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2010.09.12

大内宿と会津の旅(2日目)・・・(旅行)

9月11日です。2日目の朝が明けました。山間の温泉場ということもあり、涼しい朝です。周囲の緑の山々が清々しく、良い気分です。
さて、食事を済ませて出発です。さほど時間も掛からず、若松城(鶴ヶ城)に着きましたが、天守閣は屋根を元の赤瓦に取り替える工事中で、すっぽり覆われています。
会津若松城は、時代ごとに城主が代わり、変遷を重ねてきましたが、1643年(寛永20年)出羽国山形より3代将軍の徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封し、以後、明治維新まで会津松平氏(保科氏から改名)の居城となったものです。
戊辰戦争の1868年(慶応4年)には、会津勢の立て篭もる若松城は1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢が薩摩の援軍の助けをかりても遂に城落には至らなかったのです。その後に開城されたが、戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、明治7年(1874)に取り壊されています。
現在の天守は1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されています。
なお、地元では「鶴ヶ城」と呼ばれることが多いのですが、これは秀吉からこの地を与えられた蒲生氏郷の幼名の「鶴千代」から来ています。
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工事中も、若松城天守閣郷土博物館としては見学可能ですが、種々の歴史的な遺構は、すべて撮影禁止で、最後に銀色の鯱(しゃちほこ)のみ撮影可能でした。若松城に鯱があったかどうかは、見解がわかれているそうですが、この鯱は、復元工事を担当したハザマの当時の会長より寄贈されたもので、全身の鱗は銀箔、牙は金製、瞳の中心に2カラットのダイヤモンドが埋め込まれているとのことです。ハザマは名古屋城天守の復元工事も受け持っており、名古屋城の金鯱と対になるように銀鯱としたそうで、金閣寺、銀閣寺に倣ったとのことです。
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天守閣から干飯櫓、南走り長屋を通って、屋外に出てきます。
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若松城を後にして、七日町通りで車を駐車場にいれ、レオ氏郷南蛮館に行きました。建物は明治時代に建てられた蔵を改造したもので、1階は民芸品を扱うお店で2階が氏郷関係の資料館になっています。レオとはキリスト教に改宗した氏郷の洗礼名で、資料館には氏郷が秀吉から貰った記念の品や、氏郷がキリシタンであったことを物語るマリア像などが展示されています。また復元された天主の間には、色鮮やかな「泰西王侯騎馬屏風図」や呂宋(ルソン)の茶壺が飾られています。
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aidutrip_06.jpg次に「野口英世青春通り」に向かいました。野口英世が書生時代に行き交った通りです。流石に暑くなってきました。レトロな感じの喫茶店があったので、休憩を取りました。注文したアイスコーヒーも美味しかったです。

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隣は、重厚な蔵造りの福西本店で、会津の種々な名品を販売しています。
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さらに、隣の建物脇のガス灯風の街灯も良い感じです。
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次に、大通りの神明通りを横切って、蒲生氏郷の墓所を訪れました。蒲生氏は藤原秀郷の流れをくむ名門でしたが、仕えていた近江の六角氏が信長に滅ぼされ、父の賢秀(かたひで)が信長に臣従するとき、人質として差し出されました。ところが、信長は氏郷の才を見抜いて、娘の冬姫と結婚させ、信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀(たださぶろうますひで)と名乗り織田氏の一門として手厚く遇せられました。その後幾多の変遷を経て秀吉時代に会津の地に92万石の大領を与えられましたが、これは秀吉が氏郷の才を恐れ、大領でも都から遠ざけて天下取りに関われないようにとの意図があったと言われています。秀吉の意図を知る氏郷は、涙を流して悔しがったと伝えられています。
40歳で急死し、毒殺説もありましたが現在では、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の残したカルテなどから肝臓癌、もしくは膵臓癌であったと推察されています。また、辞世の歌は、まだまだ働けるのにとの思いを込めた悔いを残こした辞世となっています。辞世の「限りあれば 吹かねど 花は散るものを 心みじかき春の山風」は、花の命は限りがあり、風など吹かなくても自然に散ってしまうのに、春の山風は何と気が短いものよ、とでも訳せばよいのでしょうか。
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また、墓石は空風火水地の五文字を刻した五輪塔です。
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氏郷の墓所を訪れた後は、車で飯盛山に向かいます。かなり長い階段の上りが待ち構えています。女性陣は250円払ってのエスカレーターに対して男性陣は、意地で自分の足で上ります。
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階段を上り詰めると広場になっており、左のほうには白虎隊以外の少年武士慰霊碑と墓石が立っていて、松平容保候の弔歌碑がありました。「幾人の涙は石にそそぐとも、その名は世々に朽じとぞ思う」と刻まれています。
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広場の右の方には、ポンペイの廃墟から掘り出した古代宮殿の柱で作ったという、ローマ市寄贈の碑が建っていて、イタリア語で「文明の母たるローマは白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」と書かれているとのことです。
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さらに、白虎隊士自刃の地の矢印表示に従い右の小道を進むと、白虎隊士でただ一人の生き残りの飯沼貞吉の墓所があります。15歳で年齢を16と偽って白虎隊に参加しましたが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及びましたが、死に切れず命を救われました。維新後は貞雄と改名して逓信省の通信技師として各地に勤務し、日本の電信・電話の普及に貢献し、日清戦争にも従軍しました。1931年(昭和6年)2月12日、77歳で生涯を終えましたが、白虎隊のことは一部の史家にしか話さなかったとのことです。
さらに進んで階段を下りると白虎隊の自刃の地で、自刃の址の碑、隊士の石の像、慰霊碑が建っています。確かに鶴ヶ城が見通せる場所です。そして、燃えている武家屋敷を鶴ヶ城が燃えていると見誤って、自刃を遂げたのです。隊士は16、17歳が中心で、まったく痛ましい出来事です。
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写真中央付近に木立に囲まれた覆いの掛けられた天守閣が見えます。
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飯盛山からの帰り道は階段を通らず、広場から下を見下ろした右側に坂道となって続いている方に進んで行きます。下って行くと、宇賀神のお堂があり白虎隊の自刃の様子を描いた額縁が架かっています。ここに描かれている白虎隊士の姿が最も実際の服装に近いものであるといわれているそうです。
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さらに下りると「さざえ堂」と呼ばれる仏堂があります。中は二重螺旋になっていて、同じ通路を通らず、上って下りてこられるとのことです。中が螺旋にになってることから「さざえ堂」と呼ばれるのでしょう。
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成瀬櫻桃子(なるせおうとうし)の「天高し ピサの斜塔と サザエ堂」の句碑が建っていましたが、詠み人の心が、どうも理解できなくてスッキリしません。そして、最後は「厳島神社」です。両側に杉の大木が立っていました。
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直ぐ横の「戸ノ口堰洞穴」からは大量の水が流れ出しています。今から400年前の元和年間に猪苗代湖の水を会津地方に引くため、郷士八田氏が起工し、元禄年間まで工事が続けられ、飯盛山の山腹に150mの穴をうがって2,500ヘクタールの田圃に灌漑することができたとのことです。白虎隊士中2番隊は、戸ノ口原に布陣している味方軍応援のため派遣されましたが、戦いに利あらず、お城の安否を確かめようと帰城の途中隊士20名が通過した洞窟で、水を止めれば上半身を丸めて通れる大きさとのことです。
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飯盛山から下りてきて、昼食を取り猪苗代湖湖畔の「野口英世記念館」に向かいました。
博士の生涯を年代順に分け、遺品や参考資料を展示した展示館と、生家が残されています。
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生家の中には、英世が一歳半のとき、運命の火傷をした囲炉裏や上京するとき決意を刻んだ床柱が当時そのままに保存されています。
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記念館をでると、野口英世も子供時代に何時も眺めた、磐梯山が変わらぬ雄姿を見せていました。
その後、磐越自動車道で郡山JCTに向かい、東北自動車道に乗り換えて帰宅の途に着きました。
一度訪れたいと思っていた、大内宿を初めとして楽しい2日間でした。
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大内宿と会津の旅(1日目)・・・(旅行)

今日は、9月10日です。台風が通り過ぎ、大量の雨で被害をもたらしながらも少しは涼しくなりましたが、まだまだ歩いての旅には暑すぎます。
そのためにと言うことではなく、以前から計画していたのですが、妹夫婦と大内宿と会津に一泊旅行に出かけました。二組の夫婦の車による旅です。
妹夫婦の住居の最寄り駅である、東上線鶴ヶ島駅で10時にピックアップしてもらい、加須(かぞ)インターに向かいますが、こんなの初めてという渋滞で、予定時間を1時間も遅れて東北自動車道に乗りました。それで、みんな空腹を訴え「佐野SA」で早速食事です。その後は、順調に進み「白河インター」で下り、甲子道路に入ります。山の緑が美しい道路です。

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途中に「道の駅下郷」があったので、ちょっと休憩です。日差しは強いですが、さほど暑さは感じません。ここの「ソフトクリーム」は濃厚でとても美味しかったです。

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甲子道路は、県道の121号線に突き当たり、右折して福島県の景勝地の一つである「塔のへつり」に向かいます。河食地形の特異例として国の天然記念物に指定されているところです。「へつり」 とは会津方言で、川に迫った険しい断崖のことです。一帯は種類の異なる岩石が互い違いになっており、その軟岩部が長年の歳月による浸食と風化の作用によって形成されたものとのことで、渡り廊下のような、地形が見られます。

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渓谷には、吊り橋が架かっていて、これで対岸に渡ります。

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吊り橋を渡り、急な階段を上ると無限の智恵と慈悲を持つと言われる「虚空菩薩」のお堂があり、高松宮殿下も参拝されたと書かれた札が貼られていました。

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今回の旅行の主目的の「大内宿」に向かいます。大内宿」は、日光今市から会津若松に通じる旧会津西街道に沿った山間の平地にある宿で江戸時代の宿場の雰囲気を良く残しています。宿場町としては長野県の妻籠宿奈良井宿に次いで、全国で3番目に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
萱葺きの家が、これほど集中して見られるのは、あとは白川郷の合掌造りの郷ぐらいでしょうか。

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写真では、なるべく人が写らないようにして撮影しましたが、かなり大勢訪れています。
宿内では、民芸品や土地の物産を商う家が多く、また蕎麦も有名だそうです。特に箸を用いず、ネギ1本で食べる「ネギ蕎麦」がユニークで人気を呼んでいるようです。食べてみたかったのですが、食事は済ませてしまっていましたので諦めました。
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宿の道路の両側には水路があり、冷たい水が勢い良く流れていて、ビールやジュースを冷やしています。天然の冷蔵庫代わりです。
途中に、「本家扇屋」と書かれた、白い蔵作りの家がありました。茅葺の家ばかりのなかでひときわ目を引きます。民宿を営んでいて人気の宿泊地とのことです。

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宿の中央付近には、高倉神社の鳥居が建っています。参道は真っ直ぐに森に向かっていますが、相当に距離がありそうです。
大内宿には、高倉以仁(もちひと)王(後白河天皇第二皇子)が戦いに敗れ、潜行した村という言い伝えがあり、高倉神社はこの悲劇の王を祭った神社で毎年7月2日には半夏祭と呼ばれる祭りが行われるとのことです。
道の反対側には「大内宿町並み展示館」がありますが、これは本陣の資料を調査して復元した建物と、説明板に記されていました。

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宿を進んでの突き当たりは「浅沼食堂」で、ここで街道は右に続いています。

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浅沼食堂の左脇には急な階段があり、上ると子安観音があります。ここからは、宿全体が鳥瞰図として眺められます。

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宿から駐車場に戻る途中の田圃には、蕎麦の花が一面に咲いていました。
ここから、車で15分ほど走り、今日の宿泊地の「芦ノ牧温泉」に向かいました。

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2010.08.27

清里高原バス旅行・・・(旅行)

昨日(木)、日帰りのバス旅行で清里高原に行ってきました。
旅行の前日(水)の夜の8時には、私は行くことになっているとは思っていませんでした。
家内が近所の仲の良い奥さんと行くのだろうと思っていて、明日○○さんと清里に行くのは朝が早いのだろうと話しかけたら、家内があなたと二人で行くのよと言います。
えー、俺も行くのかと私。まぁー、日帰りだし、準備はバッグにタオル地の汗拭きハンカチとカメラを入れるぐらいです。
そんな事情で、主に「ユリとヒマワリ」の花を見るバス旅行に出かけました。
バスは朝の7時50分に横浜の天理ビルの前から出発です。朝食用に横浜地下街の売店でおにぎりなどを買い、天理ビル前への階段を上ってゆくと、人が集まっています。色々なコースのバスが出ます。旅行会社の添乗員が、何人も立っていて、それぞれのコースに分かれてバッチを配り、乗るバスを告げています。
いよいよ出発です。今回のバス旅行では、バスガイドは居ませんが、美人添乗員がいます。

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横浜を出発して、調布インターで中央高速に乗るまで渋滞で手間取りながらも、その後は快適に走ります。小仏峠トンネル、相模湖、上野原と、昨年歩いた甲州街道が頭をよぎります。そして、街道歩きで立ち寄った「談合坂パーキングエリア」が1回目のトイレ休憩でした。パーキングエリアも背面の入り口から入って昼食を取った時と違って見えます。 また、サービスエリアと高速道路を挟んだ反対側の崖下には、いまだに江戸期の雰囲気が漂う野田尻宿がひっそりと佇んでいるのを知る人はほとんどいないことでしょう。
休憩の後は、笹子トンネルを抜けて「小淵沢インター」まで一気に走り、八ケ岳高原ラインを進んで「八ヶ岳チーズケーキ工房」に着きました。入り口で楊枝に刺した小さな試食のチーズケーキをもらい売り場に入って行きトイレで用を足します。

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チーズケーキ工房を後にして、ハイランドパークに向かい、ここで昼食のバイキングです。ここは、冬はスキー場なのでリフトが二本あり、一つはパノラマリフトと呼ばれていて、10分で一気に1900mまで上ります。 天気の良い日は南アルプスから富士山まで一望できるらしいのですが、今日は晴れてはいても雲が多く見ることはできません。 もう一つはフラワーリフトと呼んでいて、片道5分ですが、ユリの花やその他の花々を見ることができます。我々は、フラワーリフトを選んで、ユリの花を撮影してきました。

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最初は、ユリの花など咲いていないではないかと思っていたら、中ごろを過ぎると足下に色とりどりのユリが見えてきました。

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リフトから撮影した動画もどうぞ!!

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暑い日が続いていても確実に季節は巡っていて、駐車場脇にはコスモスの花が風に揺れていました。
2時間ほどハイランドパークで過ごし、次の目的地の「明野のヒマワリ」を見に行きます。日帰り温泉施設もあり、美しく整地されています。

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この辺りは、日本で一番日照時間が多いところといわれ、広いヒマワリ畑があり、映画の場面にもたびたび使われたとのことですが、私は、ソフィアローレンのヒマワリが頭に浮かびました。
残念ながら、ヒマワリは既に盛りを過ぎて、メインの畑はもう花びらを落としていましたが、幾つかのサブの畑はまだ鑑賞することができる状態でした。

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到着して撮られた集合写真を直ちにプリントアウトして、商魂たくましく駐車しているバスのところまで、おじさんが来ています。デジカメで撮ってプリンターで打ち出すので直ぐにできて、直ちに売れるのですね。添乗員さんが、困っているように見えます。

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バス旅行の常として次々と新しいところを求めて駆けまわります。
次は、枝豆の収穫体験です。400gぐらい入るとの小さなビニール袋を貰って、皆で畑で枝豆を摘みます。子供たちには楽しい体験です。

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日もだいぶ傾いてきました。韮崎のインターで中央高速に乗り勝沼まで走って、トイレ休憩を兼ねてワイナリーの「シャトー勝沼」に寄ります。ワインは試飲させてくれますが、皆さん些か疲れ気味です。

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ワイナリーで終わりかと思っていたら、もう一箇所「昇谷」という名のキムチの直売所に寄りました。口上のうまさに思わずキムチを買ってしまいました。

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とっぷりと、日が暮れました。八王子の石川サービスエリアです。あとは新横浜を通って横浜です。
安い料金で一日たっぷり楽しませてくれました。

2009.11.10

袋田の滝、竜神大吊橋、花貫渓谷・・・(旅行)

2009年11月10日、紅葉の袋田の滝、竜神大吊橋、花貫渓谷の3箇所へバス旅行に行ってきました。早朝は曇りでしたが、お昼前には日も差し、暖かく良い天気に恵まれました。
まず最初は「袋田の滝」です。那智の滝、華厳の滝と合わせて日本三大瀑布の一つです。春、夏、秋、冬の四季毎に違った顔を見せ、4回訪れなければ、滝の全てが分からないと言われるところから、四度の滝とも呼ばれるとのこと。
四段に落ちる滝の景観は、なるほど素晴らしいもので、西行法師を始めてとして何人かの歌が残っているのもうなずけます。
以下に何枚かの画像を掲載しますが、より詳しくはアルバムのページをご覧ください。
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周りの山々の紅葉も素晴らしいものです。
花もみち(ぢ)経緯(よこたて)にして山姫の錦織出す袋田の滝」 西行
いつの世に つつみこめむ袋田の 布引出すしら糸の滝」 徳川光圀

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次に訪れたのは、竜神大吊橋です。竜神ダムを横切るように掛かっています。
橋長:  375m
幅員:    3m
湖面からの高さ: 100m
ここも、大吊橋をおっかなびっくり渡りながら眺める、ダム湖周辺の紅葉が素晴らしいです。大吊橋には3箇所ほど橋の中央にガラス窓が造られており、こわごわ覗き込んだり、そっと足を乗せたりします。
大勢の人が通るので、橋は常に揺れています。しかし、大きくしっかりした吊橋なので、振動周波数が低く写真撮影は、後に記述した花貫の吊橋のような手振れ状態にはならずに済みました。

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最後は、花貫渓谷です。小さな渓谷に小さな吊橋が掛かっているだけですが、一面に「もみじの紅葉」です。 しかし、吊橋の上が一番の撮影ポイントなのですが、大勢の人が通るので橋が揺れ、ブレ写真を大量生産することになってしまいました。3時を過ぎて日が翳っていたのも条件が悪かったのですね。無理にでもISO感度を上げて撮影すべきでした。

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2009.04.26

イタリア旅行(6日目:4/26)・・・(旅行)

今日は、イタリア旅行最後の日です。帰国の飛行機は午後発なので午前中は自由時間です。
それで、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の真実の口を見に行くことにしました。地下鉄をチルコ・マッシモ駅で降りて、パラティーノの丘の遺跡群を見ながら進みます。
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遠くに、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂が見えます。アヴェンティーノの丘からは、サン・マルコ寺院も見えます。
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ベンハーの戦車レースが頭に浮かぶチルコ・マッシモです。ここを通り抜けて進みます。
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サンタ・マリア・イン・コスメディン教会に到着しました。この教会の側壁の奥に「真実の口」があります。元々は下水溝のマンホールの蓋で、海神トリトーネの顔が刻まれています。ここもローマの休日で有名になりました。以前訪れたときは、自由に立ち寄れたのですが、今は柵が設けられ、行列に並ばなければなりませんでした。
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コスメディン教会の中に入ると、ビザンチン風の聖母子のイコンが飾られていました。右の写真は、コスメディン教会前の広場に建つ釜戸の神様ヴェスタの神殿です。ローマ時代の多神教時代の神で、当時は一家の守護神として家ごとに祀られていたとのこと。
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円形劇場上に建つ貴族の館
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ローマ市庁舎のセナトリア宮に行きました。ここにもローマ起原のロムルス、レムスの像がありました。
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フォロ・ローマノとセヴェルス帝の凱旋門です。古い遺跡が多数残っています。
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フォロ・ディ・チェーザレ(カエザルのフォロ)と最後に、ユリウス・カエザルの像を見て、コロッセオ駅に出て、テルミニ駅に戻りました。なお、カエザル像の後ろに見えるのは、サンタ・ルーカ・エ・マルティーナ教会です。
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Italia_95.jpgフィウミチーノ空港からアリタリア航空で帰ります。

2009.04.25

イタリア旅行(5日目:4/25)・・・(旅行)

イタリア旅行も5日目になりました。今日と明日はローマ観光です。
最初にヴァチカン市国を訪れ、サン・ピエトロ大聖堂の見学です。左の写真は、ヴァチカン市国の入り口の門で、右は、サン・ピエトロ寺院のドームです。
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ドーム(クーポラ)には、エレベーターがあり、上ることができます。右の写真は、システナ礼拝堂への廊下ですが、随所にフレスコ画が描かれています。
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廊下を進むと、ミケランジェロ作の有名な嘆きのピエタがありました。キリストの下に敷かれた布の質感が本物の布のようです。マリヤ様が若すぎるとの意見もあるそうですが、名作であることは疑う余地がありません。
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サン・ピエトロ寺院の内部の様子と、ペテロの像(右の写真)です。ペテロの像は、多くの人が足を撫でるので磨り減ってしまっています。
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左の写真は、法王がミサを行う祭壇です。右は聖人と天使の像ですが、一番右側の天使はイギリスを踏みつけています。英国国教会を立てた英国への恨みの凄さが伺われます。
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左の写真は、スイス人の法王の衛兵です。スイス人の衛兵は、1505年6月、当時の教皇ユリオ2世は、傭兵として各地の戦争で活躍し、精強な兵としてヨーロッパ中に知られていたスイス人兵士200人を当時は教皇領だったローマに連れてきて、バチカンを守らせることにしたのに始まります。その後幾多の変遷を経て現在に続いています。右の写真は、サン・ピエトロ寺院前の広場の様子です。
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サン・ピエトロ広場を後にして、コロッセオに向かいます。途中、バスの窓からパラティーノの丘の遺跡群が見えました。
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コロッセオの前には、コンスタンティヌス帝の凱旋門があります。
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そして、あまりにも有名なコロッセオ。
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コロッセオからトレビの泉に向かいましたが、途中、車窓から水道橋の遺跡が見えました。
そして、これもあまりにも有名なトレヴィの泉です。ポーリ宮殿(Palazzo Poli)の壁と一体となったデザインで、中央に水を司るネプトゥーヌス(ポセイドーン)が立ち、左に豊饒の女神ケレース(デーメーテール)、右に健康の女神サルース(ヒュギエイア)が配置されています。
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次は、スペイン広場に向かいました。オードリー・ヘップバーンのローマの休日で一躍有名になったところです。スペイン広場の階段の下には、舟の噴水(バルカッチャの噴水)があります。
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スペイン広場を見て後は、ホテルに戻り自由時間になりました。まだ午後4時で夕食には時間があるので、テルミニ駅の方に散策に出かけましたが、近くにサンタ・マリア・マッジョーレ教会が有りました。写真は、教会の後方から見たところです。そして、右の写真はテルミニ駅全景です。
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テルミニ駅構内とユーロエクスプレスの列車です。
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2009.04.24

イタリア旅行(4日目:4/24)・・・(旅行)

4日目は、フィレンツェ観光です。ホテルを出て、まずミケランジェロ広場に行きました。ここに有名なダビデ像があるのですが、この像はレプリカで本物はアカデミア美術館にあります。また、この広場は小高い丘の上なので、フィレンツェの市街がよく見えます。特に、Duomoとヴェッキオ宮殿の尖塔が目をひきます。
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フィレンツェの市街を眺めた後は、市街に戻りますが、端正な姿のサンタ・クローチェ聖堂がありました。この聖堂には、ミケランジェロ、ガリレオ、マキャヴェッリ、ジョヴァンニ・ジェンティーレ、ロッシーニといった有名なイタリア人たちの埋葬されています。
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次に訪れたのはウフィッツィ美術館ですが、内部は撮影禁止なので、僅かに渡り廊下から撮ったヴェッキオ橋のみです。しかし、この美術館は、イタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大のもので、1982年に世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として認定されています。ともかく、美術の教科書でしか見たことのない、ボッティチェッリ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロらのイタリアルネサンスの巨匠の絵画が生で見られて感激でした。
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次に訪れたのは、ヴェッキオ宮殿である。1299年から1314年にかけてフィレンツェ共和国の政庁舎として建築され、一時、メディチ家もピッティ宮殿へ移るまでここを住居としていました。1550年から1565年の間に、部分的に改築された。現在でも、フィレンツェ市庁舎として使われています。
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ヴェッキオ宮殿の前の広場は、シニョリーア広場と呼ばれ、ネプチューンの噴水(左)、ダヴィデ像等があります。
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次は、単にDuomoと呼ばれているサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂です。外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾されて威容を誇っています。建設が開始は、1296年で、1461年に完成しましたが何と160年ほど要しています。
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左のは、大聖堂付属のジオットの鐘楼です。右の上側の写真は、やはり大聖堂と向かい合わせのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の東側の扉(1452年完成)で、ミケランジェロが「天国への門」と呼んで賞賛したものです。現在設置されている扉はレプリカで、本物はドゥオーモ付属博物館に所蔵されています。
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市街の道路から見た大聖堂。
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2009.04.23

イタリア旅行(3日目:4/23)・・・(旅行)

3日目になりました。ヴェネツィアに向かって出発ですが、泊まったのがヴェネツィア郊外なので、直ぐに着きました。そして、名物のゴンドラで運河を進みます。途中で、出勤途上と思われるサラリーマンが10人ほど乗ったエンジン付きボートにも遭遇しましたが、我々には珍しい光景でした。
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大きな運河から狭い運河に入っていきます。ヴェネチアらしい狭い水路で、洗濯物が干されていたりします。そして、食事をして、高い鐘楼の目立つサンマルコ広場に着きました。
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サンマルコ広場に面して、1720年創業のカフェ・フローリアンがあります。世界で初めてのカフェで、バイロン、ゲーテ、英国女王エリザベス2世をはじめ多くの著名人が訪れました。右の写真は、ヴェネチアの入口に立つ2つの塔で、この間で処刑等も行われたとのこと。
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左の写真は修復中のドゥカーレ宮殿(写真左手)の尋問室と古い牢獄を結ぶ、大理石造りの「溜息の橋」です。この橋からの眺めは囚人が投獄される前に見るヴェネツィアの最後の景色であったので、19世紀にジョージ・バイロンが「溜息の橋」と名づけたとのこと。右は、サンマルコ広場から見たドゥカーレ宮殿です。
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左は、サン・マルコ大聖堂の正面入口です。流石に重厚な作りです。右は鐘楼で、98.6mの高さがあります。1514年に現在の形で完成していますが、1902年に崩壊したため現在サン・マルコ広場に建っているのは1912年に再建されたもの。
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運河に架かる橋は、下をゴンドラが通るため太鼓橋様になっているのが多いですが、橋から運河に浮かぶゴンドラを眺めるのも正にヴェネツィアの感じです。右は、サン・モイゼ教会です。
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左は、バルトロメオ教会。帰りはボートで海に出て、サンマルコ広場の鐘楼を眺め、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会を見ながら、バスのま待つ駐車場に戻ります。
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2009.04.22

イタリア旅行(1,2日目:4/21,22)・・・(旅行)

家内とイタリア旅行に出かけました。私は、仕事で何度も訪れているイタリアですが、家内は初めてです。

一日目は、成田を出発して夕方にミラノのMalpensa空港に着いて、ホテルに直行して一泊です。
ミラノの町並みが飛行機の窓から見えてくると、すぐに到着で、入国手続きを済ませてバスでホテルに向かいました。
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一夜明けて、出発して最初にスフォルツェスコ城を訪れました。
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興味のないギフトショップを付き合わされて、その後Vittorio Emanuele II Galleriaに向かいました。まず、レオナルド・ダヴィンチと4人の弟子の像の見学です。
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Italia_08.jpgさて、ミラノと言えば、Vittorio Emanuele II Galleria(ビットリオ・エマニュエル二世通り)です。
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その後、Vittorio Emanuele II像を見て、汚れを落とし白く輝くDuomoです。Duomoは中に入って見学したのですが、撮影禁止で写真はありません。以前一人できた時は、エレベーターで屋上にも上ったのですが。
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ミラノを離れてヴェローナに向かいました。左の写真はガーヴィ門で、紀元前1世紀建立され1932年にここに移設されたとのこと。右の写真は、古い街の土台で先史時代に遡る古い街のため、何度か古い都市の上に新しい街が築かれたことが解る。
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ヴェローナの古城。ヴェローナには、多くの古城が残っている。
Italia_13.jpgヴェローナ:ロミオとジュリエットで有名なキャブロット家への通路の壁の落書きここだけは、落書き自由で恋人の名前を書いたりします。右は、「ロミオさま、何故あなたはロミオなの」との有名なセリフをジュリエットが語ったバルコニーです。
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ヴェローナを支配していたスカラ家の墓廟です。
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ダンテの像。ベネチアを追われ、放浪の後ヴェローナで亡命生活を送りました。
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左は、ランベルティの塔で12世紀に作られ、その後何度か修復されています。今でも、ヴェローナで一番高い塔です。右の上の写真は、街角に立つ女神像だが、ミネルバの像か?
右の下の写真は、エルベ広場:晒し台です。罪人に首枷をつけて晒したのです。エルベとは野菜の意味とのことですが、この広場では野菜のみならずテント張りの店で色々なものを売っています。
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観光客を目当てにお金を稼ぐパフォーマンスです。写真を撮るとお金を要求します。私は遠くからズームで撮影してお金を払いませんでした。右は、ローマ時代に作られたアレーナ(円形闘技場)です。今ではオペラが上演されています。
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ローマの起源で有名なロムルス、レムス像です。
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2007.08.16

小旅行(高野山と西行法師)・・・(旅行)

今年の夏は特別に暑いですね。
お盆に帰省して、少しは涼しいのではと8月13日に高野山に上った。
和歌山線で橋本駅に行き、そこで南海高野線で「極楽橋駅」、ケーブルカーに乗り換えて高野山駅に着いた。その後バスで千住院前まで行き奥の院に向かって歩いた。
下の写真は円空が子供の石童丸と親子の名乗りをすることなく修行に励んだという「刈萱堂(かるかやどう)」である。
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簡単に物語を紹介すると、筑前の刈萱荘博多領主の加藤左衛門繁氏(かとう さえもん しげうじ)は、妻の桂子と側室の千里の間の激しい憎しみを知り、出家して円空と名乗り高野山に入って蓮華谷に質素な萱(かや)の屋根の庵(いおり)を結んで一心に修行にはげみ、周囲からは刈萱道心(かるかやどうしん)と呼ばれるようになる。刈萱道心の名前を聞いた千里の一子 石童丸は刈萱荘博多を連想させる名前から父に違いないと、14歳になったとき、母とともに高野山に来るが、高野山は女人禁制であるため、山麓の学問路(かむろ)に母を残して、高野山に入る。途中のお堂で夜を過ごした石童丸は出会った僧に刈萱道心の居所を尋ねるが、その僧こそ刈萱道心であった。僧は石童丸の話しを聞いて驚いたが、修行中の身でもあるため、父であることを名乗ることをせず、刈萱道心は亡くなったと話す。悲しみにくれる石童丸はしかたなく母の待つ学問路(かむろ)に帰ってゆくが、たどり着くと旅の疲れが影響したか急な発熱で母も亡くなっていた。一人ぼっちになってしまった石童丸は、先に会った僧に再び会いに高野山に上り、弟子となって30年間、親子の名乗りをすることもなく刈萱堂で修行に励んだと伝えられる。
一の橋を渡って奥の院への1.7Kmの参道を進む。参道は杉の大木の道になっており、多くの大名の墓所の表示が見られる。伊達家、加賀百万石前田家、豊臣秀吉、薩摩、備前、などなど・・・・

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奥の院は撮影禁止で写真を撮ることは出来なかったが、流石に真言宗の大本山の貫禄で賑わいを見せていた。本堂の裏には、弘法大師廟もあり、また石田光成建立の念仏堂も建っていた。
さて、再び歩き始めの出発地の千住院前に戻り、さらに昔の女人禁制時代には、女性がお祈りを捧げた女人堂まで歩いてみた。明治の始めまで女人禁制であった高野山は高野七口と言われる7ケ所に女人堂が建っていたが、今はこの不動口にある女人堂だけが残っている。
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女人堂からケーブルカーに乗らず、南海高野線の極楽橋駅まで行ける歩道があるので、歩いてみた。
歩き始めて少し行ったところに、古いお堂が建っていたが、これが父を尋ねる石童丸が一夜を過ごしたお堂かも知れない。ともかく、歩く人のみが見ることが出来るお堂であり、ほとんどの人は知らないと思われる。事実40分ほどの下りで誰にも出くわすことは無かった。とても急な下り坂で下るのも大変で、上りは相当に骨が折れると思われた。
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8月15日は、我が家に帰宅する日であったが、出発前にJR和歌山線の打田駅近くの「西行法師の銅像」を見に行った。打田町教育委員会の建てた説明板によれば、西行法師(1118?90)は俗名を佐藤義清(さとうよしきよ)と言い、田中荘・池田荘(現在の打田町)の領主で竹房に居を構えていた。18歳で都に上り左衛門尉(さえもんのじょう)に任官、北面の武士となり鳥羽上皇に仕えていたが、23歳で出家し、出家後は仏道修行より歌道が主で諸国行脚に日を送り、歌人として有名になり尊崇を受けたとあった。
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晩年(69歳)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うために陸奥に下った旅は有名で、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。このときの歌は、旧東海道の旅の藤枝から掛川(2)に記したが、「年たけて また越ゆべしとおもいきや 命なりけり 小夜の中山」がある。なお、奥州の藤原氏と西行は同族でともに平将門を成敗した「藤原氏郷」の子孫である。
73歳で没したが、「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」の歌の通り1190年2月16日であった。
ここで見た西行像の台坐には百人一首にある「嘆けとて 月やはものを思わする かこち顔なる わが涙かな」が刻まれていた。百人一首は定家の選だが、他の歌とのバランスを考慮しての選出であり、あえて一首取り出すなら、三夕(さんせき)の歌で有名な
「心なき 身にもあわれは 知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」の方が、好ましいと小生には思えるのだが・・・ 茅ヶ崎から小田原(2)参照。
ところで、教育委員会の説明には打田町(正確には和歌山県那賀郡打田町)とあるが、平成の大合併で昨年末に打田町は近隣の町村と合併して「紀の川市」になっている。したがって、西行法師が居を構えていたのは「紀の川市竹房」となる。

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