2007.06.23

見附(磐田)から新居・・・(旧東海道)

本日の万歩計49,558(32.7Km)
今日は、2、3日前までは梅雨で雨になるとの天気予報で、諦めていたが、昨日の予報では曇りとなっていたので、歩くことにした。途中で雨がぱらつくこともあったが、傘をさすほどではなく快適に歩くことが出来た。先週は快晴で暑さのためか、途中でリタイアとなったが、曇りは本当に歩き易い。
磐田に着いたのは、8時45分ぐらいで、駅にある喫茶店でホットコーヒーを飲み出発した。最初に、先週も撮影した駅前の大楠を撮ったが、枝ぶりも、葉も茂っていて、本当に樹勢が良い。旧東海道は、典型的な住宅街を通る様相で続いている。
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ほどなく、中泉公民館の前に夢舞台道標が建っていて、旧東海道に間違いないことを実感する。
そして、立派な秋葉常夜灯に遭遇する。この常夜灯と同じタイプの秋葉常夜灯を舞坂の宿の終わりまでの間に頻々と見ることになる。おそらく、大火に襲われ、火伏せの神で有名だった秋葉神社を祀る意味合いがあったのだろう。また、この辺りに宮之一色の一里塚があるはずで、注意していたのだが、見つからなかった。後で調べると階段で上る小さな山が作られていて、その上とのことだったが、石碑があるものと思い込んで歩いていたので見逃したようだ。
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宮之一色には、高砂香料(たかさごこうりょう)という文字通り香料を作っている大きな会社があり、北に1Kmほど進むと、「行興寺」という藤の花で有名なお寺があるそうで、そのための「藤と香りの道」という散策道もあるのか、その道標が建っていた。
もう、藤の季節は終わっているし、旧東海道から外れるので「行興寺」見学はスキップして進んでいると、後ろから同じように旧東海道を歩いている人が迫ってきた。なんだか、後ろをつけられているようで嫌なので、道端の何でもない風景を撮影して時間稼ぎをして先に行って貰うこととした。
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mitsuke_007.jpg歩いて行くと、若宮八幡宮があり、ここには石垣で囲んだ丸い台地のようなものがある。石碑には西之島学校跡と書かれていた。調べると、明治5年の学制発布に伴い、翌六年にこの地に西之島学校が設立されたが、その後、西之島学校は森下村に校舎を新設し移され、井通小学校、豊田南小学校と改称されて受け継がれているという。この八幡宮には学校跡のみでのみでなく、相撲の土俵も併設されていた。
若宮八幡宮から500mほど進むと、「長森立場」の夢舞台道標があり、「長森立場」の表示の横に「長森かうやく」の字があった。横には説明板が建っていたので、詳細は説明板の写真をクリックして直接お読みいただきたい。
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やっと、天竜川の堤防が見えるところに達した。天竜橋跡の碑があり、説明板よれば、明治9年に全長646間(1,163m)、幅2間(3.6m)の木橋が完成したが、昭和8年に現在の鉄橋が出来、廃止されたとある。
そして、いよいよ天竜川を渡る。以前は、天竜川に掛かっていた2つの橋には、いずれも歩道は無く、歩いて渡るのは注意を要すると言われていた。橋の手前でバスに乗り、向こう側でバスを降りるようにすると書かれてい案内書もあったそうだ。今は新しい橋が完成(2007年2月)し、広い歩道を独り占め状態であったが、天竜川も向こう岸は遠かった。
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天竜川を渡り、川に沿って下る方向に少し進むと、「六所神社」があり、その傍に明治天皇の立ち寄られた記念碑が建っていた。また、舟橋跡と木橋跡の標識が建っていが、文字が消えかかっている。せめて石碑に出来ないのだろうか。
mitsuke_012.jpgmitsuke_013.jpgmitsuke_014.jpg天竜川から1Kmほど進むと、金原明善の生家とその向かい側に記念館が建っていた。何をした人か知らなかったのだが、記念館を見学して、大地主の家に生まれ、明治の初めに私財を投じて天竜川の治水に力を注いだ。また、小学校にも自家を寄贈した、この地域の名士であったのが分かった。
mitsuke_015.jpgさらに進んで、浜松バイパスを潜ると松並木が残っていて、ほっとしたが、写真のように倒れた松の木に支えをほどこし、安全のために金網を設けて大事にしているところがあった。粗末に切り取られる松がある反面、大事にされているところもあるものだ。
mitsuke_016.jpgその後、単調な道を歩む。浜松のシンボルのアクトタワーは遠くから見えるのだが、なかなか近づかない。
だいぶ市街地が近づいてきて、この辺に馬込の一里塚跡があるはずだと、注意しながら進んで行くのだが、地図で見て通り過ぎたと思っても見つからない。あまり一里塚跡にこだわる積りもないのだが、なんとなく癪に障って、少し戻って探したら、歩道の植え込みに木の標識の杭が建っていた。しかも、消火器の傍であり、これでは見つけるのが大変な訳だ。
浜松に入って、浜松は旧東海道に対する扱いが冷淡ではと思っていたのだが、天竜川の橋跡の碑も貧弱であったし、この後に見つけた地蔵堂跡の標識も木の杭で、しかも肉眼では何とか読めるが、写真には写らないほどに消えていた。浜松は旧東海道でも最も大きな宿であったはずだが、戦争で完全に破壊され、歴史的な遺構が残っていないからと言う人もいたが、それだけではなく、市の姿勢の問題のような気がする。
やっと、アクトタワーも近くに見える、市街の中央付近に達した。ちょうど、お昼の時間で先ほどから、食事をしたい気も高まって来ている。浜松と言えば「うなぎ」と私の旧東海道歩きを知っている人は言うので、あらかじめ良さそうなお店をネットで調べておいたので迷わず「曳馬野(ひくまの」に直行した。小さなお店であった。もちろん美味しかった。
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待望の浜松のうなぎの昼食に満足し、神明町の交差点を左折し南下すると、直ぐに「佐藤本陣跡」の表示板があった。道路右側にも「高札場」や「杉浦本陣跡」、「川口本陣跡」があるようだが、左側の歩道を歩いていて見られなかった。
右の歩道に移って、暫く行くと、「浜納豆」の看板の古いお店があった。「浜納豆」は食べたことはないが、普通に売っている納豆とも甘納豆とも違い、塩辛くて味噌に近い味で、戦国武将の携帯食として好まれたという。
mitsuke_019.jpgmitsuke_020.jpgmitsuke_021.jpg道路をどんどん南下してJRの東海道線と新幹線のガード下を潜り、道路が右にカーブするところに、「馬頭観音」、「高札場跡」、「二つ御堂」と3つの表示杭が建っていてた。どうも、だいたいこの辺にあったものと言うので集めたのだろうが、杭の表示も貧弱だ。それより、お堂が大事で、道の反対側にも同じお堂が建っていて、「二つ御堂」と呼ばれるそうだが、片側は撮影を忘れてしまった。
この二つのお堂は、20歳の藤原秀衡が学ぶために京都にいたとき、藤原秀衡の愛妾が秀衡を訪ねてこの地まで来たとき、誤報で秀衛が死んだと聞かされ、弔うためにここにお堂を建てたという。その後、気落ちしたためか病に罹り死んでしまったが、そこに秀衛が故郷に帰るべく馬で通りかかり、ここで愛妾が死んだのを知り、同じお堂を建てたのだという。情報網の発達していなかった時代には、こういうこともあったのだろう。20歳の秀衛も故郷に帰ればあの子に会えると胸を高ぶらせて帰省の途についたに違いない。なんとも、可哀想なことである。
また単調な道が続く。たまには、写真のような格子戸の古い家があり、旧東海道の雰囲気もあるのだが、狭い道路の住宅街となっているのに、車の通りも多い。車の見えない写真は、かなりタイミングを狙ってやっと撮ったものだ。
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浜松の宿から舞坂の宿は、思った以上に遠く感じた。やっと、舞坂駅の近くの春日神社に着き、少し休もうとしたが、境内にあるベンチはどれも鳥の糞で汚れていて、座る気がせず少し先の喫茶店に入った。
アイスコーヒーを頼んだら若い女将が出してくれ、浜名湖まであと2Kmぐらいですかと尋ねたら、そうですと答え、私の持っている地図を、ちょっとと声を掛けながら覗き込み、私が歩くルートを緑のサインペンで塗ってあるのを見て、このコースで良いです。この道は本当に歩くのに良い道ですと教えてくれた。
女将の言ったとおり、直ぐに綺麗な松並木が始まった。立派な大きな石の説明板によると、昭和13年に現在のように、歩道を松並木の外側に設ける整備を行い、700mで330本の松が残っているとのこと。それに、一定の間隔で、干支にちなんだ石の像が配置されていて、例えばうさぎなら、「卯 卯の刻 午前五時から午前七時」などと書いてある。順番に見てゆくと、なかなか楽しい。
mitsuke_026.jpgmitsuke_025.jpgmitsuke_027.jpg松並木は国道1号をよぎるまで続いていたが、その交差点の三角地帯は、ちょっとした広場になっていて、「浪小僧」という面白い像が建っていた。説明には、「むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。(遠州七不思議より)とあった。
お手洗いもあり、使わせて貰ったが、全自動で綺麗なトイレであった。
どうも、浜松の宿から舞坂に入ってきて、旧東海道に対する扱いが格段に良くなったように感じた。
mitsuke_028.jpg国道を横切ってから、車の通りもほとんどなくなり、良い感じで歩いて行くと、見附の石垣も残されていて、説明板も整備されていた。さらに進むと、一里塚跡も綺麗に整備されていて、立派な秋葉常夜灯篭も設置されていた。説明板によれば、秋葉灯篭は、文化6年(1809)に大きな火事があり、宿場の大半を焼き、人々の秋葉信仰の高まりで造られたとのこと。
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さらに、脇本陣の建物も再整備して公開していた。公開は午後4時までで、着いたのは3時50分であったが、年配の女性が丁寧に案内してくれた。日坂でも旅籠屋を見学させてもらったと言ったら、即座に「川崎屋」さんでしょうと答えた。お互いに連絡があるのか、想像だが日坂の「川崎屋」を再整備するとき、参考にここに見学に来たのだろう。
今日は、どこまでと聞かれたので、弁天島あたりで終わりにしようと思っていると答えたら、それが良い、新居までは少し遠いし、関所の見学時間は午後4時までなので、次回に弁天島から歩き関所を見学して、白須賀(しらすか)に向かうのがお勧めとのこと。そして、白須賀は電車も無く、バスも無いところだから、その日は二川まで歩く必要があり、午前中に新居を出発する必要があると教えてくれた。
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お殿様専用のトイレまであった。使用禁止と書かれていた。
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直ぐに、浜名湖畔に着いた。ここまでやっと来たかと少々感激である。
しばらく、湖を眺めてから道を右に取り、弁天橋を渡り始めた。
mitsuke_035.jpgmitsuke_036.jpgmitsuke_037.jpg遠く、左手には浜名湖の海に向かっての開口部に掛かる「浜名バイパス」のアーチ橋が見え、右手の方にはJRの弁天島駅が見えてきた。この第一の島は、大規模なホテルが多く、なかなかに壮観である。
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先ほどの脇本陣のおばさんには、弁天島で終えると答えたが、今日は朝から曇り空で体力の消耗が少なく済んだのか、まだまだ余力があるので、次の島に向かって歩き始めた。歩道は花が植えられていて、橋の上とは感じられず、まるでどこかの綺麗な散歩道を歩いている感じであった。
しかし、確かに橋の上で、釣りを楽しんでいた子供に出会った。釣れた?と聞くと、一匹だけと答え、「ぼら」と思える魚を見せてくれた。それと、子供の「一匹だけ」と答えたイントネーションから、関西風の影響が感じられ、つくづく遠くまで来たものだとの思いを新たにした。
mitsuke_040.jpgmitsuke_041.jpgmitsuke_042.jpgそれにしても、新幹線の車両がひっきりなしに、高速で通り過ぎて行く。何度となく、それこそ数え切れないくらい新幹線の車両から、浜名湖のこの場所を見たと思うが、こちらから新幹線を見るのは始めての経験であった。
第二の弁天島も通り過ぎ、新居に向かって進み、終に新居町駅に到着した。
やっと、今日の旅を終えることにし、浜松までJRの電車で戻り、その後新幹線で横浜に戻った。


2007.06.16

掛川から見附(磐田)・・・(旧東海道)

本日の万歩計34,986(23.09Km)
今日は先週にたどり着いた掛川駅に8時30分ごろ到着した。ずいぶんと時間がかかるようになったものだ。
それにしても、先週の雨模様の天気とはうって変わって、快晴だ。梅雨入り宣言が出た直後とは思えない。
さっそく、先週に東海道から離脱した清水銀行本店のある交差点に進むと、変わらず一豊、千代のレリーフが迎えてくれる。方向を西にとり、進んで行くと直ぐに「円満寺」の山門が目に付く。説明板によれば、
この門は掛川城の門で蕗(富貴)の門といい、廃城と共に明治五年西町の円満寺山門として移築された。門柱に下部を切り捨てて低くしてある。と書かれている。
瓦の桔梗紋は太田道灌の子孫といわれる掛川城最後の城主の太田氏の家紋で、キキョウは掛川市の市章や市の花にもなっている。
kakegawa_001.jpgkakegawa_002.jpgkakegawa_003.jpgさらに進んで、道路が右に大きくカーブするところに、「十九首塚1Km」の道標があり、その後矢印に導かれて、住宅地に入ってゆくと、十九首公民館の前を通り、平将門以下19人を祀った首塚があった。
由来の説明文が郵便受けのような箱に入っていて、自由にお持ちくださいとある。説明文は長いものだが、簡単に記すと。
関東一円を制覇した桓武天皇の5代目の子孫の平将門は、天慶(てんぎょう)3年2月14日、平貞盛、藤原秀郷連合軍に討伐されるが、ここ掛川の地に都からの検死の勅使が到着して、後に「血洗川」と呼ばれる川で首を洗い、橋の欄干に掛けて、検死を行った。首実検の後は十九の首は無残にも路傍に棄てさられようとしていたが、秀郷が「将門の罪重しと雖も今や亡びてなし、その屍を鞭打つは非道なり」と言い、地元住民とともに十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養した。時に天慶3年8月15日であった。
当時19箇所あった首塚は土地の開墾等で段々と少なくなり、ついに将門の塚のみとなっていたので、平成13年3月、家臣18人の供養等も建てて祀ることにした。
掛川の地名は橋の欄干に首を掛けたことからとも言われているという。この辺の地名は、当初、十九箇所の首塚で、十九所(じゅうくしょ)と呼んでいたのが、いつのまにか、読みはじゅうくしょのままだが、十九首が地名になったという。しかし、地名に「十九首」とは凄い。
kakegawa_004.jpg旧東海道は、天竜浜名湖鉄道の下を西掛川駅のそばで通過し、国道に吸収され、また分離して進むが、車の通行も多く、あまり歩き易くは無い。
大池という地に到着すると、交差点に接している蓮祐寺の塀の外の角に、大池一里塚跡と書かれた夢舞台道標があった。本当の一里塚は失われて久しいのだろう。
kakegawa_005.jpg旧東海道は、国道や東名高速と交差してその下を潜るようにして進むが、だいぶ車の通りも少なくなってきて、垂木川に掛かる善光寺橋を渡ると、仲道寺と書かれた大きな寺名碑が目に付いた。
寺に入る階段を昇ると、左に「善光寺」、右に「仲道寺」があり、2つの寺がくっ付いている珍しいところだ。
説明板には、その昔江戸から京都までの道を測量した所、この寺が丁度東海道の真中で仲道寺と寺号がついたと言われております、とある。
現在の距離測定では、見附と浜松の間あたりが中間点だが、元の東海道が無くなっていたりしているから、当時と違うのだろうか。
しかし、善光寺は、坂上田村麿と百済王とが東に下った途中この村に来た頃、兵が難病にかかり徒行することが出来なくなり、この地にとまり病養せしめ、その一体の阿弥陀仏に願いをかけ、そのため兵の悪病の難を逃れたと云われ、ここに善光寺堂を建立されたとあるので、こちらの方が本家のような気もする。手前の橋の名前も「善光寺橋」だった。
左「善光寺」、右「仲道寺」
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近くに建っていた夢舞台道標の最上部に付いている、現在地を示す表示も江戸と京の真ん中のように見える。
少しすすむと、この辺は原川という間の宿であることを示す表示があったが、住宅ばかりでその痕跡がないとと思っていたら、「金西寺」というお寺があり、原川薬師と呼ばれていたと書かれていた。
それにしても、原川薬師はアルミサッシに銅板の屋根となってしまっている。
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また、国道にぶつかり、同心橋を渡って、直ぐに左に折れると、「花茣蓙(はなござ)公園」と呼ばれる小公園があり、秋葉山常夜燈が建っていた。少し休んでから進んで行くと左手に「大和ハウス」の巨大な敷地の工場があり、その一角に朱塗りの鮮やかな鳥居がある。見ると、富士浅間神社の文字。おそらく、ここが浅間神社の参道入り口で、参道が続いていたのが、大和ハウスの工場建設で参道がなくなり、鳥居だけがぽつりと残されたのだろう。横道の案内板には、浅間神社へ800mと記されているので、国道を越えた向こうに神社があるのが分かる。
この辺りの道は松並木が良く保存されていて、しかも松並木の外側に歩道が設けられているので、車の走る道路とは遮断されていて歩き易く、気持ちが良い。
さらに、進むと「妙日寺」というお寺があり、日蓮上人の両親の墓があると書かれていた。
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「妙日寺」から直ぐのところに、袋井東小学校があり、校庭の道路に面したところに、一里塚があった。大きさは本来の一里塚の半分ぐらいで、一里塚跡と表示されているが、単なる石碑よりよい感じである。
そして、校門には「東海道五十三次どまん中東小学校」の大きな看板がある。
kakegawa_011.jpgkakegawa_012.jpgkakegawa_013.jpgそれにしても、校庭の緑が綺麗だ。これほどの庭を持っていて、手入れが行き届いている小学校は珍しいのではなかろうか。 そして、後で分かるが、この「どまん中・・・」という文字をあちこちで見ることになる。
kakegawa_013a.jpgこの辺りも松並木がかなり残っていたが、先ほどからかなり年配の人達が大勢で歩いているのに遭遇した。しかも、かなりな速さで歩いていて、ついて行けないほどだ。後で分かるのだが、地元の年配の方たちがルートを決めて、この辺りを皆で歩いているのだった。道は一度国道に出て直ぐに住宅街の道に入ってゆくが、その入り口に「どまん中茶屋」というのがあり、袋井市の運営と思うが、旅人にお茶のサービスなどをしている。休みたかたっが、先ほどの年配歩行グループの人達であふれ返っていて、入れそうに無く次に進んだ。

静かな住宅街の道に入って行くと、すぐに、とても立派な秋葉山常夜灯に遭遇した。今まで見た中で一番立派で、装飾彫りもなかなかのものである。人通りも稀な静かな住宅街といった趣の道だが、旧東海道であったことがはっきりする。 そして、「これより袋井宿」の大きな石碑が突然姿を現した。
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進むと本陣跡が小公園になっていて、門柱のみが建てられていた。その前には、「東海道五十三次・どまん中ふくろい」の統一マークが飾られている。
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kakegawa_016a.jpg本陣跡の向かい側にも小公園があり、歩行団体はここで終わりで次々に公園に吸い込まれてゆく。年配の歩行グループは、好ましい人達と思うが、写真を撮るには、はなはだ具合がわるく、被写体に入ってしまうので、やれやれと言う気がした。ここで、道路を左折すると600mほどでJRの袋井駅に出るが、そのまま直進する。
そして、「高札場」も復元されていた。先ほどから、小さな小公園が連続しているが、これも旧東海道を材料にしての町起こしだろう。ともかく、「雪隠」と古風な名前で書かれたトイレもあり助かった。
いよいよ袋井の宿から離れようとする地点に袋井西小学校があり、ここでも「東海道どまん中・・・」の看板が校門に掛かっていた。袋井市は”どまんなか”をとことん使う積りらしい。
kakegawa_018.jpgkakegawa_019.jpgkakegawa_020.jpgしばらく、何の変哲も無い車の走行がうるさい道を辿るが、やっと木原の集落に達し、道は別れて静かな通りに入って行く。すぐに、木原の一里塚があるが、これも新たに造り直された一里塚である。どうせ造り直すなら、石垣で囲んだ、江戸幕府通達の仕様どおりにして欲しい。
kakegawa_021.jpg一里塚を過ぎると、右側に許禰(こね)神社がある。入り口の左側に御神木にもなっているクスノキの巨木があった。許禰神社は木原権現社とも呼ばれていて、紀州熊野権現とも関係が深いとのこと。
神社入口左の案内板によると、許禰神社は木原畷(なわて)と呼ばれる古戦場であり、武田軍がこの地に砦を築き、袋井の北部の久野城に立て籠もる久野氏と一戦を交えた。これが、家康が惨敗した有名な三方ヶ原の戦いの前哨戦であった、とのこと。
kakegawa_022.jpg kakegawa_023.jpgkakegawa_024.jpg旧東海道は大田川に達し、袋井バイパスの高架下で左折して静かな通りに入って行く。松並木も良く保存されていて気持ちが良い道であったが、突然急な上り坂となる。この坂を三ヶ野坂と言うそうだが、ここには鎌倉・江戸・明治・大正・昭和・平成及び抜け道の7つ道が複雑に越え、現在も残る珍しい坂である。
当然、江戸の古道の石碑のある道に入って行く。綺麗に舗装されているが、急坂で森の中の道である。涼しくて気持ちが良いが、直ぐに終わってしまい、上りきったところに7つの道の案内図があった。
kakegawa_025.jpgkakegawa_026.jpgkakegawa_027.jpg三ケ野の集落から途中国道を跨いで見附に向かって歩き続けると、やがて民家の軒に「遠州見附宿 木戸跡」の木の碑があった。磐田市も見附宿として東海道のアッピールを行っているのなら、木戸跡の表示ももう少し、考えるべきだと思うのだが。
これは、後で気がついたのだが、三ケ野の集落から国道に飛び出したとき、旧東海道は国道を横切って続いているので、早く渡ることばかり考えていて、国道の右側にある「遠州の鈴が森」を訪れるのを飛ばしてしまった。
kakegawa_028.jpgさて、磐田市の市街地に入ってくると、「大見寺」がある。案内板によれば、中世に今川氏により築かれた城があったところで、江戸時代にグライダーで空を飛んだ、岡山出身の鳥人 幸吉の墓もあるとのこと。
すぐに、磐田市の一番の自慢の「旧見附学校」があり、案内板によると、「旧見付学校」は、学制発布後まもない明治八年(1875年)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎です。当初は四階建てでしたが、明治十六年に増築されて今の五階建てとなりました、とある。
明治8年では、まだ洋式の建物などほとんど無い時代であったと思うが、良い学校を作ろうとの熱意が感じられる。
無料で内部も見学でき、1階には教室が当時のまま整備されていて、椅子に座り、当時の教科書を見て、石版に字を書くことも出来た。さらに、2階には当時の子供の姿の人形があり、最上階に上ると、磐田市街が良く見え、見晴らしが良い。この最上階には、太鼓が置かれて、時報を知らせるために鳴らされ、学校だけでなく町の人達にも役立ったとのこと。
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脇本陣跡も整備されていて、入り口の門が建てられていた。
旧東海道は左折して天平通り入り、南に向かうが、うっかりと、そのまま真っ直ぐに進んでしまった。直ぐに気がついて引き返したが、道の感じは東海道が続いているように見えたのである。後で調べたら、この直進する道は「姫街道」と呼ばれ、浜名湖を渡ったところにある「新居の関」を避けるために女性が好んで通った街道で、北に大きく回り、浜名湖を避ける道であった。どうりで、旧道が続いていると感じたのもうなずける。
岩田駅に向かう天平通りを進むと、加茂川に掛かる橋を渡り、そこに木戸のモニュメントがあった。、これで昔の宿から離れることになる。
kakegawa_031.jpgkakegawa_032.jpgkakegawa_033.jpgひたすら南下して、磐田駅に到着すると、駅前に大きなクスノキがあった。樹勢もすこぶる良く、枝も大きく広がり、葉っぱも良く茂っていた。
時間は午後2時30分で、天竜川を渡る積りであったが、なんだか今日はファイトがでない。
どうするか、駅の喫茶店に入り休憩して考えるが、今日はここまでで帰ることにした。歩いた距離は23Kmで、歩き始めて最初の2回を除けば一番短いが、こういう日もあってよいだろう。
そして、磐田駅から掛川駅に行き、掛川駅から、東海道を歩き始めて始めての新幹線で帰ることにした。


2007.06.10

藤枝から掛川(3)・・・(旧東海道)

急坂を下りバイパスを潜り、日坂の宿に到着した。大きな秋葉灯篭が歓迎してくれいるようだ。本陣跡は幼稚園になっていて、入り口の門が本陣跡であることを主張している。
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「萬屋」という屋号の江戸時代の旅籠の建物が公開されていた。
中も自由に見学出来るので、ちょっと見せて貰ったが、後ほど大変なことが分かるのであるが、この旅籠は一般大衆が泊まるものであったとのこと。
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直ぐ筋向いには、やはり旅籠で「川崎屋」が公開されていたが、この旅籠は全ての部屋に床の間があり、家具調度品も上等なもので、武士階級の宿泊に供せられたのであろうとのこと。
71歳という、おじさんが案内役として常駐しており、色々と聞かせてもらった。
最近まで実際に人が住んでいて、比較的良好な状態を保ちえたこと。再整備には大変なお金を要したこと。
東海道400年祭のときは1日に800人ほど訪れたが、いまは50人程度などなどであった。
さて、先ほどの「萬屋」を再度案内して貰ったのだが、この旅籠は2階が特殊な部屋の配置になっていて、家の前後に同じ大きさの部屋が4つづつ並んでいて、両方の間には狭い廊下があった。
おそらく、後ろの部屋には遊び女が控えており、前の客の部屋に行く仕掛けだと言う。大学の先生にも来て貰って話しを聞いたが、遊女を置いた旅籠だと言っていたとのこと。
shimada_069.jpgshimada_070.jpgshimada_071.jpg日坂の宿は小さな宿で、直ぐに宿の出口にある、「高札場」に達した。良く復元された高札場で、当時の様子が良く分かる。現在のようにマスコミなど無い時代においては、情報伝達の手段として重要であったのである。
宿の端には、「事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)」がある。
大同二年(807)坂上田村麻呂東征の際、桓武帝の勅を奉じ、旧社地本宮山より現社地へ遷座すと書かれていて、大変古い神社だ。
事任(ことのまま)とは、願い事がそのままで叶うとして付けられたと言うが、本当に人気の高い神社であったようである。境内には楠の木の大木があり、樹勢もすこぶる良好な感じであった。
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「事任八幡宮」からは県道を歩いて掛川を目指すことになった。やがて「伊達の一里塚跡」に到達し、さらに進むと、「馬喰橋」に着き、掛川はもう少しだ。
「馬喰橋」は、その名が示すように、橋の柱は馬をデザインしたものだ。昔は馬の良し悪しを見分け、馬の売買の仲立ちをする専門職としての馬喰が居たが、馬喰と言う言葉も死語になりつつある。
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馬喰橋を渡ると直ぐに葛川の一里塚があり、ほどなく掛川の七曲の入り口に達する。
七回も曲がって進む必要があり、城下町に特有な形態が完全に残っているのである。
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七曲の道を辿って行くと、秋葉灯篭があり、正しく進んでいることが分かる。しかも蝋燭の代わりに電灯を入れて火を点している。
さらに、進むと「塩の道の道標」があった。この道は長野方面に塩を運ぶ街道の起点に近い部分でもあったのだ。
東海道の夢舞台道標と似た道標だが、塩街道を歩く人もいることから、建てているようだ。
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七曲の丁寧な説明板もあり、終に通り抜けたが、抜けたところに葛を用いた菓子などを売る「丁葛」と看板を掲げた古風な感じの店があった。お土産を買おうと入ったら、親切な若女将が葛湯を入れてくれた。私の住んでいる横浜からこちらに嫁いできたと話していた。
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掛川市街の中心部まで進むと、昔の商家を擬したデザインの清水銀行の本店があった。しかも、横の壁には大きな山内一豊と千代のレリーフがあった。歴史を大切にし、誇りにしているのだろう。
shimada_082.jpgshimada_083.jpgshimada_084.jpg今日は、朝は雨に降られたが、大井川を渡り、小夜の中山も通り充実したものであった。
掛川駅は、やはり雰囲気を大事にするためか、少し古風な感じであった。これから、横浜までの長い列車の旅がある・・・。


藤枝から掛川(2)・・・(旧東海道)

長い、大井川に掛かる橋を渡りきり、金谷の町に入ってきた。
金谷の旧東海道を歩いて行くと、古い秋葉灯篭などが見られ、大井川鉄道の線路を横切り、徐々に緩やかな坂道をJR金谷駅に向かって上って行く。
途中で蕎麦屋があったので、昼食を摂り、再び歩き始めようとすると、先ほどまでの小雨の空が、嘘のように晴れていた。
もう数10mで金谷駅という所に、夢舞台道標が建っており、ここが金谷の一里塚跡で江戸から53番目となる。
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一里塚跡の所で、JRの線路のガードを潜ると直ぐに「長光寺」があり、芭蕉の「道のべの 槿(むくげ)は 馬に喰われけり」の句碑があった。
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道は直ぐに左に折れ、かなりの勾配の坂道を登ってゆく。道端の民家の石垣は丸い石で積み上げてある。
1?200mほどであろうか、県道に飛び出し、どちらに進めばよいのかと思ったが、直ぐ左に「旧東海道石畳入口」と「石畳茶屋」の大きな看板が目に付いた。
進むと、直ぐに、石畳の道が始まった。箱根の石畳と違い、丸い感じの石が多く、先ほど見た民家の石垣の石と同様である。たぶん、この石垣や石畳の石は、大井川の河原で集めたものと思われる。
ほんの、数10m程度で「石畳茶屋」があり、お茶、コーヒーなどの飲み物以外にも蕎麦、うどんなどが食べられる。この茶屋は、荒れていた石畳を地元の人達が復元したときに、作られたと思われるが、つい先ほど食事をしたばかりであり、スキップして進むこととした。
shimada_030.jpgshimada_031.jpgshimada_032.jpg平成の道普請と称し、復元された石畳の道は430mとのことだが、江戸の石畳との違いは側溝を設けたことだという。なお、この坂は金谷坂と言うそうだ。
復元前は、コンクリートが流されたり、石が流出してしまった場所などがあったそうだが、全て剥がして、新たに石を敷き詰めたとのこと。石畳は綺麗に復元されたが、江戸時代の石を剥がしたので、歴史的、学術的な価値は損なわれてしまった。
shimada_033.jpg430mの石畳を歩き、車の通れる地方道に出て、引き続き歩いて行くと、「諏訪原城跡」がある。
天正元年(1573)に武田勝頼の臣下馬場美濃守氏勝を築城奉行として作らせた山城だという。
典型的な武田の築城様式の城とのことだが、箱根で三島に下るときに見た「山中城跡」に似て、空堀で石垣を使わない山城の作りである。全体像を把握するには山の中を歩き回る必要があるようで、全部を見るのは無理と考え、一部の堀の跡のみカメラに収め、次に進むことにした。
shimada_034.jpg諏訪原城跡を過ぎると、直ぐに間の宿の「菊川」への急な石畳の下り坂が続くが、この坂は「菊川坂」という。
この辺りから、遠くの山肌にお茶の木を使って「茶」の字を描いているのが見えるので、カメラをズームにして撮影した。
shimada_035.jpg菊川坂の下りは、一部、道の半分が舗装道路となっているところがあったが、やはり生活道路として利用するには、石畳だけでは厳しいからだろうか。
「菊川坂」も地元の人達の努力で復元したものだが、金谷坂の反省に立ち、江戸時代の石畳が残っているところは、そのまま残し、石などが流出したところのみ、新たに石を敷いたのだという。
石畳復元に参加した方々の名前を刻んだ大きな金属の表示板があり、また感謝の言葉も江戸時代の文体を模したものとなっていた。なかなか、ユーモアのセンスにあふれている。
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ほどなく、菊川の宿が見えてきた。山間の落ち着きを見せる宿である。
暫く歩いて、本陣跡に達すると、承久3年(1221)後鳥羽上皇の変に味方して捕らえられた、中納言宗行が、鎌倉へ送られる途中の菊川の宿で、柱に死期を覚って書いた漢詩の碑と同じく死期を覚った日野俊基の歌碑があった。
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中納言宗行は、
「昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命」
意味は、「昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ、今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う」
その約100年後、日野俊基は正中の変の翌年、幕府転覆首謀者として密告され嘉暦元年(1326)捕えられ鎌倉に送られるが、ちょうど中納言宗行が詩を書いた菊川にやってきて歌を詠んだ。
「いにしえも かかるためしを菊川の 同じ流れに身をやしづめん」
そしてその予感通り、日野俊基もまた、まもなく命を絶たれるが、日野俊基が京を出たのは7月11日であり、中納言宗行が菊川で詩を書いたのは7月10日であった。なんと、両者が死を予感した時期は、約100年を経ているが、季節では、わずか1日しか違わないのである。
shimada_040.jpg菊川の本陣跡から直ぐのところに、写真のように「矢し根鍛治」と書かれた、大きな絵が家のシャッターに描かれた家がある。ここは、矢尻作りで有名であった、才兵衛の住んでいた家の跡で、江戸時代にはその子孫の矢の根鍛冶清次郎は、参勤交代で街道を通る大名にお目見えを許されていたとのこと。江戸時代も時代が進んで泰平の世の中となり、矢尻の需要もなくなって、清次郎は菊川を離れたという。しかし、矢尻作りの秘伝はいまでも菊川の旧家に大事に保存されいるとのこと。
shimada_041.jpg菊川の里は小さくて直ぐに通り抜けられる。いよいよ「小夜の中山」への登り道になるが、とても急な坂道で息が切れた。上りきったところで、休息を取らないと次に進めない。、写真に撮ったが写真では急坂の感じが示せない。
急な登りが一段落すると、そこは一面の茶畑で、周りの山々も茶畑であった。
そして、歌碑街道と言われる「小夜の中山」の第1番目の歌碑、
(1) 雲かかるさやの中山越えぬとは都に告げよ有明の月 (阿佛尼)
がある。この歌は「十六夜日記」にでてくる歌で、聞いたことはある。
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shimada_044.jpgやっと、名刹の九延寺に到着した。九延寺は昨年のNHKの大河ドラマの「功名が辻」にも登場したが、山内一豊が茶室を作って関が原に向かう徳川家康をもてなしたところである。
また、この寺には夜泣き石と呼ばれる丸い石があるが、案内板にそのいわれが書かれていた。(クリック)
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shimada_048.jpgしかし、ここにはもう一つの伝説が伝わっている。それは、小夜の中山の怪鳥・蛇身鳥を退治にきた藤原良政がこの地で月小夜姫と出合い、二人の間に小石姫が生まれた。成人した小石姫は中山寺の住職空叟上人(足利尊氏の伯父)の子供を宿していたため親の進める結婚を果たせず、中山千人斬の松の許で自害する。自害する前に生まれた遺児月輪童子は、中国伝来の飴の製法を受け継いだ末広荘(扇屋)の飴で育てられたという、ものである。滝沢馬琴の話しは、これを下敷きにしたのかも知れないが、九延寺というより、この地方の住民の圧力だろうが、この話しも捨てがたいと、真新しい「月小夜姫の墓」と「三位良政卿の墓」が建っていた。
shimada_047.jpgともかく、盛りだくさんな お寺で、夜泣き石以外にも家康お手植えの五葉松などもあり、芭蕉の「馬に寝て 残夢月遠し茶のけぶり」の碑もあった。
歌碑の多い小夜の中山だが、やはり最も有名なのは西行法師の命なりけり・・・の歌で、土地のコミュニティーセンターにも「命なりけり学舎」と名づけられている。西行法師の歌については、後ほど触れる。九延寺からわずかのところに、子育て飴の扇屋があり、今も営業している。少し休んで行きたかったが、若い夫婦が連れた子供が傍若無人に店先の長椅子を占領しており、少し店を覗き込んだだけで立ち去った。飴以外にも民芸品の玩具などを置いてあったが、大したものは無く、お土産するために食指を動かすようなものも見えなかった。
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扇屋の斜め前には「小夜の中山公園」があり、西行法師の「命なりけり」の歌が丸い石碑に刻まれている。
「年たけてまた越ゆべしとおもいきや命なりけり小夜の中山」
西行69歳での奥州への勧進の旅であった。当時は69歳まで生きられることの方が稀であったので、ことさらに感慨が強かったのだろう。やはり、最も勢いを感じる歌である。
「小夜の中山」は、鎌倉時代頃までは、「さやの中山」と呼ばれていたが、室町時代には、「さよの中山」とも読まれるようになり、江戸以降は「さよ」で定着したようである。
元々は、狭谷すなわち狭い谷に挟まれた真ん中にある山で「狭谷の中山」であったのが、「小夜」の字を宛てたことでロマンティックな雰囲気を醸し出す。モーツアルトにも「小夜曲」があるところからも。洋の東西を問わず小夜はロマンティックなものであったのである。
公園の中は、適度に樹木が茂り、涼やかである。いまは一面の茶畑の中の道と化した「小夜の中山」も昔は、この公園の中のような光景であったに違いない。歌も浮かぶのも道理である。
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まだまだ、茶畑が続くが、やがて「佐夜鹿の一里塚跡」に到達した。
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すぐに、
「甲斐が嶺ははや雪白し神無月しぐれてこゆるさやの中山」(蓮生法師)の石碑があった。
さらに、「鎧塚」と書かれた石碑が建っていたが、案内板には、鎧塚 建武二年(1335年) 北条時行の一族名越太郎邦時が、世に言う「中先代の乱」のおり、京へ上ろうとして、この地に於て足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをした。頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに塚をつくり葬ったと言われる、と記されていた。
新しい石碑を建て直したものだろう。
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次は、
「東路のさやの中山なかなかになにしか人を思ひひそめけむ」 (紀友則)
「東路のさやの中山さやかにも見えぬ雲井に世をや尽くさん」 (壬生忠岑)
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やがて、妊婦の墓に行き着くが、この墓は蛇身鳥退治の三位良政卿の遺児で、結婚を苦に松の根元で自殺した小石姫の墓と言われている。
そして、芭蕉の句碑
「命なりわずかの傘の下涼み」がある。ここには以前は涼むのに都合の良い松があったが、枯れてしまい、新たに新木の松が植えられている。
それにしても、芭蕉も西行の「命なりけり・・・」を意識したのは間違いないが、情景は異なる。
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ここにも、芭蕉の「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」があった。こちらの石碑の方が正統なのだろうか。
そして、昔は道の中央にあったという「夜泣き石」を描いて日坂の宿の絵とした安藤広重の版画の大きなレリーフが大きな石に嵌め込まれていた。想像していたよりずいぶんと大きな石だ。
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いよいよ、小夜の中山も終わりに近づき、最後に沓掛の急坂を下る。やはり写真では急坂の感じが出ないが、普通車で進入は無理だろう。一人オフロードバイクで上ってきた若者に出会ったが。
小夜の中山は、上り口と下り口が厳しい急坂で、その間は緩やかな起伏となっていることが分かった。
そして、最後の坂にも歌碑があった
「甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく横ほり臥せるさやの中山」
 (読人不知)
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注意深く、歌碑を写した積りであったが、後ほどいただいた小夜の中山の案内パンフレットをみると、4つほど見逃してしまった。ここに、記しておく、
「旅ごろも夕霜さむきささの葉のさやの中山あらし吹くなり」 (衣笠内大臣)
「旅寝するさやの中山さよなかに鹿も鳴くなり妻や恋しき」 (橘為仲朝臣)
「風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思いかな」 (西行法師)
「ふるさとに聞きしあらしの声もにず忘れぬ人をさやの中山」 (藤原家隆朝臣)
ほんとうに、沢山の歌碑がある。まるでここを通ると、誰でも歌を作るのが当然と考えられているようだ。それでは、つたないが、私も一首
「年長けて我も越ゆべく来たりなばいにしえ浮かぶ小夜の中山」
おそまつ・・・


藤枝から掛川(1)・・・(旧東海道)

本日の万歩計54,417(35.91Km)
今日のコースは藤枝から掛川であるが、天気予想では午前は雨で午後から曇りとなっていた。
行くか中止すべきか、前の夜から迷っていたが、午前の雨も小降りで何とかお昼まで過ごせば、午後からは大丈夫だろうと考え、朝自宅から出るときに雨は降っていないのを励みに出かけることにした。
電車に乗っても、雨は降っておらず、しめしめと思っていたら、由比を過ぎた頃から本格的な雨降り状態で、藤枝についても変わらなかった。
どうしようと、作戦を立てる積りで駅の喫茶店に入り、コーヒーを飲んでいたら、小降りになり、これなら何とか歩けそうで、傘をさしても何とか島田までは行ってみようと考えた。
店を出ると、傘無しでも歩ける程度で、喜び勇んで歩き出したが、旧東海道が県道と合流する地点にある「六地蔵」に到達したときには、少し雨も激しくなり、手洗い場のわずかの屋根の下でリュックから傘を取り出した。
この「六地蔵」は相当古いようで、新しく6つの地蔵を彫った石の後ろに古い、半分崩れた石も見える。
さらに進んで行くと、中世の東海道との分岐点の石碑に達する。昔は江戸時代の東海道の付近は湿地帯で、開拓が進んで、初めて道を作ることができたとのこと。
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shimada_003.jpg 先週も気になっていたのだが、藤枝界隈では生卵の自動販売機が目に付く。あまり、他では見かけないように思うのだが。そして、旧東海道を歩いていることを実感することが出来る、松並木が綺麗だ。
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雨は幸いにも止んでしまった。そして、栃山橋東の信号機の手前に「昭和天皇御巡察之処」という石碑があった。明治天皇の碑は、ずいぶんと見たが、昭和天皇碑は始めてである。「昭和二十一年六月十八日」とあったから、戦後の巡幸のときであろう。
市街地に入ってきて、ほどなく「島田宿の一里塚跡」に達する。そして、5丁目の本陣跡である。この辺りは本陣、脇本陣が集中していたようで、その跡地がちょっとした憩いの場として整備されている。
shimada_006.jpgshimada_007.jpgshimada_008.jpg島田信用金庫本店前には芭蕉の句碑が建っている。なかなか読むのは難しいが、小さく詠み易い字で書いてある。読みは以下の通りである。
するがの国に入て はせを
「するがぢや はなたち花も ちゃのにほひ」

なるほど、芭蕉は「はせを」と記したのだ。
島田駅に向かう道路との交差点を渡ると、大井川神社がある。この神社は大井川を鎮め、子孫繁栄を祈願して創建された神社だが、近年では「帯祭り」で有名である。帯祭りは他町村から嫁いできた花嫁をつれて、太井神社に参拝した後、宿内の人に披露した、しきたりが変化して、帯だけを神社に飾って披露したのが始まりという。
近年では帯を飾るのも、ままならぬようになってきているので、祭りの形態もまた変化するのかも知れない。
shimada_009.jpgshimada_010.jpgshimada_011.jpgそれにしても、大井川神社は境内の緑がとても美しい。それと、石の秋葉灯篭は良く見かけるが、木造の「秋葉灯篭」は珍しいし、とても優美だ。
やっと、国指定の「島田宿大井川川越遺跡町並」に到着。ここから数100メータの間は、川越人足の宿や立合宿、川会所、札場などの建物がそのまま整備され残されていて、まるで江戸時代に紛れ混んだような気分になる。
しかし、ところどころに一般の民家も混じっているのが、なんだか不思議な感じだ。
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shimada_014.jpgshimada_015.jpgshimada_016.jpg川会所で内部も見学できるところがあり、記録を取る役人の様子や各種蓮台、などを見ることができた。
川を渡る最も安い方法は、肩車で渡してもらう方法で、平蓮台、半高欄蓮台、大高欄蓮台と料金がかさむ。
特に、大名が籠のまま乗る大高欄蓮台は、人足も大勢必要で大変な金額になったとのこと。
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川会所の庭には「馬方は しらじ時雨の 大井川」の芭蕉の句碑がある。
また、道路を隔てた広場には、「朝顔の松公園」がある。「生写朝顔話」という浄瑠璃で有名になった物語で、主命を帯びて急ぐ阿曽次郎を追いかける安芸の国娘、深雪。大井川の川止めで半狂乱になり激流に飛び込もうとしたところを、宿屋の主人戎屋徳右衛門に助けられ、旅の果てで盲目となっていた目が見えるようになり、初めて見えた立派な松。
その後、この松は枯れてしまい、現在は2代目である。
巖谷小波の句碑には 「爪音は 松に聞けとや 春の風」とある。
shimada_021.jpgshimada_022.jpgshimada_023.jpg島田市博物館も訪れたが、女性の髪形の「しまだ」の展示や、大井川の川越にまつわる展示が多く、興味深かった。
なお、写真には写っていないが、古い立派な民家を修復した「島田博物館分館」も見学したが、こちらでは「海野光弘」の花の旅と称した展示を行っていて、日本の原風景のような心温まる版画を多く見ることができ、建屋自体も優れた古き日本家屋で見ごたえがあった。
大井川橋の島田側口の傍には「永仲景述」と書かれた大きな碑があったが、どういう意味だろう。
さて、いよいよ大井川を渡ることになったが、歩いても歩いてもなかなか向こう岸が近づいて来ず、やはり大きい川であることを実感した。
金谷以降は新しいエントリーで・・・・・
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2007.06.02

江尻から藤枝(2)・・・(旧東海道)

丁子屋(ちょうじや)を出て、丸子川を渡ると、直ぐに「高札場」が復元されていた。古い掲示内容と新しく書き直したのを合わせて掲示しているので、賑やかだ。
その後は、民家もまばらな街道を歩いて行くことになるが、こう言う場所にもラブホテルが数軒建っていたのは興ざめだ。やがて国道1号に合流し、その後も部分的に分離したり合流したりを繰り返しながら進んで行く。
やがて、「道の駅」に到達するが、そこからは、国道1号線の上りと下りの2つのトンネルの入り口が見える。
国道は元々は昭和34年に作られたトンネル1本であったが、増大する交通量に対応するため、平成10年にもう一本のトンネルが作られ、下り線専用とし、以前の昭和トンネルは上り専用とした。
mariko_023.jpgmariko_024.jpgmariko_025.jpg 平成と昭和のトンネルの直前で国道から右に逸れる道路があるので、これを進み大きく左にカーブする道なりに進んで行くと、県道と旧東海道が分かれる地点に達する。
ここには、「ようこそ、宇津ノ谷へ」で始まる大きな案内板が建っており、綺麗に整備された旧東海道へ誘ってくれる。
落ち着いた集落の道を上って行くと、秀吉からもらった「羽織」を保存している「御羽織屋」がある。
上がりこんで秀吉の羽織を見せていただいた。相当に歳を取られたおばあさんが、顛末を話してくれる。
既に知っていた話であったのだが、秀吉公から馬の草鞋を所望されて、当家の主人は草鞋を3脚分差し出した。なぜ3脚分かと聞かれて、後はお帰りに差し上げますと申し上げた。帰りを約束するのは勝利を前提にしている。また「あの山は?」と聞かれて「勝ち山」、「あの木は?」と聞かれて「勝栗」と、縁起の良い答えを連発して、秀吉公はいたくお喜びになり、北条との戦に勝利した帰りにもお立ち寄りになり、礼にと着用の陣羽織を拝領した。と言うものであった。
羽織は、ここを通る大名達も着てみたがり、ボロボロになってしまっていたが、博物館に出展したときに修復してくれたのだという。
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集落の道は、最後には階段になっている。ここを上りきると、旧東海道と宇津ノ谷トンネル(明治のトンネル)への分かれ道(丁字路)に行き着く。
ここで、旧東海道を進む前に「明治のトンネル」に寄って見ることにした。
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明治のトンネルは、明治9年に作られたが、その後ガス灯の失火で崩落し、明治34年に再度整備されたものだとのこと。トンネルは内部にはガス灯を擬したライトが点いていて、明るい感じであったが、足を踏み入れるとライトとライトの中間付近では足元も良く見えないほどで、少々緊張する。
mariko_029.jpgmariko_030.jpgmariko_031.jpg明治のトンネルを往復(250m程度の長さ)して、元の分岐点に戻り旧東海道の方に進む。上り口は分岐点から直ぐのところだが、表示矢印の案内板が古く、あまり目立つものでなく見逃しそうになる。
しばらく上って行くと、通り過ぎた集落が下に見え、先ほど立ち寄った明治のトンネルの入り口付近のあずま屋も眺望できる。
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宇津ノ谷峠の山道は、確かに寂しい道で、河竹黙阿弥の傑作と言われる「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)」の舞台となっただけのことはある。しかし、歩き易い道で、進んで行くと音信不通で7,8年ほどにもなり、友人が作ったという、「雁山の墓石」があったり、地蔵堂の跡などがあった。この地蔵堂は、まさに歌舞伎の文弥殺しの舞台となったところと言う。
mariko_034.jpgmariko_035.jpgmariko_036.jpgほどなく、さほど長くは無い峠の登りが過ぎ、下り坂となった。下り坂はかなり急だが、距離は短い。直ぐに国道との合流点に出られた。途中では、明治のトンネルを通って来たと思われる人と出会ったが、旧東海道の山道では誰にも会うことはなかった。
国道に掛かった歩道橋を渡ると、過去から現在に舞い戻った気分になるが、これから岡部の町まで、かなり長い国道沿いの道を歩くことになった。やっと、岡部の町に入り、元旅籠でほとんど昔のままの形で残っている「柏屋」が「歴史資料館」となっているのに遭遇した。上がりこんで色々と見せてもらえるようだが、今日は藤枝駅まで行きたいと思っており、時間的に余裕がないので外から眺めるだけで先を急いだ。
mariko_037.jpgmariko_038.jpgmariko_039.jpg県道から離れたり合流したりを繰り返しながら旧東海道は続くが、途中で「小野小町の姿見の橋」があった。説明板には「小野小町」が晩年に東に下る際、この橋の上で夕日に映える西山の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには旅に疲れた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだという、と書かれていた。それにしても、小さな流れだ。流れの幅は50Cmぐらいか。
徐々に足も疲れてきて、少し休みたいと思っていたら、バス通りで休憩場所が見つかった。ここは「五智如来像」と言うのを祀った場所であり、休憩所も併設されていた。
「五智如来像」の言われは、説明板の画像をクリックしてもらいたが、ここで少し休息を取った。
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岡部町も旧東海道の維持には力を注いでいると見え、松並木で欠けている場所では新たに松を植樹し、大きな岡部宿の石碑を建てていた。特に常夜灯はあちこちで見られたが、なかなか立派なものを建てている。
これ以降は藤枝の宿に入って行くことになる。
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藤枝の宿に入ったが、だいぶ、時間が気になりはじめ、どんどん歩いて行くと、「岩村藩領傍示杭」があり、さらに進むと「田中領の傍示杭」も見つかった。
mariko_044.jpgmariko_045.jpgmariko_046.jpg複雑な6叉路の「仮宿の交差点」で、歩行者に冷たい歩道橋を渡り、どんどん進んで葉梨川沿いの道を進む。八幡橋を渡ると、ほどなく須賀神社に達し、大きな楠がある。楠は大きく育ち易いのか、大きな木を見ることが多いが、ここの楠の巨大さは特別で、大きなうろには入れないように蓋を施していた。
藤枝では「だるま」がお土産に良いと聞いたような気がしていたが、達磨屋さんが見つかった。
最後に、平成になって掛けられた美しい「勝草橋」を渡ると、今日最後の「志太の一里塚跡」の石碑を見ることになった。江戸から数えて50番目の一里塚だと記されている。
ようやく、藤枝駅も近づいてきた。もう一息と「青木の交差点」を目指し、その後、藤枝駅に向かった。
さすがに、今日は少し実力オーバ気味で駅前のコーヒーショップで休息し切符売り場に行くこととした。
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江尻から藤枝(1)・・・(旧東海道)

本日の万歩計54,434(35.92Km)
前回引き上げた草薙駅に7時30分に着き、駅前のベンチでベルトに吊るした飲み水容れの位置を直し、府中(静岡)に向かって歩き始めた。
府中の宿が近づくまでは、遺構もほとんどない道が続くが、JR東海道線で旧東海道は分断されていて、JR東海道線を3回も渡ることになる。しかも、いずれも地下通路での通行となるが、1回目の静鉄 県総合運動場駅の近くは、入り口がひっそりと目立たない感じでうっかりすると通り過ぎてしまう。
mariko_001.jpg実は1回目のJR線渡りで10分ほどロスをしたが、何とか長沼の交差点に達し、旧道を辿って行き、長沼の一里塚を探すことになる。見つかり難いことで評判のようなので慎重に道の左右を見ながら進んで行くと、道の右側に「久應寺」という綺麗なお寺があり、そこから10mほど進んだ道の左側の民家の軒下に石碑が建っていた。なるほど、これは見落としてしまいそうだ。
伝馬町に達して、徳川家康の祖母である源応尼の墓がある華陽院(けよういん)に行こうとした。地図を見ながら探すが案内表示など一切無く、直ぐ近くでも分からなかったが、ようやく目立たない門柱を見つけた。
「源応尼」の墓以外にも家康の五女の「市姫」の墓などもあり、また、家康手植えのみかん、松、柿の木と表示している木もあった。しかし、それらの木はいずれも300年も経ったものとはどうしても見えず、精々が数年程度と思えるのであった。
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いよいよ繁華街に入ってきた。江川町の交差点の手前には、西郷隆盛と山岡鉄平の会談のレリーフがあった。
江川町交差点を地下通路で渡り、御幸通りを南下して直ぐに呉服町通りに曲がると、流石にハイセンスなお店が並ぶ。そして、七間町通りに達して左折するが、ここに「札の辻址」の石碑がある。
七間通りは、道の幅を七間としたことから名づけられたのだが、現在ではともかく、江戸時代では七間幅の道路は、本当に大通りだったことだろう。
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七間通りを南下し、映画館が密集している場所のミラの座が左手に見えるところで右折し、2つ目の通りを左折して南下を続ける。この通りは、もう繁華街の華やかさは無い。やがて、川越町の交番に達するので、その背後にある三角形の緑地を訪れる。ここで最初に見つかったのは「安部川架橋の碑」である。この碑は明治7年に宮崎総五郎が私財を投じて安部川に架橋した顛末を後世に伝えるため明治40年に建てられたとあった。
次に、江戸市中で自害した「由比正雪」の墓石があった。由比の比が、ここでは井になっていた。
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いよいよ、安倍川を渡るが、その前に昔も今も「石部屋(せきべや)」の「安倍川餅」を食べなければならない。
メニュー書きは江戸時代から変わらず、掛け軸のような感じだが、「安倍川餅」と「からみ餅」の2つしかなく、その江戸時代のメニュー書きの値段のところに600円と書いた紙を貼り付けてあった。また、有名人の訪れた記念の短冊ようのものが、ずらりと貼られていた。
お店の奥さんが、お茶をと、しばらくして注文した「安倍川餅」を出してくれた。どうと言うことの無い、小豆あんをまぶしたのと、きな粉をまぶしたのと2種類の小ぶりのお餅であった。家康が感激するほどのものであったのだろうか。それはともかく、丸子の宿で昼食をとるまでの間食として適当なものであった。
おやじさんは硬派で怖い感じと伝えられていたが、仕事が一段落したのか、歩くのに使っている案内地図を見せてと話しかけてきて、なかなか気さくな一面を見せていた。
mariko_008a.jpgmariko_008.jpgmariko_009.jpgそして、安倍川橋を渡った。歩道のある橋で歩き易かった。川では、数人の釣り人が釣りを楽しんでいたが、まだ鮎の解禁には早いので、何が釣れるのか気になった。
安倍川を渡ったところは、鎌倉時代は手越宿と呼ばれたところである。謡曲「千手」で有名な少将井神社があるので、探して訪れた。
小さな神社で、お社(やしろ)はどうと言うことも無いが、左の方に謡曲「千手」の主人公の白拍子「千手の前」の石像が建っていた。謡曲史跡保存会の案内板の内容は少し長いが、以下に引用して書いておく。
源平一の谷の敗戦で捕らえられ、鎌倉で憂愁の日々を過ごす副大将平重衝を慰めるようにと、源頼朝は白拍子千手の前を遣わしました。
 和歌・琴・書に秀でた千手の前の優に優しい世話に、重衝も心を通わせ、互いに想い合う仲になりました。
 先に、東大寺を焼いた重衝を、奈良の荘は思い仏罰だとして引渡しを強要し、再び京都へ護送する途次に殺してしまったのです。嘆き悲しんだ千手の前は、尼となって重衝の菩提を弔いつつ生涯を閉じました。
 少将井神社は、手越長者の館跡と推定され、重衝と千手の前との哀切の情愛を主題とする謡曲「千手」の生誕の地と伝えられています。

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沢渡(さわたり)で国道から別れ、旧道を進んで行くと、「一里塚跡の碑」があり、また「丸子宿本陣跡の碑」も見つかった。
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面白いことに、この辺りでは厚い板に「家の屋号」を書いたものが、掲げられている。どの家にもユニークな屋号が掲げられていて興味深い。
また、由比で紹介した「お七里役所跡の碑」も建てられていたが、3人連れの若いグループが説明書きを読み、「へ?、紀州から・・・」と驚いた声を上げていた。
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丸子の名物、丁子屋(ちょうじや)に到着しました。この丁子屋ほど、安藤広重の「丸子の宿」の画とよくマッチしているのではと思う。もちろん。江戸時代の建物ではないが、どこかで茅葺の家を見つけて移設したようだが、本当に素晴らしい家をよく見つけたものだ。写真に写っている若い女性の服装が江戸風ならもっと良かったのだが。
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建物の右よりのところには、芭蕉の有名な句の「梅若菜、丸子の宿の、とろろ汁」があり、また、「十返舎一九」の丸子の宿での一節が記されていたが、読めない。と思ったら、石碑の左下隅に小さく、現在風の字で書かれていた。下記に記す。
けんくハ(けんか)する夫婦ハ口をとがらせて、鳶(とんび)とろろに、すべりこそすれ
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ここに来たら、とろろ汁と決めていて、途中に感じの良さそうな海鮮料理店もあったが、一目散に丁子屋に行き、メニューの中で一番安い「丸子」を頼んだ。お櫃に入った麦飯にお吸い物と漬物が付き、あとは小型のすり鉢に自然薯(じねんじょ)のとろろ汁が出てくるだけである。これで、1,380円は少し高い気もする。
食べ方は、お茶碗に麦飯を盛り付け、とろろをぶっかけて食べるのだが、意外と美味しい。何か、だし汁が混ぜてあるのだろうが、喉越しが良い。お櫃を空にして満腹になったが、周りで食べている人達も満足そうだ。
冬に来ると、囲炉裏に火が入り一層、おもむきが出るのだろう。
mariko_020.jpgmariko_021.jpgmariko_022.jpg食べ終わって、支払いを済ませ亭内を見学させてもらったら、「一返舎一九」の実物大の像があった。
それ以外にも、徳川家康が使ったお椀など一式や、江戸時代の煙管(きせる)など色々と展示されていた。
さて、丁子屋を後にして「宇津の谷峠」に向かうが、これは新しいエントリーで・・・


2007.05.26

蒲原から江尻(2)・・・(旧東海道)

興津川に出ると「川越遺跡」があり、東海道線の線路を潜って「浦安橋」を渡る。「浦安橋」は欄干の形や傷み具合などから判断すると相当に古い橋のようだ。それにしても橋の傍らには太いパイプが走っているが、送水菅だろうか。
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yui_042.jpg国道を歩いて行くと、宗像神社の道標がある。宗像神社は奥津島比売命(おきつしまのひめのみこと)などの女神が祀られていて、興津の名前もここから来たと言われている。大変古い神で格式は高いが、江戸時代に女神であることから、弁財天信仰との混乱が生じ、神社の森をなまめかしい「女体の森」と呼ぶようになったという。近くの茶屋に美人が居たのも、なんらか期待感を抱かせるのを助長したようである。
やがて、右手に「清見寺」の山門が、ポツリと建っているのが見えてくる。階段を登り、JR東海道線を跨いでいる歩道橋を渡る。すなわち寺域がJR東海道線で分断されているのだ。
「清見寺」の創建は天武天皇とのことで、大層古いが、幾多の戦乱を潜り抜け現在に続いており、徳川家康も今川家への人質の子供時代には良く訪れたと伝えられていて、家康が接木した梅の大木(臥龍梅)もある。
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島崎藤村の「桜の実の熟する時」という小説の最後に出てくるという、五百羅漢の石像もある。この中から、自分の知っている人に似た顔を必ず見付けられると言うが、本当に500個の顔で日本人の全てを表せるかは疑問である。
また、「高山樗牛清見寺鐘声文碑」もあるが、石碑の刻印が浅くほとんど消えていて読めなかった。傍に立て札が立っていたので、文はそちらで読む。(碑をクリックしてください)
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山下清が清見寺を訪れたとき、なかなかに興味深い一文を残している。以下に引用する。
『清見寺スケッチの思い出』より
「清見寺という名だな このお寺は
古っぽしいけど上等に見えるな
お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどうゆうわけかな
お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたな
お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな
お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいと思われるのがいいか
自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな」

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清見寺から少し進むと、道路の左手に西園寺公望公の別荘の「坐漁荘」があった。
本物の建物は愛知県の明治村に移設され、興津では跡地は清見潟公園とされて、全く面影もなかったということだが、2004年4月に忠実に復元したものとのこと。無料で公開されていたので、見学させてもらったが、流石に洗練された美を感じさせる建物であった。
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「坐漁荘」を過ぎた後は、国道を淡々と進むのみで、全くうんだりだ。やっと国道から別れられてほっとしたが、相変わらず。楽しいとは言い難い道行だったが、JR清水駅を過ぎて右折すると急に綺麗な通りになった。後で調べると銀座通りと言う通りであった。暫くして、左折して「稚児橋」を渡った。
江尻を流れる巴川に橋が架けられたのは慶長12年(1607)だが、伝説では橋完成の渡り止めに地元の老夫婦を選んでいたが、橋を渡ろうとすると突然 童子が現れ橋を渡った。実はこの童子は河童であったとされ、橋の欄干の飾りとして、4つの河童の像が設けられているのである。
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ひたすら歩いて行くと、「身延山」へ道路が分岐しているところに達し、道標が建っている。
また、そこには元禄8年創業という「追分羊羹」の店があった。お土産に買うと、冷たいお茶とお絞りに羊羹一切れを小さなお盆に載せだしてくれた。お茶は冷たく、羊羹ともよくマッチしておいしかった。暫く休息を取らせてもらって、お礼を言って店を出た。
yui_051.jpgyui_052.jpgyui_053.jpg「追分羊羹」の店から、少し進んだところに、都田吉兵衛の供養等があった。都田吉兵衛は都鳥(みやこどり)という通称で呼ばれていたが、酒好きの「森の石松」が次郎長から酒を止められていたのを、言葉巧みに酒を進めて100両の金を奪う。森の石松は命に関わる傷を負わされているにも拘わらず金を取り返しに行き殺されてしまう。
怒った清水の次郎長は、手下とともに都鳥を石松の仇とばかりに、討ちとった。その当時は誰も都鳥を供養しようとするものは居なかったが、しばらくして里人が憐れに思って供養等を建てたという。日本人の優しさの現われである。
yui_054.jpgまた、ひたすら歩を進めてゆくと、「上原延命子安地蔵」があった。狭い境内を滑り台などの子供の遊具が埋めており、清溢さとは縁のなくなった地蔵尊であるが、ここは徳川家康と穴山梅雪が会談を行ったところである。
yui_055.jpg草薙駅に向かって歩いて行くと、ビル建設工事現場の片隅に比較的大きな一里塚の石碑が建っていた。ビルでも建った後はどのような感じになるのであろうか。
yui_056.jpgやっと、草薙駅の近くまできたが、大きな草薙神社の大鳥居が目に付いた。草薙神社と言えば、日本武尊が賊に襲われ草に火を放たれたが、天叢雲剣(あめのむらぐものつるぎ)を抜き放ち草をなぎ倒したところ、火は賊の方に向かって、難を逃れたとされるのを思い出す。このときより天叢雲剣は草薙の剣と名前が変わったと言う。
ともかく、草薙神社は大鳥居より1.5Kmも先とのことで、今日はここまでにすることにした。
駅前で茶屋(喫茶店)を見つけ、無性にアイスコーヒーを飲みたくなって入った。何時もは健康上の理由で砂糖、ミルクを押さえているが、今日ぐらいはとシロップをいっぱいとミルクも入れて飲んだ。うまかった。


蒲原から江尻(1)・・・(旧東海道)

本日の万歩計42,817(28.25Km)
先週帰宅した蒲原駅にam7:05に到着して、今日は江尻か、あわよくば府中まで行く積りで歩き出した。
yui_001.jpgまず、前回寄れなかったところを見ようと一里塚まで戻り、気になっていた北条新三郎の墓を訪れた。
通りから細い道を登って、森の中に一歩足を踏み入れたところに、ひっそりと墓石が建っているが、北条新三郎の墓と書かれた新しい石碑は、最近になって地元で建てたものだろう。
北条新三郎綱重は北条早雲の3男 幻庵の子で、1千の兵で蒲原城を守っていたが、武田勝頼率いる武田軍に敗退し、城主北条新三郎をはじめ弟長順、北条家の重臣の多くが戦死した。戦国時代の1ページだったのである。
yui_002.jpg蒲原の宿の中心付近に引き返し、歩いて行くと見事な「塗り家造り」の家が建っていた。「塗り家造り」の壁は土蔵より薄いものの優れた防火効果がある。また、「なまこ壁」と言われるコントラストのはっきりした壁が美しい。なお、この家は「佐野屋」という元商家であった。
yui_003.jpg左に折れれば新蒲原駅という地点を過ぎて、小さな流れに沿って左折すると、安藤広重の「雪の蒲原」の記念碑がある。大きな石碑とプレートにした「雪の蒲原」が石に嵌め込まれていた。
30年に1度くらいしか雪の降らない温暖な蒲原で「雪の蒲原」を絵にした「安藤広重」の創作力の勝利だ。
元の街道の通りに戻ると、元は「和泉屋」という旅籠であったが、今は天保年間(1830-1844)の旅籠時代の建物をそのまま使用している「鈴木商店がある」。また、その向かいは本陣であり、中には たたみ1畳より大きな石があり大名の籠を下ろす用いられたと言うが、いまだ個人の住宅として使用されており、屋敷内を見ることは出来なかった。
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大正時代の洋館の「旧五十嵐歯科医院」は、外観は洋風で内部は和風の建物で内部を見学できるようだが、少し時間が早く、開いていなかった。
やがて、長栄寺の大きな寺名碑を見て左折すると、蒲原の西木戸跡に達する。この角は「茄子屋の辻」とも言われ、かつて「茄子屋」と言う茶屋があったところで、以下のような事件があった。
承応2年(1653)に高松藩の槍の名人 大久保甚太夫が薩摩藩の大名行列に出合い、槍の穂先が触れ合ったと口論となり、散々辱めを受けるがその場は我慢した。しかし、甚太夫は、茄子屋の辻で待ち伏せ、大乱闘となり、70人を倒したが、終に力尽き討たれたと言う。竜雲寺の住職が甚太夫を弔い、槍の穂先は寺宝として保管しているとのことであるが、それにしても1人で70人とはすごい。
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蒲原の西木戸を過ぎて由比に向かって旧国道を進む。車の通りが激しく、早く静かな道を歩きたいと思いながら、ひたすら進んでゆくと、やがて東名高速の下を潜り、すぐに車の通りとは離れほっとする。ほどなく由比の入り口に到着した。道路が鍵型に曲がっている「枡型」の説明板があり、「御七里役所跡」の表示があった。
お七里役所は、写真をクリックして説明文を読んでもらえば分かるが、紀州藩の専用宅急便組織のようで、通常は8日、急げば4日で江戸と紀州を行き来したという。
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直ぐに、由比正雪の生家として有名になった、江戸初期の創業の染物屋の「正雪紺屋」を右側に見る。
yui_012.jpg入って左側の土間には4×4列の染料を入れた甕が埋められていて、往時の様子を伺わせる。
現在でも染物屋は続けていて、和風に染めたハンカチなどをお土産として販売している。
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「正雪紺屋」の向かい側には由比の本陣跡があるが、本陣跡は1,300坪もあって本陣公園として整備され、公開されている。
ともかく、見たいと思っていた「広重美術館」は9時からであり、到着したのが8時40分で、適当に時間を潰すことになったなった。最初に大きく目立ったのは、「東海道由比宿交流館」の建物で、中は由比の風景のスケッチ画などの展示販売、お土産品売り場、旅人の休憩場所などになっていたのでブラブラとしていた。
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やっと、9時になり切符を買って美術館に入館しようとするが、入館料は500円だが、900円出すと御幸亭にも入れるとのことだったので、900円の切符を買い「広重美術館を」見学した。
版画を自分で試して見るコーナー、版画の技法の解説と合わせ「幕末の絵師の競演」と題し、大名の上洛の様子の版画を展示していた。
その後、明治天皇も休憩した御幸亭を復元した建屋に行き、菓子と抹茶を入れて貰い、すっきりと纏まった庭を望みながら上等な時間を過ごした。
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本陣公園で相当時間を費やし、次に進もうと正面の門を出ようとしたら、自転車でやって来たという若い夫婦が、写真を撮ろうとしていたのでシャッターを押してあげ、私も撮ってもらった。
1人旅で、なかなか自分を撮るチャンスには恵まれない。
本陣公園を立ち去ろうとしたら、公園の塀の外に馬の水のみ場として使用された水路があった。大きな亀が1匹いて、清掃姿の中年女性がミミズを餌として与えていた。
yui_016.jpgyui_017.jpgyui_020.jpg由比宿で、もう一つ楽しみにしていたのは「桜海老」料理を食べることであった。
「おもしろ宿場館」というのがあり、入り口には後で述べる「望嶽亭」当主で亡くなられた 松永宝蔵氏の弥次喜多の絵の等身大の人形が据えられている。2階が「海の庭」というレストランとなっているが、レストランは10時からで時計を見ると9時45分であった。1階はみやげ物売り場だが、そこのおばさんが少し待てば10時だよと言う。土産物売り場をうろうろしていたら、ハイもう良いですよと言って2階への階段脇にある準備中の札を外した。時間は9時55分であった。早速、2階に上がり「桜海老御膳」と言うのを注文。海が見え、これから向かう「さった峠」も見え景色が良い。
ほどなく、運ばれてきた料理は期待を裏切らなかった。桜海老の佃煮、サラダ、刺身、掻揚げ、お吸い物と桜海老尽くしのような料理。
考えてみれば旧東海道を歩き始めて、初めてまともな食事をした気がした。
yui_018.jpgyui_019.jpgyui_022.jpg蒲原もそうであったが、由比の宿も良く古い雰囲気が残されてい。さらに町のあちこちに旧東海道をアッピールする気持ちが見られる。この橋のたもとの、常夜灯等もその一環であると思える。
通りには「桜海老通り」の表示も多く見られることから、これも観光資源として活用しようとの姿勢がうかがえる。
観光資源としての利用価値も有るであろうが、この桜海老は戦後の町の維持に大いに役立つ産業であったことだろう。働き口としての富士の製紙工場の隆盛もあっただろうか。
通りを左折すると、数十メータで港があるので、寄ってみた。直ぐ前を国道1号が走っており、コンパクトだがなかなかの良港とみた。
また、由比駅に近づいた通りにも、桜海老を象ったゲートがあり、町の特徴を訴えていた。
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後は、さった峠に向かうばかりと、歩いていたら名主の家であった「小池邸」が休憩所として改修されて自由に立ち寄ることが出来るようになっていた。また、その向かい側にも、民家を改修した「東海道あかりの博物館」があったが、本陣公園と食事で時間を取ってしまったのでスキップした。
なお、さった峠の”さ”は薩の字で、”た”は土偏に垂の字を書くが、Windowsでは表示できないので、さった峠と記す。
yui_026.jpgyui_025.jpgyui_027.jpgいよいよ期待感が高まり、富士山も顔を出している。
さった峠への急な上り坂が始まるところに由比の一里塚跡があり、また、「望嶽亭」と呼ばれる家がある。
「望嶽亭」は、室町時代末期、すでに名所図会にもその名を残していると言われていて、特に江戸時代に入り東海道五十三次の「由比」と「興津」との間宿で脇本陣・お立場・茶亭・網元の「藤屋」として有名になったとのこと。
入り口を入ると「望嶽亭」の書の額が掛かっていたが、静かで誰も居ないように思われたが、玄関には7?8人の靴が脱いであった。勝手に靴を脱いで奥に進むと、右手の方から話し声が聞こえ、進んでゆくと10人ほどの人が思い思いの場所に腰を下ろしているなかで80歳は越したと思われるおばあさんが熱心に何か話しておられる。
おばあさんも私が廊下を進んで来たのに気が付き、どうぞと声を掛けてくれた。
後で分かるのだが、おばあさんは数年前に当主の松永宝蔵氏が亡くなられてからは、娘さんと家を守っている「さだよ夫人」であった。
幕末に府中で西郷隆盛と江戸開城についての話し合いをするために、「さった峠」を越えようとして官軍に追われ「望嶽亭」に逃げ込んできて、隠し階段から逃がした顛末を瑞々しく話すのである。話は30分は続き、貴重な話を伺ったが、それ以外にも山岡鉄州が残していったピストル、宝蔵氏が書き残した顛末記の巻物、文人の残した書などを見せていただいた。
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yui_029.jpgyui_030.jpgyui_032.jpgさだよさんは、帰りには玄関まで見送ってくれたが、松永家はかつては、「さった峠」も含めこの辺の土地は全て持っていて、かつ網元でもあったが、ずいぶん小さな家となってしまったと言っていたが、それでも室町時代に遡る松永家を守るとの気迫は感じさせられた。
「さった峠」への上り坂を登り始めると、東名高速の橋桁が海上になっている場所であるのが良く分かる。やがて上り坂が一段落したと思ったところに、2つの石碑が建っており、大きい方は文字が読めなくなっていたが、小さい方は「さったぢぞうみち」と書かれていた。さった地蔵」とは興津井上町(旧さった村)所在の東勝院の通称で、この先で東海道から分かれて参詣道がつながっているとのこと。
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峠の休憩広場にはトイレも完備されていて、車で駐車場まで上ってきた人達でごったげしていたので、さらに進むと「さった峠の「絶景ポイントの展望台」があり、薄く霞んでいるが、富士山も何とか見えていた。
やはり、くっきりとした富士山を望むなら秋にでも来る必要がありそうだ。
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「さった峠」を通り過ぎると、峠での今川兄弟の戦い、武田と後北条の戦いなどの表示板があり、さらに進むと、中道と上道の分岐点に達するので、中道を選ぶため、左側の道を下って行くと、樹林のトンネルになっているような場所を通って、墓場の真ん中を通る場所にでる。もう峠は通り越して興津の宿ももう直ぐだ。
続きは、新しいエントリーで・・・・
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2007.05.20

沼津から蒲原(2)・・・(旧東海道)

hara_028.jpgやっと吉原に到着した。最初に迎えてくれるのは、毘沙門天妙法寺。かなり疲れた足を引きずって階段を昇ると、日本のお寺とはかなり違う雰囲気の建造物に対面した。ラマ教系のお寺だとのこと。
hara_029.jpg妙法寺を後にして、JR東海道の踏切を渡り、大昭和製紙工場の脇の道を通って北に向かい、河合橋を渡る。海が近いためか、プレジャーボートが沢山係留されていた。ある程度の大きさの川では良く見られる光景である。
hara_030.jpgやがて、左富士神社を通り過ぎ、左富士の碑に到達した。道路が急にカーブしたことにより、富士山が左手に見える地点である。東海道で富士が左に見えるのは、ここと茅ヶ崎の左富士のポイントの2箇所である。
しかし、富士山上空にはしつこく雲がまとわり付いており、富士の姿を見ることは叶わなかった。
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また、ここの左富士の碑の横には静岡県統一の「夢舞台道標」が建っていた。原宿の宿境まで二里九町、富士川町宿境まで一里十七町とある。ほんとうに、よい道標である。
hara_034.jpgさらに進むと、和田川の橋のたもとに「平家越」の碑がある。源氏軍と対峙した平家の大軍が、水鳥の羽音に驚き退却したという、富士川の大戦の記念碑である。
平家軍が陣取ったのは、富士川と浮島ケ原の沼沢地の間のこの辺りだったのであろうが、周りの風景は水鳥が羽を休めていたころと全く違って、製紙工場の乱立である。
hara_035.jpg「平家越」の碑を過ぎ、暫くすると岳南鉄道の「吉原本町駅」近くで踏み切りを渡り、賑やかな商店街に入っていく。お昼の時間も過ぎ昼食を摂るため、適当なレストランを物色しながら歩く。日曜のためか、閉まっている店が多い。やっとそれらしい店を見付けて昼食を摂り、しばらく休息を取った。
昼食の後は、地図と首っ引きで忠実に旧東海道を辿る。「潤井川」を渡って、歩いて行くと、ほどなく民家の前に「鶴芝の碑」があるのに遭遇した。この付近から富士山を見ると富士の中腹に白鶴が舞うように見えたことから、鶴の絵と詩文を加えて「鶴の茶屋」に建てたものとのこと。
この辺りは街道の面影が残っていないことから、貴重な碑であるが、本当に民家の玄関脇で写真でも自転車を停めているのが写っている。なんとか、ならないものだろうか。
「鶴芝の碑」を過ぎて、広い道路と交差する地点(十字路)で、なんと広い道路に中央分離帯があって横断できないようになっているのに出くわした。そして、中央分離帯には「迂回してください」の表示があった。
全く歴史に関心を持たない、馬鹿な役人の仕業だろうと腹が立った。しかし、「迂回してください」の表示板の脇は明らかに通って踏み固められた形跡があるので、このやろうと思いながら渡った御仁がいるのだ。それでは、私もと強引に中央分離帯を突破して渡ってしまった。渡った先には、とても古い型の秋葉常夜灯が道しるべとして待っていてくれた。
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JR身延線の柚木駅を過ぎて、ようやく富士川に到達する。橋の直前の右側に「水神社」があった。水流が早いことで有名だった富士川を静めるための神社であろうか。
いよいよ、富士川橋を渡る。富士川は、いままでで一番水量が多い川である。上流を望むと東名高速の橋が見える。
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富士川橋を渡り、少し上流に向かって歩き、細い階段を登り、間の宿であった岩淵宿の街道に出る。直ぐに「秋葉常夜灯」があり、正しい旧東海道を辿っていることが知れる。
歩いて行くと、「小休本陣」の常磐家住宅に到達した。無料で公開されており、見せていただいた。古いが、やはり立派な家である。最近まで実際に住んでいたとのこと。今となってはとても貴重である。
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hara_044.jpgまた、庭には根回り6mという槙(まき)の大木があった。槙の木は生長が遅く、これほどの大木は珍しい。
常盤家で、富士川町ウォーキングマップをいただき、手持ちの地図と見比べながら歩いて行くと、「岩淵の一里塚」に到達した。左と右の両方が残っている。特に右側は型も崩れておらず、エノキの木も大木に育っている。
大変立派な一里塚だ。
時計を見ると3時30分を過ぎており、「富士川駅」から帰るか、蒲原まで足を伸ばすか迷ったが、蒲原までは一里程度なので、行くことに決めた。
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街道は右に折れ、直ぐに東名高速の下を過ぎる。その後、東名高速と平行している道を歩きながら徐々に高度を増し、最後にかなり急な坂を上って、今度は東名高速の上を過ぎる。
横断橋から高速道路を見ると、我、彼の移動速度の差異にあらためて感じ入る。
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やっと、蒲原に到着。宿の始めの方に一里塚の跡の石碑があり、少し進むと「諏訪神社」のお祭りに遭遇した。かなり、賑やかだ。
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「諏訪神社」の次は、日軽金の発電用送水管だ。直径が4.4mの鉄管が4本だから、壮観だ。驚くほどの存在感をもって迫ってくる。この太いパイプで富士川の水を引いて来ている。
hara_052.jpghara_053.jpghara_054.jpgこの3階建ての土蔵は、渡邊家の土蔵で蒲原宿でも一番古く、四方具(しほうよろい)という、4方の柱が上に行くにしたがって少しづつ狭まる方式で耐震性に優れた建て方とのこと。しかし、さすがに年数を経て修復が必要とされるが、修復には1億かかると言われ、渡邊家では、どうすることも出来ないのだという。この土蔵には貴重な江戸時代の資料が多数保管されていると案内板に記されているのにである。
hara_055.jpg蒲原の宿は海と山に挟まれた細長い土地に作られた小さな宿であり、静かで落ち着いていて、江戸時代の人々の子孫がそのまま住んでいるような感じがして心が休まる。
本当は、蒲原は製塩が盛んで、その作った塩を商いしてあるいたそうで、声が大きく「バラカンもの」と呼ばれ、怖がられたという。
ともかく、ゆっくり見ている体力も尽き、次に訪れたときにゆっくり見学することにして、「新蒲原駅」に向かった。


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