2010.06.10

境の明神から女石の追分

本日で、奥州街道の第一章・宇都宮から白河宿までが完了。4回の旅であった。

下野側の境の明神の「玉津島神社」である。説明板によれば、奥羽側の住吉神社と並立している。創立は古く、天喜元年(1053)4月14日に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝えられる。明治39年12月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。

asino_053.jpg紀州は私の生まれ故郷だが、今でもここからは遠く、天喜元年という古い時代に勧請したとは驚きである。確かに、和歌浦の玉津島神社は、神亀元年(724年)2 月に即位した23歳の聖武天皇が、和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発する。この時同行した万葉歌人山部赤人の詠んだ歌が「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」の有名な歌と言うのだから、古い神社で格式は高い。
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asino_055.jpg「お気をつけて・とちぎ県」の標柱と、「ようこそ・福島県」の看板がある。かつての下野の国(しもつけのくに)と陸奥の国(みちのくのくに)の境界線が、そののまま現在の栃木県と福島県の境界となったのである。国道であるにもかかわらず、ここはセンターラインも無い、細い道になっているのは、明神を移すのが憚られ、拡幅工事が出来なかったためであろうか。
ともかく、長かった下野の国ともお別れである。
境界を越すと、陸奥側の「住吉明神」がある。説明板によれば、境の明神の由緒は不詳であるが、文禄4年(1595)に当時白河を支配していた会津藩主の蒲生氏が社殿を造営している。現存するのは、弘化元年(1844)に建てられた小祠である。奥州街道は五街道の一つで、奥州、越後の諸大名が参勤交代で通行し、旅人や商人などの往来も盛んであった。このため、道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり灯籠や碑の寄進が盛んに行われているとある。
また、芭蕉の「風流の はじめや奥の 田植え唄」の句碑を初めとして多くの歌碑等も多く建立されている。
なお、玉津島明神(女神・衣通姫(そとおりひめ))と住吉明神(男神・中筒男命(なかつつおのみこと))は、国境の神・和歌の神として、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰があり、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」としているとのこと。
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国道を挟んで境の明神の反対側に、白河二所関址の看板がかかっている。ここは、峠の茶屋「南部屋」があった場所で、横の階段を上ると、直ぐ右に「境の二所之関址」の碑が建っていた。建立は、理学博士・東京学芸大学名誉教授・国士舘大学教授 岩田孝三、白河関守 石井浩然 昭和57年(1982)5月となっており、碑文によれば、江戸時代よりの関守の家である石井浩然(南部藩士で、故あって南部藩の参勤交代路にあたる白河の関守となった石井七兵衛の子孫)とその考証に当たり、遂にその関屋跡を確認する事が出来た。茲に白河二所ノ関址立証を機とし、白坂道白河関址に紀念碑を建立し、永く白河二所ノ関の意を伝承せんとするものであるとある。 
なお、岩田教授は相撲の出羽海部屋と並ぶ名門、「二所ノ関部屋」の名も、この関の名と関係しているとの説を掲げているとのこと。
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両方から樹木が茂り、涼しく心地よい。昔は、どこでも樹木が茂っていて、現在よりはるかに歩き心地が良かったのではなかろうか。
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峠から坂を下って行くと、大きな楓の傍に「衣がえの清水」の立て札が立っていた。
急な斜面を降りると、今もこんこんと湧く泉があり、「古くは弘法大師が、この清水で衣を濯ぎ、芭蕉も門人曽良と共に元禄2年(1689)新暦6月7日 白河入りし、境の明神を参拝後この清水に立ち寄り休息をしたところである」と書かれた説明板が立っていた。
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坂道を下り終えると、左側に馬頭観音他の石碑群があり、ようやく白坂の街並みが見えてきた。
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少し先の左手に、大垣藩士の墓がある。説明板には、「五月二十六日、白坂天王山の戦いにおいて、大垣藩銃隊長・酒井元之丞重寛は、自軍の先頭に立ち兵を指揮していたが持っていた軍旗が、東軍の銃撃目標となり胸部に銃弾を受け陣没した。この碑には妹のかづが詠んだ「進み出て 績を尽くしたこの神の いまは偲びて たつる石ふみ」の歌が刻まれている。墓地は白坂観音寺にあり、大垣藩三名が合葬されている」とある。その「観音寺」が、少し先にあった。
真偽のほどは確かでないが、金売吉次の隠し金伝説にまつわる寺で、吉次が遺した最後の言葉「朝日さす夕日さす からすの横ばえ すずめのちょんちょん 三つ葉うつぎの下にある」の夕日とは、この観音寺の夕日観音のことだそうである。
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向こうに、「白坂泉岡」の交差点が見えてきた。時刻は12時を回ったところであるが、白坂には入ろうと思うような食事処がなかった。やむなく、白河への峠道に入って行く。少し先には、早速新しい牛頭観音の石碑が建っていた。
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延々と続く峠道で、空腹がつのってきた。やむなく横道に入ってリュックに入れておいたコンビニのおにぎりを食べる。芦野の丁子屋とまでは言わないが、少しは食指の動く食事処がないものかと思う。
2kmほど歩いたであろうか、皮籠(かわご)の交差点に着いた。智将・直江兼続が徳川軍を迎え撃つべく主戦場に選び数キロにおよぶ防塁を築いたところで、今も、防塁跡と思われる遺構の一部が残されているとのこと。当時はこの地は革籠原と記されていた。この交差点からしばらくは、殊更に大きな家が散見されるが、何か関係があるのだろうか。
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数百メーター進むと、左側に金売吉次の墓の案内表示があり「八幡神宮」の小さな社がある。500mほど横道に入って行くと林の中で、石囲いの中に三基の石塔があり、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の、いわゆる「金売吉次三兄弟の墓」と伝えられている。石塔は白河石で作られた宝篋院塔(ほうきょういんとう)で、製作年代は特定できないが、作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されている。なお、石塔の石囲いは元治元年(1864)である。
承安4年(1174)、吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われ殺害され、里人がこれを憐れみ、この地に葬り供養したと伝えられている。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、八幡宮に合祀したという。それで、この八幡を「吉次八幡」とも呼ぶそうである。また、皮籠の地名は、吉次が襲われ、皮籠の中の金などを奪われたことから、そうと呼ばれるようになったとも言われている。
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街道に戻ると、少し先の左側に座り地蔵と石仏が並んでいた。今日何体目の座り地蔵であろうか。進むと、左側に溜池が見えてくる。一里段という地域である。遠くに那須連山が望めるところらしいが、午後になって空は晴れていても、霞がかかったようになり見ることは出来なかった。
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新白河中央病院が左手に見えてきて、その先の坂道を下って行くと、同じく左に数本の木が意味ありげに立っているのが見え、近づくと髭文字の題目碑が建っていた。
その先で、国道から右に分かれ西小丸山の集落に入って行く。
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やはり車の通らない道は楽である。道は大きく左にカーブして5?600m程度で元の国道に合流する。
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国道に合流した地点の風景は、小さな集落の西小丸山から一変したもので、山道を歩いていて突然に都会の喧騒に出くわしたような戸惑いを覚えると言ったら大げさだろうか。直ぐに、西大沼の交差点で向こうには戊辰戦争の激戦地の稲荷山が見える。
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街道は、稲荷山に突き当たり右折するが、その曲がり角の右側に「長州大垣藩戦死六名墓」と彫られた碑がある。また、道の左側には「戦死墓」と刻まれた大きな石碑が見える。戊辰の役古戦場の説明板も建てられていて、以下の記述がある。
慶応4年(1868)、奥羽諸藩鎮定の為、薩長、大垣等の西軍が大挙して、3方から白河を攻めた。東軍の会津、仙台、棚倉の兵は城の南西の山地に陣し、これを迎え撃った。
この地は白河口での激戦地で、閏4月25日、会津兵は一旦西軍を退けたが、5月1日、再び来襲し激戦、弾尽き刀折れ、戦死者数知れず遂に敗退し、小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。戦後両軍、各々の戦死者の碑を建て、霊を慰めた
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下の左側の写真は 田邊軍次の墓である。会津藩士田邊軍次は、戊辰の役、白河口での戦いで東軍が敗れたのは、後に白河県から白坂町取締りに任命された大平八郎が、西軍の道案内をしたためであると信じ、白坂宿鶴屋で八郎を斬殺し、自らもその場で割腹して果てた人物である。八郎の養子直之助は、義父の仇である軍次の墓を建て白坂観音寺に葬ったという。戊辰戦争の悲劇の一駒である。
また、右の写真は、戊辰戦争の会津藩士の墓で、ここは白河口最大の激戦地であった。この碑には、会津藩若年寄・横山主税、海老名衛門等304名の戦没藩士の名が刻まれている。
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右折して300mほど進むと、権兵衛稲荷神社がある。狛犬として配された狐は、阿吽(あうん)の形であるとのこと。長い階段は、稲葉山の上にある本殿に続いている。
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街道は丁字路で、左折して進む。道なりに進むと、谷津田川(やんたがわ)を南湖橋である。この橋を渡ると白河市街である。
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谷津田川を渡ると、一番町に入る。街道らしい家屋が見える。
この先で、街道は直角に右に曲がる。江戸幕府の道中奉行が管轄した奥州道中最後の宿場の白河宿である。
曲がり角に「月よみの庭」と名付けられた白河石を敷き詰めた小公園がある。白河石とは福島県白河市で産出する安山岩の名称である。埋蔵量数千万トン以上と言われ、今後も安心して使える豊かな天然資源である。
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街道は、右折するが、左側には「天神神社」が見える。さて、街道を進むことにする。白河の中心街である。
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進んでいるのは、天神町で雰囲気のある家も残っている。200mほど先には「今井醤油店」がある。
さらに、200mほど進むと枡形で、ここを右折して「関川寺(かんせんじ)」を訪れる。関川寺は古くは天台宗だったとされているが、中世、白川城主の結城宗廣が中興開山し、天正9年(1581)に現在地に移ってきて、近世は妙徳寺などと共に寺町を形成し小峰城の南方の防衛ラインを呈した。境内には赤穂四十七士の1人中村勘助の妻の墓がある。勘助の父は白河藩士だった事もあり、家族を討ち入り前に白河にいた親戚に預けたのである。寺宝である銅鐘は案内板によると宝暦11年(1761)に鋳造されたものとのこと。
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山門代わりの常夜燈も巨大で迫力がある。門前の通りにある薬局も古い造りで、50年ほど前の商店風景を思い起こさせる。
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関川寺の近くの「天恩皇徳寺」を訪れた。お目当ては「小原庄助」の墓である。寺の前を通り、裏地の墓地の中にあるが、案内板が建てられていて分かり良い。徳利に盃を伏せた格好の墓石がユニークである。説明板によると小原庄助は、谷文晁の高弟である羅漢山人に絵付けを習いに来て安政5年没した会津塗師久五郎とのこと。戒名は「米汁呑了信士」で、時世の句は、「朝によし昼になほよし晩によし飯前飯後その間もよし」と書かれていた。誰かの創作としても良く出来た話しである。
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街道に戻り、さらに東北本線を潜って、小峰城址を訪れた。三重櫓が復元されていて、しかも木造なのが嬉しい。
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白河集古苑と名付けた、結城家古文書館と阿部家名品館がある。ゆっくり見学したいが、時間がなくスキップして、本丸跡に向う。石垣の組み模様が素晴らしい。
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本丸跡に通じる門からみた三重櫓と本丸跡の広場である。
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階段を上ると、城内のバラ園と市街がよく見下ろせる。「おとめ桜の碑」が建っていた。
案内板には、以下のように書かれていた。
初代藩主丹羽長重は、幕府の命により小峰城の大改修を行い、石垣造りの城郭を築きあげました。その際、本丸の一角にある石垣が幾度となく崩れ落ちてしまうことから、人柱を立てることになりました。たまたま父に会う」ためにやって来た藩士・和知平左衛門の娘「おとめ」が、不運にも捕らえられ人柱となったと伝えられています。小峰城の完成後、人々はおとめの悲運を哀れんで城内に桜を植え、これが「おとめ桜」と呼ばれるようになりました。
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櫓の中を見学した。無料である。矢や銃を撃つ狭間、石を投げ落とした石落としも忠実に復元されていた。
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街道に戻り、2つ目の枡形を通って進む。左に萩原朔太郎の妻・美津子の生家があった。萩原朔太郎と言えば、詩集「月に吠える」の名しか知らない。
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歩いている街道は、現在の呼び名では294号線で、枡形から300mほどの交差点で左折する。進むと「白河だるま総本舗」の看板が見える。白河のだるまは、江戸時代、白河城主・松平定信が、江戸の絵師に図柄を描かせ、特産物にしたのが始まりで毎年2月11日には、だるま市も開かれてにぎわうとのこと。
先に、東北本線のガードが見えてきた。潜って進むと、右側に「津島神社」があり、鳥居が三つ並んでいる。津島神社は、愛知県津島市に総本社があり、織田氏が氏神として崇拝した。なお、織田氏の家紋も津島神社の神紋と同じ木瓜紋(もっこうもん)である。
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遂に阿武隈川に架かる田町大橋が見えてきた。阿武隈川は、那須連山の一つ旭岳(1896m)を源流とする河川で、流路延長は239Kmで、東北では北上川に次ぐ長さの川である。流石に水量が多い。車道と歩道が分離されているが、歩道側の欄干に蛇が寝そべっているのを見つけたが、続いて通る人は大騒ぎとなった。30分後に引き返してきたときは居なくなっていた。道路を歩いていて蛇を見たのは久しぶりである。
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田町大橋を渡ると、右のたもとに水難殃死者供法塔が建っていた。思いがけない災難で水死した人を弔ったようである。200mほど進むと左側に聯芳寺(れんぽうじ)がある。結城宗広の伯父、広綱が娘の菩提を弔うために建立した寺であると伝えられる。もとは太田川(泉崎村)にあったのが、いつの頃か現在の場所に移ってきたようである。
100mほど進んで、左の小道を入ると、「硎姫(えなひめ)神社」がある。兵法家鬼一法眼の娘、皆鶴姫を祀る神社である。
縁起によると、平治の乱で平清盛に敗れた源氏の棟梁源義朝の遺臣である吉岡家3兄弟のうち、長兄の鬼一法眼は京都堀川に住み、兵法家として中国伝来の兵法の秘伝書を秘蔵していた。源義経は鬼一法眼より、その秘伝書を入手したが平家の圧迫が激しく、金売吉次と共に京都を脱出し、平泉の藤原秀衡のもとに向かった。皆鶴姫も旅装を整え、恋する義経を追ったが、なれぬ長旅で病気になり、里人の手厚い看病の甲斐なく息を引き取り、この地に埋葬された。その時懐中に梅の実があり、里人は遺品としてこれを蒔くと、「八房の梅」で花咲、実を結び、大事に育て、社を建立し祀ったという。
硎姫神社の「硎」とは、胎児が生み出されたのち、排出された胎盤・卵膜などを言う。皆鶴姫は妊娠していたのであろうか。しかし、妊娠していて京からここまで来ることが出来るとは思えない。鬼一法眼も実在の人物であるかが、定かでなく、全般的に信憑性に欠ける話しではある。また、梅には「八房の梅」の立て札が立っていたが、まだ植えて1?2年の様相であった。
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街道に戻り峠を越えて、ようやく女石の追分に達する。車は丁字路に突き当たり、黒磯方面と郡山方面に分かれるが、旧街道は少し手前で右に別れて行く。
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ここ女石も、戊辰戦争で激戦が展開され、その時に戦死した仙台藩士150余名の供養碑が、左側に建てられていた。奥州街道の第一章の白河宿までが完了した。
時刻は16時20分である。日も傾いてきた。急いで白河駅に戻り、17時発の電車に乗り帰宅した。
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下の写真は、白河駅前広場である。次にここを訪れるのは、奥州街道の第二章・仙台までの歩行となる予定である。
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芦野から陸奥入口

本日の万歩計47,582(30.9Km)・・・白河(女石追分)まで

東京駅を6時16発のやまびこ201号に乗り、那須塩原、黒磯で電車を乗り換え、黒田原には7時59分に到着した。那須高校の男女学生が大勢降りてきた。都合が良いことに、8時10分に伊王野行きのバスが出るので乗車するが、前回の芦野から乗ったときと同じく乗客は、私一人である。8時22分に芦野仲町の停留所に着く。丁子屋は今日は休みでない様だが、この時間ではどうしょうもないと、早速歩き始める。
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前回訪れた、石の美術館を過ぎると商店もなくなり静かな通りとなる。少し先で枡形であろうか、右折して直ぐに左折して進むと、右の方に「建中寺」の参道が見えてくる。「建中寺」は、江戸時期に旗本で2,500石を与えられた芦野氏の菩提寺で歴代の墓がある。
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芦野宿の終わりには、新町の地蔵尊がある。享保2年(1717)に建立されたもので、厄災を宿に入れない役目も持っていた。昔はこの広場で盆踊りも行われていたそうである。ここで、奈良川を渡り国道に合流する。芦野庵と称する無人の休憩所が設けられていた。近くに有名な「遊行柳」があることで、訪れる観光客も多いからであろうが、「遊行柳」は、西行が訪れ芭蕉も訪れた、歌詠みのスポットなので、詠んだ歌の投稿箱があり、優秀作品が掲示されていた。庵の裏手には、田圃の中に「遊行柳」のこんもりした柳の木が望まれる。
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芦野庵の横の道から、田圃の中の道を進むと「遊行柳」への真っ直ぐな道が伸びている。もともとは、その向こうにある「湯泉神社」への参道である。
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大きな柳の木が2本立っており、特に大きいのに石囲いが施されている。那須の名木にも指定されていて、幹回り90Cm、樹高10mと書かれていた。またその脇には芭蕉の歌碑が建っていた。
田一枚 うえてたち去る 柳かな
また、西行が詠んだ歌は、
道のべに 清水流るる柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ
そもそも、西行は、桜を殊更に愛したことから、室町の初め、西行の庵にある老木の桜を題材に謡曲「西行桜」が世阿弥によって作られたが、室町後期になって、観世信光 (1435?1516)は、西行が那須・芦野で詠んだ上の歌の柳を主題にして、謡曲「遊行柳」を創作した。
これにより芦野の柳は「遊行柳」として広く世に知られるところとなり、歌枕の地となったとのこと。
やはり、ここでは、一首詠む必要があるようだ。
蛙なき 早苗なびいて いにしえの 姿伝える 柳なりけり」・・・Naka
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「遊行柳」を通り過ぎ、湯泉神社に向う。鳥居の代わりの巨木が2本立っていた。
国道に戻って進むと、「甦る豊郷」と書かれた大きな石碑が建っていた。「芦野地区圃場整備事業完成記念碑」とある。
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500mほど進むと、左に「岩倉右大臣歌碑」が建っていて、峯岸の集落に入って行く。立派な民家の前には「大黒天」、「十九夜塔」などが建っている。
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立派な蔵も残っている。そして、左に「愛宕神社」の細い急な階段が続いている。
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直ぐ先には、「べこ石の碑」がある。寛永元年(1848)芦野宿の学者・戸村忠恕(ただひろ)が民衆教化の為に建立したもので、約3,500文字を刻んだものである。なお、「べこ石の碑」は牛の形の石というのではなく、炎帝神農氏という牛面人身の姿が彫られているからである。

asino_022.jpg「べこ石の碑」を過ぎると、一旦国道に出るが、300mほどで再び左の旧道に入って行く。左の土手には、小さな石碑が散見されるが、ひときわ大きな峯岸館兵従軍之碑がある。明治維新の戊辰戦争に黒羽藩は官軍として戦ったが、この時藩領だった峰岸、板屋、高瀬、寄居、白井、蓑岡の各集落の農民が、峰岸に設けられた峯岸館で洋式兵隊の訓練を受けて各地で転戦し戦功をたてた。この顕彰のため明治27年(1894)に建立されたものである。
国道に出て、200mほどで今度は右の方に入って行く。間の宿の板屋で、静かな集落である。
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緩やかな上り坂となる宿の終わり近くに「諭農の碑」が民家の庭に道路の方を向いて建っている。病害虫対策や飢饉への備えなどを農民に教える内容で、建立は「べこ石の碑」と同じく戸村忠恕である。
宿の終わりには「一里塚」が道の両方に残っている。「板屋の一里塚」で、江戸から44番目一里塚である。しかし、道路が切り通しに改修されたときに大きく削り取られ、もとの姿は崩されている。

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板屋の集落を過ぎると、次は蟹沢集落で、道の右上の木立の中に馬頭観音が見えてきた。とにかく、馬頭観音の石碑が他の街道と比べても多い道である。集落は短くて直ぐに終わってしまう。
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蟹沢の集落が終わると、向こうに高瀬の集落が見えてくる。日本の原風景のような道を進み、高瀬集落に入ると、民家の脇に大きな「馬頭観音の石碑」と左に「大黒天」と書かれた石碑が建っていた。
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高瀬の集落の終わりはには、高徳寺がある。入口に建っているお堂、本堂ともに美しい姿である。
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国道に出て進むと、白井石材への入口に大きな常夜燈がある。白井石材は、「芦野の石の美術館」のオーナーでもあり、手広く石材の採掘、加工を行っているようだ。しかし、石材屋さんとはいえ、大きいのを造ったものだ。
この辺りまで来ると、寄居の集落が見えてきた。右の道路わきに「座り地蔵」があり、左の旧街道に入って行く。芦野宿以降、本当に良く地蔵を見かける。
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寄居宿に入って行くと、入口付近に常夜燈が建っており、赤い瓦の立派な家が目に付く。
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そして、右側に「與楽寺(よらくじ)」がある。那須三十三所観音霊場の10番の札所である。その境内には、那須の名木の山桜がある。推定樹齢150年で、幹回り450Cm、樹高20mとある。
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寄居の終わりが近づき、旧街道に相応しい、家がある。どのような方が住まわれているのだろうか。ここを過ぎれば、少し進んで国道に合流する。合流点の直前で右折すると、「白河の関」のある旗宿への道である。
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国道を300mほど進むと、左側に「泉田の一里塚」がある。江戸から46番目の一里塚で下野(しもつけ)の最後の一里塚である。車の休憩場所を作り、併せて造り直したように思える。さらに、1Kmほど進むと、左側に「寄居大久保」の道標が見えてくる。ここからが大久保の集落となる。
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この辺りは、石の産出が盛んなのか、石切り場があった。さらに、進んで行くと、右側に馬頭観音、二十三夜塔などの多数の石碑が並んでいた。
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右側に、「初花清水碑」が建っていた。石碑というより、表示杭の感じである。初花と言えば、箱根の上りでの「初花の瀑布の碑」を思い出す。何故ここで初花が出てくるのかと思ったが、「箱根霊験躄仇討」の主人公・飯沼勝五郎は、この東の棚倉藩の武士であった。初花とともにこの地に隠れ住んだのである。
この清水は、今も枯れることなく流れているのだが、配水管様のパイプから流れ出しているのは興ざめである。水は冷たく、コップが置かれているので飲めるようだが、その気にはなれない。ここで、野良仕事のおばさんが、暑いですね、どこから来ましたかと声を掛けてきた。少し言葉を交わして進むと、国道との合流点に「馬頭観音」、「瓢石(ふくべいし)」と彫られた石碑、瓢箪の形に掘られた石像がある。「瓢石」は足を病んだ飯沼勝五郎が、ここに初花と隠れ住み足が直るのを待つ間に彫ったと言われている。
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国道を700mほど進むと、左側に山中の集落への入口である。ここも小さな集落だが、立派な蔵のある家があると思って、眺めると「明治天皇山中御小休所」の石碑が建っていた。
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また、国道に合流して進む。快晴の日の国道歩きは、汗が頬をつたう。1Kmほど進むと、右側に大きく立派な馬頭観音が建っていた。昔も今も辛い場所であったのであろうか。そして、ようやく境の明神が近づいてきて、栃木県ともお別れである。「お気をつけて」と書かれた那須町のモニュメントが建っている。反対側には、当然「ようこそ那須へ」となっている。昔の旅人も下野にお別れとの感を持ったことであろう。
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2010.06.01

越堀宿から芦野宿

那珂川に架かる「昭明橋」を渡って左折し、「越堀宿」に入って行く。右側に「浄泉寺」がある。
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本堂と立派な不動堂がある。
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境内のお堂の前に、「黒羽領境界石」と「明治天皇御駐輦の碑」が建っていた。
説明板には、「黒羽藩主大関増業は、自藩と他藩との境界を明らかにする為文化10?11年(1813?14年)に何箇所かに境界石建てた。ちょうど、増業が大坂城勤務の時であったので、碑を大坂で作らせ船で運んだ」と書かれていた。
ここの標柱には「従此川中東黒羽領」と刻まれており、背面には「於摂州大坂作江西横堀小島屋石工半兵衛」と書かれている。
もともとは那珂川の左岸、越堀宿(黒羽領)側に立てられていたが、大正7?8年(1918?19)頃、保存のため、ここに移されたとのこと。那須塩原市の指定文化財となっている。
少し先には、左に「奥州街道越堀宿・枡形の地」の新しい石板が建っていたが、整備された道路のため、枡形がハッキリとは、分からなくなっていた。
その先には、昭和13年建立の「征馬之碑」と昭和61年建立の「殉従軍馬之碑」が建っていた。戦争に駆り出され命を落とした馬の供養として建てたものであろう。
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越堀宿・坂本屋という石碑や奥州街道「右・これより江戸四十里」、「左これより白河宿七里」と彫られた石碑もある。
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越堀宿の外れから、右にカーブしながらの上り坂となり、再び民家が見えてくると右に「伊勢神宮遥拝所」がある。そして右に曲がる地点で、何の神を祀っているのか不明だが、石碑と小さな社が並んで祀られていた。昔は個人の屋敷内でも、このような小さな社が祀られているのを良く見かけたものである。
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その後、木立の中の道を富士見峠に向って上って行く。別荘地の売り出しの看板も見かけられる。やがて、寺子の交差点が見えてきて、その脇に「寺子一里塚公園」がある。一里塚とともに二基の馬頭観音の石碑が建っていた。
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寺子交差点を過ぎると、道は余笹川(よささがわ)に向って下って行く。しばらく進んだ左に「會三寺(えさんじ)」がある。會三寺「第14代法印 旺盛」のころハシカが流行し幼児が沢山亡くなった。これを哀れんだ法印が111体の地蔵を彫り菩提を弔ったと言われている。この地蔵を収めた「はしか地蔵堂」が今も現存している。
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余笹川に架かる寺子橋に向って坂道を下って行くと、橋の手前右側が小公園のように整備されていた。見ると、「天皇・皇后行幸啓記念-平成11年9月14日」の石碑が建っていた。平成10年(1998)8月の台風第4号による水害で民家が流されるなど大きな被害が発生したが、この災害見舞いの行幸啓記念である。ちなみに、天皇の外出を行幸(ぎょうこう、みゆき)と言い、皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃の外出を行啓(ぎょうけい)と言い、両方を併せて行幸啓(ぎょうこうけい)と言う。
また、橋の手前左側には寺子地蔵尊がある。
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地蔵尊の横には、新しい願い文が書かれた木の板が掲げられており、馬頭観音、常夜燈も置かれていた。
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いよいよ、余笹川を渡る。寺子橋から川面を見ると、大きな石が散見される。平成10年(1998)8月の大災害をもたらした台風の名残であろうか。
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寺子橋を渡ると、石田坂の集落である。300mほど進むと、石田坂自治公民館があり、その傍らに馬頭観音、庚申塔が並んでいる。その中でも特に目に付いたのは、牛の像である。天満宮の牛の像がここにもと思ったが、「蓄魂碑」と書かれていた。牧畜を営んでいる人達が、牛を弔うために建てたのであろう。
その後、上り坂となる。右側に干草をパックした白い円筒が輝いて並んでいた。その先には那須モータースポーツランドのオートバイのサーキットがあり、甲高いエンジン音が聞こえて来る。
坂を上り詰めると、「SUZUKI HOLSTEIN FARM」の看板がある。近くに乳牛の牧場があるようで、これで干草のパックの集積も理解できる。
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やがて信号機のある交差点を過ぎると、豊岡の集落である。小さな集落で直ぐに通り過ぎてしまい、再び上り坂となる。上り坂の中腹には、2つの常夜燈が建っているのが見えたが、その後ろに2列に並んで杉の木が続いているのは、何か小さな神社でもあったのであろうか。
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豊岡の坂を上りきると、那須塩原市から那須町に入り、境界に看板が立っている。緩やかな坂道を下って行くと、黒川の集落が見えてきた。自動車道は集落の手前で左に分かれるが、街道は真っ直ぐ進んで黒川に突き当たる。もちろん渡しはない。左を見ると黒川橋が見えるので、川に沿って進んで行く。
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橋には、平成10年8月27日未明に襲った大水の水位が印されていた。橋を渡って、右にカーブして坂道を上って行くと、まだ鯉のぼりの上がっている家が見えたが、この集落が平成10年8月に大きな被害を受けたのである。
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道は大きく左にカーブして、田園風景が見えてくる。田圃の中に小さな木の茂みが見える。夫婦石神社である。神社の由来記を要約すると、「戦国時代に敵に追われた男女がこの石の割れ目に隠れると、白蛇があらわれ、敵が逃げ帰ったので命拾いした。時代の移り変わりとともに「見落とし石」「めおと石」になり、夜になると互いに寄りそうという話が伝えられ、いつの頃からか「夫婦石」と呼ぶようになり、諸願成就、縁結びの神として毎年御祭礼を行っている」と書かれていた。しかし、石の割れ目は人が隠れられるほどの大きさではない。たまたま場違いに大きな石があったので、ストーリーが創作されたのであろうか。
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400mほど進むと、「夫婦石の一里塚」がある。江戸より43里の一里塚で、珍しく道の左右に残っている。説明板の建っている方が、進行方向に向って右側の一里塚である。
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少し進むと旧道は72号線から左に別れ、下って行くと、右に「足尾大神」の大きな石碑があり、ぞうりやスリッパ様の履物がぶら下がっていた。その先には、小さな流れの菖蒲川があり、そこに架かった菖蒲橋を渡ると、再び72号線に合流する。
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72号線に合流して進むと、「芦野氏旧墳墓/健武山温泉神社」の道標があり、芦野氏旧墳墓側の入口に「ほ場整備竣工記念碑」と書かれた大きな石碑がある。この辺りの土地整備の記念碑である。
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高速で走る車が見えてきた。国道294号線である。交差点を渡ると、ようやく奈良川に架かる橋が見えてきた。芦野宿の入口である。
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橋を渡ると左に大きな石地蔵尊がある。宿場の入口にある地蔵尊で、左足を前に出していることから座り地蔵と呼ばれている。宿場への厄除けを願って造られたものであろう。地蔵前を通過すると、常夜燈を模して屋号を記した石柱が家の軒先に設置されている。木の掛札で屋号が書かれたものは、見かけることはあったが、石造りの屋号表示は初めて見る。街道の雰囲気造りに力を注いでいるのが分かる。
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少し進むと枡形があり、その先で右に、三光寺に行く、細くて急な階段があった。
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三光寺には本堂の他にも立派な聖天堂があり、浅草待乳山、武蔵妻沼(めぬま)とともに日本三聖天とのことである。聖天とは、仏教を守護する天部の善神で大聖歓喜自在天のことである。
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また、境内には那須の名木で「松翁」と名付けられた見事な松がある。文化8年(1811)、白河城主松平定信が植樹したとのこと。
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三光寺を後にして、芦野宿の中心街に進んで行く。中世の芦野氏の城下町として発展し、江戸時代は旗本芦野氏の知行地となる。下野最北の宿場である。
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創業300年の旅籠の丁子屋があった。 今は旅館と割烹の兼業で、当時より鰻が名物である。残念ながら本日休業の札が出されていた。丁子屋と言えば、東海道の丸子(鞠子)の宿の「とろろ汁」を食わせるのも丁子屋であった。
その先には、比較的新しい「奥州道中芦野宿」の石碑が建てられていた。
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芦野の交差点で右折して、芦野郵便局の横を通って進むと、見事な枝垂桜がある。那須の名木で「平久江家のしだれ桜」である。推定樹齢400年、幹周り252Cm、樹高18mである。
下の右の写真は平久江家の門である。棟門の一種でこの地域における比較的上級武家の門構えである。なお、平久江家は江戸初期から芦野家の重臣の家柄であったとのこと。表札が掛かっていて、ご子孫が今も住まわれている。
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平久江家を過ぎると、右に道路が延びていて「那須歴史探訪館」に通じている。ガラス張りの綺麗な建物であるが、時間がなく外から写真撮影して引き返した。
(下の左の写真)
先ほど右折した地点に引き返し、直進すると「掦源寺」があり、本堂の左には推定樹齢600年の那須の名木・アスナロがある。幹周り450Cm、樹高21.6mである。
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芦野の交差点まで戻り、少し進むと「石の美術館 STONE PLAZA」があった。(株)白井石材の運営で、歴史探訪館と同じ隈研吾氏の近代的な設計である。地元の芦野石を使い、石の加工技術を披露するのが目的でもあるようだ。
時刻は16時40分で、16時53分の黒田原駅行きのバスに乗るべく、丁子屋横の芦野仲町停留所まで引き返した。
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4分遅れでバスが来たが、乗客は私一人で15分ほどで黒田原駅に着き、17時33分発の電車を待つ。待合室には、高校生男女の賑やかな声が響いている。電車が来て、黒磯、宇都宮で乗り換えて帰宅した。

大田原から鍋掛

本日の万歩計41,367(27.3Km)・・・芦野まで

西那須野駅に9時1分に着き、9時10分発のバスに乗り、前回終えた那須与一の銅像前から歩行を開始した。時刻は9時25分くらいである。
進んで、金燈籠の交差点に来たが、肝心の金灯篭が見あたらない。後でゆっくり探すこととして、とりあえず左折して江戸時代から続く、味噌・醤油製造の和泉屋を見に行く。古い土蔵には貫禄がある。
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さて、金燈籠の交差点に戻ったが、やはり「金燈籠」が見つからない。通りかかった人に尋ねたら、もと金燈籠があった場所は整地の工事中で、ブロック塀で囲われた中に仮置きされていると教えてくれた。文政2年(1819)に建立されたものであるが、太平洋戦争末期に供出され、旧会津中街道の三斗(さんど)小屋にあった同型の灯籠を譲りうけたが、その後昭和54年に造り直したものである。台座は往時のもので、「江戸」、「白川」と大きく彫られており、道標を兼ねている。
金燈籠の交差点を過ぎ、次の信号で左折して進むと、「旧奥州街道 大田原 寺町」と書かれた新しい道標が建っているので、ここで右折する。300mほど進むと、左に真新しい本堂の「龍泉寺」がある。
左脇の道路に入って行くと左にカーブして、仁王を配した「光真寺の山門」がある。
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光真寺は、天文14年 (1545)大田原資清が建てた大田原藩主の菩提寺で、流石に立派な本堂であり、本堂の左には大田原資清像がある。
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さらに、左奥には、歴代の大田藩主の墓が並んでいる。中山道の鴻巣で見た関東郡代の伊那氏の墓と同型である。山門の方に引き返すと、その脇に33体の観音像が並んでいた。
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元の街道に復帰して、進むと左に大田原神社の階段が見えてくる。大田原神社の創建は大同2年(807)に勧請され当初は温泉神社と称していたが、大田原資清が大田原城築城に際し、城内の鎮守社として遷座し、代々の崇敬社なったとの由である。急な階段を上ると、左に折れ曲がって木々の茂った参道が続き本堂がある。
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街道に戻り、右にカーブしている道を下ると大田原城址である龍城公園の上り口がある。大田原城は、天分14年(1545)大田原資清によって築城された城である。大田原氏は関が原の戦いで戦功があり、5,000石加増され12,000石となって大田原藩が形成され、明治維新まで続いた。石垣は無いが、見事に急峻な土手を形成した城であり、奥州の要路の城として家康、家光も重視した。また、木立を通して大田原の街並みも良く望見される。

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蛇尾川(さびがわ)を渡り、かなり時間を使った大田原市街から離れて行く。橋の名前も蛇尾橋である。蛇尾川は、那須塩原市の大佐飛山地に源を発する支流、大蛇尾川と小蛇尾川が山地を抜けた地点で合流して蛇尾川となり、那須塩原市を南東に流れ、扇状地で熊川を合わせ、大田原市片府田で箒川に合流する。
なお、「サビ」とは栃木の方言で、斎日(さび)のこと。祭日を決めて神様に身を清めてもらう行事を行った流域を流れる川の意味とのこと。
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川を渡って直ぐに左折し、大きく右にカーブして進む。少し先の左手には富士電機の広大な工場がある。配線用遮断器、漏電遮断器、高圧真空遮断器などの製造を行っている。そして、700mほど先で「巻川」を渡る。
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「巻川」を渡ると少し先に、セブン・イレブンがありその駐車スペースの隅に「中田の一里塚」がある。当初は道の両側にあったが、南側の方は宅地建設の際に取り壊された。北側は道路拡幅の際、平成12年に約1.5メートル後方に移築されたとのこと。
さらに、1Kmほど進むと市野沢小入口の交差点で、右方向が棚倉街道であり、その追分である。寛永6年(1629)に起こった「紫衣事件」で上山と棚倉に流罪になった沢庵と玉室がこの追分で別れたところである。古道標と聖徳太子碑があり、古道標は風化して文字は読み難いが、正面は「南無阿弥陀仏」と彫られており、側面には「右たなくら、左しらかわ」と彫ってあるとのこと。
最初に目に付くのが、「黒羽刑務所、お気軽にお寄りください」と書かれた看板であるが、この看板は、ブラックユーモアかと街道歩きの人々の間で話題になっているものである。もちろん、お気軽にお寄りくださいは、その下に書かれている「刑務所作業製品の展示場」のことである。
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次の大きな交差点である市野沢交差点には、与一の里おおたわら名木に指定されている、高野槙(こうやまき)がある。目通り3.1m、樹高17m、推定樹齢400年である。しかし、昭和36年3月22日の指定では樹高30mとなっている。台風で折れたのだろうか。
1.5Kmほど先の左側には「弘法大師碑」があり、その先で相の川を高野橋で渡る。

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道の左の草生した中に、新しく建て替えられた「麻疹地蔵堂」があり、周辺には石仏が並んでいた。時刻は11時30分を回ったが、食事処は見つからず、地蔵堂の軒下を借りてコンビニで買ったパンを食した。
しかし、歩き始めると、直ぐにラーメン屋があったが、街道歩きでは往々にして起こることである。
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練貫十文字に到達した。この辺りでは交差点を十文字と言う。直接的な表現で分かりよい。那須塩原駅に行くには左折して4Kmほどだが、まだまだ早い時刻で、先に進んで行く。進むと道標を兼ねた「永代常夜燈」(左側)があり、正面に永代常夜橙、側面に右奥州海道、左原方那須湯道と刻まれているとのこと。その後ろには2つの念仏碑があり、十九夜塔がある。そして最後尾に真新しい「旧奥州道中」の石碑が建っていた。今後も旧奥州道中を大事にする現れであろうか。
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進んで行くと、左側に「明治天皇駐輦記念碑」が建っていて、やがて大田原市と那須塩原市の境界の表示板が見えてくる。那須塩原市は、平成17年に黒磯市と西那須野、塩原町が合併して出来た新しい市である。
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那須塩原市に入って1Km程行くと「大野牧場」の大きな文字が目に入る。「口蹄疫」が流行っているため、牧場に通じる道には石灰が撒かれている。
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樋沢(ひざわ)地区に入ると、左に「樋沢神社」がある。思っていたより小さな神社である。最近建てられた鳥居をくぐり、階段を上ると、大きな石が2つお堂の左に鎮座している。前方の大きい方の石は「八幡太郎義家愛馬馬蹄の石」であり、後方は「葛篭(つづら)石」である。後三年の役(1083年?)で、源義家が奥州に向かう途中、源氏の氏神であるこの神社の坂を馬で一気に駆け上ったところ勢いの余り、石に蹄の跡が岩に付いたという。葛篭石の方は、形が似ているから義家が名付けたというが、似ているようには見えなかった。
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周辺には、石仏が幾つも配置されている。しかし、お堂はコンクリートブロック造りで、いささか貧弱である。歴史は時に疎しと言うことであろうか。
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500mほど先の左の上の方に「鍋掛の一里塚」の表示が見える。道路が掘り下げられて、一里塚が高い場所に残ったのであろう。階段を上ると、「鍋掛神社」への参道が続いているのが見える。

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鍋掛十字路に到達した。コンビニがあったので少し休憩を取り、交差点を横断すると直ぐの左に「清川地蔵尊」がある。延宝7年(1679)建立で、子育て地蔵として女性の信仰を集め、毎年4月には集落の女性が集り念仏会が行われるという。周辺には数体の石仏も見られる。

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鍋掛十字路を通過して、鍋掛宿に入ると、歩道と車道の境界に、自然石を荒く加工したのが並んでいる。鍋掛宿は、那珂川の渡しの直前で、川留めなどで大いに賑わい、本陣1、脇本陣1、旅籠23、総戸数100余戸であったとのことだが、面影は残っていない。那珂川は、防御ラインとして徳川幕府も重視しており、鍋掛は天領としていた。
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進んで行くと、左に「八坂神社」があり、その境内に「芭蕉句碑」が建っている。「芭蕉句碑」には、「野をよこに馬ひきむけよほととぎす はせお」と書かれていて、元禄2年(1689)3月(旧暦)、奥の細道行に旅立ち、4月16日に手綱をとる馬子の願いにより作ったと書かれていた。
その隣の「正観寺(しょうかんじ)」には、樹齢250年の見事な枝垂桜があり、参道の片側には火の見櫓、もう一方には蔵造りを模した「鍋掛宿消防小屋」がある。
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鍋掛宿は、那珂川の渡しで終わるが、現在では自動車道路は、左にカーブして「昭明橋」に向い、旧道は真っ直ぐに川に向って進む。「昭明橋」は、歩行者用と自動車用に別れているが、もともとは歩道者用の橋が両用であったのが、自動車専用橋を新規に架設したようである。
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今日は、6月1日で鮎釣りの解禁日である。早速、友釣りの竿を振る釣り人の姿が望見できた。
橋を渡って、今日の旅は、まだまだ続く・・・
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2010.05.28

氏家から喜連川(前半)

本日の万歩計47,568(31.4Km)・・大田原までの歩数

5月後半に入っても、まだ天候不順で雨の日が多く、ようやく今日街道歩きに出かけられた。8時38分に氏家駅に着いた。思っていたよりリュックを担いだ人が大勢下りたが、ほとんどはゴルフ客で街道歩きは居そうになかった。
街道に向う途中で、前回飛ばしてしまった「蔦地蔵」を見に小道を右折した。
「蔦地蔵」は「定家地蔵」とも呼ばれ、鎌倉時代に宇都宮氏によって形成された宇都宮歌壇は藤原定家とも親交があり、宇都宮頼綱の娘は定家の長子の為家に嫁している。そこで定家の7周忌に定家の面影を模して建立したものとのこと。
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街道に復帰して、やはり前回見過ごしてしまった「寛方・タゴール平和記念公園」を訪れるため、少し街道を戻る。タゴールと言えばインドの詩人でアジアで初めてノベル文学賞を受けた人物として、中山道の碓氷峠に胸像があった。日本画家の荒井寛方と深い親交があり、寛方の住居跡に二人の顕彰としてこの公園を作ったとのこと。
そして、氏家駅前入口の交差点まで引き返し、進むと直ぐに「光明寺」の山門が見えてきた。
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山門を潜ると、正面に「青銅不動明王坐像」が睨んでいる。江戸時代初期から代々宇都宮藩の御用鋳物師を勤めた戸室一族を代表する作品で、戸室卯兵衛が宝暦9年、71歳の時に鋳造したものであるとのこと。左手には本堂が端正なたたずまいをみせる。
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街道は少し先の上町の交差点で右折して進むが、直ぐに「五行川橋」を渡る。かつて氏家町付近を流れていた鬼怒川が、家康の河川改修の命で現在のものとなったが、伏流水として残っており、下を流れる五行川も、その伏流水が現れたものとのこと。
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少し先には「思案橋」がある。この下の川も少し上流で二筋に分かれた五行川で、直ぐにまた一つに合流する。流石に湧水で水が綺麗だ。
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進むと、室町時代初期の応永31年(1424)に開基され、現本堂が文政8年(1825)に改築された薬王寺がある。そして「櫻野中」の交差点で48号線を横切る。
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天和3年(1683)9月に起きた日光大地震で男鹿川、湯西川が堰き止められ出来た「五十湖」は、現代の「五十ダム」より規模が大きかったそうだが、享保8年(1723)8月10日の暴風雨で決壊して鬼怒川沿岸に甚大な被害をもたらし、死者1万2千を数えたという。この門は、そのときの水位痕を今も伝えている。
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次に現れたのは、広壮な「瀧澤家住宅」である。瀧澤家は明治期に紡績で財を成した旧家で、明治25年(1892)の陸軍大演習では明治天皇の休息所にあてられたという。休館の札が掛かっていたが、開館される日もあるのであろうか。門から中を覗かせてもらうと、木立が茂り、静かなたたずまいの屋敷になっていた。
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少し先には、鎮守の八幡神社。そして、道端に十九夜塔、二十三夜塔などの石碑があり、ここからは住宅が途絶えて、田園風景が広がってくる。
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それでも、時々は四脚門の立派な住居がある。かつての繁栄を今に残しているのであろうか。
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1Kmほど進んだ所にある松山の交差点付近で松山家に残る一里塚を見学させていただく予定を、手持ちの地図の不備で通り過ぎ、2Kmほど田植えの済んだ田園風景の中を進んで、大沼川を渡った。綺麗な水が悠然と流れ、見惚れるほどである。
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293号線が右に分かれる分岐点には、新旧2つの大黒天ががあり、古いほうの土台には明治期の水準点記号が刻まれている。日光街道の杉戸宿でお目にかかったのと同じ記号である。明治12年6月発行の地理局雑報14号には、標高158.0866m (521.6858尺)と報告されているとのこと。
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さて、弥五郎坂への分岐点だが、ゴルフ場のセブンハンドレッドの大きな看板があり、これからは車の通りも少なくなるのはありがたい。少し先には、水田への水路がコンクリート作りで高さ1m程度の樋となっているのに出くわした。水田への水路としては、初めてお目にかかるものだが、動力ポンプで水を押し上げており、おそらく近年になって新しい水路を設ける必要があり、高低差のある田圃に水を供給するために設計されたのであろうか。
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弥五郎坂にさしかかると、道祖神、二十三夜塔の石碑があり、奥州街道の道標も立っている。
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少し進むと、右手に「早乙女坂古戦場」の表示板。古い階段脇には、「松尾弥五郎博恒墳墓」の石碑があり、階段を上ると、お堂が建っている。
説明板があり、「早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭ほ(堡)を確保する上で最も重要な課題であった。このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされたが、その中でも、天文18年(1549)の戦いは、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に射殺されるという大激戦であった。弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになった。今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養等が建ち、古戦場の跡を示している」 と書かれている。
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坂を上って行くと左手にゴルフ場の入口が見えてきて、その先の左手には「ログハウス」が立ち並んでいた。早乙女温泉のログハウス部である。
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道は、やがて森の中の切り通しになる。気温が低めとは言えども、日差しに照らされながらの街道歩きは汗ばむが、木陰の道は涼しくて心地よい。頂上に達して坂道を下って行くと、河東碧梧桐(かわひがし へきごどう)の句碑があり、「坂を下りて 左右に藪あり 栗落つる」と刻まれている。この地で詠んだ句である。碧梧桐と虚子は子規門下の双璧と謳われたが、守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子と激しく対立していた。しかし、後世の評は、やはり虚子の方が上ではなかろうか。
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碧梧桐の句碑の横には、「ほほえみ仏」と書かれた小さな石仏が並んでいた。本当に小さな石仏だ。ここを過ぎると、森も終わりで羽黒の集落に入って行く。
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集落の中の道を真っ直ぐ進んで、荒川に突き当たる手前に、立派な枝垂桜の木があり、根元に「勝善神」の大きな碑が建っている。「勝善神」は牛馬の守護神で仏教系の馬頭観音に対する神道系のもので、奥州街道で初めて見かけるようになった。最初に目に付いたのは白澤宿であった。
そして、荒川に架かる連城橋を渡って、喜連川の町に入って行く。
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喜連川の町に入ってきた。街道が貫く宿場町の雰囲気がある。喜連川と言っても、この名前の川はなく、そのいわれは、足利時代の荒川は、その上流に狐が住んでいたので「狐川」と呼ばれていた。しかし、どうも良くない呼び名と考え、荒川、内川、江川が喜んで連なって流れているので「喜連川」と呼ぶことにしたと言われている。そして、鎌倉時代に「喜連川」の表記が定着したようである。
少し先で、龍光寺への小道を右に入って行くと、道路脇の水路に鯉が泳いでいた。水路に柵を設けて飼っているようである。
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「龍光寺」は足利尊氏の開基で、江戸期には喜連川藩主足利家の菩提所で寺領50石を賜っていた。境内の左手奥に、喜連川藩主歴代の廟所があった。
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街道に戻り、進むと右手に「観光情報館」があったが、農産物の直売がメインのような雰囲気だったので寄らずに通り過ぎた。そして、次に左の小道を入って行くと「喜連川神社」がある。永禄6年、塩谷兵部大輔源惟朝が尾張国津島牛頭天王宮の分霊を勧請した社で塩谷氏喜連川氏の代々崇敬の社として現代に至っている。また、喜連川神社は、あばれ御輿の名で近郷まで知られいるとのこと。
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喜連川神社の境内から右の方に小道が続いており、現在は「お丸山公園」となっている「喜連川城址」に行くことが出来るようになっている。かなり急な道を息を切らせながら上って行くと、山頂の本丸跡と思えるところは広場となっており、喜連川の水道設備が設けられていた。
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さらに、右手に進むと「喜連川スカイタワー」が見え、また喜連川の街並みが良く見下ろすことが出来た。
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順路としては逆であろうが、下りてくると「お丸山公園」と書かれた入口の門があり、その前の市役所の駐車場には「喜連川城の大手門」が再現されていた。
「喜連川城」は、塩谷五郎惟広(これひろ)が源平合戦において、その一族として源氏側として参戦し、元暦元年(1184)2月の一の谷の戦いや文治元年(1185)2月の屋島の戦いで戦功があり、塩谷荘に三千町の領地を賜り、大蔵ヶ崎城を築いて居城としたのが始まりである。また、惟広は奥州藤原氏の征伐にも参戦し、この時、従五位下安房守の官途を賜っている。
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街道に戻ると、「街の駅本陣」の看板が見えてきた。ここは、かつては本陣のあった場所のようだが、大正15年に警察署が建てられ、現在は旅人を相手のレストランとなっているのである。建物の前には、湧き水が流れる石柱がおかれて、自由に水が飲めるようになっていた。
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時刻は11時30分で、ここで昼食とすることにした。お客は私1人で、他に客はいなかった。レストラン内部は、元警察署であったのを示すためか、所長室、拘置所などの木札が掛かっていた。残念ながら料理に関しては、値段の割には味はいまいちであった。
昼食を済ませ歩き始めて、次の信号で左に入ると「さくら市喜連川図書館」があった。街並みの見栄えに比べ立派過ぎるような建物である。地方に行くと公的な建物が、とても立派である。
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進んで行くと、立派な建物が目に付く。蔵のある由緒のありそうな住居に続いて、「たかしお薬局」も大きな建物である。街道は、この先の台町の信号で右手に入って行く。
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旧道は短い区間で、内川に架かる金竜橋に達するが、この区間も立派な家が多い。
以下は喜連川(後半)から太田原に続く

喜連川(後半)から大田原

喜連川に入って2つめの内川を「金竜橋」で渡る。歩行者のための側道橋が付いているので、のんびりと渡れる。内川は少し下流で荒川に合流するが、一昨日の雨の影響か、水流が早い。
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金竜橋を渡ると、田町の集落である。民家も途絶え、上り坂に差し掛かったところに「金鶏山」の額が赤い鳥居に掛かった「金鶏神社」がある。注連縄の形が奥州街道に入って見かけるようになったタイプである。
少し先には、大きな双体の道祖神。このような大きな道祖神を見るのは初めてである。
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上り坂の勾配が少し緩やかになったころに菖蒲沢公園の信号機がある。右に続く広い道は「フィオーレ喜連川」への入口である。温泉つき住宅地として大規模に開発されたところである。なお、左方向にはJR東日本が開発した「ビューフォレスト喜連川」があるそうで、こちらは電車内の広告で良く見かけられる。
進んで行くと、「ヤマギシズム社会那須実顕地」の看板が建っていた。昔社会問題を引き起こした山岸会は今も活動を続けているようだ。
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少し先には、「栃木米コシヒカリ」の大きな看板を掲げた、JAの大規模な倉庫が建っていた。この先は、また森の中の道であるが、車の通行が多いのが難点だ。
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森を抜けると、南和田の集落で田園風景が広がっている。その後も2Kmほどは田圃の中の道を進み、ようやく「下河戸」の信号に達して右折し、25号線から別れ114号線となる。前に遭遇した大きな双体道祖神を上回る大きさの道祖神がある。出来栄えに関しては、田町の集落で見たものより少し劣るように思える。
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道は大きく左にカーブして進み、江川に架かる宮下橋を渡る。農業用水としても貴重な川なのであろう。500mほど先で右に入る道があるが、その分岐には「源氏ぼたるの里」の看板が建っていた。旧東海道を藤川から池鯉鮒に歩いたときに、「乙川」のほとりで「岡崎源氏蛍発生地」の碑を探したことを思い出した。
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さらに、400m程進むと「きつれ川幼稚園」があり、子供達の元気に遊ぶ姿が見えていた。少し進んで、左手の田圃の土手に「ひなげし」の赤い花が美しく咲き誇っていたが、最近ニュースで伝えられた栽培禁止の「けしの花」のことが頭をよぎる。
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進んで行くと、左側にゲートボール場があり、奥に「明治天皇御休輦之處」の碑が建っていた。
その後、右手にゴルフ場がある道を進んで行く。やがて、さくら市と大田原市の境の看板が見えてきて、その直前に「ほほえみ地蔵」があった。「ほほえみ地蔵」は早乙女坂にもあったので、今日 二つ目である。
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5?600mほどで、48号線にぶつかり、その丁字路脇に与一の里の名木の説明板が建っている。高久家のツツジ群である。目通り0.3m、樹高5mとあり、推定樹齢は200年と書かれていた。推定樹齢200年でもツツジの木では大木とは言い難いが、樹高5mのツツジはやはり珍しいことに違いない。是非、花の盛りに見てみたいものである。
さらに、700m程進むと、右手に金網に囲われて古い庚申塔が3つ建っていた。
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右手に「大田原市藤沢地区土地改良区、県営圃場整備事業完成記念」と彫られた大きな石碑が見えてきた。この辺りの土地改良事業の記念碑であろうが、「和郷」の文字の下には、副総理兼外務大臣・渡辺美智雄書と書かれている。その子息の「みんなの党」代表の渡辺喜美を思い浮かべた。
長く、変化の乏しい道を歩いて、ようやく佐久山の街の入口の佐久山前坂の交差点に達した。交差点の角に和菓子屋松月があり、明治神宮献上の薯蕷(じょうよ)饅頭が有名らしいが、今日は大田原まで行きたいと考え、寄らずに先を急ぐことにした。
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前坂の交差点を横切り、急な坂を下って行くと、左手に多数の石仏が集められていて、その先には観音堂が建っていた。
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さらに進むと、左手に二十三夜塔が建っていて、その横には古い階段の上り道がある。上にもお堂がありそうな気配だが、スキップした。
もう五月も終わりに近いが、まだ鯉のぼりが泳いでいたが、周りの風景によくマッチして見えた。
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佐久山前坂の交差点で左に進んだ自動車道路と合流すると、佐久山宿の中心域である。佐久山は、文治3年(1187)那須次郎泰隆(那須与一の兄)が築城して、佐久山氏を称して居住し、以来佐久山氏の居城となった。その後、同族の福原資孝(すけたか)に攻められ、佐久山城は一旦廃城となったが、元禄15年(1702)、福原資倍(すけます)が修復を加え、以後福原氏の佐久山陣屋として維新まで存続した。
進むと、壁に那須与一の絵が描かれた公衆便所があったが、立派に見える。小島屋の屋号の和菓子屋も立派で趣がある。最近、こういう店は少なくなってきた。
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左側に「村上英俊」の顕彰碑がある。幕末明治期のフランス学者でフランス学の創始者ともいわれる。この地に生まれ、江戸で医学,蘭学を修業したのち,信州松代に移住。嘉永1年(1848)、佐久間象山の勧めによりフランス語を独習する。松代藩主の後援もあり、同4年江戸に出て松代藩邸内に住み、著作に専念、多くの書物を刊行した。また明治1年3月15日、仏学塾達理堂を開き、同18年、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与された。
佐久山郵便局の先で左に入って、進むと「実相院」がある。山門は、正徳年間(1711?1716)の建立で、和唐折衷の四脚門で市指定文化財である。本堂の奥に、福原資倍以来福原家28代、四郎資生(明治12年歿)までの墓所があるとのことだが、どなたかの葬儀が行われている様子であり、遠慮した。また、赤穂浪士の討入りの大高源五と大高幸右衛門の墓もあるとのこと。二人の母が親戚である佐久山大高家に身を寄せていて、分葬したものだという。
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道は大きく右にカーブしながら下って行く。途中左に「正浄寺」があり、ここでも葬儀が行われていた。小さな町だが、たまたま2つの葬儀が重なったようである。
時刻は3時半で、疲れもあり、ここで切り上げようかと考えたが、おそくなっても大田原まで行こうと決心して、箒川に架かる岩井橋を渡った。
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橋を渡って、直ぐに始まる坂道を上って行くと左手に、古い石碑群があった。馬頭観音らしいのだが、文字は風化して読めなかった。1Kmほど進んで左手に「養福院」を見る。なかなか太田原は遠い。
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少し先で、「イトヨ」が棲息する吉沢を渡る。進むと右手に立派な長屋門の家。
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この辺りは一面の麦畑で、向こうには雄大な山並みが見える。そして進むと、左に「薬王寺」がある。
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道路の薬王寺側と反対には、与一の里の名木・国井宅の赤マツの説明板があり、目通り1.7m、樹高7m、推定樹齢約200年の記述があり、姿の良い赤松が枝を茂らせていた。
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少し進んで、目立たないが「めがみばし」と書かれた橋を渡る。川面を覗くと綺麗な水が流れている。本当に水に恵まれた土地との印象である。
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とても立派な四脚門があった。代々名主を務めた国井氏宅で、説明板によれば三代将軍家光の時代に奥州街道に八木沢部落が開かれ、それを記念しての建立であろうと書かれていた。門内には、最近作られた屋根付き囲いに入った石が建っていた。寛永4年(1627)と彫られていて、後年の建立と思われるとのこと。
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百村川を筋違橋(すじかいはし)でわたる。この橋を渡って以降は、1Kmほど川の堤防の道を歩くのが気持ち良い。水深は浅く、子供の水遊びにも最適な流れに思えた。
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百村川と別れて、さらに1Km程進んだ信号のある交差点を渡ると、左側に特徴のある注連縄の八幡神社があり、通り過ぎると「佐久山街道」の道標も見えてくる。
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さらに、1Kmほど進んでようやく大田原市街入口の神明町の交差点に達する。右折して進むと、直ぐの左手に愛宕神社がある。ほとんど放置状態と思われ荒れ果てている。道の右手には「忍精寺」で、こちらは立派な境内と本堂である。浄土真宗東本願寺派の寺である。
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続いて、左に立派な構えの「薬師堂」がある、寛永年間(1624?44年)に大田原政清が建立したが、大田原宿の大火で焼失し1793年に再建された。薬師堂と堂内にある江戸中期の金剛力士像の2体ならびに境内にある石造りの七重塔、舎利塔は市の有形文化財となっている。また、境内からは、太田原の市街の通りが良く見える。
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国道461号となっている通りを進むと、左に旧街道らしい古い家屋が建っていた。そして、大田原信用金庫本店前に「那須与一像」がある。
時刻は午後4時半を回っており、今日はここまでとタクシー会社に電話して、西那須野駅に向った。
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歩くと遠くても、タクシーなら10分ほどで駅に着く。駅前は綺麗に整備されている。
30Kmを越えて歩くと流石に疲れ、帰りの電車の中では、ほとんどの時間 眠っていた。
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2010.05.17

宇都宮から氏家

本日の万歩計33,703(22.2Km)

3月13日に大山の阿夫利神社を訪れてから、久々の街道歩行である。
4月に家のリフォームを行ったので、3月後半からその準備で出かける余裕がなくなった上に気候が安定しなかったこともある。ようやく、少し余裕が出てきてまだ歩いていない5街道の内の奥州街道を始めることにした。
家を出て、宇都宮駅には8時58分に着き、バスで日光街道との追分の伝馬町に向い9時10分のスタートとなった。追分には、一本の表示杭が立っているだけで特になにもなく、石碑でも建てて欲しいと思う。そして、大通りを進むとマロニエ(西洋トチノ木)が赤い花を付けていた。なかなか良い感じである。
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進んで行くと、釜川に架かる都橋を渡る。確かに川は流れていて、川沿いにはレンガ敷きの道路が設けられていてプロムナードとなっている。この先で右折してオリオン通りに入って行く。このアーケードになっているオリオン通りが奥州街道なのである。
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アーケードが終わるところの十字路で、左方面には「二荒山神社」の鳥居が見え、右には江戸中期の創建の「琴平神社」がある。
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アーケードが終わっても、歩行道路は続き「今小路通り」にぶつかって終わる。その後クランク状に進んで大町通りに入ると「おしどり塚」の石碑が建っている。鎌倉中期の仏教説話集「沙石集 」にも記されている伝承で、求食川(あさりがわ)の傍に、水鳥の住処になっていた求食沼があった。その沼で、猟師が一羽の雄のおしどりを射止め、首を切り落とし、身体だけを持ち帰った。翌日、同じ場所でうずくまる雌のおしどりを射止めると昨日射止めた雄鳥の首が、翼の下に抱きかかえられていた。何のためらいも無く殺生していた猟師はそれを見て心打たれ、雌鳥を埋葬し供養の石塔を建てたとのことである。
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左折して、大きな道路の上河原通りを進むと田川に架かる「幸橋」が見えてきて、その手前の左側に「妙正寺」がある。また、その左手には「清巌寺」がある。
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「清巌寺」には鎌倉時代の元和元年(1312)に宇都宮8代城主の宇都宮貞綱が母の13回忌の供養のために鋳造した日本最古の鉄塔婆(てつとうば)が残されており国の重要文化財に指定されている。収納庫に仕舞われているが、自由に扉を開けて観てよいと書かれた案内板があったが、扉に鍵が掛かっていて残念ながら見られなかった。10時少し前で、早すぎたのであろうか。
幸橋から田川の流れを見ながら橋を渡ると、旧篠原家がある。篠原家は奥州街道口の豪商で、江戸時代から第二次世界大戦まで、醤油の醸造と肥料商を営んでいた。明治28年に建立された店舗部と住居が一体となった蔵作りがそのまま残されていて国の重要文化財に指定されている。内部も見学できるようになっているが、残念ながら月曜日は休館であった。
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豪壮な旧篠原家の建物を過ぎて進むと、右手に八坂神社がある。康平6年(1063)、当時の宇都宮城主藤原宗園(宇都宮氏の祖)が本丸築城の時、丑寅の方角に当たるここに、鬼門除の鎮護として神明社を創建したもので祀神は須佐ノ男命である。
毎年、春と秋の行われる八坂神社の太々神楽は江戸時代から続いており、宇都宮市の重要無形文化財に指定されているという。
さらに進むと、東北新幹線のガードが見えてきて、現奥州街道は右に大きくカーブして進むが、旧奥州街道は左側の県道125号線を進んで行く。竹林町の信号が見えてくると、道の左手に立派な長屋門の岩淵家の住居が見えてくる。
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近づいて長屋門を見ると、益々豪壮さが感じられるが、その先にも四脚門の立派な家があり、旧街道を感じさせられるものであった。
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竹林の交差点を過ぎ、左手に「宝蓮院」を見て1.5Kmほど進むと、街道らしい松の木が立っていた。ここで、栃木銀行の裏手の方に回ると、石仏群がある。ここは宇都宮藩の刑場のあったところだとのことである。なお、地蔵堂囲碁将棋クラブの建物の中に首切り地蔵があるとの事であったが、扉が閉まっていて良く分からなかった。本当に、案内板もなく分かり難い。
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また、宇都宮城主であった本多正純の失脚の元となった、根来衆100人の首塚が有ったところとも言われている。江戸時代初期の元和7年(1621)、宇都宮城主本多正純が幕府から差し向けられた根来組百人衆に城普請を命じたが、これに従わなかったので全員を捕らえて処刑してしまったのだという。
歴史的な遺構に乏しく単調な道を4Kmほども進むと、海道町に入ってきて、大谷石作りの素晴らしい蔵があり、道路の街路樹も良い雰囲気となってきた。そして、ふとバスの停留所名を見ると「稚児坂」となっていた。建久7年(1196)、始めて鎌倉幕府により奥州総奉行が設けられ初代の奉行である伊沢家景が奥州の任地に向かったその途次、この地で同行の乳幼児であった我が子を亡くしたのだという。
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広大な王子製紙の日光工場が見えてきた。日光からはかなり離れているが、日光工場であるらしい。その先で、県道125号が氏家宇都宮線として左に分かれ、右が旧奥州街道(白沢街道)となって進み白澤宿に入って行く。
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道は緩やかに右にカーブしながら、下り坂となるが、その途中に「白沢地蔵」がある。稚児坂で亡くしたわが子をここに葬り、地蔵堂を建てたものである。
白沢地蔵堂の前からの坂を「やげん坂」というが、「やげん坂」とは、この坂が漢方の薬種を砕くのに用いられる薬研(やげん)に似ている事から呼ばれるようになったとのこと。
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白沢宿の信号の丁字路を左折すると、道の両側に水路のある通りになっていて、家の前にはかつての屋号の書かれた木札が掛かっている。直ぐの左手には、村社の「白髭神社」への参道が続いている。「白髭神社」は白沢宿の産土神である。
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その先の交番前には「番所」の札が掛けられ、その隣の立派な門柱脇には本陣の札が掛かっていた。
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道路わきの水路では、水車が回っていて、鯉なども放流されているようであった。
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道路の右手には古い趣のある家も見られ、左には白沢宿七福神の布袋尊のある「明星院」がある。
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白沢宿の道路は400mほど直進した後に右折して、直ぐに九郷半川を九郷半橋で渡る。九郷半川とは、9つの郷と1郷の半分の田を潤すという意味であるとのこと。橋のたもとには、古い道標と道祖神らしい石柱が建っている。ここが白沢宿の出口で、その後真っ直ぐな道を進んで行くと、広い田園風景が広がる。4月は後半に到るまで寒い日があり、遅れていた田植えがやっと終わったとの感じである。
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さらに進むと、麦が色づいて実っている。最近では珍しい光景である。そして、西鬼怒川を渡る。元和6年(1620)に開削された水路(逆木用水)であった。
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西鬼怒川の流れを見ると、今も農業用水としては十分に役立っているように見える。さらに進むと、「白澤の一里塚址」の石碑と福禄寿の小さな像が建っていた。
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田圃の中の道を1Kmほども進んだであろうか、ようやく鬼怒川の堤防にたどり着いた。ここからは、堤防を歩いて「阿久津大橋」まで進む。江戸期の渡しは、この堤防のどこかの地点であったであろうが、今となっては場所は定かでない。土手の斜面には春の野草が一面に花を付けていた。
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ようやく、「阿久津大橋」にたどり着いた。長さは700m程であろうか、長い橋である。歩道はないが白線の外側もそれなりの巾があり、怖くはなかった。橋の真中から向こうが「さくら市」である。
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橋を渡り終えると、さくら市・氏家宿の看板が掲げられていた。さくら市は氏家町と喜連川町が合併して平成17年に発足した新しい市である。両町にサクラの名所が多いことから「さくら市」としたとのことである。
左折して、進むと「船玉神社」がある。ここは、明治までは、阿久津河岸(かし)があり大いに賑わっていたところである。鬼怒川舟運の終点である阿久津河岸は氏家を治めていた勝山城が廃城となった慶長2年(1597)頃より開設され発展してきた港であり、奥州街道や原方街道、会津中街道、下野北部から陸送されて来た荷が、ここで川船に積み込まれ江戸へ運ばれたのである。
「船玉神社」は、鬼怒川水運の船頭達の守り神で、舟形をした境内の舳の位置に神殿が建てられ、船の御霊(みたま)、船玉(魂)大明神が祀られている。
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少し先には、「浮島地蔵尊」のお堂がある。鬼怒川沿岸は、川名の通り大洪水が多かったが、それを救済してもらおうと水神や地蔵等の信仰が生まれた。特にこの浮島地蔵は、どんな洪水にも流されずに浮いてこの地に留まっていたという。地蔵の台座には「元文4年(1739)、八日念仏講中、女人等現当二世安楽所」と刻まれていて、毎月8日に、村の女性達が念仏講を行っていて、そのため今では、子授け、安産、子育ての神としても信仰されるようになったという。
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125号線に復帰して進むと、右側に高島神社がある。阿久津の産土神であった。
さらに先には、将軍地蔵がある。前九年の役で、源義家が陸奥の阿部氏討伐に向かう時法師がここで不動明王を祀り戦勝祈願したという。その後、亡ばされた阿部一族の亡霊が出て、人々を悩ませたがここの地蔵菩薩が現れて救ったとのこと。
また、室町時代勝山城主の代参で日光に赴いた僧達が「そうめん責め」に遭い苦しんでいた時、ここの地蔵が現れ代わりにそうめんを全部平らげて助けてくれたことからそうめん地蔵とも呼ばれるようになったとのこと。今、日光に伝わる「強飯式」の原型であったようである。
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進んで行くと、「勝山城跡」の看板が見えたので、立ち寄ることにした。勝山城は南北420m、東西370mで鬼怒川の左岸の宝積寺段丘最北端に位置する連郭式の城であり、鎌倉末期に氏家氏が築城し、その後宇都宮氏の一族の芳賀氏によって強固な城構えが完成した。中世下野における、宇都宮氏一族の北方防衛の拠点でもあった。戦国時代には那須氏との激戦地となったが堅牢な城で落城することは無かったが、宇都宮氏が慶長2年(1957)秀吉により改易され、廃城となったとのこと。当時を偲ばせる空堀が残っている。
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空堀に架かる大手口の橋を渡って進むと、本丸跡の広がりが望見できた。
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城跡を訪れた後、右に進んで左折しスーパーのベイシアの横を通って田圃の中を進んで行くと、「お伊勢の森」と書かれた案内板が立っていて、左に入ったところに小さな木立が密集したのが見える。このあたりは、一面に広大な森が広がっていたことから伊勢神宮の内宮・外宮を勧請し建てられた神社を設け「お伊勢の森」と呼ばれるようになったというが、今は10坪あるかないかの小さなものとなっている。
そして、東北本線の踏切を渡る。ちょうど氏家駅の方から列車がやってきて通過していった。
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やがて、県道181号にぶつかる。ここが追分で、氏家宿は左折する。古い道標は、風化していて「右江戸道」しか読めないが、「右江戸道、左水戸 かさま 下だて 下づま」と書かれているらしい。隣の馬頭観世音は、天保9年(1838)建之と彫られていたが、最近に再建されたものだろう。
1Kmほど進んで氏家駅東入口の信号の手前を左に入って行くと、建久2年(1191)に氏家家の始祖で勝山城を築いた宇都宮公頼が開山し、氏家家の菩提寺であった西導寺がある。
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久々の歩行で、疲れたので今日はここまでで終えることにし、氏家駅の方に進んでいった。途中に大谷石造りの蔵を改造したレストランがあったが、感じよく収まっている。
そして、氏家駅である。ほどなく15時29分発の宇都宮行きが入ってきた。
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