2007.10.27

大津から京都

本日の万歩計35,380(23.7Km)
長かった、旧東海道歩きの旅も今日で最後となる。台風が近づいていて、関東では雨だが、京都あたりは曇りの天気予報を信じて、新幹線で京都駅まで行き、各駅停車で石山駅まで戻り出発したのは8時40である。
少し、雨がぱらついていて、傘を差して歩き出したが、この程度の雨なら歩くのに差し支えはない。
NECの大きな工場を左手に見ながら歩き、通り過ぎると「膳所城(ぜぜじょう)の勢多口総門跡」に着く。何年か前までは古い趣のある家なども残っていたようだが、完全に姿を消してしまっている。僅かに、駐車場の片隅に道祖神が所在なげに立っている。
kyoto_01.jpgkyoto_03.jpgkyoto_02.jpgこの総門跡から右に100mほど行くと、琵琶湖の「御殿浜」に出られる。琵琶湖もこの辺りでは、幅は1Kmぐらいである。左の方には近江大橋と、膳所城跡が見える。釣りをする人、ボートを楽しむ人など、この辺りでは海辺の人が海を楽しむように琵琶湖を楽しむ。
元に戻って歩き始めると、ベンガラ格子の家があり旧街道を思わせる。しかし、古さを思わせる家は、ほとんど残っていなくて、少し寂れた町の風情である。
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旧東海道を逸れて、琵琶湖に飛び出すようになっている、膳所城跡に行ってみた。もう少し後の季節なら綺麗な紅葉が見られるのだが・・・。
kyoto_06.jpgkyoto_06b.jpgkyoto_07.jpg進んで行くと、時計を付けた石碑のある、「石坐神社(いわいじんじゃ)」がある。祀神は彦坐王と、天智天皇、伊賀釆女宅子媛命とその子大友皇子、豊玉比古命、海津見神。かつて御霊殿山の山中の大岩上に祠があったことが石坐の社名の由来とか。時計は天智天皇が中国より、時計を導入したことを示したという。
kyoto_08.jpg大津の宿で、是非寄りたいと思っていたのは「義仲寺(ぎちゅうじ)」である。もう少し大きなお寺を想像していたが、小さなお寺であり、注意していないと通り過ぎてしまうほどである。入り口の説明板には、義仲寺の名は,源義仲を葬った塚のあるところからきていますが,室町時代末に,佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります、とある。木曽義仲の墓の隣に芭蕉の墓もある。芭蕉は元禄7年(1694)10月12日午後4時頃に大坂の旅舎で亡くなり、遺言に従って義仲寺に葬るため遺骸を川船に乗せて淀川を上り伏見に至り、義仲寺に運んだという。
下の写真は、左が義仲の墓で、右が芭蕉の墓である。
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kyoto_12.jpgまた、芭蕉の門人又玄の「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句碑が2つの墓を飾っている。巴御前の小さな石塚もある。加えて、小さな展示室もあり、芭蕉の使っていた「椿の木で作った杖」などの遺品も並べられていた。
さらに、20基ほどの句碑が所狭しと建てられているが、芭蕉の句のみ紹介すると、
行く春をあふミ(近江)の人とおしみける
古池や蛙飛こむ水の音
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

kyoto_09.jpgkyoto_13.jpgkyoto_14.jpg旧街道を示す案内図が随所に建っていて、間違いなく辿って行ける。終に京阪京津線が路面電車のように走っている道路に出て、左折して逢坂に向かう。いよいよ市街地を離れる辺りに、東海道線と京阪京津線が立体交差する大正10年にできた美しいレンガ造りの橋がある。この橋の直ぐ後ろにJR東海道の逢坂山トンネルがある。
kyoto_15.jpg坂道も少しづつ傾斜を増してくるが、道路の右側を走る京阪京津線の線路を跨いで、妙光寺というお寺があった。興津にあった、清見寺を思い出して思わずカメラのシャッターを押した。直ぐにもう一つ、線路際に「蝉丸神社」の下社がある。
蝉丸神社の説明板には、蝉丸は延喜帝第四皇子であったが、生まれつき盲目で延喜帝が僧形にして逢坂山に捨てさせたと書かれているが、生まれについては諸説ありはっきりとは分かっていない。
宇多法皇の皇子、敦実親王の雑色(ぞうしき)であったが、親王は管弦の道に秀で、琵琶をよく弾いていた。それを常に聞くうち、蝉丸も琵琶が上手になったが、盲目となったので、役を辞したのではとの説が有力と思われる。いずれにしろ、今昔物語を出典とした謡曲「蝉丸」は、名曲とされる。蝉丸が琵琶の名手だったことから、音楽の神として崇拝されていて、楽器の腕の向上を願う絵馬が、神前に多く掲げられていた。
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いよいよ、逢坂の峠に向かって上ってゆくことになる。国道1号線と京阪電車の線路に挟まれた歩道を上ってゆくと、国道の向こうに赤い鳥居の立派な「関蝉丸神社」の中社が見える。国道を渡るのも大変だし、なによりも高い階段に恐れをなして、国道を跨いで写真撮影のみで済ませた。
kyoto_18a.jpgkyoto_18.jpgkyoto_19.jpgこの辺りで、高速道路、京阪電車もトンネルとなり、もちろんJR線もトンネルだが、唯一国道1号線だけは切り通しを上ってゆく。道路の側面は石の雰囲気にデザインされたコンクリートで覆われているが、その上に「車石」と書いたプレートが取り付けられていた。昔は裏日本の新潟の米などは敦賀から深坂峠を越えて、琵琶湖北端の塩津で船積みされ、大津の港からこの峠を荷車で京に運ばれた。その交通量は江戸時代中期の1778(安永8)年には牛車だけでも年間1万5894輌の通行があったという。ところが、雨でも降ると道はぬかるみ荷車の通行に難儀することから、京都の心学者脇坂義堂は、1805(文化2)年に1万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べた。大変に手間の掛かる工事だったと思われる。
やがて、峠の頂上近辺に達したところの国道の右側に、逢坂山関址の碑と常夜灯が建っていた。押しボタン信号で右側に渡ると、300mほど旧道が残っていて、直ぐに「かねよ」があり、食事をすることにした。「うなぎ」を食べるなら、三島の「桜屋」か逢坂の「かねよ」で、優劣が付け難いと聞いていたので迷うことなく「特うな丼」を注文。うまかった。
kyoto_20.jpgkyoto_21.jpgkyoto_22.jpg食事を済ませ、満足して歩き始めると直ぐに「蝉丸神社の上社」がある。ここにも、神社の由来と、百人一首に採られている蝉丸の歌、
「これやこの 行くも帰るも別れては しるもしらぬも あふさかの関」が書かれていた。
kyoto_23.jpg短い旧道が終わり、国道に再度合流するところに横断橋があるので、左に渡り歩いて行くと、「月心寺」がある。入り口はまるで料亭のような感じで月心寺と書かれた風雅な軒行灯が吊られているが、これには訳がある。江戸時代は茶店で、安藤広重の大津に描かれている茶店が、それだとのことだが、明治以降に荒れ果て、大正時代の初めに日本画家の橋本関雪(はしもとかんせつ)が朽ちるのを惜しんで自分の別邸にし、その後月心寺となったためである。中にある湧き水は「走井の水」と呼ばれ古来より多くの歌に読まれたが、いまも清冽な水が湧き続けている。
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長い峠道もようやく終わりになり、名神高速のガードを潜ると直ぐに左の交番脇のほうに曲がり、国道と分かれる。しばらく行くと、「みき京みち」、「ひたりふしみみち」と書かれた古い道標があり、右に進む。
kyoto_26.jpgkyoto_27.jpgkyoto_28.jpg道は国道1号線にぶつかる。国道に向かって進んでいると、おばさんが横断橋を渡って行かないと行けないと教えてくれた。国道を渡って600mほど進むと、山科廻地蔵と、徳林庵と書いたちょっと変わったお寺があった。徳林庵は、仁明天皇第四皇子で琵琶の名手の人康(さねやす)親王の菩提を弔うため、天文年間(1532?55)に創建された寺であり、山科地蔵は小野篁(おののたかむら)公により852年に作られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあったが後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口に配置させたものである。
JRの山科駅を過ぎて三条通りの道に出て、ガードを潜って、天智天皇御陵への道が始まるところで、細い道路を左に入って行く。しばらく行くと、写真ではそれほどに感じられないが、かなりキツイ上りで日ノ岡坂と呼ばれる所を通る。そして右にカーブするところに、亀水不動尊がある。日ノ岡峠を改良する際、その工事に着手した木食正禅養阿上人が建てた「梅香庵」の境内に設けられた、人や牛馬が休憩する場所だったそうだ。当時は「量救水」(りょうぐすい)と呼ばれていて、お不動さんは後に祀られたようである。
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道は三条通の合流点に向かって続くが、細い道で、ほんとうにここが東海道であったのかと思いたくなるほど寂れている。しかし、かすかにそれらしい香りもする。そして、やっと合流点に達すると、京都市営地下鉄東西線の開通で廃線にされた京阪京津線に使われていた舗石を利用して、昔の牛車道を表したモニュメントが作られていた。
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長い旅も終結を迎えようとしていて、やっと三条大橋にある尊皇派の「高山彦九郎」が皇居を遥拝する大きな像が見えてきた、そして鴨川の清らかな流れ。
kyoto_32.jpgkyoto_33.jpgkyoto_34.jpg三条大橋には、和歌山に住む妹夫婦が、90歳の母と姪を連れて来てくれた。写真は母と、姪と3人で写したもの。
今年の3月にスタートして、京都まで歩いて行くなど、本当に出来るのだろうかと思っていたが、達成することが出来た。23日(回)費やしたが、最初の2日は家の近くを短時間歩いただけなので、実質21日での達成となる。
以下は三条大橋に到着して以降の番外編である
皆で南禅寺を訪れた。南禅寺の山門は日本三門の一つと言われ、22mの高さで堂々たるものであり、石川五右衛門が「絶景かな」と見得を切るが、これは創作で、寛永5年(1628)に藤堂高虎が、大阪夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものであり、五右衛門が釜茹でにされたのは、それより早い。
門前には高さ6mの大灯篭があるが、三門が大きいため目立たない。
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また、南禅寺は琵琶湖から疎水を引いた水路が通っていることでも有名だ。美大生がよく描く場所でもあるとのこと。
kyoto_37.jpgkyoto_38.jpgkyoto_39.jpgまだまだ、紅葉前であったが、紅葉すると美しく幻想的な様相を呈するだろうと思われた。もっとも、紅葉の時期には訪れる人で一杯で風情を楽しむこともままならぬことになるかもしれないが・・・。

2007.10.07

水口から草津

本日の万歩計47,708(31.96Km)
今朝は6時に起床して6時30分からホテルの朝食をとり、6時50分に出発した。
今日もよい天気で、特に早朝は涼しく気持ちがよい。
kusatsu_01.jpg歩き始めると、直ぐにJR草津線の踏み切りを渡るが、渡ると大きな石部宿への道標がある。
さらに進むと、天井川の大沙川にぶつかる。天井川といっても、川の下にトンネルのようして道路が続くのを見るのは初めてだ。川の下を通り過ぎた向こう側に、土手の上への上り口があり、上って見ると、コンクリートで固めた水路のような川があったが、水は流れていなかった。おそらく、雨でも降れば一気に流れ出すのだろう。それにしても、山から流れ出す土砂を土手に積み重ねているうちに、ドンドン土手が高くなり終には川床まで高くなって、道路を通すトンネルを穿てるほどになったのは驚きだ。
kusatsu_02.jpg川の土手には、弘法大師が植えたと伝えられる「弘法杉の大木」があった。樹齢は750年というから、弘法大師とは時代が合わないが、樹高は26メートル、周囲6メートル で、圧倒的な迫力を持つ大木である。
木の葉は確かに杉の木だが、何時も見る真っ直ぐに伸びる杉の木ではなく、太い枝がのた打ち回っているような形である。人間が利用するには不向きだが、本来の生命力旺盛な古代種の杉と思える。
真っ直ぐ伸びて天を突く杉も素晴らしいが、この杉も本当に素晴らしい。
kusatsu_03.jpgkusatsu_04.jpgkusatsu_05.jpgしばらくして、由良川という2つ目の天井川に出くわした。この川はトンエルの手前で川に沿って右に行くと土手に上る細い道が付いていた。上ってみたが、ここも水はなく、川床一面に雑草が茂っていて、まるで廃川の様相であった。
なかなかに、雰囲気のよい家並みが続くが、車の通りが多いのが難点だ。抜け道に使われているのだろう。
そして、1805年創業の北島酒造があり、伝統の暖簾が掛かっていた。
kusatsu_06.jpgkusatsu_07.jpgkusatsu_08.jpg続いて現れた「家棟川」も天井川であろうと見当を付けて歩いていったが、期待は裏切られ川の上を渡る普通の橋が掛かっていた。しかし、上流に目をやると急激に落ち込んでいる部分が見て取れ、川を改修(掘り下げ)して現在の姿になったのではないかと思う。
kusatsu_09.jpg石部宿に入って行くと、吉御子神社と対になって石部社と呼ばれる「吉姫神社」があり、1kmほど進むで直角に右折するところに、旅人の休憩所があった。吉御子神社もこの近くだが、街道から少し離れているのでスキップした。
休憩所には籠が置かれていたが、主に竹を使ったもので、簡単な構造である。重さを極力軽くする必要性からも合理的な造りであったように思える。
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石部宿では、休憩所の他、駅前の広場、小公園などを造り東海道の街道情緒を醸し出す努力をしているようだ。
kusatsu_12.jpgkusatsu_13.jpgkusatsu_14.jpg石部駅を過ぎて、ゴーシューという自動車部品の大きな機械工場の脇を通り、人気の薄い道を通って再び草津線の見える道を進んでいると、形のよい山が見え「近江富士」と呼ばれていることが分かった。
平将門の乱を平定したことで有名な俵藤太(藤原秀郷)が瀬田川に住む龍王に三上山の大百足退治を頼まれて、自慢の弓で射止めたという伝説が残っている山であり、本当の名前は、三上山と言い、432 メートルの高さの山である。
六地蔵の集落に入るとすぐに、土地の名前の由来になった六体の地蔵が祭られた法界寺がある。現在は無住のお堂に国の重要文化財にもなっている地蔵菩薩立像一体が安置されているとのこと。山門前に「国寳 地蔵尊」の大きな石碑があった。
そして、直ぐに見事な構えの「和中散本舗」があった。和中散は、胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の必帯道中薬として重宝されたもので、最盛期にはこの梅木地区で7?8軒あったという。
建物は今まで見た内で最も勇壮な木造建築で、往時の繁栄が偲ばれる。まだ、住んでいる方がおり、解放されていないが、庭園も国指定名勝とされ素晴らしいとのこと。
kusatsu_15.jpgkusatsu_16.jpgkusatsu_17.jpgすぐに、「梅の木の一里塚跡」の真新しい石碑があり、手原駅の方に進んで行く。
手原駅前に通じる道路の交差点に「稲荷神社」があり、神社の前には手の形のベンチがあった。神社に寄ってみたが、5?6人の人が明日から始まる秋祭りの相談で集まっていた。呼び止められ、お茶をご馳走になり世間話をしたり、問われるままに今まで歩いてきた旅の話しをした。
kusatsu_18.jpgkusatsu_19.jpgkusatsu_20.jpg手原駅に行くと、駅前には「東経136度」の面白いモニュメントがあった。また広場の広範囲な面にソーラーセルが張られていて、街灯の電力をまかなっているようであった。手原には「手孕み伝説」があり、東海道名所記には馬方の話として、
いにしへ、この村の某、他国にゆくとて、その妻の年いまだわかく、かたちうつくしかりければ、友だちにあづけて、三年まで帰らず。友だち、これをあづかり、わがもとに、をきたりしに、人のぬすみ侍べらんことをおそれて、夜は女の腹の上に手ををきてまもりしに、女はらみて、十月といふに、手ひとつうみけり。それより、この村を「手ばらみ」といひけるを、略して、「手ばら」といふとかたりぬ。
よく出来た艶笑小咄である。
手原駅を過ぎ、栗東市上鈎(りっとうしかみまがり)に入ると、上鈎池があり、その堰堤に「九代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地」と刻まれた石碑があった。石碑の説明には、
応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れ、近江守護職佐々木高頼は社寺領等を領地として、幕府の返還勧告に応じないため、時の将軍義尚は長享元年十月近江へ出陣、鈎に滞陣した。滞陣二年病を得、延徳元年三月二十五歳の若さで当地で陣没した。本陣跡は西約三百米の永正寺の一帯であったとのこと。
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歩く道すがら、曼珠沙華があちこちで咲いていた。既に盛りは過ぎたようだが、あまりにもけばけばしい赤は好きになれない。コスモスの清楚な感じと対比して見てしまう。
そして、シーボルトと縁のあった「善性寺」。説明板には、
文政9年(1826)4月25日、江戸からの帰途、シーボルトがこのお寺を尋ねたのだそうだ.住職の僧恵は植物学者で、シーボルトは「スイレン、ウド,モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見学できたと自著に書き記しているとあった。
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いよいよ、草津宿に入る。既に廃川となった古い草津川に架かる草津川橋を渡る。既に河川敷は全面遊び場になっている。川の堤防から下りる途中には火袋付きの立派な道標があり、「右金勝寺志がらき道」、「左東海道いせ道」と書かれている。
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ほどなく、丁字路に突き当たるが、ここが東海道と中山道の追分(分岐点)である。ここで 、右に折れれば中山道、左に曲がれば直ぐに草津の本陣があって、京に続いている。東海道には現存する本陣は「二川宿」とここ「草津宿」だけである。入り口の門の前には今日の宿泊客の「関札」と呼ばれるものが立てられている。そしてこの門をくぐると白州と呼ばれる白い砂利の引かれた空間となり、玄関広間に到着する。
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玄関広間には大勢の大名の「関札」が並べられていた。
そして、畳廊下を通って一番奥の左手には最も格式の高い「上段の間」、その向い側には2番目に格式が高い「向上段の間」がある。
kusatsu_29.jpgkusatsu_30.jpgkusatsu_31.jpgkusatsu_32.jpgkusatsu_34.jpg本陣を出て進んで行くと、直ぐに東海道はアーケードになっていた。四日市、水口に続き3番目のアーケードになった東海道である。しかし、どこのアーケードも精彩を欠いており、シャッターの閉まった店も多いように感じる。東海道の街道が明治になって影響を受け衰退したところも多いが、果敢に生き残って繁栄した街も多くある。しかし、そのような街も再度の時代の変化の影響は避けられないものらしい。
少し進むと、「草津宿街道交流館」があり、本陣の入場券とセットで買っていて、見ることができた。興味を引いたのは、当時の旅籠の朝食と夕食が再現されていたことであった。上客用とのことだが、朝食などは現在と較べても遜色が無いように思える。また、「和宮様」が江戸に下向されたときに出された食事も記録が残っていて、再現されていた。確かに上品に作られているが、一般の旅籠の食事の方が良いようにも見えてくる。
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ここの資料館は、江戸期の書物や絵画を良く集めていて、「東海道中膝栗毛」や「東海道中膝栗毛双六」などがあった。
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進んで行くと、草津宿で一番古く767年創建の「立木神社」がある。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)で、神社で普通に見られる「狛犬」が「鹿」なのが特色である。歴史を感じさせる神社である。そして、矢倉橋を渡る。
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その後、国道1号線を渡り、旧東海道の続きを進もうとすると、小さな公園にぶつかり、この公園を通り抜けることになる。そして、この小公園には「野路一里塚」の石碑がある。
さらに、広い道路を横断して少し進むと、右側の民家の遠藤家の塀に案内板を見つけた。平清盛の孫にあたる平清宗胴塚があるとのこと。民家であるが案内板があるので、見せて貰っても差し支えないものと、入っていくと大きな旧家のようで、庭を進んで奥まったところに、その塚があった。
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菱で一杯で水面がほとんど覆われた弁天池を過ぎて、しばらく行くと、明らかに日曜大工か何か、プロでない人が作ったと思われる木製の常夜灯があり、ここから「大津宿」、「4.6Km瀬田唐橋」の表示があった。とてもありがたい表示である。下月輪池が近づき「新田開発発祥の地」、「明治天皇御東遷御駐輩之所」などの石碑が纏まって建っていた。
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石碑の前を通り、下月輪池に達すると「東海道立場跡」の真新しい石碑が建てられていた。
その後も左折、右折をしながら街道を辿ってゆくと、石善と言う屋号の山村石材店前に、しゃれた猫の夫婦の像があり、「左旧東海道」、「右瀬田・唐橋」との道標にもなっていた。
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ようやく、瀬田の唐橋に辿り着いた。時間は4時半ころだが、進行方向に向かって写真を撮ると、逆光で夕方のように写るので、通り過ぎてから振り返って撮影した。水面にはボートの練習をする選手達を見ることができた。
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今日は瀬田の唐橋までと考えていたし、時間的にも肉体的にも限界が近づいているため、この辺で切り上げることにして、JR石山駅に向い、まず京都に向い(電車は通勤時間帯ほど混んでいた)、幸いにも直ぐ発車の新横浜停車の「のぞみ」に乗ることができた。

2007.10.06

土山から水口

本日の万歩計36,042(24.14Km)
今週も3連休。旧東海道歩きに行かない訳には行かないと出かけた。
tsuchiyama_01.jpg前回に終えた土山宿入り口の「あいの土山道の駅」に行くには、貴生川からバスで40分ほどかかる。貴生川には9時29分着が最も早く行ける方法だが、貴生川発のバスは9時20分で、その次は10時50分だ。しかたがないので、6時53分新横浜発で米原、草津経由で貴生川に10時15分に着く列車を選んだ。ところが、10月から9時55分発のバスができていて、ちょっと損した気分になったが、ともかく10時50分のバスに乗った。道の駅は麺類しかなかったので、「天婦羅うどん」を食べて出発する。まともに食事を取る場所が無いことが分かっていたので、コンビニの「おにぎり」もリュックに入っている。時刻は11時50分であった。
今までで、一番遅い歩き初めだが、ここが私の自宅から時間的に一番遠い場所だ。土山宿の始まりはこの石碑から始まるが、宿場町としての街並みの維持には並々ならぬ努力が払われていて、各戸の玄関には、江戸時代の屋号を示す板の看板を付けていた。「土山の街並みを愛する会」というのがあり、活動しているようだ。
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古い街道の雰囲気の街並みが続き、途中にある「来見橋」の欄干も和風で安藤広重の絵を模したものが描かれていた。
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旅籠があったあたりには石碑を建て、森鴎外が泊まった旅籠の「平野屋」の前には説明板があった。
説明板には、「森家は代々津和野藩亀井家の典医として仕えた家柄である。白仙は長崎や江戸で漢学・蘭医学を修めた篤学家であった。参勤交代に従って江戸の藩邸より旅を続けるうち, この井筒屋で病のため息をひきとったのである。 のちに白仙の妻清子、 一女峰子の遺灰も, 白仙の眠る常明寺に葬られた。」とあった。
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宿の途中に「伝馬館」という、古い旧家を改修して「資料館」としたところがあった。
中には、伝馬制の説明をはじめ、土山宿の模型、東海道53次の全ての宿の安藤広重の絵に対応した粘土細工があり、また100個の人形による大名行列もあった。
おじさんが居て、とても詳細に宿の歴史などを説明してくれ、てっきり、この「伝馬館」の説明員と思っていたら、説明が終わると帰っていった。あとには、それほど詳しくない女性職員が残った。どうもおじさんは、土山の町おこし活動の役員かなにかの方だったようである。
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さすがに、本陣は石碑のみで家屋は残っていない。そして、先ほどの説明のおじさんが訪れることを勧めた、「常明寺」。森鴎外の祖父の森白仙が井筒屋で病死して、田村川のほとりの墓に埋葬されたが、鴎外が明治13年(1900)に当地を訪れ、墓がひどく荒れているのを見て常明寺の境内に移した。その供養等があるとのことであったが、見つからなかった。現在も土山の人々の多くの墓石が立っていて、人の墓地を探し回るのも気が引けたからでもある。
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土山の家並みも途絶え、水口の宿に向かう途中に「歌声橋」という、人と自転車専用の橋があった。映画の「マジソン郡の橋」で屋根つきの橋を見たが、実際に屋根つきの橋は始めて見た。
そして、川の下には「野洲川」の清らかな流れが見える。
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しばらく行くと、「垂水の斎王の頓宮跡」がある。旧街道から国道に出て国道を横切る必要があったが、信号も無く苦労した。ときの天皇が内親王の1人を「伊勢神宮」に差し出す風習が南北朝時代まで続いたそうだが、このときの伊勢路に宿泊所として作られたのを「頓宮」という。昔は田, 甲賀, 土山( 垂水),鈴鹿, 一志の5 ケ所あったが、いまはっきりと「頓宮跡」として残っているのはこの土山だけだという。
頓宮が使われるのは何年かに一度だが、内親王が特別な役目を負って泊まる特別な場所であるため、とても立派なものであったという。入り口は茶畑への入り口にもなっていて、草が茂りこれが貴重な史跡への入り口とは思えない。土山宿の人達も街並みのみに気を使っていて、「頓宮跡」には、全く無関心であるのが残念である。
斎王といえば、3年間の勤めを終えて16歳で無事都に帰ってきた三条帝の皇女,当子内親王がいたが、匂うばかりの美しさであったという。自然の成り行きで当時26才だった三位中将藤原道雅が彼女に近づき、ふたりは恋仲となったが、一度「斎王」となって神に仕えた身は一生一人で過すのが慣わしであった。
三条帝の知るところとなって、引き裂かれ道雅は、全ての職務を取り上げられ「いまはただ 思い絶えなんとばかりを 人づてならで
      言うよしもがな」
の歌を百人一首に残している。
一方の当子も23歳で失意の内に没している。悲恋物語である。
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さらに少し進むと、東海道反野畷碑がある。これは水害に悩まされた住民が願い出て、1699(元禄12)年から4年間かけて野洲川へ流す延長504間、川幅4間の排水路を掘割した跡である。
また、その後に距離は短いが、松並木が見られた。
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歩いて行くと面白いものを見つけた。酒屋さんの店先に大きな酒樽に窓を開け、屋根を付けたのが置いてある。
覗き込むと、中には何種類かのお酒の容器とおぼしきものがあり、道行く人にコップ酒でも販売しているのだろうか。そして、ようやく水口が近づき、今郷の一里塚に対面した。江戸期の一里塚は壊され、最近になって作り直したもので、方形に石で囲われ、土の盛り方も少なめである。なにより植えられた木がまだ若木の様相であるが、年輪を重ね立派になってくることだろう。
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やっと、水口宿の江戸方見付けのモニュメントに達した。そして市街地の入り口には仕掛け人形が動く時計台がある。市街地の出口にも別の型の時計台があった。
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水口の市街地を通ってゆくと、途中から旧東海道がアーケードになっていた。旧東海道がアーケードになっているのを見るのは、四日市の諏訪神社脇から続くのに続いて2回目である。
旧東海道は「近江鉄道」の「水口石橋駅」の直ぐ傍を通っているが、その名前の元となった「石橋」があった。しかし、流れの幅は1mぐらいで、注意していなければ見過ごしてしまうほどのものであった。かつては、立派な流れが、水路の変更などで小さくなったのであろう。
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水口の市街地を抜けて田園地帯を歩いているとき、5体ほどの道祖神がまとめて祀られている場所があった。その1体を写したのだが、前掛けの図柄が面白い。周りを見れば、家々の庭にはコスモスの花が、風にそよいで、秋の彩を演出していた。
tsuchiyama_25.jpgtsuchiyama_26.jpgtsuchiyama_27.jpg少し日も傾いてきた。急がねばと思っていたら柏木公民館前に半鐘を鳴らす鐘楼の模型なのか、実物大ではと思える銅像があった。公民館そのものも凝った造りで、何故それほど経済的余裕があるのか不思議に思った。
いよいよ、野洲川の「横田の渡し跡」が近づいて来た。野洲川の方に曲がると、「泉の一里塚」があったが、これも、近年に作り直したもので、「今郷の一里塚」と同じつくりである。作った時期も同じであろう。
そして、「横田渡し跡の常夜灯」である。高さ10.5m, 笠石2.3m四方で火袋は人が通れる大きさで、周囲17.3m の玉垣もあり、街道一の大きさと説明板に書かれていた。江戸時代には、夜でも渡る人が絶えず、水流の激しい川で方向を失って亡くなる人も多くいたので、常夜灯を設置した。これで事故はなくなったという。
tsuchiyama_28.jpgtsuchiyama_29.jpg
さて、今日の予定は全て済ませ、あとは予約した三雲のホテルに向かうだけだ。かなりくたびれたが、足の状態は前回よりずいぶんと良くなった。

2007.09.23

庄野から土山

今日の歩行距離(31Km:万歩計を忘れ地図を使った計測値)
suzuka_001.jpg23日の朝食は、ホテルのバイキングで済ませ、7時過ぎに出発した。鈴鹿川の河川敷では熱気球の愛好家たちが、既に活動していた。空は曇りで、昨日よりは涼しいであろうと期待された。
suzuka_003.jpg歩き始めて、昨日離脱した庄野の本陣跡に向い、その後バイパスと国道1号線で分断された街道を複雑に進んで、中富田に達すると、ブナ科の「スダジイ」と呼ぶ珍しい木の大木があった。幹の周り5mとのこと。
suzuka_005a.jpg進んで行き、人家の絶えるあたりに、「従是東神戸領」の境界石と大きな石碑があった。
石碑の字は読めないが、以下のような言い伝えが残っている。
 
 鈴鹿川と安楽川の合流するあたりの左岸、汲川原ではしばしば水害に見舞われ、人命が失われることも多かった。村人たちは堤防を築くことを神戸藩に願い出たが、堤防を造ると対岸の城下町が水害に見舞われるようになるとして許可しなかった。「禁を破った者は打ち首」という。「男たちが打ち首になったのでは村が全滅する」と、村の女性たちが立ち上り、200人余の女性たちだけで工事をはじめた。6年かかって堤防は完成したが、やがて藩主の耳に入った。処刑者を出すところであったが、家老が身をもって諌めたため、女性たちに逆に金一封を送り功績を称えた。この堤防を人々は「女人堤防」と言い伝えた。今から180年ほど前の出来事である。

しかし、6年もかかって、その間藩主の殿様が気がつかなっかた筈がなく、村人が困っているのを承知していたが、対岸の手前もあり、表立って許可する訳にも行かなかったが、出来てしまったものは仕方が無いと、家老が身をもって諌めるという芝居をうったのではなかろうか。
そうでなければ、許したとしても金一封を送る訳がないと思うのである。
やがて、中富田に入ると「中富田一里塚跡」。
和泉橋を渡り、さらに進んで行くと、旧東海道を歩いているとよく目に付く「ひげのお題目」がある。
これは、日蓮宗の信者 谷口法春の子法悦が願主となり、「東海道刑場供養塔」として建てられたもので、天長地久、国土安穏を祈願したものとのこと。
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和田町に進むと、「和田一里塚」があるが、明らかに近年に作り直したもの。それでも、植えた木は、かなり大きく成長している。そして、しばらく進んで道の左側に国内市場占有率5割の「カメヤマローソク」の工場。
伊勢神宮の宮大工の棟梁だった初代社長 谷川兵三郎氏が引退後も何か神様につながる仕事をしたいと願い、ローソク会社を興したという。
初めは神仏用の洋ローソクの会社だったが、昭和12年にアートキャンドルを始め、海外へも輸出、世界にカメヤマキャンドルの名を広めた。結婚式などでお馴染みのスパイラル型のキャンドルなどはこの頃この会社で開発されたものだという。引退後の仕事で世界的な企業になってしまうというのもすごい。
suzuka_009.jpgsuzuka_010.jpgsuzuka_011.jpg亀山の宿に入ると、各戸の家の前に、江戸時代に何の商売を行っていたかを示す木札が付けられている。個人の家にも公共の建物にも付けられている。これは、亀山の宿を過ぎて「関宿」に入っても続いている。
何とか、江戸時代の情緒を出したいとの努力の現れであろうか。
道路の作りも整備されていて、訪れた旅人が歩くのに良い雰囲気に浸れるように気を使っている。
そして、梅厳寺は写真では明らかでないが、寺の左が落ち込んだ地形になっていて、安藤広重が描いた場所といわれている。
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「亀山の宿」の街並みは、まだまだ続くが、やがて「野村の一里塚」がある。ここのエノキの木は立派である。これほど立派なのは、他には富士川の一里塚ぐらいではなかろうか。
suzuka_015.jpgsuzuka_016.jpgsuzuka_017.jpgそして、参道の長い「布気皇館太神社」。
その後、関西本線を跨いで越し、国道1号線と東名阪神のガードを潜って、鈴鹿川の堤防をたどる道を延々と歩く。再び関西本線にぶつかり、踏切を渡って、左折し「関宿」の入り口に達する。
関宿の入り口を入って、直ぐに「関の小萬のもたれ松」の案内板があった。案内板によれば、
江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。
小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明三年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。

とあった。
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古い街並みがよく保存されていて、観光客も多い道を歩いて行くと、「関宿」の守り神の「関神社」があった。
空腹を感じ、やはり古い感じの建屋の食事処で食事をした。
歩いて行くと、郵便局の前が高札場で、郵便局そのものも街の雰囲気を壊さない装いの建物であった。
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suzuka_022.jpgsuzuka_022a.jpg
途中の休憩所に立ち寄ると、2階から街を眺められるところがあり、また違った視点で興味深かった。
郵便局の向い側は、和菓子屋さんの深川屋、服部家があり、瓦屋根の付いた立派な看板が出ている。こういう看板を「庵看板」というのだそうだが、看板の文字は江戸側は「関の戸」、京側は「関能戸」と書き分けられている。旅人が向う方向を間違わないための工夫という。
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観光客の多い、賑やかな通りも終わりに近づいたころ、「福蔵寺」があり、関宿の東の入口に「関の小萬のもたれ松」の案内板があったが、その小萬のお墓がこのお寺にある。
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大きな神社仏閣の最後は、「関の地蔵に振袖着せて奈良の大仏婿に取ろ」の俗謡で名高い「地蔵院」である。
天平13(741)年、奈良東大寺で知られる行基菩薩が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられる。日本最古の地蔵菩薩で、関に暮らす人々に加え、東海道を旅する人々の信仰も集め、全国の数あるお地蔵様の中でも最も敬愛されていると言われている。境内の本堂、鐘楼、愛染道の3棟の建物は国の重要文化財に指定。ここを過ぎると、観光客は激減するが立派な街並みは、まだまだ続く。
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鈴鹿峠への道を進んで行き、国道と合流し、再度分岐して進むと、鈴鹿川を渡るが、この辺りでは、庄野辺りの広い河川敷が嘘のような小川になっている。そして、常夜灯が旧東海道であることを示してくれているようで心強い。

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suzuka_034.jpg国道を歩いていると、突然有名な「筆捨山」の看板があった。見ると、何のことは無い山に見えるが、
「東海道名所図会」には次のように記されているそうだ。
一の瀬川の辺にあり。海道の左の方は、麓に八十瀬川を帯びて、山頭まで所々に巌あり。その間々みな古松にして、枝葉屈曲にして作り松のごとし。本名は岩根山という。里諺にいわく、狩野古法眼(狩野元信)東国通行の時、この山の風景を画にうつしてやと筆をとるに、こころに逮(およ)ばず、山間に筆を捨てしとぞ。
いまは、木が茂り岩が隠れて平凡な山に見えるようになったとのことだが、これほど期待外れの山も珍しい。
suzuka_036.jpgやがて、鈴鹿馬子唄会館に到着。案内板によると鈴鹿馬子唄は、
坂は照る照る鈴鹿は曇る
あいの土山雨が降る
馬がものいうた鈴鹿の坂で
お参女郎(上臈)なら乗しょというた

と続く。
ここに、到着するまでは今日はここでバスを待ち引き返すか、坂下まで足を伸ばして引き返すかと考えていた。
実は、昨日から左右の足に豆が出来、手当てしたが相当痛く、特に休んだ後で、歩き始めると、しばらく馴染むまではゆっくりしか歩行できない状態で相当酷い。
ところが、馬子唄会館のおじさんと話していて、まだ、これからなら鈴鹿峠を越えられる。越えて土山に着けば「貴生川」へのバスもあると言うのを聞き、その気になった。時刻は、2時8分であり、2時間半ほどで行けるでしょうと言われ、ゆっくり行っても着けると考え出発した。
鈴鹿馬子唄会館の右側に急坂が続いていて、日本橋から京都三条大橋までの各宿場名の書かれた杭が道端に建てられている。
suzuka_037.jpgほどなく、「坂下の宿」に着く。江戸時代は難所の鈴鹿峠をひかえ、一息入れる大名行列や、旅人達で賑わったという「坂下宿」も今では戸数も減り、何でもない寒村の状態にまで後退してしまっている。これも時代の流れであろう。
坂下宿を通り抜けて国道と合流する地点に岩屋観音がある。鉄の扉が設置されているが、鍵は掛けられていないので自由に中に入れる。中は別世界で樹木に覆われ、お堂の左には滝も流れていて、とても涼しい。
お堂は、旅人の道中安全を祈願し、高さ18メートルの巨岩に石室を作り、阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵の三体が安置されてるとのこと。
滝からパイプで水が引かれている。飲んでみると、美味しい水で鈴鹿峠を越すための水を補給するには最適であった。
suzuka_038.jpgsuzuka_039.jpgsuzuka_040.jpg騒音のけたたましい国道から早く逃れたいと思いながら歩き、「片山神社」の石碑がある分岐点に達した。
直ちにコンクリートで舗装されているが、樹林帯の涼しく清々しい道になる。
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suzuka_043.jpgほどなく、片山神社に到着するが、本堂はさらに急な階段の上で、足の痛みもありスキップすることにして、写真で本堂の方を写して、左の方の道を進むが、これが後ほど大間違いであったことが分かる。
滑り止めの切れ目を入れたコンクリートの急坂を上ると、直ぐに国道1号線に出たが、次にどう進んで良いか分からない。地図を良く見ると、先ほどの片山神社を通り抜けて進めばもう少し上のほうで国道を横切り歩道が続いているようである。 引き返す元気も出ないので国道に沿って上って行き、片山神社からの道が国道と交差する地点を目指す。しかし、歩道は国道の下を潜っていて、国道から降りる手段がない。
国道の向こう側を見ると小広場になっていて、そこからさらに上るようになっているようだが、国道を渡るための信号がないのは当然としても、国道はガードレールで歩道からは閉じられている。
考えても仕方が無いので、リスクを冒すことにして、ガードレールの継ぎ目の隙間から、車の途絶えるのを見計らって一気に駆け抜けた。
小広場には芭蕉の句碑もあり、
「ほっしんの 初(はじめ)に越える 鈴鹿山」   芭蕉
とあった。
suzuka_044a.jpgルート案内板もあったが、東海道遊歩道と書かれており、これから上るルートが赤い線で描かれているが、鈴鹿峠から先は大きく右にカーブして切れているような描き方で、この道で良いのかと不安を感じたが、他に歩道はないので、ともかく進むことにした。
上り始めると、いきなり急な道で、少し上ると馬の水のみ場の水槽のようなものもあった。その後もまるで山道のようで、最近の雨で道が相当に荒れている場所もあった。
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suzuka_046.jpg15分ほどで平らなところに達し、鏡岩への道標があった。鏡岩には、霧でも出れば確実に迷子になりそうな杉林の中を進むと150mほどで到着する。
鏡岩は、盗賊が旅人の姿が岩に写るのを見て、襲ったと言われているが、表面が荒れた唯の岩で、どうして姿が映るのかと思った。昔は輝いていたが、風化して現在の姿になったのであろうか。
後に調べたら、山火事でこういう姿になってしまったとのことであった。
峠道を抜けて開けた場所に、また道標があり国道との合流点まで1Kmとありほっとした。案内板のルートは、ここで右に分かれて辿る道を示したものであった。そして、茶畑が広がり不思議な服装でちょと可愛い絵の道標もあった。この絵の道標は土山に向かって歩く途中でも時々見かけた。
数百メータほどで、大きな常夜灯がありさらに安心感が高まったのは昔も同じであっただろう。
それにしても、これほどの大きな岩をどうやって運んだのだろう。
suzuka_047a.jpgsuzuka_047.jpgsuzuka_048.jpg国道に合流して歩いて行くと、山中というところに、鈴鹿馬子唄の歌碑やモニュメントがあった。最近作られた新しいもので、国道を車で通る人は立ち寄ることも無く、旧東海道歩きにとっても歴史的遺構でもなく、休憩場所にもなりそうに無いもので、作った意図が分からない。
さらに進むと、一里塚公園と書かれた小公園があり、また鈴鹿馬子唄の歌碑が設けられていた。馬と馬子のモニュメントも作られていたが、ベンチは無かった。
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そして、終に土山の入り口に達し、「田村神社」に至る「街道橋」に到着。この橋を渡ると、長い参道の「田村神社」がある。田村神社は、征夷大将軍として蝦夷を平定したことで有名な坂上田村麻呂を祀った神社であるが、流石に正一位の田村麻呂を祀った神社だけのことはあり、広大な広さの杉の大木の境内のなかに燐として建っていた。付属建築物も立派なものだ。
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suzuka_053.jpgsuzuka_054.jpg
神社を出ると、「あいの土山道の駅」があり、今日はここまでとバス時刻を見ると17:01で腕時計は16時57分。
1時間に1本のバスが直ぐに来るとは、全く運が良い。待つまもなくバスが来てJR草津線の「貴生川駅」まで行き着いた。
電車は30分ほど待つ必要があるが、やむを得ないと思っていたら、前の電車が車両故障で遅れており、直ぐに乗ることが出来、1時間ほどで京都駅に着き。またまた運のよい事に発車2分前の「のぞみ」の切符を買って駆け込み新横浜へと帰途についた。

2007.09.22

桑名から庄野

今日の歩行距離(32Km:万歩計を忘れ推計値)
今週も3連休なため、旧東海道歩きに出かけることにし、新横浜6:13分の新幹線「のぞみ」で名古屋に向い、その後、関西本線で桑名に向かって8時10分に桑名に到着する。
桑名には、明治に日本一の地主王となった諸戸清六氏が自宅、庭園を市に寄贈した「六華苑」があり、以前同じ職場に諸戸で[清]の字まで受け継いだ知人がいたので、訪れることにした。
しかし、まだ、8時30分で開園していなかったが、入り口のくぐり戸を押すと、開いたので、そっと鹿鳴館の設計者で著名な英国人ジョサイア・コンドル氏の設計による洋館を写してきた。
kuwana_001.jpgkuwana_002.jpgkuwana_003.jpg長良川の堤防に出ると、長良川河口堰が銀色の輝きを見せ、空も快晴で、今日も暑くなることが予感される。
堤防を南に進むと、「七里の渡し跡」に行き着く。宮の「七里の渡し跡」よりずいぶんと小さいが、かつては伊勢参りの旅人も到着して、大いに賑わったのであろう。
ちなみに、ここの鳥居は伊勢神宮の一の鳥居である。
kuwana_004.jpgkuwana_005.jpgkuwana_006.jpg
少し進むと、「諏訪神社」の青銅の鳥居がある。当初鳥居は木造であったが、大風で倒壊し、寛文七年(1667)、松平定重によって再建された。桑名は江戸時代から鋳物業が盛んで、この鳥居も町内の鋳物師の辻内善右衛門に命じて建立された。慶長金で250両掛かったと言う。高さ6.9m、柱の回り57.5cm、街道脇にあって街道随一の青銅の鳥居として旅ゆく人々にその威容を誇っていた。
その後も再三災難に会い、伊勢湾台風でも船が衝突し倒壊した。その疵は今も残っている。その度に辻内家で何時も修復しているとのこと。
また、「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱の女郎」と脇本陣の石碑に刻まれていたという。
鳥居の左側には、「志類べ以志」と刻まれた石標が立っていて、右側にに「たづぬるかた」、左側には「おしゆるかた」と刻まれている。
「しるべいし」は「迷い児石」とも呼ばれ、迷子や行方不明の人を捜すための掲示板の代わりをした石標である。「たづぬるかた」面に尋ね人の特徴を書いた紙を貼りだし、心当たりのある人が「おしゆるかた」面へ、その旨を記した紙を貼るようにしたとのこと。
道路の右手の三之丸堀沿いには、東海道53次を模した小公園があり、写真は日本橋を模したものである。
突き当たって左折すると、「桑名市博物館」があり、見学したかったが、まだ開園していなかった。
大きい通りを渡り一つ先の通りを南に向かって進むと、寺町という通りがあり、その名の通り分譲宅地をお寺さんの団体が買い占めたかと思いたくなるほど寺が並んでいる。主な寺を次に示すが、左から右に、上から下に向かって、
「教宗寺」、「光徳寺」、「十念寺」、「壽量寺」、「天武天皇社」(これは寺ではなく神社)、「善西寺」である。
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ようやく、寺町を抜けて「員弁川(いなべがわ)」に架かる「町谷橋」を渡る。その後進んで、近鉄名古屋線を「伊勢朝日駅」のそばでよぎり、東芝の三重工場前を通り過ぎたところに「浄泉坊」と言う名のお寺があった。
立派な門構えと思ったら、徳川家に縁のある桑名藩の奥方の菩提寺であったという。山門や瓦に三つ葉葵の紋が入っており、参勤交代で表を通る大名もこの門前で駕籠から降りて一礼をしたといわれている。
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その後、特に特徴の無い街道を進み、朝明川を渡って、山峡鉄道とJR関西本線の交差点を通過し、再び近鉄名古屋線のガードを潜ると、「富田の一里塚跡」があった。石碑のみが、ぽつんと建っていた。
その後も、取り立てて特徴の無い町並みを進むが、近鉄「阿倉川駅」の近くで国道に合流する手前で、とても立派な常夜灯があり、今も電球が付けられ機能しているようであった。
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四日市の市街への入り口の海蔵橋を渡る手前に、三ツ谷の一里塚跡の立派な石碑がった。そして、海蔵橋を渡る。
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空腹を感じるようになり、道端の食堂に入り天婦羅蕎麦定食を頼むが、今日ははずれであった。天婦羅も蕎麦もいまいち。 相当に空腹でも、美味しいと感じなかった。まぁー、こう言うときもあるだろう。
そして、いよいよ、三滝橋を渡る。広重の描く三滝橋は、板を並べただけの粗末な橋だが、今は広重もびっくりの綺麗で立派な橋だ。
kuwana_021.jpgkuwana_022.jpgkuwana_023.jpg四日市と言えば、「諏訪神社」が一番大きな神社。大きい神社ではあったが、あまりしっくりしない気がした。これほど大きな神社でもお参りに訪れるひとは多くないのであろうか。
そして、その神社脇から続く旧東海道がアーケードになっているのには驚いた。
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kuwana_026.jpg鹿北橋を渡ると、いいよ日永の追分が近づく。橋を渡ると、天照大御神を祀る「大宮神明社」がある。天照大御神を伊勢の地にお遷しする際にこのお社に一時お留まりになったという伝えもあるとか。
kuwana_027.jpgそして、いよいよ日永の追分が見えてきた。この追分では今でも神水と言われる水が豊富に湧き出しており、近所の方がポリタンクを持って汲みに来ている。水質検査でも飲料水として全く問題ないとのこと。実は、この少し前で飲み水が無くなり、スポーツ飲料でも140円ぐらいなのに、単なる水で150円とは、ぼり過ぎだと思いながらも、買ったところであった。こういうことなら買うのではなかったと思った。水を汲みに来たおじさんが、とにかく飲んでみろと言うので、飲んでみると軟らかい感じの良い水であった。
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内部橋を渡って「采女(うぬめ)」という地名に入って行く。「采女」とは元来、豪族の娘などで天皇に食事を出すなどの世話をする女性で地位は低いが、美人であることが要求されたという。三重県は美人が多かったのであろうか。地位が低いとは言っても、才識兼備で気に入られて、高い位に上る例もあったとのこと。
kuwana_030.jpgそれはさておき、「采女」では、日本武尊が、あまりの急坂で剣を杖の代わりにしたという「杖衝坂」という急坂がある。芭蕉もここを馬に乗って通りかかったとき、鞍ごと落馬して、
「歩行(かち)ならば 杖突坂を 落馬哉」の句を読み、石碑が残っている。芭蕉の句で季語の無い句として有名である。
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「杖衝坂」は急でも短い坂で、上りきったところに「血塚社」という小さな神社がある。ここは日本武尊が怪我をした足の血止めをした場所と言われる。その後、旧街道は国道1号線に合流し、しばらくして分岐して「石薬師」の宿に至る。
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「石薬師」はそれほど大きな宿ではない。静かな宿の通りを進んで行くと、「石薬師小学校」の校庭の隅に「佐佐木信綱」の記念碑が建っていた。佐佐木信綱と言えば、「夏は来ぬ」、
うの花のにおう垣根に、時鳥(ほととぎす) 
早もきなきて、忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

・・・・ 懐かしい。
なお、苗字は本来「佐々木」と記したが、信綱が訪中の折、中国には「々」の字が存在しないことを知ったため、それ以後は「佐佐木」と改めたとのこと。
写真の後ろの建物は、信綱が還暦の記念に「石薬師文庫」として寄贈したものである。
小学校の校庭の隅の記念碑、石薬師文庫と並んで信綱の生家および佐佐木信綱記念館があり、色々な遺稿や信綱が愛用した道具類を見ることが出来る。
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静かな通りが続くが、街の終わり近くに「石薬師宿」の呼び名の元になった、「石薬師寺」がある。庭の手入れが行き届いており、清々しい感じの良いお寺であった。
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いよいよ、「石薬師の宿」から離れるが、石薬師の一里塚跡があり、植えられた木が既に大きく育っていて、すずめの鳴き声が喧しく聞こえていた。
そして、合流した国道1号線を通って、また別れて旧街道に入ってゆくと、「庄野の宿」の案内の石碑が建っていた。
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「庄野」は本当に小さな宿で、入ってゆくとすぐに本陣跡の碑。
今日はここまでとして、鈴鹿川を渡って、予約したホテルに向かって痛い足を引きずるようにして歩いて行った。
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2007.09.16

池鯉鮒(知立)から宮

本日の万歩計41,630(27.43Km)
昨日は疲れて、9時頃には寝たので、5時に目覚め5時30分にホテルを出て、名古屋の金山駅に向かうと、駅に着く直前で激しく雨が降ってきて、今日の多難を予感させた。ともかくコーヒーで簡単な朝食をとり、名鉄で知立に向かうが、知立駅に着いたときは、今にも降りそうな空模様だが、ともかく雨は止んでいた。
歩き始めに雨が降っていると気勢をそがれるので、まずは良かった。
最初に出くわしたのは、知立城跡。いまは子供の遊び場の小公園になっている。そして、突き当たりに、了運寺。階上が鐘楼になった門が珍しい。
chiryu_01.jpgchiryu_02.jpgchiryu_03.jpg知立神社に立ち寄ろうとして、横道にそれて行くと、知立公園があり、明治神宮からいただいたという「花菖蒲」が一面に植えられていた。明治天皇ならびに昭憲皇太后御遺愛の名品種が60種類あるとのこと。開花期にはさどかし綺麗だろうと思われる。
chiryu_05.jpgそして、知立神社。当日の午後3時からお祭りのようで、鉢巻を締めた若衆が大勢詰め掛けていた。
多宝塔も、美しい曲線を見せ、「池鯉鮒」の語源となった太鼓橋の架かった池が見える。水が富栄養化しているためか、黄緑色に濁っていて池の鯉が可哀想だ。何とかする必要があるのではなかろうか。
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次に家康の側室の「お万の方」の生誕地といわれる「総持寺」があった。境内には「水子地蔵」があり、地蔵に水を掛けると、「水琴窟」になっていて、綺麗な音がかすかに聞こえるようになっていた。
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そして、「逢妻橋」を渡ると、しばらくして国指定史跡の「阿野一里塚」。
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阿野の一里塚を過ぎて以降は、尾張と三河の境に架けられた「境橋」以外は、さしたるイベントもなく、ひたすら「中京競馬場駅」に向かって歩き続ける。
駅に近づくと「桶狭間の古戦場」があり、小公園になっていて「今川義元の墓」もある。
今川義元の墓というと、「鳴海城」に陣取って頑張っていた今川家臣の岡部元信が信長に城を明け渡して首を返してもらい、駿河に持ち帰り、雪斎が住職であった、今川家菩提寺の臨済寺に葬ったので、こちらが本当の墓所で桶狭間は、残された首の無い胴体を葬ったのであろうと思っていた。
しかし、義元の胴体は家来が持ち帰ろうとしたが、腐敗が進み三河国宝飯郡(愛知県豊川市牛久保町)の大聖寺に胴塚として埋葬され、いまも胴塚は存在する。
また、墓所も豊明市の高徳院、東京都杉並区の観泉寺にもある。この古戦場、臨済寺と合わせると4ケ所となり訳がわからない。
chiryu_10.jpgchiryu_11.jpgchiryu_12.jpg古戦場跡の公園の隣には「高徳院」と言うお寺があり、こちらも今川義元本陣跡、古戦場跡と宣伝されていた。
このお寺は弘法大師の建立とのことだが、国道には派手な案内板、山門の派手さからあまり良い印象をもてなかったが、境内に入ってみると落ち着いた雰囲気のお寺であった。
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桶狭間を過ぎて、しばらくして国道を過ぎり、有松に入って行く。鳴海の宿の手前1里の有松村は尾張藩の保護を受けた有松絞りで栄えたところで、立派な構えの家が多く、町並みの保存地区でもある。
この、絞りは現在にも続いていて、今も絞りで作った衣料品を扱う店があり、問屋も存在する。また、軒先に「ありまつ」の暖簾を掛けることを統一して行っているようだ。
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chiryu_19.jpgchiryu_20.jpg
有松を過ぎて進んで行き、扇川に架かる中島橋を渡って鳴海の宿に入る。
まず最初に、みごとな建築の瑞泉寺。そして、芭蕉供養等のある誓願寺。
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瑞泉寺の前を通って少し坂道を上った右側に鳴海城跡がある。今は、鳴海城の守り神であった天神社となっている。ここにも芭蕉の「京までは まだ中空や 雪の雲」の句碑があった。
chiryu_23.jpgchiryu_24.jpgchiryu_25.jpgその後、しばらく特徴の無い町並みを進み、「本笠寺」が近づいたとき「笠寺一里塚」に出会った。
とても立派な一里塚であった。中心に植えられた榎の木はうろが出来、元気がなくなっていたのを地元で200万円掛けて、穴をふさぐ施術を行い、蘇ったのだという。確かに樹勢も強く、一杯に葉を茂らせている。
しばらく進むと、まず正面に多宝塔が見えてきたが、玉照姫で有名な笠寺観音である。当日はお祭りで境内には屋台も出て賑わっていた。
寺の由来を簡単に紹介すると、笠寺観音はもと小松寺といい、天平五年(733)浜に流れ着いた霊木に僧禅光が十一面観音像を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。その後荒廃し、観音像が雨露にさらされているのを見た土地の娘が自らの笠をかぶせた。このとき、通りかかった藤原兼平が雨に濡れて立っている美しい娘を見て、訳を聞きその優しさに心を打たれて都に連れ帰り妻とする。この後、彼女は玉照姫と呼ばれるようになる。
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笠寺観音には、本堂以外に美しい多宝塔、藤原兼平、玉照姫夫婦のお堂などなど沢山のお堂があり、宮元武蔵の碑まである。
それにしても、関白藤原基経の息子の兼平が、名も無い娘であった玉照姫の付属品扱いなのが面白い。
chiryu_29.jpgchiryu_28.jpgchiryu_30.jpgさすがに、お腹が空いてきた。今日の食事は¥980-の蕎麦、天婦羅定食だ。やはり、この値段でこのボリュームはお値打ちだ。味もなかなか美味しかった。
chiryu_31.jpg いよいよ名古屋市街に入ってきた。伝馬町のアーチ状の飾りにも旧東海道の文字が入っていて、ここが、かつての東海道のメインストリートであることを主張している。それにしても車の走る大通りと較べて、なんと静かなことか。雨が激しく降ってきたが、10分ほどで止んだ。
そして、終に「七里の渡し跡」に到着した。常夜灯と時の鐘の鐘楼が建っている。時間は午後3時近くだった。
東屋のような休憩所も建っていて、街道歩きの人達が5人ほどが、たどり着いた感想などを述べながら歓談していた。残念ながら「七里の渡し跡」がある「堀川」は、汚染が酷く少し匂う。
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日本橋を出発して、やっとここまで来た。京がぐっと近づいた感じがした。
しかし、先にも述べたが2ケ月半のブランクと2日連続の歩行は厳しいものがあった。お昼には着けると思っていたが、だいぶ遅れた。もう、駅の階段の上り下りも辛い状態であった。 なんとか地下鉄で名古屋駅に辿り着き、新幹線の新横浜停車の「のぞみ」16:04発で帰宅の途についた。

2007.09.15

藤川から池鯉鮒(知立)

本日の万歩計40,437(26.68Km)
前回の7月7日から約2ケ月半ほど経っての再開である。
今までは全て日帰りの歩行であったが、距離が遠くなったこと、3連休でもあることから途中1泊して宮の渡しまで行き、一気に愛知県を済ませてしまうことを計画した。
最も早く前回に終えた藤川の駅に到着する方法として、朝一番の電車で三島まで行き、三島から新幹線で豊橋、名鉄に乗り換えて藤川に9時ころに着いた。
豊橋からの名鉄が不便で時間が掛かる。快速特急、特急、快速急行などと、あまりにも種類の多い電車を走らせながら、各駅停車の普通の本数の少ないこと。
fujikawa_01.jpgともかく、無人の藤川駅に着き、地元の中学生5、6名と電車を降りて、前回離脱した十王堂の横で大きな芭蕉の句碑に遭遇した。
「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」と読むのだそうだが、寛政五年(1793)に西三河の俳人が再建したものとのこと。 たしかに、藤川は紫麦で有名だったようで、今も見ることが出来るそうだが、見落としてしまった。
fujikawa_02.jpgしばらく、行くと「吉良」への分岐(追分)に達する。左が「吉良」への道である。
「吉良」と言えば、忠臣蔵の吉良上野介の領地であったところであるが、職場で吉良出身者がいて、聞いたところ、吉良では吉良上野介は良いお殿様で、忠臣蔵の映画は地元では上映禁止だと言っていた。
fujikawa_03.jpg吉良への追分を過ぎると、しばらくして藤川の松並木がある。岡崎市指定文化財とのことだが、なかなか良い感じの松並木だ。 そして、その後もこま切れではあるが、点々と松並木に遭遇する。
fujikawa_04.jpg多少の松並木を残しながらも、とりたてて特徴の無い「美合」の町を過ぎ、「岡崎源氏蛍発生地」と言われる「乙川」に達する。発生地の碑があるとのことであったが、見つからなかった。
また、「乙川」は普段は川に設けられた木の板で渡れるようだが、雨が続いて増水していて、写真のようにとても渡れる状態でなく、国道に掛かる大平橋を渡ることとなった。
fujikawa_05.jpg「乙川」を過ぎると、もう「岡崎」が近づく。 少し先には、「大岡越前守陣屋跡」があった。
大岡裁きで有名だが、ここ三河に1万石の領地をもらい大名となったが、江戸住まいで、この地に来ることはなかったとのこと。 門と塀は立派に復元されていたが、中は空き地であった。
直ぐに「大平の一里塚」があり、道路の反対側には立派な「常夜灯」が建っていた。こちらは昭和3年の道路工事で壊され、そのあとに「常夜灯」を設置したとのこと。
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やがて、岡崎の27曲がりの入り口に達した。
冠木門と立派な石の案内板がある。 とても複雑に折れ曲がっている。これから地図と首っ引きでたどって行くことになる。
この27曲がりは、豊臣秀吉の家臣の田中吉政が、入城して間もなく工事にとりかかったが、その理由は「家康の攻めに備えて」だったという。秀吉によって江戸という関東の田舎に追いやられてしまった家康の後釜に座ったので、家康にとっては恨みつらみもあり、田中吉政にしてみれば単身敵地に乗り込んだようなもので、いつ家康が攻めて来るかと気が気ではなかったのだろう。
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27曲がりは、地元の努力もあって複雑なようでも、石碑が建っているところも多く、それほど悩むこともなく辿って行ける。途中で目だったものは、大正6年建造の「岡崎信用金庫資料館」。龍田総門跡などである。
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27曲がりを辿って、やっと通り抜けたらお腹が空いて食事にした。これで、¥750-。安いわりにはボリュームたっぷりで満足である。 そして食事の注文が出てくる間に地図を眺めていて気が付いたのだが、27曲がりは「岡崎城」に近づけず、見ることもさせないで、通過させることを意図していることである。もう、岡崎城を見るために戻る気にもなれないが ・・・。
ともかく、食事を終えて、進むと「八丁味噌」の工場群があり、そのなかでも「カクキュー」は売店とともに工場見学をさせてくれる。売店は少し覗いたが、見学は1時間毎のようでスキップした。
fujikawa_12.jpgfujikawa_13.jpgfujikawa_14.jpg「八丁味噌」の工場群を過ぎると、「矢作橋(やはぎがわ)」を渡ることになるが、工事中で橋手前の横断歩道も渡れなかった。また、写真で分かる通り架け替えの新しい橋桁が出来つつあり、コミカルな「蜂須賀小六」と「秀吉」の「出合之像」も移設されていて見られない。
矢作橋を過ぎて、5?600m進むと、乙川に身を投げた浄瑠璃姫(矢作の長者の娘)が眠る誓願寺があった。
浄瑠璃姫は、奥州に下る義経と結ばれるが、その後、義経から音沙汰が無いのを悲しみ身投げしたという。この物語が、独特の節回しの人形劇となり、この形の人形劇が浄瑠璃と呼ばれるようになったとのこと。
そして道路沿いの十王堂の内部は、十王の像より、背後の壁画の極彩色が素晴らしい。
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うっかり通り過ぎてから、引き返し(100mほど)「永安寺の雲竜の松」を見に訪れた。
この松は「県指定天然記念物」とのことなので、「永安寺」も立派なお寺と思っていたのだが、本堂も鐘楼もほとんど崩れかけていて、放置されたお寺の感じであった。もう再興する意志もないのであろうか。
やはり、一月半のブランクは大きく、足が言うことを聞かない感じで、「来迎寺公園」の芝生に寝そべってしばらく休み、また気を取り直して歩き始めると、「来迎寺一里塚」があった。あとから、修復した一里塚であろうが、綺麗な一里塚だ。
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ようやく、知立の松並木に達した。知立の並木の特徴は、松並木の外側にも通路があることで、これは馬を繋ぐためであったとか。また、双体のかわいい道祖神があった。
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松並木の途中には、馬市の碑があり、裏に歌が刻まれていた。また、万葉の句碑もあった。
馬市句碑:
    かきつばた 名に八ツ橋の なつかしく
       蝶つばめ 馬市たてし あととめて
   (麦人)
万葉の歌碑:
    引馬野に にほふはりはら いりみだれ 
              衣にほはせ たびのしるしに

この辺りの地名は昔は、「引馬野」と呼ばれたという。
fujikawa_19.jpgfujikawa_19a.jpg
今日は、鳴海あたりまでと考えていたが、とにかく疲れる、ファイトが出ない、ペースが上がらない。知立で切り上げることにして、知立駅に向い、名鉄で今日の宿泊地の名古屋に向かった。

2007.07.07

吉田(豊橋)から藤川

本日の万歩計48,108(31.75Km)
今日は朝から曇り空で、少し雨がぱらつくかも知れないが、先週の快晴の暑さの中で歩くより疲労感は少ないだろうとの期待のもとに出かけることにした。
先週と同じく、三島まで鈍行で行き、三島から豊橋までは新幹線を利用したが、窓から見ると小雨が降っていた。豊橋には8時13分に着き、駅の喫茶店でモーニングセットを食べながら今日の行動を頭で反復する。
yoshida_001.jpg豊橋駅を8時半ころ出発して、前回離脱した松葉公園に向かうが、持っている地図は旧東海道が分かる地図で豊橋駅が地図からはみ出しているため、大体の見当で歩いたら、通りを間違えて大きくロスしてしまった。ともかく、松葉公園に到着して、道標を見ると「江戸まで73里、京まで52里」と書いてあった。ずいぶん遠くまで来て、京の方が近くなったのかと、しばし思いに耽る。
豊川に向かって歩いて行くと、豊橋の手前に湊町公園があり、築嶋弁天のお堂が池の中に作られた島にあり、その傍らに芭蕉の「寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき」の句碑が建っていた。吉田の宿に泊まったときの句とのことだが、こちらは気楽な一人歩きだ。
yoshida_002.jpgyoshida_003.jpgyoshida_005.jpg豊川の土手道には芭蕉門下の太田白雪の「白魚の 城下までや 波の皺」の大きな句碑が建っていた。芭蕉の句碑より立派だ。
そして、豊川の堤防では花火大会でもあるのか、見物席と思われるのを長い距離に渡って構築していた。昔、今川に架かる橋で「今橋」と呼ばれていたのを「今橋」は「忌まわしい」に通じ縁起が悪いと、池田輝政が「吉田」と改名し、明治になって再度「豊橋」に改名されたが、大河ではないが風格のある川に見える。橋が鉄の橋に変わり、堤防がコンクリートで保護工事が行われたことを除けば、江戸時代ともあまり風景は変わっていないのではなかろうか。
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豊川を渡り、直ぐに左折して街道を進むと、最初に豊川稲荷の遥拝所があった。たしかにお稲荷さんと言えば、豊川稲荷だが、ここでお祈りすれば、豊川に行かなくても良いということなのだろう。
次には「聖眼寺」があり、中には松葉塚と名づけられた松尾芭蕉とその句碑が建っていた。説明板には、芭蕉が歿して50年を記念して、芭蕉の墓の墳土を譲り受けて作ったと書かれていた。碑の土台が亀なのは浦島寺と言われる神奈川の「慶運寺」と同じだ。
句碑の文字は消えていて、読めないが「ごを焚いて 手拭あぶる 寒さ哉」と彫られていたとのことである。「ご」とは三河地方の方言で松葉を集めて燃料にしたものとのことだが、凍りついた手拭をあぶることで、手をあぶるより、より一層、寒さを強調したのだという。
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まったく、目立たない「下地の一里塚跡」は、あまりにも素っ気無い碑である。街路樹の植え込み場所のわずかに土が露出している場所を利用して建てられていたが、気が付かず通り過ぎ、戻って探して見つけた。74番目の一里塚で「江戸日本橋より七四里」と書かれていた。
写真のような蔵付きの立派な塀を廻らした家もあり、連子格子の家も残っているのだが・・・
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yoshida_012.jpgやがて、「鹿菅(しかすが)橋」を渡るが、ここは清少納言が「枕草子」で第十七段に「渡(わたり)は、しかすがの渡、‥‥‥」とその先頭に挙げている場所で、歌枕にも多く用いられている有名な場所であったという。古い時代には「志香須賀」の字も当てられたようだが、豊川放水路が出来て水の流れが変わり、かつては舟で渡っていたのが、いまは短い橋が架かるのみとなった。そのような有名な場所であったことを知る人もこの辺りにはいないのだろうか、橋の名前もほとんど消えて読めなくなっていた。
yoshida_013.jpgこの辺りは、弥生時代の遺跡が多く分布するらしく、鹿菅橋から川の堤防に沿って150mほどの所に、「瓜郷遺跡」があるので東海道とは関係ないが、見学した。写真は復元された弥生時代の「竪穴住居」であるが、稲作が始まったころのものと解説されていた。
鹿菅橋を過ぎて、豊川放水路に架かる「高橋」に向かって進み橋に近づくと、交通量は多いのに道路幅は狭く歩道も無く、道路の側端の白線すら引かれていない、とても怖い状態になる。
歩く人がいないので、放置されているのだろうが、何と言っても東海道なのである。何とかしないと、いずれ事故が起こるだろう。橋はともかく、橋に至る道路も狭いので、何とか拡張するか、せめて大型車両の通行を制限すべきではなかろうか。誇張ではなく、本当に怖かった。
やっとのことで、橋を渡り、最初の交差点脇にある小さな広場には「子だか橋」にまつわる碑が建っていて、説明板の文字は消えかかっていたが、以下のような悲し話しが書かれていた。
この先の菟足神社(うたりじんじゃ)にはおよそ一千年前、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする慣習があったと伝えられている。 ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子である。「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われていると書かれているので、人身御供は本当にあったことなのだろう。秦の始皇帝が、徐福に命じて不老長寿の霊薬を求めて日本に行かせたというが、その伝説にまつわる言い伝えも「菟足神社」にあるようなので、渡来人の生贄の風習として行われたのかも知れない。怖い話しである。
yoshida_014.jpgyoshida_015.jpgyoshida_016.jpg先に1Kmばかり進むと、伊奈村立場茶屋の加藤家の屋敷跡に到達し、2つの句碑がある。加藤家当主で俳人であった烏巣(うそう)は芭蕉とも親交があり、芭蕉がこの地へ宿泊したときの句だという。芭蕉の句は、馳走に対する御礼の挨拶句として読んだのだろう。
かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し  芭蕉
ももの花 さかひしまらぬ かきね哉  烏巣
yoshida_017.jpg伊奈一里塚跡を気を付けながら進むと、太鼓を扱う珍しい店があり、その角に石碑が建っていた。江戸より75里の記述があった。太鼓店は始めてお目にかかるが、中を覗き込むと作りかけの大きな太鼓なども見ることが出来た。本当は断って中に入って見学させてもらうのが良かったのかもしれないが・・・
「村社 速須佐之男神社」と書かれた神社があり、境内には寄進された色々な種類の灯篭が建っていた。
また、砂利を敷き詰めたちょっとした広場には、冷泉為村の歌碑が作られていたが、為村はここに掲げた1首のみ、この伊那村で読んだのだと言う。
散り残る 花もあるとさくら村 青葉の木かげ 立ちぞ やすらふ  為村
東海道400年祭のとき、為村が伊那村で読んだ歌が見つかり、取って付けたように作った碑のように思える。
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国府(こう)の市街の入り口あたりで、良さそうな「うなぎ屋」が見つかり、昼食にしようかと思ったが、まだ11時20分で、もう少し後でと思いスキップしたが、その後は食事をするところがなかなか見つからず、困った思いをした。街道歩きでは食べられるときに食べておけとは、本当だ。
さて、市街に入ると「薬師如来」の小さなお堂があったが、縁起には、相次いで父母をなくして悲嘆にくれていた二人の娘が、たまたま止宿された行基菩薩に頼んで薬師如来像を刻んでもらい、朝暮礼拝供養したのがはじまりで、それゆえ「二子寺」と呼ばれている、と書かれている。
行基は天智7年(668)に渡来人の子供として生まれているが、もし ここに書かれている縁起が本当なら、始まりは奈良時代にまで遡ることになる。
そして、少し先には「御油の一里塚跡」の石碑があった。
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その後、食事を摂るところには遭遇せず、向こうに大きな目立つ灯篭が見えてきた。
秋葉山への道標だが、ここは「姫街道」への分岐点にもなっている。「姫街道」はここから、見附宿に通じていて、浜名湖の渡しを避けて旅をすることが出来、女性がこの道を選ぶことが多く、「姫街道」と呼ばれた由である。
yoshida_023.jpgyoshida_024.jpgyoshida_026.jpgこの追分(分岐点)には、「ベルツ花夫人」が晩年過ごした建物跡の立て札が建っていた。
明治政府の招聘で明治9年に日本に到着したベルツ博士は、日本の近代医学の構築に多大な貢献をし、また、当時「あかぎれ」に苦しむ日本女性のために、植物油から作ったグリセリンと日本酒を用いて「ベルツ水」を作った。荒井花子は明治21年にベルツ博士と結婚し、一男一女を設け、明治38年夫とドイツに渡るが、夫の死後帰国して、祖父が旅籠を営んでいた御油で晩年を過ごしたという。今では、多くの日本女性が、国際社会で活躍しているが、彼女はその先駆けとなった人物であろう。
yoshida_025.jpg御油橋を渡って進んで行くと、浄瑠璃姫が持っていた念持仏があるという「東林寺」があったが、空腹と疲労も蓄積してきているのでスキップし、国の天然記念物に指定されている御油の松並木に向かう。
松並木の入り口には、説明板や碑が建っていた。もう東海道の松並木が残っているところはほとんど無いので、本当に貴重だ。
それにしても、細い道路にもかかわらず車の通りが激しい。歩くのも注意しないと危険である。車が見えない瞬間を捉えて写真を撮るのも大変である。狙ってもシャッターを押す瞬間には視界に入っていることが多い。
是非とも、車の通行の制限を考えて貰いたいものである。高速道路並みの国道1号線が平行して走っているが、豊橋から感じていたことであるが、車の通りが多すぎるように感じる。これも自動車大国の愛知県なればこそだろうか。
yoshida_027.jpgyoshida_028.jpgyoshida_029.jpg松並木を抜けると、赤坂の見附跡の掲示板が建っていた。静岡県から愛知県に入って旧東海道の扱いが、淡白で○×跡の表示板も素っ気無いものが多かったが、ここ赤坂の表示はそれなりに配慮されたデザインになっているように感じた。
そして、やっと食事の出来る店にめぐり合った。時計を見ると12時半を回っていた。古い民家を改修して、地元の婦人部の方が運営している店のようで、地元の婦人客も多く、賑やかであった。また、食事以外にも手作りのジャムなども販売していた。
そして、写真の食事でなんと700円なのである。食後に頼んだコーヒーがお菓子付だったが300円は、食べ物と較べると高い感じになってしまった。
yoshida_030.jpgyoshida_031.jpgyoshida_032.jpg赤坂宿は、旧東海道に少し気合が入っていると感じていたが、なんと本陣跡に門まで復元していた。全く残っていない本陣を門だけとは言え復元するのは珍しい。直ぐ後に出てくるが、「よらまいかん」の名前の無料休憩所まで建てている。
名鉄の「名電赤坂駅」の近くには、最近まで営業していたという旅籠の「大橋屋」がある。
土間からの上がりかぶちにお賽銭箱のような心付けを入れる箱があり、適当にお金を入れて見学させていただく。奥のほうはまだ、住居として使われているようで、入り口に近いほうの2階に上ると当時の宿泊の部屋を見ることが出来る。
ここで、宮から歩いてきたという40代半ばぐらいのご夫婦に出合い、少し言葉を交わしたが、私とは逆に江戸に向かって歩いているという。一人旅をしていると、自分の写真は撮り難いので、写真を撮ってあげましょうとの言葉に甘えて、撮っていただいた。
少し行くと、休憩所「よらまいかん」があった。無人だが綺麗な休憩所であり、色々な写真などが展示されていた。中では小学生の女の子2人が、ゲーム機に興じていたが、親にうるさく言われることもなく、絶好の場所なのだろう。
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赤坂宿の最後は杉森八幡宮で、その境内には2本の楠の木の根株が一体化してしまったような大木があり、夫婦楠と呼ばれているそうだ。確かに立派な大木である。
yoshida_035.jpgyoshida_036.jpgyoshida_037.jpgこの杉森八幡宮には、境内に回り舞台がある。説明板には、
当舞台は、心棒の先を支点として盆が回るように仕組んだ皿回し式の回り舞台である。奈落はなく、舞台上で回した。 赤坂宿では、江戸時代には人間浄瑠璃、明治以降は歌舞伎が演じられていた。
現在の舞台は、赤坂の芝居愛好者が中心となって、近隣の同好者に建設を呼びかけ、明治五年七月に舞台開きをしたと伝えられている。 平成十二年に改修復元した
、とある。
音羽町の市街を抜けて、長沢という地名の町にすすむ。この辺りは立場(たてば)だが、素っ気無い「長沢の一里塚跡」の杭が建っていた。
時々は、美しい連子格子の家もあり、秋葉灯篭もたびたび見られたが、神社名の碑が建っているのに神社がどこか分からないところも多かった。恐らく、国道、名鉄の線路を越えた向こうの山際にあるのだろうが、国道、近鉄、東名高速の建設が重なり、消滅した神社もあるのかも知れない。
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長沢を町を過ぎると、旧東海道は国道1号線に吸収されてしまい、国道の歩道を歩くことになる。全く面白くなく、旧東海道を歩くというノルマとして歩くのみである。
2Km弱歩くと、間の宿である本宿(もとじゅく)の入り口の碑と、冠木門(かぶきもん)を建てた宿への導入路に到達する。
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本宿に入ってゆくと直ぐに、松平家の菩提寺で家康とも関係の深い「法蔵寺」がある。
松平家がまだ、三河の小さな田舎大名であったころの菩提寺で、さほど大きなお寺ではないが、狭い山門前には、3台もの観光バスが駐車していた。三河地方の名所廻りのコースに入っているのだろう。
常夜灯を左右に配し、階段を上った上には独特な山門が建っている。階段の下の左脇には、家康も手習いのすずり水を汲んだという「賀勝水」という泉があったが、水面は汚れていた。常に汲み出せば綺麗になるのではと思われる。
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また。「法蔵寺」には、近藤勇の首塚もある。同志230 人を救うべく単身板橋に出頭して逮捕され 4月25日板橋で斬首され、4 月27日までさらしものにされた後, 京都まで運ばれ,京の三条河原でも3日間 再びさらしものにされる。ところが、誰か首を盗み出した者がおり、この「法蔵寺」に運んで埋葬したのだという。近年出てきた石碑の基盤の記述から本物の近藤勇の供養碑と分かり、あらためて胸像を造り供養したという。
しかし、近藤勇の首塚は京にもあり、どちらが本物か不明だという。江戸時代以前ならいざ知らず、幕末の出来事でもうはっきりしなくなっているのである。
また、門前には家康手植えの御草紙掛松がある。家康が幼少のころ、この寺で学び手習いの草紙を掛けた松だという。しかし、枯れてしまって今の松は4代目とのこと。
yoshida_044.jpgyoshida_045.jpg<
本宿には、「法蔵寺」以外は見るべきものも無く、通り抜けるとまた国道に出て歩くようになるが、直ぐに国道から外れ名鉄と国道に挟まれた特徴の乏しい道を歩く。1Kmほどでまた、国道に合流するが、その合流点の舞木町西の交差点から田んぼの中に大きな秋葉灯篭が見えた。いままで見た中では一番大きいのに引かれて、国道を離れて行くと、右手の小山に赤い鳥居が見える。山中八幡宮の大きな石碑も見え、大きな秋葉灯篭は八幡宮への誘導目印であるのが分かる。
ここは、三河で一揆が起こったときに家康が逃げ込んだ洞窟があるところで、洞窟から鳩が飛び出し、追っ手は人のいるところに鳩はいないだろうと立ち去り、命拾いをしたところとのこと。
本殿は、山の上に階段が続いていて疲れた身には辛かったが、上ってみた。本殿の横には竹の植込みがあり、命拾いした家康が、持っていた矢を地面に挿したら、芽が出てきて竹が生え「御開運竹」と呼ぶようになったと書かれていた。まだまだ、奥の院に道が続いていて、この奥に家康の隠れた洞窟跡でもあるのかも知れないが、体力的に行く気にはなれなかった。
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国道に戻り、1Kmほど行くと、藤川宿に到達した。従是西藤川宿(これより西、藤川宿)と書かれた傍示杭が復元されていて、木戸らしい石垣も作られていた。東棒鼻跡である。
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藤川の市街を歩いて行くと、お城の櫓のような建物の「人形処」と書かれた立派なお店があった。近づくと「製造卸粟生人形」と書かれていたので、人形を作っているお店だと分かった。「粟生」には「あおう」と仮名が振ってあった。雛人形などの高級な人形を作っているのだろう。藤川宿は小さく、途中本陣跡などもあったが、寄ろうと思っていた藤川資料館は閉まっていて、すぐに藤川小学校の前にある西棒鼻跡に到達した。ここには、安藤広重の師匠の歌川豊広の歌碑があり、
藤川のしゅくのほうばなみわたせば 杉のしるしとうでたこのあし
藤川宿の棒鼻をみわたすと杉の木で造った表示杭が立っており、付近の店には西浦吉良等から持ってきた“うでたこ”を売っており、たこのあしがぶらさがっている、と説明板に書かれていた。
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時間は4時半で、ここで打ち切りにするか、もう少し進むかベンチに座り考えたが、雨も少しぱらついて来て、次の岡崎の宿は遠いし、途中も名鉄の駅に出るのに都合の良い場所は無いので、ここで引き上げることにした。
最後に、道路の向かい側にある「十王堂」を見ることにし、格子戸を通して内部を撮影した。
藤川宿まちづくり研究会の案内板によると、
十王堂  「十王堂」は十人の王を祀る堂で、その「十王」とは、冥土で亡者の罪を裁く10人の判官をいう。秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・太山王・平等王・都市王・五道転輪王の総称であると、あるので、下の段の左側のひときわ厳しいのがおそらく閻魔大王であろうと知れる。
yoshida_052.jpgyoshida_053.jpgyoshida_051a.jpg藤川駅で生まれて初めて名鉄に乗り豊橋に戻るのだが、自動販売機で切符を買って下りのホームに入ったら、上りのホームに行く手段が無いのである。無人駅でどうしようと思い、改札口を通ろうとしていた地元の女性に聞いたら、無人駅だし一旦(強引に)駅を出て、向こうに回ればと言うのである。向こうのホームに行くには駅を出て、駅の入り口から数十メータのところにある踏切を渡り、向こう側にある駅舎に入って、また改札口を強引に通る必要があるのだ。なんとか、上りホームに行き着いたが、時刻表を見ると、電車は1時間に2本しかない。そんな馬鹿な、歩いているときに、名鉄の電車がしょっちゅう走るのを見たのにと思った。そして分かったのは、電車は頻々と通るが、各駅停車は1時間に2本だということである。数分単位で通過する電車を見ながら20分ほど我慢強くベンチに座ることを余儀なくされた。やれやれ・・・
三河に対する印象は、まだ途中であり早いかもしれないが、御油、赤坂、藤川と明治に国鉄を通すことを拒否し、発展することから取り残され、後で名鉄が通ることになったが、元の繁栄を到底取り返せなかった街が並んでいる感じであった。もっとも、昔は山間の静かなたたずまいの街道筋の町並みであり、鉄道を拒否した気持ちは分からなくもない。
そして、狭い隘路に名鉄、国道、東名高速とひしめき合い、旧東海道の細い道路すら車が頻繁に通るのを許容せざるを得なくなっているように思えるのである。

2007.06.30

新居から吉田(豊橋)

本日の万歩計47,141(31.1Km)
arai_001.jpg旧東海道歩きも浜松を越え、出発地まで時間が掛かるようになってきた。
色々と調べて、三島まで在来線で行き、そこから新幹線で浜松、また乗り換えて「新居町」が一番早く着けることが分かり、その方法を取った。
新居町には、8時15分ころに着いたが、新居の関所が開くのは9時なのだ。関所を通過しなくても旅は続けられるが、やはり見学したいので、コーヒーでも飲んで時間を潰そうと思ったが、コーヒーを飲めるようなところは無く、結局、うろうろしながら時間の経過を待つことになった。8時30分に、財布の中身が乏しいのでATMで金をおろそうとして、遠州信金に行ったが、私の使っている銀行はダメだった。
ともかく、関所の方に歩いて行くと「浜名橋」があり、今では水路に掛かった橋になっているが、この橋の左の方には舟溜りがあった。
arai_002.jpg新居の関所は大地震で大破して安政2年(1854)に建て替えられ比較的新しかった故か、残っていたのを修復整備したもの。箱根の関所などとは違い、唯一、本物の関所の建物が見られるので、大変貴重である。
江戸時代には、浜名湖を舟で渡ると、船着場の上陸地点が関所で、そのまま取調べが行われた。
その船着場の様子が分かるように、堀のようなものが作られていた。

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arai_005.jpg関所の中に入ると、当然だが、横にづらっと長い建物になっていて、この障子を開けると、番頭(ばんがしら)、給人(きゅうにん)、下改(したあらため)などの役人が並んでいる。
しかし、この体制で1日に何人の人を裁くことが出来たのだろうか。入国審査のパスポートチェックなみのスピーディーさとは行かなかっただろうと思う。せいぜい、百人程度だろうか。
怪しい女性の場合は役人の内儀もしくは母親が勤める「あらため女」が厳しくチェックしたそうで、女性にとって、屈辱的な取調べもなされたようである。
ともかく、ここの関所は建物の外側からの見学だけでなく、靴を脱いで建物に上がり、全て見られるのがよい。関所内の検分役にでもなった積りで回ることが出来る。しかも、1番乗りで誰も見学者はおらず、独占して見ることが出来た。
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arai_008.jpg関所を後にして、しばらく行くと「無人島漂流者不屈の精神を伝える」と書かれた立派な石碑が建っていた。
説明板によれば、筒山五兵衛船が、享保3年(1718)に浜名湖の今切を出航して銚子沖で嵐にあって遭難し、鳥島に漂着した。乗組員12人の内9人が死亡したが、残る3人は21年間も無人島で生き抜き、元文4年(1739)に救出された。八代将軍吉宗が江戸に招いて、話しを聞きその後、褒美を取らせて籠で故郷に送り届けた。
地元でも藩主松平伊豆守が、手厚い保護を与えて安泰に暮らしたとのこと。
直ぐ近くに、「紀伊国屋」という旅籠も整備され、公開されていた。紀伊国屋という名前で分かる通り、紀州から移り住んだ「疋田弥左衛門」が始めた旅籠であったが、紀州藩主の御用宿になっていたというから、格式の高い宿だったと思われる。
入り口を入ると福助人形が迎えてくれるのはお愛嬌だが、2階にあがると、枕なども展示されていた。
それと、「水琴窟」を始めて聞いたが、本当に良い音だ。竹筒に耳を近づけると、澄んだ音が聞こえてくる。
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旅籠の「紀伊国屋」はあったが、本陣はもうなくなっていて、「本陣跡」の石碑だけが建っていた。
本陣跡で左折して南下して行くと、「棒鼻跡」の碑があった。棒鼻とは籠のかつぎ棒の先端を言うとのことだが、「棒鼻跡」はここで行列の隊列を整えなおしたのだという。大名行列も常に綺麗に列を組んで進んでいたわけでなく、かなり乱れたりして、宿に入る前に隊列を整え直したようである。
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一度国道に出た後、直ぐに旧浜名街道を西に進むが、しばらく行くと「紅葉寺跡」という夢舞台道標が現れる。
民家の脇を入ると、石段が現れ、説明板が建っていた。説明には、紅葉山本学寺は通称「紅葉(もみじ)寺」と言う。延久元年(1190)に高野山より毘沙門天立像を勧請して建てたと言われている。室町幕府六代将軍 足利義教(よしのり)公が、永宝4年(1432)の富士遊行のとき立ち寄って紅葉を愛でたので紅葉寺と呼ぶ・・、後は文字が消えていて読めなかった。
石段をあがると、木のベンチが置かれたちょっとした広場になっていた。周りを見回すと、紅葉寺というだけあって、紅葉の木が沢山植えられているようであった。
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旧浜名街道は、西へ西へと続くが、道路の片側だけ松が植えられている。かつて、立派な松並木であったが、松くい虫で全滅して昭和62年に再植樹されたものとのこと。
そういえば、かなり立派に育っているが、舞坂の松並木のように古い松の木ではない。でも、枯れてしまった松並木は、植樹すれば、いずれ再生するので絶対やるべきだと思う。
しかし、歩道を松並木の外に作ったために、枝ぶりの茂ったところは、歩道も日陰が作られるが、そうでもないところでは、車道に日陰を作る並木になっていたのは、癪に触った。
松並木の途中には、前大納言為家と阿佛尼夫婦の大きな歌碑が建っていた。
風わたる 濱名の夕しほに さされてのぼる あまの釣舟  為家
わがためや 浪も高しの 浜ならん 袖の港の 浪はやすまで  阿佛尼
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進んで行くと、やはり古い街道であったことを思わせる、立派な連子格子(れんじこうし)の家が建っている。相当に進んだと思ったころ「火鎮(ほずめ)神社」があり、立ち寄ると2人の男性が、しめ縄を張り直していた。聞くと、今日の午後から「大払式」と「夏越祭」があるのだという。年嵩の方と、しばし話し込んだ。
arai_019.jpgarai_020.jpgarai_021.jpgやっと、「白須賀(しらすか)」への分岐点が近づき「蔵法時」に行き着く。ここで、道を間違え「蔵法寺」の横の道を上って、ほとんど上り詰めたあたりで間違えに気づき引き返した。30分程度のロスをしてしまった。「白須賀」への分岐点には立派な夢舞台道標が建っていたのだが、先走ってしまって失敗した。
「潮見坂」という急坂を上り、振り返ると海が見えた。これが「潮見坂」の名前の由来であるが、海のみでなく、富士山も見えたという。この日は晴れてはいても、とても富士の見える状態ではなかった。
急だが短い坂を上ると、「おんやど白須賀」という休憩所があった。あまりにも暑いので、避難させてもらおうと入ったのだが、冷房は利いていなくて、人は良さそうだが気の利かないおじさんが一人で、冷たいお茶を出されることも無く、早々に退散した。ズボンの中の足まで汗が流れているのを感じる。
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休憩所を出ると、直ぐに「潮見坂公園跡」の碑があった。なんとか跡公園というのは多いが、公園跡の碑は珍しい。織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る時、信長をもてなした所で、大正十三年四月、町民の勤労奉仕によりこの場所に公園がつくられ、明治天皇御聖跡の碑が建てられたが、現在は、公園敷地に中学校が建てられているとのこと。明治天皇碑のみは残っている。
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arai_026.jpg問屋場跡に「夏目甕麿(なつめみかまろ)邸址 加納諸平生誕地」の石碑があった。甕麿は本居宣長の門に名を連ねた国学者で諸平(もろひら)は甕麿の長子とのことであるが、よく知らない。
「白須賀」の何と言うこともない、町並みが続くが、「白須賀」は最初はもっと海沿いにあったのが、度重なる津波の被害にあい、坂の上に引っ越した。しかし、今度は風通しが良く、火事に見舞われ、その対策として家の境界に火災に強い「槙の木」を植えたのだという。その名残もところどころで見ることができる。
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「白須賀」の通りには、食事が出来るような店は無く、国道に出たところに、「吾妻屋」という食堂が1軒のみあるのを調べておいたし、先ほどの「おんやど白須賀」のおじさんにも確かめておいたのだが、行ってみると、今日は貸切でお休みであった。1軒しかない食堂がお休みでは困るのだが、こうなると次の宿の「二川」まで行くしかない。
「白須賀」の宿を過ぎると、県道と思える車の通りの多い道に出て、境川を越える。ここは現在でも静岡県と愛知県の県境だが、何とも小さな川である。掲示板には川の管理は愛知県の管轄と書かれていたが。
その後、「二川」までは、国道1号線を歩くしかないのだが、周りにはお店もなく、畑の中の1本道がどこまでも続く。とても暑い日で、木陰一つ無く、休息も取れず、日が照りつける道を歩いてゆくのは、相当に辛かった。国道は大型車両が引っ切りなしに通り、騒音も相当なものなのも辛い。やっと、国道から分岐して新幹線のガードを潜ると、レストランがあり、やっと食事にありつけた。2時であった。
食事を済ませて、しばらく休憩し、汗が引くのを待って出発し、今日の白眉の「二川の本陣」に着いた。
本陣で現存するのは、ここと大津の2ケ所のみだと言う。
さすが、大きな建物で部屋数も大変多い。直ぐ横の駐車場から撮影しても建物の規模の大きさが分かる。内部の豪華さも格別で当時の本陣の中がどうなっていたのかを知るには大変貴重な遺構である。
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本陣を後にして進んで行くと、格式も高かったといわれる「大岩の神明社」があった。ここもお祭りの準備か、数人の方が、何か準備中のようであった。
その後、「火打ち坂」を上り、岩屋緑地を回りこむように進んで行くと、途中に1本だけ残った立派な松の木が終に枯れて、その跡の表示のみになっていた。
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やっと豊橋市街に入ってきたが、瓦町の交差点に鶴松山壽泉禅寺というお寺があった。山門が、普通のお寺と違って珍しい。
それと、今では珍しくなった、路面電車が豊橋では走っている。
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東八町の複雑な交差点で、立派な秋葉常夜灯を見て、その後は、曲尺手(かねんて)と呼ばれる、複雑に右折、左折を繰り返す道を辿ることになった。やっと「松葉公園」までたどり着き、ここで今日は打ち切ることにした。
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今日も暑くて、結構きつい歩行であった。子供連れの母親に豊橋駅の方向を聞き、駅にたどり着き、新幹線で東戸塚に戻ったが、「ひかり」では1日掛かりで歩いた今日の行程をわずか5分ほどで通過した。

2007.06.23

見附(磐田)から新居

本日の万歩計49,558(32.7Km)
今日は、2、3日前までは梅雨で雨になるとの天気予報で、諦めていたが、昨日の予報では曇りとなっていたので、歩くことにした。途中で雨がぱらつくこともあったが、傘をさすほどではなく快適に歩くことが出来た。先週は快晴で暑さのためか、途中でリタイアとなったが、曇りは本当に歩き易い。
磐田に着いたのは、8時45分ぐらいで、駅にある喫茶店でホットコーヒーを飲み出発した。最初に、先週も撮影した駅前の大楠を撮ったが、枝ぶりも、葉も茂っていて、本当に樹勢が良い。旧東海道は、典型的な住宅街を通る様相で続いている。
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ほどなく、中泉公民館の前に夢舞台道標が建っていて、旧東海道に間違いないことを実感する。
そして、立派な秋葉常夜灯に遭遇する。この常夜灯と同じタイプの秋葉常夜灯を舞坂の宿の終わりまでの間に頻々と見ることになる。おそらく、大火に襲われ、火伏せの神で有名だった秋葉神社を祀る意味合いがあったのだろう。また、この辺りに宮之一色の一里塚があるはずで、注意していたのだが、見つからなかった。後で調べると階段で上る小さな山が作られていて、その上とのことだったが、石碑があるものと思い込んで歩いていたので見逃したようだ。
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宮之一色には、高砂香料(たかさごこうりょう)という文字通り香料を作っている大きな会社があり、北に1Kmほど進むと、「行興寺」という藤の花で有名なお寺があるそうで、そのための「藤と香りの道」という散策道もあるのか、その道標が建っていた。
もう、藤の季節は終わっているし、旧東海道から外れるので「行興寺」見学はスキップして進んでいると、後ろから同じように旧東海道を歩いている人が迫ってきた。なんだか、後ろをつけられているようで嫌なので、道端の何でもない風景を撮影して時間稼ぎをして先に行って貰うこととした。
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mitsuke_007.jpg歩いて行くと、若宮八幡宮があり、ここには石垣で囲んだ丸い台地のようなものがある。石碑には西之島学校跡と書かれていた。調べると、明治5年の学制発布に伴い、翌六年にこの地に西之島学校が設立されたが、その後、西之島学校は森下村に校舎を新設し移され、井通小学校、豊田南小学校と改称されて受け継がれているという。この八幡宮には学校跡のみでのみでなく、相撲の土俵も併設されていた。
若宮八幡宮から500mほど進むと、「長森立場」の夢舞台道標があり、「長森立場」の表示の横に「長森かうやく」の字があった。横には説明板が建っていたので、詳細は説明板の写真をクリックして直接お読みいただきたい。
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やっと、天竜川の堤防が見えるところに達した。天竜橋跡の碑があり、説明板よれば、明治9年に全長646間(1,163m)、幅2間(3.6m)の木橋が完成したが、昭和8年に現在の鉄橋が出来、廃止されたとある。
そして、いよいよ天竜川を渡る。以前は、天竜川に掛かっていた2つの橋には、いずれも歩道は無く、歩いて渡るのは注意を要すると言われていた。橋の手前でバスに乗り、向こう側でバスを降りるようにすると書かれてい案内書もあったそうだ。今は新しい橋が完成(2007年2月)し、広い歩道を独り占め状態であったが、天竜川も向こう岸は遠かった。
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天竜川を渡り、川に沿って下る方向に少し進むと、「六所神社」があり、その傍に明治天皇の立ち寄られた記念碑が建っていた。また、舟橋跡と木橋跡の標識が建っていが、文字が消えかかっている。せめて石碑に出来ないのだろうか。
mitsuke_012.jpgmitsuke_013.jpgmitsuke_014.jpg天竜川から1Kmほど進むと、金原明善の生家とその向かい側に記念館が建っていた。何をした人か知らなかったのだが、記念館を見学して、大地主の家に生まれ、明治の初めに私財を投じて天竜川の治水に力を注いだ。また、小学校にも自家を寄贈した、この地域の名士であったのが分かった。
mitsuke_015.jpgさらに進んで、浜松バイパスを潜ると松並木が残っていて、ほっとしたが、写真のように倒れた松の木に支えをほどこし、安全のために金網を設けて大事にしているところがあった。粗末に切り取られる松がある反面、大事にされているところもあるものだ。
mitsuke_016.jpgその後、単調な道を歩む。浜松のシンボルのアクトタワーは遠くから見えるのだが、なかなか近づかない。
だいぶ市街地が近づいてきて、この辺に馬込の一里塚跡があるはずだと、注意しながら進んで行くのだが、地図で見て通り過ぎたと思っても見つからない。あまり一里塚跡にこだわる積りもないのだが、なんとなく癪に障って、少し戻って探したら、歩道の植え込みに木の標識の杭が建っていた。しかも、消火器の傍であり、これでは見つけるのが大変な訳だ。
浜松に入って、浜松は旧東海道に対する扱いが冷淡ではと思っていたのだが、天竜川の橋跡の碑も貧弱であったし、この後に見つけた地蔵堂跡の標識も木の杭で、しかも肉眼では何とか読めるが、写真には写らないほどに消えていた。浜松は旧東海道でも最も大きな宿であったはずだが、戦争で完全に破壊され、歴史的な遺構が残っていないからと言う人もいたが、それだけではなく、市の姿勢の問題のような気がする。
やっと、アクトタワーも近くに見える、市街の中央付近に達した。ちょうど、お昼の時間で先ほどから、食事をしたい気も高まって来ている。浜松と言えば「うなぎ」と私の旧東海道歩きを知っている人は言うので、あらかじめ良さそうなお店をネットで調べておいたので迷わず「曳馬野(ひくまの」に直行した。小さなお店であった。もちろん美味しかった。
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待望の浜松のうなぎの昼食に満足し、神明町の交差点を左折し南下すると、直ぐに「佐藤本陣跡」の表示板があった。道路右側にも「高札場」や「杉浦本陣跡」、「川口本陣跡」があるようだが、左側の歩道を歩いていて見られなかった。
右の歩道に移って、暫く行くと、「浜納豆」の看板の古いお店があった。「浜納豆」は食べたことはないが、普通に売っている納豆とも甘納豆とも違い、塩辛くて味噌に近い味で、戦国武将の携帯食として好まれたという。
mitsuke_019.jpgmitsuke_020.jpgmitsuke_021.jpg道路をどんどん南下してJRの東海道線と新幹線のガード下を潜り、道路が右にカーブするところに、「馬頭観音」、「高札場跡」、「二つ御堂」と3つの表示杭が建っていてた。どうも、だいたいこの辺にあったものと言うので集めたのだろうが、杭の表示も貧弱だ。それより、お堂が大事で、道の反対側にも同じお堂が建っていて、「二つ御堂」と呼ばれるそうだが、片側は撮影を忘れてしまった。
この二つのお堂は、20歳の藤原秀衡が学ぶために京都にいたとき、藤原秀衡の愛妾が秀衡を訪ねてこの地まで来たとき、誤報で秀衛が死んだと聞かされ、弔うためにここにお堂を建てたという。その後、気落ちしたためか病に罹り死んでしまったが、そこに秀衛が故郷に帰るべく馬で通りかかり、ここで愛妾が死んだのを知り、同じお堂を建てたのだという。情報網の発達していなかった時代には、こういうこともあったのだろう。20歳の秀衛も故郷に帰ればあの子に会えると胸を高ぶらせて帰省の途についたに違いない。なんとも、可哀想なことである。
また単調な道が続く。たまには、写真のような格子戸の古い家があり、旧東海道の雰囲気もあるのだが、狭い道路の住宅街となっているのに、車の通りも多い。車の見えない写真は、かなりタイミングを狙ってやっと撮ったものだ。
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浜松の宿から舞坂の宿は、思った以上に遠く感じた。やっと、舞坂駅の近くの春日神社に着き、少し休もうとしたが、境内にあるベンチはどれも鳥の糞で汚れていて、座る気がせず少し先の喫茶店に入った。
アイスコーヒーを頼んだら若い女将が出してくれ、浜名湖まであと2Kmぐらいですかと尋ねたら、そうですと答え、私の持っている地図を、ちょっとと声を掛けながら覗き込み、私が歩くルートを緑のサインペンで塗ってあるのを見て、このコースで良いです。この道は本当に歩くのに良い道ですと教えてくれた。
女将の言ったとおり、直ぐに綺麗な松並木が始まった。立派な大きな石の説明板によると、昭和13年に現在のように、歩道を松並木の外側に設ける整備を行い、700mで330本の松が残っているとのこと。それに、一定の間隔で、干支にちなんだ石の像が配置されていて、例えばうさぎなら、「卯 卯の刻 午前五時から午前七時」などと書いてある。順番に見てゆくと、なかなか楽しい。
mitsuke_026.jpgmitsuke_025.jpgmitsuke_027.jpg松並木は国道1号をよぎるまで続いていたが、その交差点の三角地帯は、ちょっとした広場になっていて、「浪小僧」という面白い像が建っていた。説明には、「むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。(遠州七不思議より)とあった。
お手洗いもあり、使わせて貰ったが、全自動で綺麗なトイレであった。
どうも、浜松の宿から舞坂に入ってきて、旧東海道に対する扱いが格段に良くなったように感じた。
mitsuke_028.jpg国道を横切ってから、車の通りもほとんどなくなり、良い感じで歩いて行くと、見附の石垣も残されていて、説明板も整備されていた。さらに進むと、一里塚跡も綺麗に整備されていて、立派な秋葉常夜灯篭も設置されていた。説明板によれば、秋葉灯篭は、文化6年(1809)に大きな火事があり、宿場の大半を焼き、人々の秋葉信仰の高まりで造られたとのこと。
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さらに、脇本陣の建物も再整備して公開していた。公開は午後4時までで、着いたのは3時50分であったが、年配の女性が丁寧に案内してくれた。日坂でも旅籠屋を見学させてもらったと言ったら、即座に「川崎屋」さんでしょうと答えた。お互いに連絡があるのか、想像だが日坂の「川崎屋」を再整備するとき、参考にここに見学に来たのだろう。
今日は、どこまでと聞かれたので、弁天島あたりで終わりにしようと思っていると答えたら、それが良い、新居までは少し遠いし、関所の見学時間は午後4時までなので、次回に弁天島から歩き関所を見学して、白須賀(しらすか)に向かうのがお勧めとのこと。そして、白須賀は電車も無く、バスも無いところだから、その日は二川まで歩く必要があり、午前中に新居を出発する必要があると教えてくれた。
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お殿様専用のトイレまであった。使用禁止と書かれていた。
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直ぐに、浜名湖畔に着いた。ここまでやっと来たかと少々感激である。
しばらく、湖を眺めてから道を右に取り、弁天橋を渡り始めた。
mitsuke_035.jpgmitsuke_036.jpgmitsuke_037.jpg遠く、左手には浜名湖の海に向かっての開口部に掛かる「浜名バイパス」のアーチ橋が見え、右手の方にはJRの弁天島駅が見えてきた。この第一の島は、大規模なホテルが多く、なかなかに壮観である。
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先ほどの脇本陣のおばさんには、弁天島で終えると答えたが、今日は朝から曇り空で体力の消耗が少なく済んだのか、まだまだ余力があるので、次の島に向かって歩き始めた。歩道は花が植えられていて、橋の上とは感じられず、まるでどこかの綺麗な散歩道を歩いている感じであった。
しかし、確かに橋の上で、釣りを楽しんでいた子供に出会った。釣れた?と聞くと、一匹だけと答え、「ぼら」と思える魚を見せてくれた。それと、子供の「一匹だけ」と答えたイントネーションから、関西風の影響が感じられ、つくづく遠くまで来たものだとの思いを新たにした。
mitsuke_040.jpgmitsuke_041.jpgmitsuke_042.jpgそれにしても、新幹線の車両がひっきりなしに、高速で通り過ぎて行く。何度となく、それこそ数え切れないくらい新幹線の車両から、浜名湖のこの場所を見たと思うが、こちらから新幹線を見るのは始めての経験であった。
第二の弁天島も通り過ぎ、新居に向かって進み、終に新居町駅に到着した。
やっと、今日の旅を終えることにし、浜松までJRの電車で戻り、その後新幹線で横浜に戻った。

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