2009.07.19

金沢(青柳)から下諏訪

本日の万歩計37,879(24.62Km)

甲州街道を歩く旅は7月19日に下諏訪に無事到着し、完了。

今日は、3連休の真ん中であるが、小雨がパラつく天気予報である。
あと1回で甲州街道は歩き終えるが、今日を外すと夏の暑さが迫ってきているので、秋まで持ち越しになるとの思いもあり、決行を決意した。
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前回と同じ八王子発6:35の松本行きに乗り、9:24に青柳駅に着いた。早速国道となってしまった甲州街道に復帰して金沢宿を歩き始める。金沢宿は宿を国道が貫いたため、ほとんど昔の雰囲気が残っておらず、道路わきに時々街道風の建物が残っているに過ぎない。
国道を進んで行くと、旧家とおぼしき家が建っていて、庭先に大きな石があり、その前に穴の開いた馬繋ぎ石が置かれていた。かつての賑わいを想像させる。
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1kmほど国道を進んで宮川を金沢橋で渡り、直ぐ右に曲がり、もと枡形であった道を進む。元の国道に復帰するところに「権現の森」と石碑の建っている場所がある。説明板によると、この権現の森の由来は文化二年(1805)に金沢宿より幕府に提出した「御分間御絵図御用宿方明細書上帳」の中に「宿持鎮守 除地 拾六間四方 金山権現森壱ヶ所石御祠御座候 但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候」とあり、この権現の森と石祠が報告されている。その祠は今でも鳥居の正面に鎮座し、また、その左側には、奉納された御嶽座王大権現、不動明王、摩利支天、牛頭天王などの石仏が並んでいる。
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「権現の森」を過ぎると、また国道歩きが続き1Kmほどで左にセブン・イレブンを見て進むと、左前方にピンク色をした虹色のメルヘンというホテルとともに、こんもりした森が見えてくる。木船の一里塚である。大きくホテルの裏側を通って迂回する以外には一里塚には辿り着けない。やむなく、遠くから写真を撮って先に進む。
一里塚を過ぎても国道歩きは続くが、突然民家の前に大きな布袋さんが現れた。他には、道祖神などのかすかな当時の残り香を残すのみ。進んで行くと、ようやく「木船(きぶね)」の交差点に着き、ここからは木船の集落が始まる。
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ようやく長い国道歩きも終わり、右にターンして国道を離れ、急な坂道を上って行くと、大きな石碑が建っていたが、風化していて文字は読めない。小さいながらも御柱らしきものも立っている。そして前方には東洋バルブ茅野工場へと向かう立派な橋が見える。
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東洋バルブへの橋を潜ると、宮川に沿った静かな道になる。腕を振り振りウォーキングを行っている女性に出会い、お互いに挨拶をして通り過ぎる。約1Kmほどのぞかな道が続くと、右側から県道の197号線が合流して、さほど広い道路ではないのに車の通りが激しくなる。抜け道として利用されているのだろうか。歩道もなく歩き難い。1Kmほどで宮川坂室の交差点で合流するが、その交差点脇には古い石仏群があった。
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宮川坂室交差点を過ぎると、直ぐに「弓振川」を「建倉橋」で渡る。川の名も橋の名も歴史を感じさせる名前である。少し進むと、向こうに中央高速が見えてくる。茅野の町も近づいた。
中央高速の高架が近づくと、諏訪のインターが近いせいか交通量が増え、狭い歩道は歩き難い。ようやく高速道路をくぐって宮川の交差点に着く。ここで国道から右に分かれて進むと、三輪神社がある。同じ境内に「鈿女神社(うずめじんじゃ)」もある。鈿女神社の祭神は古事記や日本書紀に書かれている天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸の前で舞を舞った「天鈿女命(あまのうずめ)」で後には猿田彦神と共に「道祖神」として祭られるようになり、「天鈿女命」の面は狂言の面としていわゆる「おかめ面」となった。境内の片隅には「明治天皇御小休所」の碑もある。
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上川橋を渡ると、そろそろお昼時になり、手ごろな食堂を探しながら進む。茅野駅が近づいてきて、うなぎを焼くにおいも漂ってくる。今日は「どようの丑」でもある。一軒「うなぎ」と書かれた旗の立った店を見つけ、入ったが蒲焼を売る店で、奥様連中が買いに来ている。残念ながら食堂ではない。やむなく茅野駅の方に進み、「蕎麦屋」を見つけて、昼食をとった。うなぎは逃したが、なかなか美味しい蕎麦であった。
昼食を終えて街道に戻り進んで行くと、国道に再び合流し奇妙な形のコンクリートの建造物を発見する。中央高速の諏訪インターで降りた車が、蓼科・白樺湖方面へ向かうのに茅野市街地を避けるためのバイパスを造り、この街道の下を「あけぼの隧道」と言うトンネルで通っている。そのトンネルの換気口である。
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この後、国道を2Kmほど進むことになるが、上原頼岳寺の交差点に達すると、柿澤翁、土橋翁の筆塚がある。次の交差点は信号も無い小さな交差点だが、ここを右折すると、真っ直ぐにJR中央線のガードに向う道になる。
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ガードをくぐると、急な上り坂になり、左にカーブして上って行くと大門街道追分で、常夜燈、石碑が建っている、写真で右側が上ってきた甲州街道で、左は旧大門街道で白樺湖を経て中山道の落合まで続く。進むと、右の山の斜面には村社姫宮神社の急な階段が見えていた。
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少し先には、神戸公民館。あまりにも立派過ぎて街道のイメージには合わない気がする。そして、直ぐ先の右側に「頼重院」がある。諏訪頼重は武田信玄に攻められ、桑原城で破れ、甲府で切腹させられた。墓は甲府の東光寺にあるが、ここにも菩提寺として頼重院が建てられたのである。頼重を最後に諏訪氏は滅亡するが、娘の諏訪御料人(NKK大河ドラマでは由布姫)が信玄との間に勝頼を儲けた。
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静かな良い感じの道が続き、高台で住み心地の良さそうな住宅街とも言える。神戸の一里塚は、もう石碑だけになってしまっていたが、江戸から51番目の一里塚であり、甲州街道ではあと2つを残すのみになった。
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「雀おどり」の付いた蔵が建っていた。中山道の塩尻あたりには雀「おどり」の飾りの付いた屋根が多く見られるが、この辺りでは珍しいのではなかろうか。そして、旧国道への合流点の手前には秋葉山の石柱とともに双体の道祖神が建っていた。
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旧国道に入ると、古い様式を残した呉服屋があり、また高原はちみつの店がショーウインドウでミツバチの巣箱の構造を見せていた。
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現在の国道に合流して1Kmほど進むと、元町の交差点で街道は国道から右に別れてゆくが、その分岐点に宮坂醸造眞澄工場がある。中はお土産用のお酒の販売所になっていて、利き酒もできるコーナーも確保されている。
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元町の交差点を過ぎると、右手に浄土宗の「貞松院」。そして手長神社の長い参道が見えてくる。
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次に、形の良い松の木が見えてくる。諏訪市天然記念物の「吉田のマツ」で、推定樹齢270?300年と書かれている。説明板には、高島藩士吉田式部彦衛門が大阪城守備の任務から帰ったときに持ち帰ったと伝えられ代々吉田家の庭にあったものを昭和の初めにこの地へ移したもので、市内最年長寿と書かれている。それでは、江戸時代の旅人は観られなかったことになる。
上り坂を登って、進んで行くと「先宮神社」がある。先宮神社は古くは鷺宮神社と言っていて諏訪大社より古く、諏訪大社がこの地にやってきたとき、抵抗したが終には服従を余儀なくされ、他の場所へ移ることを許されず、境内前の小川には橋も架けられなかったと伝えられている。その後はまた、静かな街道が続いて行く。
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進んで行って、武居商店の脇には大きなケヤキの木が立っていた。注連縄まで貼られた大きな木であるが、裏に廻るとほとんどが損なわれていて、道路側の僅かな部分のみで生きていることが分かった。そして、裏側の狭い空き地には複数の石碑が建っていた。やはり、何か特別な場所ででもあったのだろうか。
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武居商店を過ぎて、坂道を下ると家の脇からちらちら見えていた諏訪湖の眺望が一気に広がる。江戸期の旅人も、諏訪湖の眺望で晴れやかな気分になったこととであろう。まだまだ、街道は続いているが両側にも立派な住居が並ぶ。
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街道の左側に、とても立派な家が見えてきた。前に突き出た灯篭も立派である。隣の庭にいた若い婦人に、どのようなお家なのかたずねたが、嫁いで来たばかりで良く分からないとのことであった。後に調べたら旧家の橋本家で、古くにはここに茶屋があったとのことであった。
右の土手には「明治天皇駐車址」の碑が、青竹の茂みに隠れそうになっていた。
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江戸から53番目の一里塚が現れた。52番目の一里塚は見逃して、この53番目の一里塚は甲州街道では最後の一里塚である。そして小さな川を渡ったら、「承知川の記」と書かれた説明板と石垣として埋め込まれた大きな石板があった。説明版には、
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
輝石安山岩 重量約拾参屯伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したという。爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する
とある。
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突然に諏訪大社の秋宮まえに飛び出した。突然にオルゴールが鳴り出し、時計を見ると午後3:00であった。甲州街道もあと、百メーターで終わりである。その前に無事の旅を感謝して諏訪大社にお参りする。記念撮影も行った。鳥居の前で写っているの一緒に歩いた先輩で、大注連縄の前が小生である。本殿の両側には御柱が建っている。

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諏訪大社を後にして、最後の100mを中山道との合流点に進む。ここで甲州街道はお終いである。これで、東海道、中山道に続き甲州街道を完歩した。
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前2回は一人旅であったが、今回は会社の先輩と二人旅で、今までとは違った雰囲気も味わえた。無事に終わった感激に浸りながらも疲れた体に鞭打って、下諏訪駅に進む。途中でお土産の「塩羊羹」を買い、下諏訪駅には15:45に到着し、16:10発の特急あずさで帰宅の途についた。

2009.07.11

教来石から金沢(青柳)

本日の万歩計34,956(22.72Km)

kyoraishi_01.jpg今日も、朝4:40に自宅を出て韮崎に8:28に着き、8:38発のバスで40分掛けて前回歩き終えた下教来石(しもきょうらいし)に着く。韮崎を出発したときは乗客は10人程度であったが、最後は私たち街道歩きの2人のみとなった。
ところで、教来石(きょうらいし)の地名のいわれは、昔 日本武尊が当地を訪れ、村はずれの大石に腰掛けて休み、この石を村人が「経て来石(へてこいし)」と呼び、これを村の名前にしたが、経を教と書き誤りこの名前になったと言うが、ハッキリしない。
ともかく、バスを下り、9:30に出発。直ぐに国道20号の左側に「明治天皇御休憩所址」の碑を発見。通り過ぎて100mほどで国道から右の旧街道に入って行く。200mほどで左側に諏訪神社がある。本殿の中の彫刻は素晴らしかったが、周りに目の細かい網が貼られていて撮影は色々試みたが果たせなかった。
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この辺りは見晴らしが良く、下の方の田園地帯が良く望見できるが、明治天皇が訪れられたときは田植えの季節で、しばし田植えの情景を眺められたという。少し先には「明治天皇田植御通覧之址」の碑が建っていた。
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さらに先には、「御膳水跡」の碑があり、明治天皇がここの水を誉めたと書かれていたが、現在の旅人にはコンビニで水を買うより仕方が無い。とても立派な家も建っていた。
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1.5Kmほど進んで国道に出たところには教慶寺。国道を100mほど進んで再び右に入って行くと上教来石の集落である。街道らしいなまこ壁の蔵がある。旧家らしい豪壮な家であった。
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松の枝を見事に仕立てた家がある。少し先で大目沢橋を渡ると、山口の関所跡である。信州口を見張った国境の口留番所である。説明板には下記の記述があった。
ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は二名で近隣の下番の者二名程を使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永二年(1705)に本栖の口留番所から移ってきた。
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関所跡を過ぎると、田園風景が1Kmほど続く。植えられた稲も順調に育ち、風が吹くと葉先が美しい波を描く。
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国界橋の手前で国道に出ると、今回の歩行で唯一のコンビニのセブンイレブンがあり、その脇には、「目に青葉 山ほととぎす 初かつお」の教来石出身の山口素堂のとても大きな句碑がある。田中角栄書、世話人 金丸信とある。しばし、当時の政界に思いを馳せる。
コンビニの横の運送会社のサンコーラインの駐車場の中を通って草道になってしまっている旧道を進み、旧国界橋を渡る。この橋を渡ったところには、街道歩きの人達にはすっかり有名になった電撃ネットがある。このネットは猿の侵入を防ぐためであるが、7000ボルトのパルス状の電流を流していて、触れると激しい電撃を受ける。電圧は高くても電流は小さいので触れても生命にかかわることは無いが、やはり恐ろしい。棒の黒い部分を持って開け閉めするように注意書き(我々は予備学習してきた)がなされているが、教来石側からは分からない。写真は渡り終えてからふり返って撮ったものである。公道にもかかわらず恐ろしく感じて、やむなく国道の新国界橋を渡る人も多いようであるので、注意書きは両側に、しかも図入りで親切なものが欲しいと感じた。
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国道に出て100mほどで右に急坂があり、上って行くと「日蓮上人の高座石」と書かれた説明板のある場所がある。説明板によれば日蓮上人が流罪を許され、佐渡から鎌倉に帰り、その後ここ下蔦木に立ち寄ったとき悪疫が流行っていた。そこで、三日三晩この岩上に立って説法と加持祈祷を行い、霊験を表わしたので村人全て日蓮に帰依し、当時真言宗であった真福寺の住職も名を感応から日誘と改め日蓮宗に改宗したと書かれていた。進むと、日蓮宗に改宗したという、真福寺の立派な鐘楼門が見えてきた。境内では紫陽花が涼しげに揺れていた。
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進んで行くと、真下に国道を見ながら進むようになり、応安の古碑と書かれた石碑の建つ場所があった。応安とは北朝時代の1368年からの8年間を指すが、この当時の石碑群を集めたようである。そして、少し先には「古代米の里」とかかれた木の看板が有り、右の土手をのぼると、少し黒っぽい葉を持つ稲が植えられていた。
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国道を真下に見ながら進んで行くと「甲州街道・蔦木宿」の看板があり、ここから蔦木宿に入って行くことになる。小さな川を渡ると、大きな常夜燈を2基配して参道とした石のお堂があった。宿の入口の守り神ででもあったのだろうか。
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100mほど進むと、枡形の説明碑があり道は左に曲がるが、そちらに進む前に「三光寺」に立ち寄ることにした。曹洞宗のお寺で、参道の植木の緑と石畳が美しく、お堂、鐘楼も立派である。
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枡形に戻り、国道を100m進むと、石の鳥居が見えてくる。十五社大明神である。鳥居をくぐって石畳の道を進むと本堂があり、その中には「めどでこ」がある。「めどでこ」とは棒に縄のリングが付いているもので、御柱祭りで大木の先端に角のように付けるものである。この十五社大明神も御柱祭りを行うのである。
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国道に戻って進むと、本陣の門と、その脇に石碑がある。本陣の建物は無くなっていて、門のみが残っている。
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さらに進むと、蔦木宿の大きな案内板があり、この案内板にも描かれている北の枡形に向って歩いて行く。「枡形道路」の石碑があり、分かり良い。
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枡形の出口には沢山の石仏があり、国道に復帰する。700mほど国道を進むと、また左側に外れて、岩田建材の作業用道路のような堤防の道を進む。再び国道に合流するところにも道祖神や庚申塔がある。ちょうど昼時で、ここの木陰で今日の昼食をとることにした。今日はレストランが期待できないものと考え、おにぎり等をコンビニで買込みリュックに入れてきた。
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600mほど国道を進むと、右に逸れて旧道への坂道を上って行き、机の集落に入って行く。美しい家並みを眺めながら進むと、国道に合流して瀬沢大橋を渡る。橋を渡ると直ぐに国道と分かれて左折して進む。
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瀬沢の郵便局を過ぎると、左手方向に石段が続く神社があり、その先には古い様相の「吉見屋」というお店がある。吉見屋の前の自動販売機で冷たい飲み物を買い、飲み干してここから始まる急坂を上って行く。
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急坂は短く、上り終えると道は左にカーブして小さな沢を渡るが、本当の登りはここからであった。民家も無くなり坂道は森の中に入って行く。道祖神が見送っている。登りは辛いが、立ち止まると風が涼しく心地よい。標高もだいぶ高くなってきたようだ。この辺り一体は瀬沢古戦場で、天文11年2月(1543/2)、北から信玄を攻めようとした小笠原・諏訪・木曽・村上の4将は、動きを察知した信玄に奇襲され敗走したところである。
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峠を過ぎると高原の小さな「とちの木」の集落がある。八ケ岳もずいぶんと大きく見えてくる。集落を過ぎて、静かな高原の道が続く。
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街道は、また峠道の雰囲気になり、石仏が旅の無事を願って見送ってくれているようだ。立派な松の木の並びが見えてきたと思ったら「とちの木風除林」の説明板が立っていた。説明板によれば、とちの木では風当たりが強く五穀は実らず、寛政年間(1789?1800)に村では高島藩へ願いを出して、防風林として外風除けを村の上に仕立てた。そのアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っているとのこと。
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防風林から少し先には、江戸から四十七里の重修一里塚がある。そして、今日始めての甲州街道コースの立て札がひっそりと立っていた。
街道の両側は高原の別荘地の様相になってきて、三菱マテリアルの私有地にぶつかり、甲州街道は行き止まりにになるので、左折して迂回して進む。広大な土地である。
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三菱マテリアルの敷地を過ぎると、原の茶屋の集落である。500mほど進むと、右側に明治天皇御膳水の碑があり、冷たい水が流れていた。飲んでみたい誘惑に駆られたが、飲んでも良い旨の掲示もなく我慢した。
集落の終わりには、新しい双体の道祖神、庚申塔の石碑などが集められていた。
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原の茶屋の集落を過ぎると、カゴメ富士工場の裏を進む道になる。カゴメの工場を過ぎ、道が下りにさしかかると「御射山神戸(みしゃやまごうどう)」の集落である。この辺りも松の植木の手入れが良く行き届いている。
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道端には多くの石仏が集められているのを見ながら進むと、国道に合流する。合流した国道の右側には「小川平吉先生生誕之地」の大きな石碑があったが、知らない人物である。後で調べたら、政治家・弁護士で長野県生まれで1903年衆議院議員に当選して、司法大臣、鉄道大臣等を歴任したが、1929年の私鉄疑獄事件に連座して入獄した人物であった。大きな石碑に見合った人物か、はなはだ疑問である。
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国道を進んで行くと、御射山神戸(みしゃやまごうどう)の信号が現れ、少し先の「すずらんの里駅」への入口の交差点には八幡神社がある。
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300mほどで、街道は国道より左に分かれる。分岐点には石碑が建っているが、文字は風化が進んでいて読めない。少し先には、馬頭観音の石碑群がある。真新しい石碑が建てられていたのは驚きである。
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馬頭観音を過ぎたあたりから、街道は上り坂になり樹林帯の様相を示し始め、直ぐに欅(けやき)の大木が見えてくる。日本橋から四十八番目の御射山の一里塚である。塚は道の両側にあり、ほぼ完全な形を保っているが、進行方向右側の欅は明治初期に枯れ、左側のみ慶長年間から380年間を生き延び、目通り幹囲6.9m、樹高25mとなっている。またここには標高917mの標柱も立っていて、高原の風は冷たく汗ばんだ体には心地よい。
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林を過ぎて、家並みが現れ始めると、富士見町上水道・神戸第二貯水池と書かれた門柱が建っていた。やがて、エプソンの大きな社員寮が見え始め、国道に合流する。
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国道に出て、青柳駅の方に折り返すと、線路の向こうに「穂屋之木大明神」と「鬼子母神」の像が見える。そして、無人の青柳駅に着く。時刻は午後3時で、30分ほどで高尾行きの電車が来た。
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2009.06.27

韮崎から教来石

本日の万歩計42,896(32.88Km)

今日は、4:40に自宅を出て、八王子6:35発の松本行きで韮崎には8:28に着く。ずいぶんと、遠くまで来たものだ。韮崎はサッカーの中田英寿の出身地であるためか、駅前広場にはサッカー少年の像があるが、これを横目で見て、ガードをくぐって駅出口と反対方向に進む。ガード内には韮崎高校美術部の生徒が描いた絵が6つある。落書きを防ぐため、先に良い絵を書いておくことにしたという。
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土曜日の早朝で、街道に通じる道は人通りも無くひっそりとしていた。街道に出る直前に右折して雲岸寺に寄る。須玉に海岸寺という寺があるそうだが海抜は1000mで、元来そちらが雲岸寺で、ここが海岸寺となるはずが、京都から命名書を持ってきた僧が間違えたとの言い伝えがあるそうだ。
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雲岸寺そのものは、普通のお寺だが、右側の崖に窟観音という観音堂がある。中は、3部屋に分かれていて、千体仏、次に窟観音本尊聖観世音菩薩、一番奥は弘法大師御尊像が祀られていた。千体仏と観音本尊には、お賽銭を投げ旅の無事を願った。
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観音堂の横には洞穴が口を開けていて、石仏が並んでいる。奥に進むと、反対側に出られ、韮崎駅のホームが見える。下に下りる急な階段もあったが、下りると駅に逆戻りなので引き返した。
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街道に出て歩く。市役所東の交差点までは電信柱のない街並みが美しい。一ツ谷の交差点で国道に合流して歩いて行くと、ますます右の七里岩の威容が迫ってくる。崖の崩落防止の工事は行っているとはいえ、このような崖の下に住むのは勇気が要りそうだ。
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さらに進むと、武田信玄が晴信と名乗っていた若いころに治水工事を行った史跡の「十六石」の史跡が残っていた。大きな石も一つ残っていたが、ずいぶんと大きな石を用いたものだと思う。
やがて、国道から離れ下祖母石の集落に入って行く。街道の面影を思わせる美しい家並みが続いている。
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家並みが切れ、田園風景が目に入ったころ、突然赤みがかった南無阿弥陀仏と刻まれた石仏が現れた。背景の七里岩の緑、田圃のみどりと相まってよく映えている。集落を過ぎて国道に近づくと、九頭竜大神を筆頭に石仏が集められている場所があった。やはり治水を祈るためのであったのだろう。
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国道に合流して、500mほども国道を戻って釜無川に架かる桐沢橋を渡る。対岸から盛んにクレー射撃の銃声が聞こえる。橋の左側には、鮎釣りを楽しむ釣り人が大勢竿を操っていた。
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橋を渡って、右の方に進むと直ぐに「山梨県立韮崎射撃場」の看板があった。釜無川に向って射撃するので、対岸に危険はないのかと心配になるが、クレー射撃では最大到達距離は235mとのこと。しかし、周辺の人家では毎日のように響く銃声が、うるさくないのだろうか。道なりに進んで桐沢に架かる、新しい橋を渡って進んで行くと、道路わきに水量の豊富な水路が現れる。この水路は徳島堰と呼ばれ16Kmも続いていて、これから円野町上円井(まるのちょうかみつぶらい)まで延々と続く。徳島堰については後に詳しい説明板が設置されていた。
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街道は宝蔵寺でしばし県道と別れ、1Kmほどで合流して戸沢を渡る。徳島堰は戸沢の下を暗渠となって跨いでいる。作られた江戸時代には大変な工事であったことだろう。
さて、ここで大変な間違いを犯した。戸沢を渡って進む道を間違え、戸沢に沿って延々と進んでしまい40分ほどロスした。途中には熊に注意の看板があったが、樹林帯の気持ちの良い道でもあり、良い気になって進んでしまい、引き返す羽目に落ちいったのである。ようやく街道に復帰して、下円井(しもつぶらい)の集落に入って行く。街道らしい家並みが現れほっとするが、お昼近くになり、お腹も空いてきた。
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集落を過ぎ、田園地帯に差し掛かると、「かかしの里」の大きな看板があり、風で動く大きなモニュメントが立っていた。残念ながら風は吹いておらず、動く気配は無かった。進んで行くと徳島堰は寺沢と交差して、「寺沢サイフォン」として寺沢の下を潜って続いている。
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やがて、徳島堰に沿って桜並木が現れる。さほど長くは無いが、ほどよい樹齢の桜でお花見に最適と思える並木であった。少し向こうには国道20号が見えてきて、下をくぐる歩行者通路で横断すると、上円井集落である。ここで街道は徳島堰と別れるが、進んで行くと「徳島翁のおはかみち」と書かれた石碑の建っている、細い路が左に現れた。
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60mほどで、妙浄寺というお寺があるが、その上の国道沿いに「なかよし食堂」があるのを調べておいたので、何はともあれ食事をと上っていったが、既に潰れたようであった。仕方が無いので、妙浄寺の鐘楼の下で手持ちの菓子パンで空腹を少し満たして、次に食べられるところを探すこととした。ここのお寺の本堂の左には徳島堰を作った徳島翁と妻の墓が建っている。徳島兵左工門は江戸深川の商人で豊臣家の残党と言われ、堰を建設するに当たりその完成を祈念して深川の法華山浄心寺第二世日通上人の開眼による七面大明神をその守護神とし、この地に安置して建設に励んだ。しかし幕府の圧政にあい、この地を去り、その後を妻である妙浄尼に委ねた。それにより身延山法主日莚上人より妙浄寺の名称を賜り、この寺となったとのこと。徳島堰の完成により、どれだけ多くの水田を作ることができたかを考えると、私財をなげうって堰を作る人をいじめる当時の幕府役人の狭量には腹がたつ思いである。しかし、彼は後世にちゃんと名を残すことはできたのだから良しとするべきであろうか。
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街道に戻り、進んで行く。300mほど進むと、明治天皇の小休所となった内藤家。立派な門から中を覗くと空き地であったが、「明治天皇園野小休憩所」の石碑が見えた。
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上円井(かみつぶらい)の交差点で国道に合流して、小武川を渡る。橋の中ほどには「北杜市」の看板。入って行く宮脇の集落は、静かで小さな集落で食堂を見つけるのが気になって写真も撮らずに通り抜け、再度国道に合流して進み、武川町牧原への入口に来た。「武川村米の郷、武川町農産物直売センター」と看板の出ている建物があり、軽食ぐらいは取れるのではと入ったが、野菜や米の販売のみ。トイレがあるのは街道歩きにはありがたいのだが。しかたが無いので、隣の「山崎デイリーストア」で寿司を買ってきて、厚かましくも直売センター内の椅子に座って食べ、今日の昼食とした。やれやれ。
牧原の集落は800mほどで国道に戻るが、庭の植木の手入れが行き届いていて、風情のある集落だ。どうしてこのような形ができたのだろうと思うような松の木も見ることができた。
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牧原の交差点を過ぎると、大武川を渡る。河原には、大きな石がごろごろとしている。堤防の石積みも大きな石でダイナミックな感じがした。国道から左に分かれて武川町三吹の小さな集落を通り過ぎると、田圃のなかの水車小屋を望見しながら、萬休院への路を上って行く。
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疲れた体にはキツイ急な上りである。登りつめると、京の寺のような石庭があったが、かつて樹齢450年と言われる国の天然記念物の「舞鶴松(まいづるまつ)」がない。ご夫婦で訪れた方にお聞きしたら、松食い虫ににやられて、終に昨年に枯れて切り倒されたとのこと。その後どうなったか1年ぶりに見に来られたとのことであった。
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やむを得ず在りし日の「舞鶴松」を写した説明板を撮り、お寺を後にした。急な坂道を下り、街道に合流するところに、大きな石仏が建てられていて、下諏訪から進んできても良い目印である。
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武川町三吹の集落も街道らしく美しい集落であるが短くて500mほどで終わってしまう。が、尾白川の堤防の道になったところには、「甲州街道一里塚、甲府ヨリ七里ナノデ七里塚トモ云ウ」と書かれた真新しい石碑が立っていた。後で調べたら宮脇の集落を過ぎて国道に合流する地点に「六里塚」があったようだが、見逃した。
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尾白川橋を渡ると、国道の左側に「甲州街道 古道入口、はらぢみち」と書かれた案内の石板が立てられていた。この古道は江戸時代に甲州街道が整備される以前の道で、忘れ去られていたのを地元の人がを通れるように整備し復活したものとのこと。
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草道で少し進むと3体の馬頭観音があり、その側面には「右かうふみち」「左はらぢ通」とある。その後で道は林の中に入って行くように続いていたが、突然葡萄畑の傍らを通るようになり、尾白川が左に沿うようになり、台が原下の交差点に出る。
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国道を横切って進むと「台ケ原宿」で入口には日本の道百選、甲州街道、台ケ原宿とj書かれた看板が立っていた。やはり、綺麗な家並みの通りである。
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樹形の立派な松の木が塀越しに見えていた。本陣は跡のみだが、隣には大きな秋葉常夜燈がある。しかし、この常夜燈は新しいので最近整備されたものかも知れない。
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進んで行くと、台ケ原宿では有名な、造り酒屋の「七賢」がある。天保六年(1865)この酒蔵の母屋を新築の折、高遠城主内藤駿河の守から竹林の七賢人の欄間をいただき、その後七賢の銘柄を冠したとのこと。中に入ると醸造用水が流れていたので、飲んでみたが美味しい水であった。別に湧き水を汲む場所も作られていた。また、試飲、直売コーナーも設けられている。
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七賢を過ぎると直ぐに「問屋場跡」があり、引き続き「明治天皇菅原行在所」の石碑があった。その向かいには、金精軒という和菓子屋がある。有名な信玄餅の元祖を作る店でもあり、店構えが江戸期風を保っている。
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金精軒を過ぎても、素晴らしい家並みが続き、明治24年に作られた登記所跡、田中神社とその境内に遷座した祭神が日本武尊の荒尾神社と説明板、修験智拳寺跡などがある。宿の終わりが近づくと「つるや旅館」、「梅屋旅館」が建っていたが、旅籠時代から綿々と続けているのだろうか。写真左には古い講中札も見える。
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台ケ原宿を過ぎ、白州小学校脇の道を進む。田圃の中を進むと、土手の草を野焼きにしている場所を通った。かなり激しい煙で通り過ぎるには大変な迷惑であった。旧甲州街道といえども天下の公道であり、通行に差し支えある行動はどうかと思うのだが。そして、前沢上の交差点が近づいたころ、道路の左側に草に半分隠れて、玉斎吾七と言う人の石碑があった。新しい石碑だが説明も無く、後にネットで調べたが、どのような人かは不明である。さほどの有名人でもない人の新しい石碑を建て、草に隠されていても誰も気にせず、説明も無いのは不思議である。
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国道の前沢上の交差点に差し掛かり、歩いて行くとサントリーの「白州製樽工場」の看板がある。直ぐに右に旧道の入口に入って行く。夜間照明も付いた立派な白州総合グラウンドを右に見ながら進み、荒田の集落に入って行く。田舎暮らし情報館というリサイクルショップがあり、面白い掘り出し物がありそうに思えたが、疲労に加えて、足も痛くなってきて、マメができる前触れでないかと、気になりだし、とても寄る余裕はない。
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下教来石(しもきょらいし)の集落を、ともかく帰りのバスの停留所に着くことを思いながら進む。写真撮影の頻度も極端に少なくなる。やっとの思いで「下教来石の交差点」にたどり着くが、バスの停留所が見つからない。聞こうと思っても誰も見当たらなかったが、何とか庭に出ている婦人を見つけることが出来、交差点から30mほど韮崎方面に戻ったところであるのを知る。山梨交通の専用のバスが折り返せる広さがある場所があった。時間は16:40でバスは17:33である。ベンチも無く日陰もない場所で1時間以上もひたすら待ち続けることとなったが、韮崎駅には18:13に着き、やっと帰宅の電車に乗ることが出来た。
今日の歩行距離は30Kmを越え、流石に疲労困憊であった。

2009.06.20

石和から韮崎

本日の万歩計37,874(24.59Km)

もう、梅雨が始まっておりハッキリしない日が続いている。幸いにも今日は晴れ空に恵まれ、午前9時11分に石和温泉駅に着き、早速歩き始めた。石和温泉は1961年果樹園で突如温泉が湧き出し、東京からも近く急速に発展した温泉である。駅前にはショッピングセンターもあり、なかなか賑やかさだ。
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駅から国道に向う途中に、古くは笛吹川であった流れを整備し直した第二平等川があり、河童の石像や笛吹権三郎の像がある。そして、国道に出て右折して、こちらは本当の平等川を渡るが、葦が一面に茂る川となっている。そう言えば、葦簀(よしず)なども最近は目にすることは無くなった。
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街道歩きとしては楽しいとは言い難い国道歩きが続くが、たまには旧家らしい立派な門を持つ屋敷も現れる。そして松原の交差点を過ぎ「南の風 風力3」の目立つ看板のホテルが見えてくると、酒折駅も近い。
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次の交差点の「山崎三叉路交差点」は新宿3丁目で分かれた青梅街道との合流点で、南無妙法蓮華経の大きな供養塔が立っている。この場所は大きな刑場跡でもあり、供養塔は日蓮宗の信者だった法悦が建てたと伝えられる。江戸時代の歌舞伎役者の市川海老蔵は、甲州武士の子孫と言われるが、甲州での興行へは甲州道中を使っていた。しかし、川渡しで法外な金を取られてからはこの青梅街道で甲州へ入ったと伝えられる。
さらに少し進むと、「日本武尊」と書かれた大きな古い石碑がある。これはこの先にある日本武尊を祀った酒折宮への道標とのこと。
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道路の左側には「山梨学院大学」見えてくる。綺麗なキャンパスに釣られて、少し内を歩かせて貰った。箱根駅伝の活躍でも有名で、幼稚園から大学院までの総合的な教育機関として地域の発展にも寄与しているように見える。
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甲府に向って、道は続く。中央線の向こうには「甲斐善光寺」が見える。永禄元年(1558年)、甲斐国国主武田信玄によって創建され、川中島の戦いで戦火が信濃善光寺におよんだときに、信玄は本尊をここに移した。本尊は、さらに織田信長の手で岐阜へ、豊臣秀吉により京の都へ、更に徳川家康の手で尾張へ移されるなど転々としたが、1598年(慶長3年)秀吉の死の前日に信濃へ返されたとのこと。
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身延線のガードをくぐると直ぐに枡形になっていて、左折して40mほどで右折する。右側に重厚な立派な家が現れた。まだ、住居として使用されているようだが、写真では十分に重厚さを示せない。
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天正10年(1582)創業の印傳屋の垢抜けした店舗と印傳博物館があった。印伝とは、インド羊や鹿の皮をなめしたものをいい、細いシボがたくさん有り、染色した皮に漆で模様を描いたものとのこと。なお、家長は代々上原勇七を名乗り、手法は門外不出として口伝で伝承されたという。
NTT甲府支店西の交差点で左折して、最初に交差する通りは銀座通りの名前で、既に七夕を考えたと思われる飾りつけがなされていた、
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問屋街入口で最後の枡形を過ぎると、大きな通りに出て左折する。商工会議所の立派なビルが見えてきて、甲府駅に続くメイン通りの「平和通り」を歩道橋で渡る。甲府駅前には「武田信玄」の銅像もあるが、駅までは1Kmほどあるので、そのまま次に進む。
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大きなビルが林立する市街地であるにもかかわらず、立派な土蔵が残っている。そして、荒川を渡る。この荒川は奥秩父の金峰山に源を発し、有名な昇仙峡を下り、笛吹川へ合流し更に釜無川と合流し富士川となって駿河湾へ注ぐ。江戸に非常事態が起こったとき、家康が駿河に逃れる想定脱出路でもあった。
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続いて貢川(くががわ)という小さな川を渡る。架かっている橋は「貢橋(くがはし)」で昭和6年竣工で時を感じさせた。少し先には、天然記念物の「サイカチ」の木が2本立っていた。「サイカチ」は川に生える木であるので、かつて貢川の流れが、この辺りまでおよんでいたことを窺わせる。川原でサイカチはよく見かけるが、確かにこれだけ太いのは始めてである。
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前田橋南交差点を過ぎると、右側に「クリスタルミュージアム」。興味はあったが、お昼の時間となり、お腹も空いてきてスキップして次に進むことにした。
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直ぐ先には、芸術の森公園があり、県立美術館にはミレーの「種をまく人」、「落穂拾い」などがあることで有名である。「落穂拾い」はパリのオルセー美術館、「種をまく人」はボストン美術館にあるのが有名だが、ミレーは同じ主題の絵を何度か書き直しているので、その内の1つがここにもあるのである。そして、中央高速をくぐって、ようやく今日の昼食予定の「うな竹」に行き着き、浜松から移ってきた主人の作る「うな重」で空腹を満たして、しばし休息した。
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時間は1時で日差しは強く暑い中を出発する。「竜王駅前」の交差点を過ぎると、しばらくして国道と分かれて、街道は右に入って行く。60mほど進むと、右側に大きな丸い石が祀られている。竜王新町下宿道祖神で、神体の直径は45Cmとのこと。丸い道祖神は、珍しいが山梨県に入ってからたまに見かけるようになった。
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時々、立派な白壁の家が見受けられるのは街道らしい雰囲気を醸し出している。中央線の踏切を渡ってから、道は上り坂になり途中には「諏訪神社」がある。
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進んで行くと、右手に「HAL研究所」があり、上り坂の頂上の左側に「山梨県営発電総合制御所」。県内の18の発電所の集中監視制御をしているとのこと。子供用の見学展示室があり、その前には琴川第一発電所で実際に使用していた水車が展示されていて、大月の駒橋発電所を思い出した。坂道を上ってきた暑さを冷やすべく案内の女性が1人いる展示室で少し休憩させて貰った。
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下り坂になって、少しは楽になって進んで行くと、下今井で寺町と呼ばれている地域となり、なまこ壁を配した家が続いていた。街道らしい感じである。そして、植木の手入れがよく、石畳の参道が美しい自性院がある。
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静かな住宅街で、本当に立派な家も現れる。
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下今井の複雑な交差点を抜けて塩崎駅方向に進むと、道路右の土手には子供のレリーフがあり、少し進むと大きな石が見えてくる。「泣石」である。説明板には以下のように書かれていた。
下今井字鳴石のJR中央線と県道との間にあり、現在地より約100m南東にあった。高さ約3.8m、幅約2.7m、奥行き約3.7mで中央部から水が流れ出ていたが、鉄道の開通により水脈が断たれてしまった。天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ちのびて行った。その途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り涙を流したという言い伝えがある。
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「泣石」を過ぎると直ぐに塩崎駅入口で大きな「三界萬霊塔」がある。そして、殊更に立派な家。なまこ壁が延々と続く。一体、どのような方が住んでいるのであろうか。維持していくのも大変であろうと思うのだが。
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ずんぐりした形の鳥居が現れた。舟形神社の鳥居である。説明板によれば、室町期の建造とのこと。現在の若者なら確実に頭をぶつける高さである。
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塩川沿いの道に出て進んで行き「塩川橋」を渡ると、線路ぎわの道を延々と進む。
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下宿(しもじゅく)の交差点には、「鰍沢横丁(かじかざわよこちょう)」の石碑がある。江戸時代には富士川舟運の拠点であった鰍沢河岸が設置され栄えるが、近代には鉄道や道路など交通機関の発達に伴い商業圏の拠点としての役割は低下し、近年は過疎化が進行しているとのこと。
また、この交差点からは、電信柱を廃止して、美しい街並みになっている。
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進むと、「韮崎宿本陣の跡」の石碑のみが残っていた。そして、本町の交差点で「韮崎駅」方面に進み、ガードをくぐて駅の正面に着いた。駅構内の売店で「アイスコーヒー」を飲んで一息つき、15:40分の帰りの電車に乗ることにした。
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駅のホームからは、韮崎名物の「観音像」、反対方向には「八ケ岳」がかすんで見えていた。梅雨の季節だが今日は快晴に恵まれ、暑さがこたえる1日であった。今日の晴天を見越して、行きも帰りも大勢の登山客が電車の座席の大半を占めていた。
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2009.06.07

阿弥陀海(笹子)から石和

本日の万歩計44,477(28.89Km)

先週に続いて、街道歩きに来ることができた。笹子駅を9時に出発して、直ぐにJR線のガード潜り進んで行く。登山を目指すと思われる人達も5?6人が同じように出発して行く。
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しばらく、進むと頭に厚い笠のようなものを載せた「笠懸地蔵」がある。由来はハッキリしないようだが、領民を襲う大飢饉等の災害や苦渋の救済を心願して作られたものであろうとされている。そして、1Kmほど進むと臨済宗妙心寺派の普明禅院がある。江戸日本橋より25里とある。
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国道から左に別れ、平行した橋を渡り進んで行く。突き当たって道標を見ながら左折し「新田下」のバス停を過ぎて右折する。右折すると甲州街道の道標があるが、これでは入口を示す役には立たない。ともかく、笹子峠越えの旧街道が始まる。
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杉の葉が降り積もった路を1Kmほど進むと舗装道路に出るが、数百メーターで再び樹林間の道への入口がある。
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数百メーター進むと開けた場所に出る。ここは三軒茶屋跡で「明治天皇野立所跡」の碑がある。明治13年6月19日にご巡幸されたと顕彰の記と書かれた金属板に書かれていた。
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明治天皇巡幸碑を過ぎると、急に勾配がキツクなり、普段の運動不足を実感させられながらあえぎながら進んで行くと「矢立の杉」に到着する。「矢立の杉」は昔武将が出陣に際して矢を立てて武運を祈ったとされる杉で、根廻り幹囲14.80メートル、目通り幹囲 9.00メートル、樹高約26.50メートルと書かれている。
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中山道の「大湫の杉」は目通りが11.0m、樹高60mで、「矢立の杉」は大きさでは2番目であるが、木の中が空洞になっていて天が見えるのが特徴である。休憩できる東屋も造られているので、疲れた体を休めるのに都合が良い。健脚を誇る先輩も東屋で流石に疲れた風情だ。
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「矢立の杉」の直ぐ上には真新しい地蔵があるので、何だろうと見てみると、建立は昨年(2008年)で杉良太郎の歌う「矢立の杉」を記念して作ったようで、集まった浄財は「矢立の杉」の保存に役立てるとのことであった。ここで街道歩きは地蔵の前を右に進んで林道を進むのが無難な方法だが、元来の街道は左脇を進む。登山の様相の道で、いささか急峻だが、危険は無いのでゆっくりと進んで行く。「矢立の杉」までの道に比べて通る人が少ないのが、踏跡から見て取れる。
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急な尾根道を登り終えて林道に出て進むと、「笹子遂道」が見えてくる。286,700円掛けて昭和13年に完成したものだという。優美さの感じられる入口のデザインで平成11年には登録有形文化財に指定された。それにしても、3分で通り抜けられるこの遂道の完成以前は、上の峠道を30分ほど掛けて歩いていたとは、大変なことであったろうと思う。もちろん街道歩きとしては、当然トンネルの上の峠道を歩んで行く。なんと熊出没注意の立て札まである。
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峠は色々な方面への分岐点で、賑やかな道標が立っていた。我々は「かいやまと駅」方面に進むことになる。下りてゆくとトンネルを通る林道に出る。
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ふり返るとトンネルの出口が見えている。林道のガードレールが切れていて、林道をショートカットして進む歩行路に入って行く。
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延々と杉林の間の道を下って行く。上質な絨毯のように柔らかく気持ちが良いが、なかなか林道には出られない。お昼までには通り過ぎられると思っていたが、まだまだと思われたので、途中でいただいた「おにぎり」を食べて休憩した。
ようやく林道に出て、長い長い林道を進んで「駒飼宿」に到着した。宿場の面影はほとんど残っていないが、立派な庭木、太く曲がった松の木が僅かに宿場であったことを主張しているように感じる。そして、中央高速の下を潜れば、また国道20号線と再会である。
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国道にぶつかって左折するのが甲州街道だが、右折して「甲斐大和駅」の方に300mほど進んだところにある「うゑのや」という食堂に入って遅い昼食をとる。もう1時だ。
食事を終え1時30分に勝沼方面に出発した。直ぐに「鶴瀬宿」の杭があった。ここが鶴瀬宿の本陣跡である。やがて、国道は洞門とトンネルとなる。
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洞門を過ぎるとトンネルの左側に旧道があり、途中に左に延びる吊り橋がある。かつて集落の交通に利用された長垣の吊橋だが、車社会の到来とともに使われることもなく、今は、もう朽ちて通行は不能である。そして、昨年できたばかりの真新しい洞門が姿を見せた。
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道路の左側に「大和YAMATO」と書かれたモニュメントが見えてきた。ここが大和町と勝沼町の境界である。長い単調な国道歩きも終わりに近づき深沢の交差点を過ぎると、近藤勇の石像が建っていた。ここは、1868年3月6日に近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊300と板垣退助率いる官軍3000が甲州勝沼の戦いとして激突したところである。官軍の圧倒的な火力に甲陽鎮撫隊はたちまち敗走して、近藤勇は江戸に逃げ帰った。その後、さほどの時も置かず、近藤勇は捕らえられ、板橋で露と散ることになった。
それにしても、この近藤勇の石像は漫画チックで、全く重厚さは感じられない。
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直ぐに、道路の左側に大善寺。ぶどう栽培の発祥のお寺という。しかし、境内に入るだけで入場料500円の商魂に嫌気がさして外から本堂を撮影するのみで通り過ぎた。
そして、上行寺前の交差点に到着した。午後3時である。ここから「勝沼ぶどう郷駅」に向い帰宅の途に着くか、先に進むか迷ったが、先に進んで「石和駅」に向うことにした。
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上行寺前から100mほど進んで上町の交差点を過ぎると、勝沼本陣跡の「槍掛けの松」が目に入る。大名や公家が本陣に泊まったときに槍を立てかけた松の木だという。少し進むと、古い2階建てと3階建ての蔵が残っていた。葡萄がもたらした富が窺える。
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明治30年代に勝沼郵便局舎として建てられた当時の洋風建築で、その後大正9年から昭和7年ころまで、山梨田中銀行の社屋として利用された建物に遭遇した。銀行当時のカウンターや時代を経た家具調度類。特にゼンマイ式の蓄音機で鉄の針で「夕焼け小焼け」の童謡が聴けたのは郷愁を誘われるものであった。
いただいた小冊子によれば、第二次世界大戦中は北白川宮が疎開された。平成9年5月に国の登録有形文化財になり、平成10年12月に田中逸策氏より勝沼町に寄贈されたとある。現在は街道を歩く人々の無料休憩所として、ボランティアの方が建物の説明とお茶のサービスを行ってくれる。
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この辺りから、葡萄棚を配した家が多く見られ、ワイナリーも何軒か見掛けられた。特に有名なのが白百合醸造で、工場見学もできるが、今日は先を急ぐ旅で樽や自動車の廃材で作ったロボットのモニュメントを見ながら通り過ぎて行く。
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時間の経過を気にしながら暑い陽射しの中を石和に向って歩き続ける。白百合醸造から2.5Kmほど進んで日川橋を渡り、さらに、2Kmほど川に沿って進む。日川は途中で合流して笛吹川となるが、笛吹川を渡ると、川の堤防に沿ってしばらくは松並木となったところを進む。松並木を過ぎると、笛吹権三郎之像があり、ここで笛吹川と別れ、石和温泉の市街に向うことになる。
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市街への道を進んでいると、「テアトル石和」という昔懐かしい感じの映画館があり、2本立てで日本映画を上映していた。
そして、国道に合流したところに遠妙寺(おんみょうじ)がある。仁王門を備えた寺は珍しい。ずいぶん立派な仁王門だと思っていたら市指定文化財であった。また、この遠妙寺は、謡曲の「鵜飼」発祥で有名とのこと。
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少し進むと、石和本陣跡があった。本陣跡は駐車場となってしまっていたが、蔵が1つだけ残っているのが見受けられた。国道の向こう側には石和小林公園がある。30際のとき富国徴兵保険相互会社(現富国生命)の第一部長、44歳で社長、52歳の時に日本開発銀行初代総裁。その後東南アジア移動大使、インドネシア賠償交渉日本政府代表、アラビア石油社長、海外技術協力事業団初代会長、財政制度審議会会長、外資審議会会長を歴任し、勲一等旭日大綬章を賜った石和の英雄、小林中(あたる)の屋敷跡である。
等身大の銅像の他、足湯があり女性が数人楽しんでいた。
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ようやく、石和温泉駅入口の交差点に着いた。久しぶりの長距離歩行で疲労がつのってふらふらである。ここから、駅までは800mほどだが、無限の遠さに感じられた。それでも午後5時30分に石和駅に着き運よく直ぐの電車に乗ることができた。

2009.05.31

猿橋から笹子

本日の万歩計27,850(18.1Km)

3月21日に歩いてから、約2ケ月ぶりである。季節としても気持ちの良い4月は2人の都合が合わず、5月になってもなかなか行けず、5月のラストの31日に午後から雨との天気予報であったが、大したことは無いだろうと、出掛けることにした。
猿橋駅では、大勢の自転車の輪行バッグを担いだ大学生と思しき一行と一緒に下りたが、サイクリングに適したルートもあるのだろう。歩き始めると、直ぐに大月の特徴的な山容の岩殿山が見えてくる。
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猿橋駅より少し進んで国道から右に離れ、800mほど進むと右手に東京電力の駒橋発電所の社員住宅がある。ここの発電所は需要が増えた東京の電力が日露戦争による石炭不足で火力発電だけでは不足するようになり、明治42年に作られた由。この遠隔地に水力発電所を建設し、東京の早稲田変電所までの76kmを55,000Vの電圧で送電した。当時はスイス製の水車にドイツ製の発電機を5台設置し15,000kWの電力を生み出したという。現在は、8本あった導水管も2本となり、電力もこの近隣への送電に留まっているとのこと。左側の上り坂を上って行くと、道路下に大きな水車が見えてくる。この水車は、ここの駒橋発電所で使われていたものでなく、旧桂川電力公司の鹿留発電所にあったフランシス水車で1912年製とのこと。
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導水菅を過ぎて細い坂道を上って行くと、第五甲州街道踏切があり、少し進むと国道に合流するが、直ぐに左に分かれて旧道がある。300mほど進むと、厄王大権現があって、旧道は終わる。
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国道を400mほど進み、高月橋入口交差点で右折すると真正面に岩殿山が見える。戦国時代の幕あけのころ大永七年(1527)、郡内領守護小山田越中守信有が築城した山であり、敵が攻めてきたとき、子供の泣き声で発見されるのを避けるために子供を落としたという「稚児落とし」と呼ばれる断崖がある。単なる伝説と思われていたが、最近の調査で幼児の骨が発見されたという。怖い話しである。
そして、古い商店街を進んで大月駅に着いた。
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大月駅から700mほど進み、桂川を渡って、さらに700mほど進むと、国道の左側に下花咲一里塚跡がある。ここは近辺にあった石仏を集めて整備したとのことだが、元の一里塚の面影は無くなっている。
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約500mで、本日のハイライトの下花咲宿の本陣である。この地方の星野家の家屋で、現在の当主は17代目とのことで、まだ部分的に住居として使用されている。
住んでおられる上品な老婦人が、家屋内を案内し、説明してくれた。
お婆さんのご主人は養子で、東海道の島田宿の本陣からこられたとのこと。叔母さんに絵を描く方が居られたと、色々な屏風絵も飾られていた。
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庭の向こうには、星野家は24町歩も保有する豪農でもあって、幾つもの蔵が建っていたそうである。裏側は中央高速の大月インターが直ぐ近くで、庭の一隅には文庫蔵が残っていた。また、お婆さんの祖母が嫁入りに乗ってきたという駕籠も保存されていた。
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中央高速の大月インター入口を過ぎ、笹子川を渡って、真木温泉入口にさしかかる。木が茂っていて国道であることが残念と思う道が続く。
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お昼時間になり、「いなだや食堂」で昼食をとる。地元の人達が4人ほどで酒盛りで歓談していて、何処まで行くのか等話しかけてきた。
食事が終わると、雨が降ってきた。幸い大降りではない。
初狩駅も過ぎ、進むと、「小林本陣」があった。元の家屋はなくなっていたが、僅かに当時を偲ばせる。
延々と国道歩きが続くが1.5kmほど進んで、ようやく旧道に入る。やはり旧道は車の騒音を聞くことから免れられるのが良い。800mほどで、山門が立派な「宝林寺」があり、直ぐに国道に出るが、また旧道が右に分かれる。旧道の終わりが近づくと、「稲村神社」が目印で直ぐに左折して国道に合流する。
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国道で笹子川を渡ると、笹一醸造の酒遊館があり、直径4.8m、長さ4.95mの世界一の太鼓が目を引く。ここでは、お土産のお酒、菓子などが売られている。酒粕を入れた饅頭が評判が良いとのことでお土産に買った。
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まだ、小雨がぱらついている。酒遊館を過ぎると、直ぐに笹子駅が左に見えてくる。駅前には、大きな「笹子墜道記念碑」。そして無人の笹子駅である。ちょうど午後2時である。次回の笹子峠越えを期待しつつ、今日はここで終えることにした。今日歩いた距離は20Kmにも満たないが、久しぶりで足が少々痛んだ。
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2009.03.21

藤野から猿橋

本日の万歩計43,839(28.5Km)

昨年の12月13日からの久しぶり歩行である。3月に入ったら再開と考えていたが、週末は雨が多く、やっと歩くことが出来た。
藤野駅には8:22分着の電車で、先輩と待ち合わせ、8:30の出発となった。
出発して直ぐに左手の山の中腹に、前回よりも間近に「緑のラブレター」のモニュメントが見える。
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今日は、空には雲ひとつ無い快晴で青い空が広がっている。
しばらく進んで、JR中央線を横断橋で横切り中央高速の下に設けられた歩道を過ぎると、増珠寺があったが早朝のためか境内への入口は閉じられていた。ここには寛政11年(1799年)当地関野に生まれた、力士追手風喜太郎が五具足・燭台などを寄贈した寺との案内板が建っていた。追手風は土俵を退いてからも年寄となり相撲会所の要職に着き、その部屋は現在まで続いていて 元立浪部屋の力士、大翔山が1998年から追手風親方として部屋を構えている。
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増珠寺から600mほど進んで、名倉入口の信号機を見て国道20号線から右に離れ急な坂道を下りて行くと、境沢に架かった境沢橋がある。どうと言うことも無い橋だが、ここがかつての相模の国と甲斐の国の国境であったところである。少し進むと、相模湖の湖尻に架かる境川橋があり、ここが現在では神奈川県と山梨県の県境となっている。橋の上には「わかさぎ」釣りの人達が糸を垂れていた。「橋上での釣り禁止」の警告板が幾つもぶら下がっているのにである。
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甲州街道は、この境川橋を渡らず、右にUターンして九十九折の急坂を上って行く。坂の終わりに近づいたところに、「甲州街道史跡案内図」があり、道路の反対側には「諏訪番所跡」の碑が建っていた。
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街道としての面影はまるで残っていない道を進むと、諏訪神社があり、杉の大木が歴史を感じさせてくれた。少し進むと、右手に旧甲州街道の巨大な石碑があったが、「あいさつをかわす思いやりの道」とはいかにも現在の世相を反映した言葉に見える。
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中央高速を下に見て陸橋を渡ると、「疱瘡神社」がある。ここは「塚場の一里塚跡」でもあり、江戸から17番目とのこと。疱瘡は今では死語になった感があるが、主に天然痘を指し、私の子供の頃は予防接種を受け、そのあとが上腕部に残っている。
この神社を過ぎると、上の原の市街地に入って行くが、ここも街道の雰囲気はほとんど残っておらず、本陣跡は「ホテルルートイン」とのことだが、何の表示も無い。しかし、上野原は「酒まんじゅう」が名物らしく何軒かの店があったので1軒の店で1つ買って食べながら歩いた。なかなか美味しかった。
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さほど大きくない上野原の市街地区は直ぐに過ぎて、国道20号と分かれて500mほど進み、再び20号線と出会って、その上を陸橋で渡る。陸橋の上からはこれから進む「鶴川宿」がパノラマとなって望むことが出来る。
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国道20号線を渡って、鶴川への道路を進み、大きくカーブしているところは、歩行者だけのショートカット通路を進み、鶴川橋に向かって進む。
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鶴川橋を渡ると、「鶴川宿」の碑が建っており、ここから立派な家屋の多い静かな家並みが続く。
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300mほどで街並みは終わるが、本陣跡も分からない。火災で宿が全て焼けたからだろう。家並みを過ぎて左に曲がり急坂を上る。さらに家屋がまばらになるが、石作りの立派な蔵があった。家の疎らな集落を700mほど進むと、中央高速にぶつかり、陸橋を渡って、大椚宿(おおくぬぎしゅく)に入って行く。
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直ぐに、真新しい「大椚一里塚」の碑があり、静かな集落が続く。また、このあたりは、大きな敷地の片隅に、「二十三夜」や「馬頭観音」の石塔を多く見かけ、紛れも無くかつての街道を思わせてくれる。
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少し進むと、右側に古い祠と石碑が現れ、椚宿発祥の地と書かれていた。「椚宿」は鶴川宿と野尻宿の間の宿かと思っていたが、距離的に間の宿を置く必要もない場所であることから、江戸期以前の古いの宿であったのであろうとのことである。少し進むと、「吾妻神社」があり、大きな杉の木が見えてきた。
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吾妻神社には街道歩きにはありがたい公衆トイレもあり、階段をで上の台地に上ると、真新しいお堂が建っていた。まだ、賽銭箱もなく開眼の儀式もまだなのではと思われた。
この神社を過ぎると。道路の左側は広大な「オリンピックゴルフ場」が続き、500mほど進んだところに、「長峰砦跡」の碑があった。
武田信玄の家臣の加藤丹後守が、北条の侵入に備えるために砦を築いた場所であるが、中央高速の建設で、ことごとく損なわれたため、せめてもの思いで石碑を建てたとのこと。
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長峰砦跡から500mほどで「野田尻宿」への高速を横切る陸橋がある。しかし、ここでは渡らず、そのまま500mほど進んだところの、中央高速のサービスエリアで昼食をとることにした。三連休の真ん中の快晴で、サービスエリアは大変混雑していた。昼食をとった後は、元の横断橋に戻り野田尻宿の方に進む。しかし、往復1Kmで途中は小峠を越えるような地形で体力の消耗も無視しえず、良い選択ではなかったと、いささか後悔するはめになった。
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野田尻宿も静かな街並みで、歴史的な遺構は残っていない。明治天皇御小休所址の碑は、ここに本陣があったのだろうか。そして、鶴川宿と同じデザインの野田尻宿の碑が建っていた。
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小さな宿で、直ぐに終わりになり、街道は左に曲がって進む。直ぐそばに「談合坂サービスエリア」があるが、隔絶され静かな時間がゆるやかに流れているように感じる。最後は「長嶋神社」で宿は終わる。
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街道の道なりに左に曲がって行くと、西光寺の門前に「お玉ケ井」の碑がある。伝説に語られる女性はいつも美女であるが、「旅籠の恵比寿屋の美しい女中、実は竜が、長峰の池の主である竜神との念願の恋を実らせたお礼にと、水不足で悩む野尻宿の一角に、澄んだ水をこんこんと湧き出させた」という。正面にある「西光寺」は裕福なお寺と見え、立派な建物が林立している。
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西光寺を右側に回りこんで行くと、高速道路に沿って急な上り坂になり、上りきったところに、石畳風の高速道路を跨ぐ歩道橋がある。渡って進むと、舗装の無い道路となり、杉林の中の進む道となるが、直ぐに県道30号に合流する。
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県道に出て右折すると、向こうからご夫婦で歩いている方に出合い、何処まで行くのかお聞きすると、我々が出発した藤野までだという。右手の石垣の上には「荻野一里塚跡」の説明板があた。そして、また中央高速を横断橋で渡る。
渡ると直ぐに右に上って行く道があり、これが旧甲州街道である。入口には「矢坪坂の古戦場跡」の説明版が立っている。
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細い上り坂を上って行くと、武甕槌(たけみかづち)神社入口の立派な鳥居前に到達する。既に上ってきた方が鳥居の根元で休んでいて、盛んに神社まで行って来ることを勧めるが、神社はかなり上のようであり、久しぶりの歩行で疲労も蓄積してきたのを感じていたので、寄らずに甲州街道を進むことにした。
神社を過ぎると、道は細く片側は崖になっていて、手すりがないと怖いと感じる道になる。「座頭転がし」の立て札もある。このような危険な場所にはよく「座頭ころがし」の名前が付いている。
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細く険しい道が突然終わり、舗装道路に出ると、犬目宿の看板があった。犬目宿も山間の静かな宿で、上野原市の共通デザインの「犬目宿」の碑が、犬目宿直売所の前に設置されいた。何を売っているのかと覗くと、野菜、果物などで、休んで行ってとの声を聞き流しながら先に進む。
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少し先には、犬目の兵助の生家の説明板があった。天保4年の飢饉に続いて天保7年(1836)の大飢饉がやってきて、各村の代表者は救済を代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、米穀商に穀借りの交渉をしても効き目はないので、犬目村の兵助と下和田村(大月市)の武七を頭取とした一団が、熊野堂村(東山梨郡春日居町)の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出た。一揆後、兵助は逃亡の旅に出るが、その『逃亡日誌』が残っていて、埼玉の秩父に向かい、巡礼姿になって長野を経由して、四国にまで渡り、更に伊勢を経ている。この間の人々の善意の宿や、野宿を重ねた1年余りの苦しい旅のようすが伺えるという。晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応3年に71歳で没してるとのこと。
そして、犬目宿の枡形になって直角に右折するところに、「龍澤山寶勝寺」がある。
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直ぐ横には「空」と書かれた大きな球形のオブジェがあった。そして、進むと「君恋の一里塚」。ほぼ完全に残っているようで貴重だ。以前伝えられた裏側の崩落は、防止工事がなされていた。
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急坂の下りで、膝や関節に痛みを感じるようになって、途中で休憩を取りながら下って行き、中央高速を潜ると、ようやく国道20号線にぶつかり、歩いて行くと「鳥沢駅」入口で、一里塚、鳥沢の表示杭が見つかった。
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ここで、帰ることも考えたが、まだ3時であり、今日は何とか猿橋が見たいということと、次回の予定も考慮して、進むことにした。少し進んで国道20号線から右に分かれると、かなり古いと見られる水路の橋が見える。後で調べたら東京電力の水力発電所の放水路のようであった。
重い足を引きずり、2Kmほど国道を進み、ようやく右に逸れて「猿橋」にたどり着く。説明板があるが、7世紀に建てられたのではないかと推察されていて、当時、日本に渡来した百済の職人が、猿が藤蔓を伝って川を渡るのを見て作ったと言われ、戦国時代は戦略の要所であり、江戸時代に至っては文人墨客がここで杖を止めて多くの作品を残したと書かれている。現在の橋は昭和59年8月に架け替えが完了したもので、橋の長さは30.9m、橋の幅3.3m、川面まで30mで、総工費3億8千3百万円だったとのこと。紅葉の季節は渓谷美が殊更に彩られるという。
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最後は、猿橋駅に向かって歩き、「三嶋大明神」の鳥居を右に見て、もう一歩も歩くのは嫌だとの感じで駅にたどり着く。
長いブランクの後の歩行で、かつ甲州街道を歩き始めて最も長距離の歩行で、厳しかったが、楽しい一日でもあった。

2008.12.13

高尾から藤野

本日の万歩計32,479(21.1Km)

今日は、おそらく今年最後の街道歩きである。予定では高尾から藤野までの、およそ20Kmを歩く。8時半に高尾駅に到着した。若干遅くなると言っていた先輩の到着を待って見渡せば、陣馬高原の方にでも向かうのか、大勢の登山客の姿を見ることができた。
8時50分には先輩も到着して、今日のコースを考え駅前のコンビニで多少の食料を買い込み出発した。いつの間にか、登山客の姿も疎らになっていた。国道20号線を歩き始めるが、土曜日の朝は、人通りも、車の通行もさほど多くは無い。
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ほどなく、南浅川に架かる両界橋に着く。国道とJR中央線が同時に川を渡っている。川を眺めると、国道も鉄道も無い頃は、なかなかの景観を誇っていたのではと思えるものであった。100mほどで旧道は国道と別れ右に入って行く。車の通りはあるが、静かな街並みである。
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山中にあると勝手に思い込んでいた、小仏関跡が簡単に現れた。戦国時代には富士見関と呼ばれていたという。江戸時代に入り徳川幕府の管轄になり、他の関と同じく「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まった。2つの石が据え付けられているのは、前の方には手形を置き、後の方の石に手をついて通行の許しを乞うたとのこと。しかし、地元の人々は交代で下番として勤めさせられていた関係で比較的簡単に通行できたようである。
関所跡の屋敷跡と思しきところは、広場となっていて「甲州街道駒木野宿」の大きな看板が立っていた。
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道端にはどのような由緒のものか分からないが、お地蔵さんと墓石が屋根の下に納まっており、街道らしい情緒を醸し出していると思っていたら、高速道路の圏央道へのジャンクションが見えてきた。
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高速道路は圏央道へのジャンクションだけでは満足できないと見え、国道20号線へ繋ぐトンネルでも穿つのか、大工事が継続していた。対照的に水行を行う道場である「蛇滝水行道場入口」の道標が立っていた。
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戦国武将の行き交った道も、空を切り裂くように幾何学模様の道路が空を横切る風景は夢想だにされることはなかっただろう。近年の科学文明の凄まじさを見る思いがする。そして、そのジャンクションの下に忽然と現れたのは、豆腐を製造販売する峰尾豆腐店である。摺差(するさし)の豆腐と呼んでいて、寄せ豆腐やおからドーナツが人気で、高尾山ハイキングの帰りにわざわざ寄る人も多いという。
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そして、真新しい本堂の常林寺を過ぎると、浅川国際マス釣り場である。
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マス釣り場を過ぎると、道は尾根を回って中央線の線路から離れるが、回り終えると綺麗なレンガのトンネルを潜る。明治34年の八王子ー上野原の開通に合わせて作られたのであろうが、当時は単線であったが、将来の複線化を考慮して幅を決めて作ったのか、後に幅を拡張した気配もない。トンネルを過ぎると、鉄道の線路と道路の間に水路が設けられていて、途中に堰きとめられて「やまめ」が泳いでいるのが見える場所もある。そして鉄道は小仏峠のトンネルに姿を消す。
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バスの折り返し点に着いた。登りの勾配も徐々にきつくなって来て汗も出るようになり、着込んでいる衣服を脱いで歩行を再開。
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寶珠寺というお寺があり、立派なお寺のようであるが本堂は階段の遥か上の方であるので、入口からのお祈りで済ませて、先に進むことにした。まだ舗装道路が続いているが、九十九折で急な坂道を上って行く。紅葉の時期は過ぎたが、最盛期は美しいことを想像させるもので、まだ余韻も感じられる。
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終に舗装道路も尽きて、砂利を敷いた道となる。少し進むと水場があったので、水筒に水を補給して益々急になる道を進む。
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最後の登りは、流石にキツイ。30分ほどで小仏峠の頂上に着く。旅人の無事を願って建てた小さな地蔵があり、花が添えられている。
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小仏峠の頂上は広場になっていて、かつては茶店もあったが今は閉鎖され、青いシートか被せられて、危険防止のため立ち入りを禁止している。竹で作った幾つかのベンチは置かれているので、コンビにで買ったおにぎりをかじり、しばし休息を取る。影信山から陣馬高原へ向かう登山道、城山から高尾山への道も、ここから通じているので、ハイキングを楽しむ人達も多く行き交う。街道歩きの我々は「小原宿」への道標にしたがって下って行く。
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小仏峠からの下りの道は、落ち葉の積もる道であったが、歩き易い道であった。最も下りだから言えることで、上りとなるとやはりキツイ道であろう。
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舗装道路に出て50mほど進み、Uターンして美女谷の方に進む。美女谷の美女とは、中山道の加納から垂井に出てきた、照手姫のことである。再度記すと、伝説では、武蔵・相模の郡代の娘だった照手姫は、愛する小栗判官を殺されたうえに青墓の長者へ売られてしまう不運な女性である。
高速道路を潜ると、直ぐに相模湖への分岐点となるので、ここで左折する。
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この辺りは谷が深く、綺麗な流れを見ることが出来る、そして、直ぐに再び高速道の下に来る。ここには甲州道中板橋と書かれた木杭が立てられ、旧甲州街道はここから登って高速道路の下を進んで小原宿に出るが、今は通行不可能と書かれていた。
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少し進んでレンガ作りのガードで中央線を潜ると、国道20号線に合流して右折すると、ほどなく常夜燈を模した「小原の郷」の大きな看板が見えてくる。
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小原宿の本陣前に着く。日野本陣、花咲本陣と合わせ甲州街道では3つだけ残る本陣である。最近まで人が住んでいたが、相模市に管理を委託したそうで無料で公開されている。内部を見学させてもらったが、2階は明治に入って養蚕に使われていたとのことであり、古い道具類が展示されていた。
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本陣を後にして500mほど進むと、右に旧道の入口があり中央道の近くまでどんどん国道から離れて行く。眼下にJR中央線がトンネルから出ては直ぐまたトンネルの情景を見ながら進むと、道は左に曲がってトンネルの上で中央線を越すと、直ぐに「えんどう坂」と書かれた標識が立っている。ここで鋭角に曲がってガードレールの切れ目から階段を降りるが、この階段が「えんどう坂」である。道なりに進むと直ぐに国道20号にぶつかり、ここに「甲州街道与瀬宿」の標識があり、右折して進めば直ぐに相模湖駅入口の交差点である。
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お昼時間を大分過ぎていたが、少し先に「見晴らしドライブイン」と言うのがあることが、地図で分かったので、相模湖を眺められる素晴らしいところとの期待を込めて歩いていった。少し進むと、与瀬神社の大きな鳥居と、分断された参道のために高速道路を越す横断歩道への階段が続いているのが見えた。そして、「甲州道中横道」の表示杭が立っていた。
kobotoke_45a.jpg時々相模湖の湖面が見られ期待は高まったが、着いて見てがっかり。室内からは湖面も見えない、いわゆる大衆食堂。お腹も減り諦めて食べることにしたが、味覚的にも何とも冴えない食事であった。食事を終えて国道を少し戻り、旧道への右の入口を上って行く。ここからはアップダウンが多いが、中央道を左に見ながらの、のどかで静かな旧道を進んで行くと、道端に庚申塔や二十三夜の石碑があり、かつての街道を行く人々の姿を髣髴とさせる。

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「横道配水池」への鍵の掛かった門が右に見えてくると、少し先で左折して坂道を下る。直ぐに中央道を歩道橋で渡り、さらに進むと「観福寺」の横を通り、なおも進む。道端に「椚戸(くぐと)」の表示杭があり、またもや石仏が建っていてここが旧街道であることを示している。
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ようやく、国道に出て、右折して進むと左側に「吉野宿ふじや」と書かれた資料館があり、無料で見学できた。この家は江戸時代は「旅籠」を営んでいて屋号が「ふじや」であったが、明治29年の大火で消失したのを期に、養蚕農家として再建した家だとのこと。この地方で見つかった古文書のコピーなどが多く収集されており、2階には古い道具類も収集されて並べられていた。向い側は本陣跡で、ここも残念ながら吉野大火で消失してしまったとのこと。
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沢井川に架かる吉野橋を渡ると、直ぐに右に旧道は別れ、少し進むと藤野中でその校門前には色々な廃材を利用したロボットのモニュメントがあった。
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その後は、JR中央線の線路脇の道を藤野駅に向かって進むと、藤野町が掲げる芸術村構想で、金属造形のアーティストの高橋政行氏作「緑のラブレター」の大きな屋外アートが見えてくる。
藤野駅に着くと4時少し前で、今日はここまでと、3時59分発の電車に乗り帰宅した。

2008.11.30

分倍河原から高尾

本日の万歩計36,950(24.0Km)

今日の甲州街道は、先週の続きの分倍河原からであるが甲州街道側とは南武線の分倍河原駅の反対側(西側)の新田義貞の銅像前で待ち合わせ、2人で歩き始めた。
新田義貞の銅像は府中市が建立したもので、元弘3年(1333)5月8日に兵を挙げた新田義貞が北条泰家率いる幕府軍を破って鎌倉に攻め上がり、終に140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させた史実を後世に伝えるために建立したと説明板にあった。甲州街道に戻ると、直ぐに京王線の踏切を渡る。ちょうど電車の通過に遭遇した。
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今日は、雲ひとつ無い晴天で清々しい空の下を歩いて行くと、とんでもなく立派な冠木門の家に遭遇した。内藤家である。屋敷も広く、これほど立派な門は、東海道、中山道を歩いてもお目に掛かれなかった。旧家なのであろうが、現在に到るまで家勢を保ち続けているのはすごいことだと思う。
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本宿町(ほんじゅくちょう)の交差点で、国道20号に合流する。合流点の三角地帯には本宿の碑が建っていた。200mほど進むと道の右側に「熊野神社」があり、緑がかった色彩の注連縄(しめなわ)が鳥居にぶら下がっていた。この注連縄の材料は木材パルプを原材料にした天然成分繊維(レーヨン)のアンダリアで、土に還る環境に優しいものであるが、雨にも強い全天候型である。正直なところは、稲藁が最近手に入り難いことから採用されたものであろう。
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神社本殿裏には、全国で最大最古の上円下方墳とされた古墳の発掘が始まっていたが、まだまだ一般公開するかしないか、するとしても何時か全てが予定もたっておらず、長い期間を要するものであるらしかった。本当に今日は良く晴れている。南武線を越えて国道を進むと富士山も白く輝いて見えた。
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国道は国立インター入口交差点で、左に離れて行き500mほど進むと、左手に「谷保天満宮」がある。ここの天満宮の本殿は街道から下った、多摩川の河岸段丘の崖下に建っているが、平安時代の頃は街道も崖下を通っていたとのこと。また、多摩川の河岸段丘の崖下はハケと呼ばれていたそうで、湧き水も多く、まず人々が住みついたところであったとのことである。階段を下りて行くと、湧き水を模した流水もある。
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谷保天満宮は菅原道真の3男の道武朝臣が建立して、父道真の像を刻みここに祀った。しかし、その像の出来が今ひとつであったため谷保天(野暮天)と呼ばれるようになったとのこと。それにしても、流石に合格祈願の絵馬の数がすごい。写真のような絵馬を掛ける場所が4箇所も設けられていた。それに、天満宮と言えば牛の像があるが、これは菅原道真が亡くなったとき、牛が悲しんで遺体を乗せた車を引こうとせず、動かなくなったとの伝承によるものである。
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天満宮本殿の左には、道真公が5歳のときに詠んだ「紅わらべの歌碑」があり、「美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」とある。毎年この歌を元に作られた巫女舞が2月末に小学校低学年の女の子によって行われるとのこと。
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歩いて行くと、立派な家が多く、その中でも目を引いたのは手入れの行き届いた庭木の間に、つるべまで置いてある井戸が見えたことである。もう使ってはいないのだろうが、昔の井戸を潰さずに大事に残してあるのだろう。そして、矢川駅の入口の交差点の手前で左に入ると、長い参道の南養寺がある。
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この寺は臨済宗建長寺派の古刹で、庭の木々が紅葉していて綺麗であった。寺を後にして進むと直ぐに矢川の小さな流れを渡るが、住宅地にあって、綺麗な水の流れを保っていた。
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矢川を渡ると、道の右側に「五智如来」がある。道路の向こう側で車の通りもはげしく、道路の反対側から写真撮影を行った。五智如来とは仏教で言う五種類の智を備えた仏様で大日如来の別称とのこと。江戸時代に八王子在住の越後人数人がこの地に移り、郷土で信仰していた「五智如来」を祀るため建立したと書かれていた。500mほど街道を進むと、元青柳村の秋葉常夜燈がある。植え込みに囲まれ大事にされている。
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左側に「至誠学舎」の施設を見ながらさらに進むと、日野橋の交差点である。ここは五叉路になっているが、奥多摩街道の方に進む。200mほどで左に曲がる十字路に出るので旧甲州街道と道標の出ている通りの方に左折する。
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100mほどで、右側に柴崎市民体育館があったので、お手洗いを借り、根川緑道の綺麗な流れを眺めて進むと、日野の渡し場のモニュメント。「多摩川の渡し場跡なる我が住まい河童ども招びて酒酌まむかな」の歌碑があった。
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多摩川の堤防に出て、右折して立日橋(たっぴばし)を渡る。多摩川モノレールが同じ橋を高架で渡る。
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橋から川面を見ると、釣り人が櫓に乗って川面に腰を下ろし、鯉を狙って糸をたれていた。この立日橋からも富士山が綺麗に見えた。
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立日橋を渡ると、日野市街が近づいてくる。国道にぶつかり左折すると、直ぐに「日野本陣」がある。甲州街道に3つ残っている本陣の内の1つである。以前は「蕎麦屋」としても使われたとのこと。見学料を払って内部を見学する。上段の間が無いと思ったら、別棟になっていて今は別のところに移設されたという。このため国の文化財に指定されないのだという。正面の入口の構えなど、立派なのにと案内人は、残念がっていた。本陣を出ると向い側にある図書館には問屋場跡の碑が建っている。
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300mほど進んで日野市役所入口の交差点をすぎると、八坂神社がある。説明板によれば、「むかしむかし、この付近の土淵と言うところで多摩川の洪水の後、淵に妖しい光が数夜に渡って見えたので、故老が拾い上げると、金色燦然と輝く牛頭天王の神像であったという。その像を祀ったのがこの神社の起源で寛政十二年(1800)のものです。」とある。9月中旬の例大祭の千貫神輿は近県でも有数な神事で絢爛豪華な祭り絵巻が繰り広げられるとのこと。
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八坂神社を過ぎて、次の信号を左折し、宝泉寺にぶつかったら右折して日野駅横のガードを潜る。ここで、昼食をとり、しばし休憩して、大坂の急な坂を上って行く。坂を上りきると国道20号と合流して、ここから、日野自動車、コニカミノルタ、オリンパスなどの大きな工場が続き、3kmほど進んで石川入口の交差点に達すると、とうふう料理で有名な「うかい」がある。
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国道16号線との交差点を過ぎると、左に300mほど続く旧道への入口があり、久々に静かな旧道の雰囲気を味わう。そして、大和田橋のたもとに出て橋を渡る。昭和20年8月2日に日野市全体では2時間で1600トンもの焼夷弾を受け、80%の家屋が消失し450名の人が亡くなった。このとき多くの人がこの橋の下に逃げ込み助かったが、もちろん、この橋も50発もの焼夷弾を受けたとのこと。橋を渡って振り向くと「ホテルニューグランド」付属の結婚式場「グランド ビクトリア」で挙式したカップルが大勢の人達に祝福を受けているのが見えた。焼夷弾が降り注ぐ時代とは正反対の平和な光景だ。
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大和田橋を渡って右折し、八王子五中を過ぎた角で細い通りに入って行くと、100mほどで右側に小公園があり、竹の鼻一里塚跡がある。公園の名前は竹の花だが、武蔵名勝図会などには竹の鼻と書かれているとのこと。直ぐ隣には永福稲荷神社があり、大きな力士像がある。説明板によると、八光山権五郎という力士で江戸中期に全国を遊歴して相撲を取り、終に敵するものがなくなり、天皇から御盃と錦のまわしを賜った。帰郷後に、稲荷神社で相撲を興行し、それ以来毎年8月2日に近郷の力自慢によって相撲が奉納されるようになったと記されていた。
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道は突き当たって、左折すると200mほどで国道20号線に突き当たり左折する。八王子駅入口の交差点を過ぎて進む。流石に賑やかな通りであるが、昔の面影はほとんど残っていない。わずかに、八日市宿跡の石碑があり、説明板も設けられていた。
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そして、古い蔵と「なかのや」の染め抜きの暖簾のある「こんにゃくや」が見つかった。しかし、今日は休みか閉まっていた。
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国道を2Kmほど進むと、合流していた陣馬街道と別れて国道20号は左斜めに進む。ここからは街路樹として銀杏が植えられていて、この銀杏並木は高尾駅までの4Kmほども続く。
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西八王子駅入口を過ぎて300mほどの長房団地入口で右折し、僅か7?80mで左折する。この左折の場所には二基の石碑が建っていて、一つには右高尾山、左新覚寺と書かれていて、もう一基には昭和2年に国道が出来た当時の様子がイラストで書かれていた。
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旧道は300mほどで終わり国道に再び合流するが、ここで珍しくもチンドン屋に出くわした。最近は見ることもなくなり、本当に珍しい。そして国道を渡れば「長安寺」である。家康の命を受け五街道を敷設した大久保長安が眠っているとあっては、ご挨拶して行く必要がある。長安はもと武田信玄の家臣で大蔵藤十郎と言ったが、家康に仕えるようになって大久保長安と称した。計数に明るい才能を家康に認められ、金山、銀山の開発、五街道の敷設などを行い、総奉行として権勢を誇ったが、本多正信の陰謀で金山経営で不正があったとされ、一族ことごとく処刑された。長安も、もちろん罪人で葬式すら許されなかったが、この寺の草創が1626年の長安十三回忌の年であるので、その頃には許されたのか、お寺には葵の御紋まで付いているのを見ると、本多正信との政争が見直され、功績が再評価されたものと思われる。
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また、銀杏並木の国道を1Kmほど進むと、多摩御陵入口に達し、直ぐに右に旧街道の入口がある。
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この残っている旧街道も立派な家が多く、600mほど続く。だいぶ日も傾いてきて、旧道が尽き、国道に合流して400mほど進むと今日の目的地の高尾駅である。時刻は4時で、駅の近くでコーヒーを飲んで休憩して帰路に付いたが、今日は天気も良くミシュランに紹介された高尾山への登山客の帰りにもぶつかり、高尾駅のホームは賑わっていた。
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2008.11.22

笹塚から分倍河原

本日の歩行距離(26Km)

今日の歩行も、会社の先輩が一緒に歩きたいとのことで、2人での歩行となった。万歩計を忘れたが、先輩の万歩計で歩行距離を知ることが出来た。どうも、甲州街道は最後まで2人で歩くことになりそうな気配で、それはそれで始めての経験で面白そうだ。
さて、7:30に京王線の笹塚駅で待ち合わせ、歩き始めた。相変わらず、国道20号線に首都高速がかぶさり、楽しい歩行道路ではない。少し進むと「環状7号線」との交差点だが、環7も土曜日の早朝でも大変な交通量だ。
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環7との交差点を過ぎると、左側に「玉川上水」が見える。「玉川上水」は青梅線で立川から2駅行った羽村で取水され、四谷の大木戸までの43Kmを流れ江戸の民衆に生活用水を供給していた。開渠となっているのは、今では羽村から杉並区の久我山までで、それ以降はほとんどが暗渠で流れを見ることは出来ないので、このポイントで昔の姿の「玉川上水」の姿が見られるのは貴重である。
800mほど進むと、右側に明治大学和泉校舎が見えてきくる。国道に平行して走る京王線の駅名も明大前である。街路樹と明治大学の植樹に挟まれて少しは、気も晴れる心地の道路が続くが、この辺りは幕末には幕府の「煙硝倉」があったところで、いち早く官軍に押収されたとのこと。幕府にはまともに、戦略/戦術を立てる気もなかったのであろうか。
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明大を過ぎると大きな霊園が続き、その先で右側にある街道の名残の小道に入って行くと、なんと6つのお寺が次々と連なっている。最後に現れる「永昌寺」はもともとは江戸・四ッ谷に有ったのが、明治43年に当所へ移転したそうである。山門前の地蔵尊は1677年建立で300年以上の古いものである。左端にある庚申塔も古そうである。
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首都高が上を走る国道20号線で昔の面影を偲ぶのは無理な相談かと思いながら、歩いていると茶器を売る店があり、所狭しと湯飲みが並べられていた。何となく懐かしい風情の店で、ほっとさせられる光景であった。竹細工の店も以前は30軒ほどあったそうだが、今は明治40年創業の「竹清堂」1軒とのことであったが、残念ながら閉まっていた。
最寄り駅が京王線の「桜上水駅」の辺りに来ると、覚蔵寺(左側写真)と宗源寺の名のお寺が並んでいて、宗源寺には不動堂(右側写真)があり、かつて高台にあった不動堂が高井堂と呼ばれ、高井戸の起源とも言われている。
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上北沢でようやく、首都高速は右に逸れて行き、芦花公園が近づいて国道20号線も右に逸れてゆく。新宿から歩いてきた国道20号線ともしばしお別れである。
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旧道に入って直ぐに、野菜の自動販売機に出くわした。今も農業を営んでいる家なのだろう、奥が見通せないほど広い屋敷の入り口に置かれていた。やっと都心から離れてきた感じがする。そして、「大橋場跡の碑」と「地蔵」が建っている場所があった。碑の形からしても、ここはかつては川が流れていたことが窺える。地蔵は、江戸時代にこの辺りで繁栄した下山一族が建立したものとのこと。だんだん街道らしくなってくる。
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左の写真は千歳烏山付近である。2kmほど続いた旧道も仙川(右側の写真)を過ぎると、また国道20号線に合流する。
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700mほど進むと、右側に「瀧坂旧道」の石碑が建っている。数百メーターで終わってしまうが、残っている本当の旧街道である。瀧坂旧道が終わると、直ぐに右の細い道路の奥に赤い門が見えてくる。大雲山 金龍寺である。
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このお寺の開基は宋より茶の種を持ち帰り宇治に広めた、明庵千光国師栄西禅師で、義経・弁慶が梶原景時の讒訴のため奥羽に落ちるときもこのお寺に立ち寄ったいう。また、閻魔十大王の石像は源頼朝の祈願によるもので、川越から鎌倉に到る街道に十王街道の名として残るとのこと。境内には立派な銀杏の木もあり、保存木となっていた。
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高速道路から分かれた、国道としての甲州街道は東京オリンピック当時に植えられた欅(ケヤキ)の街路樹が大木に育って延々と続く。菊野台交番の横には「妙円地蔵」がひっそりと建っている。若くして金子村に嫁いだ妙円は、夫に先立たれたうえ両目を失明して、尼僧となって村人のために毎日路傍で鉦を叩き、念仏を唱え続けたといわれいる。
村人からの浄財をもとにこの地蔵菩薩を建てたのは文化二年(1805)で、その後もこの菩薩の前で祈り続け村人に加持祈祷を行ってきたという。この話に感動した滝沢馬琴は玄同放言の中で紹介し、渡辺崋山もこの菩薩を描くことになったのである。妙円の墓は深大寺にあり、そのとき叩いた鉦も調布市郷土博物館に保存されているそうである。
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700mほど歩くと、「野川」を渡り、その後再び国道20号線と分かれる。旧甲州街道入り口の表示がある。
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京王線布田駅の近くに達すると、道路の左側には「円福寺」があり、赤い前掛けの六地蔵が旅人を見送っており、すぐそばの道路の反対側には、常性寺があり境内には成田不動尊の分身を祀り、布田のお不動さまとして近在の人々に信仰されてる。
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調布駅北口入り口の交差点に着いた。11:30である。お腹も空いた。近くのラーメン屋で食事を取る。12:00に出発して布多天神社の長い参道を歩く。参拝客が三々五々歩いている。やはり菅原道真を祭る天神様で合格祈願の絵馬が多い。少し遅いが七五三で晴れ着を着せられた少女の姿が目に付く。
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進んで行って、中央高速を潜る手前に「西光寺」があり、近藤勇の大きな像が山門前にある。近藤勇はこの辺りの出身であり、調布市の『近藤勇と新撰組の会』が観光事業の一助となることを願って没後百三十年を記念し、建立したとのこと。近藤勇の銅像は東海道の本宿(もとじゅく)の「法蔵寺」にあり、板橋駅前にもあった。ここで3つ目の銅像を見ることとなった。
車返団地入り口に達し、建っていた観音院で少し休むことにした。子供を遊ばせていた若い母親はこの観音院の関係者でもあるのか、本堂の階段で座っていると、休憩室がありますので、どうぞと勧めてくれた。墓参りの檀家の休憩所かなにかなのだろう。
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甲州街道を歩いていると、調布あたりから元農家と思しき敷地の大きな家が多いが、中には大金を得て豪華な家を建てたのも多いように見える。写真は御影石の塀を施した家であるが、なんと周りの景色が写る塀である。それにしても、景色の写る塀を見るのは始めてである。
西部多摩川線の踏切を渡る。南武線の南多摩駅と多摩川を挟んで対岸の「是政駅」から中央線「武蔵境」を結ぶ短い路線である。1Kmほど進むと「常久神社」がある。領主に常久なる人物がいて多摩川の近くに名田を持つ村落があったが、度重なる洪水を避けこの地に住むようになったととのことだが、村落全員で引っ越して神社を建立したのだろうか。
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府中が近づき、だんだん賑やかな街並みになってくる。府中市八幡町を歩いていると「武蔵国府八幡宮」があり、入り口には「八幡宿」のモニュメントが建っていた。
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ついに府中の「大国魂神社」に到着する。神社名を刻んだ巨大な石碑がある。明治以前は武蔵国の主要な六神社を集めて祀ってあるので六所宮と呼ばれていたそうだ。大国魂神社は5月の「くらやみ祭」が有名とのことであるが、暗闇祭りは、いわば性開放の日であったとのこと。近年では風紀を乱すという理由で、祭りの場を明るくすることになったが、本来は、わざわざ、文字どおり暗闇にして行なったもので、昔はその日に子種をもらうことを、神の子をさずかることと同じに考えていたようだ。
長い参道は、沢山の提灯が吊り下げられていて、本殿に近づくと七五三でお参りに来た親子が目に付いた。本殿左脇には水神さまが祀られており、名水であったのかペットボトルに汲んでいる人がいた。もっとも用心してか煮沸しないで飲まないでくださいと書かれていた。
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大國魂神社から1150mの府中市役所前の交差点には大国魂神社の御旅所(おたびしょ)がある。御旅所とはお祭りで神輿などが途中で休む場所である。ここに、高札場もあったが、もう少し整備してはと思わざるを得ない。

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さらに、300mほど進むと左側に「高安寺」がある。平将門を討ち鎮守府将軍となった、藤原秀郷の館跡に建てられたもので、立派な仁王門と優美さの感じる山門がある。本堂も古刹を感じさせる気品がある。義経と弁慶もここに立ち寄り、頼朝の怒りを解くため般若心経を書写したことがあるとのこと。なお、藤原秀郷は俵藤太の名前でも知られており、瀬田の唐橋から三上山のムカデを弓で退治したとの話しも伝わっている。
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sasazuka_48.jpg3:00頃に分倍河原駅への入り口に達し、今日はここまでとして、駅前の喫茶店でコーヒーを飲みながら今日を振り返り休憩して、次回を約して帰宅についた。

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