その次には「こどもや」の看板のお店がある。昭和3年建築で郷愁をそそられる。
その次は、江戸時代の創業という老舗旅館の中多屋である。
その先の左手の小山の上には、村社の諏訪神社がある。その隣には如意輪寺。本尊は如意輪観音像で、徳川光圀の寄進といわれているとのこと。
涸沼前川(ひぬまがわ)に架かる長岡橋を渡ると長岡の集落である。ここには、長岡名物のみそまんじゅうを作る藤屋製菓がある。
街道は上り坂となって続いていて、上りきると、茨城県指定文化財の木村家住宅がある。木村家は戦国時代からこの地に住み、江戸時代には脇本陣・問屋・庄屋を務めた名家とのこと。残念ながら早朝のため、門も閉じられたままであり、塀の上部から写真撮影辛うじて行った。
木村家住宅を過ぎて、1.5Kmほど進むと街道は水戸バイパスに合流し、更に進むと北関東自動車道のインターチェンジを越えることになる。2つの歩道橋を跨いで通過することになった。通り過ぎて少し進むと水戸街道は水戸バイパスと左に分かれるが、街路樹として植えられている桜は、まだチラホラ咲きの状態であった。
進んで吉沢町交差点で、更に右に別れると熱田神社がある。3Kmほど見るべきものもなくひたすら歩く。すると右手方向に天神社があった。
更に、!Km程先には、元吉田の一里塚がある。形は崩れているが、榎の大木が保存樹として守られている。
次に水戸倍バイパスを横切ると、金山稲荷神社がある。
その後、枡形を2度曲がって進むと、左側に長い参道を持つ天台宗の薬王院の赤い山門が見えてくる。仁王門と呼ばれる江戸時代建立の門で、県指定文化財である。
仁王門は閉じられたままなので、右方向に回って本堂の前に出る。本堂は国指定重要文化財で全体的に唐様で享禄2年(1529)の建立で入母屋造りの端正な造りである。本堂に向かって右方向には、回向堂、書院、客殿があり法要などに使用しているとのこと。
街道に戻り進むと、左側に清巌寺がある。大永元年(1521)に常福寺の八世空誉上人が久慈郡新宿村(現常陸太田市誉田)の地に開基したといわれ、その後、火災に遭い焼失し、文禄3年(1594)に現在の地に移ってきたといわれる。さらに進むと五差路に差し掛かるがその先は藤柄坂で、下って信号のある交差点の左側に長い石段が見えてくる。上ると日本武尊命を祀る吉田神社がある。境内の枝垂れ桜が美しく咲き誇っていた。
歩行ルートを示す地図を作成してプリントしたのを頼りに備前堀に向かって進む。金刀比羅神社を見て右折すると直ぐに銷魂橋(たまげばし)である。
橋を渡ると江戸街道起点の石碑が立っていた。備前堀に枝を差し伸べている桜もあと一息で見頃となる様子であった。なお、ここの橋は元々は軒町橋と呼ばれていたのを光圀公が銷魂橋(たまげばし)と命名したとのこと。
銷魂橋を渡ると、水戸街道の踏破完了であるが、少し足を伸ばして、次の信号を右折する。ここの通りは近年ハミングロードと呼ばれており、本町一丁目から二丁目へと進んで行く。途中路地を右に入ると水戸光圀公ゆかりの能化稲荷神社がある。商店街の中には江戸(水戸)街道宿場跡の新しい石碑が立っていた。
ハミングロードは本町二丁目と三丁目の境界にある交差点で終わるが、街道はここから岩城相馬街道となって続いている。小さな陸前浜街道起点碑が立っていたのであるが、目にしていても小さい石碑で起点碑であることを見逃してしまった。それにしても全く趣の感じられない交差点であった。ここから、水戸駅の方に進み駅前の歩道広場に建つ水戸黄門と助さん角さんの像をカメラに収めて、終結とした。
国府三丁目の丁字路で右折するが、ここで少し道をそれて浄土宗照光寺に立ち寄った。このお寺には、常陸府中藩主松平家墓所がある。府中松平家は初代水戸藩主徳川頼房の五男頼隆を祖として2万石を与えられ、水戸徳川家の分家四藩(高松・守山・宍戸・府中)の一つであり、十代頼策のときに明治維新を迎えたのである。
北に進んで国分町府中3丁目で右折して、常磐線を跨線橋で越えると県道両脇の歩道には、水戸街道の各宿場を紹介したタイルが路面に設置されていた。
進むと江戸から23里めの石岡の一里塚があった。道路工事で削られているが、道の両側に残っているのは多くはない。
一里塚を過ぎて、県道を進むと左側に日本刀研磨と書かれた家が目についた。いわゆる日本刀の研ぎ師の店であろうか。初めて見る店である。
その後2Kmほど進むと行里川の集落で不動尊の小振りのお堂が建っていた。
不動尊の先には、とても立派な長屋門の家があった。水戸街道を歩いていると長屋門をよく見かけるが、ここのは特に立派であった。
その先で園部川を郡橋で渡る。
進んで、竹原宿に入って行くと竹原神社がある。小振りな神社ながら神輿(みこし)があり、総欅造りで美術工芸品として価値も高く、毎年7月下旬に行われるアワアワ祇園という祭礼時に繰り出されるという。
T字路の竹原交差点に突き当り左折して進んで行く。一里塚跡も残っておらず、2Kmほど進んで中野谷の集落に入って行くと馬頭観音と地蔵が立っていた。
少し先には、「北辰一刀流 故大貫先生政成之碑」と刻まれる石碑が建っていた。北辰一刀流と言えば流祖は千葉周作で水戸藩に召し抱えられ弘道館で教授していたが、ここの碑の大貫先生も免許皆伝に達した人物であろうか。
歩いて行くと道端に石仏が散見される。
堅倉集落を進むと、加藤家の復旧門が建っている。元治元年(1864)加藤家は名主職を勤めていた関係で水戸天狗党により母屋と門が焼き討ちにあい、門の前柱2本を残し焼失してしまった。歴史を残すため焼残った柱二本を使用して復旧したそうである。下の右の写真は、焼き討ち後に建てられた加藤家である。
T字路で左折する角に”旅館かと家”がある。角屋の屋号で江戸時代末期にはここで旅籠を営んでいたが、現在この建物は使われておらず、国道沿いの新館で旅館業を続けている。近年になって作られたとみられる双体の道祖神も見受けられた。
小岩井の集落に入って行くと、また石仏があり、西郷地に入ると石船神社がある。元禄期から大正にかけて、村内の色々な神社が合祀された神社とのこと。
西郷地北端に西郷地小学校跡がある。明治10年(1877)小幡法円寺の寺である広諦寺本堂を校舎として西郷地小学校は開校したが、明治19年(1886)堅倉小学校に合併して廃校となった。その先で右側に続く参道をたどると山中薬師堂がある。建築年代は不詳だが、水戸吉田町の薬王院と建築様式が類似しているという。安置される二体の仁王像はこの地にあった広諦寺山門のもので、明治末期の火災の際に搬出されて難を逃れたとのこと。
小幡宿に差し掛かったところの林の中に石段と愛宕神社のお社が見えてくる。愛宕神社は防火の神様であるが、戦国時代に小幡城主が奨励したという伝統芸能”小幡ひょとこばやし”の発祥地とのこと。
その先すぐに方圓寺がある。水戸藩主の専用宿泊所であったとのこと。
法園寺から1.5Kmほど進むと街道は国道6号線に合流するが、その合流点の手前に鳥居がありその脇に青龍大権現の石碑が建っていた。高台の方にコンクリートの道が通じているので上ってみると石造りの祠が祀られていた。
6号線を少し進むと千貫桜碑と千貫桜歌碑が建っていた。それによると、かつてこの地に桜の巨樹があり、義公(水戸光圀)が終日めでて「千貫の価値がある」と賞賛したと言う。現在はその桜の木は枯死してしまったが、当時のことを偲んでこの地を千貫桜と呼んでいるとのこと。
千眼桜の碑を見終わって時計を見ると15時16分であった。今日は、奥ノ谷から関鉄バスで水戸駅に向かって駅前で一泊の予定である。奥ノ谷バス停は3Kmほど先であるので、特に歴史的な遺構も見られないのでひたすら歩く。冬の期間お休みしていたので足の疲れも募って来たが、16時に奥ノ谷バス停に着き、16時10分のバスに無事乗ることができた。
]]>11月22日の朝はとても寒く、寒さ対策をして8時41分に電車で土浦に着いた。直ぐに前回に街道より離脱した大町の交差点に向かって進む。途中には土浦のかつてのお城の規模をうかがわせる南門跡の新しい石碑が立っていた。
大町の交差点から大手町方向に進むと直ぐ右に鍵の手に曲がっており、突き当りの奥には東光寺がある。本尊は大日如来で慶長12年(1607)に心庵春伝によって開山されたと伝えられている。 境内には元文4年(1739)に建てられた市の重要文化財指定の瑠璃光殿と呼ばれる朱塗り薬師堂がある。本堂裏の墓地には華岡青洲に学び土浦藩主の侍医を勤めた辻元順の墓がある。
街道に戻り少し進むと右手に等覚寺がある。元は常陸藤沢にあった藤沢山三教閣極楽寺で、その開基は了信と伝えられている。 慶長10年(1605)に現在地に移り、寺号を蓮光山正定聚院(しょうじょうじゅいん)等覚寺とと改められた。本堂に向かうには市指定名木・古木の等覚寺のクロマツの下を通って行く。
境内には市指定文化財の鐘楼があり、その中の銅鐘は、常陸三古鐘のひとつに数えられていて国指定重要文化財である。
建永年間(1206~07)に小田氏の祖八田知家が極楽寺に寄進したもので関東に現存する最古の梵鐘といわれている。 銘文の「大将軍」の文字は、知家の主君である源頼朝を指しているものと思われている。 また、梵鐘はかつて土浦城内にあり、代々時の鐘として用いられていたという。
再び枡形を通り抜けて進むと右側に明治初期に創業した老舗の蕎麦屋の吾妻庵がある。そして、最近改修された矢口家住宅。土浦では天保12年(1841)9月12日の大火後、町屋に十蔵造りと瓦葺屋根が出現し、矢口家住宅はその代表的な建物である。
次には江戸時代末期に造られた、まちかど蔵「大徳」が右手にあり、改修されて観光情報を提供する街のアンテナショップとして利用されている。土浦市出身の高安関の旗も見える。街道を挟んだ向かい側には、まちかど蔵「野村」があり、軽食もとれるコーヒーショップとなっている。
進んで駅前通りとの交差点の角には明治2年(1869)創業の保立食堂がある。駅前通りは今は埋められてしまったが、かつては川口川で水戸街道と交差する櫻橋西袂に位置し、その地の利から大いに繁盛したという。現在はひらがなで「ほたて食堂」と名乗っているが、その角にはかつてここに架かっていた桜橋の親柱が残されていた。
街道から少し離れ、駅前通りを北に進み、土浦城跡の亀城(きじょう)公園に向かった。もう元の城の建物はほとんど残っていないが、二の丸入口にあたる二之門跡に建つ旧前川口門を潜った。中では老人達がゲートボールに興じていて、2階に大太鼓を置いて定時に打ち鳴らしたことから太鼓門とも太鼓櫓とも称される櫓門を見ることができた。櫓門は明暦2年(1656)に本丸楼門を改築したもので、関東地方に残る城郭建築の遺構としては最古の部類に入るとのこと。なお、土浦は度々水害に遭っているが、その際にも城は水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)とも呼ばれるに至った由。
元の街道に復帰して進み、突き当たって左に曲がり北上する。800mほど進むと街道は突き当たって左に曲がる。ここには月読神社(つくよみじんじゃ)がある。祭神は「神月夜見尊・つくよみのみこと」で「闇に光を届け人々を導く神様」である。その先で右折したあたりが、城の北門があったところで、城の規模が推定される。
その先の橋が新川(あらかわ)に架かる新川橋で、ここを渡ると真鍋宿に入って行く。
街道を進むと真鍋宿の通りで、途中から真鍋坂となり、上って行くと善應寺がある。真言宗豊山派のお寺で本尊は大日如来であり、創建は南北朝時代頃とされる。 土浦城から北東の方角に当たる為、鬼門鎮護の寺院として庇護され 寛文10年(1670)に土浦城主土屋数直が観音像を寄進している。山門をくぐると観音堂がある。
観音堂の右手奥には本堂があり、左手の石段を下ったところに照井の井戸がある。照井は寺の山号にもなっていて、古くから豊富な水量を誇る井戸で、寛文年間(1661~1672)に土浦城中へ通ずる上水道が設置され、飲料水の供給源として利用された。今も付近の人達がペットボトルを何本も携え水を汲みに来ている。飲んでみたが美味しい水であった。
善應寺の先で街道は県道125号線合流し、少し先の右手に土浦一高がある。敷地内には、明治期の数少ないゴシック様式の木造洋風建築の旧土浦中学校本館があり、設計者は辰野金吾に師事した駒杵謹治という建築家で昭和51年(1976)旧制中学校校舎としては全国で初めて国重要文化財に指定されたというが、現在改修中で見ることはできなかった。街道は1Kmほど先で県道と分かれて右に進む。ここから1.5Kmほどは、板谷の松並木が続く。
途中には江戸から20番目の板谷の一里塚が残されている。右側は、一里塚の中央に植えられている榎の木が無くなって盛り土のみ残っていた。
再び県道と合流して進み、その先で土浦バイパスを跨道橋(こどうきょう)で跨ぐと中貫宿に入って行く。最初に出会うのは鹿島八坂神社であった。延喜元年(901)創建と伝えられる。
次は左側に安穏寺(あんのんじ)である。鎌倉時代の文治元年(1185)開基という。
安穏寺を出て直ぐ右手に中貫宿本陣がある。本橋家が務めた本陣で、宿泊ではなく休憩のための本陣だった。元治元年(1864)水戸藩の尊皇攘夷激派・天狗党に焼打ちされたがすぐに再建されたもので、当初は萱葺きだったが今は銅版で覆われている。現在も民家として使われているため、内部の見学はできない。
しかし、住んでおられるお婆さんがお墓参りに出てこられたので、昭和12年ころ2里離れた女学校に自転車で通ったなどのお話を伺うことができた。
中貫宿は立派門構えの家が多いが、その外れ付近に馬頭観音の石碑が建っていた。風化して文字は読み難いが、明治38年(1905)の建立。先で国道6号線に合流すると左側に小さな厳島神社があった。
国道6号線は流石に車の通行が多い。2Kmほど進んで、お昼も近しと昼食をとり、進むとようやく右に旧街道の別れが見えてきて下稲吉の一里塚がある。国道6号の敷設による開削と拡張のため、標識がなければ一里塚とは気付かない状態であった。
稲吉宿に入って行くと右手に坂本家住宅の稲吉宿本陣ある。ここも住居として使われているので内部は見学できない。道路を挟んだ対面に脇本陣があったということだが、今は取り壊されて痕跡は無い。
その先には、旧旅籠皆川屋の木村家住宅がある。
かすみがうら市教育委員会の解説によると、江戸時代末期の建築で、桁行八間二階の総瓦葺という堂々たる構えをみせている。広い土間と板縁、上がりはなの階段、勝手、出格子、腰高障子、仕切り戸などが旅籠らしい。二階に上がると、客室の壁には墨痕も鮮やかに、遊びすぎて支払いに窮した思案の落書や愛しい女達の名前が記してあるのも面白い。旅籠「皆川屋」は水戸街道に残る唯一の旅籠とのこと。
稲吉宿の外れには、杉林の参道の長い香取神社がある。千葉県香取市の香取神宮が総本社である。境内には松尾芭蕉45歳の時の作句の歌碑があり、表面に「古の阿多利 眼爾見由類毛の皆涼し 者越翁」と芭蕉の句が刻まれ、裏には関 良可の「お那じ野耳 浅し婦可しや 風の雪」と刻まれています。関 良可は文化14年(1817)に角来村に生まれ、その後、下稲吉村に婿養子に来たとのこと。
香取神社を後にして、天の川という小さな川まで下り、その後上り坂となって左にかすみがうら市役所を見て進む。周りにお店の一つもない田舎の真っ只中の市役所である。何もない田舎の道を1Kmほど進むと、十字路に観音寺がある。高野山真言宗のお寺である。山門の前には六地蔵。境内には観音堂、鐘楼もあり大きなお寺である。
進んで国道6号に合流する。左の側道を進んで下に降りてトンネル潜って再び国道6号線の側道に出て常磐道をくぐると、左に階段がある。上ると、それ以上進むのが躊躇われるような雑木林の繁った小山があり、頂上に千代田の一里塚の石碑が建っていた。後で振り返って分かったことだが、国道6号の開削によって街道面は掘り下げられて、一里塚はちょっとした小山の状態になっているのであった。
国道から別れて、市川集落を進んで1Kmほどで再び国道に合流し、恋瀬川を恋瀬橋で渡ると、府中宿(石岡市街)に入って行く。
国道から別れ、県道35号を進み更に旧街道は左に別れる。坂道を上って行くと左に日天宮がある。直ぐに右折して県道に合流して進むと、左に清亮寺。府中藩の家老や郡奉行などの墓がある。
次に金刀比羅神社がある。金刀比羅神社はは中世常陸国に勢力を得た常陸平氏の嫡流、大掾氏ゆかりの神社で古くは”森の社”と呼ばれた。文政10年(1827)讃岐国象頭山(香川県)の金刀比羅宮から御分霊を勧請して現社名とななった。その次には、昭和4年(1929)の大火で焼失を免れた江戸時代末期建築の商家の丁子屋がある。
街道の右側には、大火後に再建された商家建築と看板建築の店舗が並ぶ。写真手前から福島屋砂糖店、久松商店、十七屋履物店でいずれも味のある佇まいである。
国府3丁目の交差点の少し手前の「パンとケーキの店ヴィオレ」の付近が府中宿本陣跡とのことだが、痕跡もない。そして、交差点を右折して真っ直ぐ進むと、石岡駅である。時刻は15時半。例によってカフェでしばし休息をとり、家路に着いた。
薬師寺のあとは、短い一部分を除いてひたすら国道を進む。何とも味気ない歩行である。3Kmほども進んだであろうか、圏央道をくぐると、霞ヶ浦に注ぐ延長36.5kmの一級河川の小野川を渡る。渡る橋も小野川橋の名前である。川面を見ると、一級河川とは思えないのだが・・・。
進むと、ひたち野うしく駅に通じる学園西大通りを跨ぐ。なお、ひたち野うしく駅は筑波研究学園都市の研究所や高校・大学などつくば市方面の通学・通勤者の利用が主であったが、最近では駅周辺居住者の東京方面通勤が増えているとのこと。
どこまでも続く国道歩き。なんとかならないかと思いながらも進むと、道路の右側に中根の一里塚、左に荒川沖一里塚がペアで残っている。江戸から17番目の一里塚であるが、道の両側にペアで残っているのは珍しいし、左右で呼び名が違う一里塚には始めてお目にかかった。
一里塚を過ぎ約600m進むと、右手に妙興寺へ続く道がある。妙興寺はJR常磐線沿いにあり、山門の目の前が踏切になっている。静謐な境内は、心が癒やされる感じであった。
ようやく、国道から離れて旧道を進む。荒川沖郵便局を過ぎると左側に茅葺きの家屋が見えてきた。元旅籠の佐野屋である。さらに、その先にも茅葺屋根。調べると鶴町たばこ店とのことであったが、営業しているようには見えなかった。
荒川沖を過ぎて、3Kmほどは国道と旧道を交互に歩く。途中で中村宿を通り過ぎるが、これと言った歴史的な遺構を見ることもない。ようやく国道354号線にぶつかり、これを横切り花室川に架かる大川橋を渡る。歩道もない小さな橋だが交通量が多く要注意。花室川は大川橋から約5㎞先で霞ヶ浦の西側に注いでいる川である。
大川橋から100mほど進むと、左側に長い参道が見えてくる。
奥に見えるのは真言宗 豊山派大聖寺(だいしょうじ)である。山門は薬医門型式で貞亨2年(1685)、土浦城主松平信興の寄進で、次の四脚門は茅葺きであった。
大聖寺の来歴は平安時代まで遡る。一条天皇の御代、長徳元年(955)に醍醐寺成尊僧都により「今泉寺」として現在地より東約500m先の永国の中央、亀井墓地近辺に開山されたのが縁起だと伝えられている。北関東三十六不動尊霊場の三十一番札所となっており、納経所、売店もある立派なお寺である。御朱印はご本尊である「羽黒不動尊」とのこと。また、境内にある笠松は、高さ2.8m、葉張6.3m。土浦市指定名木・古木、樹種はクロマツで「大聖寺の笠松」と呼ばれているとのこと。
大聖寺から1KLmほど進むと、馬頭観音の古い石碑があった。ここが水戸街道と布施街道の分岐点で、石碑の横の道が布施街道だが、いまは行き止まりになっているとのこと。さらに1kmほど進むと、道路が左にカーブしていて愛宕神社の鳥居と急な階段が見えてくる。
疲れた足にムチ打って急な階段を上ると茅葺屋根の本殿がある。平貞盛によって開かれたとされ、戦国時代になると菅谷氏が崇敬し、江戸時代になると土屋氏が崇敬した。
次に桜川を銭亀橋で渡る。桜川は、茨城県の南西部を流れ霞ヶ浦に流入する利根川水系の一級河川である。
茨城県道24号線にぶつかり、時刻は午後5時近くであった。今日はここまでとして土浦駅に向かうこととした。しかし、駅まで1Kmほどあり、疲れた足を引きずるようにして駅にたどり着いた。例により駅構内の店でコーヒーを注文してしばし休息の後に帰路に着いた。
]]>11月1日の朝は、大変寒い朝であった。8時22分藤代着の電車で到着して、直ぐに出発した。天候は良く晴れて、駅舎にも太陽の光が注がれていた。直ぐに歩き始めて進むと、小貝川の堤防下に八坂神社がある。この辺りが江戸期には川の渡しの船着き場があったところである。
堤防下の道を北に進み、現在の渡り手段の文巻橋(ふみまきばし)で小貝川を渡る。河川敷に設けられたゴルフ練習場は、先日の台風にともなう大雨で大きな水たまり状態と化している。橋を渡ると、龍ケ崎市に入って行く。
国道を進んで小通幸谷(ことおりこうや)の信号で右に折れ、常磐線を跨線橋で跨いで進み、馴柴小学校入口の信号で左折すると、関鉄竜ヶ崎線の踏切がある。竜ヶ崎線は佐貫と竜ヶ崎を結ぶ単線でわずか4.5Kmで非電化気動車1両編成の運転の路線である。途中の駅は入地駅のみで、30分に一本程度の運行となっている。
先に進んだ丁字路には道標として古い石碑が建っていた。表面の摩耗が著しく刻まれた文字も読みにくいが、正面には「水戸」、左側には「布川」、右側には「江戸」の文字が見て取れた。説明の石板によれば、水戸には16里、布川3里、江戸13里と書かれているとのことであるが、距離の表示は読み取れなかった。
道標のある丁字路で北に進んで行く。途中の上り坂が左に大きく曲がるところに八坂神社がある。京都の八坂神社を総本社とし、素戔嗚尊(スサノオ)を祭神とする神社で、日本全国に約2300社ある神社であり、水戸街道にも幾つか存在する。
八坂神社を過ぎて左に折れると「若柴宿」である。立派な門構えの家が散見されるが、田舎の集落の道を進んで行く感じである。500mほど進むと、今度は道は大きく右に曲がるが、その曲がり角から金龍寺への参道が続いている。金龍寺は、そもそも元享元年(1321)に新田義貞によって群馬県に創建されたお寺であるが、義貞の死後、新田氏の流れを汲む岩松氏が義貞の菩提を弔って諸堂を修営し、寺観を整えたとされている。その後、天正18年(1590)年、義貞の子孫由良国繁が太田金山城から牛久に国替えになったとき、寺も一緒に移したが、天保年間(1830-1843)に火災に遭い、再建されたものが現在の本殿とのこと。
本蔵から左に廻って行くと、新田義貞、新田貞、由良國繁の新田3代の五輪塔の墓石が建っていた。
若柴宿は牛久沼の南岸を通る国道6号線の水戸街道からは、ずいぶん離れているが、江戸期には、牛久沼も現在より大きく、周辺には湿地帯が広がっていたためである。現在では、土地改良と水路の整備等で牛久沼の近くまでの土地が利用可能となった。しかし、通りがかった人の話では、土地改良にともなう水利権は、現在でもなかなかに微妙な問題とのことでした。
さて、元の街道にもどって進むと、道路の左側に星宮神社(ほしのみやじんじゃ)がある。星宮神社は、延長2年(924)の正月13日に、肥後国八代郡八代(現熊本県八代市)から分霊勧請して祀ったものと伝えられている。この社の祭神は天御中主大神で、つまり全和全能の創造の神様で、大宇宙に最初に現れたあらゆる創造物の総元締めで、天の真ん中に位置する神様と言う事なのである。星宮神社の名前の所以は、天の真ん中で輝く北極星から採ったと考えられている。
田圃の中の道をひたすら歩き、途中から雑木林に挟まれた道を進むと遂に常磐線の踏切に到達する。国道も横切り、牛久宿に入って行くと、黒塀をめぐらした旧家、飯島家の門脇に明治天皇牛久行在所跡の碑が建っている。これは明治17年の明治天皇が牛久沼野南の開拓地の女化原(おなばけはら)に行幸の際の宿所を記念した碑で、牛久という片田舎に明治天皇が訪れたことを物語っている。当時としてはビッグトピックで、牛久から女化間の臨幸道の改修や牛久沼東岸の新道の建設などが行われたとのこと。
明治天皇牛久行在所碑から100mほど先には正源寺(しょうげんじ)がある。縁起は戦国の世も終わり近づく文禄元年(1592)、当時の牛久城主の由良国繁公により戦で命を散らした人々の菩提を弔う為に七観音八薬師の一つとして創建され、約四百二十年の歴史を刻んできた曹洞宗のお寺である。鐘楼門と石造りの仁王様があり、境内には、推定樹齢400年の日本特産のトチノキがある。また、池波正太郎作品『鬼平犯科帳・雲竜剣』にも登場する。
正源寺を過ぎると、時間は丁度お昼時であった。牛久駅の近くのレストランで昼食を摂り、しばしの休息を取ったのち、次の宿の荒川沖宿に向かうこととした。
]]>夏の間はお休みしていた水戸街道歩きだが、秋の彼岸に入り涼しくなってきたので再開した。今日は、8時50分に我孫子駅から歩きはじめて取手を越して藤代までの予定である。
我孫子駅入口の交差点から200mほど進むと、志賀直哉邸跡、嘉納治五郎別荘跡、白樺文学館等、文人・有名人に由来する場所の案内板が立っていた。興味はあったがスキップすることにしたが、手賀沼湖畔の風景が多くの文人等に気に入られたのであろうか。
少し先に進には、我孫子宿本陣が単なる表示杭として残っているだけであったが、一方で天保2年(1831)建造の脇本陣の茅葺屋根の小熊家住宅は残っていた。今となっては、我孫子宿で唯一残る歴史的家屋であろう。
その後、成田街道分岐点を過ぎ、常磐線のガードを潜って進むが、道路を水道局のある側に渡るのに手間取ったが、ようやく道路の左側に柴崎神社が見えてきた。創建は天慶元(938)年と伝えられていて、日本武尊が東国討伐の途次立ち寄り武運を祈り、また平将門も祈願所として崇拝し、土豪芝崎左馬督は社殿を改築した。相馬家一門も累代の守護神として崇め、相馬重胤は奥州に分社を建立したとのこと。
柴崎神社の少し奥まった場所に曹洞宗の東源寺がある。天文9年(1540)に北条氏康が開基したと伝えられる。本堂正面の左手前には、樹高約16m、幹周約4.5mで樹齢250年のカヤの木があり、県指定天然記念物に指定されている。枝は四方に広がり、昭和時代初期までこの木の下で漢学塾が開かれていた。光音禅師のお手植えのカヤと伝えられ、師は信州に生まれ、江戸の呉服商の伊勢屋に奉公していたが、茨城県取手市の長禅寺の幻堂禅師の弟子になり、宝暦~安永年間(1751~81)に、四国八十八か所霊場を訪れたとされる。その後、相馬八十八ヵ所を開基して、東源寺は第75番札所で、しっかりした太子堂も本蔵の左側に存在する。
元の街道に復帰して進み、国道6号線に合流する。6号線の歩道を歩いて進むが、予めネットで調べておいた並行して進む道路に分かれて、利根川の堤防に達した。しかし、大利根橋の歩道に行く道が見つからない。道路は橋に通じているが、歩道はなく、特に10mほどは歩道が無いばかりか、大型車が道路の幅いっぱいの状態でひっきりなしに通るので、強引に歩くことも出来ない。
相当距離引き返してようやく歩道にたどり着いたが、少しは歩行者のことも考慮して欲しいと思った。
大利根橋の長さは、1,209mで千葉県と茨城県を繋ぐ大動脈である。下を流れる利根川は、坂東太郎の異名を持ち、日本一の規模をもつ大河である。
途中、道路の進み方を間違えて手間取ったりしたこともあり、大利根橋を渡り終えたときには、11時を過ぎていた。少し早いが、取手駅前で昼食を取ることにした。しかし、食事を済ませて外の出ると雨が本降りであった。スマホで雨雲の状態を見て、直ぐには止まないと思って、持参した傘を取り出して長禅寺に向かって進んだ。
長禅寺は、臨済宗妙心寺派の古刹で、京都の妙心寺の末寺であり、本尊は延命地蔵尊である。朱雀天皇の代の承平元年(931)に、平将門が勅願所として創建したと伝えらている。将門没後は「御厨三郎吉秀」という人物が、密かに本尊を守り伝えてきたものの荒廃が甚だしかったとのこと。承久元年(1219)には義門和尚を開祖として再興が計られ、また「吉秀二十九代後胤織部時平」は、文暦元年(1234)に将門の守本尊で安阿弥十一面観音像(快慶の作と伝えられる)を安置するために「四間四面御堂」を建立するとともに、寺の再興を計ったとも伝えられている。
長禅寺の急な石段を上り山門をくぐると、正面に県指定文化財の三世堂がある。外観は2層だが内部3層で、「さざえ堂」の形式になっており、上り階段と下り階段があり、堂内では参拝者が交差せずにまわれるようになっているとのことであるが、特別公開日以外は入ることができない。宝暦13年(1763)に建立されたが大破したため、享和元年(1801)に再建された。
三世堂の前を左に進むと、太子堂が2棟建っている。
太子堂の前を回り込むように進むと本蔵があり、さらに進むと最初に潜った山門のところに戻るので、また急な石段を降りて進むと旧街道の通りにぶつかるので、左折すると田中酒造がある。創業は1655年。取手市は造り酒屋が多かったが、そのなかで唯一残った老舗とのこと。田中酒造で造っている銘柄は「君萬代」で「君(日本国)が萬年続くように。その国とともに萬年続けられるるように」と名付けられたという。明治天皇がこの地域に行幸した際、田中酒造の井戸水を献上した功によって下賜されたものとのこと。店先には、古い酒樽を利用したモニュメントが飾られている。
田中酒造から100mほど進むと、旧取手宿本陣染野家住宅がある。公開は金、土、日の午前10時から午後4時までである。歩行再開を金曜日の今日とした理由でもある。
旧取手宿本陣染野家住宅は、寛政7年(1795)に建築された。染野家の当主は、代々取手宿の名主を勤めていたが、貞亨4年(1687)に水戸徳川家から本陣に指定されたと伝えられている。水戸徳川家の歴代藩主だけでなく、江戸と水戸を行き来する水戸藩士や、ほかの大名も染野家を本陣として宿泊や休息に利用した。
中の間と上段の間の写真であるが、これ以外にも、広間、二の間、三の間、茶の間、納戸、中納戸等多くの部屋がある。
今まで、現存する本陣の幾つかを見てきたが、茅葺きの本陣は始めてであった。家具調度品が全く置かれていなかったのが、いささか寂しい感じがした。
県道11号を進んで、ファミリーマートが見えてくると、県道から左に離れて進む。高台に阿夫利神社がある。神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社の分神である。
阿夫利神社のところで右に曲がり進んで、吉田の信号のところで、旧街道に入って行く。民家の庭にはコスモスが咲き誇っていた。これからは、藤代宿手前の常磐線の踏切までほぼ真っ直ぐな道を4Kmあまりの距離を進む。
道の両側には、ところどころ民家が散見されるが、ほとんど田圃の中の道をひたすら進む。2カ所ほど真新しい「水戸街道」の表示石柱が立っていたが、とにかく変化がなく、歩く以外には何もない平坦な道である。ようやく、常磐線の踏切に達して多少なりとも、気持ちに余裕がでて元気を取り戻す。
藤代宿の中心部に入って進み、相馬神社のところで、右折すると藤代駅までもう一息である。遂に右手に愛宕神社を見て、その先で右折すると藤代駅であった。
何時も歩行を終えてて駅前でカフェに入り、休憩して帰路につくのであるが、藤代駅周辺にはいっぱいのコーヒーを飲める店もコンビニもなく、駅は綺麗で新しい感じだが、いささか寂れた様相を呈した駅前であった。しかたなく、駅の売店で飲み物を買い、ベンチに座っていささかの休憩とする他なかった。でも、今までの街道歩きで、多くの無人駅に遭遇したことを思えば、良しとするべしと思った。
]]>今回は、水戸街道を歩くため日本橋から出発して3回目である。
今日は小雨も予想されたが朝8時半に北松戸駅につき、早速国道6号線(現在の水戸街道)を歩き始めた。
1Kmほど歩いて中根立体入口の交差点で左に10mほどのところに旧道への入口があり、長津川に架かる馬橋がある。かつて、この橋は大雨のたびに流された。萬満寺と縁のあった良観上人が、馬の鞍の形をした橋を架けさせたところ、それ以後流されることはなくなった。以来、この橋は「馬橋」と呼ばれるようになり、馬橋という地名の元になったとのこと。
そして、進んで馬橋駅に近づくと、正面に特徴のある萬満寺(まんまんじ)山門が見えてくる。なお、左の小振りな建物は、鐘楼である。
建長8年(1256)に小金城首・千葉介頼胤が、鎌倉極楽寺の良観房忍性を招いて、真言宗の大日寺を開いたのがはじまりと伝えられている。現在の萬満寺(臨済宗)となったのは、千葉介頼胤の時代の康暦3年(1379)、満胤は鎌倉の端泉寺にいた夢想国師の高弟古天周誓を招いて中興開山し、関東管領足利氏満の字をとって萬満寺と号したといわれている。
山門をくぐると、次に出会うのは仁王門である。「仁王門」の左右に、国指定重要文化財の木造金剛力士像が安置されている。運慶作とも伝えられているが、真贋のほどは定かではない。また、例大祭に仁王さまの股をぐりが行われ、これで、むこう1年病魔や災難も除け、子どもはすくすく育つという。仁王門の先には、ようやく本堂である。
さらに、境内には弁天堂、水掛不動尊などがある。
萬満寺の左に隣接して、王子神社がある。馬橋一帯は砂丘で水が乏しいため、諏訪神社を勧請し萬満寺の鎮守としたものだが、2015年10月に本殿が完全に焼失してしまい、現在再建準備中とのことであった。
萬満寺を離れて進み、国道6号線に合流して進むと、左手に蘇羽鷹神社(そばじんじゃ)がある。千葉孝胤(ちばのりたね)が治めた三ヶ月(みこぜ)の地に馬橋城が建っていたが、廃城後に千葉氏の加護を受けて創建されとのこと。
ここで、国道6号線を離れて、右の旧道を進む。途中で再び国道6号線にぶつかるが、これを横切って進むと、一月寺(いちげつでら)がある。お寺とは思えず、何かの集会場のような感じである。元々一月寺は、武蔵野国新町の鈴法寺と共に普化宗の触頭として関東総本山という地位にあった。徳川幕府の庇護もあり、隆盛を極めたが、明治政府の方針により、幕府と縁の深い普化宗自体が廃止されたので、以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの万満寺の助力を得ながら在家が管理する形となっていた。昭和30年代、妙縁寺総代であった佐藤悦三郎の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗して現在に至る。
一月寺から100mほど進むと、旅籠玉屋がある。この街道は旧水戸街道として有名だが、成田街道の道筋でもあるため小金宿には旅籠が多く、鈴木家は代々惣右衛門を名乗り、玉屋の屋号で徳川時代後期の旅籠の原型を留めている。東京のベッドタウンと化したこの地で元旅籠屋の建物が残っていること事態が貴重である。
さらに進むと、参道が長く広大な境内の東漸寺がある。
東漸寺は、文明13年(1481)、経譽愚底運公上人により、当初、根木内(この地より1キロ北東)に開創した。この後約60年後の天文年間、現在地に移され、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹である。 その後幕府の庇護も受け檀林となった東漸寺は、広大な境内を持ち、多くの建物を擁するようになり、大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展した。また、明治初頭には、明治天皇によって勅願所となった。
北に進んで、北小金駅前のイオンにぶつかり街道は右に直角に進むが、イオン前には真新しい小金宿の案内板がり、八坂神社御跡地の碑も建っていた。
根木内交差点で国道6号線を渡ると、直ぐ左に根木内歴史公園がある。ここは根木内城址で、高城胤忠が寛正3年(1462)築城したもので小金城を築いて移るまで高城氏の本拠地であった。
天正18年(1590)小金落城と共に廃城となったと思われるが、昭和30年代に水戸街道(国道6号)が通り、城跡は2つに分断され、北半分は住宅地として消滅し、現在は大手口のある南側の曲輪の一部のみが残っている。掘り下げられただけの堀で、石垣などは配されておらず、典型的な戦国時代かそれ以前の城である。
この後、特に目立った歴史遺構もなく進むが、道路が大きく北に曲がると、右手に行念寺があった。創建は室町時代、明応2年(1493)で東漸寺開山・經譽愚底上人の開基である。昭和43年に本堂(鉄筋造)を復興し、庫裡(木造)を再建した。そして、「ベルクス」の名前のスーパーがあった。始めて見るスーパーである。
次に現れたのは、香取神社。この辺りに一里塚があったようだ。その次は稲荷神社。小さな神社で村社として創建されたとのことだが、茅葺きの屋根が珍しくかわいい。
稲荷神社の直ぐ先には、八坂神社がある。この辺りの水戸街道は小金牧の原野を通っていたため、真夏の直射日光や風雨を防ぐために街道の両脇に松が植えられていた。また、道に迷わないように道標の役目もあったようである。
進んで、南柏駅を過ぎ、日光東往還の分岐を通過して進む。やがて、左手に豊受稲荷本宮があるが、前方の家屋で半分隠れている。
ようやく、柏神社が見えてきた。江戸時代初期に八坂神社の御分霊を勧請して創建されたのが始まりで明治中期に羽黒台に鎮座していた羽黒神社を境内へ遷宮し、明治40年(1907)に合祀された。柏神社と名付けられたのは昭和49年(1974)で、それ以前は天王様とか羽黒神社とも呼んでいたらしい。
さて、ちょうどお昼の時間である。近くのお店で昼食をとり、午後の行程について吟味しながら休憩とした。
休憩の後、歩きだして300mほど、そごうの立体駐車場の前にある緑地帯に、明治天皇柏御小休所の石碑は建っていた。明治13年には明治天皇が行幸され、昭和16年には「明治天皇柏御小休所」として、史跡名勝天然記念物保存法による史跡に指定された。次の信号の手前左側、ビルの植え込みに「江戸へ近道」の石碑が立っていた。
進んで国道6号線を横切り、常磐線を渡るところに達すると、向こうに立派な建物が見える。ホテルかとも思ったが、地図にもその記述がない。前を通ると「迎賓館」と書いてあり、ますます分からなくなった。後で調べたら「迎賓館」という名の結婚式場であった。
道は、常磐線に沿うように進んで行く、国道にぶつかると向こうに巨大な建造物が見える。北柏ロジポートと名付けられた物流施設であった。
北柏駅を右に見ながら進むと、左手に東陽寺があった。由来は不明だが、明治5年に学制が公布され、翌年には東陽寺を校舎に根戸学校が開校し、のちに富勢尋常小学校(現・富勢小学校)となったとのこと。
その先の右手には、妙蓮寺。我孫子市指定文化財の阿吽二体の陶製仁王像があるとの説明板が立っていた。
我孫子駅入口の交差点にたどり着いた。左に八坂神社。応永3年(1396)の創建と伝えられる。
さて、左に進むと我孫子駅である。今日の歩行は、ここまでとして駅前のカフェで休息して帰路についた。
第一回は、日本橋から北千住までの歩行であったので、今日からが本当の旧水戸街道歩きということになる。幸いにも、天気は晴れだが、気温は23℃ほどで、この季節にしては涼しくて快適な環境であった。
さて、小菅駅を8:30amに出発して、直ぐに荒川の堤防に出て、旧街道に合流すべく歩きだした。堤防からは、スカイツリーを始め東京のビル群も眺望され、気持ちが良い。
そして、旧街道の合流地点で堤防から降りて進む。当然だが、もう旧街道の面影は感じられなく、ありふれた街のなかの道の風情である。真っ直ぐ進むと綾瀬川にぶつかり、かつて橋がかかっていた地点に、この橋にまつわる物語の説明板が設置されていた。水戸光圀の威光を示すために書かれた、いかにも取ってつけたような説明が書かれていた。いわく、この橋には、親を殺された子狸が妖怪と化して出るので、光圀公が自ら筆をとって水戸橋と橋の親柱に記した。
水戸橋は近年取り壊され、左に少しはなれて、歩行者通路も設けられた新水戸橋があるので、これを渡る。渡って直ぐに右に進むと、小菅神社があるのだが、参道に入ってすぐに稲荷神社が合祀されている。これには、少々訳がある。明治2年に小菅県が設置され、現東京拘置所となっている場所に県庁舎が設けられ、庁内に伊勢神宮から勧請し県下356カ町村の守護神とした。しかし、明治5年に小菅県は東京府に編入され神社も小菅村の鎮守である田中稲荷神社の境内に移設されたのである。
街道に復帰して進むと、蓮昌寺がある。正安2(1300)年、日蓮大上人の孫弟子・松本阿闍梨日念上人によって開基とのこと。
その後、特に注目すべきものもなく街道を辿って行く。亀有3丁目あたりまで進むと、道路の右側に一里塚の碑が建っていた。日本橋から3里の一里塚跡であるが、一里塚そのものは完全になくなって水戸黄門と助さん、角さんのモニュメントが設置されていた。顔はもう少し明るい感じにした方が良いように思うが。
進むと、左手にアリオ亀有という大きなモールが見えてきて、イトーヨーカドーの大きな看板も見える。
この先で中川を渡るが、この川までが千住宿で中川橋を渡ると新宿(にいじゅく)になる。大きな荒川が、宿の境界のような感じに襲われるが、江戸時代には現在の荒川はなかったので、中川が境界で不思議はなかったことであろう。
橋を渡ると、最初に目についたのは寶蓮寺。天文元年(1532)に栄源が中興開基となり創建したと伝えらる。本尊は薬師三尊立像。境内のイチョウの古木が立派である。
街道を右折して進むと、西念寺がある。文安5年(1448)僧浄円が結んだ草庵を起源とし、天文元年(1532)覚蓮社法誉が寺院として創建したと伝えられる。江戸時代には将軍が鷹狩にきた際に、この地の魚を献上したと言われている。
街道を突き当たると、日枝神社がある。永禄2年(1559)頃に創建したものと推定され、江戸時代には新宿宿の鎮守であり、祀神は大山咋命(おおやまくいのかみ)。
この辺りは東京のベッドタウンとして宅地開発が進み旧街道が入り組んだ感じになっており、途中何度か道を間違えたが、1Kmほど進んで京成金町線の踏切を渡った。ちょうど電車が通りかかった。単線である。
踏切のあとは順調で、常磐線をくぐった先に水戸街道の石碑が建っていが、表面が摩耗して文字はほとんど読めなかった。しかし、少し先には。葛西神社の大きな石柱が行く手に確信を与えてくれた。
さて、立派な葛西神社だが、1185年に葛西清重が、上葛西、下葛西33郷の総鎮守として、香取神宮の分霊を勧請したと言われている。江戸時代には徳川家康から御朱印10石を賜り、11月を例大祭とするようになり、葛西囃子発祥の地として知られているほか、毎月11日に酉の市が行われる。
街道に戻って進むと、江戸川に突き当たる。この川で新宿(にいじゅく)が終わり、川を渡ると松戸宿である。
堤防道路に出ると河川敷にゴルフコースが見え、上流をみると298号線の上下線の葛飾大橋とその更に先に54号線の葛飾橋が見え合わせて3つの橋がかかている。海から19Kmの表示もあった。下流には矢切の渡もある。
松戸宿に徒歩で渡るのは一番奥の54号線の葛飾橋の歩道だが、足が疲れてきた身には、1Kmほどの長さと思ったが、後で調べると450m程度であった。
葛西橋を渡って、すぐ左折して堤防道路を進むと、右に小階段が現れ、降りた先には松戸宿の碑が建っていた。江戸期には渡し場の近傍に木製で傍示杭が建てられていたはずであるが、ロータリークラブが新たに立てたものである
少し先で左折して進むと、松戸郵便局が左側にあるが、ここは元脇本陣のあった場所とのこと。その先の信号で左折すると本陣跡の表示版があるとの記述をネットで見かけたが、見つからなかった。
その先には、松戸神社への参道があり、進むと寛永3年(1626)に社殿建立、明治15年(1882)に御嶽大権現より松戸神社と改称された立派な神社がある。
祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)で、水戸街道筋にあったため、水戸光圀や水戸徳川家からも崇敬されたとのこと。
街道に戻り進むと、街道筋らしい家が建っていた。福岡家の店舗として建てられたものであるが、今は住居として使われているとのこと。なお、福岡家は江戸期以来の松戸きっての資産家で「福岡薪炭店」を営んでいた。
さて、お昼時間も過ぎ昼食をとるお店を探すことにした。極度に疲れると、脂っこいものは胃が受け付けない気がして、前回と同じく蕎麦屋を探すが見つからない。一軒良さそうなお店が見つかったが、月曜日は休みとのこと。松戸は大きな街なので蕎麦屋は容易に見つかるだろうと思っていたが、まるで見つからない、中華系の店が多い。相当疲れて足も痛くなってきている。結局、生魚の丼ものの店で昼食をとった。
その後、戸定邸を見学しようと痛む足と疲れた体にむち打ち訪れるが、やはり月曜日は休みであった。まことに残念。
街道にもどり、進むと真言宗豊山派の善照寺がある。こ辺りには北辰一刀流を創出した千葉周作が剣術の修行をした道場があったという。また、その先には、真宗大谷派の西蓮寺がある。
西蓮寺を過ぎると、注目すべきものもなく、痛い足を引きずりひたすら歩く。常磐線に沿う場所まで来ると、跨線橋(こせんきょう)があり、渡って進む。右側に雷電神社が見える。祭神は別雷命(わけいかづちのみこと)である。もう、お参りする気力も残っておらず、先を急ぐ。ようやく、北松戸駅にたどり着き、例によって駅前のコーヒーショップで休息の後、帰宅した。
]]>2012年5月24日に奥州街道の一戸まで歩いたところで都合により停止したが、5年が経過して健康維持の観点から街道歩きを再開することにした。 幸いにも、四国の88箇所のお遍路巡礼を始めた友人が私の街道歩きに付き合ってくれることになった。しかし、5年のブランクが有り、加齢と怠惰な生活による体力の低下、なかんずく脚力の衰えは覆うべくもない状態だが、無理をせず、のんびりと歩き始めることとした。
さて、水戸街道であるが、日本橋から北千住までは日光街道と共通であり、一般的には北千住からスタートするようであるが、友人は歩いたことがないこと、以前に日光街道を歩いたのは2009年で、8年経過して街の変わりようも見る意義があるのではと考え、再度日本橋をスタートすることとした。
東京駅の八重洲口で8時に待ち合わせ、歩き始めたが東京駅の八重洲口も美しく変貌していて、職場に足早で向かう人達を眺めながら日本橋に向かった。
日本橋は全く変わらず、アリバイ証明のような感覚で、その佇まいと道路元標の表示柱をカメラに収め次に進むこととした。
日本橋を後にしてスルガ銀行の角を右折して100mほど進んだ左側にある三浦按針の屋敷跡の碑を見に行った。以前に日光街道を歩いたときに見逃したが、今回も見つからず、諦めて戻ろうとした時に、小型トラックが止められている向こう側に、少しだけ見え何とか撮影できた。停車しているトラックのために、今回も見逃すところであった。三浦按針は、英国人ウイリアム・アダムスで、徳川時代初期に日本に漂着した水夫でイエズス会の宣教師たちが処刑を要求するなかで家康に重く用いられ大伝馬町の名主の娘お雪と結婚し1男1女を設けて生涯を過ごした人物だが、詳細はネットで検索すれば容易に見つかるので省略する。
元の通りに引き返し、特徴のある三越のライオン像を左手に見ながら進む。
進んで日本橋三井タワーを左に見て、右折して大伝馬町本町通りに入って行く。昭和通りの交差点を過ぎて150mほど進んだ右手には、以前ホテルギンモンドがあったが、今は無く工事囲いの僅かな隙間に旧日光街道本通りの石碑が、侘びしげに建っていた。
少し街道から離れて、左に進み江戸通りを越えたところに、十思公園がある。ここは、江戸牢屋敷と刑場があったところで、公園の左にある老人ホームの前に、牢屋敷の発掘された石垣とその説明板が建っていた。公園には、以前にはなかった子供用の遊具なども設置されていて、かつての面影を偲ぶべくもないが、吉田松陰終焉の地の石碑と江戸市中に時を知らせた「時の鐘」は、残っていた。罪人の処刑もこの時の鐘を合図になされたとのことで、鐘撞(かねつ)きの辻源七という男はそんな時、わざと遅らせて鐘を撞いたという。
返すがえすも残念なのは、吉田松陰の処刑で、生きておれば明治に大きな活躍をしたであろうと思えるが、井伊直弼は日本の大きな宝を無くしてしまったのである。元の通りに戻って進むと、馬喰町で、衣料問屋の集まっているところである。かつては、「小売お断り」と書いた貼り紙の店も多かったが、今回は一軒も見つからなかった。大規模店舗が増え、問屋を通さず直に仕入れることが多くなり、問屋の必要性がうすれ、やむなく個人客を受け入れざるを得なくなったと考えられる。まるで、衣料品の安売り商店街の様相である。
大きな交差点にぶつかり、神田川を浅草橋で渡る。今も変わらず屋形船が多く係留されている。そして進むと人形で有名な久月本店があり、道路の向こう側には吉徳がある。
蔵前橋通りの交差点を過ぎ、蔵前二丁目交差点で右にむと、駒形町でやがて左に有名な「駒形どぜう」が見えてくる。創業200年で、当時「どぢゃう」と表記するのが一般的だったが、初代店主が縁起の良い奇数文字数をと考え「どぜう」としたとのこと。そして、駒形橋西詰交差点を北進すると、雷門が見えてくる。観光客で賑わっている。近づくと、多くの外国人観光客が、雷門の大提灯をバックに記念撮影をしていた。
浅草の仲見世は、大変な混雑ぶりである。8年前とは、大違いである。修学旅行の学生と外国人観光客が多く、まともに歩けない程であった。
本殿の前で右折して、二天門を出て進むと花川戸公園があり、「姥ヶ池」の碑が建っていた。この辺りは、浅茅が原とよばれていて、その中の一軒家に老女と若い娘が住んでいた。旅人に宿を貸しては深夜になって旅人を殺し、金品を剥ぎ取っていたが、殺された人が 999人になったとき浅草観音は若者に変装して老女のところに泊まった。老女はいつもように若者を殺して、明かりをつけてビックリ、殺した相手は旅人ではなくて自分の娘だった。老女は大いに嘆き、仏眼を開いて悔い、大きな竜となって池の中へ消えていったという。
そのまま進むと、隅田川に突き当たり、スカイツリーがよく見える。川沿いの隅田公園の入口付近にも観光客が群れており、ここでも記念撮影である。
隅田川の堤防に上れば、言問橋とスカイツリーが見え、これも新しい風景である。ところで、東武伊勢崎線は愛称を東武スカイツリーラインと呼ぶことになったが、業平橋駅はスカイツリー駅に改称になった。在原業平が、「名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」詠んだ由緒のある場所の名前を変えるとは、いささか軽薄な気がする。まさか、言問橋をスカイツリー橋と変えることはないとは思うが。
更に隅田公園内を進むと、滝廉太郎作曲の花の歌碑が建っていた。作曲は滝廉太郎であるのは有名だが、作詞者が武島 羽衣(たけしま はごろも)であるのは、あまり知られていない。明治5年生まれの国文学者である。
隅田川公園を離れて、待乳山聖天(まつちやましょうでん)に寄る。入り口の階段を上ると、7つの石仏が並んでいる。聖天の立地は10m程度の低い山上であるが、周りが平坦なため、江戸時代にはここから見る隅田川の眺望が良く江戸名所の一つであったとのこと。良縁成就、夫婦円満、そして商売繁盛のご利益があるとして広く信仰を集めてきたというが、現在でもお乳の出るように祈る女性が多いとのこと。
吉野通りに出て進むと、山谷堀公園がある。吉野橋の名の橋柱が残っているが江戸期には「山谷掘」があり、「新吉原」に通う舟で賑わったという。
時刻は、11時半。そろそろ昼食を考える時間で、目ぼしい食堂を探しながら進んで行く。ほどなく、良さそうな「蕎麦屋」があり、昼食をとった。
昼食を済ませしばし休息をとり、出発すると泪橋の交差点。昔はここには思川(おもいがわ)が流れていたが、今は暗渠になり交差点の名前として橋の名前が残っている。品川も鈴が森の刑場が近づいたところに、「泪橋(現在では浜川橋)」があったが、ここでも小塚原刑場を控えて家族が涙で見送ったのだろう。
少し先で、常磐線の貨物駅への線路を横断橋で渡ると延命寺があり、ここは小塚原刑場跡である。大きな石造りの「首切り地蔵」が野外に鎮座していた。刑場跡は、どこも気持ちの良いものではない。
そして、つくばエクスプレスと常磐線の本線をくぐり抜けると、小塚原回向院があり、墓所は現在の墓地と歴史的な遺跡の意味もある墓所に別れていて、歴史的墓所の入り口を入ってすぐに226事件で銃殺刑となった磯部浅一とその妻登美子の墓がある。磯辺は吉田松陰を尊敬しており、松陰の近くに弔って欲しいと言っていたという。勤皇の志士を弔う大きな石碑も建てられている。また、一番奥には、松陰二十一回猛士墓」と書かれた、吉田松陰の墓がある。二十一回猛士とは「生きてるうちに二十一回の猛を発する」という意味で松陰が自分で名づけたという。松陰の墓に到る通路の両側には安政の大獄で刑死した多くの尊王の志士の墓石がある。
鼠小僧次郎吉、片岡直二郎、高橋お伝、腕の吉三郎の墓も並んでいる。いずれも名うての悪人として名高いが、ここに墓石を置いているとは大したものである。大悪人の面目躍如といったところか。
回向院の入口横には、「吉展ちゃん誘拐事件」で亡くなった吉展ちゃんを弔うため、ご両親が建てた「吉展地蔵尊」がある。日本で始めての身代金誘拐事件で、大きな反響を呼んだ。
進んで国道4号線に合流すると、このあたり一帯の総鎮守である素盞雄(すさのお)神社があり、少し先に隅田川にかかる千住大橋が見えてくる。
千住大橋には、左側に歩道が付いており、渡って直ぐに左側から、橋の下に降りられるようになっている。階段を下ると奥の細道 旅立ちの地の大きな絵がコンクリート壁に描かれている。千住大橋の反対側に通じる鉄橋がかかっていたので、それを渡り、階段を上って国道4号線に添って進み、千住宿に入って行く。
国道から旧日光街道が分かれるところに設けられているのが、松尾芭蕉が奥の細道に旅立つことを表したモニュメント。この千住宿で芭蕉が奥の細道への旅立ちに際しての初の句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠んだのである。そして、千住の商店街に入って行く。
商店街を進むと、チンドン屋に遭遇した。昨今チンドン屋に出会うのは大変珍しい。5街道を歩いた経験からも、甲州街道を歩いたときに、八王子近くで一度出会っただけである。
北千住駅に向かう道路と交差すると、千住宿も終わりが近い。道の右側に小じんまりとした「街の駅」を見つけて覗き込むと、地図等も用意してあるので、休んで行ってと声をかけられた。案内地図だけもらって先に進むと、右側に江戸期の商家の様子を今に残す、横山家がある。以前通ったときは、NTTの作業車が停まっていて、邪魔であったが、今日は悠然とカメラに収めることが出来た。
少し進むと、旧日光道中と旧水戸佐倉道の分岐となる。細い表示柱が建っていて右折して進むと、常磐線のガードが見えてきて、右手に氷川神社がある。素戔嗚尊を祀る村社である。
次に、常磐線のガードをくぐると日蓮宗の清亮寺がある。かつて水戸街道に面して古松が茂り水戸光圀公ゆかりの「槍掛けの松」として有名であったが、今は山門を入ったところにある説明板に写真として姿を残すのみである。
さて、つくばエクスプレスのガードを潜って、荒川に到達したが、この荒川は大正期に掘削された放水路で江戸時代の水戸街道は分断されることになった。当初、北千住駅から小菅駅まで電車で渡り、水戸街道を進む計画であったが、5年ぶりの街道歩きは、予想以上に筋肉の衰えが大きく足の太ももから股関節あたりにかけて痛みを感じる様になってきたので、今日はここで打ち切ることとして、北千住駅に向かい駅近くのカフェで十分に時間を費やし、帰宅することとした。
]]>奥中山高原には温泉があり宿泊出来るとは知らず、盛岡駅前のホテルで宿泊し、7:32盛岡発のIGRいわて銀河鉄道で奥中山高原駅には、8:16に到着した。駅前に1台のタクシーが停まっていたので、昨日歩いた2kmをまた歩く気にもなれず、時間も節約したいと考え、タクシーを利用した。
昨日駅に向かった十字路から進むと、階段が続く神社のある丁字路に突き当たり右折して進む。
またもや、摺糠(すりぬか)の標柱があり、100mほど進むと、民家の庭先を通る感じで左に旧街道の上り口がある。
舗装されていない道を1Kmほど進むと、左の林を背にして「明治天皇御休憩之跡」の碑が立っていた。
明治天皇碑より3000mほど進むと、突然に広い幅の舗装道路に出て、少し先には「奥州街道最高地点 標高484m」の標柱が立っていた。最高地点といってもそれほどの高地ではない。
進んで行くと、畑の向こうに「中山一里塚」が見えてくる。畑を開墾して街道の位置が変わってしまい、塚の片側もなくなってしまったのである。
一里塚の横を通る道路に突き当たり、一里塚に近づいてみた。国指定の史跡だが、所有者(中嶋孫彦)が居る。
一里塚から500mほどで、集落が見えて来る。旧中山集落である。入り口の左側には「青面金剛像塔」が建っている。説明板によると、安永4年(1775)と記銘され、一戸町で最も古い青面金剛像塔で、庚申塔として建てられたもの。庚申塔は、集落の入り口や分岐点に建てられることが多いと記されていた。
2Kmほど進むと、火行(ひぎょう)の集落で、集落の中ほどに「火行伝馬所」の説明板が立っていた。
集落を抜けると十字路があり、直進する道が「ヨノ坂」である。火行と小繋の2つの集落を結ぶ坂道で、奥州街道でもかなりな難所で、山あいの沢に沿って進む1.5Kmほどの道である。
奥州街道の歩行で初めて、熊よけの鈴を取り出しリュックにぶら下げて歩くことにした。倒木も多く、なかなか歩きにくい。下り坂でも昨日マメを作った足にはかなり堪える歩行となった。
1Kmほど下って行くと、「小繋一里塚」が左側にある。片側のみ残っていて、盛岡から12番目の一里塚である。
長い「ヨノ坂」を抜けて小繋の集落に入ると、直ぐの左側に「小繋御番所跡」の説明板が立っていた。盛岡以北で最初の御番所で、材木、馬、漆、蝋などの物資のほか女性の移動も監視したとのこと。
街道は集落を真直ぐ貫き丁字路にぶつかり右折する。
丁字路を右折すると、長楽寺がある。説明板によれば、天台宗のお寺で桓武天皇の御代に坂上田村麻呂が大同2年(807)に東征の折、当地に地蔵堂を建立して鎮撫祈願をしたのが始まりで、嘉祥年中(850年頃)慈覚大師が、諸国巡錫の途上に当地に至り6尺5寸の延命地蔵尊を彫刻して授けたと伝えられている。南部藩主入国以来尊崇すること厚く隆盛を極めたが、度重なる火災でついに地蔵堂のみ残すことになった、と記されていた。 寺の脇には、「明治天皇御昼飯跡」と書かれた標柱も立っていた。
進むと下平踏切で、ここを渡って国道4号線に合流する。
国道を2kMほど進むと、600mの長さの笹目子(ささめこ)トンネルである。国道のトンネルを歩いて通るのは初めてである。騒音が激しく、特に重量級のトラックが連続して走ると恐怖を覚えるほどである。
トンネルを抜けると、右側に「笹目子トンネル」の大きな看板とともに「川底一里塚入口」
の手作りの道標が立っていた。
道標に沿って進むと、トンネルの外側を少し戻る感じになっていて、その後旧街道への細い取り付き道となって上って行くようになっている。
旧街道に達すると、本来の道が左に続いているが、鉄道により遮断され通行できない旨の立て札が立っていた。右に進むのが一里塚への方向であり、下草刈りを行った歩きよい道が連なっている。先程通ってきたトンネルの上を通過して進む。
200mも進むと。川底の一里塚である。この一里塚も国指定史跡だが、個人所有である。
一里塚から600mほどで気持ちの良い旧街道の道は終わり、舗装道路に合流する。
舗装道路に出て進むと「上の井戸」がある。高地にある「高屋敷」の集落では、水の確保に貴重で重要な井戸であった。
少し進むと「高屋敷」の民家が見えてきて、「中の井戸」がある。また。道端には「高屋敷」の標柱が立てられていた。
そして、「下の井戸」を過ぎると、小さな集落はもう終わりである。
ちょうどお昼である。今日は食事をする食堂などはないところを歩くことが分かっていたので、コンビニで買っておいた、おにぎりを道の脇に積まれた材木に腰を落として食事とした。
坂道を小型トラックで上ってきた方に呼び止められ、先週50人の団体が通ったこと、小鳥谷駅までは3Km程度であることなどを伺い、奥州街道のこの辺りの案内パンフレットをいただいた。
集落から山道を下り2Kmほど進むと、左側に五月舘の追分石と呼ばれる石があり、「右ハ山道 左ハもり岡」と刻まれている。説明板には、追分石は街道を歩く人の目印となるよう造られ多くの道の分岐点に設置されている。「五月舘の追分石」は、南北に伸びる奥州街道と南西の尾根へと向かう道の分岐点に設置された、と記されていた。
山道を抜けて小鳥谷(こずや)バイパスのガードをくぐり進む。左側に立派な建物と「明治天皇御小休所跡」の標柱が立っていた。この建物は、小鳥谷村長をされていた庄屋さんの住居だったとのこと。
小鳥谷小学校の方に進むと、その先に国指定天然記念物の藤島のフジがある。樹齢は数百年で日本一大きいフジとして知られてるとのこと。元々はすぐ隣のカツラの木に巻き付いていたが、重みでカツラの枝が折れて、現在は鉄骨のヤグラと支柱で支えられている。この地は、古くから仁昌寺の境内に相当し、天正19年(1591)九戸政実の乱の際には豊臣秀吉軍の蒲生氏郷が姉帯城攻略のため陣を張った場所とも伝えられている。当時、フジのあるところは周囲三方に掘りが巡り、あたかも島のように見えたことから藤島の呼び名がおこったようである。
すぐ近くの観音堂の敷地の端に「観音堂の藤」がある。こちらも随分大きく立派である。
地元の人の話では、あと3日ぐらいで相当に花が開き見ごたえのある様になるであろうとのことであった。
街道に戻り進むと、小鳥谷駅がある。写真は駅前通りである。さらに進むと、木で作った人形が庭の藤棚でチェーンを使ったブランコに乗っていた。兄と弟を表したのか、可愛いものである。
真っ直ぐ進んで国道4号線を横切り、馬渕川に沿うように進む。やがて道は右に折れて急な坂道となる。上り切ると小性堂の集落である。
小さな集落で、通りすぎて進むと左側に「明治天皇御野立所の碑」がある。明治9年と明治14年の巡幸記念の碑であるようだ。
ドンドン坂道を下って行くと、左側に「雷電神社」があり、その先は丁字路となっている。
丁字路には「女鹿口」の標柱が立っていて、ここで左折すると、直ぐに橋を渡って進み、舗装道路から右に別れて荷坂と呼ばれる急な山道を上って行く。
荷坂の坂道を上り詰めたところに、老ヶ舘(おいがたて)の標柱がある。この先で道が2つに分かれているが、事前学習により右の道を下りて行く。少し下ると「国指定史跡 奥州街道 白子坂」の標柱があり、正しい道であることが分かる。
白子坂を下ってゆくと、「百姓一揆終結の地」の石碑と説明板が立っていた。
説明板によれば、天保7年(1838)、連年の凶作と重税、高利貸しの悪徳商法で困窮を極めた農民が窮状を代官に訴えることとしたが、血気にはやって町内になだれ込み、商店を壊し、果ては御番所にまで乱入した。その結果多くの農民が捕らえられ訴えは失敗に終わった。そして、1年後、女鹿の大工・佐吉は首謀者として関屋川原で打首となり、他の主だった人達は遠隔地に追放された、とある。
直ぐ先で、IGRいわて銀河鉄道のガードを潜ると、馬渕川沿いの広い道路に出る。左折して一戸駅に向かって進む。
1Kmほど進むと、一戸中学校への馬渕川に架かる立派な橋があり、男女の学生像のモニュメントが配されていた。
ようやく、一戸駅にたどり着いた。3日目の歩行で疲労も溜り、なにより足のマメが痛むので、今日はここで切り上げることとしたが、二戸に向かう列車が直ぐに来るタイミングであったので、急いで切符を買い、一戸駅の写真を撮る間もなく、二戸に向かった。
しかし、二戸では15:10分の新幹線がちょうど出た直後で、次は16:40で1時間30分も待つ事となってしまった。時間があるので、駅の周りをウロウロしたが、下の写真は二戸駅の西口側である。
続いて二戸駅の東口である。町はこちらの方が賑やかな側である。
街道を歩き始めて2泊3日の歩行は初めてであったが、2日目に足にマメを作ってしまったのが悔やまれる。いずれにしろ、3日連続の歩行は、私にとってかなりハードと感じられるが、こなせないことはないと自信を持った。