2010.10.18

白石から大河原・・・(旧奥州街道)

shiroishi_46.jpg白石宿に入って、進んで行くと左側に古典芸能伝承の館(碧水園)がある。碧水園には、能楽堂と茶室があり、外観は古典芸能の館らしく優美である。碧水園の名前は、蔵王を源流とする水が碧玉渓(へきぎょくけい)を流れ、白石城の内堀を経て、園庭の池にそそぐことから、名付けられたとのこと。
碧水園を過ぎ、田町の交差点を直進して次の交差点で右折する。左手に「きちめ製麺所」を見て進み次の信号で左折すると、右側に特徴のある山門の当信寺がある。白石城の東口門を移設したものとのこと。2階中央の表と裏に大きな「眼象窓(げんじょうまど)」、2階側面には「丸窓」がついている。 幕末、この門の2階に太鼓を置き、時を知らせる音の響きをよくするため設けられたと伝えられる。
本堂の裏側には、白石老人(年齢、名前、出身など不明だが、身分に関係なく人々から崇敬されていた仙人のような存在)の墓や真田阿梅・大八の墓がある。説明板によれば「元和元年(1615)大坂夏の陣のとき、真田幸村は最期を覚悟し、智勇兼備の敵将片倉重長に阿梅と穴山小助の娘の養育を託した。重長は幸村の遺児、阿梅、阿菖蒲、おかね、大八たちを白石城で密かに養育し、阿梅は重長の後妻、阿菖蒲は田村定広の妻、おかねは早世、大八は片倉四郎兵衛守信と名のり伊達家に召抱えられた。阿梅と大八守信の墓はこの寺に、阿菖蒲の墓は蔵本勝坂の田村家墓地にある。片倉重長は、真田幸村夫妻の菩提を弔うため大平森合に月心院も建立した。」とある。
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中町の交差点には、すまる広場がある。最近まで高甚本店のあった跡地で、現在では綺麗に整備されて「すまi(い)る広場」とも呼ばれていて、イベントなどに使われているとのこと。
広場に隣接する壽丸(すまる)屋敷は、明治中期の店蔵、数棟の土蔵や書院屋敷、大正時代の母屋などが建ち並び、明治期に興った白石を代表する豪商渡辺家の住宅であった。
昼食の時間になり、白石駅の方に進み、ようやく見付けた「蕎麦屋」で食事を済ませた。なお、白石駅近くに今夜のホテルを予約してあるので、白石城は明日の早朝に見学することとして、先に進むこととした。中町は、アーケード商店街となっていて古い蔵造りの店もある。
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進むと、綺麗な水路があり、豊かな水が流れていた。沢端川である。白石城の北側の武家屋敷前を流れ、斎川に流入している。かつては、生活用水としても利用されていたのだろう。川に沿って100mほど上流に向かって歩いて行くと、左側に蔵王酒造の蔵を初めとした建物群がある。
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アーケード通りに戻り進むと、丁字路になり、左折する。直ぐの右側に蔵造りのお店がある。
少し先にも古い様相の家屋がある。この通りには、古い家が残っている。
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左側には、奥州街道ふれあい館がある。1階は市の水道事業所となっていて、入り口前には水車も回っている。
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ふれあい館を過ぎて、少し先で左の小道を入って、武家屋敷を見学することにした。沢端川に出て、片倉小十郎家臣の小関家の住居である。当時の茅葺の住居が修復されていて、見学できる。囲炉裏のある部屋が一番大きく、後は床の間と納戸があるだけの小さな住居である。禄高はわずかに15石とのことであったが、片倉家中では中級の武士とのこと。
小さくても茅葺の家屋を維持管理するのは、大変とのことであった。
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街道に戻り、白石川の堤防に出る。河川敷に設けられた白石緑地公園を左に見て、白石大橋に向かって進み、橋を渡る。
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橋から上流を写したものである。白石川は、これから歩くルートでも何度か目にすることになるが、最後には阿武隈川に合流する河川である。
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橋を渡って700mほど進むと、左側にとても大きな馬頭観世音の石碑があった。初めて見る大きさである。家の高さに達しそうである。
進むと、福岡の信号で街道は、国道4号線に接するようになるが、その後も国道に沿うように旧道が残されているのが有難い。
さらに進んで行くと、橋の両側に青と赤の大きなこけしが乗った橋がある。児捨川に架かる児捨川橋である。児捨川、貧しさからくる悲しい物語を連想したが、日本武尊にまつわるものであり、橋を渡ったところに、「白石地方の白鳥伝説」と書かれた説明板があった。その説明板によると、
遠い昔からこの地方の人々は、白鳥を神として祀り、祈りや願をこめていた。
そうした思いがいくつかの伝説となった。
伝説1:日本武尊は、宮の地に王子を残して帰京されたが、村人は王子の偉貌とその能力を
    恐れ川に捨てた。王子は白鳥と化し、村々に災いをもたらし、村人はそれを
    悔いて、白鳥を神として祀ったという。
伝説2:武尊は、姫と王子を残して帰京された。姫は尊を慕い、白鳥となって都に
    飛んでいくと王子と共に川に身を投げ、二羽の白鳥となったという。
伝説3:用明天皇の若き日、尊と玉依姫は都への途中王子を出産。姫は長旅を想い別離、
    悲しみのあまり、王子と共に川に身を投げ白鳥に化したという。
地元の人は、この川を児捨川と命名した。
右の写真は、児捨川の下流方向だが、この川はこの先直ぐに白石川に合流する。
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次に渡る川は、大太郎川で、その少し先で蔵王町に入って行く。
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蔵王町に入って、境界線に接するようにして左側に建っているのは、凝った造りの白石温麺(うーめん)茶屋である。この先で、街道は国道から左に分かれ、宮宿入口の石塔群が左側にある。珍しいことに蚕の供養塔がある。
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街道を少し進んだ、宮小学校の入り口には、小野訓導殉職碑がある。大正11年3月に宮城県女子師範学校を卒業して、刈田郡宮尋常高等小学校(現:蔵王町宮小学校)の訓導(教師)となり、22歳で殉職した小野さつき先生の殉職碑である。
大正11年7月7日、担任をしていた4年生児童56人をつれて白石川の中河原に野外写生にでかけ、授業も終わる頃になって暑さのあまり水遊びを懇願する生徒に仕方なく足だけ水に浸すことを許した。ところが、そのうち3人が雨で増水していた川の深みにはまりに流されてしまったのである。これに気がついた小野先生はとっさに着衣のまま飛び込み、3人のうち2人はすぐ助け出したが、もう1人を助けようとして川に飛び込み生徒にたどり着いたが、力尽き、激流に流されてしまった。
息子を亡くした父親は,むしろの上に横たわる先生の亡骸に「我が子のために先生まで死なせてしまって申し訳ありません!」と号泣したそうだ。一方、さつき先生の父親は、娘の死を知って「よう死んでくれた」と言った。「よそのお子さんを死なしてお前が一人生きておっては申し訳がない。」と涙をぬぐったという。そして、父は娘の後を追うように約1ヶ月後他界した。
ともかく、今なら裁判沙汰であろう。
互いが責任を追求して罵り合い、学校関係者はマスコミに罵倒されながらお詫びの記者会見だろう。時代背景のちがいもあるので、一概にどちらがいいとは言えないが、当時は、新米の教師に対してさえ絶大なる信頼があったことだけは確かである。
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進んで行くと、やはりかつての宿を思わせる、古い土蔵や、旧家の屋敷が残っている。
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進んで、宮の交差点に着く。ここで左折すると、左側に蓮蔵寺があり、その参道入り口に蔵王大権現と水神の大きな石碑がある。水神の石碑のそばに消火栓があるのは、当を得ている。
蓮蔵寺は、真言宗智山派の寺院である。
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すぐ隣に三谷寺がある。臨済宗妙心寺派のお寺で、全面改修中のようだ。寺の入口に「殉職小野さつき訓導墓所碑」と書かれた石柱が立っていた。
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500mほど進むと宮大橋で、下を流れる川は松川で、直ぐに白石川に合流する。
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進むと、右に「山家安治君頌徳碑」が建っていた。明治43年の未曾有の松川の氾濫で荒れ果てた土地を若干25歳の山家安治が、組合を結成して整備した功績を称えたもののようだ。
そして、国道4号線に合流して2Kmほど進むと、新幹線のガードが見えてきた。
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新幹線のガードを潜って、1Kmほど進むと篭石の交差点で、ここで右折して北白川駅に向かう誘惑に駆られたが、時刻は15:30なので先に進むことにした。国道から左に旧道が残されており、400mほどで再び国道に合流して少し進むと、左側に旧道が国道から分かれて進んでいる。金ヶ瀬宿の入り口である。直ぐに左に大高山神社の赤い鳥居がある。
敏達天皇が即位した敏達元年(571)の創建で、祭神は日本武尊で後に推古天皇の御代に聖徳太子の父君の用明帝も合祀されたとのこと。江戸期までは柴田郡総鎮守として崇められていた。
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金ヶ瀬宿を進んで行く。日もだいぶ傾いてきた。左側に馬頭観世音他の石碑が並んでいた。
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金ヶ瀬宿を進んで行くと、左側に旧家の山家(やんべ)の家屋がある。山家と書いてヤンベと読む。 元は最上氏の家臣であったが、最上義光の妹・義姫が伊達輝宗に輿入れするとき、姫の随人として移り住み、伊達氏の家臣となった家である。現在では、造園業を営んでいるようだ。
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やがて、宿も終わり国道に合流し、1Kmほど進んで、右に国道より分かれて進み突き当たって左折する。ここからが、大河原宿である。
200mほど進むと、志村自転車店があり店先で3人の男性が話し込んでおり、呼び止められて街道を歩いていることなど話し込んでしまった。
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左側に、見事な門と蔵のある旧家があり、東塾の看板が掛けられていた。店蔵を改造して塾に使っているのであろうか。それにしても、これほど見事な門構えはめったに見られるものではない。維持し続けているだけでも立派としか言い様がない。
そして、ついに大河原駅に通じる交差点に達して右折し、進んで白石川に架かる尾形橋を渡る。
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夕暮れにほんのりと赤く染まる雲が川面に映っている。美しい夕暮れのひと時である。
ようやく、大河原駅に着き電車で白石駅に戻り、疲れた体をホテルへと運んだ。
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貝田から白石・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計47,724(31.0Km)・・・大河原まで

雨が多く所用も重なりなかなか歩きに行けなかったが、これから2日間は雨も大丈夫そうなので、出かけることにした。
東京駅6:04発のやまびこ41号で福島に向かい、在来線に乗り換えて貝田駅には8:08分に着く。在来線は、通勤、通学客でほぼ満席であったが、貝田駅で降りたのは私一人であった。周辺には民家すら見当たらないような無人駅では、当然であろう。
駅を出て、細い道を下りると国道4号線で、直ぐに福島県と宮城県の県境である。空には、秋の薄い筋雲があり、良い天気である。
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県境を過ぎると、国道の右側に「下紐の石」がある。用明天皇の皇妃玉世姫がこの石の上でお産の紐を解かれたと伝わっており、また、坂上田村麻呂がここに関所を設け、下紐の関と呼ばれて、歌枕として使われるようになった場所である。
一方、国道の左側には、ここから「越河(こすごう)宿」であることを示す表示杭が、樹木に半分埋もれて立っていた。
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300mほどで、東北自動車道を潜ると、少し先の左側に「安産だるま石像」と書かれた標識が立っていた。この奥に「安産地蔵」があるようだが、スキップする。
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少し先で、国道から分かれて「越河宿」に入って行く。その入り口には庚申塔などの石碑が3体建っており、直ぐ横には「深山神社」への参道の階段が続いている。
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越河宿の町並みである。古い遺構は残っていないが、何となく街道であったことを感じさせる。
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かつての旧家なのか、同じような様式の大きな家が建っていた。
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宿の入り口から、500mほど進むと「定光寺」と書かれた標識が立っていて、東北本線のガードを潜って進む。「光日堂」と額の掛かったお堂と、本堂が建っている。ここには、明治6年に越河小学校の仮校舎が設置され、明治18年の新校舎完成まで使用されたとのこと。
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定光寺から線路際の道を進むと、「諏訪神社」への参道が山の中腹に向かって伸びていた。本殿までは遠そうなのでスキップして、元の街道に戻り進んで行く。ほどなく宿の終わりが近づいてくる。
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越河小学校を過ぎて、宿の町並みが途絶えると、右側の展望が開けてくる。もう、ほとんどの田圃では稲の刈入れが済んでいるようだ。そして、東北本線のガードを潜ると、越河保育園があり、子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。先に進むと、「熊谷勇七郎碑」が建っていた。調べたが、熊谷勇七郎とは、どのような人か分からなかった。
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進んで行くと、急坂の道が左に分かれていてすぐに「白鳥神社」がある。村社であり、大事にされているようだ。
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白鳥神社を過ぎて進む道は、古い街道の道がそのまま残った道で、里山のある田園風景も日本の原風景のように感じて、気持ちの良い歩行となった。やがて、右側に「JR越河駅」が見えてくる。
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越河駅を過ぎて、右側が開けた田園地帯を進み、国道に合流すると、1Kmほど先に「馬牛沼」がある。説明板によれば、「9世紀の初め頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の馬がこの沼に落ちて死んだので「馬入沼」といい、また、沼の中の弧(こ)洲が馬に似ているので「馬形沼」、さらに、この沼に馬首牛身の異獣が泳ぎ回っていたので「馬牛沼」と名付けたなどの伝承がある。また、馬牛沼では明治30年ごろから鯉の養殖が盛んで、晩秋に行われる「沼乾し(水を抜く)」の行事は秋の風物詩となっている」と書かれていた。なお、沼の中には「鯉供養」の碑が建っていて、沼の北側には、伊達種宗・晴宗父子の争乱時(1540年頃)桑折播磨景長がこもった館跡がある。
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馬牛沼を過ぎて、500mほどで右に旧道が分かれ喧騒から逃れられてほっとしていると、右側に庚申塔や孫太郎虫供養碑、聖徳太子碑が建っていた。孫太郎虫はヘビトンボ科に属するヘビトンボの幼虫で、黒焼きにして粉末にしたものが子供の疳(かん)の薬として昔から知られていたそうである。
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ところで、ここが「鐙摺坂(あぶみすりざか)」である。平泉に向かう源義経一行が、岩がせり出ていて狭い道で馬の鐙を摺りながら通ったことから付けられたとのことだが、今は車の通る道となり、その面影はない。 鐙摺坂の先には、「甲冑堂」の標識が見えてくる。
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甲冑堂の表示より田村神社と表示すべきだと思うが、観光案内板等でも甲冑堂である。坂上田村麻呂と言っても、古すぎて馴染みがないからだろうか。
ともかく、田村神社は、桓武天皇の延暦年間(800年頃)に斎川の人々が山中に潜む賊に苦しんでいるところを坂上田村麻呂が救い、また稲作の指導も行ったため当地が平和で豊かな里になった。このため、里人が感謝して神社を建立し田村麻呂を神として祭ったという。 なお、神社は明治8年6月に放火により焼失するが、明治12年3月に再建されたとのこと。
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田村神社の境内には、甲冑堂がある。源義経の家臣、佐藤継信・忠信兄弟の妻女たちが、嘆く老母を慰めるため、亡夫の甲冑を身につけたとの言い伝えがあり、堂内には、妻女たちの木像が安置されている。
また、堂の傍らには蕉門桃隣句碑がある。昭和14年12月3日に甲冑堂の再建を記念して建てられたとのこと。 桃隣は芭蕉の縁者で、芭蕉の死後の元禄9年(1696年)、「奥の細道」の旅をなぞって「陸奥鵆」を著わした。碑には、この時詠まれた「戦めく 二人の嫁や 花あやめ」の句が刻まれている。
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田村神社を過ぎると、「鬼ずるす石」と書かれた標識が立っていた、説明板によれば、岩倉山はその名の如くいたる所に岩の露出がみられ、その岩の一つに別の岩が重なっていて、人の力で容易に石臼のように動かすことができる。
昔、坂上田村麻呂の時代、この付近の岩窟に鬼形の者が住んでいて、人民や旅人をとらえてはこの石臼に入れ、引き砕いて食らったという伝説があって鬼ずする石の名がある。また人を剥いだ沢を人剥沢、人喰沢と呼んでいたとのこと。鬼は最後に蝦夷征伐のため下向した田村麻呂将軍によって退治されたという。 草が生い茂っていて、残念ながら岩倉山には近付けない。
そして、田村麻呂が禊(みそぎ)を行ったという、斎川を渡る。橋の名前も斎川大橋である。橋から川(上流)を覗くと、渓流の様相で茂みを通してわずかに国道4号線が見えた。
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斎川大橋を渡ると、斎川宿の看板が建っていて、静かな宿場に入って行く。
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500mほど進んで、宿の中心付近に達すると、左側に綿貫家の大きな屋敷が放置された状態で残っている。綿貫家の屋敷はかつて、検断屋敷で宿場の伝馬をはじめ、宿駅関係の一切の仕事を取り締まり、統括する重要な職務を行っていた。また、大名の宿泊、休憩も兼ねていた。門の中もそっと撮影させて貰った。なお、塀の上から見える石碑には、明治天皇斎川御休憩所・附御膳水と彫られていた。
なお、綿貫家の現当主は、道の反対側に新しい家屋を建てて、事業活動をされているようであった。
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斎川宿を進んで行き、終わりが近づくと斎川小学校があり、家並みが途絶える。さらに進むと、奥州街道(斎川)踏み切りがあり、渡って国道4号線に合流する。
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国道で、新幹線のガードを潜って進むと、左側に道祖神社がある。社の中には、多数の陽石が納められているようだが、見過ごした。
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斎川道祖神社を過ぎ、東北自動車道を潜って、700mほど進むと旧道が国道から分かれ、静かな通りになって白石宿に入って行く。
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2010.09.30

福島から瀬上宿・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計47,508(30.9Km)・・・貝田宿まで

一夜明けた福島である。昨日の歩行で疲れて良く眠ることができ、心身ともに回復して目覚めることが出来た。6時30分にホテルを出発して歩き始める。気温は約20℃であり、心配した天気も本日は、福島以北では曇りで、雨にはならないようである。
早朝であり、福島の市街は、まだ人通りは僅かで閑散としている。
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まずは、福島県の総鎮守である福島稲荷神社を訪れた。
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配神は大国主命、事代主命である。永延元年(987年)、安倍晴明が奥州に下向した際、信太明神を勧請したことに始まり、承安元年(1171年)晴明の孫の安倍晴明が社殿を改築した。その後、何度か焼失と再建を繰り返し、明治28年(1895年)に県社に昇格し、現在の社殿は昭和13年(1938)に竣工したものである。
絵馬殿、神楽殿も立派な建物である。絵馬殿は、元禄5年(1692)に時の福島藩主堀田正仲が造営したものと言われており、その後、昭和13年の新拝殿竣工にあたり、それまでの拝殿を絵馬殿として移築したものである。また、神楽殿は、明治32年10月に氏子からの寄進により建立されたものを、同じく昭和13年の本殿改築に併せて移築したものとのこと。
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福島北町を東に進み、交通量の多い国道4号線を横切り、左折すると豊田町である。かつては馬喰町のあったところで、町並みは福島の中心市街と一変する。街道沿いに福島東高と福島大付属中、福島二中があるため、自転車通学の生徒が多い。
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進んで行くと、大きな福島競馬場の建物が見えてきて、北五老内町の福島二中の前まで来ると、左側に鼻取地蔵尊がある。残念ながらお堂は修復中で、緑の工事用ネットで覆われている。もとは、浜辺村五良内にあった地蔵尊で、村の子供を守り救ってくれるとして村人の信仰を集めていた。貞享2年(1685年)地蔵堂が再建され、龍鳳寺の和尚が4代に亘って隠居したとのこと。鼻取地蔵尊の名前の由来は、農夫の田圃の代掻きで牛の鼻取りの手伝いを地蔵が行ったとの民話による。
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前方右側に大きな建物が見えてきた。JRA福島競馬場である。開設は1918年(初開催は同年6月28日)で、1997年にリニューアルされた。
競馬場を通り過ぎ、八島町に入ると右側に広布寺(こうぶじ)がある。 明治17年(1884)に後の日蓮正宗大石寺第56世法主日応上人により福島市浜田町に建立され、その後、昭和50年(1975)に現在地に移転された。新しい寺院である。
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広布寺の先は、岩谷下の交差点である。国道の4号線と115号線が交わる交差点に、細い道路も3本も加わっており、結果として7差路となっている。交通量も多く、学校の登校時間帯でもあり、緑の上着の誘導のおじさんも10人を超えていた。この交差点から細い道路では信夫山、岩谷観音に向かう。
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岩谷下交差点から、100mほどで岩谷観音への階段に着く。手すりがないと上れないほどの急な階段が信夫山の上方に向かって続いている。84段の階段を上り詰めると、右側に岩谷観音堂が建っている。応永23年(1416)周辺を支配した伊賀良目七郎高重が建立したと伝えられている。その後、伊賀良目氏の裔にあたる尼僧が経文6百巻を納堂したとのこと。
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お堂の周辺の岸壁には、宝永年間(1704?11)に制作された磨崖仏がある。西国三十三観音を模した仏像の他60体に及ぶ供養仏が彫り込まれているとのこと。中には宝永2年(1705)の聖観音像、宝永7年(1710)の巳待供養弁財像など制作年がわかるものもあり資料的な価値も高く、昭和39年に福島市指定史跡及び名勝に指定されている。
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岩谷観音堂から少し上ると鐘楼があり、この周辺にも夥しい磨崖仏が彫られている。彫りが浅く、風化で見分け難くなっている石仏もある。
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鐘楼からさらに上ると、岩谷成田山不動明王がある。一見して民家と見える建屋である。
さて、元の観音堂まで戻り、階段を見下ろすと改めてその急峻さと高さに恐れを抱く。
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階段を下りて行くと、上りでは足元ばかり見ていて気が付かなかった鷹尾山観音寺の地蔵尊群がある。気が付かなかったこを詫び、お参りする。2体の地蔵尊の後ろには「長命成願 地蔵御詠歌」が掲示されていた。
   あらとうと いわやのもとに 
   おはします じぞうぼさつを
   たのめもろびと
急な階段を下りて左折し松川に向かう。散策道路として整備されている。横を流れる川は、祓川(はらいがわ)で、かつて信夫山の山岳信仰が盛んだった頃は、信仰者はこの川で身を清めていたという。近代ではコンクリート3面張りの細い水路のような姿であったが、福島県文化センター付近から下流は親水公園として整備され、従来の河川の水を地下に埋めた箱型の樋に通し、少量の水を地上の整備されたせせらぎに流す方式がとられている。
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松川に突き当たり、右方の国道4号線の松川橋を渡る。
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松川橋から上流を眺めた写真である。松川は山形県米沢市南東部の吾妻連峰を源流とする川で、この下流で直ぐに阿武隈川に合流する。
なお、江戸期の松川に架かる橋は、単純な板橋であったとのこと。
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松川を渡り、直ぐに左折して50mほど進んで右折し旧道を進む。この旧奥州街道には、明治41年から、福島市駅から長岡村を経て飯坂に向かう路面電車が走っていたが、昭和45年に惜しまれて廃線となったとのこと。
500mほど進むと、右側に大日如来堂がある。享保年間(1730)の頃、天台宗松尾山本福寺として、東面して建立されたが元治2年(1864)の頃に類焼した。再建され、大日堂は残ったが、本福寺は廃寺となったと伝えられる。
さらに、300mほど進むと左側に、本内八幡神社への参道がある。本内八幡神社は、本内館(もとうちやかた)のあったところで、本殿の周囲には、L字型の土塁が残っているとのこと。
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1Kmほど進むと、左側に鎌秀院(れんしゅういん)がある。ここは、大和の豪族であった宇野信治が、鎌倉時代の弘長2年(1262)、この地に所領を得て鎌田氏を称して、この地の領主となり鎌田城を築いた。
戦国時代には、鎌田氏は伊達氏に仕えるようになり、天正18年(1590年)廃城となり、寺号のみ残ったという。
街道に復帰して、少し先の信号を渡ると、左側に水雲神社がある。由緒は不詳だが、福島県には水雲神社のは幾つかあるようで、他には見られないことから、この地方独自の命名ではなかろうか。そして伊達郡国見町山崎の水雲神社の由緒にあるように万物を生み育てる高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、神皇産霊神(カミムスビノカミ)を祀ったのではと思われる。
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少し先で、八反田川(はったんだがわ)を渡る。画像は上流方面である。阿武隈川水系の河川で、上流には大笹生ダムが建設されている。
八反田川を渡ると、左に石森神社がある。街道から少し離れているが、訪れると拝殿前には狛犬ではなく、狐が鎮座していた。社号標には石森稲荷神社とあることから、もとは稲荷神社で、近隣の諸神社が合祀又は合体され、地名を冠した社名に改称したのではないかと考えられるとのこと。それにしても、階段を上った両側に配置された、自然石の巨大な常夜灯には圧倒される。
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阿武隈急行線のガードが見えてきた。阿武隈急行線は、福島市の福島駅から宮城県柴田郡柴田町の槻木(つきのき)駅に至る路線である。旧国鉄特定地方交通線及び日本鉄道建設公団建設線であった丸森線(まるもりせん)を引き継いだものである。平成12年に開業した福島学院前駅の入り口はガードの向こう側で、ホームは高架となっている。
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進むと、丁字路にぶつかり右折して直ぐの信号で左折する。ここから瀬上(せのうえ)宿である。
直ぐに右の国道4号線への道の入り口に「青柳神社参道」の大きな石碑が建っていた。神社は国道を越えてさらに300mほど先であるが、行ってみることにした。
神社由緒によれば、太古、この里に住み始めた人々が、守護神としてお祀りし、その昔、境内にヤナギの木が繁茂しており青柳の社と称されるようになったとのこと。主神は大山祇神で配神は磐長姫と木花開耶姫である。境内の木立の緑が鮮やかで清々しかった。
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青柳神社から戻ってくると、古い重厚な家屋がひときわ目立つ。この建物の木の表札には「大國屋」と書かれていた。上杉家に仕えた武将で、後にこの地で商人となった島貫家の家屋である。
現在の家屋は、明治時代のもので取り壊そうかという計画もあったが、3年あまりの歳月をかけて私財を投じて復元に取り掛かったそうである。できれば、入場料を取っても公開して欲しいものである。
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福島市瀬上町の本町に来ると、右側にある浄土真宗台巌寺がある。ここの公孫樹は樹高15mで福島市保存樹に指定されている。また伊達郡国見町石母田字中ノ内にある石母田供養石塔(国史跡)の拓本を取っての模刻は市有形文化財に指定されている。享和3年(1803年)に桑折村の名主久保勝直により作成されたものである。
直ぐ隣には、信達三十三観音13番札所の龍源寺(りゅうげんじ)がある。
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少し先の、左側には瀬上の雷(いかずち)神社がある。住宅地の中にあり、境内は月極駐車場で、本殿の直前にまで駐車のための白いラインが引かれている。案内板が無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明で、地域社会も全く無視した存在である。いずれ、雷(いかずち)の怒りに触れることになろう。
雷神社から、500mほどで摺上(すりかみ)川を幸橋で渡る。ここで、福島市に別れを告げ伊達市に入って行く。伊達市は、北海道にもあり、同名市である。
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下の画像は、摺上川の上流方向であるが、この川には上流にダムが建設され、福島県県北の住民に良質の水を届ける水がめとなっている。
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1Kmほど進むと、県道353号線が右にカーブしているところに、お堂が建っている。詳細は不明だが、西念という僧が、雨ざらしの薬師像をみて、托鉢して資金を集めお堂を建てたとの話しがあるようだ。
なお、次の信号を左折すると、10分ほどで伊達駅に出ることが出来る。
進むと、門構えの立派な旧家がある。やはり、旧街道は先祖の精神を大事に守っている家があるからだろうか。
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桑折から貝田・・・(旧奥州街道)

1.5Kmほど進むと、伊達市と桑折町の境界である。桑折の名前が歴史に登場したのは奈良・平安時代で、東山道に駅家(うまや)が設置され、郡家(こおげ)がおかれたところから桑折と改められたという。昭和30年には町村合併促進法に基づいて旧桑折町、睦合村、伊達崎村、半田村が合併して今の”桑折町”が誕生した。   少し先には、桑折一里塚跡の表示杭があった。
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ここから1Km程度は、最近道路が整備されたようで、道幅も広くなっていた。左には自動車のブレーキシステム製造大手の曙ブレーキの工場がある。余談ながら、工場脇の目立たない細い道路には、スピード違反取締りのパトカーが潜んでいた。
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産ヶ沢(うぶがさわ)川に架かる産ヶ沢橋である。橋の先の集落が旧奥州街道53番目の宿場・桑折宿である。
右の写真は、産ヶ沢川の下流方向であるが、この川はゲンジホタルの生息地としても有名で、上流(万正寺地区)には、「産ヶ沢ホタル自然公園」が出来ていて、2009年のピーク時には4,000匹以上のゲンジホタルが出現したとのこと。
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産ヶ沢川の橋を渡るとその左手に寛永義民顕彰碑(三義民碑)がある。寛延2年(1749)の大凶作のおり、長倉村組頭斉藤彦内、鎌田村猪狩源七、伊達崎村蓬田半左衛門を代表者とする一万余名の農民一揆があった。年貢の軽減は達したが、三名はここ産ヶ沢の刑場において斬首された。
さらに、進むと左側につつじヶ岡遺跡、大五輪遺跡の案内板があった。入って行くと、伊達氏の始祖伊達朝宗の墓所の矢印表示があったので、100m進んで墓所を訪れた。綺麗に手入れされ大事に扱われていることを伺わせた。
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桑折宿枡形に達し、最初の角を左折して右側にあるのが、火伏不動尊宝積(ほうしゃく)寺である。正面には不動尊が屹立している。堂内には鎌倉時代後期の長野善光寺様式の銅でできた仏像が安置されているとのこと。
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次の曲がり角で右折する枡形の出口付近にあるのが桑折寺である。桑折寺は伊達氏の分家である桑折氏の菩提寺で創建は永仁5年(1297)に時宗第二祖真教上人が開山したと伝えられている。享保4年(1719)に堂宇を再建し、文政8年(1825)に本堂、嘉永元年(18148)に庫裏を再建していいる。正面の山門は伊達氏が天文17年(1548)に西山城から米沢城(山形県米沢市)に移る際、城門の1つを移築したものと伝えられるもので、門口2.73m、奥行き1.4mの向い唐門で屋根は元茅葺(昭和55年の改修より銅板葺き)、工法的にも室町時代の流れをくむとされ福島県指定有形文化財に指定されている。 そして、現在、またもや本堂を再建中であった。
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桑折寺を過ぎた少し先の左に、背後に弁財天と湯殿山と刻まれた石柱のある井戸があり、壊れた手動式汲み上げポンプが乗っていた。この井戸は奥州街道に面しており、かつて小桶に縄を付けて水を汲み旅人の喉を潤していたのであろう。近年になり、手動式汲み上げポンプが付けられたが、それも今では不要となってしまったのである。
井戸の先には、右側に諏訪神社の参道があり、入って行く。
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諏訪神社の創建は建久5年(1194)頃と思われる。伊達氏が城地守護の為社殿を建立したのがはじまりと伝えられ、武の神、実業の神として崇敬を受けてきた。現社殿は大正13年に再建されたものである。長野県の諏訪大社と同じく、御柱が立っている。
そもそも、桑折町は伊達氏発祥の地で、鎌倉時代に源頼朝の奥州攻めにしたがった常陸国(現、茨城県)常陸入道念西が戦功により伊達郡に入部し伊達氏を称し、桑折の地に本拠を置き勢力を拡大していったのが始まりとみられている。仙台藩祖の政宗は、朝宗から数え17代目である。
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街道に戻り進んで、次の信号で左折するが、その信号から少し入ったところに、旧伊達郡郡役所がある。明治16年(1883)に造られた洋風建築で、大正15年(1926)まで郡役所として使われ、その後も公共施設の事務所として利用された。建設当初から位置が変わらない事でも珍しいとされ昭和52年に国重要文化財に指定されている。旧伊達郡役所は桑折町の大工山内幸之助と銀作が棟梁として造られた所謂擬洋風建築である。
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旧伊達郡役所から街道に戻る角に、桑折町道路元標が立っていた。
本町通を進むと、大安寺がある。参道脇には立派な木造の旧家が建っている。
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大安寺の創建は明応年間(1492?1500)に開山されたと言われていて、現在の福島県を中心に大きな影響力を与えた無能上人(無能寺住職)は大安寺で得度を受けたとされる。明和5年(1768)に大火によって堂宇が焼失し多くの寺宝や記録などを失ったが、桑折藩3代藩主松平忠恒が寄進した梵鐘(現在の鐘楼は文政元年(1818)に再々鋳されたもの、桑折町指定有形文化財)や涅槃大掛図(桑折町指定有形文化財)などが残っている。正面の鐘楼を兼ねた山門は竜宮門と呼ばれる楼門の形式の1つである。
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本町から北町に進むと、左側にかつての店蔵を利用した、桑折御蔵(おんくら)の看板を掲げたお店があった。だんご汁の幟旗も見えるので、休憩するのに適したお店と思ったが、ちょうどテレビの撮影隊と思われる一団が着物姿のタレントを中心に入っていったところであった。
後で調べると、桑折町女性団体連絡協議会会員を中心とするスタッフが、ボランティアで運営しているアンテナショップで、地場産品、朝取り野菜、果物の販売の他、郷土料理のだんご汁の食事ができるとのことであった。
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左に桑折郵便局を見て、次の小道を左に入ってゆくと法圓寺がある。慶安3年(1650)創建で、参道にお大師様(弘法大師)石像が八十八体も並んでいる。江戸時代からあったが30数体だけが残り、それも風化し損傷が激しいため、平成15年に復元したとのこと。一体一体の台に寄進者の名が刻まれている。弘法大師四国八十八ヶ所零場巡拝の功徳、加護にあやかったようだ。
また、寺内には俳人の佐藤馬耳が享保4年(1719)に、芭蕉が須賀川の等窮宅で詠んだ、「風流の初めや奥の田植うた」の句をここに埋め、塚を築き芭蕉翁と刻んだ碑を建立し芭蕉の供養と、信達地方(信夫郡と伊達郡)の俳壇の隆盛を祈願したという。 写真の右方の石碑の文字は、芭蕉の真筆を石に刻んだものとのこと。
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400mほど進むと、街道左に無能寺がある。山門は屋根付きの冠木門で珍しい。
本寺は、慶長元年(1596)に良然上人が創建し、当初は大光山正徳寺と称していた。その後、傑僧といわれる無能上人(1683?1719)が現れ、当山を中心に教えを奥州各地に広めた。無能上人の入寂後、弟子の不能が無能上人の徳をあがめて寺名を「無能寺」と改称したとのこと。
また、律院として、多くの修行僧の宗学の場として、また奥州地方の教化の中心寺院として大きな役割を果たしたという。
城郭のような土塀の参道を通って山門を入ると、御蔭廼松(みかげのまつ)と呼ばれる見事な松の木がある。明治14年の明治天皇東北巡幸の際、この寺が小休所となり、天皇はお供の杉宮内大輔に松の名を命じられ、杉宮内大輔は「御影廼松」と名付け「おほきみの みかげの松の 深みどり夏も涼しき 色に見えつつ」と歌を詠まれた由。樹齢400年で昭和55年3月8日に桑折町の天然記念物に指定されている。
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300mほどで、桑折駅入り口の交差点である。交差点に面して食堂があったので、食事をして休憩した。再び歩き始めて100mほどで、奥州街道と羽州街道の追分である。羽州街道は桑折宿から分岐して青森県の油川を結ぶ街道で出羽地方の交通の要衝であり、江戸期には、ここを通る参勤交代の大名は十数藩にも及んだとのこと。
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きれいに復元された追分には、休憩所も設けられ、庚申塔や地中に埋まっていた古道標等もここに集められていた。また、柳の句碑は、約230年前に俳句の師匠であったト而翁(ぼくじおう)の急逝を悼み、その徳を慕って桑折社中の友がここ追分に建てたものである。
夕暮れに 心の通ふ 柳か な」のト而翁の句が刻まれているとのこと。
追分から少し先には、奥州街道の72里目の谷地一里塚跡がある。
ここから、国見町までは約3Kmほどあるが、田園地帯をひたすら歩く旅になる。左の方を望見すると、山並みが見えこのなかに半田山(標高863m)も見える筈だが、どの辺りかハッキリとは指摘できない。が、江戸時代は「半田銀山」と言って、石見銀山、生野銀山と並び称され日本三大銀山、日本三大鉱山と呼ばれた時期もあった。また、電気部品の接続に用いる半田付けも、この半田山の名称から生まれたとのことである。
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ようやく、県道46号線(白石国見線、七ヶ宿街道)との交差点が見えてくる。国見町入り口である。交差点を過ぎると街道は右に折れ、その後大きく左にカーブするが、街道を左に入った台地の上に観月台公園が綺麗に整備されている。中心には平成6年にオープンしたばかりの 観月台文化センターが独特な景観を示しており、図書館や入浴施設、コンサートホールまで備えた立派な施設である。江戸時代中期の標準的な百姓家の住居の旧佐藤家住宅も移築されている。
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街道に戻り、藤田宿に入る。現在の地名は藤田北となっている。
左に古い土蔵が見えてきて、村上医院の看板が見える。進むと、左に鹿島神社が見えてくる。鎮守府将軍大野東人が蝦夷征伐に陸奥へきたのが720年頃で、養老?神亀(721?724)にかけて藤田柵を築き、鹿嶋神社を鎮座したと云われている。藤田柵は今の源三山付近とも云われ、丑寅の方向に鹿嶋神社を建立したとのこと。永禄年間(1558?69)社殿が焼失し、元亀年間(1570?72)地頭藤田兵庫によって社殿が再建された。享保9年(1724)古鹿島の地から現在の地(薬師如来境内)に遷座され享保10年新宮が改築されたとのこと。
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本殿の左に見える赤い鳥居は、境内社の医薬神社である。また、右には国見町のあつかし俳句会のメンバーが昭和62年に建立した句碑がある。上段に会員の俳句3句刻まれていて、下段には建碑の趣意と3句が刻まれていた。昔から奥州街道を行き来する多くの人がを足を留め、また芭蕉翁をはじめ多くの俳人が足跡を残して培われた俳諧活動の伝統を続けていこうとの趣意のようである。
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1Kmほど進むと滝川を渡り、国見町の大字藤田から大字森山に入る。滝川の上流方向は、草木が茂り全く川面が見えず下流のみ僅かに覗き見えた。
街道は、この先で一旦国道4号線に合流し、県北中を過ぎて右に分かれて行く。
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車もほとんど通らない道が続くが、1Kmほど先で農道に入り込み道に迷ってしまった。やっと見付けた農作業中の人に尋ねて1時間ほど時間を浪費して街道に復帰するはめになってしまった。下の右の写真は、国道4号線を横切って貝田宿に入るところで、ここに達したときは正直ほっとした。
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少し進むと、貝田宿入り口の案内板があり、さらに進むと貝田宿の説明板があった。宿の中心付近である。
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貝田宿でも旧家が何軒か残されている。黒塀に屋敷門の立派な構えの旧家があった。
少し先に貝田宿の表示板と貝田番所跡への道標が立っていた。ここが貝田宿の枡形である。
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進むと、貝田番所跡の標識板が立っていた。仙台藩と境を接していて、旅人の通行を厳しく取り締まっていたところである。その先には、曹洞宗最禅寺がある。最禅寺の参道には大きな庚申塔が数多く集められていた。
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番所跡の手前の十字路で、右に続く細い道を歩いて行く。桜の木の枝が覆いかぶさっていた。
民家の庭先のように見える場所に「貝田駅建設記念碑」が建っていた。しかし、ここら直接には貝田駅に行けず、一旦国道に降りてから改めて駅への細い道を上って行く必要があった。駅に着いたのは16時発の電車の3分前であり、小銭入れを出すのももどかしく切符を買う羽目になったが、1時間に1本の割合の運行間隔ではラッキーと言わねばならないであろう。
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23分間の乗車で福島に着き、やまびこに乗り換え帰宅した。
今回の歩行は、夏の休み以降で始めての歩行であり、一泊しての2日連続で、且つ最後近くで道に迷い時間と体力をロスしたことなど、いささかキツイものとなった。

2010.09.29

二本松から二本柳・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計41,543(27.5Km)・・・福島まで

今年の夏は、ことの他暑い日が続き、とても街道歩きを行える状況ではなかったが、9月末になって急速に涼しくなってきた。そこで、7月5日からお休みしていた街道歩きを再開すべく、出かけることにした。
東京発6時4分のやまびこ41号に乗車し、郡山で在来線に乗り換えて二本松には7時59分に到着した。大勢の高校生とともに下車して、早速に駅前通りを街道に向かって歩き始める。
本町通を進むと、1845年(弘化2年)創業の羊羹の玉嶋屋がある。二本松藩御用達であった由緒あるお店で、建物は文化庁の有形文化財にもなっている。 今でも楢薪(ならまき)の炭火で煉った餡を使用していて、その餡を使用した本煉羊羹は、江戸時代の参勤交代の将軍家への献上品としても使用されたとのこと。
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少し先には、明治21年より和菓子・洋菓子の製造販売をおこなっている「日夏(ひなつ)」がある。ここも「二本松羊羹」の看板を掲げているが、羊羹以外の和菓子も作る老舗である。
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その先で街道は、枡形となっていて、そこに田中太鼓店があり、店先に7,8個の製作途中の太鼓が並んでいた。覗き込んでいると、おばさんが出てきて、太鼓はケヤキの木が美しくてよいが、大きなケヤキが手に入り難く外材なども使うなど話してくれた。製作するのは主人だろうと思っていたら、最近では息子が主に作っているが、元は私が始めて全て自分で太鼓作りを行っていたとのことであった。
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街道は、亀谷石坂入り口で左折し、坂道を上って行く。坂道の左側に貞観6年(864)慈覚大師円仁により開山された、鏡石寺がある。当初は二本松城の北方向の細野に開基された。江戸時代に、仙台藩が参勤交代で街道を通過するとき、捕虜として捕らえられた伊達輝宗を自らの銃撃で失うはめになった敵の畠山氏の居城であった二本松城に対して、火縄銃に火縄を点じて通過し、秋田藩は槍を抜いたまま通過していたという。 城主は既に畠山氏ではなく、寛永20(1643)に丹羽光重が二本松藩主として入府していたのにである。そこで、藩主が苦慮の上、鏡石寺を亀谷の地に移し、寺内に徳川三代将軍家光公の御廟を設け、門表には三つ葉葵の紋を用いたのである。この後、各藩は馬を下り、最敬礼で通り、二本松城に対する嫌がらせがなくなった。封建時代の武士の意地を伺わせる話しである。
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亀谷坂の頂上付近に「亀谷観音堂」がある。鏡石寺の住職の隠居所として作られたとも言われており、千臂堂(せんぴどう)とか千手観音堂とも呼ばれている。境内には、芭蕉の句碑があるが、風化が激しく一部破損していて全く読めない。説明板には「人も見ぬ 春や鏡の うらの梅」の句と書かれていて、裏面には蔵六坊虚来が安永丙申之春(安永5年、1776年)建立と刻まれているとのこと。
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句碑以外にも境内には、多くの石塔類が集められていて、階段下には文豪幸田露伴ペンネームゆかりの地の石碑が建っている。20歳になって文学を志し、電信技手として赴任していた北海道余市から明治20年(1887)9月28日の日暮れ近く福島に到着。ここで一泊すると当時郡山まで開通していた東北本線の乗車賃が不足するので、夜中歩いて郡山まで行こうと決め出発。飲まず食わずで夜半近くに二本松に到着すると街は提灯祭りの賑い。懐中わびしいながらも亀谷坂頂上の阿部川屋で餅を買い、食べながら歩いたものの、体力・気力もすでに限界。道端に倒れ込み、こうもり傘を立て野宿を決意、いつか野たれ死にする時が来たら、きっとこんな状態だろうと思案し、口をついて出た句が「里遠し いざ露と寝ん 草まくら」であった。2年後、文壇初登場の時、二本松で露を伴にした一夜が忘れられず、発奮の意味をこめて、この句からペンネームを「露伴」にしたと日記などで後述している。
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亀谷坂の頂上を越えた下り坂は、竹田坂である。この坂の途中の右側に五社稲荷神社がある。
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さらに下ると、真行寺がある。ここには、戊辰戦争で二本松の少年隊士の成田才次郎に討たれた長州藩部隊長の白井小四郎の墓がある。腹部を一突きされ、白井は薄れる意識の中で「突き殺されるは我が不覚、こんな勇敢な童に討たれて本望だ。その童を殺してはならぬ」と言い残したそうである。しかし捕らえるにも才次郎は刀を振り回し抵抗する。しかし、ついに銃弾で撃たれ才次郎十四歳のに最期となった。境内では松の木が傘の形に作られていた。なお、境内に保育園があり、女性が山門から駆け出してきた理由が理解できた。
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坂を下って、竹田交差点で右折するが、ここに竹田見附ポケットパークが作られている。説明板によると、慶安年間(1648?1651)の町割りにより、旧奥州街道と二本松城の竹田門へ続く三叉路で城の最も外郭に当たる為、番所が設けられていたとのこと。ここで右折すると、広くて美しく整備された通りとなっている。
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右折して直ぐの左側に、「かげのまち 職人横丁」の木の長い看板が架かっていた。二本松藩の城造りに携わった建築大工職人が、城内の調度品を造ったのが始まりという家具職人の集まった横丁であったのであろうか。また、少し先の道の右側には、大七酒造の近代的なビルが建っていた。街道歩きで時々出くわす酒造所とは異なり近代的なイメージである。
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再び左を見ると、二本松城御用蔵が大、中、小と3つ並んでいた。天明5年(1785)と天保14年(1843)に建造された御用商人大内家の蔵で、戊辰戦争では新政府軍陣所として板垣退助が使用した。現在では、天保蔵品館と天明茶舗伝承館と呼ばれて、当時の美術品、歴史資料などが展示されている。
大七酒造の建物を通り過ぎると、右側に顕法寺がある。丹羽氏の前の藩主加藤明利の菩提寺で墓所があり、案内表示が立っていた。
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竹田交差点から500mほど進んだ交差点で街道は左折し、鯉川橋を渡る。下の左の写真は鯉川橋から上流方向を見たものである。向こうに見える小高い山は二本松城の場所である。江戸期にはここを流れる鯉川も水量が多く、川岸には多くの蔵が立ち並び物資輸送の舟が行き交ったとのこと。なお、下流は阿武隈川に合流する。
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鯉川橋を渡り、直ぐに右折して400mほど進むと、小六稲荷の参道が山の上に続いている。
さらに、400mほど進むと、智恵子の絵を描いた看板の智恵子物産店があり、土産品などを売っている。 そして、街道の右側の団地名は「智恵子の森団地」で、左手の鞍石山(鞍掛山)には「智恵子の杜公園」が出来ている。鞍石山は安達太良山と阿武隈川を展望できる景勝地で光太郎と智恵子が散策を楽しみ”あれが”阿多多羅山” “あの光るのが阿武隈川”のフレーズで有名な智恵子抄「樹下の二人」の舞台の地である。 また、伊達政宗が二本松城主畠山氏を攻めた折り、重臣の片倉小十郎がこの地に陣を構え、そこにあった石に馬の鞍をかけたというエピソードが残っている。
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少し先には、高村智恵子の生家であった、清酒「花霞」を醸造する長沼家の家が残されている。
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家屋の裏には裕福であったことを伺わせる庭があり、知恵子記念館が作られている。残念ながら水曜日は休館であった。
智恵子の生家の長沼家は破産し一家離散となったが、作られていた酒の「花霞」の名前は、現在別の酒造会社が「智恵子の花霞」の名で販売しているようだ。また、近くには智恵子記念館の大きな駐車場も出来ていた。写真は高村光太郎と結婚した当時のものである。智恵子は1907年に日本女子大を卒業した後は、当時は珍しい女性洋画家の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所で学び、1911年(25歳)には、同年9月に創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として人々に注目されるようになっていた。その後光太郎と出会い1914年に結婚したが、生家の離散などの心労から統合失調症に陥り、1938年10月5日(52歳)に粟粒性肺結核のため死去した。
智恵子の生家を過ぎて1Kmほど進むと、油井川(ゆいがわ)を渡るが、橋を架け替え工事中で渡れず、右往左往していたら通りに顔を出したおばさんが、迂回路を教えてくれた。写真は迂回路の橋からみた工事現場である。雨のためか水は濁っている。
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油井川から100m程度進むと、左側に長谷観音への参道が見えてくる。近づくと、長い階段が続いている。
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上り詰めると、少し古びたお堂が建っていて、境内には地を這うような見事な笠松があった。また、説明板には、本堂真下には湧水があり、祀られている長谷十一面観音の霊力による霊水と伝えられていると書かれていた。
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しばらく、静かな油井の集落を進んで行く。夏の暑さが続き咲くのが遅れていた彼岸花も咲いていた。
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進んで、Y字路を左にとって、二本柳宿の入り口で左折する。直ぐに「馬下し観音」がある。
説明版によると、戦国時代初期、修験者がこの世の平穏無事と、この地の安泰を祈願し十一面観音菩薩を安置した。あるとき、この前を馬に乗ったまま通ろうとした殿様が、不意に馬から下ろされたという。それから武将はもとより、大名に到るまで、必ず馬から下りて平安無事を祈願してから通るようになったとのこと。
少し進むと、長い塀があり、大きな枝垂桜の木がある家があるが、この辺りが二本柳宿の中心である。
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二本柳宿は500mほどで終わるが、その出口に円東寺がある。大同2年(807)徳一大師による開基で、当初は安達太良山の中腹にある猿鼻に堂宇が建立され、大日如来を本尊とする両部秘密道場であったが、慶長3年(1597)に奥州街道の二本柳宿が形成されると宿場町の枡形にあたる現在地に移された。この地方最古の歴史を持つ事から広く信仰を集め安達三十三観音霊場第十五番札所にもなっている。また、境内の枝垂桜の大木は推定年齢400年以上とされ昭和53年(1978)に二本松市(旧安達町)指定天然記念物に指定された。
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円東寺の左となりには、疱瘡神社がある。天然痘が根絶された今となっては、鳥インフルエンザにも霊験があると広めてはどうであろうか。
ここで、街道は右に曲がり、急な下り坂となる。下りきったところに流れている小川は払川である。
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払川を渡ると、道は上り坂に転じ、100mほど進むと、左側に「鹿の鳴石」がある。
説明板によれば、昔、日本柳と長谷堂の中間に大きな沼があり、そこに沼の主(龍神)が住んでいた。あるとき沼が決壊して、水が無くなり自分の相手とはぐれてしまった。沼の主は鹿に化身し、この自然石の上で鳴き、何度も相手を呼んだが見つからず、山を越えて、土湯の女沼に移り住んだといわれる。この石の周囲を左に3回まわると、鹿の鳴き声が聞こえるという、と書かれていた。坂は300mほどで下りになり、その坂の途中に「戦士七人之墓」と刻まれた石碑が建っていた。戊辰戦争の戦死者の墓標である。
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下り坂も直ぐに「烏帽子森川」の小さな流れで終わりになる。少し先の十字路脇に「日向(ひなた)集会所」あり、その前には石仏が集められていた。坂道は少し上った後に下り坂となる。二本柳宿を過ぎて、上り下りが繰り返される道である。まだ午前中で良かったが、その日の歩行を終える午後であったら、顎が上がっていたかも知れない。しかし、道端には萩も咲いていて、のどかな道である。
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坂が下りになってのんびり歩いて行く。田圃の稲ももうすぐ刈り入れであろう。境川の集落の入り口に達すると、右側に「鎮守諏訪神社」の大きな石柱が建っていて、向こうの山に参道が続いている。長野県の諏訪湖にある諏訪大社の勧請を受けた神社であるが、ほんとうに全国的な広まりを感じる。
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集落を過ぎて境川を渡ると、「思いやる心の奥の漏らさじと 忍ぶ隠しは袖か袂か」と刻まれた信夫隠の碑があると、案内書には書かれていたが、見当たらなかった。代わりに桐生幸蔵翁の頌徳碑が建っていた。

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