2011.10.31

安曇野の旅(1日目)・・・(仲間)

安曇野に別荘を建てた大学の同級生がおり、これを契機に気の合った仲間で安曇野を訪問することにしました。一泊することにして、最初の日は、ゴルフを楽しむグループと安曇野を散策するグループに別れ、夕刻に宿泊ホテルで合流する予定です。
散策チームは、私ともう一人の2名のみで、11:34にJR大糸線穂高駅に着き、駅前の「しなの庵」というレンタル自転車屋で荷物を預け、初めて乗る電動自転車を借り、出発しました。
出発すると、直ぐに「穂高神社」がありました。この神社は上高地に奥宮、奥穂高岳山頂に嶺宮があり、「日本アルプスの総鎮守」として親しまれています。祭神は、本宮中殿に穂高見神(ほたかみのかみ)別名「宇都志日金析命(うつしひかなさくのみこと)」、 左殿に綿津見神(わたつみのかみ)、右殿に瓊瓊杵神(ににぎのかみ)で、穂高見神と綿津見神は共に海人族である阿曇氏の祖神とされる海神です。信濃国に海は無いが、安曇野に定着した安曇氏と神社の関係がうかがえるとのことです。拝殿は平成21年(2009)に遷宮が行われ、真新しくなっています。
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境内では、菊花品評会が行われており、拝殿の前に位置する神楽殿にも菊の鉢植えが飾られていました。また、木曽駒をモデルとしたという、御神馬の像もありました。
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阿曇連比羅夫(あづみのむらじひらふ)の像が立っていました。船上で槍を持ちすくっと立った姿です。説明板によれば、「阿曇連比羅夫は、天智元年(662)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋(ほうしょう)を百済に護送、救援し王位に即かす。天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で破れ、8月申戌27日戦死する」とあります。
穂高神社境内の端には、沢山の道祖神の像が集められていました。貴人の服装の男女の双体の道祖神で、安曇野には多く見られるものですが、1体のみ餅搗きの姿の道祖神がありました。この餅つきの道祖神は、杵を男性、臼を女性に見立て、夫婦円満の神として祀ったものとのことでした。
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穂高神社を後にして、電動自転車で快適に進み、東光寺に向かいました。
曹洞宗の寺院で、武田信玄の5男の仁科盛信に仕えた等々力家が、天正18年(1590)に貝梅(穂高貝梅)の北城からここへ移築した東龍寺が前身で、その後曹洞宗となったものとのことです。山門の前には、大きな仁王様の下駄があり、仁王様に願い事をしてから、この下駄を履くと願いが叶うそうです。
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東光寺の直ぐ先には、本陣等々力家屋敷がありました。等々力氏は、武田信玄の5男仁科盛信に随身し、穂高地方を領有したが、江戸時代に入ってからは郷士になり、庄屋で松本藩主の本陣を勤め、殿様の野行の際の休憩所になっていたものです。建物は、安曇野市有形文化財(旧・穂高町文化財)に指定されていて、長い長い長屋門が道路に面しています。
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長屋門を潜ると、正面に殿様が籠で通る門があり、大きな松の2つの枝が中から門の上に被さっています。左側の飛び石通路を通って進むと通用の入り口があり、見学料を払うと建屋内を案内してくれます。右側には、桃山中期の様式の須弥山石組の庭園があり、庭の向こうにも離れの家屋が見えました。
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玄関を入った最初の間には、お嫁さんが輿入れで乗ってきた籠が置いてありました。座敷・書院は江戸時代中期の作とのことです。
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太鼓橋風の渡り廊下があり、映画撮影もなされたそうです。この渡り廊下を通って中に入ってゆくと、書院があり中庭を挟んで蔵造りの建家も見えました。殿様は、一番奥の書院で休憩を取られたそうです。
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次に「大王わさび農場」に向かいました。入って最初に目に付くわさび畑は、掘り取りを終えた小石を盛り上げた畝の状態で、全く緑は見えませんでした。
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左のほうに進むと、大きな道祖神がありました。
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更にその先には、綺麗で豊富な水がゆったりと流れていました。
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流れには、黒澤明監督の短編8作品のオムニバス映画「夢」の中の「水車のある村」の撮影に使われて有名になった、3連の水車があります。
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奥のほうに進むと、青々とした「わさび畑」も見ることができました。流石に日本で一番大きなわさび園で、畑は広大です。
農場内にはこの農場の名前の由来となった、大王神社があります。此の地一帯は、延暦年間(782?805)に安曇平野に繁栄した原住民族の王「魏石鬼八面大王」が治めていたと云います。そのころ全国統一を目指す天孫族が南方より侵攻し熾烈な戦いが行われ、大王は一族を率いて勇戦敢斗したが、優勢な天孫族に捕らえられ処刑されました。大王があまりに強かったため、その復活を恐れた天孫族は大王の遺体バラバラにして埋め、その大王の胴体が葬られているのが大王神社だとのことです。
また、今上天皇が皇太子時代の昭和51年(1976)に、美智子妃とともに訪れ、休憩のために造られた茶室もありました。
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大王が住んでいたといわれる有明山の麓の宮城の岩屋を再現したと言う洞窟もありました。
本当に広いわさび農場です。わさびを利用したアイスクリーム、お土産等を売るお店もあります。
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大王わさび農場の見学を終え、「水色の時」道祖神に向かいました。
安曇野は道祖神の数が日本一だそうですが、これは、NHKの連続テレビ小説「水色の時」(1975年4月?10月)の放送のために製作されたので、この名前がついています。おそらく安曇野でも最も新しい道祖神だと思えます。その少し先の穂高川堤防脇には、早春賦の歌碑があります。大正2年(1913)に吉丸一昌が安曇野のこの地を訪れ「春は名のみの風の寒さや・・・」の『早春賦』を作詞したと言われていることから、平成5(1993)に碑が建てられたとのことです。作曲は中田章で、太陽電池の電力で早春賦を奏でるオルゴールが設置されていました。
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友人の奥様がご指定という、井比わさび店に寄りました。注文する都度カメから出して量り、包装するので新鮮で評判も良いとのことで、私も「わさび漬け」を買いました。
進むと、蔵の前に「二十三夜塔」、「庚申塔」、「道祖神」の大きな石碑が並んでいました。
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安曇野には数多くの美術館がありますが、その中でも代表的な「碌山美術館」を訪れました。つたのからまる教会風の美術館で、日本近代彫刻の扉を開いた荻原守衛(碌山)(1879‐1910)の作品と資料を 永久に保存し、一般に公開するために開館されたものです。荻原碌山の作品以外にも高村光太郎、戸張孤鴈、中原悌二らの作品が展示されています。
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碌山美術館の後は、今夜の宿泊の「和野(なごみの)」に向かうことにしました。約4Kmの距離ですが、電動自転車では全く苦になりません。宿に到着して電話を掛け、自転車の引き取りに来てもらい、預けた荷物を届けてもらいました。宿の周りは、まだ紅葉には早いが、多少は色づいた木々も見られました。ゴルフ組みは、まだ到着していませんが、先に入館しました。
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2011.10.27

薔薇(港の見える丘公園)・・・(自然と花々)

横浜の「港の見える丘公園」のバラ園に行って来ました。
ちょっと、行くのが遅くて、花弁の傷んでいるのが多かったです。
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2011.10.25

江戸城・・・(散策)

江戸城と言っても今は皇居ですが、二重橋の前には修学旅行以来何度か訪れたましたが、もう50年近く何時でも行ける場所に住んでいながら、恥ずかしながら大手門から中に入ったことはありませんでした。皇居として用いられているところは、申請なしでは入れないですが、すでに開放されて、北の丸公園となっているところは当然として、本丸、二の丸等があった江戸城の中心付近も開放されています。それで、今日は遅ればせながら行ってみることにしました。
江戸城は、慶応4年4月4日(1868:明治元年)に明治新政府に明け渡され、明治2年より皇居として使用されていますが、現在は主に元の西の丸の領域のみの使用となっています。
東京駅の丸の内口から出て、真っ直ぐ進んで和田倉門にぶつかり右折して大手門の方に歩いて行きました。3.11の地震の影響で白壁が一部剥がれ落ちています。お堀では、1羽の白鳥が優雅に泳いでいました。
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大手門は枡形門で、一の門を入ると直角に曲がって二の門があります。敵が一の門を破って入ってきても正面と横から弓矢、鉄砲で攻撃でき、二の門を破るのは容易でない備えであったのでしょう。その一の門と二の門の間に旧大手門渡櫓の鯱(しゃち)が置いてありました。  昭和20年(1945)4月の戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱です。頭部に、明暦三丁酉と刻まれています。明暦の大火(1657)で消失した後、再建時に製作されたものです。右の写真は、二の門を通った中から撮影したものですが、渡櫓は昭和43年(1968)に再建されたものです。
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大手門の二の門を潜ると、右手に尚蔵館(しょうぞうかん)が建っています。尚蔵館は皇室に代々受け継がれた絵画、書、工芸品等が平成元年、国に寄贈されたのを機に、保存、管理、調査、研究を行う施設として、また一般に展示公開することを目的に建てられたものです。無料で見学できます。
先に進むと、江戸時代の同心番所が残されています。ここには同心が詰めていて、主に登城する大名の供の者の監視に当たっていました。
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同心番所の先には、三の門の石垣が残っていて、その先に百人番所がありました。鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代でここに詰めていて、各組には同心が100人ずつ配属されていました。本丸につながる中の門を前にしての警護です。右の写真は、中門の石垣です。
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中の門を入ると、大番所があります。他の番所より位の高い与力、同心によって警備されていました。その前は、美しく整備された小広場の感じです。
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両側を石垣に囲まれた緩やかな坂道を上って行くと、広く開けた芝生で覆われた本丸跡があります。本丸は本丸表と中奥、大奥に分かれていて、手前から順に本丸表、中奥、大奥になっていました。本丸表は儀式、政務の場で、役人の詰所や政務を執る部屋、そして諸大名の詰めの間などがありました。中奥は将軍の公邸にあたり、ここで日常の起居や政務を見ていました。大奥は将軍の私邸で、御台所(正室)を中心に、将軍の子女やその世話をする女中達が生活していました。なお、将軍世嗣や大御所の居住場所は、西の丸でした。今の皇居はこの西の丸にあり、参観には申請が必要です。
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広場を左のほうに進むと、富士見櫓があります。江戸城で唯一の三重櫓です。明暦の大火(1657)で、消失した天守閣の代用としても使われたました。かつて、江戸城には19の櫓がありましたが、現在はこの富士見櫓を含め3つしか残っておりません。この富士見櫓の先が、西の丸(現皇居)で、今は当然、この先は公開されておりません。 元の本丸跡に戻り、本丸の左側を進んで行くと、赤穂浪士の討ち入りにつながったことで知られる、松の大廊下跡があります。浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなが)への刃傷事件(元禄14年:1701)のあったところです。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来で江戸城で2番目に長い廊下だったそうです。 
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本丸跡に午砲台跡の石碑がありました。明治4年よりここで、陸軍近衛師団が空砲による報時を開始したところです。この空砲の音は「ドン」と呼ばれ親しまれていて、今でも半ドンと言う言葉が残っています。正午の大砲の「ドン」という音より、一日の半分が休みなので「半ドン」と呼ばれるようになったのです。

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edojyo_17.jpg石室がありました。抜け穴とか金蔵とかの説もあったそうですが、大奥御納戸の脇と言う位置から、非常の際の大奥用の調度などを納めていたところと考えられています。伊豆石で作られた堅牢なものです。
本丸跡の北側には天守台があります。かつての天守閣跡です。ここは本丸最奥部で、本丸台地の最高部(標高25m)で、慶長11年(1606)に天守台が造られ、翌年に五層の天守閣が完成しました。しかし、明暦3年(1657)の大火でこの天守閣も消失してしまいました。その後は、徳川家光の異母弟の保科正之(初代会津藩主)が天守は無駄である、と再建反対を唱えそのままとなっています。それにしても、振袖火事とも呼ばれる明暦の火事では、通説では死者10万7千人といいますから、もしそうなら、関東大地震を凌ぐほどになります。
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天守台からは、本丸跡の広い台地がよく見えます。東の方を見ると、桃華(とうか)楽堂があります。香淳皇后の還暦を記念して建てられたもので、昭和41年に完成したものです。
八角形の建物で、屋根はテッセンの花弁を模っています。八つある壁面は大きく羽ばたく鳥を中心に、日、月、星や松竹梅、楽の音等をイメージした図柄が陶片で描かれています。桃華楽堂の呼び名は、香淳皇后のお印である「桃」に因んで命名されたとのことです。
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天守台の北側に回ると北桔橋(きたはねばし)門があります。本来は、枡形門形式であったのですが、現在は一の門の高麗門だけが復元されています。ここは本丸の搦手にあたり、北ノ丸のある田安台地とをつなぐ橋で、有事には橋を跳ね上げて敵を遮断できる構造になっていました。門を出ると、水をたたえたお堀が残っています。重機もない時代に、よく造ったものだと思います。
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北桔橋門から引き返し、今度は二の丸跡の方に進みます。本丸から二の丸に向かう坂道を梅林坂と呼んでいます。文明10年(1478)、太田道潅が天神社を祀り、数百株の梅を植えたので梅林坂と名が付いたといわれています。現在は、約50本の紅白の梅が植えられています。
梅林坂を下ると、諏訪の茶屋があります。江戸時代は吹上御苑にありましたが、明治45年に再建されたもので、明治期の茶屋風の建物として優雅な外観を持っているため、皇居東御苑の整備にあたりここに移されました。この先には、全国「都道府県の木」が植えられていました。
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二の丸には、小堀遠州が造った庭園がありましたが、明治以降は荒廃していました。現在の二の丸庭園は、昭和43年(1968)に、家光による再建当時の「二之丸御絵図」を参考にして、築山泉水式の回遊庭園が復元されたものです。二の丸池には、コウホネ、ヒメコウホネ、ヒツジグサ、アサザの4種類の水性植物が植えられています。
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84種もの菖蒲を植えた、菖蒲園もありました。皇居正門の石橋旧飾電燈もありました。
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後は、入門した大手門から退出して帰りました。


2011.10.17

三渓園・・・(散策)

久しぶりに三渓園に行って見ました。何十年かぶりです。
入場券の販売は、自動販売機です。お寺は、まだ自動の入場券販売機はみかけませんね。雰囲気が壊れると思っているのでしょうか。
三渓を造ったのは、原 三渓ですが、原 三溪(本名富太郎)【慶応4年(1868)-昭和14年(1939)】は、岐阜県厚見群佐波村(現在の岐阜県柳津町)で庄屋の青木家の長男として生まれ、幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学、政治・法律を学び、明治21年(1888)に跡見女学校の助教授になり、その後、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿(やす)と結婚し、原家に入籍します。長男を入婿に出した青木家はどうなったのかわかりませんが、原家の家業を継ぐと、経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として大成功を収めました。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、明治39年(1906)三溪園を無料にて開園するほか、近代日本画家の支援・育成を行ったといいます。
三渓園で、まず最初に目に飛び込んでくるのは、大きな池です。この池を中心に色々な建家が集められていると言えます。大勢の方が、池の周りの思い思いの場所で写生をしています。
順路に従い歩いてゆくと、最初に鶴翔閣(旧原家住宅)横浜市指定有形文化財があります。明治35年(1902))三溪が建て、三溪園造成の足がかりになった家屋で、上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることから、”鶴翔閣”と名づけられました。 現在は、フォーマルな宴会の会場などとして貸出を行なっています。
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手入れの行き届いた順路を進むと、三重の塔が目に入ってきます。この三重の塔は、今は廃寺となった京都の燈明寺から大正3年(1914)に移築されとのことです。
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大池の小島にある涵花亭とそこに渡る観心橋が見えます。観心橋では、結婚式場のパンフレットに使うためか、和装の2人の写真を撮影していました。
内苑に入る御門をくぐると、大正9年(1920)建築され、三渓が家族と暮らした鶴翔閣から離れ、亡くなるまでのおよそ20年を夫人と過ごした隠居所の白雲邸があります。ここも横浜市指定有形文化財で、貸出施設となっています。
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次にあるのは、三渓園でも最も重要な家屋の臨春閣です。紀州初代藩主徳川頼宣が慶安2年(1649)に、夏の別荘巖出御殿(いわでごてん)として和歌山県岩出市の紀の川沿いに建築したものと言われています。8大将軍吉宗は、子供の頃、祖父のこの別荘で川に張り出した座敷から川に飛び込み遊んだそうです。数寄屋風書院造りで、桂離宮と我が国別荘史上の双璧とされ、重要文化財指定です。三渓園には大正6年(1917)に移築されました。
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建屋内部も庭からですが見学できます。亭樹と名付けられた、途中に屋根付きの休憩所のある、小さな橋を渡って、臨春閣を横に見ながら進みます。
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一番奥まで進むと、建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂の天授院があります。大正5年(1916)に移築され、三溪園では原家の持仏堂とされていました。慶安4年(1651)建築で、重要文化財です。
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天授院の横には、月華殿があります。徳川家康により、京都伏見城内に建てられたものといわれています。 大正7年(1918)に春草廬(茶室)と共に移築されました。三溪が建てた小さな茶室の金毛窟とつながっています。慶長8年(1603)の建築で重要文化財です。右の写真は、金毛窟です。
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内苑から出て、また大池のほとりに出ます。入り口とは、反対側です。鴨が泳いでいました。
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大池から少し西に入ると、横笛庵があります。建築年不明ですが、草庵風の茶亭で素朴ながら風趣のある建物です。 平安末期に横笛と呼ばれる、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性がおりましたが、横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、「縁結びの像」として知られており、建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と称されています。横笛の像は、戦争の際に失われたのは、まことに残念です。2人の悲恋話については、高山樗牛による”滝口入道”という小説が有名とのことですが、まだ読んだことはありません。
横笛庵の先には、鎌倉の東慶寺にあった旧東慶寺仏殿があります。明治40年(1907)に移築された禅宗様の特色を色濃く残す建物です。
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更に奥に進むと、旧矢箆原(やのはら)家住宅があります。岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、昭和35年(1960)に移築されました。 大きな茅葺屋根が印象的な合掌(がっしょう)造という屋根に特徴がある構造の民家です。1750年頃宝暦年間の建築で、重要文化財となっています。
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時期的には、萩の花がほぼ終わり、紅葉には早い時期で撮影には恵まれていたとは、言えない時期でした。是非、紅葉の最盛期に再訪したいと思いました。


2011.10.06

誕生日・・・(etc)

今日は、家内の誕生日である。還暦を過ぎて誕生日のお祝いでもあるまいと思うのだが、自分でさっさとレストランのお昼を予約していた。
場所は、原宿と言っても東京の渋谷区の原宿でなく、横浜新道と大船に通じる道路が交わる交差点近くで、横浜では有名な崎陽軒である。
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中庭には噴水があり、入り口を入るとソファーのある部屋に通され、準備が整い次第テーブルに案内される。
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流石に落ち着いた雰囲気で、中庭も眺められる。頼んだコースは、誕生日に相応しく「アニバーサリーコース」である。
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4種盛り合わせから始まって、デザートを含めて8種類の料理で、フカヒレスープはおかわり自由ときた。大満足であったが、お腹いっぱい、夕食は食べられないのではとつぶやきながら崎陽軒を後にした。
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2011.09.22

紀伊国分寺跡・・・(散策)

 お彼岸で帰省しました。昨日に戻る積りが台風15号が浜松付近に上陸して飛行機は途中で引き返すこともあるとのことであり、新幹線も不通で帰れませんでした。もう一泊して、紀伊国分寺跡を見に行きました。初めてです。以前は国の史跡に指定(昭和3年:1928)されていても人の口先にも上ることはなかった史跡ですが、最近になり改めて整備されたものです。
 天平13年(741)、聖武天皇の国分寺建立の詔により、造営が開始され、天平勝宝8年(756)に主要伽藍が完成したもので、南から南門・中門・金堂・講堂・軒廊・僧坊を置かれていた。塔は金堂の東前方に、鐘楼と経楼は金堂の東西後方に配置されていたとのこと。回廊は中門から塔を囲み、講堂につながっていて、東側は雑舎に当てられたものと推測されている。塔跡は一辺16.4メートルの瓦積み基壇上に三間塔婆の礎石が旧位置に残っている。
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 創建当時の境内は不明だが、講堂跡を中心に2町(約218m)四方が境内の名残を示しているとのこと。元慶3年(879)2月22日に火災で伽藍が全焼し、金堂と僧坊が再建されたが、その他は再建されなかった。その後、14世紀初めに本堂が講堂跡に再建された。また、根来寺の末寺になった。この根来寺の末寺になったことが災いして、天正13年(1585)の秀吉の紀州征伐で根来寺とともに焼き討ちされ、伽藍を再び焼失したが、元禄年間になって本堂が再建された。
 昭和3年(1928)2月7日、国の史跡に指定され、その後昭和48年(1973)から昭和50年(1970)の発掘調査により、寺域が二町四方と判明し、伽藍配置・規模が確認され、昭和60年(1985)国の史跡に追加指定された。
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なお、国分寺は、全国で約70寺建造され、今も史跡もしくは現存する寺院として残っている。


2011.06.16

建長寺・・・(散策)

明月院の次は建長寺です。五山第一臨済宗で始まる大きな寺名碑が立っています。
バスの駐車スペースも確保されていて、沢山の観光バスが止まっていました。
建長5年(1253)北条時頼が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山として創建した、わが国最初の禅の専門道場です。
総門をくぐると、最初に勇壮な山門があり、「建長興国禅寺」の扁額が掛かっています。
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山門をくぐると、白槙(ビャクシン)の巨木のある前庭を進み、仏殿があります。
仏殿の後ろには、法堂です。流石に、鎌倉五山の第一です。雄大で荘厳な建物です。
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法堂の後ろには、右に庫裏、左には唐門と通称される勅使門があり、その中には方丈があります。
重要文化財の唐門は修理が終わり、2週間ほど前の5月30日に落慶法要が営まれたばかしで、眩いばかりに輝いています。今回の修理は、一年半近くを要し、ほぼ建立時の唐門を再現出来たとのことです。
この、唐門は、寛永5年(1628)に徳川秀忠の夫人「お江(ごう)」の霊屋(みたまや=現建長寺仏殿)の門として東京の増上寺に建立の後、1647年に仏殿とともに建長寺に移築されたものです。関東大震災の被害を受け、一度解体修理が行われて以来80余年、傷みが進み今回の修理となったものです。奇しくも今年の大河ドラマのヒロインが「お江」です。
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唐門の右の通用門から、龍王殿(方丈)に入ります。方丈から見た唐門の後ろ側も輝いています。
なお、龍王殿は京都・般舟三昧院(はんしゅうざんまいいん)より昭和15年に移築されたもので、建物は享保17年(1732)の建立とのことです。
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龍王殿の裏に回ってゆくと、蘸碧(さんぺき)池を中心とする庭園があります。開山大覚禅師(蘭渓道隆)の作で、創建当時よりあったとのことです。亀が一匹泳いでいるのが見えました。
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帰りに、もう一度白槙の巨木を撮りました。もっとも大きな白槙です。開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が中国から持ち帰った種子を、建長寺創建の際に蒔いたといわれ、神奈川の名木100選に選定されています。紫陽花も綺麗です。
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kencho_12.jpg最後に、国宝に指定されていて、関東一美しい梵鐘として知られ、音色が人の泣き声に似ているということから「夜泣き鐘」とも呼ばれている鐘楼を撮りました。
建長寺の梵鐘は、建長7年(1255)、関東の鋳物師の筆頭であった物部重光によって鋳造されたもので、総高208.8センチメートル、口径124.3センチメートル。平安時代の作風を踏襲していて、建長寺創建当時の貴重な遺品です。円覚寺の梵鐘とともに、昭和28年(1953)11月14日、国宝に指定されました。


明月院・・・(散策)

円覚寺の次に明月院を訪れました。
明月院はもともと北条時宗が建てた禅興寺の塔頭であったが、江戸期に禅興寺の方が従属する形になり、その後明治に至り禅興寺は廃寺となり、明月院が残ったそうです。
入り口を入って左に進むと、北条時頼のお廟があり、さらに左に進むと墓所もある。
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本堂に続く道の紫陽花は、まだちらほらの段階です。でも最盛期は、人で埋まって、とても歩けなくなります。
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紫陽花の回廊を進んで行くと、方丈の建物があり、その前には枯山水の庭園です。須弥山(しゅみせん)をかたどっています。
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さらに奥に進むと、藁葺き屋根の開山堂があります。当初、宗猷堂(そうゆうどう)と呼ばれていたお堂で、歴代住持の位牌が祀られているとのことです。
また、さらに奥には、やぐら(羅漢洞)と呼ばれる洞窟墳墓があります。間口7m、奥行6m、高さ3mとのことです。
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円覚寺(鎌倉)・・・(散策)

久しぶりに鎌倉に行きました。紫陽花も咲き始めるころです。最盛期になると、混み合うので、少し早いが行く気になりました。まず、最初は北鎌倉で降りて円覚寺です。
弘安5年(1282)、鎌倉時代後半、17歳で執権についた北条時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建した臨済宗のお寺です。
新しい、北条時宗公御廟所の大きな石碑が目に付きます。最近建てたのですね。以前はなかったですよ。
石段を上って、入り口で入場料300円を払います。大きな山門が見えています。
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山門を見上げると、上の方の扉が開いていました。お掃除中とのことでした。
正面に仏殿が見えます。なお、円覚寺には法堂(はっとう)はありません。
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本堂の左方向にある松嶺院(しょうれいいん)に向かいました。「山野草の花の寺」の張り紙が見えたので、お花を見せてもらおうと思ったからです。今は季節ではありませんが、牡丹も沢山植えられていました。
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松嶺院の裏は墓地になっていて、オームに一家を皆殺しにされた坂本弁護士や田中絹代、開高 健などの有名人の墓があります。建屋の横を細い階段を続いていますが、墓地は撮影禁止です。
ぐるっと廻って降りてくると、ツグミの巣がありました。お寺の方が教えてくれました。小さくて可愛い巣です。直径は10Cmもなくて、7Cmぐらいでしょうか。
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奥に進むと勅使門があります。門の中には方丈が建っています。門の横から入ると、方丈の前庭に百観音があります。なお、方丈とは禅宗において、1丈(約3メートル)四方の部屋の意味でしたが、転じて住職の居室のある建家の事をいうようになったものです。
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2010.11.21

奥日光・・・(仲間)

昨日、湯元温泉のバス停に着いたのは夜の5時半ころで、とても寒かったです。僅か300mほどでしたが、ホテルまでの道を歩くのに、これは参ったと思っていたら幸いにも別のホテルの車が拾ってくれました。
その後は、美味しい食事と源泉かけ流し乳白色・硫黄温泉に大満足でした。なお、外の温度は、1℃でした。
一夜明けて、今日も快晴に恵まれました。朝食の後、ゆっくりとして9時に出発し、今日は戦場ヶ原を抜けて、中禅寺湖湖畔まで歩く事としました。出発すると、白樺の木の間に湯ノ湖が見えてきます。
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湯ノ湖を含む奥日光の湿原がラムサール条約に登録されていて、その記念碑がありました。
そして、湖面から盛んに蒸気霧が立ち上っています。
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特に湯ノ湖は、その名のとおり、温泉が流れ込んでいるので外気との温度差が大きく、蒸気霧の立ち上りが盛んなのでしょう。そして、大きな鯉がたくさん泳いでいました。
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湖の周りの木立には、びっしりと霜が降りていました。そして、湖面には鴨が悠然と泳いでいます。
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湯ノ湖の周りにも遊歩道として木道が設置されています。日の当たらない所には、降りた霜のため滑りやすくて要注意でした。湖尻に達すると、湯滝が豪快に流れ下っています。湯滝は「華厳滝」、「竜頭の滝」と並んで奥日光三名瀑の一つに数えられています。
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しばらくは、湯滝から流れ下る湯川に沿って進むと、小滝という名前どおりの小さな滝があります。そして、白樺とその他の落葉樹の戦場ヶ原の典型的な風景が広がってきます。戦場ヶ原は、2万年前の日光火山群の噴火でせき止められた湖がその後の、乾燥化や土砂の流入、さらには男体山の噴火による軽石流が流れ込んで、いまの湿原の姿に変わっていったものです。そして、ほぼ平坦で木道が整備されて歩きよい道が続きます。
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湧水による、水の綺麗な泉門池に着きました。ここでしばし休憩を取りました。水鳥や野鳥が豊富とのことです。この先の分岐点で、小田代ヶ原に向かう右側のコースを取りました。
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小田代ヶ原の縁に沿って伸びている木道を進んでゆきます。小田代ヶ原も湿原の乾燥化が進み草原の様相になっています。鹿の害が激しいのか、金網の柵で囲われています。
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小田代ヶ原の中にひときわ目立つ白樺の木があり、貴婦人の名で呼ばれていて、多くの人が撮影に訪れるそうです。
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3時間余り歩いて、竜頭の滝に着きました。長い斜面を流れ下る滝です。交通の便が良いので多くの観光客が訪れています。
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竜頭の滝まで来たからには、中禅寺湖まで歩こうと、菖蒲ヶ浜に出ました。オフシーズンで静かです。
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もう、12時40分です。さすがにお腹が空いて、一軒空いていたレストランで遅い昼食を取りました。昼食の後は、バスで華厳の滝に向かいました。大変な賑わいで、華厳の滝の展望台へのエレベーターは長い行列です。
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はるか以前に「華厳の滝」を見た記憶はあるが、あらためて見ると、流石に日本三名瀑の一つです。圧倒的な存在感と美しさです。ちなみに三名瀑とは、袋田の滝(茨城県)、華厳の滝(栃木県)、那智の滝(和歌山県)です。
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満足して、参加者一同で記念撮影です。再度行列のエレベータで元の場所に戻ると、男体山が、こちらも存在感を示してそびえていました。
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華厳の滝を見た後は、2日間の旅に満足して帰途に着きましたが、バスの中で解散となり、まだ途中で降りてお土産を買う人、東武日光線で帰る人、JR日光駅に向かう人と分かれました。本当に楽しい2日間でした。


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