2012.07.09

大仏から極楽寺・・・(散策)

高徳寺の大仏を後にして、江ノ電長谷駅方向に進み、長谷観音前の交差点を過ぎ、次の通りを右折して進みます。これが御霊小路で、突き当たって南に曲がると直ぐに「鎌倉権五郎神社」の石碑が立っています。ここで右折して西に進むと「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」があります。鎌倉権五郎神社とは、御霊神社の別称です。
鎌倉は、鎌倉幕府が置かれる以前に鎌倉党と呼ばれる板東平氏の一族が統治していたようですが、この御霊神社では、元は大庭・長尾・梶原・村岡・鎌倉のこれら五家の祖を祀る五霊神社であったそうです。それが御霊神社となり武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政(正)を祀る神社となったと伝えられています。

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境内には、袂石(たもといし)16貫(60Kg)、手玉石28貫(105Kg)と書かれた、丸い石が2つあり、説明板には、御祭神景正公が手玉に取り、袂に入れた石で、公の人知を超えた零才を示すと書かれていました。
また、鎌倉権五郎景政公が領地を見まわる時に弓を立てかけたという「弓立の松」もありました。

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御霊神社の鳥居の前は、江ノ電の踏切です。鎌倉らしい光景です。

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御霊神社から踏切を渡って南に進み、広い通りに出て右折すると「星月の井」と称する井戸があります。鎌倉十井の一つで「星の井」「星月夜の井」などとも呼ばれています。昔はこの井戸の中に昼間も星の影が見えたことから、この名がついたといわれています。あるときに水を汲みにきた女性が、謝って包丁を井戸に落としてしまい、包丁は星影を切ってしまったために以後見ることができなくなったと伝えられています。奈良時代の名僧・行基は井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建てて虚空蔵菩薩をまつったという伝説もあるそうです。また、井戸の水は清らかで美味だったので昭和初期まで旅人に売られていたそうです。
「星月の井」を過ぎると直ぐに石段があり、石段を上ると虚空蔵堂があります。井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩として安置したお堂です。虚空蔵菩薩を信仰すると頭脳は明晰になり記憶力は増進するといわれ、限りない知恵をそなえた仏様であるとのことです。この菩薩様は秘仏で35年に一度しか開帳されなかったが、現在では毎年正月13日に開帳され拝むことができるとのことです。

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虚空蔵菩薩を過ぎると、道は上り坂となりますが、左側に「成就院」への階段が続いています。車の走る道路は掘り下げられた切通しとなっていますが、「成就院」に至る急坂が、かつての極楽寺坂です。上って行くと材木座海岸が美しく広がって見えます。このお寺は明月院と並んで紫陽花で有名ですが、もう花も終り、紫陽花の木が刈り込まれていました。

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成就院を過ぎて広い道路に合流すると、道は右にカーブして朱塗りの「桜橋」を渡ります。この橋は陸橋で、下を江ノ電が走っています。

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桜橋を渡ると右側に「導地蔵堂」があります。「極楽寺地蔵」とも呼ばれているこの地蔵堂は、文永4年(1267)、極楽寺の忍性が運慶作の地蔵像を安置したのがそのはじまりといわれています。兵火によって当時の地蔵像は焼けてしまいましたが、現在の地蔵像は室町時代の作と伝えられています。子育てに霊験あらたかなことから「導き地蔵」とも呼ばれてきました。
地蔵堂の前を進んで行くと稲村ヶ崎小学校があり、小学校から民家の中の道を更に進むと、突然左手に月影地蔵堂が現れます。小さなお堂ですが、お堂前には石仏が並び実に簡素なたたずまいを見せています。

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導地蔵堂まで引き返し、右折すると「極楽寺」山門です。静溢な佇まいのお寺でした。

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暑い日でした。極楽寺駅から鎌倉駅に行きカフェで少し休憩を取り、JR横須賀線で帰宅しました。
歩くには暑すぎる季節になってきました。


大仏切通し・・・(散策)

今日(2012/7/9)の万歩計11,311(7.4Km)
昨日の小雨も上がり、今日は快晴です。先日の名越の切通しに続き、大仏切通しを歩いてみようと出かけました。鎌倉駅から藤沢駅行きのバスにのり、火の見下バス停で降ります。大仏前から2駅目です。
大仏切通への入り口は、小さな案内標識すら設置されていません。バス停の直ぐ横の細い路地を入って行きます(黄色い矢印)。クランク型に曲がって進むと直ぐに大仏切通しです。

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鎌倉市教育委員会名で「立入禁止」の横棒が設置されていました。ここまで来て引き返す気にもなれず、乗り越えて進みました。

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国指定史跡・大仏切通の説明板がありました。
大仏切通はいわゆる鎌倉七口の一つに数えられ、梶原、山崎を経て武蔵・京都方面へ通じる道路です。記録がないため正確な開削時期は不明ですが、北側にある北条氏常盤亭の存在や、朝夷奈切通や巨福呂坂の整備時期との関係から、仁治2年(1241)から建長2年(1250)ごろに整備されたと考えられています。
 元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでは、上野国(現在の群馬県)から南下した軍勢が州崎(現在の深沢・山崎)方面から攻め寄せ、激戦となったことが「太平記」に見えていることから、この地も戦場になった可能性があります。
 大仏切通は、江戸時代に経路が変更され、現在の県道鎌倉藤沢線ができたため大規模な破壊を免れ、付近に造られた平場やここに開口する「やぐら」と呼ばれる岩窟、切岸などと共に、かっての鎌倉の幹線道路のあり方を、今によく伝えています。

左側には、「やぐら群」がありましたが、「やぐら」とは、岩壁などをくり抜いてできた横穴洞穴に死者を埋葬し五輪塔などを置く墳墓とのことです。

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置き石がありました。敵が攻め寄せるのを難しくするためとも言われていますが、本当のところは不明です。
そして、その先には倒木が切って積み重ねられており、乗り越えるのに難儀しました。教育委員会の「立入禁止」が理解できましたが、通れる程度に片付けるのはそれほど難しくないと思われるので、早急に対処して欲しいものです。

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倒木を積み重ねた箇所がもう一箇所ありました。その後は、特に困難な場所もなく路が続いていました。

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また、「立入禁止」のバーが現れました。左から合流する路があるので、ここから切通し入り口までが通行禁止のようです。しかし、それでは大仏切通の70%が閉鎖となってしまいます。教育委員会の責任逃れのような気がします。管理責任を果たしていないのではないでしょうか。ともかく、国指定史跡なのですから。その脇には、木の道標が立っていました。

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樹林の中の路を進むと、「国指定史跡・大仏切通」の表示柱が立っていました。

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表示柱からわずか150mでもう終わりです。新大仏トンネル横の階段を降りて、自動車道路に合流します。
大仏切通は、全長でも700m程度でした。途中で誰にも会う事はなく、国指定とは言っても入り口には道標もなく、ほとんど放置されているのではと思えました。

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大仏切通しを通ったからには、大仏さまの尊顔を拝見しないわけには参りません。
何時も観光客で賑わっています。

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2012.07.05

名越切通し・・・(散策)

急に思い立って、鎌倉駅から名越切通しを通って逗子駅まで歩いてみる事にしました。
鎌倉駅に着いたのが10時50分頃で、東口に出て若宮大路を南に向かい、横須賀線のガードの手前で若宮大路から左に別れて線路沿いに進み、県道鎌倉葉山線にぶつかって左折して進みます。

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進行方向右手にひときわ目に付く上行寺(じょうぎょうじ)があります。日蓮上人の孫弟子にあたる「日範上人」が1313年に開山しました。
「瘡守稲荷(かさもりいなり)」と、「千手観音像」そして「身がわり鬼子母神」が祀られ、癌封じ寺として有名とのことです。このお寺を過ぎると、道は南東方向に曲がり、前方に名越踏切が見えてきます。

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踏切を渡って直ぐに左折して進みますが、この道が名越切通しを越えて三浦に向かう、かつての古道です。
進むと右手に石囲いがあり、石碑と井戸が現れます。日蓮乞水(にちれんのこいみず)といい、鎌倉五名水の一つにもなっています。『新編鎌倉誌』に「日蓮乞水は、名越切通の坂より、鎌倉の方一里半許前、道の南にある小井を云なり。日蓮、安房国より鎌倉に出給ふ時、此坂にて水を求められしに、此水俄に湧出けると也。水斗升に過ざれども、大旱にも涸ずと云ふ。甚令水也。」とあります。碑文に建長5年(1253)とあり、当時この前の道が街道であったことを物語っています。

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日蓮乞水を過ぎると直ぐに名越坂踏切があり、踏切を渡って右折します。道標も立っています。

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道なりに進むと、Y字路となり右の急坂を上って行きます。右に細い道が分かれているので、この右方向の道を進みます。直ぐ下にはJR横須賀線が走っています。

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右下に横須賀線のトンネルの入り口が見えると、いよいよ名越切通しへの上り道です。

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石段の道を上って行くと立派な道標が立っていて、この道で良いのかと多少不安を感じながら上ってきたのが、消し飛びます。

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道標を過ぎてもしばらくは石段の道が続きますが、切通しの頂上付近になって堀割道になります。この堀割道が本当の鎌倉の道で、石段の道は近年になり崩れ防止のために手を加えたものと思われます。

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堀割道の真中に大きな置き石がありました。置き石は敵の侵入を妨害するためとの説があるそうですが、それほど有効とも思えず、結局よく分かりません。
終に、切通しの峠に着きました。思ったより短い距離でした。そのまま進めば名越切通しを簡単に通り過ぎてしまうので、左折して法性寺(ほうしょうじ)に向かいます。

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法性寺は日蓮の弟子・日朗が開山したと伝える鎌倉時代の古刹です。
法性寺の墓地が見えてくると、左に石を切り出した跡と思える岸壁があり、その先には洞窟がありました。大勢の白人の子供が活発に動いていたので聞くと、米国ペンシルバニアから2週間の予定で日本を訪れている30人の中学生でした。

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墓地から少し進むと、法性寺の奥の院と祖師堂が建っていました。左の白い鳥居は山王権現社で石段を上ると石祠と石塔があるそうです。

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法性寺の奥の院を見て引き返し、尾根道に戻ったところで右折して展望台の方に向かいました。途中に石廟が2つ建っていました。石廟とは死者を埋葬した地に建てた石造墳墓堂で、珍しい形をしています。

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パノラマ展望台からは、逗子の市街がよく見えます。切通しを過ぎて逗子駅に向かう県道もよく見えています。

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切通しの道に戻り進みます。国指定史跡・名越切通の立派な案内板も立っていて、日本語以外にも、英語、中国語、ハングルで説明が書かれていました。
名越切通は、鎌倉から相模湾沿いに三浦半島を結ぶ交通路で、『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条に「名越坂」として初めて登場し、明治時代になって直下を通る現在の横須賀線や県道のトンネルが開通するまで、長い間幹線道路として使い続けられた重要な道です。
 急峻な尾根を掘り割って造られた切通は、時代が下るにつれて通行しやすいように改修したり、地震等で崩れては復旧を繰り返しているため、鎌倉時代の姿そのものではありません。
しかし、その周辺には、横穴式の供養施設であるやぐらが約150基も集中する「まんだら堂やぐら群」や、死者を荼毘に付した跡など、中世の葬送に関する遺構が数多く分布するほか、
切通の防衛にも関係すると考えられる人工的な平場や大規模な石切場跡(大切岸:おおきりぎし)が尾根筋に見られるなど、古都鎌倉の周縁の歴史景観をたいへん良く残しています。

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名越切通しの逗子に近い方は、勾配が緩やかなためか石段にはなっていません。そして、これぞ鎌倉の切通しと写真で良くお目にかかる場所にさしかかりました。進行方向に向かって見ると、右側から岩がせり出して隘路となっています。

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通りすぎて振り返ると、左から「国指定史跡名越切通整備基礎調査」で崩落の危険があると指摘されている大きな岩が見えます。だいぶ亀裂も広がっているようで心配です。

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大きな岩を通り過ぎると、亀ケ岡団地の住宅が見えてきました。坂道を下って県道に出て逗子駅に向かい、駅前のスタバで休憩して帰宅しました。

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2012.07.04

大船フラワーセンター・・・()

2012/7/3 大船のフラワーセンターに行って来ました。
大船駅で降りてフラワーセンターに向かう途中に、「玉縄首塚」があります。由来書きによると、大永6年(1526)11月12日に、南房総の武将里見義弘が鎌倉を攻め落とそうと進軍し、鶴岡八幡宮に火を放ち鎌倉内に乱入しました。このことを知った当時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫)は、 大船甘糟と渡内福原の両軍と協力して里見の軍勢をこの戸部川辺にて迎え撃ち、数度の合戦で敵を打ち破り鎌倉を守りました。この合戦において甘糟氏以下35人は戦死し、福原氏は傷を負い、里見軍の死者は数がわからないほどでした。  戦闘が終わった時、城主の氏時は敵と味方の首を互いに交換し、これらを葬り塚を築いて塔を建てました。そして郷里を死守した霊を慰めると共に、怨親(おんしん:敵味方)平等という考え方の例としました。 これを玉縄首塚と呼んでいます。
フラワーセンターに入ると、大勢のお母様方が小さなお子さんを遊ばせています。また庭園内を歩くと、歳を重ねた方々が重そうなマクロレンズを付けたカメラを三脚に乗せ、花を撮影している姿が多く見られました。年配のご婦人(おばあさん)方も大勢撮影をなさっていました。

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最初に行き着く撮影ポイントは、睡蓮の花です。

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バラ園には、多くの種類の薔薇が咲いていました。
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2012.06.25

袖ヶ浦公園・・・(旅行)

2012/6/24、野島崎灯台を後にして、昼食です。
海の幸いっぱいの食事で、蓋の閉まったお重も中は刺身が乗っかったものでした。
食事のデザートは、枇杷(びわ)の食べ放題で、山盛り枇杷が積まれた大皿が2つ置かれ、少なくなると継ぎ足されました。流石に2回りで皆さん堪能したようです。

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食事を終えて、袖ヶ浦公園に向かいました。花菖蒲を見るのが主目的でしたが、先日の台風でかなり傷んでしまったとのことでした。

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それでも、絣の着物と赤い前掛けのお姉さんの花がら摘みが色を添えます。

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小高い山陰には、紫陽花も植えられていて、風が遮られる地形であったためか、綺麗な写真が撮れました。

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公園内では、花菖蒲、紫陽花の他にも黄色い百合の花、マリーゴールドなどが見られます。

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後は、横浜に帰りましたが、アクアラインはかなり渋滞していました。


野島崎灯台・・・(旅行)

2012/6/24、日運寺で紫陽花の撮影を行った後は、房総半島最南端にある野島崎灯台を訪れました。

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灯台の入口には、明治2年に作られ、震災による被害の改修を大正14年に行った旨のプレートが掲げられていました。
この灯台は開国の歴史を飾る慶応2年にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ヶ国と結んだ「江戸条約」によって建設を約束された八ヶ所の灯台の一つで、フランス人技師ウェルニーによって設計されたものです。関東大震災で倒壊し、大正14年に再建されたました。

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らせん階段を上って行くと、最上部の電灯室には入れませんが、大きなレンズが透けて見えます。そして、外の回廊に出ると天気の良い日は伊豆七島まで見えるという眺望が広がっています。

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灯台の脇には展示室があり、灯台設計者のフランス人技師ウェルニーの胸像、灯台の心臓部であるレンズ等が展示されていました。

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灯台の手前には、厳島神社がありました。境内には、安房の生んだ幕末の優れた石工の武田石翁(本名:小滝周治)が19歳の時に刻んだという七福神の像がありました。何故か弁財天のみ社殿に入っています。また、子宝に恵まれると、巨大な木造の男根も祀られていました。

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2012.06.24

日運寺・・・(旅行)

南房総の「日運寺」に行って来ました。
寺の由来書きによれば、むかし勝栄坊と称する真言宗の小堂でした。文永元年(1264年)9月頃に日蓮聖人が鎌倉から小湊に帰る途中、この堂に止宿し当時の堂主の行然法印は日蓮聖人の人得と高説に敬服し日蓮宗に改宗した寺です、とあります。
しかし、今回は寺の由来に興味を持ったわけでも何でもなく、単純に「紫陽花」の写真を撮るために訪れました。

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山門を入ると、推定樹齢600年の「カヤの木」が参道に倒れ掛かかっていました。
カヤは雌雄異株で、雌株にのみ実がなり、食用となる。また、カヤの木で作った、碁盤、将棋盤は最高級品です。

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参道のみならず、本堂の裏山にも紫陽花が一面に植えられています。

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2012.03.22

和歌山市内の名所を尋ねて・・・(旅行)

国民休暇村で一泊した次の日の3月20日は春分の日でした。10時頃にチェックアウトして、和歌山市の何箇所かを回ることにしました。意外に近場は、行ったことのない場所も多いものです。

1. 淡嶋神社

最初に訪れたのは、加太港に面して建っている「淡嶋神社」です。祭神 は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(おほなむじのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)神功皇后(じんぐうこうごう)を祀っています
淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りありますが、ここはその総本社であり、和歌山県内でも屈指の歴史を誇っています。社伝によれば、三韓出兵の帰途瀬戸の海上での突然の嵐に遭遇した神功皇后が、船中で祈りを捧げたところ、「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めるように」とのお告げにより友ヶ島に無事入港できたことを感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を先述の二神に奉納しました。その数年後、神功皇后の孫である仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来た際、その事実を聞くにおよび、島では不自由であろうと考え、社を対岸の加太に移し、現在のような社殿を建築したことが淡嶋神社の起こりとされるとのことです。
なお、苫(とま)とは、菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだむしろのことです。

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また、この神社は人形供養の神社としても有名で、境内には供養のために納められた、無数の雛人形や市松人形、はてはフランス人形までもが所狭しと並べられています。そのため心霊スポットとしてマスコミに取り上げられることがあり、髪の毛が伸びることで話題を集めたお菊人形も安置されているとのことです。

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2. 養翠園

次は、紀州藩第10代藩主徳川治寶(はるとみ)によって、文政元年(1818)から文政9年(1826)にかけて造営された西浜御殿内の広大な大名庭園である養翠園(ようすいえん)です。
和歌山湾沿いの立地を利用して、海水を引き込んだ「汐入り」の池が特徴的で、潮の干満に応じて細波が立ち、水面が上下する独特の風情があります。この池には、日本庭園としては珍しい直線状の三ツ橋を渡しており、背後の天神山と章魚頭姿山(たこずしやま)を借景としたこの構図は、中国の西湖を模したものと伝えられています。また、藩主は、舟を用いて来園し、そのための船着場が園内に設けられています。したがって正門はもっぱら客人のためであったようです。
なお、日本の大規模な庭園で汐入の池をもつものは、これらの他には東京都港区の浜離宮恩賜庭園だけとのことです。

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3. 和歌浦

次は、山部赤人が「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」と詠み、「万葉集」にも載せられていることで有名な「和歌浦(わかのうら)」です。現在の地名では「わかうら」と呼ばれていますが、子供の頃に親に連れられて訪れたときと比べても、あまりにも衰退して、廃屋となった旅館も多く、また跡地には老人ホームなどの施設が見られました。雑賀孫市で有名になった雑賀崎も有るところなのですが、和歌山市政の貧困さのためか、山部赤人の歌碑も、雑賀孫市に纏わる記述を見ることもなく、海岸べりの工場や商業施設などで景観を完璧に破壊し、折角の遺産を完膚なきまでに壊してしまっています。

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4. 和歌浦天満宮

延喜元年(901)に菅原道真が大宰府に向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊しました。その時、神社が鎮座する天神山から和歌の浦を望み、2首の歌を詠みました。
「老を積む身は浮き船に誘はれて遠ざかり行く和歌の浦波」
「見ざりつる古しべまでも悔しきは和歌吹上の浦の曙」
その後、村上天皇の康保年間(964 – 968)に参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされます。また、道真が立ち寄った際に、敷物がなく、漁師が船の艫綱を敷物(円座)にして迎えたといい、綱敷天神とも称せられています。天満宮は和歌浦天神山(標高約93m)の中腹に位置し、菅原道真を祀り、和歌浦一円の氏神として尊崇されています。もちろん、受験生も合格祈願に多く訪れることでしょう。また、和歌浦天満宮は、藤原公任卿の詠歌「和歌の浦の天満宮や日の本の三の名だる一つとぞきく」にもあるように、大宰府、北野と並んで、”日本の三菅廟”といわれているとのことです。

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5. 紀州東照宮

元和7年(1621)に徳川家康の十男である紀州藩祖・徳川頼宣により南海道の総鎮護として創建され、関西の日光とも称される。本殿は伝・左甚五郎作の彫刻や狩野探幽作の襖絵があるとのことです。

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元和5年紀州初代藩主として入国した徳川頼宣(1602?71)により、東照大権現を祀る東照社として建立されました。頼宣の紀州入国とともに計画され、元和6年(1619)起工、元和7年(1620)に竣工・遷宮式が行われました。『紀伊続風土記』によれば、境内は方八町で、宮山周囲50町余りであったといいます。現在は頼宣も合祀されています。

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6. 琴の浦 温山荘園

最後に訪れたのは、明治21年に日本で初めて動力伝動用革ベルトを製作し、その後、世界有数のベルトメーカーとなった新田帯革製造所(現 ニッタ株式会社)の創業者、新田長次郎翁により、この地に大正初期から造園された「温山荘園」です。
子供の頃、親に連れられて来た記憶がかすかにあるのですが、情景は完全に忘れていました。また、新田長次郎の造園なので大人達は「新田の別荘」と呼んでいて、長く「新田義貞」の別荘と思い込んでいました。

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紀州の名園として名高く皇族らがしばしば来訪し、随行した桂太郎、清浦奎吾、東郷平八郎、秋山好古らの扁額が主屋「温山荘」に掲げられているそうです。
造園は、大正初期から昭和初期にかけてで武者小路千家家元名代の木津宗泉により作庭された潮入式池泉回遊庭園です。この潮入り庭園は、先に紹介した「養翠園」にヒントを得たと思われ、個人の庭園としては日本最大です。
また、「温山荘」の名称は”温山”の雅号を持つ翁の求めに応じて、東郷平八郎元帥により命名されました。当初は翁の健康維持のために使用していましたが、在世中に一般人にも解放されるようになり、翁の没後はその遺志により、「財団法人 琴ノ浦 温山荘園」を設立し、その財団が管理にあたっています。

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なお平成10年には建造物が、文化庁文化財部より「登録有形文化財」の指定を受け、平成22年2月に庭園が国名勝の指定、平成22年6月に建物が重要文化財指定を受けています。

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駆け足で和歌山市内の名所を回りましたが、まだまだ和歌山城も紀三井寺もあります。
最近では、熊野古道のみが喧伝されていますが、もっと訪問客を誘う材料があると思えるのですが・・・。


紀州加太国民休暇村・・・(旅行)

春の彼岸も終えた3月19日に94歳の母と2人の妹と私の4人で、紀州加太国民休暇村に行きました。高齢の母を連れてなので、あまり遠くには行けないと選び初めての訪問でした。

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海に面した小高い丘の上に建っていて、部屋の窓からは「友ヶ島」とその向こうに「淡路島」がよく見えました。素晴らしい眺めです。
大阪湾への海路なので、第二次世界大戦の時には砲台が築かれ、その弾薬庫跡が保存状態もよく残っていました。

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目の前の友が島周辺は、鯛の良好な釣り場とのことです。
淡路島に沈む夕日を見ながらの夕食も、鯛を中心とした献立てで美味しくて堪能しました。

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2012.02.28

美術館(中川一政、MOA)訪問・・・(旅行)

今日は、真鶴にある「中川一政美術館」と熱海の「MOA美術館」を訪問します。寒い朝ですが、よく晴れています。途中、バスの窓から富士山が綺麗に見えました。
多少の渋滞がありましたが、中川一政美術館には、11:00ごろには着きました。

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観光バスが3台ほど停まっていて、美術館が混雑しているので、先に別の建家に移設された一政のアトリエなどを見学し、その後美術館に進みました。一政は、98歳の長寿を全うするのですが、晩年には白内障のためほとんど色が判別できなくなり、家政婦に絵の具の色の名を大きく書かせて描く時に見分けたとのことです。

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5つの展示室があり、油絵、新聞小説の挿絵、書などが展示されています。絶筆となった薔薇の絵も展示されていました。
当然ながら、写真撮影は禁止なので「絵葉書」を買い、何枚かをスキャナーで取り込みました。下は、福浦突堤と箱根駒ヶ岳です。

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一政が最も描くことを好んだ薔薇の絵と向日葵の絵です。

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お昼になり、12:20に磯料理を出すお店に着きました。いけすの魚を使ったお刺身は、流石に美味しかったです。

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食事のお店は岩忠と言い、場所は真鶴ブルーラインの橋が眼前に見える場所でした。

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今日の最後の訪問の「MOA美術館」に向かいました。山の斜面に建てられた美術館で、入り口から延々とエスカレータで上って行きます。エスカレーターは山の斜面に掘られたトンネル内に造られており、刻々と照明の色が変わるなど美しい空間になっています。

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エスカレーターで上り切ったフロアーに能楽堂があり、解説を含め1時間ほど狂言を鑑賞しました。その後、東洋美術を中心とした展示物を見学しましたが、モネの睡蓮の絵もありました。
この美術館の一番の展示物は国宝の尾形光琳の「紅白梅屏風図」ですが、CG技術で作られたレプリカも飾られていて、これは写真撮影が出来ました。

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高い山の上に造られた建物なので、眺望は素晴らしいものでした。初島もよく見えました。

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上のフロアーから見下ろしたときに見えた、王と女王のモニュメントも見に行きました。

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また、別のフロアーから外に出ると、尾形光琳の屋敷が復元されていました。宝永年間の数年の江戸滞在の後、正徳2年(1712)ころ京都新町通り二条下るの地に屋敷を新築するが、自ら書いた図面と大工の仕様帖(いずれも重要文化財)が現存しており、それを元に復元したものとのことです。軒先の紅梅も綺麗に咲いていました。

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本当に眺めの良い場所でした。

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午後4時30分に閉館なので、その後は帰路に向かいました。楽しい1日が過ごせました。


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