2008.06.14

須原から十二兼

本日の万歩計29,958(20.1Km)
木曽路に入ると、電車の便が悪く必然的に1泊して2日間の歩行となる。このため、ブログの記事を書いたり、次の予定区間の下調べ、宿泊ホテルの予約などを考えると連続した週の歩行は厳しい。しかし、既に梅雨の季節に入って晴天を逃せば、次はいつになるか分からないと考え強行した。
前回帰途に着いた須原駅に12時8分に着いた。これが、一番早い到着なのである。
もちろん、須原駅は無人駅で、駅前には江戸時代から「桜の花漬け」を製造販売する「大和屋」が店を開いていて、菓子やアイスクリームなども置いている。脇本陣と問屋を務め、現在も地酒「木曽のかけはし」の蔵元を続ける西尾家の店である。
suhara_01.jpgsuhara_02.jpg
須原では、木の丸太をくりぬいて水場を作っているのを見かける。これを「水舟」という。左の写真のタイプがほとんどであるが、右のタイプもたまにはある。コップを置いてある水舟は飲料可能のサインのようであり、旅人も自由に喉を潤してゆく。
suhara_03.jpgsuhara_05.jpg
もう、歴史的な遺構は少ないが街並みは街道の様相を見せており、右の写真は鍵屋の坂で、水路を挟んで両側に道がある。江戸時代の一般的な街道の様を残しているとのこと。
suhara_04.jpgsuhara_06.jpg
塩尻からの電車の中で、隣に座った千葉在住で小学校の同窓会に出るため「寝覚の床」に行くと話した年配の方から、須原で是非寄りなさいと言われた「定勝寺」に向かう。臨済宗妙心寺派の寺で嘉慶年間(1387年?1388年)に木曾氏により創建されたとされる名刹である。山門脇には水舟があり、美しく素晴らしい庭園を持ち、樹木の緑が殊更に映えるお寺であった。
suhara_07.jpgsuhara_08.jpgsuhara_09.jpgsuhara_10.jpg
須原宿を過ぎ、長坂と呼ばれる坂を上って、進むと山の斜面にヤグラを組んで配置されたお堂がある。岩出観音と呼ばれ、馬頭観音が祀られている。江戸中期の建立と伝えられる。
その後、道は左に曲がって山を回りこむような感じで大桑の集落に向かう。どこか懐かしい、のどかな田舎の道が続いている。
suhara_11.jpgsuhara_12.jpg
途中、文禄年間(1592?1596)定勝寺七代天心和尚の開山の地久山天長院がある。須原の定勝寺の末寺である。色々な表情の小さな地蔵が並んでいた。東海道の興津の清見寺の五百羅漢を思い出した。
suhara_13.jpgsuhara_14.jpg
天長院の辺りから見る風景は、日本の田園風景の原点のように感じられ美しい。のどかな道が続き大桑駅が近い。
suhara_15.jpgsuhara_16.jpg
大桑駅を過ぎて国道に合流すると、「道の駅大桑」があり立ち寄って一休みし、しばらくは国道を歩くこととなった。ようやく国道を離れて野尻宿に入って行くと、「本陣跡」の木の立て札があったが文字が相当に薄れている。どうも、野尻宿は中山道の遺構の保存には無頓着らしい。それでも街並みはそれらしい姿だ。
suhara_17.jpgsuhara_18.jpg
野尻宿を過ぎて、JRの踏切を2回渡って、進んで行くと国道の下にトンネルがあり、ここを潜るようになっていた。元来、水路としてのトンネルで、その中を人が通れるようにしたもののようだ。メッシュの底板の下には水が流れていて涼しい。夏に涼みにくるとよいのではと思われた。
suhara_19.jpgsuhara_20.jpgsuhara_21.jpg
JR十二兼駅に着いた。時計を見ると午後4時17分。駅で列車の時刻表を見ると、中津川方面行きは4時24分である。少ない本数の木曽路の列車で、全くドンピシャリと言える時刻だ。迷うことなく、今日はここで終えることにして、今日の宿を予約してある中津川に向かった。

2008.06.08

木曽福島から須原

本日の万歩計38,074(25.5Km)
木曽福島で一泊して朝が来た。夜の間に雨が降ったようで、道路は濡れていて、しかも今にも降りそうな雰囲気。テレビの天気予報では木曽地方は曇りと言うのを信じて、7:30amに宿を出発して、今日の起点の木曽福島駅に向かう。
駅から路地のような細い道に入って行くと、木曽町役場にぶつかり右に回り込むような感じで進み、木曽福島の街並みが一望できる場所を通り、なお木立の中の小道を進む。
kfuku_01.jpgkfuku_02.jpg
小道を抜けて進んで行くと、右手に「木曽取水ダム」が見える。雨が多かったためもあり、豊かな水量である。
kfuku_03.jpgkfuku_04.jpg
一度県道に出るが、直ぐに静かな道を上って行き国道の下をくぐると、ぽっかりと口を空けたトンネルが見える。明治43年にJR中央線のために作られたトンネルだが、今は使われておらず、このトンネルを通り抜ける。あまり長いトンネルではないが、照明はあっても、中央部はかなり暗い。
kfuku_05.jpgkfuku_06.jpg
そして、神戸(こうど)の集落に進んで行くと鳥居峠とここの2ケ所の御岳山の遥拝所がある。そして、草の茂った道を通って行くと「沓掛馬頭観音」のお堂である。木曽義仲が名馬の死を悼み建立したと書かれていた。
kfuku_07.jpgkfuku_08.jpg
国道を進むと、有名な「木曽の桟(かけはし)」がある。今は、建設技術の進歩で大型トラックが激しく走ってもビクともしないが、昔は難所であったとのこと。桟道(さんどう)と言えば三国志に出てくる蜀の桟道(しょくのさんどう)が有名であるが、ここも同じく難所であったが、尾張藩の工事でずいぶんと改善されたらしい。下の右側の写真は、木曽川を渡ったところにある、桟温泉(かけはしおんせん)である。
kfuku_09.jpgkfuku_10.jpg
木曽の桟を過ぎて、長い国道あるきが続くが木曽川沿いであるので、流れる水を見ながら歩くと、気持ちも安らぐ。途中、釣りを行っている人も居た。
kfuku_11.jpgkfuku_12.jpg
やっと、国道19号から右に分かれて「上松宿(あげまつしゅく)」に進んで行く。宿場らしい街並みで、カーブしているのは鍵の手であろうか。
kfuku_13.jpgkfuku_14.jpg
kfuku_15.jpg
上松の街の中心部は、あまり歴史的な遺構は残っていないが寺坂という細い坂道を上って行き上松小学校で茂吉の歌碑、藤村の文学碑を見て寝覚めの集落に達する。ここには、江戸期に茶屋本陣であった「田瀬屋(たせや)」、十返舎一九の「道中膝栗毛」にも登場する蕎麦屋の「越前屋」がある。浦島太郎が目覚めたとの伝説の「寝覚の床」は、この有名な2軒の間を下って行く。話しが前後するが、「寝覚の床」を見学して坂道を上がってきたら、家の石垣の上の草むしりをしていた、「田瀬屋」のおばあさんが、歩いているの?、よって行きませんかと声を掛けてくれた。「田瀬屋」は今では「民宿」を営んでいるようだが、江戸時代の建物が今に続く貴重なもので、釘が1本も使われていないとのこと。おばあさんいわく、私が嫁に来た時から建物の様子は全く変わっていないとのこと。長い江戸時代にここで、休んだ大名の記帳簿が何冊も残っていて、名前の知れた大名の名前が続いていた。話し好きのおばあさんで、ずいぶんと色々お話を伺った。
さて、「寝覚の床」である。坂道を下って、国道を渡ると「臨川寺」があり、入場料200円を払う。寺に入らなくても川に下りてゆけるが、大きく迂回する必要があるので200円払った方が便利だし、上から真下に見るのも趣がある。それに、何と言っても浦島太郎の「釣竿」が見られるのが面白い。誰も信じていなくても見たくなるものだ。
kfuku_16.jpgkfuku_18.jpg
他にも「臨川寺」には、尾張藩の4代藩主の徳川吉通が母堂の長寿を祈って建てた弁天堂や、浦島太郎が自分の姿を映した「姿見の池」がある。

kfuku_17.jpg kfuku_19.jpg水の流れが花崗岩を長い時間を掛けて削り、作り出した「寝覚の床」は、水の緑と花崗岩の白の対比が美しく、木曽で一番の景勝地と言われるのもうなずける。

kfuku_20.jpgkfuku_21.jpg
元の中山道に復帰して、進むと「上松町」で一番大きい「桂の木」。胴回りが4.1mもある。道は最後には草道になって、上松宿から離れて行く。
kfuku_22.jpgkfuku_23.jpg
kfuku_24.jpgkfuku_25.jpg
国道に出てしばらく歩くと、広重・英泉 合作の中山道69次の浮世絵にも描かれた「小野の滝」がある。いまは、JR中央線の鉄橋が上に架かり、目の前には大型トラックがうなりを上げて通り過ぎる国道がある。それでも、かつては名所の1つであったことを十分に窺わせる風情が感じられる。
この辺りは、国道の開通で断ち切られた旧街道がポツポツと国道の両側に残っていて、小野の滝を過ぎると荻原の集落があり、少し進むと国道に出て次に4軒ほどの家が残っている宮戸の集落で草道を通って、再び国道に出る。
kfuku_26.jpgkfuku_27.jpg
またまた、国道を離れて立場のあった立町に入ると、なんと木曽川に架かる吊橋があらわれた。橋の中央あたりまで進んでみたが、ワイヤーが錆付き、かなり老朽化している。もう少し古くなったら修復するのだろうか、それとも朽ちるのにまかせるのか。
kfuku_28.jpgkfuku_29.jpgkfuku_30.jpgようやく、「倉本駅」に到る。鉄道により旧街道は完全に分断されており、駅を大きく迂回して、線路の反対側に出て残っている旧街道を進む。小さな集落が残っているだけだが、最後に国道に復帰するところは、感じのよい草道であった。本来、これが歩く道なのであることを感じさせてくれる。草の軟らかい感触が靴を通しても伝わってきて心地よい。そして、車のためであっても人のためでない道へと進んで行く。
単調な道が続き、何か変化のあることを期待していたら、何と踏み切りでもないところで、線路を跨ぐことになった。細い道が線路の両方にまで伸びてきているのだが、肝心の線路に踏切がないのである。「危険につき線路横断禁止。近くの踏み切り等を通行してください」の立て札がある。そんなこと言ったって1km以内には踏み切りは無い。責任を果たしたという免罪符としての立て札だろう。
渡ると、養魚池があり、ほどなくまた、同じ立て札のある場所で線路を跨ぎ国道に復帰する。
kfuku_31.jpgkfuku_31a.jpg
国道脇に素晴らしい枝垂桜の木がそびえていた。花の季節は見事なものであるに違いない。やっと、今日の最終目標地の須原の駅に着いた。幸田露伴の文学碑があった。時刻は14時50分で、電車は15時17分だ。まだ早い時刻なので次の駅まで歩きたいが、15時17分の電車を逃すと、18時近くまで電車がない。これでは家に着くのが真夜中で遅すぎる。恐ろしいほどの不便さだ。今日はここで諦めて、帰宅することにした。
kfuku_32.jpgkfuku_33.jpg

2008.06.07

薮原から木曽福島

本日の万歩計31,683(21.2Km)
5月は雨が多く、また仲間の集まりなどもあり、一月ぶりの歩行である。
木曽は各駅停車の列車の本数が極端に少なく、塩尻に9:30分に着いても10:50まで木曽方面の列車が無いはずであったが、ラッキーなことに9:46分に薮原行きの臨時列車があった。奈良井の漆器祭りのお蔭だ。途中、特急の待ち合わせがあったりしたが、10:30に薮原に着き歩き始めた。
中山道は駅の出口と逆方向なので、前回線路を潜った通路を逆に通って、歩き始めると木祖村民センターがあり、一里塚跡の碑とD51の蒸気機関車が飾られていた。しばらくは国道の歩道を歩かざるを得ないが、狭い谷あいで緑が美しいのが救いだ。
yabuhara_01.jpgyabuhara_02.jpg
さらに進むと、谷は益々狭まり国道は「吉田洞門」へ。車の通りは激しいが、歩道は木曽川に面して歩き易い。
yabuhara_03.jpgyabuhara_04.jpg
10分ほど進むと、国道は「山吹トンネル」に入るが、トンネルを迂回するように走っている旧国道を進む。江戸時代に大勢の通行で賑わった旧中山道も、国道だ出来て忘れられ消え去ったところも多いが、その国道もより高速通行を図るためトンネルを穿ち、部分的に放棄された場所もある。そして、このような場所では自然が元の姿を回復すべく直ちに活動を開始しているのを見ることができる。そのせめぎあいを木曽川が横目で眺めながら滔々と流れて行く。
yabuhara_05.jpgyabuhara_06.jpg
少し進むと、ようやく国道から離れ「宮ノ越宿」の方に進む。車の騒音から逃れられてほっとする。電車の線路を上に見て進むと、直ぐに「巴淵」に着く。水が巴状に渦巻いていたから「巴淵」と呼ぶようなったとか、「巴御前」がよく水浴びをしていたからとも言われているそうだが、「巴御前」はこの淵に住む龍神の化身だというものまであるそうだ。大して大きな淵でもなく、少し木曽川の流れが澱んで青く見えるだけである。淵の上の山は「山吹山」であるが、「山吹」も「巴」も木曽義仲の愛妾なので、二人の名前を付けたかったからと言うのが、本当のところではなかろうか。
yabuhara_07.jpgyabuhara_08.jpg
yabuhara_09.jpgyabuhara_10.jpg
「巴渕」を過ぎて「徳音寺」と言う集落に入って行く。お寺の「徳音寺」と同じ名前の集落だが、お寺までの1Kmほどの道は、国道を歩くのに比べると極楽だ。のどかで本当によい道で、もちろん車は通らない。
yabuhara_11.jpgyabuhara_12.jpg
ほどなく、お寺の「徳音寺」に着く。木曽義仲、母小枝御前、愛妾巴御前、樋口兼光、今井兼平の墓があり、また義仲の霊廟もある。木曽義仲の墓は東海道歩きで大津で義仲寺(ぎちゅうじ)でもお目にかかった。巴御前の馬上の像も建っていたが、顔が可愛すぎるように思えた。
yabuhara_13.jpgyabuhara_14.jpg
yabuhara_15.jpgyabuhara_16.jpg
「徳音寺」を出ると、ふるさと創生事業の一環として平成4年に建てられた義仲館。入館せずに、建物正面の義仲と巴御前の像を見て、「宮の越宿」に入って行く。本陣跡には明治16年の大火以降に建てられた村上家の家が残っているが、今では住む人も無く、荒廃している。
yabuhara_17.jpgyabuhara_18.jpg
そして、江戸時代に掘られた井戸で名水とされた「御膳水」。明治天皇が行幸の際に飲まれたので「御膳水」と名付けられたものであろう。「宮の越宿は」今は静かな集落と化してしまい、疎らな家の並びの中を街道は進んで行く。
yabuhara_19.jpgyabuhara_20.jpg
やがて、街道は間の宿の「原野」に入って行く。木曽を歩いて感じたのだが、お墓が多く、かつ立派だということである。お墓の入り口には、多くの石仏を配したものも多い。そして、山の中腹には「明星岩」と呼ばれる三角形の岩が飛び出して見える。相当に大きな岩であるようだ。
yabuhara_21.jpgyabuhara_22.jpgyabuhara_23.jpg
左を向くと「木曽駒ケ岳」が望まれ、なんと「中山道中間点」の立て札があった。江戸、京都 双方に67里38町(268Km)とのこと。もう、半分歩いたかと思うし、まだ半分かとも思う。
中間点を過ぎると直ぐに、小沢の集落でかすかに踏み跡が感じられるような道を進むことになる。直ぐに川沿いに出て草原を進み、農家の方が田圃に行くのに通る、メッシュで川面が見える鉄の橋を渡って進む。大きく立派な蕗が茂った家があり、街道らしい家並みが続いている。栗本の集落である。
yabuhara_24.jpgyabuhara_25.jpg
yabuhara_26.jpgyabuhara_27.jpgyabuhara_28.jpg進んで行くと、中原兼遠が木曽義仲の学問成就を願って京の北の天満宮を勧請して作った「手習い天神」がある。急な階段を上ると、小さな境内だが、相撲の土俵もあった。江戸時代には、参勤交代の大名もお参りしたという、小さいながらも古社としての風格がある。
yabuhara_29.jpg「手習い天神」を過ぎると、直ぐに国道に合流して長い道のりを進むが、やっと、大きな関所の門が見えてきて「木曽福島関跡」に到着する。復元された関所を見学するが、陳列されていた、ジオラマが当時の様子を良く表しているのでなかろうか。
yabuhara_30.jpgyabuhara_31.jpg
yabuhara_32.jpgyabuhara_33.jpg
関所を過ぎると、島崎藤村の姉の園が嫁いだ「高瀬家」がある。代々木曽福島の関所番を勤め、藤原氏の流れをくむという名門である。江戸時代には公方さんにも献上したという「奇応丸(きおうがん)」も有名であったとか。展示館を作って色々なものを展示していたが、やはり島崎藤村に関係するものが多い気がした。そして、そこから下の道路に降りる、九十九折の坂道は「初恋の小径」と粋な名前が付いていて、初恋を歌った句が頻々と表示されている。
yabuhara_35.jpgyabuhara_36.jpg
「初恋の小径」を下りて、本町の商店街を進み「上ノ段」の方に曲がると「高札場」があり、古い町並みが見られる。距離は短くて10軒ほども続かないほどだが、格式を感じる家が並んでいる。
yabuhara_37.jpgyabuhara_38.jpg
木曽川は、音を立てて滔々と流れている。橋を渡って「山村代官」の屋敷跡に進む。
yabuhara_39.jpgyabuhara_40.jpg
ちょうど「ほうば祭り」が行われており、代官の屋敷跡の前の広場は、屋台なども出て、大賑わいだ。祭りの期間は代官屋敷見学は無料開放で見学できるとのこと。早速、入って、綺麗な庭園、使用されていた食器、鎖帷子などが展示されているのを見学した。
yabuhara_41.jpgyabuhara_42.jpg
yabuhara_43.jpg代官屋敷を見学して帰ろうとしたら、地元の人に中山道歩きですかと呼び止められ、そうなら木曽福島駅前の観光案内所で手作りの素晴らしい地図が貰えると教えてくれた。早速、駅に行き「素晴らしい地図」を貰って、今日の宿泊旅館の「さらしなや」に向かった。

2008.05.05

本山から薮原

本日の万歩計41,5435(27.8Km)
今日は朝からどんより曇った天気で、天気予報でも今日一日雨が降らずに済むかどうかが定かでない。塩尻から名古屋方面に向かう電車は非常に少なく午前中では6:54、8:10、10:50の3本だけである。ともかく6:54分発の電車で「日出塩駅」に向かい、7:02分着で歩き始める。
歩き始めて、しばらく行くと旧道は国道の下を潜って直ぐに合流し、1Kmほど進むと右手に「是より南 木曽路」の大きな石碑。松本領と尾張領との境界であったところだ。いよいよ木曽かと少し感じ入る。
narai_01.jpgnarai_02.jpg
道路の左手を見ると、道路壁に進行方向に対して戻る感じで斜めに上る小道があり、ここから旧道に入って行く。途中には落石防止のネットもあり、直ぐ下に国道がちらちらと見える歩き易い道であった。
narai_03.jpgnarai_04.jpg
直ぐに旧道は終わってしまうが、終わりのところには屋根付きの千手観音像。これ以降は、しばらくは国道を歩くが、1.5Kmほど進むと国道の上の方に「若神子の一里塚」がある。下ばかり向いて歩いていたら気が付かない位置だ。もともと旧道は少し高いところを通っていたのが分かる。
narai_05.jpgnarai_06.jpg
その後、直ぐに「若神子」の集落を通る旧道への入り口があり、国道から分かれる。
途中で国道への分岐が何度かあり、贄川駅のごく近くまで辿ってゆける。国道、JR中央線が直ぐ下に見え、見晴らしが良く気持ちが良い。谷が狭まって耕作可能な土地がほとんどなくなってきたのが分かる。
narai_07.jpgnarai_08.jpgnarai_09.jpg
贄川駅に着いたが、やはり無人駅であった。通り過ぎて直ぐに線路を跨ぐ橋が2つ平行していて、新しい橋が車の通行用に完成したので古い橋は整備して歩行専用としたようだ。手すりには金属の筒がぶら下がっていて、備え付けてある小さな木槌で順番に叩くと「木曽節」が奏でられる。やってみたが、あまりうまくは響かない。
贄川は温泉が出て「熱川」の字をあてていたが後に温泉が枯渇し、また諏訪大社の神事の贄として、ここで獲れた魚を献じていたことから、この贄の字が当てられたという。橋を渡ると直ぐ左に「贄川の関所」が復元されていた。関所と言えば「木曽福島」の関が有名だが、秀吉の時代に木曽五木の持ち出しを取り締まる材木番所として設けられたのに始まり、後に四大関所の一つとなる福島関所が設置されると、その副関としての役割を担ったという。時計を見ると8時44分で9時にならないと見学できず、関所に付随して設けられている資料館も見学できない。
narai_10.jpgnarai_11.jpg
narai_12.jpg諦めて、歩き始めると直ぐに水場があり、何とその前がゴミの収集場所になっていて、おばさんたちがゴミ袋を持って集まってくる。大概はゴミを捨てて直ぐに帰るが、2人が残って盛んに、おしゃべりをしている。飲み水を補給したいと思っていたところだったので、この水が飲めるかどうかを聞きたいのだが、おしゃべりが途切れない。しばらく待って我慢できず「この水飲めますか」と聞いたら2人から同時に「飲めます」と返事が返ってきた。冷たく美味い水であった。振り返ったら、2人とも居なかった。
贄川も歴史的な遺構は多くは無いが、国重要文化財の「深澤家の住宅」が残っており(下右)、家並みも何となく街道の様相である。
narai_13.jpgnarai_14.jpg
贄川の宿は短く直ぐに終わるが、宿を過ぎると古い国道の廃トンネルが見える。最初に見えた方は土で塞がれていた。
narai_15.jpgnarai_16.jpg
narai_17.jpg一度国道に合流し、また左に分かれて長瀬の集落を歩いて行く。ここも生垣が綺麗だ。また国道と合流して進んで行くと、道の駅の「木曽ならかわ」がある。ここでは木曽の木製品も売られているが工業製品と職人の手作業の製品の価格差を実感する。漆器など手が出ないほど高価だ。コーヒーでも飲んで休んで行こうとしたが、注文したコーヒーが待てど暮らせど出てこない。ざる蕎麦を頼んだ人は食べて出てゆくのを見て、頭にきて、もう要らないと断って歩き始めた。これも、国土交通省の天下り会社の経営のせいではなかろうか。
narai_18.jpg
進んで行くと、「平沢」の街に入って行く。「平沢」は今や最大の漆器の街である。漆器は当初、木曽福島で始まり奈良井に伝わり「平沢」は、その下請け的存在だったが、明治になり錆土という下地材が有ったため、主役に躍り出たのだという。立派な構えの漆器製造所、漆器店が続き、ここも斜交屋敷の建て方である。そして、ここほど狭い道路でも斜交によって生じる駐車スペースの便利さを感じている場所は無いように思える。
narai_19.jpgnarai_20.jpg
平沢宿が終わると、道は線路を横切り直ぐに右折して奈良井川の堤防を歩く。川の流れの向こう側に江戸から64里の「橋戸の一里塚」が見える。川の反対側には「楢川小学校」があり、 外壁はさわら、ランチルームはひのき、廊下は楢の木、体育館はカラ松、給食の食器は漆器だという。
そして、奈良井大橋を渡ると点々と奈良井宿に向かう観光客が見える。
narai_21.jpgnarai_22.jpg
奈良井は、流石に無人駅でなく、駅員さんが1人いた。しかし、電車の本数からして暇をもてあますのではなかろうか。駅前には5月連休とあって交通整理のおじさんも立っている。そして、宿に入ってゆくと観光客が大勢歩いている。ここは観光地だ。食事でも喫茶でも多くの店がある。
narai_23.jpgnarai_24.jpg
街並みはタイムスリップしたような雰囲気であるが、歩いていて感じたのはテーマパークとして作られた街のように思ったことである。建物も「平沢」の方が本物であると思う。もちろん、訪れて損は無い場所ではあるのだが・・・
narai_25.jpgnarai_26.jpg
屋敷は昔と同じく、間口は狭くても奥行きは深い。
そして、短気で道の駅で飲み損ねたコーヒーを飲もうと、古い様相のお店に入って、五平餅とコーヒーのセットを注文する。
narai_27.jpgnarai_28.jpg
コーヒーに切干大根とたくあんが着いて来るのが面白い。五平餅は櫛に刺して焼いたものと思っていたが、出てきたのは丸めてたれを載せたものだ。胡桃とゴマの味がして美味しかった。まだ、11時だったので、店の女将さんに、これから「鳥居峠」を越そうと思うが、どれほどかかると聞くと2時間ぐらいでしょうとのこと。また、主人は先日皆で道路の草刈などしたから、歩き易くなっていると言う。ゆっくりといただき、店を出るとすぐに鍵の手があり、長い街も終わりが近づいてきた。
narai_29.jpgnarai_30.jpg
それにしても長い街である。木曽では一番長く1Kmもある。江戸期は漆器の街として栄え、奈良井千軒といわれるまでに栄えた。約160年前の天保14年の調査では家数409軒、人口2155人と信濃、木曽の26宿で最大である。それに対して平成13年末人口は993人に過ぎない。今も減り続けているこの数字の持つ厳しい現実がある。
そして、最後は「鎮神社(しずじんじゃ)」で終わりとなる。
narai_31.jpgnarai_32.jpg
「鎮神社」を過ぎると、直ぐに右側に石の階段のような坂道がある。階段を上って林の中の道を進むと、直ぐに一旦舗装道路に出る。ここで右に曲がって上って行くと右に分かれてまた、右に入って行く細い道がある。
もう観光客は1人も居ない。実は、ここで舗装道路を左に曲がり下っていって間違いに気が付いて引き返したが30分ほどロスしてしまった。
narai_33.jpgnarai_34.jpg
石畳の道が続く。普通石畳の道は歩き難いと思っていたが、ここは石の間に土が詰まっていて歩き易い。奈良井宿で降り始めた雨が、この頃から本格的な降りになってきて、やむを得ず傘を取り出した。途中、木の桟を設けたところも何箇所もある。
narai_35.jpgnarai_36.jpg
石畳は途中で終わるが、その後も歩き易い道が続く。そして「中の茶屋」と言う小屋に到着する。かなり汚れていて感じが良くない。そして直ぐ傍には「葬沢」がある。ここでは天正10年(1582)に木曽義昌が武田勝頼の二千の軍を迎撃して武田軍は500余名の戦死者を出して大敗し、この谷が死者で埋もれたといわれ、戦死者を葬った沢であることから、「葬沢(ほうむりさわ)」と言われると説明板にある。また、菊池寛の「恩讐の彼方に」でお弓が市九郎を恐ろしい計画に誘い込む場所でもある。一人で長居をしたくは無い場所である。
narai_37.jpgnarai_38.jpg
また、木の橋を渡り、急坂を上ってゆくと、やっと「峰の茶屋」に着く。この小屋は新しく、内部も非常に綺麗である。湧き水も豊富に流れていて、飲み水を補給できる。どこかで、熊除けの鈴を着けなければと思っていたので、ここで雨を避けながら鈴を取り出し、ぶら下げた。
narai_39.jpgnarai_40.jpg
直ぐ横には広い道が通っているが、左の旧道を上り進んで行くとやがて「熊除けの鐘」が吊るされていた。鳴らすとビックリするぐらい大きな音がした。このような鐘は全部で5箇所ほどある。
narai_41.jpgnarai_42.jpg
「熊除けの鐘」を過ぎると、木祖村天然記念物の「鳥居峠のトチノキ群」があり、その中に「子産の栃」と呼ばれている、大きな洞のある栃の木がある。説明板によると、この洞に捨てられていた子を拾って育てたところ、孝養を尽くし幸福になったという。子産の栃の実を煎じて飲めば子宝に恵まれるという。
narai_43.jpgnarai_44.jpg
やっと、峠に着く。「木曽御岳山」の遥拝所がある。天気が良いと「木曽御岳山」が見えるとのことだが、今日は雨で無理だ。それにしてもあまりにも多い石仏群。林を通して薮原宿が見える。そして、ここが千曲川となる奈良井川と木曽川の分水嶺で「伊勢に流そか 越後にやろか 鳥居峠のたちしょんべん」というざれ歌があるそうだ。
narai_45.jpgnarai_46.jpgnarai_47.jpgnarai_48.jpg
少し下ると、手洗い水。飲料可能かどうかは定かでない。少し林の中へ上ると「義仲の硯水」。木曽義仲が北国攻めでの戦勝を祈願して願書を御岳山に奉納したときの硯の水とのことだが、湧き水は枯れ、単なる水溜りになっていて、落ち葉なども浮いている。
narai_49.jpgnarai_50.jpg
ひたすら、薮原に向かって下ってゆくと、JR中央線の直ぐ上のところに、薮原御鷹匠役所跡がある。説明板には、毎年五?六月になると尾張藩鷹匠方の役人が出張し捕らえてきた鷹のひなを飼育した。木曽谷のうちでも味噌川からおろす子鷹は特に優秀であったと言われる。ここを今でもお鷹城と呼んでいると書かれていた。
narai_51.jpgnarai_52.jpg
そして、線路を跨いで薮原の街を進んで行くと、本陣跡は杭のみが建っていた。そして、昔の旅籠の建屋のままで旅館を営んでいる「米屋」がある。
narai_53.jpgnarai_54.jpg
進んで行くと、「防火高塀」の一部が残っていた。また、薮原名物の「お六櫛」の問屋があった。お六櫛とは、持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいというお告げを受けた。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治った。ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになったという伝説がある。
narai_55.jpgnarai_56.jpg
薮原駅の入り口は、歩いてきた道路から線路を越した反対側である。線路を横切る地下通路があった。写真は駅入り口側を撮ったものである。
そして、薮原駅に着いた。時間は2時30分で、鳥居峠越えに途中の30ほどのロスを含め3時間ほどを要した。しかし、塩尻行きの次の電車は15:52分。1時間20分ほどの待ち時間である。ご夫婦で歩いておられる方が到着したが、話してみると今日は私と同じく「日出塩」からの出発だったと言う。既にご夫婦で東海道、奥州街道、日光街道、甲州街道を歩き終わったという。大ベテランである。
narai_57.jpgnarai_58.jpg
塩山に着いて、16時41分発の「あずさ」で帰宅についた。

2008.05.04

下諏訪から本山(もとやま)

本日の万歩計42,835(28.7Km)
5月3日は天気が悪そうだったので、連休でもあり、4日に出かけけ1泊して歩くことにした。何とか宿泊のホテルも確保できスーパーあずさ1号で上諏訪に向い、ここで乗り換えて下諏訪には9:25に着いた。
早速、前回中山道から離脱した甲州街道との分岐点に行き、ここから歩き始める。丁字路に建つ「まるや旅館」の外観もこの地に相応しいものであり、その斜め前には「歴史民族資料館」がある。資料館も、元は旅籠の建物であり江戸期の生活用品などが展示されていた。そして、国道20号線との合流点には「御柱のモニュメント」。綱の太さが半端でない。
shiojiri_01.jpgshiojiri_02.jpgshiojiri_03.jpgshiojiri_04.jpg
20号線から離れて旧道に入ると、直ぐに「魁塚(さきがけづか)」がある。これは「赤報隊」の「相楽総三(さがらそうぞう)」他隊士の合同墓碑を建てて弔ったものである。慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると先発隊として中山道を「年貢半減」などの唱えながら東進したが、新政府軍の方針変更によって赤報隊が偽官軍とされ、相楽は捕縛され、下諏訪で処刑される。明らかに新政府の卑怯な策謀である。前年の戊辰戦争を引き起こす挑発行為として、江戸市中で放火や,掠奪・暴行などの蛮行を行ったことの、後始末としての犠牲であったのであろう。後に孫の木村亀太郎の努力により名誉が回復され、昭和3年(1928)に正五位が贈られている。砥川に掛かる富士見橋を渡ると、岡谷市に入り住宅街の道が続く。
shiojiri_05.jpgshiojiri_06.jpg
途中には「右中仙道、左いだ(飯田)道」と書かれた道標があり、ここが分岐点であったことがわかる。そして、「東堀」の交差点で20号線を横切ると直ぐに江戸から56里の「東堀の一里塚跡」の碑がある。
shiojiri_07.jpgshiojiri_08.jpg
いよいよ塩尻峠への上り口に達すると、今井家の茶屋本陣がある。和宮様をはじめ多くの大名、貴人がここで休憩を取った。建物は何度か建て直し、現在も住居として使用されているが、有形文化財に指定され堂々たる家屋である。
shiojiri_09.jpgshiojiri_10.jpg
中央高速の岡谷インターの横を回り込むように進み、本格的な上りに差し掛かると、「石舟観音」があり、急で長い階段の上に鎮座している。階段下には金命水と言う清水があり、昔も今もここを通る人の喉を潤す。おいしい水であった。
shiojiri_11.jpgshiojiri_12.jpg
塩尻峠に上ってゆくと諏訪湖と取り巻く市街が見えてくる。そして突然大きな石。江戸時代にも「大石」として有名で高さ3丈(6m)横幅2間余と記されており、盗人がこの石に隠れていて旅人を襲ったという。それにしても、大地震があれば転がりそうだが、江戸時代からここにある。案外地下に深く入っているのかも知れない。
益々、諏訪湖の眺望が開けてくるが、上りの勾配も厳しく、階段を昇っているような感覚である。
shiojiri_13.jpgshiojiri_14.jpgshiojiri_15.jpgshiojiri_16.jpg
やっと、塩尻峠に到達。ここにも「熊出没注意」の看板。石碑には「大帝の龍駕の峠さくらそう」とでも読むのか、大きな石碑。右手に少し上ると展望台の建物があり、上ると諏訪湖とその周辺、富士山、南アルプスの山々が見える。北側からは、遠くに北アルプスの峰々が輝いている。
shiojiri_17.jpgshiojiri_18.jpgshiojiri_19.jpgshiojiri_20.jpgshiojiri_21.jpgshiojiri_22.jpg
峠から急な坂道を下りると、峠の茶屋があった場所だが今は普通の民家となっている。明治天皇も立ち寄られたようで、「御膳水」の石碑と今は使われていない「井戸」が残っていた。少し進むと林の中に柔和なお顔の地蔵2体と、「伝説・夜通道(よとうみち)」の標識が建っていて、「美しい娘が岡谷の男に会うため毎夜この道を通った」と書かれていた。
shiojiri_23.jpgshiojiri_24.jpg
さらに進むと「東山の一里塚」が残っていた。もう、染井吉野ような早咲きの桜は散ってしまったが、今が盛りの八重桜とともに、桜草が可憐に民家の庭先を染めている。
shiojiri_25.jpgshiojiri_26.jpg
柿沢の集落に入ると、この辺りから塩山宿に到る地方独特の伝統のある民家が見えてくる。屋根の棟と直角な面が正面となり(妻入り様式)、正面の頂上には「雀おどし」がある。そして「長野自動車道」を渡る。「みどり湖」パーキングエリアが見えていた。
shiojiri_27.jpgshiojiri_28.jpg
道は塩尻宿の中心に向かって進んで行き、八重桜の見事な花がある。この辺りは生垣も手入れが行き届いている。
shiojiri_29.jpgshiojiri_30.jpg
ようやく、塩尻宿に入り国重要文化財指定の「小野家住宅」と「本陣跡」の大きな看板を見る。小野家住宅は宿場時代の現存する遺構で重要であるとのこと。
shiojiri_31.jpgshiojiri_32.jpgshiojiri_33.jpg
少し先の陣屋跡には、笑亀酒造の重々しい建物と、大きな「杉玉」。そして「鍵の手」を右側に入って進んで行くと右側に「阿禮神社」があり、350mほどで本棟造りの建物としては頂点と書かれている「堀内家」の家がある。見学は事前に申し込んでおけば可能とのことであった。
shiojiri_34.jpgshiojiri_35.jpg
宿を過ぎて、中央線のガード下を潜って、昭和電工の700mもの長さの脇を通ると、「平出の一里塚」。塚の中央は松の木であるが、ここは武田信玄の軍師山本勘助が赤子を拾った伝説から「勘助子育ての松」と言われるとのこと。また、ここの松の葉を煎じて服用すると乳の出がよくなるとか。さらに、少し進むと平出の遺跡がある。発掘は今も進めているとのこと。
shiojiri_36.jpgshiojiri_37.jpg
この辺りは「葡萄畑」が多い。その田園地帯を通って、JR中央線の名古屋方面への踏切を渡る。通り過ぎて、踏み切りの警報機が鳴ったので振り返って特急列車の「ワイドビューしなの」の通過をカメラに納めた。ほどなく、国道に合流して進み、平出歴史公園の交差点で国道と分かれて旧道に入ってゆくと、ようやく「洗馬宿」である。少し行くと、「細川幽斎肱懸松」があり、細川幽斎が「」肱懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う風」と読んだと書かれていた。
shiojiri_38.jpgshiojiri_39.jpgshiojiri_40.jpg
さらに少し進むと「善光寺道の分去れ」になる。写真は振り返って撮影したものだが、「右 中山道 左 北国往還 善光寺道」の表示碑が建っている。そして、狭い住宅脇の小道を入って行くと「邂逅(あふた)の清水」がある。義仲の忠臣今井四郎兼平が義仲の馬を洗ってやったのがここの清水で、これから「洗馬(せば)」の地名が起こったと言われている。
ともかく、「ふるさとの水20選」に選ばれている名水だというので、一口飲んでみたら美味しかった。しかし、直ぐ上には人家もあり水質には疑念も生じるのを排除できない。
shiojiri_41.jpgshiojiri_42.jpg
今日の目標到達地点の「洗馬駅」に着いた。無人駅で人の気配が無い。時計を見ると、まだ2時半で、塩山方面への電車の時刻までは1時間以上ある。ここで決心して、もう一駅進むこととした。街道に戻って「万福寺」の赤い山門が見えてくると、宿も終わりである。
shiojiri_43.jpgshiojiri_44.jpg
道はJR中央線の下を潜って進み、緩い坂道を上り始めると「牧野の一里塚跡」があり、江戸へ60里、京へ72里と書いてある。この辺りまで来ると、両方の山が近づいてきて、木曽路に向かう雰囲気が感じられるようになる。
shiojiri_45.jpgshiojiri_46.jpg
その後国道に合流し、700mほど進んで再び旧道が右に分かれて行くと「本山宿」である。道祖神などの石仏が多数並んでいる。これ以降の中山道でも一箇所に石仏が固まって並んでいる場所が度々出てくるが、これは鉄道や国道を作った際に、狭い谷筋にあって旧街道上に作らざるを得ないところが多く、そのときに取り払った石仏を1ケ所に集めたものと思われる。そういえば明日は5月5日で端午の節句だ。こいのぼりが上がっているのも当然である。
shiojiri_47.jpgshiojiri_48.jpg
宿には歴史的な遺構はほとんど残っていないが、街道らしい家屋が多少は並んでいるのを見ることが出来る。家は道路に対して少し斜めに建っており、斜交屋敷と呼ばれる。これは、真っ直ぐな街道にあって軍事上の配慮で建物の陰に隠れるためと言われている。何はともあれ、現在は家の前に車を停める良いスペースになっている。また、本山宿は「そば切り」の発祥の地として有名で、それ以前は蕎麦はそばがきなどの形で食べていた。宿の最後で旧街道が国道に吸収されるところに「本山神社」があり、この手前にも多数の石仏が見られた。
shiojiri_49.jpgshiojiri_50.jpg
その後、国道を1.5Kmほど進むと、左に分かれて線路を横切り旧道に入って行く。しばらく進むと「日出塩の一里塚跡」があり、江戸より61里、京へ71里とある。直ぐに「日出塩駅」に着くが、ここも無人駅である。人気の無い駅舎で電車を待っていると、やっと時間になって電車が来た。ホームにはワンマンカーを待つ場所の記述があり、電車が止まるとドアを開くボタンを押して整理券を取って電車に乗り込む。ワンマンバスと同じシステムだが、電車では始めての経験であった。
ともかく、今日は暑い1日であった。これで、塩尻に戻り1泊する。
shiojiri_51.jpgshiojiri_52.jpg

2008.04.27

和田から下諏訪

本日の万歩計43,122(28.9Km)
昨日の夜は民宿主人手作りの食事を取り、お風呂に入ってストーブで温まった部屋で早く寝付いた。朝6時に起き窓から眺めると、山には霧が掛かっていたが、テレビの天気予報では晴れてくるようだ。7時から食事を取り、頼んでおいた「おにぎり」を受け取り、また若主人に和田宿の本亭前まで車で送って貰う。和田宿の周りを取り囲む山々も霧に霞んでいたが、若主人は上の方は晴れているでしょうと言う。ともかく峠方面に向かって歩き始める。
wada_01.jpgwada_02.jpg
ほどなく、国道142号線との交差点に差し掛かると、鍛治足の一里塚がある。日本橋からちょうど50里の一里塚だ。交差点を渡って旧道を進んで再び国道に合流すると道祖神があり、この辺りは昔は「牛宿」と呼ばれたところで、木曽桧を江戸まで運ぶ牛を泊める宿があったところである。
wada_03.jpgwada_04.jpg
歩道の無い怖い国道を歩いて、左手に和田の発電所、2軒のドライブイン、そして東洋パーライトの工場、扉峠への分岐点を過ぎて「古中山道」への入り口に達する。江戸時代の中山道は国道で消されてしまい、代わりに「古中山道」を自然遊歩道として整備したようである。しかし、入り口にゴミ収集のボックスがあるのがいただけない。
途中には木の橋もあり、林の中を行く気持ちの良い道である。800mほどで唐沢の一里塚に着く。江戸から51里で、中心の樹木は失われているが、ほぼ完全な形で両側に残っている。中山道のルートが変わって江戸時代の終わり頃には街道から外れていたと書かれていたが、このために良い形で残ったのだろう。
wada_05.jpgwada_06.jpgwada_07.jpgwada_08.jpg
一里塚を過ぎると直ぐに国道に合流するが、国道を600mほど進むと新和田トンネルを通る新道への分岐に達する。ここで右の旧道の方に進む。
wada_09.jpgwada_10.jpg
旧道を進むと100mほどで、旧中山道入り口の「男女倉口(おめぐらぐち)」に達する。そして観音坂を上ると、直ぐに休憩小屋と「三十三体観音」がある。かつて、この山の中腹にあった熊野権現の前に並んでいた石像であり、旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭和48年(1973)の調査発掘により、29体が確認されここ旧道沿いに安置された。2体は石仏の種類(千住観音、馬頭観音等)が不明で、4体は未発見と書かれていた。
wada_11.jpgwada_12.jpg
次のポイントの接待までは1.6Kmほどだが、比較的緩やかな上りで道の状態も良く、歩き易かった。国道に出ると接待茶屋「永代人馬施行所」が復元されている。江戸の呉服商の豪商かせや与兵衛が旅の難儀を救う為に金千両を幕府に寄付して、年間利子100両を碓氷峠とここで50両づつに分け、11月から3月までここを越える人に粥を牛馬に煮麦を施したという。茶屋の子孫が向いの旧愁之茶屋を経営しているらしいが、まだ閉まっていた。そして、ここで名水が汲めるようになっていて、車にポリタンクを積んで汲みに来ている。接待茶屋の写真の端に写っている車も水汲みで、次々とポリタンを出してなかなか立ち去らなかった。
wada_13.jpgwada_14.jpg
また、歩き易い道で沢をいくつか渡って進んで行くと「近藤谷一郎巡査殉職の地」の新しい碑が建っていた。これは明治中頃、22歳の近藤巡査が窃盗犯を下諏訪に護送する途中のこの地で用を足したいと犯人が言うのを聞き入れ両手を縛っていた縄をほどいてあげたら、突然後ろから石で頭を殴られ殉職したのだという。
wada_15.jpgwada_16.jpg
近藤巡査の碑を過ぎて進むと、避難小屋があり、その脇では水が盛んに噴出していた。飲めそうだと判断して、魔法瓶にも補給した。そして、この地点を過ぎてしばらくは石畳道だが、土が流されてしまっているためか、たいへん歩き難い道であった。
wada_17.jpgwada_18.jpg
左手に沢の音を聞きながら進んで行き、流石に疲れが蓄積してきたと思っていたら、急に開けて日本橋から52里の広原の一里塚があった。ここからは道も緩やかになり、広い石畳で歩き易く、左側は大きく開けてきたと思っていたら、キャンプ場で炊飯のかまども用意されていた。
wada_19.jpgwada_20.jpg
石畳の道を進んで行くと、ようやく「東餅屋」にある黒曜石、力餅と書かれた看板を掲げたドライブインが見えてくる。昔は5軒の茶屋があり、名物の力餅を売っており、また1店あたり1人扶持(1日に玄米5合)が幕府から与えられ難渋する旅人の救助にもあたっていた。幕末には大名の休息のための茶屋本陣も出来、土屋氏が勤めていたとある。
少し休憩しようと、客が1人も居ないドライブインで力餅を注文した。あんこを餅で包んだもので美味しかった。店のオヤジさんの話では昨日は、雨に雪が混じる寒い日であった。やっと一昨日から店を開いたばかりとのことであった。
wada_21.jpgwada_22.jpg
旧国道は大きく蛇行して進むが、旧中山道はショートカットで進む。
wada_23.jpgwada_24.jpg
2回目の横断は国道下の沢の流れのトンネルと共用になっている。水が流れ、片側が歩道になっている。
wada_25.jpgwada_26.jpg
4回国道を横断すると、後はひたすら進む。道標も小さいが新しいのが設置されている。
wada_27.jpgwada_27a.jpg
やっと、古峠に到着。風化した小さな地蔵がある。石碑が建っている。下諏訪側はガレ場で賽の河原と呼ばれている。標高1,600mで、ともかく風が冷たく、とても長く居る気にはなれない。
wada_28.jpgwada_29.jpg
少し下って、賽の河原を眺めて、その後にそこから伸びたガレ場を横切る。
wada_30.jpgwada_31.jpg
和田宿側に比べると、道は勾配も急で道幅も狭く、大小の石がごろごろしていて一時も気が抜けない。下ってゆくと、「水呑場」と標識のある場所に付く。竹筒のようなものが突き出していたが僅かに水が滴っているような状態。昨日の雨で沢の水なども増しているのに、以前から水場として尊重されていた湧き水も終に枯れかかっているのだろうか。古い時代から水が湧き出していたであろうことは、生した苔で明らかで、地蔵らしき像も苔で覆われている。水が枯れて苔がなくなるのが心配だ。
wada_32.jpgwada_33.jpg
ひたすら下って、国道にぶつかると、向こうのガードレールの切れ目に「中山道」の道標が見え、引き続き下って行く。
wada_34.jpgwada_35.jpg
国道を2回過ぎると「西の餅屋」と呼ばれるところに着く。ここには茶屋本陣を含め4軒の茶屋があったと説明板に書かれていた。ここから国道を横切り、ガードレールの切れ目から進めるようになっているが、少し前まで山登りのベテラン以外の人は危険なので国道を進むように言われていた。和田宿で何人かの人に聞いても通行の可否はハッキリしなかったが、途中で下から上ってきた夫婦連れの方に聞いたら問題なく通れたとのことであった。
wada_36.jpgwada_37.jpg
踏み込んで、少し進むと立派な一里塚碑。江戸から53里の西餅屋一里塚跡である。ここは風にも吹かれず暖かいし、お昼の時刻も過ぎたので民宿で作ってもらった「おにぎり」を食べて昼食とした。梅干を入れただけの単純なおにぎりが、本当に美味しい。その前を夫婦連れが通り過ぎて行く。
wada_38.jpgwada_39.jpg
以前、通るのが困難であった崩落した道は木材で補修されており、普通に通れるようになったが、基本的にガレ場であり、大きな石がごろごろしている場所もあって、注意は必要である。
wada_40.jpgwada_41.jpg
しかし、ガレ場の道は長くは続かず、やがて歩きよい道となり、国道と合流する。ここで山道は終わりで後は国道の歩道を歩いて行くこととなる。
wada_42.jpgwada_43.jpg
国道を1.5Kmほど歩くと、左に小道が別れ、国道の下を潜って行くと水戸の浪士の天狗党の「浪士塚」がある。元治元年(1864)に京を目指す水戸の浪士1,000人と松本・諏訪高島藩の連合軍1,000人が戦い、水戸の浪士10人、松本藩4人、高島藩6人が戦死した。水戸の浪士は戦没者をここに埋めて行ったが、その後高島藩で塚を築いて弔った。水戸藩に問い合わせ名前の分かった6柱については碑に名前を刻んだという。幕末に起こった勤王派と佐幕派の激突の1つである。しかし、まだ期は熟しておらず、最後は加賀前田藩に行き着き全員が首を刎ねられた。
wada_44.jpgwada_45.jpg
wada_46.jpg再度国道の下を潜って進むと、右側にペット専用墓地があり直ぐに国道に合流すると、「桶橋茶屋本陣跡」がある。茶屋本陣小松嘉兵衛を中心に数軒の茶屋があったとのこと。
淡々と、国道を3Kmほど歩いて、左の小道に分かれ坂道を上ってゆくと、「天下の木落し坂」と書かれた大きな石碑のある、諏訪大社の7年毎の御柱(おんばしら)の木を落とす急な斜面の上の小広場に行き着く。それにしても恐ろしいほどの急斜面だ。命知らずの若者が御柱にまたがり急斜面を滑り降り、大概は途中で跳ね飛ばされ一緒に転がり落ちる。
wada_48.jpg
wada_47.jpg
御柱を見た後は、下諏訪で最重要な諏訪大社を訪ねるべく歩を進める。3Kmほどの道を歩いて、ようやく春宮に到着。流石に全国にある諏訪神社の本宮だけのことはあり、拝殿を備えた勇壮な本殿が、日本で最古の神社の1つと言われる社格を示している。
wada_49.jpgwada_50.jpg
wada_51.jpg
諏訪大社の春宮の近くには岡本太郎が絶賛したという、万治の石仏がある。説明板によれば、諏訪大社の春宮に石の鳥居を作るのにこの石を使おうとしてノミを入れたら、血が流れ出した。石工が恐れをなして仕事をやめたが、その夜夢で上原山(茅野市)に良い石材があると告げられた。かくして鳥居は完成したが、石工はこの石に阿弥陀如来を祀って記念としたとある。
wada_52.jpg
中山道に戻ると、諏訪の市街と諏訪湖が眺望できた。そして歩いて行くと家の軒に中山道の丸い道標が下がっていた。
wada_53.jpgwada_54.jpg
そして、これも家の軒に一里塚跡の碑があった。江戸から55里の一里塚だが、埃まみれで何ともわびしい。
そして、今井邦子文学記念館があったが、寡聞にして良く知らないし、なにより入って見学する余裕を無くしていた。
wada_55.jpgwada_56.jpg
下諏訪の本陣がある。和宮様が休憩を取られた。見学できるとあるが今日は表からの写真撮影で済ませてしまう。道路の敷石には江戸までの距離が中山道では55里7丁、甲州街道では53里11丁となっている。あまり違わないのが不思議だ。
wada_57.jpgwada_58.jpg
最後に諏訪大社の秋宮にもお参りして、下諏訪駅に向い「スーパあずさ」で帰宅することにした。やはり和田峠越えは中山道のメインイベントであり、ハードであったが、得られた満足感も大きいものであった。
wada_59.jpgwada_60.jpg

2008.04.26

芦田から和田

<本日の万歩計27,045(18.1Km)
今回の中山道の旅は、1泊して下諏訪まで行く計画を立てた。すっかり、慣れ親しんだ長野新幹線も今回が最後となる。今日も途中での食事処の心配で東京駅で弁当を買い込み佐久平駅には8時20分着。駅を降りて、あまりの寒さにビックリ。特に風が冷たい。何とか暖かくなってくれないかと願いながら8時56分発のバスを待ち、芦田に向かうが、乗客は途中で高齢の女性が無料パスを見せて乗り込んできて、しばらくして下車した他は私1人だけの乗車であった。芦田宿にある立科町役場前の道路には芦田宿を示す灯篭が飾られていた。
ashida_01.jpgashida_02.jpg
直ぐに、今も残っている芦田宿の本陣があり、内部の見学は出来なかったが、門の中には1800年築の客殿も残っている。
ashida_03.jpgashida_04.jpg
芦田宿には昔の旅籠の建物のままで今も営業している「金丸土屋旅館」がある。この旅館を通り過ぎると、短い芦田の宿も終わりで、最後のかなり風化の進んだ道祖神が旅の安全を願って見送ってくれる。
ashida_05.jpgashida_06.jpg
いよいよ、笠取峠の松並木にさしかかる。東海道の御油の松並木に比べると、古い松の木は少ないが、石畳で車も通らなく良い感じである。桜も見事に咲いている。
ashida_07.jpgashida_08.jpg
松並木を過ぎて国道を進むと、左側に日本橋から44里の笠取峠の一里塚がある。そして、笠取峠に達し、何も無いと思っていたら通り過ぎて少し下ったところに「峠乃茶屋」があった。寒くてコーヒーでもと思ったが、まだ準備中であった。
ashida_09.jpgashida_10.jpg
そして、現在の常夜燈があり、ここから「長久保宿」である。街道歩きを始めて、灯が点っている常夜燈を初めて見ることができた。そして、国道から右側に分かれて旧国道を進んで行く。この道でも満開の桜を見ることが出来た。
ashida_11.jpgashida_12.jpg
以前は、峠道の路傍に立っていたのだろうか、古い石仏が残されていた。旧国道は今はめったに車は通らなくて歩きよいが、やはり本当の旧中山道も歩きたいと思っていたら、林の中を進む道も距離は短いながら残っていた。
ashida_13.jpgashida_14.jpg
長久保の街に近づいてきたところに「松尾神社」がある。京都市右京区松尾町の「松尾神社」が本社で酒造の神とのこと。小さな神社であるが、見事な建築美の本殿である。
寒い上に雨も降ってきた。街に入ってゆくと「一服処濱屋」と書かれた休憩所があった。明治初期に旅籠として作られたが、中山道の交通量が減り開業を残念したもので、持ち主の福永さんと黒沢さんの寄贈を受けて地域住民の語らいの場、旅人の休憩所として整備したとのこと。無人で無料だが、ポットで熱いお湯が用意されており、自分でお茶も入れられるようになっていた。寒くて、買ってきたお弁当をどこで食べようかと思っていたが、ちょうどお昼の時間であり、これ幸いとお茶を入れて、ここで食事とした。2階は江戸期のさまざまな生活用品などの展示場となっていた。
ashida_15.jpgashida_16.jpgashida_17.jpgashida_18.jpg
少し進むと、石合家の本陣がある。門の中を覗くと本陣の建屋は既に無く、現在風の建屋にして住まわれている様子であった。「長久保」は最初「長窪」と書かれていたが、商業が発達してきて「窪」の字はよろしくないと「久保」と字を変えたとのこと。そして、街も大きくなり途中で直角に折曲がって和田宿方向に家屋が立ち並ぶようになったのである。
ashida_19.jpgashida_20.jpg
「長久保」の街を過ぎると、大きく「和田宿」方向に向かって開けてくる。そして青原と呼ばれる「和田宿」の入り口には水明の里と名付けられた公園の広場があり、道路工事で集められたのか馬頭観音などが建っていた。雨は完全に本降りになった。街道歩きで、これほど本格的な雨の中を歩くのも初めてだ。
ashida_21.jpgashida_22.jpg
「和田宿」に入ってバスの停留所が全て家屋風になっているのに感心した。冬が寒くて家になっていなければ、とても立って待っていられないのだろうか。雨の日でも問題ないし、文庫本の1冊も持っていれば、バスが遅れてきても平気だろうし、本当に良く出来ている。ここの画像のもの以外にも数種類ある。
ashida_23.jpgashida_24.jpg
少し行くと「ミミズの双体道祖神」があった。平成5年に「ふるさとは美しく運動」というのがあり、優勝した作品とか。直ぐ横には土壌改良におけるミミズの働きなどを解説した説明板が置かれていた。それにしても、何ともユーモラスである。
さらに、進むと「水のみ場」があり、コーヒーを飲みつくして空になった魔法瓶を満たすことが出来た。
ashida_25.jpgashida_26.jpg
淡々とした退屈な道であろうと思っていたが、時々見ものを提供してくれる。またまた集められた馬頭観音などの石碑があったと思ったら、「若宮八幡神社」があり、その一隅に和田郷を支配していた大井信定親子の首塚があった。信定は天文22年(1551)武田信玄に討ち取られ、これ以降は和田郷は武田氏の支配する土地となった。
ashida_27.jpgashida_28.jpg
この「若宮八幡宮」の横には地下式の横断歩道がある。下の左の写真で、左に見えるのが入り口で、もう一方が右の向こうに見える。今は天気が良ければ、道路でバトミントンぐらいして遊べそうな道で地下歩道とは不思議な感じがしたが、以前はここが国道で交通量も多かったのであろう。
そして、木工品の手作り工房の「ゼペット」の看板の前を通る。ふくろうの像が面白い。
ashida_29.jpgashida_30.jpg
長いアプローチ道路もようやく終わりとなり「和田小学校」に到着。桜が咲いていて、校舎も明るく瀟洒な感じであり、小学校時代を懐かしく思い出すに足りる印象であった。建っていた案内板を見て、おおよその訪問予定を考える。
ashida_31.jpgashida_32.jpg
最初に、元旅籠の河内屋(かわちや)に行く。これで、しばし雨から逃れられると入って行くと誰もおらず、呼鈴を鳴らせと書いてある。呼鈴は小さな音で、一向に誰も出てくる気配が無い。「ごめんください」と声を掛けたら、やっと おじさんが出てきて300円の入場料を払って見学する。河内屋は大きな旅籠で上段の間もあるところからすると、大名、公卿クラスは本陣に泊まるが、文人、学者などが泊まったのではと思われる。
ashida_33.jpgashida_34.jpg
次に訪れたのは信定寺。名前の通り、武田信玄に討たれた大井信定を弔うために建てられたお寺で、天文22年(1551)に建立。その後江戸時代に入って例幣使日光参詣のさい和田宿に泊まりで京都二条城祈願寺となり、諸大名が参詣するようになったとある。鐘楼を兼ねた山門に桜が掛かり、美しい景観である。
ashida_36.jpgashida_35.jpg
次は本陣である。和田宿は和宮様降嫁の年の文久元年(1861)の3月に大火があり、宿のほとんどが消失して和宮様の宿泊所辞退を申し出たが聞き入れられず、幕府が900万両の拝借金を出し、突貫工事で再建した。これで10月の和宮様の宿泊を無事勤め終えたが、本陣長井家では明治になってから新政府から強引とも言える返済取立てで困窮して、上段の間などがある客殿は上田市の曹洞宗龍顔寺に売却し、その他の金目のものもことごとく売却して返済に充てたとのこと。そのため、いま残っているのは居住棟だけであるが、それでも部屋数も多い豪壮なものである。
ashida_40.jpgashida_37.jpg
2階は展示室になっていて、当時の駕籠が並べられていた。
ashida_38.jpgashida_39.jpg
少し戻って、大黒屋を撮影。長い間空き家になっていたのを改修中で公開はまだのようであった。また、進んで行くと「みどり川」と屋号が書かれた脇本陣があった。
ashida_41.jpgashida_42.jpg
庄屋の長井家が、昔の建物をそのままに営業している「本亭旅館」は、和田宿唯一の宿泊施設であるが、残念ながら満杯で泊まれなかった。
和田宿はまだまだ続くが、明日を楽しみに今日の宿泊先の5Kmほど離れた「民宿みや」に電話して本亭前まで車で迎えを頼む。10分ほどで3歳の娘を乗せて若い父親が車で到着した。
ashida_43.jpgashida_44.jpg

2008.04.19

岩村田から芦田

本日の万歩計31,473(21.1Km)
先週同様長野新幹線で佐久平に向い、7時41分着。
今日の天気は最新の予報では、曇りだが2日前までは曇り時々雨。現状はどんより曇った空模様で雨がパラつくぐらいのことは覚悟して歩き出した。まず、前回の中山道からの離脱点に向かって、田圃のなかの一本道を歩く。
iwamurata_01.jpgiwamurata_02.jpg
この辺りは水田地帯だが、中山道に復帰して歩き始めるとリンゴ畑も見られ、敷物にするロール状に束ねた藁が置かれていた。少し進んで平塚と呼ばれる集落に入って行くと、枝垂れ桜が満開で迎えてくれた。
iwamurata_03.jpgiwamurata_04.jpg
平塚では、やはり街道らしい建物も見られ、次の集落の下塚原に向かう途上には大きな石碑も見られた。定かでないが、庚申塔とその講の記念碑のようである。
iwamurata_05.jpgiwamurata_06.jpg
下塚原の集落を過ぎると、文明18年(1486年)の建立の「駒形神社」がある。一間社流れ造りの小さな社だが、騎乗男女2神が安置されており、御料牧場の「望月の牧」の東を守護した神社と推定されている。源頼朝が乗馬のままで神社に拝礼せず通ろうとして落馬した伝説があるらしい。東海道の相模川橋でも源頼朝が落馬したとの伝説があったが、征夷大将軍になって以降の頼朝の不人気を現しているのだろう。
iwamurata_07.jpgiwamurata_08.jpg
しばらくして、「塩名田宿」に入って行く。酒屋さんの建物は、さすがに白壁の立派な建物だが、歴史的な建物はほとんど無く、本陣も「跡」だけであった。そして、最後は「千曲川」にぶつかって宿は終わる。
iwamurata_09.jpgiwamurata_10.jpg
今は水量も少なくなった千曲川だが、江戸時代から明治期までは荒れ狂う「千曲川」に通行手段を確保するのに大変な苦労を強いられたようである。明治6年(1873)から木橋が架けられた明治25年までは、9艘の舟を繋いで、その上に板を渡した「船橋」が用いられた。そのための綱を張る「舟つなぎ石」が河原に残されていて、綱を結わえた穴が穿たれていた。
現在は鉄の立派な橋(中津橋)となっていて、しかも休憩のためのベンチなども設けられた歩道橋も平行して設けられている。また、東京では葉桜となっているが、ここでは染井吉野も満開であった。
iwamurata_11.jpgiwamurata_12.jpgiwamurata_13.jpgiwamurata_14.jpg
「中津橋」を渡ると「御馬寄(みまよせ)」の集落で、道は上り坂となる。「御馬寄」は望月牧の貢馬(こうば)をここで寄せ集めたことから付いた地名である。坂を登りつめると、右手にはすっかり中山道のアイドル的存在と化した「大日如来像」が浅間山をバックに鎮座していた。ハッキリしないが、300年ほど前の建立らしい。
iwamurata_15.jpgiwamurata_16.jpg
大日如来像の傍らには芭蕉句碑があり、「涼しさや すぐに野松の 枝のなり」とある。「野生の松のような枝振りが、かえって涼しさを感じさせてくれる」ということか。進んで、直ぐに一里塚跡があった。
iwamurata_17.jpgiwamurata_18.jpg
やがて、「八幡宿」の入り口にある「八幡神社」に着く。創建年は不詳だが、貞観元年(895年)創建と言われているとのこと。大変古い神社であるが、随神門、本殿の彫刻に格式の高さが伺え、重要文化財指定である。
iwamurata_19.jpgiwamurata_20.jpg
境内は広くは無いが、欅の巨木も見事である。街に入ってゆくと本陣の門だけが残されていた。
iwamurata_21.jpgiwamurata_22.jpg
街道の面影を残す街並みを辿りながら、やがて右の小道に分かれて百沢の集落に入って行く。百沢の方が古い街道の雰囲気が濃厚であり(右側の写真)、道の両側からは用水を流れる水音が絶え間なく聞こえてきた。
iwamurata_23.jpgiwamurata_24.jpg
百沢の集落が終わるとしばらく国道を歩くことになるが、やがて「望月城」の看板があり、右手の小道に入って行く。全くと言って良いほど車が通らない。もちろん、人も通らない静かな道だ。天気も晴れてきた。途中に江戸から45里目の一里塚跡の碑があり、さほど険しくない峠の切り通しを越すと大きな「瓜生坂」の石碑と「念仏塔」がある。昔の街道はこの辺りから、真っ直ぐ左に下りていったと説明板が建っていたが、今は道が消えているのでくねくねとした舗装道路を下りてゆく。この峠で初めて出会った人が自転車で下りてきて、追い抜きざまに「良い天気になりましたね」と声を掛けて嫉妬を感じる速度で追い抜いて行く。
iwamurata_25.jpgiwamurata_26.jpg
国道と合流して下ってゆくと「望月橋」があり、橋を渡る手前に岩場にへばり付くように建てられた「弁天窟」がある。室町時代末期の永正年中、近江の竹生島の弁才天を勧請したものと説明板にある。老朽化したためか、弁天窟への通路は立ち入り禁止となっていた。また、弁天窟の崖の上には「蟠龍窟(ばんりゅうくつ)」があり、急な階段が作られている。上ってみたが、あまりにも急で上りより下りが怖かった。
iwamurata_27.jpgiwamurata_28.jpg
iwamurata_29.jpg橋を渡って直ぐに右方向の道を行くと「望月宿」である。平安朝の初期から天皇が毎年8月15日、満月の日にここの御牧から献上される馬をご覧になる儀式があったので、望月の地名が起こったという。古い町の雰囲気はあまり残されていないが、「大和屋呉服店」のような伝統を誇る店は見ることが出来る。
短い「望月宿」を通り抜けると、道は大きくカーブしながら坂道を上って行き、バイパスの下を潜ってなおも上って行くと、昨年度閉校されたが今は一面に桜が咲き誇っている「本牧小学校」の前を通る。さらに進んで行くと眼下に間の宿である「茂田井宿」が見えるようになり、右手の細い道に分かれて下って行けば「茂田井宿」である。「武重本家酒造」と「大澤酒造」の建物を中心として重厚な白壁の家が続き、「たそがれ清兵衛」の撮影オープンセットが作られたのもなるほどと頷かされる宿である。大きな通りから離れていたからとは言え、良くこのようなところが残っていたと感心する。やはり、2つの酒屋の力が大きかったのであろう。
iwamurata_31.jpgiwamurata_32.jpg
iwamurata_33.jpgiwamurata_34.jpg
とても大きく、少し傾いだ「馬頭観音碑」を見ると、間の宿である「茂田井宿」が終わりに近づき、とんでもない急坂を上って、「芦田宿」に向かう。およそ2Kmの道を進んで、やっと「芦田宿」の入り口に差し掛かる。
iwamurata_35.jpgiwamurata_36.jpg
yokoya01.jpg今日は、ここまでで埼玉に嫁いだ妹とその息子に落ち合うため、中山道から離脱して、待ち合わせ場所の国道筋のセブン・イレブンに向かう。今日は蓼科で1泊して明日帰宅の予定である。 ちなみに、左の写真は「蓼科」でのものである。

2008.04.05

軽井沢から岩村田

本日の万歩計40,595(27.2Km)
新幹線のおかげで朝の7:30に到着して先週に中山道より離脱した六本辻に向かう。しかし、軽井沢の朝は寒く、この季節でも3?4度と言ったところ。六本辻を通る道路は、「離山(はなれやま)道路」と呼ばれていて、樹林帯の中を貫いている。しばらく行くと、道路の名前の由来の「離山(はなれやま)」の丸い山体が冬枯れた樹林の間に顔を出す。新緑の季節には、また鮮やかな装いを凝らすのだろう。
oiwake_001.jpgoiwake_002.jpg
やがて、左手に見える軽井沢高校を通り過ぎると、ここだけ樹林帯も途切れて「軽井沢ロンギングハウス」と書かれた洒落たホテルがある。軽井沢はホテルでもレストランでも洒落た感じの建物が多い。
次に、現れたのは「市村記念館」である。なぜか4月は建屋はオープンしないと書かれていたが、外から見ることは出来た。大正15年に近衛文麿公が建てた洋式の別荘で、その後、親交のあった市村今朝蔵氏が購入して長年使用していたが、平成9年に遺族の旧姓市村信江、令子姉妹が軽井沢町に寄贈したものとのこと。
oiwake_003.jpgoiwake_004.jpg
今日は、良く晴れていて終日「浅間山」を見ることができた。流石に、碓氷峠で見るより近くに迫ってきて、肉眼では噴煙も微かにみることが出来た。
oiwake_005.jpgoiwake_006.jpgoiwake_007.jpg軽井沢中学校前で「しなの鉄道」の踏切を渡って、500mほどで「中軽井沢駅」に着く。おそらく鉄道の建設で中山道が壊されたためであろうか、駅の裏の現在は墓地になっているところの片隅に「一里塚」の石碑がある。中山道で、まともな一里塚は稀にしか見られない。
進む道は、線路の下を潜って、国道18号にぶつかるが、国道を渡ると直ぐに横を流れる「湯川」に橋が架かっていて「長倉神社」に参拝できる。境内は広いが社殿は荒れている。広い境内で川に面して一段低くなった部分は、子供の遊び場となっていて遊具も備え付けられているが、そこに「沓掛時次郎」の大きな石碑があり、「千両万両枉げない意地も 人情からめば弱くなる 浅間三筋の煙の下で 男 沓掛時次郎」と書かれている。長谷川伸の原作で映画化されて一世を風靡したそうだが、架空の人物でも石碑が建つのは面白い。東海道の戸塚宿の「お軽勘平 戸塚山中道行の場」の石碑と同じだが、日本人はつくづく石碑を建てるのが好きらしい。
oiwake_008.jpgoiwake_009.jpgoiwake_010.jpg軽井沢は別荘地として富裕層、文人達の間で人気が高まったが、これにあやかろうと沓掛宿は「中軽井沢」と名前を変えた。昔の遺構も残っていない。民家の表札に「本陣」の字が見えるとの事だったが、見つけられなかった。結局、ここが沓掛であることを示すものは、架空の人物とは言え沓掛時次郎の石碑ぐらいだろうか。500mほどで国道と別れ「古宿」と呼ばれる集落に入って行くと、道端に馬頭観音を主とする石碑群が多く見られる。かつて中馬と呼ばれる陸上輸送に携わる人達の宿として栄えたことを示している。
「古宿」を抜け一旦国道に合流後に直ぐに離れて「借宿」と呼ばれる地域に入って行く。「古宿」同様、小さな集落でここにも「馬頭観音」の石碑が随所に見られる。集落にある「遠近(おちこち)神社も、かつての繁栄の名残かも知れない。家の軒に立派で小さな屋根をもう一つ設けてた家があった。始めてみる形である。折りたたみ自転車に乗った父子が傍らを通り過ぎてゆく。
oiwake_011.jpgoiwake_012.jpg
再び国道に合流して500mほど進むと、国道の両側に「一里塚」がある。「一里塚」が道路の両側に残っているのは珍しい。そして、進路は国道から右に分かれて「追分宿」に入って行く。
oiwake_013.jpgoiwake_013a.jpg
直ぐに、右側に「浅間神社(あさま)」があり、境内に芭蕉句碑(左の写真)と追分節の発祥の地の碑があった。芭蕉句碑は、大きくて「吹き飛ばす 石も浅間の 野分け哉」とある。追分節は、馬子唄として歌われていたものが、三味線付きで歌われて洗練して追分節となる。その後、この追分節は北国街道を北上して、越後から北海道までの関東以北にまで広まったという。その中でも江差追分は、有名だ。
oiwake_014.jpgoiwake_015.jpg
堀辰雄の文学記念館がある。入り口の門は本陣の門を移設したもの。
oiwake_017.jpgoiwake_018.jpg
門を入って進んで行くと、右手に受付があり入場券を買って、展示物を鑑賞する。右の写真は、堀辰雄の旧邸である。別に夫人が昭和45年に建てた新しい家屋もある。
oiwake_019.jpgoiwake_022.jpg
堀辰雄が楽しみにしていて死の10日前に完成した書庫の建屋。蔵書の並べ方まで夫人に色々と病床から指示していたが、本の並びを見ることなく夫人に看取られながら息を引き取った。結核に苦しみながらも、「風たちぬ」、「菜穂子」、「聖家族」など多くの作品を残し、軽井沢を愛した50歳の人生であった。展示物の中には佐藤春夫、室生犀星などの弔辞の自筆文も並べられていた。
oiwake_020.jpgoiwake_021.jpg
堀辰雄文学記念館を出ると直ぐに脇本陣であった「油屋」が、今も高級旅館として運営していた。そして、復元したのか立派な高札場がある。
oiwake_023a.jpgoiwake_023.jpg
短い「追分宿」が終わりに近づくと「泉洞寺」がある。元三河武士の心庵宗祥禅師が開祖であるが、長篠の戦いで多くの死傷者を目の当たりにし、無常を感じ出家して後に開創したという。門前にも多くの石仏が集められており、境内の裏手には堀辰雄が愛した半跏思惟の石仏があるとのことだが、見逃した。
oiwake_024a.jpgoiwake_024.jpg
時計を見ると11時になっていたので、先に進むと食事をする場所に困ると、近くの店に入ったが、食事は12時からという。まぁーしょうがないと、コーヒーを頼んで休息を取る。なかなか美味しいコーヒーだった。
結局、国道に合流するところでラーメン屋に入り(なかなか美味しかった)昼食を摂った。少し進んで「分去れ(わかされ)」に到着。常夜燈、石碑、石仏と色々なものが建っている。「さらしなは右 みよしのハ左にて 月と花とを追分の宿」とある。右側は北国街道で月の名所の更科へ、左は桜の花で名高い吉野方面と言う歌であろう。国道には骨董品の店があったが、追分宿の中にある骨董品屋がここに出てきたのだろうか。
oiwake_025.jpgoiwake_026.jpg
国道から左に分かれて「御代田」に向かう。まだまだ、樹木が多い道で、緩やかな下り道である。御代田の町に入ろうとするところに、「千ヶ滝湯川用水温水路」がある。浅間山の湧水、雪解け水を農業用水に活用するため、慶安3年(1650)、柏木小石衛門が開削したもので、水温を上げるための設備である。広い水面だが、水深は数センチぐらいと浅い。
oiwake_027.jpgoiwake_028.jpgoiwake_030.jpg
まだまだ、浅間山は良く見える。御代田駅の少し手前には、御代田の一里塚がある。道路が横に移動したため、民家の裏の方にある。2つの内、一方は立派な枝垂桜の木が植えられているが、まだ蕾も見えない。開花時期には見事であろう。
oiwake_029.jpg
御代田駅の横で線路を地下道で潜る。まだまだ緩やかな下り坂は続いていて、御代田町荒町では、沓掛宿の標高が940mに対し、この辺で790mとのこと。旧家の塀の下り坂に合わせた作りが面白い。
oiwake_031.jpgoiwake_032.jpg
やがて、「小田井宿」に着く。本陣1、脇本陣1、旅籠5軒の小さい宿であったが、古い家並みが良く保存されている。また、追分宿の飯盛女を嫌って、皇女和宮をはじめ29人もの姫君が休憩を取った宿で別名「姫の宿」とも呼ばれたという。
oiwake_033.jpgoiwake_034.jpg
最初に真言宗の「宝珠院」に寄る。入り口付近にあるとても大きな馬頭観音の石碑。山門を入って直ぐにあるアカマツは2本を寄席植えしたものとのことだが、2つが完全に融合した感じで見事な枝振りである。また、奥のほうには樹齢300年と言われる枝垂桜の木。貫禄がある。
oiwake_035.jpgoiwake_036.jpg
茅葺で趣のある鐘楼を眺めながら街道に戻ると、今も安川家が住宅として使用している本陣跡がある。いつまでも残して欲しい。
oiwake_037.jpgoiwake_038.jpg
下図も左は、安川家の持ち物の「問屋場」である。そして右は旅籠であるが、現在は学習塾として使われているようだ。
oiwake_039.jpgoiwake_040.jpg
宿の終わりが近づいたところで、屋根を瓦で葺いた見事なバス停の待合場所があった。これなら本でも読みながら、少々長い時間でも待てそうだ。そして最後にもう一つの「問屋場」。小さい宿だが「問屋場」は2ケ所あったのである。
oiwake_041.jpgoiwake_042.jpg
広い道路に合流して岩村田に向かう。道の左側に鵜縄沢端(うなざわはし)一里塚の説明板が立っていたが、雑木林のようになっていて良く分からずスキップする。まだ浅間はよく見える。道端には大きな千手観世音の石碑。そして、住吉神社に寄ると、樹齢400年の大きな欅(けやき)の木。内部は空洞になっていたが、まだ大丈夫そうだ。




次に、「龍雲寺」を訪れる。大井氏が開いた曹洞宗のお寺であるが、武田信玄が大井氏を破った後に再建した。見事な山門である。右の方の渡り廊下を潜って進むと、武田信玄の廟がある。この前で信玄の遺骨も発見され、そこにも大きな五輪塔が建てられた。
oiwake_045.jpgoiwake_046.jpg
武田信玄廟(左)と五輪塔(右)
oiwake_047.jpgoiwake_048.jpg
岩村田宿の中心部はアーケード付きの商店街だが、ご多聞に漏れず、活気がなくシャッターを閉めた店も多い。岩村田宿は本陣、脇本陣は無く、旅籠が8軒のみであったが、むしろ米穀の集積地として栄えたという。相生町の信号で右に直角に曲がり旧街道を進むと、直ぐに石仏群があり、小海線の踏切を渡る。
oiwake_049.jpgoiwake_049a.jpg
岩村田高校を右に見て進み、浅間総合病院を過ぎたところに「相生の松」がある。雌雄二株の松がくっ付けて植えられており、和宮降嫁の折には見事な景観を示していて、ここで野点が行われたという。その松も昭和40年に寿命が尽き、今は新たに若木が植えられている。
oiwake_050.jpgoiwake_051.jpg
「相生の松」を過ぎて、「佐久平駅」に向かうために田圃の中の道を進む。相変わらず、浅間山が見守っている。
大きなジャスコのショッピングセンターの前を通り「佐久平駅」に到着する。新幹線が出来たおかげで、1時間30分ほどで東京駅に着くことができる。8日間に渡って歩いた距離を1時間30分なのである。
oiwake_052.jpgoiwake_053.jpg

2008.03.29

坂本(横川)から軽井沢

本日の万歩計33,528(22.5Km)
今日は、中山道歩きでも和田峠と並んで最大の難所で、熊の危険もあるという「碓氷峠」越えである。途中、高崎で新幹線から信越線に乗り換え8時02分に「横川駅」に到着。早速、朝8時から営業している「おぎのや」に寄り、先週食べ損ねた「峠の釜飯」を「お味噌汁」付きでいただく。美味しかった。以前はそれほどと思っていなかったが、久しぶりで美味しいのか、腹が空いていたからか、「おぎのや」の調理方法の進歩か、とにかく美味しかった。お昼用に1つ買って(重いのが玉にきずだが)リュックに詰め歩き始める。
まずは、先週も訪れた「碓氷の関所跡」に行き、気を引き締めて歩き始める。真っ直ぐ進むと、「薬師坂」と書かれた大きな石碑があり、ここで旧国道は左に分かれて大きく迂回するが、歩く道は直進する。
usui_001.jpgusui_002.jpg
急坂の途中に、旅の平穏を願う薬師堂が建っている。斜面に建てたためか、柱で支えたお堂であるのが珍しい。直ぐに国道に合流して「坂本宿」に進んで行く。やがて「坂本宿」の大きな表示杭が現れ、真っ直ぐ向こうには「刎石山」が立ちはだかっている。
usui_003.jpgusui_004.jpg
「坂本宿」は人口732人、家数162軒、本陣2、脇本陣2、旅籠40軒で前後に碓氷関と碓氷峠の難所が控え宿場の規模のわりに旅籠の数が多い。下の写真(左側)は、佐藤本陣または上の本陣と呼ばれていた本陣跡である。佐藤本陣は明治8年には小学校として使用され、佐藤家はその後他所に移り、明治34年に分家であった「小竹家」が建てたのが現在の建物とのことであるが、やはり立派である。
道路際には、「中山道坂本宿屋号一覧」という看板があり、当時の屋号が記載されていた。
usui_005.jpgusui_006.jpg
当時の代表的な旅籠の雰囲気を良く表している「かぎや」の屋号の旅籠があった。説明板には、370年前、高崎藩の納戸役鍵番をしていた武井家の祖先が坂本に移住し、旅籠に役職にちなんだ名をつけたとあった。さて、いよいよ「刎石山」が大きく迫ってきた。
usui_007.jpgusui_008.jpg
「坂本宿」も終わりに近づき、「刎石山」から移した「芭蕉句碑」があった。 「ひとつ脱いで うしろに負ひぬ 衣かへ」 と書いてあるそうだが、字が難しくて読めない。
そして、最後は「八幡宮」で、宿は終わる。
usui_009.jpgusui_010.jpg
国道18号が右に大きくカーブするところで、旧中山道は大きな貯水タンクの横を進み、暗渠の蓋になっている道を進む。
usui_011.jpgusui_012.jpg
真っ直ぐ進んで、突き当たったら左に曲がり、階段状の道を上る。以前、この上り口が分かり辛いとされていて、注意深く見つけるようにと書かれていたものもあったが、小さいながらも「中山道」の道標があった。
しかし、この上りは元の中山道であるはずがなく、国道を作って途切れた中山道を繋ぐ苦肉の策であったのだろう。
usui_013.jpgusui_014.jpg
階段状の道を上ると直ぐに国道を横切り、向こう側に「中山道」の上り口が、「碓氷小屋」と書かれた休憩所とともに見えてくる。この休憩場所で「熊除けの鈴」をリュックに取り付け、いよいよ峠越えに挑む。いきなり急な上りが続く。
usui_015.jpgusui_016.jpg
「安政遠足(とおあし)」と書かれた立て札があるが、これは安中藩主板倉勝明が藩士の心身鍛錬を目的に安中城内より碓氷峠の熊野権現まで7里あまりの中山道を走らせたのが始まりで、現在も復活して毎年行われているものである。それで、立て札が碓氷峠の熊野神社まで頻々と立てられていて心強い。そして、関所抜けを見張った堂峰番所の跡。建物の土石、石垣などが残っていると書かれていたが、分からなかった。
usui_017.jpgusui_018.jpg
その後、坂道は河原のように、しかし角張った石がゴロゴロしている急坂を上る。息が切れて、苦しい上りである。この辺りが難所の「碓氷峠」でも特に厳しい場所で、「刎石坂」の名前の付いている坂である。激しい運動で暑くて汗が滲み出してきて、芭蕉ではないが、着ていたジャンバーを脱ぎうしろのリュックに縛り付ける。途中、柱状節理の見事な壁があり、火山により形成された山であることが分かる。本当に難所であり、石仏群も配置されている。坂本宿に移設された「芭蕉の句碑」も元はここにあったとのこと。確かに、ここに在ったのでは見る人はとても少ないので、移したのだろう。
usui_019.jpgusui_020.jpg
苦しい上り道が右に曲がって、突然通って来た「坂本宿」のみならず、安中の街並みまで望見できる「覗き」と呼ばれる場所に着き、一息入れる。一茶が「坂本や袂の下の夕ひばり」と詠んだところである。
その後、少し進むと大きな「馬頭観音」があり、これを過ぎると坂道は緩やかになり、だいぶ楽になる。
usui_021.jpgusui_022.jpg
溶岩の裂け目から湿った空気が噴出す「風穴」がある。「刎石山」には3ケ所ほど「風穴」があるそうだが、湿った空気が常時噴出すため、岩の周りの苔もひときわ濃くなっている。U字型に掘れた道が延々と続く。
usui_023.jpgusui_024.jpg
刎石茶屋には水がなく、ここに井戸を掘ればよいと、弘法大師が教えたと伝えられている「弘法の井戸」がある。覗き込むと綺麗な水が湛えられており、長い柄の付いた柄杓が置かれていた。山頂に近い場所で水が湧くのは珍しいが、山体が大きいと、多くの水を蓄えられるということであろうか。そして、「熊出没注意」の表示。
坂を上って平らな場所に出ると、4軒茶屋跡の立て札があった。今は木が茂って茶屋があったなどとは思えないが、石垣などが残っているのを見ることが出来た。
usui_025.jpgusui_026.jpg
平坦な道が続いて、菅原道真が右大臣についた昌泰2年(899年)に関所を作った跡と言われている場所に着いた。当時坂東で跋扈した盗賊を取り締まるたであったという。現在では綺麗な休憩所が建てられていて、旅の思い出を綴るノートも置かれている。私も早速書いてみる。
平坦でずいぶんと楽で歩き易い尾根道を進んで行くと、北条家の宿老であった大道寺政繁が秀吉勢の前田利家軍を迎え撃つため、道を狭くそぎ落としたという、「堀切」に着く。距離は数メータほどで、これで効果があったのかと思えるほどであった。
usui_027.jpgusui_028.jpg
道の危険な場所にはよく馬頭観音が置かれる。見逃したが、まず南の馬頭観音があり、右側が崖になっている場所に北の観音あった。一里塚があったとの立て札もあったが、こんな山の中でどこが一里塚か分からない。
さらに、進んで行くと、「座頭ころがし」と呼ばれる急な坂道となる。急坂とは言っても、刎石坂に比べればはるかに歩き易いところと思えるのだが、赤土で湿っていて、滑り易すかったのだという。稜線に出ると信州側から吹き付ける風が強く、冷たい。おそらく零度に近い。慌ててジャンバーを着る。木がこすれあって不気味な音を立てる。
usui_029.jpgusui_030.jpg
中山道を歩いた記事で必ずと言ってよいほど、登場する遺棄された車である。バカなと思うとともに、よくここまで車を運転してきたものだと感心する。どう見ても通れないような山道で、よほどアクロバティックな運転技術を備えた者の仕業だろうか。
そして、栗が原と呼ばれる、明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所に着く。少し広々した場所で、明治8年群馬県で最初の「見回り方屯所」が作られた。これが交番の始まりという。
usui_031.jpgusui_032.jpg
進んで行くと「入道くぼ」と書かれた立て札があり、その後ろに線刻の馬頭観音。
そして、「山中茶屋跡」に着く。説明板には、寛文2年(1662年)には13軒の立場茶屋や寺、茶屋本陣が置かれ集落を形成した。明治期には学校もでき、明治11年(1878)明治天皇御巡幸の際には、児童が25人いたので25円の下附があったとある。
usui_033.jpgusui_034.jpg
ずいぶんと、道も広くなりこれなら車も走れる感じだが、急な上り坂の「山中坂」で、別名「飯喰らい坂」とも言うとのこと。「坂本宿から登ってきた旅人は、空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った」とある。そして、「陣場が原」に着くが、ここは武田信玄と上杉謙信の「碓氷峠の合戦跡」とのこと。真っ直ぐ進めば、和宮様降嫁の際に新たに作った「和宮道」であるが、左に見える細い道が旧道である。旧道を進むことに決めていたが、旧道への説明が何も無く、本当にここを入ってよいのか、地図を見て慎重に検討せざるを得なかった。不親切である。
usui_036.jpgusui_037.jpgusui_038.jpg
旧道を歩いて行くと、水の枯れた小さな沢に「化粧水」と書かれた立て札があり、旅人がここで、姿、髪を直したりしたとあるが、今は何の変哲もない場所であった。次に沢の水音が聞こえてきた。人馬施行所跡である。立て札には、「笹沢のほとりに、文政11年江戸呉服屋の与兵衛、安中藩から間口17間、奥行き20間を借りて人馬が休み家をつくった」とある。碓氷峠唯一の水場であり、ゆっくりと休憩を取りたいところだが、水場には熊なども水を飲みに来るので遭遇のチャンスも多く、早く通り過ぎるべきであるらしい。
水場の後も、辛い上り道が延々と続き、相当にへばったころ、ようやく平坦で歩き易い道になり、「和宮道」と合流し、そこに「」仁王門跡」と「思婦石(おもふいし)」がある。
「思婦石」の説明板には、群馬郡室田の国学者関橋守の作で安政4年(1857)の建立である。 
「ありし代に かえりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら」

とある。日本武尊が妻を恋い偲んだことを詠んだものと言われている。
usui_039.jpgusui_040.jpg
「思婦石」の傍らには「野生動物生息地域」の看板があった。この看板は、「弘法の井戸」にあった単に「熊出没注意」に比べ具体的に対策等も書かれていた。私の持ってきた鈴は音が小さく、あまり役に立ったとは思えないが、幸いにも熊には出くわさなかった。
そして、ようやく「碓氷峠」の茶店の看板が見えてきたが、まだ何処も開いていない。
usui_041.jpgusui_042.jpg
熊野神社に到着。祀神は伊邪那美命(いざなみのみこと)と、日本武尊(やまとたけるのみこと)。神社の真ん中が長野県と群馬県の県境になっている。降った雨もここで、日本海側に流れるか、太平洋側に流れるかが決まる。
usui_043.jpgusui_048.jpg
階段の上り口には、室町時代中期の作というかなり風化の進んだ胴の長い狛犬がある。向かって右側で口を開いているには雄」で阿(あ)で、左側は雌で叫(うん)で対をなしていると書かれていた。
usui_044.jpgusui_045.jpg
石段の上の両側に軽井沢の問屋佐藤市右衛門が家紋の源氏車を刻んで奉納した石車がある。「碓氷峠のあの風車、たれを待つやらくるくると」の追分節で知られた「石の風車」であると言われるが、追分節を知らない。
それにしても、お賽銭箱まで長野側と群馬側に分かれているのは驚く。宮司さんも一人のようだが・・・。
usui_046.jpgusui_047.jpg
熊野神社を過ぎて、見晴台を訪れようと歩いて行くと、1軒だけ営業している食堂があり、名物の「力餅」を食べることができた。ここでは、車で登ってくる観光客も多く、かなり賑わっていた。ストーブが焚かれ、人が集まってきていて、ここではまだ冬の様相であった。
見晴台では、最初にインドの詩人タゴールの胸像が目に付く。アジアで初めてノーベル文学賞を受けたタゴールは大正5年(1916)に日本女子大学長成瀬仁蔵の招きで軽井沢を訪れ、毎朝真珠のような詩を女子大生に聞かせたとあった。
usui_049.jpgusui_050.jpg
見晴台からの眺望は素晴らしいもので、折り重なる上州の山々、また、雄大な浅間山の眺めは、安中で見たものに比し、一段と雄大なものであった。
usui_051.jpgusui_052.jpg
近くの山でひときわ特徴的なのが、離山(はなれやま)。2万2600年前に浅間山の溶岩ドームが形成され、離山となった。標高は1,256mで、その形からテーブルマウンテンとも呼ばれる。
見晴台を離れ、中山道の旧道は崩落が激しく危険とのことで、ほぼ旧道に近い形で作られた遊歩道を下る。入り口には「熊の生息地域」の注意看板があり、山道には違いないが歩く易い道で、40分ほど下って吊橋に到達する。この吊橋を渡ると道は広くなり、別荘が目に付くようになる。
usui_52a.jpgusui_053.jpg
やがて、旅人が飯盛女と名残りを惜しんだという「二手橋」を渡ると、軽井沢で別荘1号で有名な英国人宣教師「アレキサンダー・クロフト・ショウ」の胸像とショーの記念礼拝堂がある。明治19年に布教のため軽井沢を訪れた「ショー」が旅籠「つるや」の廃材をもらって、2年後に築いたのが別荘1号と言われており、内外に避暑地として紹介して、現在の軽井沢の隆盛をもたらした。写真右は復元されたショーハウスと呼ばれる彼の別荘である。
usui_054.jpgusui_055.jpgusui_056.jpg
少し行くと、大きな「芭蕉の句碑」があり、
馬をさえ ながむる雪の あした哉
と書かれている。 流石に軽井沢だけあって、英訳も書かれていて、
In the morning, the snow lies thick on the ground. Not only people, but horses seems to be elegant.
と書かれていた。うまく訳すものだと感心する。
昔の軽井沢の面影は全く残っておらず、わずかに江戸時代の茶屋「つるや」が、その後ホテルとして営業して名前のみを残している。
そして、旧軽井沢の街並みは大勢の若者で今日も賑わっており、しゃれた店が立ち並ぶ。「坂本の宿」を出てから、熊野神社までの碓氷峠越えで、僅かに2組、3人の人に会っただけとは大きい違いである。
usui_057.jpgusui_058.jpg
遅い昼食をとり、軽井沢駅に向かう。新幹線が開通してからの新しい駅舎と、その右側に保存された旧駅舎である。
ちょうど3時21分発の新幹線に乗ることが出来、東京駅に向かって帰宅の途に着いた。
usui_059.jpgusui_060.jpg

« Previous | Next »