腹を切ったことが信長公記第6巻に書かれている人物である。何故ここに石碑が有るのか不明である。追腹を切ってなくなったのは福井県で、地理的にも遠く離れている。もともとこの地方の出身であったのであろうか。

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田園地帯を進む道路である。少し先の左側に、鎮守府胆沢城の看板が見えてきた。この辺りが、胆沢城の南の入口付近である。

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左への道路を少し入ったところに埋蔵文化財調査センターがあり、発掘品の展示も行なっている。少し覗いてみた気がするが、先を考えると時間がなく諦めた。
少し先の右側には「史跡胆沢城跡」の大きな石碑が立てられていた。

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発掘調査に基づく、当時の建物の配置図も設置されていた。政庁の中欧に向かう道路も作られていたが、多賀城のようには整備されておらず、広大な土地の広がりがあるのみであった。

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広い胆沢城の北の端には、鎮守府八幡宮があり、鳥居を入ると前に広がる荒野然とした様相と異なり、手入れの行き届いて静謐な雰囲気が満ちていた。
神社に至る道は、仮舗装道路のようで細い道路であることからも予想しがたいものであった。
創建は延暦20年(801)に坂上田村麻呂が桓武天皇の命により東奥鎮撫のとき、胆沢城鎮守府に九州宇佐八幡宮神霊を勧請して鎮守府八幡宮と尊号したものである。
祭神は、應神天皇(誉田別尊)、神功皇后(息長帯姫命)、大市姫命である。
しかも、保有する宝物に、嵯峨天皇宸筆の八幡宮寳印、坂上田村麻呂奉納の宝剣と鏑矢、
源義家奉納の御弓、伊達氏奉納の太刀などと知れば、崇拝熱く大事にされているのも納得できる。当然2礼2拍手1礼でお参りする。

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八幡宮を後にして、県道に戻る手前に三代清水の名の湧き水がある。坂上田村麻呂、源頼義、義家の三代の飲用により命名されたと記されていた。昭和20年ころまでは、生活用水として使用されていたとのこと。
街道を歩いていると、かつての名水とされた湧き水が、使用不可になっている例が多いが、これは人の住む空間の広がりのみならず、使わなければ水脈が衰えるからであろうか。

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県道に出ると、直ぐに胆沢川にかかる再巡橋がある。胆沢川は、江戸時代初期までは徒渡りで、以後は船橋や舟渡しであったが、明治天皇の東北巡幸に備えたて橋が架けられた。しかし、最初に架けた橋が流失し、再度巡幸される時に架け直されたため、「再巡橋」と名付けれらたとのこと。
胆沢川は、岩手県南西部、奥羽山脈の焼石岳北麓に源を発し、奥州市北東部で北上川に注ぐ。途中石淵ダムに入り、尿前川、永沢川、黒沢川を合わせる。 平成7年(1995)に建設省河川局が行った「全国一級河川の水質現況」で、 胆沢川は全国で4番目の清流河川に選ばれている。

また、胆沢川は前九年の役(1052?62年)で、安倍貞任一族が、衣川の柵を捨て胆沢川の柵を楯にして戦ったところである。少し上流の黒沢川の合流点に、安倍氏12柵の一つ、鳥海柵(とのみのさく)があり、前九年の役では安倍宗任が柵主をつとめた。

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再巡橋を渡り、1Kmほど進むと県道から左に、金ヶ崎宿の入口がある。奥州街道と書かれた案内の表示杭が立っていて分かり易い。進むとお堂が建っていて南町集会所がある。ここで右折して進むと、奥州街道三十一里半杭跡の説明板が立っている。伊達政宗が幕府から命じられた一里塚の他に、独自に仙台青葉城を起点として一里杭、半里杭を建て、仙台藩領内統治の目安としたとのこと。従って、三十一里半とは、青葉城から約126Kmの地点を示している。なお仙台藩北端の相去御番所(相去村足軽町)の三十三里半杭が最終杭である。街道はここで右折する。

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再び県道に出て進むと、左側に金ヶ崎町役場が見え、さらに進むと矢来の交差点で、左折すると300mほどで金ヶ崎駅である。平成16年に改築されたばかりの駅舎で、新しく美しい。また改築以降、同一建物内に金ケ崎商工会、岩手ふるさと農業協同組合金ケ崎支店が入居している。今日はここで切り上げ、電車で水沢に戻り一泊する計画である。

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歩けば長いが、電車では10分ほどで水沢に戻り、駅前で予約してあるホテルに向かった。
水沢の駅前通りは、やはり賑やかである。

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2011.10.12

平泉から前沢宿・・・(旧奥州街道)

平泉駅前広場から北に向かう旧街道を進むと、100mほどで東北本線の踏切を渡り、さらに100mほど進むと、伽羅御所(きゃらごしょ)跡の標柱が立っていた。伽羅御所は、藤原氏3代秀衡に至って隆盛を極め、秀衡は鎮守府将軍および陸奥守に任じられ柳之御所が藤原氏の政庁として機能するようになったため、新たに柳之御所の南側堀を隔て西南隣接地に居館として伽羅の御所を設けたものである。秀衡の居館に加えて4代泰衡ならびに子息たちの屋敷も周囲に並んでいた。
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旧街道の雰囲気の中を進むと、直ぐに「柳の御所跡入口」の標柱があるので右折する。
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進むと、広大な「柳の御所跡」である。奥州藤原氏の政庁「平泉館(ひらいずみのたち)」跡であり、広さは東京ドームの約2.5個分にあたる11.2万平方メートルの広さがある。現在は、約半分が柳之御所史跡公園として整備され、池、堀、道路などが復元されている。今後は建物も復元整備される予定である。
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「柳の御所」の東側には北上川(古名は日高見川)が流れ、その向こうには束稲山(たばしねやま)があり、”大”の字が薄く見える。今年も、8月16日には、被災地で倒壊した家屋の木材などを使用して「大文字送り火」が行われた。
柳の御所から、北西方向に細い道を高舘(たかだち)跡に向かう。右側に木の階段が見えてきて上って行く。
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木の階段を上ると、高館義経堂(たかだちぎけいどう)の入り口があり、入場料を払って石の階段を上って行く。上って左に曲がれば義経堂だが、先に右方向にある芭蕉句碑を見ることにした。
三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて金鶏山のみ形を残す。先ず高館に上れば北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて大河に落ち入る。泰衡等が旧跡は衣ヶ関を隔てて南部口を差し固め夷を防ぐと見えたり。さても義臣すぐってこの城にこもり巧名一時の叢となる。「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」と笠うち敷きて時の移るまで涙を落とし侍りぬ。
 夏草や  兵共が 夢の跡

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この場所から、北上川が良く眺望出来る。その向こうには、桜の名所として知られた束稲山(たばしねやま)が望まれる。吾妻鏡によると、安倍頼時が桜一万本を植えたと記されている。
西行も69歳での勧進の旅で奥州をを訪れ、次の歌を残している。
ききもせず 束稲山の桜花 よしののほかに かかるべしとは
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高館義経堂の方に向かうと、頼三樹三郎の詩碑が建っている。頼三樹三郎は頼三陽の三男で詩文に優れ、弘化3年(1846)、ここを訪れ「平泉落日」の感傷を詠んだものである。藤原と鎌倉、義経と頼朝の悲しい関係等を折り込み、歴史の浮き沈みの儚さと、自然の美しさを詩にしている。なお、三樹三郎は母が存命している間は自重していたが、やがて母も没すると、家族を放り捨てて勤王運動にのめり込み、のちの安政の大獄(1858年)で捉えられ、江戸小塚原刑場で斬首されている。
義経堂への最後の階段の脇に「資料館」があり、入ると正面に木製のコミカルとも思える仁王像が立っていた。また、藤原氏系図、源氏系図や藤原三代の時代の詳細年表などが展示されていた。
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階段を上ると、義経堂が建っていた。天和3年(1683)、仙台藩主第4代伊達綱村が義経を偲んで建てたもので、中には義経の木像が祀られている。また、義経堂右奥には、昭和61年、義経公主従最期の地であるこの高館に、藤原秀衡公、源義経公、武蔵坊弁慶八百年の御遠忌を期して、供養のために宝篋印搭(ほうきょいんとう)が建てられた。
文治5年(1189)閏4月30日、鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。 また、弁慶が矢を射られて死んでも寺を守った、と言う伝説もある。
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高館から下ってゆくと、東北本線の線路が見えてきて、踏切を渡る手前に、卯の花清水がある。新しく造られた碑文には、以下が刻まれていた。
文治5年(1189)、高舘落城のとき、主君義経とその妻子の悲しい最後を見届け、死力を尽くして奮闘し、敵将共燃え盛る火炎の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣、兼房、年66歳。
元禄2年、芭蕉が、門人曽良とこの地を訪れ、「夏草」と「卯の花」の2句の残した。
白く白く卯の花が咲いている。ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。
古来、ここに霊水がこんこんとわき、里人、いつしか、卯の花清水と名付けて愛用してきた。
行き交う旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、渇をいやし、そこ「卯の花」の句碑の前にたたずんで、花に涙をそそぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう

右の写真の丸い石碑は曽良の句で「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」と刻まれている。卯の花清水の名前は、この句よりきているとのこと。
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東北本線の踏切を渡って進むと、国道4号線に突き当たる。中尊寺のバス停がある。国道から左折して中尊寺入り口に進む。団体で訪れる人が多そうだ。なるべく人の流れが途絶えた瞬間を捉えて写真撮影することにした。
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中尊寺の参道は、月見坂といい、江戸期に伊達藩により杉の木の植樹が行われ、今では樹齢300年を超える大木が茂っている。また、ここは北に向かう街道でもあり、中尊寺本堂を過ぎた所から衣川の方に向かう道が続いていた。
ともかく、月見坂を上って行くと最初に出会うのが、八幡堂である。八幡堂の創建は天喜5年(1057)当時鎮守府将軍であった源頼義と子の義家が俘囚の長である安倍氏を討つ(前9年の役)為、この地で戦勝祈願した事が始まりとされている。「吾妻鏡」でも中尊寺の年中行事の中で八幡神社で法会が行われた事が書かれている。
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急な月見坂を上ってゆくと、参道の両側に黒い門柱が建っており、この先左に弁慶堂がある。弁慶堂は入母屋の金属板葺きの屋根でかなり細かい彫刻が施されている。案内板によると「この堂は文政9年(1826)の再建。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した。傍らに義経公と弁慶の木像を安置。弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿であり、更に宝物として国宝の磬及び安宅の関勧進帳、義経主従が背負った笈がある」とのこと。
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次は、地蔵堂である。堂内に安置されているのは、もちろん地蔵菩薩である。
続いて、薬師堂がある。案内板によると「藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった。その旧跡は他の場所であったが、明暦3年(1657)に現在地に建立された。堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置されている。
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参道は平坦な道になり、舗装され整備の行き届いたものとなる。そこで、現れたお堂は「観音堂」である。観音は一般的には観音さまと呼ばれ、日本で一番信仰を集めていて衆生の苦しみや救いの声を聞きつけて馳せ参じてくださる仏様で 性別は女性でも男性でもないとされ、必要に応じて刹那刹那にあらゆる姿に変化される「かたよりのない存在」といわれている。
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漸く、中尊寺山門の前に来た。この山門は、一関藩主「伊達兵部宗勝」の居城であった一関城から万治2年(1659)に移築された。通常の寺院の門の造りとは異なり、前面のひさしが深く、脇門のある薬医門であることからも、その出自を窺い知る事が出来る。
山門を潜ると、中尊寺本堂である。明治42年(1909)の再建で、ご本尊は阿弥陀如来で両脇には、天台宗総本山比叡山延暦寺から分けられた「不滅の法燈」がある。最澄が灯して以来消えたことのないと伝わる法燈であり今も護られている。
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中尊寺本堂を出て金堂の方に向かうと、不動堂がある。ご本尊の不動明王は、右手に宝剣を持ち、どんな邪悪をも断ち切る。しかし、左手の羂索(けんさく)は救いを求める人を搦めてすくい上げてくださる、そういう姿を示している。この世に生きる私たちの過ちを直し、苦悩を取り除いてくれるご尊体である。
参道の右側には、峯薬師堂がある。案内板によると、もと経塚山(金色堂の南方)の下にあったが、天正年間(1573?1591)に荒廃、のち元禄2年(1689)現在の地に再建された。御本尊は丈六(約2.7m)の薬師如来の座像でカツラ材の寄木造り、金色に漆を塗り金箔をおいたもので、藤原末期の作で重要文化財である。ひらがなの「め」と書かれた絵馬が沢山懸けられていて、特に目の疾患にご利益があるようである。
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次は、大日堂である。文字通りご本尊は大日如来である。
そして、進むと阿弥陀堂がある。ご本尊は阿弥陀仏であるが、阿弥陀如来とも呼ばれる。人々が死後行 くという西方極楽浄土の教主で、極楽往生を 願って南無阿弥陀仏と唱えれば必ず極楽へ行けると説いた、浄土宗、浄土真宗の本尊として祀られている。
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いよいよ金色堂を見る。金色堂そのものは撮影はできないので、覆堂を撮影することになる。
金色堂は国宝に指定されていて、天治元年(1124)の建造である。奥州藤原文化の数少ない建物の遺構の一つである。初代藤原清衡により建立され、当時の技術の粋を集められている。一辺が3間(5.46m)の宝形造り、木瓦葺の小堂で、柱、壁、床、天井、扉など総漆塗りの上に布を張りさらにその上に金箔を張っている。屋根を支える4本の柱には一本当り4体の仏が3段、合計12体、金色堂全体では48体が漆の蒔絵として描かれている。須弥壇内部には中央に初代清衡公、左に二代基衡公、右に三代秀衡公の御遺体(四代の泰衡公の首級も共に)が安置されている。内陣内部には中央に御本尊である阿弥陀如来を安置し、観音菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩、持国天、増長天などの仏像が並び当時の文化の高さを感じさせる。
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金色堂の見学を終え、外に出ると芭蕉の句碑が建っていた。
五月雨の 降残してや 光堂
次は経蔵である。間口3間、屋根は宝形、金属板葺き建物である。当時の文化を伝える数少ない建物の一つで、彩色などは剥げ落ち、平屋建てにするなどの改修がされている。現在の建物は平安時代の古材を使って鎌倉時代に造られたものとされ、案内板によると「創建時の経蔵は、「供養願文」には「2階瓦葺」とある。建武4年(1337)の火災で上層部を焼失したと伝えられてきたが、古材をもって再建されたものである。国重要文化財に指定されている。
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進むと、旅姿の松尾芭蕉の銅像が建っていた。そして、古い金色堂の覆堂である。旧覆堂は、現在の覆堂になるまで金色堂を覆い、雨風から金色堂を守っていた建築物である。現在の覆堂が建設された為、ここに移築された。室町時代中頃建設され、約500年間金色堂を守っていたそうである。松尾芭蕉がこの地を訪れた際には、この旧覆堂の中にある金色堂を見たはずである。
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旧覆堂の次は、大長寿院である。この寺は、歴史ある中尊寺の中でも、最初院と呼ばれる多宝塔の次に古いもので、初代清衡公が嘉承3年(1107)に建立したとされる。この本堂の奥には、あの頼朝を驚かせたという阿弥陀堂(二階大堂と称される)という高さ15m(5丈)にも及ぶ巨大な伽藍が天に向かってそびえていた。当時、そこには何と9m(3丈)もあるという巨大な阿弥陀仏が安置され、周囲には、4.8m(1.6丈6尺)の脇侍が九体控えるという壮大なものだった。余りの荘厳ぶりと巨大さに、奥州に侵攻した頼朝は、腰を抜かさんばかりに、驚いたという。もちろん今は焼失して存在しない。
大長寿院から、白山神社に向かう。案内板によると「仁明天皇の御代嘉祥3年(850)中尊寺の開祖である慈覚大師が加賀の白山をこの地に勧請し自らは十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現と号された。配佛としては、橋爪五郎秀衡の持佛で運慶作の正観音と源義経の持佛で毘沙門天が配案されていたが、嘉永2年正月8日(1849)の火災で焼失した。現在ある能舞台は嘉永6年(1853)伊達藩主伊達慶邦から再建奉納されたものである。明治9年秋には、明治天皇が御東巡の折りに当社に御臨幸あらせられ、古式及び能舞を天覧あらせられました。」とある。
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芭蕉句碑の他にも、下記の句を刻んだ句碑が建っていた。
眼にうれし こころに寒し 光堂」福地直哉
なな重八重の 霞をもれて 光堂」伊藤雅休
金色堂の向かい側に池があり、中央に小島があって、茅葺の寄棟造りの弁財天を祀っている。案内板によると「当堂は宝永2年伊達家寄進の堂宇にて弁財天十五童子像を安置す。弁財天はインドの薩羅我底河より生じたる神にて水に縁深く池、河の辺に祀られる。」とある。
色づき始めた紅葉に囲まれ、池の水にも映え美しい。
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中尊寺の西側にある、細い急な坂道を衣川の方に向かう。途中には、「茅葺屋根の家」と「お寺の庫裏」ではと思える家屋が建っていた。いずれも中尊寺に関連のある建物であろうか。
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更に下ると、左側に中尊寺墓地がある。道は益々急になる。人影は全くない。
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坂道を下りきると、そこは衣川の堤防の下で、常夜灯を両脇に備えた地蔵尊が立っていた。旧街道は、この辺りで衣川を渡っていた。目の前の堤防には、斜面を上る簡単な階段が切られていて、堤防に上り下流方向を見ると、国道4号線の衣川橋が見え、その向こうには見えるのは束稲山である。
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下の写真は、衣川上流方向である。上流には阿部の一族が造った衣川柵があり、阿倍貞任が防御を固めていた。前9年の役では、阿部貞任、藤原経清の率いる兵と源頼義、義家の兵が死闘を繰り広げたところである。
一男八幡太郎義家、衣川に追ひたて攻め伏せて、「きたなくも、後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ。」と言はれたりければ、貞任見返りたりけるに、「衣のたて(館)はほころびにけり」と(下の句を)言へりけり。貞任くつばみをやすらへ、しころを振り向けて、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と(上の句を)付けたりけり。その時義家、はげたる矢をさしはづして帰りにけり。さばかりの戦ひの中に、やさしかりけることかな。・・・古今著聞集
hiraizumi_52.jpg衣川橋を渡り、1Kmほど進み国道から左に外れて、衣川区瀬原地区に入って行く。静かな街並みで国道を歩くよりは感じが良い。瀬原郵便局を過ぎると、道は上り坂となり左手には、民宿姫乃屋の看板も見える。
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坂を上りきり、下って行くと東北自動車道の平泉前沢インターチェンジで、旧街道はなくなっている。このために大きく左に進んで自動車道のガードを潜る。ガードを潜って向こう側に出ると、自動車部品製造の(株)フジタの大きな工場がある。
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工場の前の新しい道路を下って行き、徳沢川を渡ると100mほどで左折して進むことになる。
また、この辺りから先ほど歩いてきた上り坂の頂上付近にあった、お城のような衣川懐徳館(資料館)、国民宿舎のサンホテル衣川荘が見える。
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進んで行くと、「奥州道中」の案内板が立っていたが、この辺りは工業団地として、再開発されたところと思われ、旧街道は全く残っていないし、歴史的な遺構も見られなかった。インターチェンジと合わせて旧街道がほぼ完全に破壊されたしまったようである。
そして、白鳥川を渡って、ようやく旧街道の雰囲気が感じられる街に入って行く。
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左に白鳥神社の階段が見えてきた。由緒書きによると、白鳥神社は第50代桓武天皇の延暦20年(801)に坂上田村麻呂の蝦夷平定に際し日本武尊を鎮祭した神社とある。
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白鳥神社を後にして細い道路を進む。広い通り出たところのバス停は「丁切」であった。
「前沢牛オガタ本店」の看板を掲げた立派な建物が建っていた。前沢牛と小形牧場牛の販売ならびにレストランである。
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300mほど進むと、左に西岩寺の長い階段が見えてきた。文化2年(1805)西岩寺9世唯峯不白和尚が勧請建立した五百羅漢と十六羅漢がある。五百羅漢は、昭和24年(1949)の火災で477体を焼失し、現存するもの28体、極彩色の木製坐像である。現在は境内に設立された収蔵庫に保管されている。見上げると本堂は、3.11の大災害の被害を受けたためか、新たに建造中であった。街道に戻り進むと、五十人町の枡形がある。クランク型のまま残っている。
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枡形から200mほど進むと三日町で、右側に佐藤屋旅館がある。玄関前に「明治天皇前澤行在所」碑があった。ここで宿泊したのであろうか。
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佐藤屋旅館の反対側には(株)三清商店がある。最近はこのように古い佇まいの店を見ることは珍しい。進むと、2つ目の枡形がある。前沢駅への道路を右方向に作ったので、単純なクランクではなくなっている。ともかく、今日の歩行は前沢駅までと決めていたので、右折して駅に向かう。
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駅への途中で、とても古い作りの薬局があった。一階のお店の内装は今風にしているようではあった。前沢駅は、駅員1人の小さな駅であったが、新幹線の特急券の買える自動販売機もあり、駅員がいる窓口では、「大人の休日倶楽部」の割引で横浜市内までの乗車券と、新幹線の座席指定特急券を買うことができた。
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一関から平泉・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計41,963(27.3Km)・・・一関から前沢までの歩数と距離

朝の7時の一ノ関駅である。寒い。薄い霧がかかっている。駅前交差点から大町通りに進む。ところで、地名の一関は”ノ”が入らないのに駅は一と関の間に”ノ”が入るのが不思議である。
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まだ、早い朝なので最も賑やかと言われる大町通りもひっそりしていて、当然だがお店も開いていない。古い宿場町の雰囲気を考慮した作りのお店も並んでいる。
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地主町角交差点で左折して進む。地主町の商店街である。ここも静かである。
磐井橋の手前で、左折して田村町に入って行く。直ぐに右手に世嬉の一酒造がある。
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島崎藤村も逗留した一関の豪商「熊文」の後を受け、佐藤徳蔵が大正7年「横屋酒造店」を設立したのが前身である。当時三千数百石の仕込み量を誇ったが、昭和18年の国策による企業合同により、この地方の14社の酒造会社と合併し、両磐酒造が生まれたが、昭和32年に再び分離独立し、現在に至っている。酒蔵は大正7年に造られた東北最大の蔵を中心に昭和初期にかけて多くの蔵が建てられ、中には一層目を石造りとし、アーチ状の窓やレリーフ、曲線の方立てなど洋風建築の要素を入れ込んだものもあり、バラェティーに富んでいる。一時映画館などに利用されていたが現在は資料館やレストランなどに利用され国登録有形文化財に指定されている。
世嬉の一の社名は、大正時代、戦前の宮家の一つで「髭の宮さま」として知られた閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)殿下が当所へお越しになり、その際「世の人々が喜ぶ酒を造りなさい」ということで命名されたものとのことだが、一関を逆にしたのではと思われてならない。
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一関藩の家老職を勤めた沼田家の住居である。磐井川の幾度かの氾濫にも耐え、約300年の歴史がある。一関藩は3万石となっているが、実際は2万3千石程度で財政面では常に逼迫した状態にあり、家老職を務めた住宅であっても破風付な玄関など華美な装飾がなく極めて質素な形態を取っている。藩政時代を偲ぶ貴重な遺構で一関市指定有形文化財となっている。
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街道に戻り進むと、岩井橋の手前に「明治天皇一関行在所」碑が立っており、直ぐ側に「松尾芭蕉二夜庵跡」の看板が立っていた。松尾芭蕉が元禄2年(1689)5月12日の夕刻に到着して金森邸に泊まり、翌日平泉を巡り、再び宿泊したので「二夜庵」と呼ぶようになったと言われている。
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磐井橋を渡る。上流側を見ると、遠くに一関城のあった釣山公園が見える。磐井川は県境の栗駒山北麓を源とし、この先で北上川に流入している。
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磐井橋を渡り右折して振り返ると、橋の向こうに市街が望めたが、NTT一関ビル屋上のアンテナは霧のために霞んで見えた。川の堤防の道から中央町に入って行くと、文字はほとんど消えているものの「俳聖松尾芭蕉紀行の道」碑が建っていて、元禄2年5月13日紀行と書かれていた。
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次に、「29代横綱出生地 宮城山福松」の碑が建っていた。本名を佐藤福松といい、明治28年この地で生まれ、明治43年16歳で出羽の海部屋に入門して岩手山を名乗り、後に宮城山と改めた。その後大阪相撲高田川部屋に移り、大正11年に横綱に昇進した。昭和6年に引退して年寄役芝田山として後輩の指導にあたり昭和18年49歳で他界した。墓は円満寺にある。
この後、旧街道を思わせる街並みが続く。
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進むと、五代川を渡り、宮前町に入って行く。道の左側に配志和(はいしわ)神社の鳥居が建っていた。この神社は延喜式神名帳にも記載されている所謂「式内社」である。創建は日本武尊が蝦夷征伐の際、高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)の三神を祀り戦勝祈願した事から始まり、当初は山頂に祠を建て火石輪神社と称していたが中世に入り現在地に遷座した。
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配志和神社鳥居の反対側には、金比羅大権現と彫られた古い石塔と小さな祠が建っていた。ここから宮下町から山目町に変わり、旧奥州街道82番目の宿場・山目(やまのめ)宿となる。
進むと、旧家らしい古い家屋も見られ、問屋場の表示杭も立っていた。
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進むと、右側に中央公民館があり、その前に照井堰改修の先覚者、柏原清左衛門末裔屋敷跡」と書かれた標柱が立っていた。「照井堰用水」は、藤原秀衡公の家臣であった照井太郎高春が、この地に用水路を完成させ下流の水田を美田としたので、その姓を取って「照井堰用水」と名付けられた。毛越寺浄土庭園にも「遣水(やりみず)」として疎水されている。
その後も幾多の先人が私財を投じて、堰の改修に取り組んだが、柏原清左衛門もその一人であった。
少し先の左手に、「胡風荘 経世の政治家棚瀬軍之佐(さくらいぐんのすけ)先生邸宅」と書かれた石碑が建っていた。
棚瀬軍之佐は原敬全盛時代にもその配下・政友会に入党せず立憲改進党、憲政会、民生党と政敵を貫き通した政治家で明治40年から昭和2年まで当地から衆議院議員に立候補、6回の当選を得ている。また、大正14年、加藤高明内閣で高橋是清商工大臣の下で政務次官を務めた人物である。以前は立派な立派な門構えを見せていたが、最近取り払われたようである。
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300mほど進むと、左側に龍澤寺(りゅうたくじ)がある。龍澤寺は文治2年(1186)藤原秀衡公の3男泉三郎忠衡が建立し、天台宗のお寺であったが、その後幾多の変遷を経て、寛永元年(1624)、水沢市黒石の正法寺17世格翁良逸大和尚を住職に招き中興開山として、曹洞宗里中山龍澤寺とした。
また、境内には、豪商で鉱山師の阿部随波の墓がある。
阿部随波は鉱山王と呼ばれ鹿角の白根・尾去沢鉱山を長年にわたって経営した。一関の中里出身で安倍一族の末裔とも伝わるが、藩主伊達綱村に1000両を献じて士分となり、やがて江戸の大火では石巻より材木を運んで巨萬の富を得、宝永7年(1710)には伊達吉村に1万5000両を献じている。さらに重貞の二代目重頼と共に親子で伊達藩に65万両を寄進している。
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山門の両脇には、奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)が鎮座している。奪衣婆は、三途の川で死者の衣を剥ぐ役目があり、その衣を懸衣翁に渡し、懸衣翁が側の衣領樹の枝にかけると、その枝のしなり具合で死者の罪状がわかることになっているという。何とも、恐ろしげで、初めて見る像である。
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龍澤寺本堂である。
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街道右側に、JR東北本線の山ノ目駅がある。昭和3年に開業した無人駅である。
ほとんど人影のない駅前通りである。朝夕の通勤、通学時間帯のみ賑わう駅であろうか。
山ノ目駅入り口から300mほど進むと、左側に「少名彦神社(すくなひこじんじゃ)」がある。
祭神は少名彦命(すくなひこのみこと)である。
参道を進むと、右手に拝殿がある。天明年間(1781?89年)の創立と伝わる。鳥居脇の石の社標と本殿の社額は「少彦」の表記になっている。
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進んで新町に入ると、左手に八雲神社と刻まれた石柱が建っている。史跡標柱には「五穀豊穣平安の八雲神社」と記されていた。祭神は牛頭天王・スサノオノミコトで、社名は日本神話においてスサノオが詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」の八雲に因むものである。総本社は京都の八坂神社である。 その先で、いよいよ平泉町となる。
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川屋敷分岐である。旧街道は県道から右に別れて進む。静かな佐野地区の街道歩きである。車の騒音がなくなると本当に有難い。
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1Kmほどで、国道4号線と交差して、祇園地区に入って行く。祇園地区を400mほど進むと「八坂神社」がある。長治元年(1104)の創建で、吾妻鏡によれば、当時、平泉の五方鎮守の神として、中央に惣社を、東に日吉白山、南に祇園社、王子諸社、西に北野天神金峯山、北に今熊野稲荷などの社をまつったと記されおり、この神社は記事中の祇園社にあたっている。
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現在の社殿は寛文6年(1666)の造営と伝えられる。江戸時代までを祇園宮と称し、明治8年(1885)の改革に伴い八坂神社と改称し村社となる。大正11年(1922)10月、内務省告示第27号により史跡指定を受け、更に昭和27年(1952)11月、特別史跡となり今日に至る。また、境内には、雷神社の社殿の他、八幡宮、金華山の大きな石塔も鎮座していた。
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八坂神社から1Kmほど進んで太田川を渡ると、平泉の市街が近づいてくる。国道4号線で東京から448Kmの地点である。
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毛越寺入り口交差店で左折して進む。歩道、家並みも含めて美しい通りである。流石に世界遺産の街である。
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300mほど進むと、観自在王院跡がある。国の特別史跡に指定されいて、案内板によると「観自在王院は、「吾妻鏡」に奥州藤原氏二代基衡の妻(阿部宗任の娘)が建立した寺院と記されている。西隣に毛越寺庭園、舞鶴が池の北方には金鶏山、南隣には高屋と推定される倉町遺跡がある。舞鶴が池は修復整備され、大阿弥陀堂・小阿弥陀堂・鐘楼・普賢堂跡の礎石が往時の伽藍を今に伝えている。発掘調査で西辺土塁・西門・南門が発見され、伽藍は東西120m・南北240mの土塁で囲まれていたと推定される。また、観自在王院西辺南北土塁と毛越寺東辺南北土塁の間は全面玉敷きで、牛車を止めた車宿跡も見つかっている。昭和48年から53年度にかけて史跡の修復整備が行われ、現在の姿が再現された。日本庭園史上でも価値が高く「旧観自在王院庭園」として名勝に指定された。」とある。
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観自在王院跡を過ぎて進むと、毛越寺の入口になる。ここで入場料を払い境内に入って行く。
毛越寺(もうつうじ)は、近年になって復興された岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺院。開山は慈覚大師円仁。現在の本尊は薬師如来、脇侍は日光菩薩・月光菩薩である。嘉祥3年(850)、中尊寺と同年に円仁が創建。その後、大火で焼失して荒廃したが、奥州藤原氏第2代藤原基衡夫妻、および、子の第3代藤原秀衡が壮大な伽藍を建立した。中世の歴史書『吾妻鏡』によれば、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」があり、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、嘉祥寺その他の堂宇もあって、当時は中尊寺をしのぐ規模だったという。
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正面に本堂がある。内部に入って内部拝観と阿弥陀如来にお参りすることもできる。
本堂の右に進むと、大泉が池がある。島・洲浜・築山・遣水(やりみず)などがあり、平安時代の典型的な浄土式庭園遺構となっている。
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大泉が池を時計回りに進む。杉並木の道を歩いて行くと築山と名付けられ、水辺にせまる岩山の姿を造り出した情景が見えてくる。「枯山水の様」の実例といわれているとのこと。
その先には、毛越寺を開かれた慈覚大師円仁(794-864)をお祀りする開山堂がある。在唐9年間の紀行「入唐求法巡礼行記」はマルコポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「西域記」とともに、三大旅行記として高く評価されているとのこと。
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歩いて行くと、既に姿を消してしまったお堂などが、標柱として表されている。
まず、嘉祥寺跡があり、次に講堂跡、金堂円隆寺跡、鐘楼跡と続き、現存するものとして常行堂があった。本尊は宝冠阿弥陀如来で奥伝に秘仏の摩多羅神をまつる。毎年正月20日に国指定の重要無形民族文化財の「延年の舞」が奉納される。現在の常行堂は享保17年(1732)に再建されたものとのこと。
鑓水(やりみず)は、池に水を取り入れる水路であるが、平安期の「作庭記」の様式を余すところ無く伝えており、浄土庭園に風雅な趣を添えている。鑓水の遺構は、奈良の宮跡庭園を除いて例がなく、平安期の遺構としては唯一のものとのこと。
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鐘楼堂である。昭和50年(1975)に人間国宝に指定されている香取正彦によって再建され、天台座主山田恵諦大僧正の銘が刻まれている。姿形は平等院の物に似ているという。
そして、あまりにも有名な大泉が池の出島石組と池中立石である。池の東南に出島が作られ、その先端の飛島には約2.5mの景石が立てられ、荒磯の風情を表現したものである。
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池の向こう側の山の稜線も、美しい曲線を描いている。
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境内には、萩の木が沢山植えられているが、萩の花が最も美しい時期は既に過ぎ去っているが、多少の余韻は残している。
毛越寺の見学を終え、平泉駅に着きここで食事と休憩を取って、午後の旅を進めることとする。観光バスによる団体客が多く、電車の乗降は比較的少ないようだ。
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2011.10.11

金成から一関・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計37,616(24.5Km)

金成から一関の歩行ルート

くりこま高原駅に8時25分に到着した。これが我が家からの一番早い到着である。
金成総合支所行のバスは、9時20分であるので、一時間弱待つことになる。コーヒースタンドすら無い駅で時間を潰すのに苦労するが、街道歩きではよくあることである。待っている間に、鴈の群れが飛んで行くのが何度か目に留まった。最近は、鴈が飛んで行くのを見かけなくなったと思っていたが、この辺りでは度々見かけるようである。バスで金成に向かう途中も見かけたし、取り入れの済んだ田んぼで鴈の群れが羽を休めているのも何度か見かけた。
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バスは、仙台からくりこま高原駅を経由して金成行きで、高速バス仕様で快適です。しかし、乗っていたのは、金成の手前で降りた人と私の2人のみ。10分ほどで金成総合支所に着き、歩き始めた。
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300mほどで国道4号線を横切ると、いよいよ金成宿に入って行く。右手の民家の前に「鈴木文治ここに生きる」と書かれた大きな石碑が建っていた。鈴木文治は、明治18年、酒造業の長男として生まれ、地元金成小、古川中学校、そして東京帝国大学を出て、大正昭和期の労働運動家の草分け的存在で、日本労働総同盟の会長を務め、最初の普通選挙(1928)で衆院議員当選。戦後は、日本社会党結成に参加して顧問となった人である。
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進むと、風情のある連子格子の「なべや呉服店」が目に付いた。ここで、左の方の小道を進むと「金成ハリストス正教会」の高さ7メートルを誇るの鐘楼が見えてくる。
慶応4年(1868)に金成町上町の医師酒井篤礼が土佐の藩士澤辺琢磨らと共に函館で聖ニコライから洗礼を受け明治2年になって布教を始めたが、明治5年仙台と函館で起こった教会への弾圧のため捕らえられて郷里に送られ、親戚らに預けられ禁足処分となる。
何度か仮会堂を建設したが、破壊されたたり焼失したりした後、篤礼の甥・川股松太郎宅を仮祈祷所とし、明治38年(1905)に教会を建立。昭和9年(1934)に現聖堂を献堂したものである。平成12年(2000)には全面的修復が施され、10月にセラフィム辻永主教座下ご臨席のもと成聖式が行われたとのこと。
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教会のとなりには、「けやき会館」がある。333席の大ホールの他、研修室、会議室、娯楽室等がある。ここは、仙台藩の代官所があったところで、金成代官所は三迫と三迫29カ村流郷(花泉、永井、涌津、奈良坂)を管轄していていたとのこと。庭には、栗原市の指定文化財のケヤキの大木が立っていた。
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また、敷地内に「明治大帝行在所御遺址」の碑が立っていた。
けやき会館の奥には、宮城県指定有形文化財の明治20(1887)に建造された旧金成小学校がある。正面玄関上のバルコニー等、洋風建築の要素を取り入れた木造2階建の校舎で昭和50年代までは金成小学校の校舎として現役で使用されていた。現在は金成歴史民俗資料館として
一般公開されているが、残念ながら休館日であった。
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歴史民俗資料館の右手方向に進むと日枝神社がある。創建は不詳だが案内板によれば、元は山王神社とも称されていて、拝殿は入母屋の瓦葺きで、正面に大きな千鳥破風の向拝を設け、さらに唐破風が付き、細部意匠の点から江戸末期の建造と推定されるとのこと。また、県指定文化財となっている。ながい参道を逆にたどると、旧街道に出るので、進むと左手に金成公民館があり、その前に「金成宿本陣跡」の案内板が立っていた。代々菅原家が本陣を勤め、十貫文(百石)以上の土地を持ち、苗字帯刀をゆるされて大肝入(郡長)を勤めていた。なお、本陣の大きさは有壁宿の本陣の660平方米より大きく1,071平方米であったとのこと。
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街道を進んで、左側に金成小学校の大きな看板が見えてくると、その先で「奥州街道」の小さな道標がある。ここで右折して、国道4号線を横切り、新町大橋を渡る。
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橋を渡って左折し、川に沿う感じで進む。やがて道は大きく右折して、徐々に上り坂となる。民家の側には石仏が並んでいるのが見える。この坂道は夜盗坂(よとうざか)と呼ばれていた坂道である。
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進んでゆくと、左側に牛舎があり、20頭ほどの牛がのんびりと過ごしていた。その後、上り坂が終わりに近づいたところに、「奥州街道」の道標が立っていて、右側の草道を指していた。
事前の予習では、旧街道は途中で消えているとのことであったので、その後有志の方々が整備された可能性を感じながらも、今日は朝の出発は10時近くと遅く、一関までの行程を考えると、あまり余裕はないので安全サイドを取って舗装道路を進むことにした。
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夜盗坂を過ぎると、左側の見晴らしが開けて、栗駒山が見えてくる。更に、進むと東北自動車道が眼下に見える。
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その後、坂道を下って東北自動車道を潜り金成末野集落が近づくと、道の両側に「奥州街道」の道標が立っていた。夜盗坂の頂上付近に立っていた「奥州街道」の道標に従って進めば、この地点に繋がっていたのではとも考えられる。今となっては致し方なく、左側の道標に従って進むと「新鹿野一里塚」の説明板が立っていた。
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のどかな集落を緩やかに下って行くと、金流川が流れていて大橋を渡る。
その先の「JA栗っこ金成種子センター」が建っている十字路には、右方向を指す「奥州街道」の道標があるが、ここも予習に従い安全サイドと、右折せず真っ直ぐ進む。
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進むと、上り坂となり本来の街道筋とは、異なるが「十万坂」である。十万坂は、源義家が衣川柵の阿部貞任を攻略した前九年の駅の時、ここで10万張の弓矢を作り、衣川に向かったことから、この地名となったとのこと。
お昼時間になったが、当然食堂など望むべくもない場所である。コンビニで買っておいた おにぎり、菓子パンで道端の草むらに座り込んで食事とする。
食事を済ませて進むと、金成簡易水道の設備があり、両側に木々が茂る、道路が続いていた。
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道端には、アケビが実っていた。そして進むと、右側に「明治天皇東北御巡幸御野立休憩所」の表示杭が立っていた。
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表示杭脇の簡素な階段を上ると、3.11の大震災のためか表示部分が落下した石碑がその姿を晒していた。また、ここは旧田村藩と旧伊達藩の鏡界であったことを示す表示板が立てられていて、丸太とコンクリートブロックを利用したベンチが作られていた。訪れる人がいるのだろうか。
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ようやく、道の両側の林の木々も薄まってきたところで、特長のある分岐に差し掛かった。真ん中に道標があり、左の道を進む。少し下ると、左の林の中に幾つかの石仏・石碑が見受けられた。
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金成からの長い長い山中の歩行を重ねて、ようやく有壁宿の入り口に達した。坂を下ると、東北本線の踏切である。
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踏切からは、左側に有壁駅が見える。踏切を渡って左折して駅に向かう。小さな無人駅である。
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駅から駅前通りを見ると、左側に「佐藤旅館」の看板と、建家が目についた。佐藤旅館の看板の下には「河北新報」の看板も見える。新聞取次も兼ねているのだろうか。
なお、河北新報は、明治維新の際に薩長から「白河以北一山百文」(白河の関より北は、山ひとつ100文の価値しか持たないの意)と蔑まれた東北の意地を見せるべく元の「東北日報」から「河北」と改題して明治30年(1897)1月17日に創刊したという。
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元の街道に戻り、県道187号線との十字路の左側に、萩野酒造店がある。日輪田(ひわた)と萩の鶴の銘柄の酒を主銘柄として、出荷しているとのこと。創業は1840年頃で本陣の分家にあたり、脇本陣も勤めていたという。レンガ作りの高い煙突が目立つ酒造である。
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少し進むと有馬川が流れており、渡ると右側に有壁宿の本陣がある。現在の建物は、延享元年(1774)に改築したもので、街道には、軒の高さが異なる木造2階建て切妻平入りの長屋が2棟、隣接して御成門がある。御成門は通常は開門されず、大名や皇室など身分が高い人のみが利用され、門を潜ると本陣の玄関が張り出し車寄せのようになっていて、入母屋の屋根が格式の高さを現している。貴重な遺構として昭和46年(1971)に国指定史跡に指定され、宮城県重要文化財にもなっている。
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本陣の御成門入口脇には「明治天皇有壁御小休所」と「明治大帝御駐輦所蹟」と刻まれた石柱が建っていた。明治9年と明治14年の奥羽巡幸の際に、ここで休憩されたとのこと。
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有壁本陣は、今も佐藤鐵太郎氏が戸主として同一敷地内の住居に住んでおられ、日曜日のみ公開されているようである。本陣以外にも、旧有壁宿の家屋は、皆大きく立派である。
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有壁宿の出口に付近に真新しい鳥居と並んでその右に曹洞宗円通山観音寺がある。大同2年(807)に坂上田村麻呂が三上大明神本地観音を建立し、伝教大師が別当有壁山円通院として開山したと伝えられている。一時は坊舎が24坊を数える大寺院であったが衰退し、中世一帯を支配した菅原長尚が弘治3年(1557)に中興開山したとある。
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少し進むと、年配の婦人が何処に行くのかと尋ねてきたので、山を越えて一関に向かうと答えたら、本当に山は越えられるのか、私達も山を越えて行ったことはないと話してくれた。
本当にダメそうなら引き返しますと答えて進むと、今度は年配の男性が、話しかけてきて山越えで一関に向かうとの話を聞いて、マムシが出る可能性もあるので注意して行きなさいと、恐ろしいことを言う。礼を言って進むと、右に道が別れるところに「奥州街道」の道標があり、真っ直ぐ進むことが示されていた。民家の右脇には、溜池があり鴨が泳いでいた。
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少し進むと、伊勢堂林道の表示杭が立っていて、ここからは舗装道路ではなくなる。更に先に進むと、「甲州街道」の見慣れた道標があり、左の林の中に入って行く。市乃関方面・奥州街道と赤字でかかれた道標も立っていた。
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進むと、落ち葉の降り積もった柔らかい道の上り坂で、肘曲り坂と名が付いている。さらに、少し進んで坂道の勾配が緩やかになった辺りからは、草道となる。
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林を抜けると、田圃があり、その向こうに農作業小屋がある。予習しておいた通りである。
小屋の前を通って進むと、また林の中の道となる。
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上って行くと、左側が少し開けて明るくなるが、進むと「奥州街道」の道標とともに「県行林」の標柱が立っていた。この辺りが宮城県と岩手県の県境のようである。
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この県境で道が丁字路になっていて、道標に従って左に進むが、ここからは特に人の通った形跡が薄い感じで、先程聞かされたマムシに気を付けろが現実味を帯びてくる。
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進むと、岩手県の県行造林、水源かん養保安林、ゴミの不法投棄の禁止などの表示板がまとめて立っていて、ここからは車の轍のあとが見える様になったが、道路はぬかるみ加減で、相変わらず歩き難い。
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まだ、10月の中旬に差し掛かったところであるが、山肌は多少色づき始めており、また名は知らないが赤い実を付けた木があったりで、緊張した気持ちを和らげてくれる。
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前方の視界が開け、左側に(株)ミチノクの一関営業所が見えてきた。この辺りは、一関真柴祈祷地区である。
県道に突き当たり、県道を進むと、「鬼死骸」と書かれたバス停があった。地名としては恐ろしげな名前であるが、坂上田村麻呂が、ここで鬼退治をして、その死骸を埋めたという伝説があり、それが村名となったという。かつての磐井郡鬼死骸村のあったところである。
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田村麻呂が退治した鬼とは、大武丸の一党で、ここに追い詰めて成敗した時に、その死骸を埋めた上に置いたと伝えられる巨石が右の田んぼの中にある。
少し先で、左折して東北本線を横切り線路を右に見る道を進むと、左側に「明治天皇小次遺趾」碑が立っていた。
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1Kmほど進んで、東北本線のガードを潜り、県道に合流して進むと、豊吉の墓がある。
天明5年(1785)に斬罪に処された豊吉の遺体を解剖した一関藩医らが、その由来を刻して解剖の事績とし、豊吉の霊をとむらったもの。大槻玄沢に代表される一関藩領の蘭学の浸透を伝える貴重な歴史資料と評価され、県有形文化財に指定されている。
1.5Kmほど進んで、新山川を渡ると、左に東北本線を潜るガードがあり、県道から左に逸れて進むと、瑞川寺の階段が見えてくる。
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階段の途中に、「残菊に 日当たると見て 家に入る」という佐知子句碑が建っていた。佐知子は本名横山幸子で、大正12年に東京で生まれるが、父の急逝で昭和2年に一関に戻り、後に再び東京に出て結婚、俳人として活躍していたが、昭和61年1月5日に癌のため亡くなり、生前の本人の希望により、父母の眠るここ瑞川寺に分骨埋葬されたとのこと。
同じく境内に衣関順庵(きぬどめじゅんあん)先生顕彰碑がある。一関生まれの江戸中期の眼科医で、江戸の渡辺立軒に就いて眼科を修めたが、漢方眼科に疑問を抱き、動物眼のちには人眼を剖検して研究し、プレンキ原著の蘭訳眼科書を読んで『眼目明弁』(1810)を著し、また紙製の眼球模型を作って門弟に眼科を教えたという。
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階段を上りきると瑞川寺の本堂である。
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県道に戻り進んで吸川を渡ると、祥雲寺の階段が左に現れる。祥雲寺は、仙台・伊達藩の内分分知分家の一関・田村藩の菩提寺である。
南無観世音菩薩の幟が参道の両側に立っていた。上って行くと途中で細い道路を横切るが、これが旧奥州街道であったとのこと。
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更に階段を上った境内に、一関藩に仕えた医師の建部(たてべ)清庵の顕彰碑が立っていた。
享保15年(1730)19歳で仙台に遊学しその後藩主に学費を賜り、江戸に遊学する。寛延元年(1748)37歳で家督を継ぐが、この頃飢饉が続き、有害な草木を食して死亡したものもあり、これを嘆き悲しみ施薬調合の良法を研究し、「民間備荒禄」と食用植物を分り易く示した「備荒草木図」を著したことが、説明板に記されていた。正面の本堂も小振りながら凛とした趣がある。
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境内を左に進むと、鐘楼があり、その先に保性院殿廟がある。廟の中には保性院の木像が安置されている。保性院は、伊達兵部宗勝の母で寛文9年(1669)に没し、先に宗勝が開基した豊谷寺に葬られ、後にお霊屋を建立し厨子を造って坐像を安置し供養したものである。
文政10年(1827)3月豊谷寺は火災にあい、明治維新に際し廃寺となった後、ここ祥雲寺に移されたものである。
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更にその先には、祥雲寺一切経蔵がある。天明8年(1788)当寺第8世陵霄和尚の開基になり第10世亀山和尚の代文政11年(1828)に完成した。内陣中央に八角形の転輪経蔵を据え、鞘堂は軸組、小屋組を二重の構架にし厚い土壁をまわしているのが特徴である。
一切経蔵脇にも幕末に和算に優れ、藩主から御下賜金と門人の寄付金で算学道場を創設して和算の興隆に勤めた千葉胤秀の顕彰碑が建っていた。
祥雲寺の裏手の山は一関藩主、田村家代々の墓所となっていて、石の階段が続いている。
寛文11年(1671)の伊達騒動により伊達兵部宗勝が失脚し一関藩は改易されたが、その後、天和2年(1682)に田村建顕が陸奥岩沼より移り、再び一関藩を形成した。田村家は、仙台藩2代藩主伊達忠宗がその子宗良に母・愛姫の実家である田村氏を再興させたのに始まる。以降一関藩は、明治維新まで190年続く。
境内を一番左に進んだところに、長谷観音堂が建っている。田村建顕が一関藩主として岩沼から一関に移封されたとき、岩沼の長谷山大慈寺から移したもので、西磐井三十三観音の十番札所として江戸時代から庶民の崇敬を受けてきたという。階段両側の幟旗もこの観音のためであった。
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伊達兵部宗勝が、菩提寺として寛永18年(1641)に豊谷寺を建立したが、伊達騒動で兵部が土佐に配流されてからは衰退の一途をたどり、明治に至り廃寺となった。
祥雲寺16世は、廃寺に放置されていた兵部一族や家臣、住職などの墓石の状態を憂え墓石を引き取り供養塔として配置したものである。塔の中央部分が3.11の大震災で崩落している。
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祥雲寺の次は願成寺である。山門が立派である。水沢の正法寺二世月泉大和尚九番目の弟子、梅栄元香大和尚によって至徳2年(1385)4月8日に開山された。境内には、伊達騒動で知られる伊達兵部宗勝とその一族の墓の他、一関藩校教成館初代学頭の関養軒、豪商の菅原、磐根家、熊文家、俳諧の金森家、第九代横綱秀ノ山などの墓がある。
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県道を進むと、八幡宮の石の鳥居が左側に建っている。康平4年(1061)源頼義が安部貞任征伐のため篠見山に出陣、合戦の勝利を祈祷し八幡宮を勧請したのを寛文2年(1662)伊達兵部宗勝が現在地に遷座したものである。鳥居を潜ると、かつて一関城があった釣山の山麓を上る長い参道があり、本殿に至る。残念ながら本殿の撮影が失敗して、ここに載せられない・・・
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八幡宮の本殿脇を通って進むと、釣山公園の方に進むことが出来る。一関の市街が良く見える。
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今は市民の憩いの場として整備されているが、公園の頂上が一関城址である。
なお、釣山は坂上田村麻呂の東征に際し陣を張ったと言われ、その後天喜年間(1053-1057)に安倍貞任の弟磐井五郎家任が砦を築く。さらに源頼義、義家親子も陣を張ったと言われていている。時代は進んで伊達政宗の十男宗勝が伊達藩から独立し一関藩三万石となるが、その後、一関藩主になった田村氏は一関城に入らず、その麓の現在裁判所のある辺りに陣屋を築く。旧一関城一帯は田村氏の陣屋の背後にある為、一般の人は入る事が許されなかったそうである。
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ようやく、今日の行程を終え、一ノ関駅前に到着した。時刻は16:44分であった。
今晩の宿は、駅前のサンルート一関を予約してある。食事を済ませ風呂に入って、サッカーのタジキスタン戦を見ることにする。


2011.09.27

築館照越から栗原金成・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計26,812(17.4Km)

築館照越から栗原金成の歩行ルート

古川駅前のホテルで一泊して、朝7時5分発のミヤコーバスで、昨日古川駅に戻るために乗車した築館照越の「神田バス停」に向かう。昨日の写真では小さくしか写っていなかったので、荒谷宿の入り口で、バスより斗螢稲荷神社参道入口の看板を撮影した。「剣聖 千葉周作生い立ちの地」の文字も見える。
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神田バス停に着き、100mほど戻って「奥州街道」の道標に従って、高速道路のガードを潜って進む。
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ガードを潜って右に曲がり、坂道を上って行くと、静かな郷の風情である。途中にラブホテルがあるのはいただけないが、ここを過ぎると下り坂となる。
1Kmあまりで三叉路に達すると、また「奥州街道」の道標が導いてくれる。
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三叉路で右に進んで赤沢を赤坂橋で渡り、左折すると右側にまた街道標識があり、細い道路が続いている。
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細い道路を上って行くと、国道4号線に合流し、少し進んで左折し築館薬師地区に入って行く。
左に「双林寺」のある小高い丘が見えてくるので、参道に入って行く。階段脇には寺名碑が立っているが、右に杉林の参道があるので、そちらを進む。
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見事な杉並木の参道で、片側には石仏が並んで配置されていた。
このお寺は、天平宝字4年(760年)に孝謙天皇の勅命で開創され、天台宗の伽藍48坊を構える医王山興福寺といわれていた。その後、度重なる火災で一堂を残すだけになり、天正19年(1591)に再建されて「双林寺」と改称、宗派も曹洞宗になったとのこと。
現在の建物は蛙股造り方八間の堂で、釘を一本も使わず、くさびでしめている寛政年間(1791?1798)の建築とみられるとのこと。石越村(現在の宮城県登米市石越町)の大工・菅原卯八師の建造といわれている。
この薬師堂では、毎年11月3日文化の日に開催される「つきだて薬師まつり」の「藤原一族薬師まいり」のハイライト「御礼の情景(儀式)」が行われるとのこと。
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薬師堂の脇を進むと、現在の双林寺の本堂が建っていた。新しい建築である。
双林寺を後にして、築館の市街を進む。古い町を感じさせる街並みである。
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市街を抜けると、宮城県栗原合同庁舎がある。この先で国道4号線に合流して、一迫川(いちはさまがわ)を留場橋で渡る。一迫川は、栗駒山(1627m)の三つの峡谷の一つを源流としていて、これから二迫川(にのはさまがわ)、三迫川(さんはさまがわ)が現れてくる。
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一迫川を渡ると、しばらく国道歩きが続くが、旧市街の凋落に反して新しいお店が賑やかに並んでいる。日本中で見られる現象である。
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国道を進んで行くと、1Kmほど先で国道は右にカーブしているが、街道は真っ直ぐ進んで宮野郵便局の次の信号で右折して、宮野宿に入って行く。
直ぐに皇太神社がある。赤い鳥居を潜ると、急な石段が続いている。
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階段を上ると、本殿がある。前に停まった車が邪魔だが、よくある光景である。
この神社は、上古時代第三代安寧天皇の第一皇子がこの地に降臨し、村里を開き宮殿を営み、長年居住して郷号を迫として、第五代孝照天皇の丙申年(838)に皇大神社を勧請したと伝えられている。安寧天皇といえば『古事記』『日本書紀』に伝えられる第3代天皇で、即位は紀元前510年とされるので、とても古い歴史の神社である。
宿を進んで行くと、旧家らしい家も建っていた。
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なかなか綺麗な家並みが続く。
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宮野宿の出口には、左手に能持寺がある。参道には石仏も並べられていた。
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直ぐに、国道4号線に合流し、最初の信号で左折して北に向かって進み、城生野(じょうの)地区に入って行く。
あちこちで稲の刈り取り機がエンジン音を上げている田園地帯を進んで行くと、照明禅寺がある。境内に「伊治城(これはるじょう)跡とその出土品」の説明板があり、伊治城の位置、形状、規模は明確でないが、北東に空壕(長さ300m、幅19m、深さ3m)が現存するので、この城生野台地の一角に造営されていたことは確実と書かれていた。
神護景雲元年(767)律令政府が蝦夷(えみし)を治める政策の拠点として造営した城柵である。
また、宝亀11年(780)には蝦夷出身の上治郡の大領伊治呰麻呂(これはり/これはる の あざまろ)が伊治城で按察使の紀広純と牡鹿郡大領の道嶋大盾(みちしまのおおたて)を殺害するという反乱(宝亀の乱)が起こった。さらに反乱軍は多賀城まで攻め上り略奪し放火した。この事件の後、律令政府は、多くの物と人を使って、「蝦夷討伐」を開始し、延暦21年(801)に蝦夷の阿弖流爲(アテルイ)を降伏させるまで4回の遠征を行っている。
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照明寺を出るとの、築館城生野(つきだてじょうの)の集落である。
やがて、道は緩やかに右にカーブしているが、この辺りが伊治(これはる/これはり)城跡で、広大な伊治城の外郭の北辺に当たるところである。そして、正面には富野小学校が見えてくる。
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富野小学校に突き当たり、街道は左に直角に曲がる。ここからは砂利道で、進むと簡易舗装ではあるが、細い道で歩行者と自転車のみが通行可能と思われるものとなった。
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進むと、芋埣(いもぞね)川にかかる鉄製の橋を渡る。
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さらに進むと、二迫川(にのはさまがわ)に架かる人道橋を渡る。こちらの橋の方が、幅は広いが薄い鉄板を敷き詰めた橋で、歩くと振動音が響く。やはり、人の通行のみ可能な橋である。
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二迫川をわたり進むと、広い田園地帯となる。左の方を眺めると、遠くに栗駒山が望まれ気持ちが良いが、陽射しが強く少々暑くもあった。
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広大な田園地帯を通りぬけ、熊川に架かる根岸下橋を渡る。橋の4つの親柱には牛若丸像が設置されている。2種類の像で各2体づつであるが、奥州街道らしい試みである。
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熊川の流れに沿って下って行くと、左側に「来光宝山 照明寺元墓苑」、「曹洞宗源昌山 常現寺跡」の石柱が立っていた。
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常現寺跡に続く道には、石仏が残っていたが、寺跡は広場になっていて、その奥は墓地であった。なお、ここには、かつて富城があったとのことであるが、ハッキリしない。
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先に進むと、国道4号線を横切り、築館から金成姉歯(かんなりあねは)地区に入って行く。
金成姉歯地区は、史跡が多いところと見えて、道路脇に栗原教育委員会の史跡案内板が立っていた。
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国道に合流して、2Kmほど進むと右に旧道が続いていて、進んで三迫川(さんはさまがわ)を達田橋(たつだばし)で渡る。右の写真は三迫川の下流方面である。栗駒山(1627m)の三つの峡谷を源流として、一迫川、二迫川と続き、この川が最後の三迫川である。下流で合わさって、迫川となり、さらに旧北上川となって海に注ぐ。
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この辺りの三迫川は、ホタルの名所であり、橋の歩道の縁にはホタルの絵が描かれていた。
橋を渡って、右に折れ進むと、旧奥州街道78番目の宿場・沢辺宿である。
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廃線となった「くりはら田園鉄道」のレールが残っていた。元の鉄道の栗原電鉄は、大正10年(1921)に石越 – 沢辺間(8.85km)で開業され、昭和17年(1942)に石越から細倉鉱山までの全線が開通し、旅客輸送と共に、細倉鉱山で採取された鉱石や沿線で収穫された穀物などの貨物輸送を担っていた。その後幾多の変遷を経て、1995年に至り、栗原電鉄はくりはら田園鉄道として第三セクター方式で再出発した。しかし、経営悪化から2007年3月31日をもって廃止されたのである。
左側に栗原市役所金成総合支所の立派な建物が見えてきた。時刻はまだお昼頃であるが、この先は交通の便が悪いためと、久しぶりの歩行で足が痛く、今日はここで打ち切ることとした。
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ここから高速バスが出ているので、くりこま高原駅に向かう積りであるが、13時15分まで1時間ほど間があるので、近くの食堂に入り昼食を摂った。ランチ定食680円の食事である。
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くりこま高原駅の全景である。東北新幹線の単独駅であり、駅前には市街はまだ形成されていない。1日の乗車は約1,000人である。金成で食事をして良かった。ここでは、食堂はもコーヒースタンドもない。
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くりこま高原の駅前は、モニュメント広場となっている。大きな水車は直径10mで「民心豊楽」と書かれており、昭和44年(1965)に知事に当選した「山本壮一郎」が、栗駒地区の農地の整備をし、この地区の町の大々的な開発をしたことが刻まれていた。
また、中型の水車は直径3.5mで、水車小屋付きの小さな水車は直径2mで造られている。
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さらに、駅前広間には栗原郡若柳町生まれの政治家で「くりこま高原駅」誘致に尽力した長谷川 峻(はせがわ たかし)の胸像も設けられていた。しかし、駅前広場は全く手入れをしていないと思われる状態で、草は伸び放題、タイルの目地からも雑草が顔を覗かせていた。
駅に入ると、「ひとめぼれ」の宣伝の人形が立っていた。古川駅は、「こしひかり」の顕彰の銅像であったが、やはりこの地方は米どころである。
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13時57分発のやまびこで東京に向かい帰宅した。


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