2009.11.04

今市から東照宮

歩行距離は推定15Km

日光街道を歩く旅は11月4日に東照宮に着き、完了。

今日は、日光街道最後の日である。東武日光線の時刻表を見誤り、新栃木駅での乗り継ぎで30分も待たされるなどの失敗もあり、下今市駅に着いたのは、10時であった。
しかも、万歩計の電池が切れていて、距離も測れない事態であった。しかし、今日の歩行距離は、日光までは10Km以下で問題なしと元気に歩き始めた。まず、前回の街道からの離脱ポイントの日光例幣使街道追分に着く。
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例幣使街道の方を見ると、こちらも立派な杉並木である。そちらに進めば、中山道で訪れた倉賀野の追分に行けるはずである。ふり返って小倉町交差点の先を見ると、対照的に現在の今市の市街が広がっている。
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少し先には、「二宮尊徳翁の墓」の標識が立っていて、右折して「二宮尊徳神社」を訪れる。二宮尊徳は小田原の百姓の生まれだが、奉公先の小田原藩家老の服部家で財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて名前が知られるようになり、晩年は日光山領の農業振興を行い、下野国今市村(現在の栃木県日光市)で安政3年10月20日(1856年11月17日)に没し、ここに葬られたのである。二宮報徳神社の鳥居をくぐると、まず、「至誠勤労 分度に推譲 報徳教えは 今市の宝」と刻まれた今市田植歌の碑が目に付いた。
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それにしても、身分制度の厳しい江戸期にあって、百姓出身でありながら、小田原、日光市今市、栃木県芳賀郡二宮町の三箇所で報徳二宮神社を造り、祀られるのは並みの才能ではなっかたであろう。以前には小学校の校庭で良く見られた柴を背負った「二宮金次郎像」も、ここにはもちろん立っていた。「人学ばざれば生まれざると同じ・・・」の考えが教育には大切と考えられていたのであろう。
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神社の裏に回ると、二宮尊徳のリアルな銅像があり、墓がある。また、「ちちははも、その父母も、我が身なり、我を愛せよ、われを敬せよ」と刻まれた碑も立っていた。
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報徳二宮神社の西隣には、室町時代中期の創建の浄土宗の如来寺がある。
寛永9年(1632)、三代将軍家光が東照宮造営の時ここに壮大な御殿を建設し逗留した。また、二宮尊徳の葬儀も、このお寺で執り行われたとのこと。
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街道に復帰して、進んで行くと「今市宿」の大きな表示杭が立っていて、観光案内所と大きな駐車場があった。片隅には「明治天皇小休止蹟」の碑があり、美味しい「いまいちの水」(伏流水)と表記された水飲み場もある。
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少し進んで、右手には、は戦国時代の元亀3年(1572)創建の浄泉寺。薬師如来が祀られていて、脇侍として運慶作と伝えられる日光月光十二神将が配置されているとのこと。そして、次の交差点では「瀧尾神社」の鳥居が見えてくる。
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由来の案内板には、天応2年(782)勝道上人 日光二荒山(男体山)上に 二荒山大神を 祀ると同時に 当所 琵琶ヶ窪 笄の森に 之を祀るとある。祭神は大己貴命 田心姫命 味耜郄彦根命とのこと。拝殿前左側には、大己貴命・田心姫命・事代主命の三神像があったが、なぜ味耜郄彦根命でなく事代主命なのかは不明である。 参道の両側には、カラフルなかざぐるまがあり、よく見ると、軸の部分には、いろいろな願い事がくくりつけられていた。
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交差点には、国道119号線と分かれて右側に杉並木の入口が見えている。当然、杉並木に入って行く。
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杉並木で以前より気になっていたのだが、立派な杉の木には名札の掛かったものがある。これは、杉並木オーナー制度で、1本1,000万円でオーナーになってもらい、そのお金の運用益で、年間100本も倒れるという杉並木の保護事業に役立てるというものである。立派なことだとは思うが、軽く1,000万円出せる人が羨ましい。そして、江戸から34里の瀬川の一里塚の説明板が立っていたが、どこが塚の部分だったかは分からなくなっていた。
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民家があり杉並木が短い間途絶え再び始まると、江戸期の原型に近いと思われる雰囲気の杉並木となった。そして、進むと「砲弾打込み杉」の説明板があった。「戊辰戦争時、ここ「十文字」に旧幕府軍の陣地があり、激しい攻防戦が行われた。その時、官軍が撃った砲弾が杉に命中し、今でも傷痕が残っている」とある。杉の木を見上げると、確かに窪みがある(下の右の写真)。
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進むと、並木道の右側には、野口薬師堂があり、釣鐘の形をした大きな石が置かれている。昔ここには青雲山蔵寺という寺があったが、資力の乏しい寺のため金属製の釣り鐘を造ることが出来ず、日光廟造営にたずさわった石工に頼んで造らせたものであるという説と、明和5年(1770)村人たちが太郎山の月山大権現に銅の釣り鐘を奉納し、同時に地元の山王権現には石の釣り鐘をおさめたところ、竜頭が鐘の重みで壊れてしまった。村人たちは後難をおそれ、この失敗を口にすることを嫌い、薬師堂に放置されたままにしてあるという伝承もあるそうだ。
国道と分かれていた杉並木が国道と合流すると、歩道スペースも無いところが多く緊張を強いられる歩行となる。しばらく進むと、「並木太郎」の説明板が立っていた。日光杉並木の中で一番大きな杉で、周囲5.3m、樹高38mで、高さでは他の杉と比べて同じように見えるが形が美しく、端正な姿が並木太郎と呼ぶに相応しいと書かれている。そして、右の写真は、銀杏の葉のように根っこが広がっていて、「銀杏杉」と呼んでいるものである。この雄大な根張りがあれば樹木ばかりで無く大丈夫と言うことで「人生杉」とも呼ばれていると書かれている。全く歩道の無い国道で、写真撮影も命がけである。
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杉並木が切れたと思ったら、明治天皇七里御小休所跡である。そして、「宝殿(ほうでん)」の交差点を過ぎると、短い区間だが杉並木は国道から左に分かれ、直ぐ先に、「異人石」がある。「明治の頃、杉並木を愛した一人の外人がいた。その外人はこの石を石屋に頼んで座りやすくしてもらい、毎日ここで並木を眺めていたので異人石と呼ばれている」とある。夏の夕涼みぐらいなら分かるが、日がな一日座っていたとは考え難い。
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200mほどで国道に合流し、JR日光線のガードを潜り進むと、右側に「JR日光駅」がある。ようやく、ここまで来たかの思いを強くする。時刻は12時を回っており、何はともあれと駅前の蕎麦屋に飛び込んだ。もう石油ストーブに火が点いており、直ぐ側の席を勧めてくれる。聞くと、昨日は雪が舞ったとのこと。
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食事を終えて山の方を眺めると、日光連山がそびえているのがくっきりと見える。左の写真は、男体山(2484m)。
「男体山の影を湖面に映す中禅寺湖」という教科書で習った一節が、突然頭に浮かぶ。
下の写真の左は、大真名子山(2375m)、小真名子山(2323m)で、右側は、女峰山(2483m)、赤薙山(2010m)である。
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100mちょっと進むと今度は「東武日光駅」である。こちらの方が、乗降客も多く駅前広場も賑やかで華やいでいる。ここに来て、日光が観光地であることを改めて知らされた感じである。駅を過ぎると、日光街道の最後の宿の「鉢石宿」である。ここも、電線を地下に埋めてスッキリとした街並みとなっている。
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まだ、整備途上なのか、途中から電線が復活する。家並みの向こうには、男体山が益々大きく見えてきた。右手の奥には、頼朝の信頼が篤かった畠山重忠の三男重慶の開基と言われる、天台宗の龍蔵寺がある。
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少し進むと、右手の奥には旧家が見え、さらに先には「ひしや」の看板の羊羹屋がある。明治元年創業で、一本1,500円の竹皮包みの羊羹一種類のみの商品である。店構えも古く重々しく、冷やかしの客など寄せ付けない威厳を保っている。興味を持ちながらも恐れをなして通り過ぎたのが残念である。
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大谷(だいや)川に架かる、日光橋が見えてくると、家康のブレーンとして知られた天海大僧正の銅像がある。東照宮の創建に尽くした「日光山中興の恩人」と説明にあるが、私には黒幕的イメージがあり、高僧には似つかわしくない思いで好きになれない人物である。日光橋の上流には、神橋(しんきょう)が架かっている。神橋は山口県の錦帯橋、山梨県の猿橋と合わせ日本三大奇橋の一つに数えられていて、国の重要文化財に指定され、世界遺産にも登録されている。橋の長さは28m、巾7.4m、高さ(水面より) 10.6mあり、高欄には親柱10本を建て、それぞれに擬宝珠が飾られ(乳の木)と橋板の裏は黒漆塗で、その他は朱に塗られている。奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永13年に現在のような神橋に造り替えられてから、もっぱら神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に仮橋(日光橋)を架けて通行することとなったとのこと。
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日光橋を渡って、歩行者用信号が変わるのを待っていると、道路の向こう側に「杉並木街道寄進碑」が立っていた。いよいよ神域で、この日光は、現在では東照宮、二荒山(ふたらさん)神社、輪王寺を合わせて日光二社一寺と言われているそうだ。しかし、これは明治4年の神仏分離令により分離されたからで、それ以前は神仏習合により一体で日光山と総称されていたのである。道路を左に進みたいが歩道も無く危険を感じて、道路を渡って階段を上り、直ぐに左への階段を通って行き、輪王寺への坂道を上って行く。途中の楓は、綺麗に色づいていた。
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坂道を上り詰めると、日光を開いた勝道(しょうどう)上人の堂々たる銅像が迎えてくれる。ここでも、真っ赤に色づいた紅葉が美しい。
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下の左の写真は国重要文化財の輪王寺の三仏堂(本堂)である。本尊は阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音であり、日光山内では一番大きい木製の建物とのこと。
右の写真は、明治4年に本坊が消失したときに、唯一焼け残った門跡寺の格式を持つ黒塗りの門で、黒門とも呼ばれている。これも重要文化財指定である。
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東照宮への参道を進んで行くと、正面に大鳥居が見える。この鳥居は高さ9m、柱の太さは3.6mと大変大きく、国の重要文化財に指定されている。そして、右の写真は仁王門である。総門とか楼門とも言われ、ここで身を清め、草履に履き替えたという。ここから先に進むには拝観料1,300円が必要である。
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仁王門をくぐると、色彩鮮やかな三神庫(さんじんこ)があり、神厩舎(しんきゅうしゃ)の長押(なげし)に彫られた御馴染みの三猿があり、カメラを構えた人々でごった返している。昔から猿は馬の病気を守るとされていたことによるとのこと。
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そして、あまりにも有名な「陽明門」である。絢爛豪華な門で、彫刻も多彩で眺めていると、日が暮れるほどであるので、日暮門とも呼ばれていた。また、陰陽道(おんみょうどう)の影響で、鳥居とこの陽明門の中心を結んだ上に、北極星があり、真南に伸ばせば江戸へ着くように配置されているとのこと。向って右手には、鐘楼が配置されており、左には、ほぼ同じ造りの「鼓楼」がある。
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門をくぐって、陽明門をふり返ると、こちらから見たほうが、色彩は鮮やかに感じる。日射量の違いであろうか。
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正面の「唐門」は改修中のようである。右手に回ると、回廊の坂下門に、これもまた、あまりにも有名な左甚五郎作の眠り猫がある。思ったよりも小さな猫である。
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坂下門をくぐると、奥社参道で、207段の急な石段を上ることになる。疲れた足には、相当堪える。ようやく上りつめ鳥居をくぐると、右手に外部全体を青銅で包んだ「御宝蔵」があり、朝廷から贈られた文書などが収められたという。
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そして、最後の数段を上ると拝殿があり、拝殿の先には、慶安3年(1650)に屋根、柱、扉等を唐銅で鋳造して組み立てた鋳抜(ちゅうばつ)門がある。
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特別公開で、鋳抜門の前を右に進んで、東照宮の奥宮御宝塔を一周できるようになっていた。ここは紳域で、以前は未公開であったが、350年弐年大祭記念で公開されている。御宝塔は始め木造であったが、やがて高さ15mにも及ぶ巨大な大石造の宝塔となり、天和の地震(1683)に倒壊したので、五代将軍綱吉の時、現在の唐銅製に改造した。
この宝塔こそが、家康の墓であり、棺が収められており、日光道中の終点である。<br clear="all".
東照宮を終えて、仁王門を出て右折して「二荒山神社」の方に歩いて行く。正一位勲一等の額がかかる門をくぐって、境内に入って行く。右の写真は、拝殿で拝殿の奥にある本殿と共に国の重要文化財に指定されている。
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二荒山神社を鳥居から退出して右折し、さらに大猷(だいゆう)院に向う。大猷院とは家光の諡号(しごう)で、祖父家康を崇敬していた家光の遺言で造られた家光の霊廟である。しかし、東照宮より大きく造ってはならないとも遺言していたという。階段を上り、重要文化財で世界遺産の仁王門をくぐる。先には、ここでも「もみじ」が真っ赤に色づいていた。
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仁王門を潜って左に折れると、やはり重要文化財で世界遺産の二天門を仰ぎ見る。この門は下層正面左右に、持国天、広目天の二天を安置していることから二天門と呼ばれているが、背面にも風神・雷神の二神が配置されている。二天門の階段は途中で左りに直角に曲がり、そこが踊り場となっていて、見下ろすと、灯篭が並ぶ趣のある庭園がある。そして二天門を潜ると、立派な鐘楼と鼓楼が左右に配置されている。
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二天門の次は、夜叉門(下の左の写真)である。もちろん重要文化財で世界遺産である。この門をくぐると、拝殿に通じる唐門である。
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唐門をくぐると、右の方に回りこむ通路が用意されており、拝殿、本殿が側面から見学できるようになっていた。ここは国宝で世界遺産である。
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さらにその奥には皇嘉門(こうかもん) があり、家光公の御廟への入口となっている。中国、明朝の建築様式を取り入れたその形から、一名「竜宮門」とも呼ばれてるが、ここからは流石に入れてもらえない。ぐると回って、夜叉門の方に引き返す。取り囲んでいる塀にも意匠が凝らされている。
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夜叉門のところまで戻って配置された灯篭を眺めても見事としか言いようが無い。
風神、雷神像を見ながら二天門を出て、改めて階段の上から眺めると、踊り場まででもかなり高い。疲れた足で慎重に下りる。
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大猷院を訪れ、何だか東照宮より充実した感じがした。観光客が少ないのもありがたかったが、訪れた人は異口同音に「来てよかった」と話していた。
これで、全ての予定を済ませて、また紅葉を愛でながら日光山を後にした。
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途中で看板に誘われてコーヒーを一杯飲んで休憩し、バス停のある通りに出た。時刻は14:30であった。その後、バスで東武日光駅に着き、帰宅の途についた。
延べ7日間の歩行の旅であった。

2009.10.29

宇都宮から今市

本日の万歩計34,502(22.4Km)

前回の歩行以降、仲間の集まりがあったり歯医者に通ったりで10日ぶりの街道歩きとなった。宇都宮着は8:42で、駅前のモニュメントも輝いている。前回引き返したところまで行くために、9:10発のバスに乗る。
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前回引き返した「上金井」に着く。時刻は9:45である。日光街道歩きで自宅からもっとも時間が掛かる地点だ。道路は119号線であるが、両側の歩道が遊歩道になっており、気持ちよく歩ける。
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しばらく進むと、東北自動車道の下をくぐる。100mほど進んだ右側に、「第六接合井」がある。日光街道にほぼ並行にして敷設された延長26Km、標高差240mの送水管にかかる水圧を弱めるために標高30m毎に全部で6箇所作られたが、昭和24年の今市地震で倒壊してこの「第六接合井」だけが残っているとのこと。造られたのは大正4年で、西洋城郭風の八角形の煉瓦造りとなっていて、宇都宮市近代化水道施設の遺構の一つで、国の登録有形文化財に指定されている。
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さらに、200mほど進んで信号を渡った左側に、大谷道と彫られた古い道標が生垣に囲われて立っていた。この追分を過ぎると、日光道中18番目の宿場徳次郎(とくじら)宿となる。
1Km進んだ次の信号の左側には、薬師堂がある。お堂はかなり荒れていて、墓地の中に建っている感じで、傍らには3体の石仏が立っていた。お堂に向う入口の民家には大谷石造りの立派な蔵が建っている。
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500mほど進むと、「徳次郎」の大きな交差点である。地名の「徳次郎」であるが、奈良時代に、日光に勢力を持つ久次郎(くじら)一族が日光二荒神社より分霊し、智賀都神社を創建した時に日光の久次郎に対し、外久次郎(そとくじら)と称したのが始まりで後に、徳次郎(とくじら)と転訛したようである。しかし、県道路公社では、最近「とくじら」から「とくじろう」と呼び名を変え、交差点の名前も「徳次郎(Tokujiro)」となっている。「徳次郎」の交差点を左折し少し先で右側の小道を進むと、直ぐに「痣(あざ)地蔵堂」がある。願をかければあざやいぼが治るという霊験がある お地蔵さんである。
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街道に戻って、1Kmほど進むと右側に「智賀都神社」がある。徳次郎町6郷(西根・門前・田中・上町・下町・中町)の鎮守であり、宝亀9年(778)日光二荒神社を勧請して千勝森(ちかつのもり)に祀ったという。この千勝から智賀都(ちかつ)となったという。参道入り口の両側にある2本のケヤキは、樹齢700年という大木で県の天然記念物に指定されていて、「長寿の夫婦欅」と命名されている。
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少し先には、道路の真ん中に「徳次郎六本杉」の標札があり、六本の杉が植わっている。バス停の名前にもなっていて有名だったのだろうが、今は代替わりして小さい杉の木である。道路わきの民家の庭からは「かりん」の果実がのぞいていた。良い秋晴れである。
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1Kmほど進んで、また国道119号線の左側の遊歩道を歩いて行くと、県道77号線との交差点で右手に六本木の一里塚がある。日本橋より30里。右手の塚だけが残る。一里塚を過ぎると、天保11年(1840)と刻まれた十九夜塔の如意輪観音が立っていた。
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道路の右手に「第五接合井」が見えてくるが、これは地震での崩壊の後に、改修されたものである。そして、進むとリンゴ園の側を通り、見事に実ったリンゴを見ることになった。田川を渡る「田川大橋」の手前に「りんご」直売所があり、年配のおばさんが一人で営業していた。たまらず一つ買って、店先の空き箱に腰掛けてかぶりついたが、甘くてとても美味しかった。
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田川大橋から100mほど先には八坂神社があり、また遊歩道が始まり、200mほど先には国道の向こう側(右側)に「地蔵堂」が見えた。
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国道を右下に見ながら気持ちの良い歩道が2Kmほど進む。杉の木の幹には赤く色づいた蔦が絡み付いている。
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左手に、赤い布で巻かれた地蔵さんが鎮座している。「うらない地蔵」である。地蔵の前に3個の石が置かれているが、そのいずれかを持ち上げて軽く感じれば願いが叶うといわれているそうだ。あまりに過大な願い事をすると石が重くなるのだろう。
次の信号を過ぎると、右側に新渡(にわたり)神社がある。新渡神社を過ぎると、宇都宮市から旧今市市(現日光市)となる。次は日光道中19番目の大沢宿である。
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2Km近く特にイベントも無い道を歩くと山口交差点に着き、その先で旧道は、国道と分かれて右側に入って行く。鬱蒼と茂った杉並木に入って行くと、左手に杉並木寄進碑がある。杉並木は武州川越城主だった、松平正綱・信綱父子が寛永2年(1625)から20数年をかけて紀州熊野から取り寄せた20万本余りの杉苗を、日光道中・壬生道・会津西街道の三街道の両側に延長37Kmにわたって植えたものである。この寄進碑は、日光神領との境界にあったので境石(さかいいし)とも呼ばれており、ほかに日光神橋の前、今市市の大桑、文挟にも建てられている。
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大沢の交差点で杉並木は途絶えるが、信号を過ぎるとしばらくして、また、杉並木が始まる。十分な歩道も無い国道から杉並木と遊歩道が始まると、本当にほっとする。杉並木は明治になったときに、経済的な苦境の助けとして伐採する話しが持ち上がったが、イギリス公使パークスの進言で止めたというが、本当によかったと思う。第二次世界大戦でも木材として使うため伐採の計画が持ち上がったが、反対の声が上がり2本のみの伐採で済んだ。
進んで、水無の交差点に向うと、歩道部が高くはなっていても畑が続いている感じで歩き難い。畑として有効利用されている気配も無いので、遊歩道として整備できればと思う。車道の左側は少しだけ広い歩行スペースとなっているので、途中からそちらを歩くことにした。直ぐ側を高速で通過する大型車に多少の恐怖を感じながらも・・・。
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水無の交差点の少し手前には、水無の一里塚がある。日本橋より32里目の一里塚である。杉並木の中なので、表示板が無ければ気がつかない様子である。
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水無の交差点から2Kmほど進んで森友の交差点に達すると、杉並木は途絶えるが、500mほど進んだ次の信号から、また見事な杉並木が始まる。車は一方通行で、時たま向こうからやってくる。直ぐ横が国道なので、この辺りの居住者以外の車は禁止すべきだと思う。
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気持ちの良い杉並木を1Kmほど進むと、右側に七本桜の一里塚がある。塚上の大杉の根元は大人4人程も入れる空洞で「並木ホテル」という名が付いている。空洞の中は真っ黒で、昔地元民がたき火をしたためといわれている。七本桜の地名のいわれは不明だが、七本の桜の木があったのだろうか。
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少し先には、七本桜の信号があり、その先には東武日光線が杉並木を横切って走っている。ようやく下今市の小倉町交差点にでる。日光例幣使街道追分である。左手には高さ2m程の大きな追分地蔵尊(石造地蔵菩薩坐像)がある。東日本有数の巨像で、日光市教育委員会の説明板によると制作年代は不祥であるが、8代将軍吉宗の日光社参の時にはすでに、この地にあったと記録されている。
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お地蔵さんに手を合わせた後は、時刻は14時40分であったが、今日はここまでとして、東武日光線の下今市駅に向った。15時20分発の快速浅草行きに乗り帰宅の途についた。電車内は日光を訪れた中年女性でいっぱいで喧しく、寝ることもままならず。

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2009.10.19

石橋から宇都宮

本日の万歩計46,6821(30.3Km)

今回は、前回より早く家を出て、石橋駅には8:10に着く。自宅のドアを出てから3時間だ。だいぶ遠くなってきた。
石橋町は、グリム兄弟の出身地であるドイツのヘッセン州ディーツヘルツタール(元シュタインブリュッケン(Steinbrücken)=英語ならStonebridge=石橋)と姉妹都市であるため、「グリムの里」として町おこしを進めたそうで、駅前にもグリム童話にちなんだ時計塔が立っている。駅前通りからふり返っても良く目に付く。
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下野(しもつけ)は「かんぴょう」が名産で、その看板を掲げたお店も何軒か目に付いた。国道4号線に出て、右折すると、直ぐに右手に「開雲寺」がある。天応1年(781)に東光寺として開山、文亀2年(1502)に開雲寺と寺号を変え、江戸期は将軍家の休憩所として境内に御殿が作られ、慶長9年(1604)には幕府より寺領7石を賜っている。
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境内には観音像が新設されていたが、山門には江戸期に設けられた丸や四角の銃眼や矢狭間が今も残っている。
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2Kmほど進むと、左手に「ジャンジャン、バンバン、ドンドン」と看板を掲げたパチンコ屋が目に付く。その少し先で、下古山の交差点を過ぎると、今度は「BIG MARCH」の看板を掲げた大きなパチンコ店。「BIG MARCH」の向い側は「下野警察署」だが、パチンコ店の方が堂々としている。本当にパチンコ店が多いのが、嘆かわしい。
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少し先には、甲冑を着た大きな武将像がある。韓国料理店で屋号「家康本陣」であったが、潰れたようだ。それにしても、派手で目につく建物だ。
目に付くといえば、ここにも大谷石作りの見事な蔵が建っていた。流石に大家石の産地の近くである。
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左手にこの地域名の元となった「鞘堂(さやどう)」がある。南北朝時代の1380年、南朝方となった小山義政が宇都宮基綱を破った時に、戦死者の鞘を集めて此処に埋めお堂を建てたという。この時には、基綱の一族三百騎余が全員討ち死にという壮絶な戦いであったとのこと。
その先の左側に小さな森があり、中に鞘堂の産土神の「星宮」神社が、ひっそりと建っていた。
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北関東自動車道を潜り次の信号を過ぎると、下野市から宇都宮市に入って行く。左側には陸上自衛隊の宇都宮駐屯所がある。昭和25年、旧軍需工場、関東工業?の跡地に創設されたもので中央即応連隊、第12特科隊、第5対艦ミサイル連隊等が駐屯しているとのこと。
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自衛隊駐屯地を過ぎたところに宇都宮社会保険病院があるが、その前には松が植えられれ松並木の様相を呈している。徐々に街道沿いに増やせればと思う。雀宮駅が近づくと、左側に脇本陣跡芦屋家がある。黒門は往時のままとのこと。
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雀宮駅への通りを右に見ながら、雀宮駅前の信号を通り過ぎると、右手に大きな馬頭観音があった。
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そして、雀宮地区の産土神の「雀宮神社」。長徳3年(997)、八幡太郎義家の創建。正徳3年(1713)に東山天皇から金文字で「雀宮」と書かれた勅許額が下賜され、今でも社殿に保管されているとのこと。お祭りの後なのか、地域の氏子の皆さんがハッピを着て、のぼり旗を下ろして後片付けをしていた。また、雀宮の謂れは「鎮めの宮」が転訛したとの説が有力らしい。
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宮の内二丁目の交差点を過ぎると、左側には自衛隊の北宇都宮駐屯地が始まる。この駐屯地には滑走路もある。航空機は飛ばないが、ヘリコプターが盛んに飛んでいる。大きな駐屯地が尽きる辺りの右手に菅原神社がある。菅原道真を祀った神社だが、境内のほとんどを地域の集会所に占領されている。
そして、1.5Kmほど進むと「一里」の交差点があり、ここは江曽島一里塚のあったところだが、遺構は何も残っていない。交叉点の名と、近くの酒店のIchiriyaに、その名残を残すのみ。
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「一里」の交差点を過ぎてしばらくすると、道幅が広くなり、やがて国道4号線が右に分かれて行き、直進している道路は国道119号線となる。地図には何故か東京街道と書かれている。119号線は宇都宮の大通りを過ぎると、日光街道の表記に戻っているので不思議である。そして、JR日光線を跨ぐ。単線である。
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不動前の交差点で119号線からも左に分かれて進むと、東武宇都宮線のガードを潜る。この辺りが、かつての宇都宮宿の木戸があったところである。直ぐ右手に蒲生君平勅旌碑(がもうくんぺいちょくせいひ)がある。君平は明和5年(1768)に宇都宮で生まれた学者・尊王家で前方後円墳の名付け親でもあったとのこと。明治天皇の命で、明治2年に宇都宮藩知事、戸田忠友奉行が、ここに勅旌碑を建立した。
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左からの道路が合流する三叉路を過ぎると、「蓬莱大黒通り」で細い道路沿いに寺の多い一画となる。三叉路から3つ目の信号で左に入ると「一向寺」がある。1276年宇都宮景綱が開基で重要文化財の本尊汗かき阿弥陀は、西隣の長楽寺(明治二年廃寺)にあったもの。宇都宮家に凶変がある時は仏体に汗が流れるという伝えがあったという。境内は墓地で埋め尽くされている感じであった。
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さらにその奥には、1639年宇都宮藩主奥平家昌の正室法明院が開山して、創建当時のままといわれる珍しい茅葺きの山門を持つ「報恩寺」がある。境内に戊辰戦争の官軍戦死者を弔った石碑が建っているが、お寺の中に堂々と鳥居が立っているのも珍しい。
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少し先には、小さな枡形があり、ここを過ぎると通りは材木町通りとなり、広く立派な道路となる。進んで行くと、右手にはユニオン通りの始まりが見える。お昼どきなのでユニオン通りに入っていって昼食をとった。
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材木町通りに戻ると直ぐに大きな丁字路になり、右折して進む。次の信号で左折するが、ここが日光街道と奥州街道の追分で、説明板が立っていた。せめて石碑にならないだろうかと思う。
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追分で左折すると清住町通りで、直ぐ右側に上野本家がある。江戸時代には油売業としてスタートし、その後副産物の油粕を肥料として農家に販売しながら肥料店として基盤を固めてきたようである。現在は株式会社上野の看板を掲げている。
この辺りは駐車場が多く、右方向にある延命院への道が分からず、うろついた。延命院の山門前には「蒲生君平先生少年時代修学の寺」と刻まれた石碑があり、中に入ると延命地蔵堂がある。享保年間(1716?35)の建立で、宇都宮市最古の木造建築物の一つとのこと。本堂の方に廻ると、黒色の犬が鎖に繋がれていて、激しく吼えられたが、誰も出てくる気配は無かった。
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街道に戻ると、左側には住居に挟まれて三峰神社があった。少し先は、また小さな枡形になっていて、右側に「琴平神社」と「桂林寺」が並んでいた。向って右側が四国の金比羅山を勧請した「琴平神社」である。
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左側は蒲生君平の墓や戊辰戦争戦死者の墓がある桂林寺の山門で、入って行くと端正な本堂があり、六角堂が配置されていた。蒲生君平の墓もあるとのことであったが、案内板がハッキリせず見つけられなかった。
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進むと、古くて立派な旧家の建物が建っていた。「食と空間の創造する店・たまき」の看板を掲げている。大きく「最中」の文字も見える。器と工芸品の店で、新しく出した最中も評判とのこと。道は松原二丁目で新里街道の追分となる。新里街道は左方向で、宇都宮から今市方面へ向かう道で、日光街道の杉並木を通らないバイパス的な道である。
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さらに進むと、松原三丁目の交差点である。少し複雑な交差点だ。写真は跨道橋の上から眺めたところである。ここから、また国道119号線を進んで行くことになる。進むと、ここにも立派な大谷石の蔵が建っていた。
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3Km近く日照りの厳しい国道を進んで宮環上戸祭町の信号に到達する。ここから先は桜並木となっていて歩道が一段高く遊歩道のようになっていて楽しくなる。基本的には桜並木であるが、もみじ、檜なども混じっている。
1Kmほど進むと、左側に「文星芸術大」のキャンパスが見えてくる。学校の創設は明治44年の私立宇都宮実用英語簿記学校創立に遡るが、大学としては平成11年開学で新しい。
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1.5Kmほど進むと桜並木が途絶え、釜川(かまがわ)の小さな流れを渡るが、ここで上戸祭から野沢町に入って行くことになる。野沢町に入って1Kmほど進むと左側に「光明寺」がある。江戸期は将軍の日光参拝時の休息所でもあったところである。
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創建は鎌倉時代で、源義経を慕う静御前が当地を訪れ納めた守本尊の薬師如来が、今でも安置されているという。立派な竜宮門があり、通ると自動でご詠歌が鳴り出したのにはビックリした。境内は植木の枝払いの最中であったが、「ぼけ封じ観音霊場」の表示があるのが、現在風でおかしかった。しかし、他人事とは言っておられない。
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光明寺を過ぎると、再び並木道だが、今度は檜が多く、徐々に杉も目立つようになってきた。そして、1Kmほど進むと「東北自動車道」と交差する。下を潜って進むことになる。
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だんだん、並木の植木も密度をまし、益々気持ちの良い道になってきた。信号を2つ通り越すと、ようやく徳次郎町に入った。時計を見ると3時を過ぎていたので、今日はここまでと「上金井」と書かれたバス停で宇都宮駅行きを待った。10分ほどでバスがやって来た。
20分ほどで、宇都宮の市街に戻ってきた。二荒山神社を訪れようと「裁判所前」でバスから下り、歩き始める。左下の写真は大通りの「本町交差点」である。駅のほうに歩いて行くと、左手に大きな真新しい鳥居が建っていた。延喜式内社で、下野国一宮である。
宇都宮の語源となった神社である。いちのみやが転訛して宇都宮となった説と中世の奥州攻めの時、武将がここで祈願したことから、討つの宮が宇都宮になったとの説があるようだ。
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長い階段が続いている。途中の踊り場から一層傾斜が急になる。上り終えて、旅の無事を祈る。二礼二拍手一礼。
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階段の上から眺めると改めて高さが感じられる。大通りに戻って、駅に向う。既に日も傾き、夕暮れも近い。だいぶ日が短くなったものだ。
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駅が近づき、田川のほとりにある宝蔵寺の特徴のある鐘楼門が見えて来た。鐘は宇都宮氏の寄進と伝えられており、「およりの鐘」と呼ばれていて、市の指定文化財と成っている。身分の高い人が訪れた際に、鐘をつくことからおより(お寄り)の鐘と呼ばれるようになったとのこと。
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宇都宮駅前の田川に架かる「宮の橋」を渡る。橋から田川を見ると、両側にサイクリングロードが設けられていて、夕暮れ近い川面には薄っすらと街の建物を映し出していた。
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ようやくJR宇都宮駅である。時刻は16:25であるが、駅前のモニュメントは、既にシルエットを写すのみである。
駅で列車の時刻を見ると、湘南新宿ラインの厨子行きが16:57で30分ほどあるが、乗ればゆっくり寝て帰れると、待つことにした。

2009.10.15

間々田から石橋

本日の万歩計47,331(30.8Km)

先週に歩いてから色々と用が重なりなかなか歩きに行けず、今日ようやく日光街道に出かけられることになった。
時間帯によっては、間々田駅まで湘南新宿ラインで、私の住む最寄り駅から乗り換え無しで行けるのだが、早朝では横浜と大宮で乗り換えて間々田駅に9:26着となった。早速、街道に出てと言っても、国道4号線を歩き始めることになる。
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乙女河岸で河岸問屋「車屋」を営んだ豪商小川家の国の登録有形文化財の米蔵が見えてくる。現在は小山市立車屋美術館となている。入ってみたい気はしたが、先を急ぐためスキップした。
次に、道の右側に現れたのは琴平神社で、この辺りが間々田宿の始まりだったようだ。しかし、境内はかなり荒れている。
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道路を真中に琴平神社の反対側には、龍昌寺がある。慶安4年(1651)4月20日に徳川三代将軍家光が亡くなり、4月26日にこの龍昌寺で遺骸を一泊させた。このため朱印7石を賜ったと石碑に刻まれていた。他に、一泊したのは、24日に粕壁・最勝院、25日は栗橋・福寿院、27日は鹿沼・薬王寺であったとのこと。また、江戸時代に、ここの住職が次に述べる「蛇祭り」を考案したという。
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間々田四丁目の交差点を過ぎると、左側に八幡宮の参道入口が見える。ここの八幡宮は、関東の奇習蛇祭り(じゃまつり)で知られていて、毎年5月5日に藁で作った長さ20m近くの蛇体を子供たちが 「蛇がまいた(ジャガマイタ)、蛇が巻いた、4月8日の蛇が巻いた」と囃しながら練り歩き、各町内の蛇が間々田八幡宮に集合し、神事や蛇の水のみ行事(八幡宮の池に蛇諸共に飛び込む)を行い各町内に散会する伝統行事がある。
その後、進むと右手に天理教会の大きな建物があるが、この辺りが間々田宿の終わりである。
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少し進んで2つ目の信号を過ぎると、左手に千駄塚古墳・浅間神社への小道がある。千駄塚古墳は関東最大の円形古墳で、直径70m、高さ10mで外周には環濠跡がある。頂上の平地には、浅間神社が建てられている。
築造年代は不明だが、6世紀代との見方が強いとのこと。
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粟宮南交差点の所に西堀酒造がある。明治5年創業の酒屋で「若盛」ブランドで知られた所で、大正時代の仕込み蔵を利用したアンテナショップがあり5種類の利き酒は無料とのこと。
「日光街道小山宿」ブランドの地酒も販売していて、造り酒屋の象徴の酒林(杉玉)が立派な屋根付の塔に収まっていた。
酒林は新酒が出来ると、未だ葉の青い杉で造った新しいものが吊るされ、新酒が出来たことを知らせ、時間が経つと酒林は黄変して、新酒の熟成状況を知らせることにもなっている。日光街道では始めて見た酒林である。
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1Kmほど進むと安房神社の参道入口が、左側にある。祭神は天太玉命(あまのふとだまのみこと)で、藤原秀郷が、平将門の乱の際に戦勝を祈って参拝し、将門を討ちとった後に多くの資材を寄進した。秀郷の子孫、小山氏も後に土地を寄進している。現存する拝殿の柱も小山氏が奉納したものとのこと。この後、直ぐに街道は国道4号線から右に分かれて、小山宿に入って行く。
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2Kmほど進むと、国道50号線の下をくぐる。神鳥谷(ひととのや)東の交差点である。難しい読み方である。そして、次の信号を過ぎると、左側に天満宮がある。昔からの村社である。
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さらに、1Kmほど進むと、左側に「須賀神社」の参道が見える。藤原秀郷が、平将門との戦いの戦勝祝いに天慶3年(840)に京都の八坂神社から勧請したもので、夏に行われる祇園祭は、日本一の大神輿の渡御で知られている。なお、藤原秀郷は平将門の討伐の功により、従四位下、下野守(しもつけのかみ)に任じられた。
200mほど進むと、右側に定光寺がある。幕末に大鳥圭介軍と新政府軍との戦いのあったところで寺の阿弥陀像の台座には当時の弾創が残っているという。なお、大鳥圭介は、戊辰戦争では主戦論を唱え、伝習隊を率いて江戸を脱走して宇都宮や今市、会津を転戦し、五稜郭で降伏し、投獄されるが明治5年に出獄の後、新政府に出仕し、後に学習院院長、駐清国特命全権公使、枢密顧問官を歴任して1900年、男爵を授けられた。
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古い民家を整備したのか、「小山市まちの家・思季彩館」と看板を掲げて、地元の特産品等を売る家があった。そして、駅前通にでる。右の写真は小山駅方面を撮影したものである。
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駅とは反対方向に左折して、小山城址に向う。歩道が広く電線も無く綺麗で歩きよい。国道4号線との交差点は、跨道橋が、十字に交差していて特徴的である。ここは、家康が上杉景勝討伐軍を率いてここまで来た時大坂で石田三成が挙兵したことを知り評定を開き、急遽大坂に戻ったところである。左手市役所前に小山評定跡の石碑があるとの事だが、見逃した。
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進むと、小山氏の祇園城跡では、今も発掘調査が進められていた。そして、徳川将軍家が日光参拝の折に休憩用として利用した小山御殿の広場である。御殿の造りは厳重で、周囲に濠を巡らし、土塁は二重になっていたという。
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小山御殿跡を通り過ぎると、思川(おもいがわ)が流れている。中世から江戸川と通じた舟運の盛んな川で、明治時代までその面影を残した。明治期には小山付近では舟遊びが盛んで屋形船がたくさんあったという。
架かっている橋は観晃橋で、橋の上から東照宮のある日光連山が見えることから付いた名である。美しい橋になっている。
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少し戻って、城山公園に入って行く。小山城は祇園城とも呼ばれ、藤原秀郷の築城と伝承されるが、詳細は不明。15世紀になり、秀郷の血筋の小山氏が関東の豪族領主として大いに威を張るが、関東管領の足利氏満に叛して滅亡。その後、室町幕府の配慮で同族の結城泰朝が第二次小山氏の祖となるが、9代目の政種に至り小田原の後北条に加担して秀吉の怒りに触れ、没収追放の身となって、第二次小山氏も滅亡する。江戸期に入り、本多正純が3万石で城主となるが、宇都宮に移封となり小山城は廃城となった。
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空堀に架かる祗園橋である。堀は10m以上とされていた。
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市の天然記念物に指定されている大公孫樹である。樹高15m、目通り6m、枝張り11×12mである。享和3年(1803)に書かれた文書(日光駅程見聞雑記)にすでに古木として紹介されているとのこと。
城跡公園から国道4号線を渡って街道に戻る途中で、とても立派な門を見かけた。日高と書かれた表札が掛かっていたが、民家の門としては、最高級ではなかろうか。
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嘉祥2年(849)、慈恵大師が室(むろ)の八島への途中、小山荘に一宇を建立し妙楽院と号したのが始まりと伝えられる「興法寺」。徳川家光より九石の寺領を寄進されたという。「室の八島」とは、平安時代までは下野国府西部の沼沢地で景観にすぐれた場所を指し、よく歌の枕詞として使われたところであったが、鎌倉時代になると本来の景観が失われ、国府付近の集落を指すようになったようである。
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道の反対側には、村社の愛宕神社がある。貞応2年(1223)、小山城主の小山朝政が鬼門守護のため京都の愛宕神社より勧請して創建された。
そして、面白い屋号のの蛸屋総本店がある。和菓子の専門店で、宮城県の仙台で和菓子店を営んでいた時、蛸の看板を掲げていたので、蛸屋と呼ばれるようになったとのこと。戦争疎開で小山に移転してきたという。
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蛸屋を過ぎて、途中で見つけた蕎麦屋で昼食をとり、1.5Kmほど進むと両毛線の踏切を渡る。もともと、生糸や桐生の織物を運ぶために栃木県の小山駅から群馬県の新前橋間につけられた鉄道である。今では、通勤、通学路線となっている。
また、2Kmほど進むと、左側に「日枝神社」の参道がある。参道の入口付近には、樹齢400年以上と推定されるケヤキの古木が立っている。
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喜沢東の交差点を通り過ぎて、直ぐに右の小道を入って行く。13番目の宿場・新田宿への入口である。それにしても細い道で、日光街道では一番細く、車が一台かろうじて通れる程度である。
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歩いて行くと、左手の森の入口付近に、一里塚らしき盛り上がりが見えた。新田宿の一里塚とは思うが、表示もなく定かではない。日光街道の旧道と言うが、表示など全く無いところである。1.5Kmほどで東北新幹線が高架で走り、その脇の地上を宇都宮線が走る場所にでて、その後はこの線路沿いに進んで行く。
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線路沿いの道は1Kmほどで終わり、斜めに離れて国道4号線に合流する。国道を1Kmほど進むと右手に、橿原神社への参道がある。江戸時代までの新田宿の氏神は星宮神社であったが明治5年、村人が神武天皇崇拝を希望し九州の宮崎神宮より勧請し、橿原神社となったとのこと。まだ、神への信仰が色濃い時代であった。
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1.5Kmほど進んで「スーパうおとみ」の駐車場を左に横切り、旧道に入り1.5Kmほど進む。住宅街の静かな歩き易い道路だが、歴史的な遺構は、全く残っていない。国道4号線の向こうには小金井駅があるので、新興住宅地域となってしまったのだろう。そして、こう言う新興地域では、古いものは全て捨てられるのが常である。それでも、旧道の終わりには、日光道中で唯一国指定史跡の小金井の一里塚が残っていた。2つの塚がほぼ完全な形で残っていて、ほっとした気持ちになった。
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国道4号線に復帰して進むと、左手に「慈眼寺」がある。入口脇には、にこやかなお顔の布袋様が鎮座していて、心がなごむ。
慈眼寺は、真言宗智山派のお寺で建久7年(1196)新田義兼の開基で新田一族の祈願所として建立され、江戸期は歴代将軍が日光社参詣の時、ここで休憩した格式のある古刹である。そのためか、屋根瓦や灯篭に葵の御紋が入っている。
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境内にある、観音堂、鐘楼も格式の高さを思わせるつくりである。
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「慈眼寺」の直ぐ隣には、小金井宿の鎮守である金井神社。そして、古い旧家が街道を偲ばせてくれる。
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国道を2Kmほど進むと、自治医大駅が右手に見えてくる。日光街道は、ここで左の小道に入って行くのが正しいのだが、Toku氏の勧めもあり街道とは離れるが、龍興寺の鑑真和尚碑と下野薬師寺跡を訪ねたく、直進して笹原の交差点を右折する。右折して、JR宇都宮線をくぐると、左手に自治医大付属病院の広大な敷地と建物が見えてくる。自治省の肝いりだけに、とても立派な病院である。
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2Kmほども車の通りが激しく歩道も無い道を恐い思いをしながら進む。ようやく、薬師寺四丁目の交差点に着き、その次の信号で右折する。道端に観音像が祀られており、龍興寺へと導いてくれる。ようやく「龍興寺」に到着すると、端正な形の本堂が建っていた。
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本堂脇には、いかつい姿の持国天?の像が立っている。そして、本堂の左側には女帝の孝謙天皇(後の称徳天皇)の病気を治癒して重く用いられた、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の墓所がある。天皇の崩御後左遷され、宝亀元年(770)下野薬師寺別当職として着任し、宝亀3年(772)4月7日この地で歿する。道鏡は、皇位を狙ったとする話しをはじめ、悪い話が多いが、称徳天皇の死をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活した事から、天智天皇系の皇位継承を正当化するために天皇と道鏡を不当に貶めるためという指摘があるようだ。
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山門の方に引き返すと、左手に自治医大の聖霊殿が建っていた。献体された人の供養のためだろうか。
そして、龍興寺に付属している墓地に入って行くと、一般の人々の墓石に囲まれて、鑑真和尚供養塔があった。752年に授戒僧として10年の歳月を費やして日本に渡ってきた高僧だが、唐の揚州江陽県の生まれで彼の地の龍興寺に属していたため、同名のこの寺に碑が建てられたものと思われる。石碑のとなりの菩提樹は鑑真がついていた杖が根を生やし大きくなったと言いつたえられている。碑は江戸期の建立か、高名な僧の碑にしては貧弱である。
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龍興寺を後にして、下野薬師寺跡に向う。途中に村社の八坂神社があり、色づいた柿が秋の深まりを伝えていた。
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下野薬師寺跡に到着する。下野薬師寺は白鳳期に天智天皇の創建とされ、天平時代には東国の授戒寺として500町の寺領を有する大寺院であった。左下の写真の奥の山門は安国寺であるが、門柱には「旧称下野薬師寺 医王山 安国寺」と書かれている。足利幕府が、薬師寺を安国寺としたためである。薬師寺伽藍の礎石も掘り出されて並べられていた。
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中に進んで行くと、江戸時代に薬師寺戒壇院址に建てられた安国寺六角堂がある。中の厨子に非公開の鑑真和上画像があるという。
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東大寺などの建物を参考にして西回廊の一部と礎石が復元されていたが、当時の規模の大きさが窺える。発掘された礎石などから、南北一直線に、南門、中門、金堂、講堂、僧坊が並んでいて、中門と金堂が東西の回廊で結ばれていた。また、その中に東金堂、西金堂塔が配置されていたのが判明している。
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少し日も傾いてきて、田園地帯を国道4号線に向って進む。祇園原の交差点で国道に復帰して、進むとドライブインの駐車スペースに栃木県トラック教会の大きな達磨が鎮座していた。
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急ぎ国道を1Kmほど進むと、丸大食品工場が見えてきて、その入口に夕日を浴びて大きな観音像がシルエットになって立っている。進んで行くと、下石橋北の交差点が見えてくるが、その直前の左手は国道に面した墓地だが、その一隅に石仏群が屋根で覆われ、大事に保存されていた。この辺りは「かんぴょう」の産地で、その別名から、この地点をかつては夕顔橋と呼んだそうだ。
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下石橋北の交差点を過ぎて進んで行くと、右手に塀のみならず蔵も家屋の壁も「大谷石」で作られた家があった。大谷石の採石場に近いことを思わせる。
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本町交差点を過ぎると、石橋宿で直ぐ左手に、石橋宿の産土神である愛宕神社がある。天平宝字3年(759年)に創建された。石橋駅入口の交差点に急ぐが、この石橋の街も電線を地下に埋めて整備され美しく歩き良い通りとなっている。
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ようやく、石橋駅に到着した。駅前の時計台が夕暮れに佇んでいる。時計を見ると17:10であった。急いで改札を通り、ホームに降りて行くと、17:10発の湘南新宿ラインの厨子行きが出た直後。残念。15分ほど待たされ、小金井駅でまた、20分ほど待たされ厨子行きの始発に乗り心地よい疲労にともなう睡魔に襲われながら帰宅した。
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2009.10.09

杉戸から間々田(その1)

本日の万歩計49,579(32.2Km)

今回は、東武伊勢崎線の杉戸高野台駅よりJR間々田駅まで歩いたが、歩行距離は30Kmほどで、記載したい写真も多く、エントリーを2つに分けた。(その1)は、杉戸から古河市、中田までである。
杉戸高野台には7:30に着いたが、国道脇のマクドナルドで腹ごしらえをしてから歩き始めた。この辺りは他にもレストランが多いが、早朝で開いているのは、マクドナルドのみであった。
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歩き始めると、直ぐに東武日光線の踏切を渡り、その後、少し進むと幸手市南公民館がある。その前に、大正8年制定の旧・道路法にもとづく上高村道路元標があった。現在では、法律上の道路元標の規定はないが、東京日本橋の真中のみが歴史的経緯もあり、道路元標が置かれている。
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1.5Kmほど進むと、交通量の多い道路に突き当たる(歩いてきたのは写真左側の道路)が、ここが、将軍家が日光参拝に使用する日光御成道との合流点である。いつか御成道も歩いてみたいと思う。
合流点から少し進むと、左手に神宮寺がある。頼朝が欧州征伐の時、ここで鷹狩りをし、薬師如来に戦勝祈願したとのこと。中世は大きな寺で、この辺一帯の地名が神宮寺村と呼ばれるほどであったという。寺の山門前には、夥しい数の古い石仏が並んでいた。
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再び、東武日光線の踏切を渡って進むと、倉松川をわたり、直ぐ右手には神明神社がある。境内には明治7年に導入されたイギリス式の栃の水準点記号(几号水準と呼ばれ”不”の字形に似た記号)が刻まれた何かの礎石がある。
神明神社を過ぎた次の信号が幸手駅への入口であるが、そのまま真っ直ぐ進んで行く。
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進んで行くと、道路の右手にポケットパークと称する小公園があったが、ここが問屋場跡との由。そして宿の終わり近くには大きな常夜燈がある。見るからに新しそうなので、最近作られたものと思われる。
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荒宿の交差点を過ぎて、道路は右に大きくカーブする。この道路は次の信号で左折するが、真っ直ぐに続く細い道路を進み、国道4号線を跨道橋で渡る。写真は跨道橋から見た日光方面である。進んで行くと、権現堂川の名前の由来となったと言われる熊野権現社がある。昨日の台風のためか、夥しい銀杏の実が落ちていた。
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熊野権現社の前を通り、権現堂堤に登ると、見事な桜並木が1Kmほど続く。権現堂川は昭和初期の利根川の改修で廃川となったが、その権現堂川の堤である。かつては利根川の本流が流れており江戸の洪水予防用として築かれた堤であった。
少し進むと、母子巡礼の碑がある。説明板によれば、
享和2年(1802年)、長雨のため水位が高まり終に堤が決壊した。土手の修復に当たったが、激しい濁流で工事が進まずにいたその時、通りかかった巡礼の親子が自ら人柱を申し出て、逆巻く流れに身を投じ、工事が出来るようなった。これに対し、巡礼親子をが工事は無駄だといったのに怒った人夫が親子を川に投げ込んでしまったという説もある」と書かれていた。どうも、通りかかった巡礼親子を無理やり人柱にしたのが本当らしいが、何れにしろ、人身御供となった巡礼親子を供養するために昭和8年に建立された碑である。
側に歌碑、
そよ風に 花びらは舞う 巡礼の 碑かこむ 堤の桜」 郷子 
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それにしても、気持ちの良い桜堤である。途中にはトイレもあり、大勢の人が、ウォーキングやジョギングを楽しんでいる。桜の季節は、河川敷に植えられた菜の花の黄色とも相まって見事な景観を示すという。そして、桜堤の最後は、「明治天皇権現堂堤御野立所」の碑で終わる。
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中川を明治天皇の行幸にちなんで付けられた、御幸橋で渡り、直ぐ左に折れて進む。静かなたたずまいの街道が続く。
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進んで行くと、外国府間(そとごうま)という地域である。読みが難しい地名である。安永4年(1775年)に建てられた古い道標があった。石碑の正面には「右津くば道」と書かれていて、左側面には「左日光道」と書かれている。やがて旧街道の正面に雷電社湯殿社の合殿がみえてくる。現在の建物は平成13年に不審火で消失して、再建されたものとのこと。
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歩いて行くと、小右衛門村の一里塚がある。江戸から14番目の一里塚とのこと。塚の上には権現堂川に建っていた弁財天堂が移設されているが、権現堂川の改修時に弁財天堂の始末に困り、私有地でない場所ということで選ばれたのだろう。が、そのお堂も老朽化して貼られたビニールシートも劣化して用をなさず、全くかえりみられていないと思えるのは残念である。そして、行く手に「南栗橋」への道路のガードが見えてくると、その直前で右側のガードで国道4号線をくぐる。
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ガードをくぐると、権現堂川の水面が大きく広がる。権現堂川は、現在では閉じられた水系で、北端には利根川へ給排水する川妻給排水機場、南端には中川へ給排水する行幸給排水機場が設けられているにすぎない。そこで、閉じられた水系に伴う、富栄養化を防ぐため、超音波の振動を利用したアオコの除去吸引装置が随所に設置されている。向こう岸にはキューピーマヨネーズの大きな工場が見える。
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スポーツアミューズメントと称する「ラウンドワン」の大き建物が見えてきて、通り過ぎると国道に復帰し、300mほどで左に入って行く。その入口には「栗橋大一劇場」の大きな看板が見えるが、潰れたようである。この劇場は、栗橋ではゆかりの深い静御前より有名と言われたストリップ劇場で、交通の便が悪いが東京、大阪の劇場ともつながりがあったという。しかし、人気の高かった劇場も不況の波には抗しかねたのだろうか。
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1Kmほど進むと、「会津見送り稲荷」がある。会津藩の武士が江戸に書面を届けるためここまで来たが、地水のため通行できず、道が分からなくなったときに白髪の老人が現れて、道案内をしてくれた。また一説には書面を紛失し、死を決した時、狐の化身である白髪の老人が現れて死を思い留まらせたとも伝えられているという。その舞台となった茶店跡に稲荷神社が建てられたが、今では民家の庭先の神社のように見える。
進んで国道125号線をくぐると、ほどなく広い道になる。栗橋町である。街道右側に顕正寺がある。栗橋宿を開いた名主池田鴨之助の墓のあるお寺である。街道は市街地を通って真っ直ぐに続いている。
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市街地を進む道路が突き当たる場所には、八坂神社がある。元は牛頭天王社で、栗橋宿の鎮守であったが、明治維新になり、現在の八坂神社と改称された。ここの神社では狛犬では無く、鯉が飾られている。一対の鯉には「除災の鯉」、「招福の鯉」と書かれていた。
今までに、浦和の「調神社(つきじんじゃ)」の「うさぎ」にお目にかかったが、鯉は初めてである。
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八坂神社から少し戻り、利根川方面への細い道に入って行くと、「栗橋関所址」の碑がある。東海道の箱根、中山道の碓氷と並ぶ関東三大関所の一つであった。そして、利根川橋を渡って茨城県に入って行く。
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利根川は、昨日の台風の影響か水は濁っていた。そして、風が非常に強い。これも台風の余波であろうか。
橋を渡り終えて、左折して川に沿って100mほど進み、右折して中田宿に入って行く。500mほどで、左手に「鶴峯八幡宮」がある。源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮の神主高橋氏に創建させたという。その後、天福2年(1234年)には下総一の宮である香取神宮も祀って、八幡と香取の相殿となったとのこと。お昼時間だが食堂は見つからず、ベンチに座って休憩を取りながらコンビニで買った菓子パンをほうばる。
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街道に戻ると、直ぐ隣に「光了寺」がある。光了寺は静御前のゆかりの寺で、静御前が後白河上皇から下賜された蛙螟龍(あまりゅう)の舞衣が今でも保存されていて、寺宝となっているという。また、過去帳には静の戒名として「巖松院殿義静妙源大姉」が残されているという。鎌倉から開放された静御前が、どのような歩みを辿ったかは、定かでないが奥州に向った義経を追い、栗橋あたりで悲報に接し、尼となったが僅かの時をおいて、この地で亡くなったと言われているようである。
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少し先の道路の右側には、立派な本堂の「本願寺」がある。街道は進んで、次の宿に向う。
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杉戸から間々田(その2)

JR東北本線(宇都宮線)の中田踏切を渡ると古河市茶屋新田である。
踏み切りを渡って直ぐに、うどん屋さんがあり、ようやく昼食にありつけた。時刻は12:18であり、この辺りには他に食堂はなく、ボックス席でゆっくりしたかったが、込み合っていて、カウンター席しか空いていなかった。
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広い真っ直ぐな道が、4Km以上も続く。松も植えられ将来の成長が期待される。長い直線道路も終わり僅かに左にカーブして国道354線との交差点を過ぎると、左手に「古河二高」が見えてきて、その校庭には「古河一里塚」がある。校庭内であり、道路が少し低く切り下げられているので、なんとも見え難い一里塚である。
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1Kmほどで、古河の市街に入って行く。道路の左側に「日本三長谷観音参道」と書かれた石碑が立っている。小道に入って直ぐにの左手に、大きな楓(かえで)の木が塀の上に覗いていた。古河市指定の名木古木とのこと。たしかに、これほど太い楓の木は見たことが無い。
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500mほど進んで、ようやく「長谷観音」にたどり着いた。長谷観音は、古河城の鬼門除けとして明応2年(1493年)に古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請したもので日本三大長谷観音の一つと言われている。そして、引き返し、途中で左折して「古河歴史博物館」への通りに入って行く。右の写真に見える古河城の家老鷹見宅跡の塀のたたずまいが、良い雰囲気を醸し出している。
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古河城の家老であった鷹見泉石(たかみせんせき)の屋敷跡が、今は鷹見泉石記念館として公開されている。鷹見泉石は古河城主の土井利勝に仕えたが、「土井の鷹見か、鷹見の土井か」といわれるほどに、その能力は賞賛を受けた。また、蘭学者でもあり、ヤン・ヘンドリック・ダップル(Jan Hendrik Daper)という蘭名も署名に用いているとのこと。
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鷹見泉石の屋敷を出た左手には、古河歴史博物館がある。涼しげな噴水で、霧になった水滴が噴出している。古河城の大部分は、渡良瀬川の改修工事によって水没して、古河城出城に当たる、諏訪廓跡に建てられたのがこの「古河歴史博物館」とのこと。時間の関係で入館しなかったが、建物の外観、庭の造りも洗練されている。

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博物館から古河文学館の方に進む。途中の水路は、元のお濠(ほり)を思わせるもので、新たに整備したのであろうか。そして、古河文学館の前を進んで行く。
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街道に戻るため、古河第一小学校の前を通る。レンガ作りの立派な校門である。周りの緑の樹木とも良くマッチしている。
そして、ようやく、本町二丁目の交差点に出た。この辺りが市街の中心らしい。古河駅入口は、次の信号である。
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古河駅から帰宅することも考えたが、時刻は2時半であるので、次に進むことにした。歩いて行くと、歩道に「左日光街道」の石柱が立っていて、左折の場所を示していた。枡形の始まりである。
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道路は花形のレンガを敷き詰めて、心地よい雰囲気を出しているが、街道には不似合いな「ないものはナイ」の派手な看板の雑貨屋があった。この雑貨屋を過ぎて、右折して、「よこまち柳通り」に進んで行く。
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まず、目に付くのが、明治初期の建物の「うなぎ料理の武蔵屋本店」である。食事どきに通ったら、是非入ってみたいお店である。歩道には、ところどころ休憩のための石の椅子と水飲み場までも配置されていて、旅人の便を図っている。
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「若杉鳥子」の文学碑があった。寡聞にして若杉鳥子は知らなかった。調べると、豪商の妾腹の子として明治25年(1892)、東京に生れ、古河町の芸者置屋の養女となるが、学齢まで貧農に里子に出され、尋常小学校4年卒業後は芸者の修行をさせられるなど、厳しい人生を余儀なくされた。しかし、12歳のころから、「女子文壇」「文章世界」などに投稿を始め17歳の時、中央新聞の記者を経て雑誌記者なども歴任。女子文壇の投稿仲間の水野仙子、生田花世、今井邦子らと交友を結び、19歳の時板倉勝忠と結婚。その後、プロレタリア作家としての評価を受け、宮本百合子、佐多稲子らと「働く婦人」の編集などに従事。昭和12(1937)年病没した。
文学的な才能に恵まれたのが幸いであったが、まだまだ女性には厳しい世相であったのであろう。
そして、4枚の大きな屏風風のモニュメントでレンガ敷きの道路は終わるが、道はまだまだ続く。
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大きな道路にぶつかると、古河宿も終わりで、松並という地名の地域に入って行く。名前の通り、昔は松並木が続いていたそうだが、今は全く気配もない。1Kmほど進むと、左側に「ザ・カナルハウス」という洒落た建物がある。ウエディングパークだとのこと。
続いて、「マーケットシティー古河」の名の郊外型の大きなショッピング施設群がある。
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少し先には、左に「野木神社」の長い参道が見える。本殿は1Kmほど先なので、参拝はスキップした。街道が続いて行く。
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野木宿の木戸があった場所が示されていた。せめて石碑ぐらいは、建てて欲しいと思う。そして大きな「十九夜」の大きな石碑が立っていた。大きくて立派だ。中山道を歩いた折には「二十三夜」の石碑を良く見かけたが、この辺りは「十九夜」が多いようである。
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「十九夜」の石碑に感心していたら、そこは「満願寺」の入口であった。この寺は野木神社の別当寺だったという。
それから200mほどで、浄明寺がある。
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さらに進むと、古い道標が立っていたが、風化が激しく文字は読めなかった。説明書きによれば、「是より大平」と刻まれているとのこと。例幣使街道の栃木宿太平山に抜ける道で日光道中の裏道ともなっていたという。
道路が、緩やかに右にカーブする手前で、少し奥まったところに「観音堂」があり、入口付近には、江戸時代の石塔群が立っていた。「日光道中絵図」にも描かれている名所であったとのこと。
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野木松原の交差点の手前に、門構えの立派な農家があった。昔の豪農でもこだれけの家は無かったのではなかろうか。ともかく、この辺りの農家は立派な家が多い。
その後、友沼の交差点、役場入口の信号と2Kmほど進むと、道路の左側に「法音寺」がある。法音寺は立派な2つの山門を備え、その間には弘法大師像があり、見事な本堂であった。また、芭蕉の「道ばたの むくげは 馬に喰われけり」の句碑が立っていた。「道ばたの・・・」は「道のべの・・・」とする諸本も多いと説明板に書かれていたが、小生も「道のべの・・・」と憶えていた。
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道路の右側には、「友沼八幡宮」があり、日光参詣の途次、ここで将軍が休憩したところであった。古河を出た一行が最初に休憩する場所で筑波山が正面に見える景勝地であったとのこと。
進んで行くと、道ばたにも小さな鳥居を備えた、2つの小さな石の祠があった。小さくとも、これだけ立派なものを見るのは初めてである。
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さらに1Kmほど進むと、左側に「若宮八幡宮」があり、境内に大日如来坐像がある。説明板によれば、宝永6年(1709年)、江戸湯島の渡邊九兵衛が父母の供養のため鋳造しその生国に安置したと伝えられている。戸外に安置されていたため濡れ仏と呼ばれていたが今は立派な屋根が造られている。
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時刻は午後4時半を過ぎ、流石に足も悲鳴を上げ始めた。また、1Kmほど進むと、300mほど奥まったところに八幡宮があるが、訪れるのはスキップし、一の鳥居を撮影していたら、子供が2人自転車で飛び出してきた。なるほど地図で調べると、神社境内に乙女小学童保育クラブがある。さらに、乙女八幡宮の右側の道路を1Km程西へ向かうと思川(おもいがわ)の乙女河岸(かし)があったところで、元和2年(1616年)、日光東照宮の造営が始まると思川は御用川となり、江戸より運ばれた資材は乙女河岸で陸揚げされ、小山宿経由壬生街道で日光へ運ばれた。
それ以前には、関ヶ原の戦いの前の小山会議の後家康が、この乙女河岸より船に乗り急遽江戸に戻ったとの記録もあるとのこと。古くから船の便の発達したところで、その後も、江戸との船運の要地で、商取引の中心であったとのこと。道路の反対側には大きな寺名碑の「佛光寺」が静かな佇まいを見せていた。
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さらに、境内には一休さんの像とおぼしき石像が置かれていた。中山道で鴻巣を歩いたときの「箕田観音(みたかんのん)」でも同じ石像にお目にかかった。その後、ようやく間々田駅入口の交差点にたどり着き右折して間々田駅に到着した。
いままでの日光街道歩きでは東武鉄道を利用していたが、ここはJRの東北本線(宇都宮線)である。幸いにも、湘南新宿ラインの厨子行きの列車が入ってきて、私の住んでいるところの最寄り駅(東戸塚)まで、全く乗り換え無しで帰ることができた。疲れて睡魔に襲われながらも、ゆっくりと休みながら帰宅することが出来たのである。
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2009.10.04

草加から杉戸高野台

本日の万歩計50,302(32.7Km)

先週から秋雨前線による雨模様の日が続いて、やっと今日久々歩きに出かけられることとなった。横須賀線に乗り錦糸町で乗り換えて草加には7:00に着き、早速歩き始めた。
草加の駅前通りは、日曜日の早朝でまだ、ひっそりしていた。旧道に進んで街並みを見ると、やはり駅前との違いが際立つ。古きよき街並みである。
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草加煎餅は、草加松原で”おせんさん”という女性がやっている茶店で、売れ残った団子を平らにして天日に干し、焼き餅を作ったのが始まりと言われている。その「おせん茶屋」跡に休憩所が設けられており、日光街道の石碑も立っていた。

soka_06.jpg次に現れるのは、草加宿を開設した大川図書が慶長11年(1606年)に創建したという東福寺である。立派なな四脚門で、境内にある鐘楼も龍の彫り物のある立派なもので、共に市の指定文化財となっている。ちょっと残念だったのは鐘楼の前に白線が引かれて駐車場となっている事であった。

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何軒かの草加煎餅の店があったが、早朝で、まだ閉まっていた。宿の終わりには草加の鎮守の神明社があり、道は大きく右にカーブしている。ここが草加宿の枡形のあった所である。
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宿を抜けて県道に合流すると、「草加せんべい発祥の地」の大きな石碑があり、周りも宿にちなんだモニュメントを作るための作業中であった。
そして、伝右川(でんうかわ)を渡る。
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伝右川を渡ると、右側の「綾瀬川」の川べりに小公園が作られている。ここが「草加の札場河岸跡」である。穀倉地帯であるこの地より、米を江戸に運ぶ重要な拠点であり、望楼も再現されていた。
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松尾芭蕉のブロンズ像が立っていた。奥州に向けて江戸・深川を船で発ち、千住より歩いて最初の宿がここ草加宿で、「その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着けにけり」と書かれている。
その後、綾瀬川沿いに続く1.5Kmは遊歩道として整備されていて、美しい松並木が続く。県道を跨ぐ「矢立橋」と名付けられた橋がある。
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矢立橋の頂上に立つと、見事な松並木が続いているのが良く見える。大勢の人が、散策をしたりジョギング、ウォーキングに汗を流していた。
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歩いて行くと「百代橋」と名付けられた第二の橋がある。そして、松尾芭蕉文学碑も建てられていた。本当に気持ちの良い道で、日本の道百選に選ばれているのも頷ける。
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さらに進むと、水原秋桜子(しゅうおうし)句碑もある。草加の地名を読み込んだ作品4句の内、草加煎餅の句を選んだと説明にあった。句碑には「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり」と刻まれていた。秋桜子は本名水原豊(明治25年生)で医師であり、俳人であった人である。綾瀬川を眺めると、太公望が糸を垂れているのが見えるが、水があまり綺麗には見えないのが気にかかる。
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長かった綾瀬川堤防の遊歩道も終わり、上を東京外環道路が走る「重ね橋」のさらに下をくぐる。越えると、芭蕉の記念のタイル絵が作られていた。
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蒲生大橋で綾瀬川を渡る。川は水量が多く、ゆっくりと流れて行く。
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橋を渡ると、日光街道唯一残っている「蒲生の一里塚」がある。もう、形は崩れていて、枯れ木が残っているに過ぎない。横に小さなお堂があり、その前に植えられた銀杏の木の方が太く、大きく育っている。
蒲生茶屋街道と名付けられた川沿いの道を1Kmあまり進むが、かつての街道の面影は全く無い。そして、車の通行の激しい県道に合流する所に「清蔵院」がある。この山門の龍は左甚五郎の作と伝えられ、市有形文化財になっている。山門の龍が金網で覆われているのは、龍が夜な夜な山門を抜け出し畑を荒らしたためという伝承が残されているとのこと。
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車の多い道路を2Kmほど進む。ただひたすら歩くと、武蔵野線のガードが見えてきた。ガード直前で左に入ると東武線の新越谷駅である。
この辺りは、本当に歴史的な遺構が残されていない。その後3Kmほど進んで、「照蓮院」に行き着く。この辺りは瓦曽根という地域名である。
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寺の説明板には「天正10年(1582年)武田家滅亡の際、家臣の秋山信藤とその次男長慶が武田勝頼の遺児千徳丸を伴い、ここ瓦曽根まで逃れて匿った。しかしながら千徳丸は早世してしまい、秋山長慶が照蓮院の住職となって菩提を弔ったという。墓地には千徳丸の供養のために建てられた五輪塔が残る」とある。秋山家はその後も現在に到るまで、この地で続いているようで、秋山家と書かれた真新しい墓石も建っていた。「照蓮院」を過ぎると直ぐに旧道が左に分かれて越谷宿に入って行く。やれやれだ。
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越谷の街並みには、ポツポツと古い建物を残している。今も営業してる「白屋旅館」、大正5年(1916年)建築の旧越谷郵便局を使っている横田診療所がある。
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立派な蔵を備えた塗師屋。昔、呉服屋で漆も扱っていたという。そして写真右は、明治以前は鍛治屋であり、現在は雑貨を扱う鍛冶忠商店。
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越谷の町外れで元荒川を大沢橋で渡る。元荒川と言えば中山道を歩いたとき、熊谷で源流を見て「ムサシトミヨ」という元荒川源流付近のみに生息する貴重な川魚がいることを知った。そして、現在の東武伊勢崎線にまつわる町ならば北越谷に入って行く。駅前の高いビルが目に付く。
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東武線のガードをくぐり進むと、静かな住宅街が続き、垣根になんと「あけび」が実っている家があった。誰に取られることも無く、道路に落ちて散らばっていた。そして再び東武伊勢崎線を今度は、踏み切りで渡る。
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本当に、歴史的な遺構に乏しい。その後、東武伊勢崎線の駅名で記すと、大袋、せんげん台、武里、一ノ割と進み、ようやく粕壁宿の入口にある「東陽寺」に着いた。東陽寺は芭蕉が泊まったお寺である。奥の細道では草加に泊まったことになっているが随行した弟子の曽良の日記には粕壁となっているとのこと。お寺の住職の奥さんが、子供を境内で遊ばせていた。3歳程度の子供が、大きな声で挨拶してくれたのにはビックリした。
粕壁を春日部の字になぜ変えたのかは知らないが、今は近代的で美しい街並みである。電線を地下に埋設すると、これほどスッキリするのかと思う。街灯のデザインもよい感じだ。
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春日部の町外れには名刹で「最勝院」の名の大きなお寺がある。ここには、後醍醐帝に仕え元弘の乱に功をなし、上総の国山辺南部と粕壁の地頭に任じられた春日部重行が葬られている。重行は足利尊氏と交戦して破れ、京都の修学院で自刃したが、遺骨はここに持ち帰られ葬られたとのこと。本堂の左手奥に「従四位市祖春日部重行公之墳墓」の石碑の立つ盛り土があり、大きな木が茂っていた。
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「最勝院」を後にして古利根川を新町橋で渡る。1Kmほど進むと、関宿への追分に達する。正面には「青面金剛」と書かれており、左側には「左日光道」と刻まれた石碑がある。右側は風化のため読めない。
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直ぐに国道4号線と合流するが、500mほど進むと、国道の左側に「小渕の観音院」がある。観音信仰の古刹で、境内には芭蕉の「ものいえば 唇寒し 秋の風」の句碑がある。しかし、山門などは老朽化がかなり進んでいる。
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さらに、500mほど進むと、杉戸町の入口でパーキングエリアの片隅に北緯36度の大きな地球儀のモニュメントがある。ネーミングを募集して、中学生のアイデアの「すきすきすぎーと36」が採用されたとのこと。なお、この辺りは江戸期は杉の木が茂っていて、杉の渡と呼ばれていたのが転訛して杉戸となったらしい。
進んで行くと本郷の集落で、道端に天明4年(1784)堤根村の農民42人が協力して建てた道しるべの石碑が立っていた。ここは、向かいの高野家が立場を開いていた場所でもあり、大勢の人が休憩して石碑を眺めたと思われる。また、農民でも石碑を建てる余力があったのが窺える。また、古い家屋も残されていた。
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再び現在の日光街道に合流して、堤根に入って行くと、左手に真新しい「馬頭院」がある。正確には「旦照山馬頭院観音寺」であるが、本尊は伝教大師作と伝えられているが、制作年代、沿革等は不明とのこと。門前には弘法大師の銅像もある。
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また、国道4号線と分かれて、清池に入って行く。杉戸町では65歳以上は無料の入浴券を差し上げると書かれた「巴湯」という銭湯があった。老人福祉を兼ねた銭湯維持政策なのであろうか。
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東武伊勢崎線の最寄り駅は東武動物公園前である。時々見かける古い家は蔵を備えて立派であり、かつての繁栄を窺わせる。
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杉戸宿の最後は道路が右にカーブしているが、これも枡形の跡である。「宝性院」というお寺がある。この寺は幸手城主一色宮内大輔義直が亡妻の菩提を弔うために永禄3年(1560年)に建立されたとのことで、明治になって一時杉戸学校も置かれたとのこと。ここで、かなり年配の方が一人で、山門前で三脚にフィルムタイプの立派な一眼レフカメラを乗せて自己撮影していた。自転車で走っているとのことであった。
その後、また国道に合流して2Kmほど進むと、杉戸高野台駅への入口である。時刻は午後3:30分で、今日はここまでとして駅の方に向った。ここは、もう東武日光線の駅である。幸いにも地下鉄半蔵門線に乗り入れている急行がやってきて、錦糸町乗換えでスムーズに帰宅できた。
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2009.10.01

日本橋から草加

本日の万歩計40,581(26.4Km)

先日来、雨の日が続いていて、なかなか日光街道のスタートが切れなくてイライラしていたが、今日は曇りの予想で10月1日で日にちも良し、さればと歩き始めた。
もう、5回目のスタートを切る日本橋である。今回はもう8時を過ぎており、道路元標を真上から撮ることは危険なので、歩道から斜めに撮影した(赤い矢印)。そして、お定まりの角度からの撮影。鳩が沢山群れていて、逃げない。
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そして、日本橋のシンボルとも言える三越日本橋店である。延宝元年(1673)に呉服店「越後屋」として創業し、戦前の三井財閥の基礎を作った三越も業績悪化に苦しんでいるようだ。なんとか、頑張って今後も続けて行って欲しいものである。
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重厚な三井信託銀行のビルを過ぎて、右折して大伝馬町通りに入って行く。職場に急ぐ人々を見て、少し後ろめたい気がする。
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ホテルギンモンド東京の前に「旧日光街道本通」の石碑を見て、次の角を左折して、伝馬町牢屋敷跡である「十思公園」に向う。寛永8年(1711)に鋳造され、都の重要文化財である「時の鐘」がある。伝馬町で処刑が行われる時はこの鐘の音が合図になったそうで、鐘撞(かねつ)きの辻源七という男はそんな時、わざと遅らせて鐘を撞いたという。
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「十思公園」内には、「松陰先生終焉の地」の石碑がある。吉田松陰は渡米を企て、精々が島流しと誰もが思っていたが、井伊大老の一言で断首に処せられたのである。
元の街道に戻って大伝馬町を過ぎると馬喰町で、衣料の問屋街である。「小売お断り」と書いた貼り紙の店も多い。
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衣料の問屋街を抜けると、浅草橋である。屋形船が多く係留されている。江戸期は新吉原へ向かう猪牙船(ちょきぶね)がここから出船して、遊興客が集い船宿や料亭が建ち並んで大いに賑わったとのこと。
進んで、総武線のガードをくぐると、有名な人形の「秀月」、「久月」がある。早朝でまだ閉まっていた。
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厨橋に寄り道すると、吾妻橋の脇にある特徴的なアサヒビールのビルが見える。「炎のオブジェ」が屋上に乗っているが、口の悪い人は「○んこビル」と呼ぶ。
元の街道に戻ると、駒形町で、創業は1801年の「駒形どぜう」がある。徳川11代将軍、家斉公の時代である。「どじょう」は当時は「どぢやう」と書くのが普通であったが、文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらった。これが、評判を呼び、店は大繁盛したとのこと。
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浅草寺の雷門に到着した。日光街道とは外れるが、仲見世通りを通って進んで行く。聞こえて来る話し声は、中国語ばっかりである。恐らく80%程度は中国からの旅行者ではないだろうか。
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「宝蔵門」をくぐれば、浅草寺の本堂である。
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本堂は修復中で、シートで覆われていて、全貌は見えない。本堂から右に出て、五重塔を眺めて、隅田公園の方に進む。
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進むと「花川戸公園」があり「姥ヶ池」の碑が建っていた。この辺りは、浅茅が原とよばれていて、その中の一軒家に老女と若い娘が住んでいた。旅人に宿を貸しては深夜になって旅人を殺し、金品を剥ぎ取っていたが、殺された人が 999人になったとき浅草観音は若者に変装して老女のところに泊まった。老女はいつもように若者を殺して、明かりをつけてビックリ、殺した相手は旅人ではなくて自分の娘だった。老女は大いに嘆き、仏眼を開いて悔い、大きな竜となって池の中へ消えていったという。
隅田公園を進んで川の堤防に上ると「言問橋」で、船が波を立てながら進んでいた。
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滝廉太郎作詞の「花」の歌碑が建っていた。ホームレスの人々もチラホラ見える。「待乳山聖天(まつちやましょうぜん)」が近づく。聖天の立地は10m程度の低い山上であるが、周りが平坦なため、江戸時代にはここから見る隅田川の眺望が良く江戸名所の一つであったとのこと。良縁成就、夫婦円満、そして商売繁盛のご利益があるとして広く信仰を集めてきたというが、現在でもお乳の出るように祈る女性が多いとのこと。
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入口には「子育て地蔵」として伝承されている「歓喜地蔵」もあり、年配のご婦人が熱心にお祈りしていたのは、孫のためだろうか。
少し先で、今は埋められてしまった「山谷掘」を横切る。吉野橋の名の橋柱が残っている。「山谷掘」は、江戸期は「新吉原」に通う舟で賑わったというが、今は公園になっている。
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東浅草交番前の信号を過ぎて、次の信号を左に入ると「東禅寺」があり、江戸六地蔵の一つの大きな地蔵が鎮座している。左側には「木村安兵衛夫妻銅像」がある。木村安兵衛は、日本のパン作りの元祖で、明治2年木村安兵衛が東京芝日陰町に「文英堂」を開業し酒種あんぱんを考案した。店は現在に伝わり今も、銀座の木村屋総本店の他随所に店を開いている。
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1Kmほど進むと「泪橋」の交差点である。昔はここには思川(おもいがわ)が流れていたが、今は暗渠になり交差点の名前として橋の名前が残っている。品川も鈴が森の刑場が近づいたところに、「泪橋(現在では浜川橋)」があったが、ここでも小塚原刑場を控えて家族が涙で見送ったのだろう。
少し先で、JR常磐線の貨物線のレールを跨ぐと、史跡小塚原刑場跡、延命寺と書かれた看板があり、中には刑死者を弔うため寛永元年(1741)に建造された石造りの大きな首切り地蔵と称する地蔵があった。
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さらに、JR常磐線をのガードをくぐると、回向院がある。刑死者、行路病者の菩提を弔うために寛文7年(1667年)に建てられた寺とのことであるが、入口には「吉展ちゃん誘拐事件」で亡くなった吉展ちゃんを弔うため、ご両親が建てた「吉展地蔵尊」がある。日本で始めての身代金誘拐事件で、大きな反響を呼んだ。
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最も奥まったところに「松陰二十一回猛士墓」と書かれた、吉田松陰の墓がある。二十一回猛士とは「生きてるうちに二十一回の猛を発する」という意味で松陰が自分で名づけたという。松陰の墓に到る通路の両側には安政の大獄で刑死した多くの尊王の志士の墓石があり、入口近くには226事件で銃殺刑となった磯部浅一とその妻登美子の墓もある。磯辺は吉田松陰を尊敬しており、松陰の近くに弔って欲しいと言っていたという。
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鼠小僧次郎吉、片岡直二郎、高橋お伝、腕の吉三郎の墓も並んでいる。いずれも名うての悪人として名高い。
勤皇の志士を弔う大きな石碑も建てられている。
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また、1Kmほど進むと、この辺り一帯の総鎮守である「素盞雄(すさのお)神社」がある。境内には芭蕉の「行く春や、鳥啼き、魚の目に涙」の句碑がある。
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この神社の「獅子」は、なかなかの造りで立派である。
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千住大橋を渡る。渡ると左側に小広場があり、「おくのほそみち矢立初めの碑」と書かれた石碑がある。
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川べりに下りられるようになっていて、堤防には「おくのほそみち旅立ちの地」の表示と絵が描かれている。石碑の側には大きな「おくのほそみち行程図」が掛かっている。将来の辿る可能性も考えカメラのシャッターを押した。
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千住大橋の少し先で、国道から旧日光街道が分かれるが、その入口に設けられているのが、「千住宿奥の細道プチテラス」と称するモニュメント。この千住宿で松尾芭蕉が奥の細道への旅立ちに際して初の句を詠んだのである。
そして、「やっちゃ場南詰」は見逃したが、「やっちゃ場北詰」の看板があった。「やっちゃ場」とは、セリの掛け声が「やっちゃやっちゃ」と聞こえたところから呼ばれたという。戦国末期からの青果市場で多くの店が街道沿いに並んでいたとのこと。
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道路が美しい、千住仲町商店街の通りに入って行く。ちょうどお昼時であったので、近くの蕎麦屋に入り昼食とする。食べ終わり歩き始めると、「千住ほんちょう公園」で高札場の説明板があった。
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進むと、江戸期の商家の様子を今に残す、横山家。NTTの工事車両が止まっているのが腹立たしい。さらに、印鑑を商う「御福堂」も古くて街道らしい建物だ。
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千住新橋で荒川を渡る。流石に水量の多い大河である。橋を渡って左折し、善立寺を過ぎて右折して200mほど進むと、石不動尊のお堂があった。側に子育八彦尊道の石碑とお地蔵さんも祀られている。お地蔵さんは白い外套風のものをまとっている。
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1Kmほど進むと、東武伊勢崎線の梅島駅である。その後1.5Kmほど進んで、島根二丁目の信号を左に入って行くと、「国土安穏寺」がある。開基は応永17年(1401)だが、秀忠、家光が、当地巡遊の折の御膳所となり寛永元年(1624)に現在の寺号を賜り、徳川家祈願所、位牌安置所となり、以後「葵御紋」の使用が許されたという。
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街道に戻り400mほど進むと、鷲神社がある。酉の市、島根神代神楽、島根ばやしで有名とのこと。若い女性がお参りして、鳥居まで戻って再び深々とお礼をしているのを見かけた。このような丁寧なお参りをする人は珍しい。私もつられて2礼2拍手1礼。
その後の3Kmほどは、特に珍しいものも歴史的な遺構もなく、ただ歩を進めて行く。小さな流れの毛長川(けなががわ)を水神橋で渡ると、ここから埼玉県である。
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2Kmほど進むと、「火焙り地蔵」がある。奉公に出ていた孝行娘が大病の母親にも会わせてもらえないので放火したら会えると思い放火して火焙りの刑に処されたという。後に放火の理由を知った村人たちが、そんな娘を哀れんで地蔵を置き弔ったと伝わっている。草加への道が続く。
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1Kmほど進むと、草加市役所があり、その片隅に地蔵堂がある。江戸の豪商・浅古氏が子育て地蔵尊として祀った石造りの地蔵菩薩立像を安置したのだという。少し先には、やはり古い趣の家屋が見える。
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まだ、午後3時であったが、今日はここまでと決めて、東武伊勢崎線の「草加駅」に向い、以前に何時乗ったか定かでない伊勢崎線で帰宅の途についた。
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