« Previous | Next » (Home)     [カテゴリー:旅行 ]

2010.11.11

トルコとエジプトの旅(8日目:11/5)・・・(旅行)

今日は、午前中にピラミッド、スフィンクスなどを見学し、午後はオプショナルツアーか自由行動で夜にはナイル川ディナークルーズです。
6時のモーニングコールの少し前に目を覚ましました。今日はこのホテルでもう一泊するので、荷物の整理をする必要がないので、余裕を感じます。昨日、直ぐに寝てしまったのでシャワーを浴びて、窓の外を眺めるとプールはハッキリ見えましたが、少し向こうのビルは霧に霞んでいました。乾燥しているカイロで霧は予想外ですが、後で聞くと、良くあることのようです。昼と夜の温度差が大きいせいでしょうね。
ホテル内に銀行の出張オフィスがあるのですが、昨日の夜は遅くて閉まっていたので手持ちドルをエジプトポンドに両替に行きました。ロビーはまだ、人はいません。
turkey_220.jpgturkey_221.jpg
7時40分にバスで出発し、ピラミッドに向かいます。
turkey_222.jpgturkey_223.jpg
8時にクフ王のピラミッドの入場券売り場に着き、現地ガイドが入場券を買いに行っているのを待っています。ようやく、入場券が配られ入って行きますが、ピラミッドは霧で霞んでいます。
turkey_224.jpgturkey_225.jpg
クフ王のピラミッドに近づくと、大きくてカメラを向けても全体は入りません。高さ146m、一辺の長さは233mのピラミッドです。正規な出入り口は、ピラミッド完成時に硬く閉じられているので、少し下に盗掘者(冒険家?)が開けた穴から入ります。
なお、下部の石一つの大きさは、高さ約2mで重さ約2.5トン。頂上部にいくと石は40cmほどに小さくなるとのことです。そして、使われている石の総数が約230万個です。
turkey_226.jpgピラミッド内部には、カメラの持ち込みは厳禁なので、添乗員が用意した大きな布袋に入れ、預けてから進んで行きます。厳粛な場所として、撮影を許さないためと解釈していたのですが、後で調べたら、入場者が増えて撮影を許すとより混み合うからのようです。
かなり厳格で、私の後ろに一眼レフを持って並んでいるフランス人がいたので、カメラ持ち込みは禁止ですよと教えてあげたのですが、何とかなるだろう的な雰囲気で入り口まで来ましたが、追い返されていました。長く行列を待って入り口にたどり着いたのに、入れて貰えません。
turkey_227.jpg中は幅が狭く、途中までは高さも低くて相当低く腰を屈めで進みます。その後は大回廊に出て天井は高くなりますが、手すりがないと上れないほど急な上りで、幅は降りてくる人と辛うじてすれ違える程度で、しかも長い距離です。湿度も外よりは高く、入った人は皆汗ビッショリになります。女王の間に入る手前から、また腰を屈めて進みますが、ここまで来ると、最後の力を振り絞って山頂を目指している登山者の気分です。ようやく女王の間と呼ばれる玄室に達すると、30畳ほどの広さで、蓋のない石棺がある他は何もありません。この石棺に入って写真を撮る不届き者がいるそうですが、後でファラオの呪いを受けるに違いありません。
日本に帰ってからも膝の筋肉痛で階段を下りるのに悩まされるピラミッドの内部見学から無事帰還して、預けておいたカメラを受け取り、写真を撮りまくります。それにしても、物売りのうるさいこと。
そして、バスに乗って3つのピラミッドが並んで見える地点に移動です。ここで、また写真を撮りラクダに乗ったりします。
turkey_228.jpgturkey_229.jpg
カフラ王のピラミッド、メンカウラ王のピラミッド前にも行ってみます。だいぶ霧が晴れてきて、写真を撮るのが楽になりました。
turkey_230.jpgturkey_231.jpg
次にスフインクスを見に行きます。スフィンクスは、近づけば見えてきますが、クフ王のピラミッドの入場券にはスフィンクスの入場料も含まれているので、より良く見られる場所に入れます。
turkey_232.jpg
特に、スフィンクスを横から見られる絶好の場所なので、ここでカメラで遠近差を利用して、スフィンクスの頭を撫でたり、キスをしている写真を撮ったりできます。
その様な変わったポーズの写真を撮ってあげようと寄って来る子供も多く、次々にポーズをとらせて写真を撮り、チップを要求して来ます。同じグループで5ドル払った若い女性もいました。とにかく、小学生の年齢でも働いてお金を稼がざるを得ない国なのです。トルコも貧しく大人は懸命に働いていますが、子供が働いている姿はありません。
スフィンクスは、胴が異様に長いのは途中の岩が軟らかく、下手に終えると崩れる恐れがあったためではと考えられているそうですが、お尻の方に進んで見ますと、ちゃんと尻尾が丸まってお尻を包んでいるのが見えます。なかなか芸が細かいですね。なお、スフィンクスの鼻が欠けているのは、自然崩壊が研究者の見方で、ナポレオンの軍隊が射撃の的にしたためでは無いとのことです。
turkey_233.jpgturkey_234.jpg
スフィンクスを見たからではないですが、SPHINXと言う名のパピルスに印刷した絵を売るお店に行きました。最初にパピルス紙の作り方を解説(実演)をしてくれました。パピルスの外側の緑の皮を取り、中の白い部分を薄く剥ぎ、水にさらした後に、篭を編むように立て横に編んで強い圧力を掛けて数日置けば出来上がりとのことです。確かに古代でも簡単に行える方法だったのですね。トルコでは、このパピルスの紙をエジプトはなかなか譲ってくれないので、羊皮紙を生み出し、革をなめす技術を確立して現在に至るまで革製品を得意としています。
家内は、安いものでよいからエジプトではパピルスが欲しいと言っていて、1枚買いました。
turkey_235.jpgturkey_236.jpg
パピルスのお店を出ると、レストランに行って昼食です。
昼食の後は、ホテルに戻り、午後は、メンフィス・サッカーラ・ダハシュールへオプショナルツアーに出かける人達と自由行動を選ぶ人達に分かれます。
自由行動派の中でもカイロ市街に出かける人と、ホテルのプールサイドでのんびりという人に分かれます。家内は、かなり疲労が溜まってきたと、部屋で昼寝を希望です。
大雑把に言うと、若い人たちは市街に出かけて買い物、熟年夫婦はオプショナルツアーが多く、3組6人だけがホテルでのんびりでした。
turkey_237.jpgturkey_238.jpg
夕方になって、自由行動派もオプションツアーの人達もホテルに帰ってきて、揃って夜のナイル川ディナークルーズに出かけます。家内も昼寝のおかげで元気を取り戻しました。
少し時間に余裕があると見えて、途中で香水のお店に寄りました。ここでも達者な日本語で、香水について講釈してくれます。最近は日本女性は、香水を使う人はあまりいないと思うのですが、香水容れのガラス容器は綺麗なので何人かは買っていたようです。しかし、若い女性達は、昼間の自由行動でカイロ市街に出かけ、香水用ガラス容器を買い込んでおり、ここの1個の値段で5個買えたなどささやいているのが聞こえました。
皆が香水のお店で時間を過ごす間、バスの運転手はお店の前に置かれた水パイプをふかしていました。お店がサービスとして誰でも吸えるように置いてあるのでしょうか。私は4年前に禁煙しましたが、そうでなければチョット吸わせて欲しい気持ちになったと思います。
turkey_239.jpgturkey_240.jpg
ナイル川の河畔に着きました。相当に大きな船で2フロアーあり、300人ぐらい乗れそうな感じです。7時30分から乗り込み、8時に出港で、まずディナーです。バイキングスタイルで、高級料理ではありませんが種類も多く、今回の旅行で一番美味しかったです。
turkey_241.jpgturkey_242.jpg
フロアーの周りは、支柱以外は全てガラス張りなので、川岸の光が良く見えます。一通り、食事が終えた頃を見計らって、男性歌手と女性歌手が2人で交互に歌い始めます。男性歌手は60年から70年に掛けてのスタンダードナンバーで、女性はアラブ圏のポピュラーソングのような感じでした。
turkey_243.jpgturkey_244.jpg
2階に後方のデッキにでると、酔いを醒ましている人たちが夜風に吹かれています。流れ行く景色を見ながら心地よい涼しさでした。
そして、席に戻ると、今日のメインイベントのベリーダンスが始まりました。トルコのパムッカレのホテルのバーのダンサーより、歳は取っていますが技量はだいぶ上です。
turkey_245.jpgturkey_246.jpg
客も盛り上がってきます。踊りながら客の席のを回り、それをカメラマンがどんどん撮影しています。後で売りつけるためですが、会場全体が盛り上がってきます。
turkey_247.jpgturkey_248.jpg
終に、客を数人づつ引っ張り出して、一緒に踊ります。ここで、パムッカレでも見事な踊りを見せた我々のグループの女性客の一人が引っ張り出されました。他の客もビックリの上手さです。ここのダンサーよりうまい踊りを披露します。プロのダンサーもちょっと焦ったと思います。恐らく、衣装も調えていたら、プロのダンサーも真っ青でしょう。
後で聞いたら、ベリーダンスを人に教えているとのことでした。
turkey_249.jpgturkey_250.jpg
ベリーダンスのダンサーが引っ込むと、男性の踊り手が大きなスカートのようなものを身につけて現れ、ぐるぐると回り続ける踊りを披露します。タンヌーラダンスと言うのだそうです。
永遠に回り続けるのかと思ったほどでしたが、スカートを2枚とも外し、自分は回らず頭の上スカートを回し始めると、客席を回り始めます。これでまた写真を撮って売りつける機会が生まれるのでした。
turkey_251.jpgturkey_252.jpg
    タンヌーラの踊り!!    

次に2人の男性の棒を使った踊りだと思っていたら、ベリーダンスのダンサーの女性が衣装を変えて加わり3人の踊りになりました。
turkey_253.jpgturkey_254.jpg
しかし、だんだん踊りが激しくなり、客もどんどん呼び込まれてベリーダンサーを囲んで、全員興奮状態で踊り狂うことになりました。客をのせるのも上手いのですね。
turkey_255.jpgturkey_256.jpg
そして、皆大いに満足して帰路に着いたのですが、帰りのバスで、エジプト人の現地ガイドが、今日はビックリしましたと話し始めました。ベリーダンスでプロのダンサーより上手い人がお客さんの中にいたのですから、と言っていました。

2010.11.10

トルコとエジプトの旅(7日目:11/4)・・・(旅行)

七日目です。今日は、カイセリの空港から空路でイスタンブールに戻り、ボスポラス海峡のクルーズの後、エジプトのカイロに移動し、宿泊です。
モーニングコールの直前に目を覚まし、ホテルの4階まで上り、周りの写真を撮りました。
周りも岩山で、他にも洞窟ホテルがありますが、規模はここの33室より、小さいようです。
気温は、誰かが温度計を見て、2℃と言っていました。相当に寒いです。
しばらく外にいると、寒くなってくるので、レストランに入り朝食です。レストラン内は暖かく快適です。
turkey_185.jpgturkey_186.jpg
turkey_187.jpgturkey_188.jpg
7時30分にバスでカイセリ空港に向かいます。1時間ほどで空港に着きました。
エジプトもそうですが、トルコもまず、空港ビルに入るのにセキュリティーチェックです。上着、ベルト、時計を外し、エックス線検査トンネルを通します。もちろん、手荷物もスーツケースもベルトコンベアーに載せるのですが、ベルトコンベアーの位置が腰の位置の高さなので、重いスーツケースは持ち上げるのが大変です。女性では、持ち上げられない人もいるのではと思っていたら、添乗員(女性だが強そう)が機械の横に立ち、手伝っていました。
turkey_189.jpg
国外に出るのでは無いので、航空券を受け取りトルコ航空カウンターでチェックインします。これで終わりと思いきや、搭乗ゲートでもう一度セキュリティーチェックです。スーツケースは既にチェックインで預け済みですが、ベルト、時計を外して手荷物とともにベルトコンベアに載せます。もちろん、液体は水を含めてその場で廃却です。1時間30分のフライトですが、水平飛行に移ると、飲み物を配って、サンドイッチとヨーグルトが出ました。思ったよりも美味しかったです。
イスタンブールの空港では、外国からの入国でないので、ターンテーブルでスーツケスをピックアップすれば終わりで、後はポーターが台車で運んでバスに積み込みます。バスは直ぐに出発して、旧市街への途中のレストランで昼食となります。昼食の後、再びバスに乗りブルーモスクとアヤソフィアの間あたりで2手に分かれます。すなわち午後自由行動を希望するグループは、ここでバスを降ります。ボスポラス海峡クルーズのオプショナルツアーに参加するグループは、まずグランドバザール入り口まで行き、ここで解散して1時間ほど自由に歩き回り、その後クルーズの船の発着港にバスで向かいます。
turkey_190.jpgturkey_191.jpg

turkey_192.jpgturkey_193.jpg
グランドバザールで買い物するのは、お勧めしないとの現地ガイドの忠告に従った訳ではないですが、特に欲しいものもなく1時間を過ごして、バスで港に向かいます。
300人は乗れそうな船で、わずかに19人の客を乗せての出港でした。
turkey_194.jpgturkey_195.jpg
金角湾のガラタ橋の近くが船着場なので、イェニ・ジャーミィが良く見えます。
出港して直ぐにガラタ橋を潜り、ボスポラス海峡の方に進みます。
turkey_196.jpgturkey_197.jpg
112,000トンの豪華クルーズ船のCOSTA SERENAが泊停泊していました。
船はヨーロッパ側に近い方を黒海の方に進んで行きます。
turkey_198.jpgturkey_199.jpg
ドルマバフチェ宮殿が見えてきました。オスマン朝スルタンの最後の居城として、また初代大統領のアタチュルクも官邸として使用したところです。
岸と反対側を見ると、鈴なりに人が乗った船が進んで行きます。明らかに大きいこちら船は19人なのです。何故19人で出港したのだろう。
turkey_200.jpgturkey_201.jpg
オルタキョイ・ジャーミィと第1ボスポラス大橋に近づきました。
turkey_202.jpgturkey_203.jpg
ボスポラス海峡クルーズの動画もどうぞ!!

石川島播磨重工が建設した、第二ボスポラス大橋とルメリ・ヒサルが見えてきました。ここで船はUターンです。今度はアジア側に近い航路を辿ります。アジヤ側にある別荘が見えます。
turkey_204.jpgturkey_205.jpg
修復中の建物?が見えます。そしてアジア側唯一のスルタンの宮殿のベイルベイ宮殿でしょうか。
turkey_206.jpgturkey_207.jpg
それにしても閑散とした船内です。ボスポラス海峡入り口の乙女の塔が見えてきました。
乙女の塔には刑務所や灯台として使用され、多くの伝説があるとのことです。
その一つに、皇帝が娘が蛇にかまれる夢を見てこの塔に避難させた。ところが、寂しい思いをさせている娘に贈った果物の折り詰めの中に蛇が潜んでいて悲劇を招いた。この伝説から乙女の塔と名づけられたという。
turkey_208.jpgturkey_209.jpg

turkey_210.jpg1時間10分のボスポラス海峡クルズを終え、午後4時20分に帰ってきました。
これから、バスでブルーモスク前に行き、自由行動グループと合流して、アタチュルク空港に着きエジプトに向かいます。
アタチュルク空港で荷物のセキュリティーチェックをして空港ビルに入ります。ここで、抜き打ちで10人に1人の割合でスーツケースを開けて調べられます。
我々も29人の旅なので、3人の方が調べられました。じろじろ見るのは悪いので、それとなく見ていると、スーツケースの底のほうまで、丁寧に調べています。当たる、当たらないは全くの偶然なので、当たらなかった人は、当たった人に感謝する必要がありますね。
そして、エジプト航空のカウンターでチェックインしてスーツケースを預け、出国審査です。その後、搭乗ゲートで再度のセキュリティーチェックを受けて飛行機に乗り込みます。このとき、エジプトへの入国カードが付いている小冊子をくれました。このカードを記入してエジプトの入国審査で出せと言う事です。
2時間のフライトでカイロに着き、日本から着いたときと同じ手続きを踏んで入国して、バスでGrand Pyramid Hotelに向かいます。1時間ほどでホテルに着き、ここでも空港と同じセキュリティーゲートです。日本人はブザーが鳴ってもフリーパスです。ホテルに入った後は、シャワーも浴びずに寝てしまいました。

トルコとエジプトの旅(6日目:11/3)・・・(旅行)

六日目です。今日は、途中昼食を挟んでキャラバンサライと絨毯のお店に寄り、カッパドキアまで215Km走り見学して宿泊です。
モーニングコールは6時でした。6時15分に泊まっている8階の部屋からガラス窓越しに外を眺め、まだ明けきらないコンヤの市街方面を撮影しました。市街の中心辺りは、まだ薄い霞に沈んでいます。一方、カメラを右の方に振ると、真下にはプールがあり、その先には乾いた川、さらに向こうの彼方に山が見えました。
turkey_139.jpgturkey_140.jpg
7時30分にバスで出発です。25階建てのRIXOSホテルが、青い空にそびえています。
turkey_141.jpgturkey_142.jpg
1時間30分でスルタンハンという小さな町にあるキャラバンサライ(隊商宿)に到着です。
隊商は金目のものを運んでいるので、夜に襲われないように、このような丈夫な壁で守られたところに、泊まったのです。希望者は3リラ払って中に入れるが、さほど見るべきものもないというので、外から撮影するに留めました。
turkey_143.jpgturkey_144.jpg
キャラバンサライと道路1つ挟んで反対側に土産屋さんがあり、トイレ休憩にもなります。
turkey_145.jpgturkey_146.jpg
1時間40分ほど走って、Golden Yarn Carpetという絨毯の製造販売のお店に着きます。
中に入ると、数人の若い女性がカーペットを編んでいます。1枚織り上げるのに、3ケ月から長いときは6ケ月もかかるものもあるそうです。
女性客から、私なら1日どころか、1時間で逃げ出すとの声が聞こえてきます。
turkey_147.jpgturkey_148.jpg
次の部屋に進んで、繭をお湯に浸し糸として巻き取るところを見せてもらいます。
かつては、日本でも蚕を飼って繭を取るなどは、広く行われていたのでしょうが、始めて見る作業に興味深げです。繭から出る糸を触ってもみました。
turkey_149.jpgturkey_150.jpg
    繭から糸を紡ぐ    

後は、見事な口上での売り込みです。母娘(おやこ)で参加した旅行客がお父さんには内緒だよと娘に言いながら、かなり高価な絨毯を買っていました。また、玄関マットとして小型のものを買い込む人もいました。
それにしても、ここの絨毯のお店に限らず、トルコ石の店でも革製品の店でも店員は、見事に日本語を話します。添乗員の言うには、日本語に限らず、英語、フランス語、ドイツ語なども流暢にしゃべるそうです。トルコの田舎ではバスで通る観光客相手の商売が生きる手段で、人は、生きるためなら必死に何でも身に付けられるのでしょうと言っていました。
turkey_151.jpgturkey_152.jpg
30分ほど走って、ネビシェヒルという町のEVRANOSという洞窟レストランに着きました。
普通のレストランと違って、テーブルも長椅子も、そのまま岩を彫り残して、作られています。
turkey_153.jpgturkey_154.jpg
食事は、豆のスープが2種類出て、メインは鱒の焼いたものにポテト、ライス、レモンが添えてありました。そして、デザートは見た目には白い豆スープと似たもので、味はプリンのようで甘いものでした。
なお、テーブル上には、醤油が既に置かれていて、ナイフとフォークであることを除けば、焼き魚を食べるのに問題はなく、美味しくいただけました。
turkey_155.jpgturkey_156.jpg

turkey_157.jpgturkey_158.jpg

また、30分ほど走ってカイマクルの地下都市に着きました。カッパドキアには多くの地下都市が存在するそうですが、その中でもここは2番目の規模とのことです。
バスを降りて、土産物屋が並ぶ道を歩いて、入口に向かいます。内部に入ると、いくつもの部屋がアリの巣のように繋がっていて、複雑で迷子になってしまうため、見学コースが決められています。地下都市は1960年代に偶然発見されたそうで、全体の構造はまだ把握されていないが、現時点では、地下8階まであり、数千人が暮らせる広さがあることが分かっているそうです。

turkey_159.jpgturkey_160.jpg

見学できるのは、地下8層の内4層までですが、軟らかい岩で、雨水が浸み込み、ひび割れて崩落の危険性もあるために限定しているとのことです。
とにかく幅が狭く、高さも腰を屈めて歩く必要があるため、大変疲れます。

turkey_161.jpgturkey_162.jpg

中には、ぶどう酒を造るための容器となるように岩を彫った場所もあり、粉を挽く石臼もありました。
キリスト教徒が隠れ住んだ場所ですので、十字架が刻まれ、礼拝のための場所もあります。
一箇所、最下層から地上まで真っ直ぐに貫く穴が明けられていましたが、これで全体の深さが分かります。これは通気坑で、岩を掘ったクズを外に運び出すのにも使われたことでしょう。
turkey_163.jpgturkey_164.jpg
30分で、ウチヒサールの要塞に着きます。左の写真の中央にそびえているのが要塞で、内部は頂上まで上ることが出来、絶景パノラマが眺められるとのことです。岩の表面に開いた多くの穴は鳩の巣で、火山性で痩せた土地のブドウ畑の肥料として鳩の糞を役立てていたのです。
turkey_165.jpgturkey_166.jpg
要塞の周囲には、岩をくりぬいた住居があり、現在もなお使われているとのことです。
turkey_167.jpgturkey_168.jpg

6?7分でギョレメ村が見渡せる展望台に着きました。村全体が大パノラマとして見渡せます。
それにしても、このような奇景の中に現在でも住んでいるのが驚きです。
右の写真の中央遠くに見える山は、海抜3,916mのエルジェス山です。
turkey_169.jpgturkey_170.jpg

turkey_171.jpgturkey_172.jpg
また、10分ほどでパシャバー地区に着きます。ここでは、キノコ状の岩が見られます。
パシャバーとはパシャのブドウ畑という意味で、かつて、偉い人のための、特別のブドウ畑があったとのことです。
turkey_173.jpgturkey_174.jpg
turkey_175.jpgturkey_176.jpg
次は、デヴレント渓谷で、ラクダ岩を見ました。ここも観光スポットです。
turkey_177.jpgturkey_178.jpg
最後は、エセンテペ地区の、三姉妹、親子岩、妖精の煙突などと呼ばれている岩です。
だいぶ日も暮れてきて、土産物店も店じまいを始めていました。
我々も、ホテルに向かいます。15分ほどで洞窟ホテルのAlfina Hotelに着きました。まだ午後5時近くでした。寒くなっていましたが、ディナーにはまだ間があるので、厚着をしてホテルの前の道に出て散策してきました。
turkey_179.jpgturkey_180.jpg
ホテルは、岩肌を掘り込んで作ってあり、電灯の光で美しく浮かび上がっていました。なんだか、メルヘンチックです。
turkey_181.jpgturkey_182.jpg
部屋の造りも洞窟の雰囲気が出ています。最近は洞窟ホテルと言っても、その感じがしないホテルも多いと聞きます。
最後に夕食ですが、葉物の野菜サラダと、色々な野菜と肉を煮込んだものに、ご飯が添えられたもので、温かくとても美味しかったです。日本人の口に合う味付けと言った方が適切かも知れません。また、自由に取って食べられる豆の煮物が大皿に盛られて置かれていました。
turkey_183.jpgturkey_184.jpg

トルコとエジプトの旅(5日目:11/2)・・・(旅行)

五日目です。今日は、午前中にヒエラポリス遺跡と石灰棚を見学し、410km走ってコンヤに着き、メヴラーナ博物館を見学して宿泊です。
Thermal Colossaeは大きなホテルで860人も収容できますが、この地域は建物の高さが制限されているので、長い廊下から横に幾つも張り出すように2階建ての客室が建っています。
相変わらず早く目が覚めるので、6時30分には朝食を食べ終わります。今日も快晴です。ロビーを見渡しても、まだ誰も居ません。
turkey_130.jpgturkey_131.jpg
敷地内を見るとプールがあり、その向こうの室内には温泉プールがあります。
エントランスを写すと、流石に5つ星ホテルの美しさです。
turkey_132.jpgturkey_133.jpg
さて、7時半にバスで出発して、20分ほどでヒエラポリス遺跡と石灰棚の入り口に到着です。
南ビザンツ門を潜って進んで行くと、右側の遠くに円形劇場が望見できます。
ヒエラポリスと石灰棚と言いながら、ヒエラポリスは、円形劇場を望見するくらいで、ほとんどは石灰棚観光に費やされる旅でした。団体旅行ではやむを得ないことでしょう。
turkey_134.jpgturkey_135.jpg
進んで行くと、木の歩道になっていて、温泉が流れ出しています。最近は、温泉の量が減り、流量を制限しているので、これほど多く流しているのは珍しく、運がよいとガイドのケレムさんが言っていました。
turkey_136.jpgturkey_137.jpg
木の歩道が終わって、左に曲がって行くと靴を脱いで素足になれば、石灰棚に入って行けます。靴とソックスはビニール袋に入れて持って入ります。石灰棚表面を薄く流れる部分は、暖かくはないが、溝になっていて勢い良く流れているお湯に足を入れると暖かいです。
turkey_138.jpgturkey_939.jpg
石灰棚表面です。左は痛くないが、右のような形状の場合は素足で歩くと痛みを感じます。
turkey_939a.jpgturkey_939b.jpg
遠くを見ると、かつて温泉が流れ石灰棚が形成され、今は干上がってしまった棚が見えます。また、一番下にはパムッカレ村の池があります。
turkey_940.jpgturkey_941.jpg
素足で歩いた石灰棚から出て、さらに先端方向に進むと、まるで雪が積もったような雄大な景観が望めます。
turkey_942.jpgturkey_943.jpg
青いお湯を湛えた、絵葉書にあるような場所はないのかと、ヒエラポリス博物館の前を通り、石灰棚の領域の反対側に回ってみました。すると、ようやく青いお湯を湛えた綺麗な石灰棚が撮れました。昔は、どこもこのような景観であったのではと思います。
turkey_944.jpgturkey_945.jpg
集合時間が近づいてきたので、急いで戻りながら、もう一度ヒエラポリス遺跡の中心部分を撮りました。
この遺跡も、ゆっくりと見学したかったですね。
turkey_946.jpg

石灰棚を後にして、コンヤに向かいます。車の窓からは、山も見えますが圧倒的に広い畑の広がりが多いです。しかし、今は取入れが終わったあとか、たまに野菜が植えられているのが見えることもありましたが、作物は見えません。
turkey_947.jpgturkey_948.jpg
2時間弱走って、例によってトイレ休憩です。ここは、「ヨーグルトにハチミツとケシの実をかけた」のが名物のようです。食べてみると、なるほど美味しかったです。
turkey_949.jpgturkey_950.jpg
また、2時間ほど走って昼食です。時刻は12時50分です。前菜は豆の料理で、パンの他にもトルコ風ピザが出ました。メインは、ポテトとピーマンを焼いたものに、ご飯と肉です。いずれも美味しい良い昼食でした。
turkey_951.jpgturkey_952.jpg
2時間ほど走ったところで今日泊まるRIXOSホテルの傍を通りましたが、バスはさらに20分走り、コンヤの市街に入って行き、インジェ・ミナーレ神学校の前で停車します。写真撮影のための短時間の停車です。コンヤを代表する建築美といわれる神学校で、1267年の建造とのことです。
なお、コンヤは、トルコでいまだ宗教色の色彩が濃い町で、伝統的なイスラム風の衣装を身につけた女性も多く見られます。
turkey_953.jpgturkey_954.jpg
コンヤの街をバスの中から撮りました。窓ガラスに反射して見難いですが、なかなか賑やかです。
turkey_955.jpg

次に、メヴラーナ博物館に行きました。この博物館は元々、メヴラーナ教というイスラム教の一派の教会でした。メヴラーナという人が創始者で,旋回舞踏といわれる踊りで,くるくる回りながらどんどん恍惚の世界に入って行き、悟りの境地に入るとのことです。
トルコ共和国の創立後,初代大統領のアタテュルクが解散を命じ,この本拠地である寺院を博物館としたのです。これは、異端の宗教が争いの元になるのを廃し、しかもメヴラーナを否定することまではしないという、賢明な策とされているようです。
内部には、靴にビニールのカバーを着けて入ります。博物館内には、メヴラーナその人の柩の他、聖職者の柩、金箔の装飾を施された古いコーランなどが陳列されています。
turkey_956.jpgturkey_957.jpg
博物館の外に出ると、老夫婦が孫を抱いていました。イキ、イキと言っていたのが聞き取れたのですが、イキはトルコ語で2なので、双子だと言っていたのでしょうか。それにしても、孫が可愛いのは、万国共通のようで、ニコニコしています。
バスで20分ほど戻り、RIXOSホテルに5時過ぎに着きました。入り口の回転扉が、メヴラーナの旋回舞踏を表しています。ここを潜ると、無粋にも空港と同じようなセキュリティーゲートを通る必要がありました。ブザーが鳴っても日本人はフリーパスのようですが。
25階建ての大きなホテルなので、夕食のレストランも大勢の宿泊客で混み合っていました。レストランの隅では、トルコ音楽の生演奏が奏でられていました。
turkey_958.jpgturkey_959.jpg

2010.11.09

トルコとエジプトの旅(4日目:11/1)・・・(旅行)

四日目になりました。今日は、エフェスの遺跡を見学するのが主で、途中 トルコ石と革製品の店により、パムッカレまで450Kmほどの旅です。
やはり、モーニングコールの前に目が覚めます。出発は7時30分ですが、朝食を終え、部屋に戻ると、窓からバスが駐車していて、その向こうにはエーゲ海が広がっています。今日も快晴です。
turkey_083.jpgturkey_084.jpg
昨夜撮れなかったホテル正面です。Grand Temizelのロゴが輝いています。
出発してしばらくは、海を見ながら走ります。
turkey_085.jpgturkey_086.jpg
1時間ほどで、トルコ石の店に寄ります。店員は皆な日本語が堪能で、チャイまで出してくれますが、女性陣はともかく29人中6人の男性陣は、全く興味なしです。何人かの女性が水酸化銅アルミニウム燐酸塩である鉱物を手に入れるために高額な支払いをしていました。家内も手ごろなものと、1つ買ってしまいました。
なお、トルコ石は、今の国名で言うならイランであるペルシャで多く産出され、トルコ経由でヨーロッパに広まったためトルコ石と呼ばれるようになったとのこと。また、古き時代に遊牧生活を行っていた人達に根ざすトルコでは、空が青く見える天気の日は、移動生活を行うにも楽であり、スルタンに至るまで殊更に青を愛する気持ちを持っていたとのことです。
turkey_087.jpgturkey_088.jpg
トルコ石のお店で30分ほど費やし、2時間ほど走ってトイレ休憩です。
turkey_089.jpgturkey_090.jpg
その後30分ほど走ると、セルチュク(Selçuk)の町に近づき、山の上にビザンツ時代の城塞が見えてきます。
そして、左手側に豊穣の女神アルテミスの遺跡の柱が1本だけ見えてきます。
古代の7不思議に数えられ、紀元前7世紀頃から120年かけて建てられたもので、直径1.2m、高さ19mの円柱が127本もあった壮大な神殿だったのですが、ローマ皇帝がキリスト教を受入れて以降、エフェスの住民もキリスト教に改宗する人が多く、アルテミス神は魅力を失い、神殿は破壊され、大理石の柱などは、教会建設に利用されたといいます。
なお、世界7不思議の不思議の意味は、不可解なものとのニュアンスはなく、必見すべきものといった意味だとのことです。
turkey_091.jpgturkey_092.jpg
アルテミス神殿跡の柱が見える通りから、右の方を見ると穴の開いたドームが重なったような建造物がありました。古く、崩壊しつつあるハマムの建物だとのことでした。
この通りは、歩道にライオンを模した柱も立っていて、遺跡の町らしい工夫をしています。
turkey_093.jpgturkey_094.jpg
お昼時になり、レストランでチョップシシの昼食です。チョップシシとは、羊の肉をあたかも焼き鳥のように串に刺して焼いたものです。飲み物は、石榴(ざくろ)ジュースを注文してみました。
turkey_095.jpg
turkey_096.jpg
10分余しで、エフェスの遺跡に着きました。トルコ最大の遺跡で、紀元前12世紀に建設された都市国家です。最盛期はローマ時代で、小アジア属州の首都でした。
下の左の写真は、ヴァリウスの浴場です。
円柱の間を歩きながら、シンプルな構造のイオニア式、左右対称な渦巻きのドリア式、複雑な構造のコリント式などの説明を聞きながら歩いて行きます。
turkey_097.jpgturkey_098.jpg
1,400人収容のオデオン(音楽堂)です。右の写真は、音楽堂の上から見た市公会堂跡です。
turkey_099.jpgturkey_100.jpg
石柱と壁の間の石畳の道を進むと、右側に「メミウスの碑」が建っています。ローマの独裁官であった祖父のスッラを称える言葉が彫ってあるとののことです。
turkey_101.jpgturkey_102.jpg
道の左側に、いわくありげな石柱がありました。ヘラクレスの門のアーチ部分とのこと。石柱の右側には蛇が描かれていて、救急車のシンボルマークで、ギリシア神話の医神のアスクレピオス(Asklepios)の象徴とのことです。
道の突き当りには「NIKEの神」のレリーフがあります。写真の人気スポットだそうです。
turkey_103.jpgturkey_104.jpg
ヘラクレスの門と、それに続くクレテス通りです。住民の家が立ち並んでいました。
turkey_105.jpgturkey_106.jpg
ガイドのケレムさんが、町の有力者の像が良く建てられていて、台座に言葉が刻んである。私は、ギリシャ語はよく分からないが「角のパン屋のイスメトは、奥さんが余りにもうるさいので自殺した。うそです」と言って笑わせる。
右の写真は、トラヤヌスの泉です。
turkey_107.jpgturkey_108.jpg
ハドリアヌス神殿です。前のアーチの中央には幸運を司る女神ティケが彫られていて、後ろの門の中央上にはメデューサが彫られています。
turkey_109.jpgturkey_110.jpg
古代の公衆トイレがありました。前には木も植えられ人が集まる場所であったようです。座ってみましたが、直ぐに50クルシュとケレムさんの声がかかりました。確かに、トルコでは有料トイレの料金は大体が50クルシュですね。でも、下の水の流れる溝まではずいぶん深く、現在のトイレより快適そうです。
turkey_111.jpgturkey_112.jpg
ローマ帝国時代アジア州執政官だったケルススの息子が父の墳墓の上に築いたケルスス図書館です。現在残っているのは、列柱と正面部分だけですが、ローマ帝国のアジア州では、アレクサンドリア、ペルガモンにつぐ蔵書1万2000冊の大図書館でした。
正面の彫像は、知恵、運命、学問、美徳の寓意像のレプリカです。(本物はウィーンの博物館にある)
turkey_113.jpgturkey_114.jpg
ケルスス図書館の右にある門を潜って、直ぐ右に金網で覆われた小部屋の中に、豊穣の神のアルテミスの像がありました。胸には、豊穣を表す沢山の乳房が付いています。金網の目が粗いので、写真撮影が可能でした。美術史の本でしか見たことがない像が直接見られて感激でした。でも、アルテミス像は、エフェス考古学博物館にあるとの記述を見た記憶があるので、レプリカかも知れません。
そして、24,000人収容の大劇場です。今は3段に分かれた座席が残っていますが、当時はもう一段あり、全体で4段あったとのことです。
turkey_115.jpgturkey_116.jpg
大劇場は、近くではとても全体が写せないので、遠くからも撮影しました。
最後に、トロイが世界遺産でエフェスが世界遺産に指定されないことに憤りを感じているガイドのケレムさんが、日本に帰ったらエフェスを宣伝してくださいと言っていました。確かに、エフェスは世界遺産に指定されて当然に思います。
turkey_117.jpgturkey_118.jpg
エフェスの遺跡を見て、バスで30分ほどのところにある、革製品の店に連れて行かれました。革製品と言っても、革のジャケットやコートを売る店です。
チャイを飲みながら、ファッションショーを見ますが、一当たり済んだところで、客が3人引っ張られて奥に入って行きます。舞台裏で革の上着を着せられてモデルと一緒に舞台に出てのファッションショーです。犠牲になったのは、若い女性二人と、78歳の男性です。
turkey_119.jpgturkey_120.jpg

turkey_121.jpgturkey_122.jpg

ショーが終わって、店の奥に通され、沢山の陳列品を見せられ購入を勧められると言う訳です。店員は、皆流暢な日本語を話し、言葉巧みに勧めます。
先に、ファションショウーのモデルに選ばれた、78歳の男性は、ワインカラーの革のジャケットを買うはめになり、他にも何人かの女性客が購入していました。家内も勧誘には抗し難くでした。
1時間ほどで、またバスに乗りパムッカレのホテルThermal Colossaeに向かいます。
3時間走って、夜の7時にホテルに着きました。
皆疲れて、添乗員がホテルから皆の鍵を受け取るまでロビーのソファーでぐったりです。
それでも、鍵を受け取り部屋にスーツケースを入れたら、食事です。定員が860人の大きなホテルで、レストランも大勢の人が食事をしていて、賑やかです。
turkey_123.jpgturkey_124.jpg
大半の人は、食事を済ませたら、お風呂に入って直ぐにベットに入ったと思われますが、中には温泉プールでひと泳ぎする元気な人もおり、また9時半からバーで始まるベリーダンスを見に行く人もいました。私もご多聞に漏れずです。
turkey_125.jpgturkey_126.jpg
面白いのは、男性客4名と女性客4名を引っ張り出し、4人一緒に踊った後は、1対1でも踊ります。これには客席は爆笑でした。
turkey_127.jpgturkey_128.jpg
turkey_129.jpgしかし、女性客の中で一人だけ踊り子よりも上手いのではと思われる人がいました。
この秘密は、後でエジプトのナイル川ディナークルーズで明らかになるのでした。

トルコとエジプトの旅(3日目:10/31)・・・(旅行)

三日目は、ダーダネルス海峡をフェリーで渡って、トロイ遺跡を見学し、アイワクルで宿泊です。全部で500Kmもの移動です。
まだ、体は日本時間とみえて、6時のモーニングコール前に目が覚めます。6時15分には、スーツケースを扉の前に出し、ホテルレストランで朝食です。食事を終わっても、時間に余裕があるので、ホテルの正面玄関をはじめ、周囲の写真を撮りました。入り口脇には、昨日の結婚式の花輪が立てかけられて残っています。雲ひとつなく晴れ渡っています。

turkey_050.jpgturkey_051.jpg

マルマラ海を左に見ながら2時間走り、道路沿いにあるレストランで停止してトイレ休憩です。

turkey_052.jpgturkey_053.jpg

観光用のバスは、ベンツ製の同じタイプのものばかりが走っています。
ここで、お店の右側にあるトイレで、50クルシュ払って入ります。チップでなく使用料なので1リラ払ったらお釣りをくれます。水洗ですが、典型的なトルコスタイルのトイレでした。

turkey_054.jpgturkey_055.jpg

休憩ポイントを過ぎると、マルマラ海はダーダネルス海峡になり、2時間ほど走って11時30分に、フェリーの出るGelibolu(ゲリボル)と言う港町に着きました。ここのレストランで昼食ですが、焼きさばにポテトと春巻きのような揚げ物がついたものでした。飛行機の食事で確保しておいた、小さな容器に入った醤油が役に立ちます。小さい容器ながら、周りの人にも醤油を分けました。

turkey_056.jpgturkey_057.jpg

レストランを中にして、フェリーの停泊岸壁の反対側は、小型船舶のハーバーになっていました。エンジン付の小型船で、ヨットは無いようです。

turkey_058.jpgturkey_059.jpg

食事の後、休憩して12時20分にフェリーに乗ります。バスは先に乗っています。隣り合う桟橋にも別のフェリーが泊まっています。我々はLapseki(ラプセキ)に渡りますが、どこか違う港に向かうのでしょうか。

turkey_060.jpgturkey_061.jpg

いよいよ出向して、街が遠ざかって行きます。

turkey_062.jpgturkey_063.jpg

ダーダネルス海峡を行く動画もどうぞ

デッキを上に上がって行くと、操舵室(出港前に撮影したもの)があります。
40分ほど走ると、Lapseki(ラプセキ)が見えて来て、バスに乗り込みます。

turkey_064.jpgturkey_065.jpg

LapsekiからCanakkale(カナッカレ)を通り、1時間弱でトロイの遺跡に着きます。ドイツ人のシュリーマンが子供の頃より、ホメロスの書いたイリアスに登場するトロイの発見を夢見て、終に発見し、西洋社会を驚かせて有名になったトロイです。世界遺産でもあり、今回のトルコ旅行で期待を高めていた人の多い遺跡です。
古い石垣を巡って進むと、見晴らしの良い場所に出ます。

turkey_066.jpgturkey_067.jpg

現在では、海岸線は堆積により5Kmほど遠ざかっていますが、昔は直ぐ前が海であったとのことです。

turkey_068.jpgturkey_069.jpg

トロイはヒッタイト以前のBC3000からAD400のローマの支配の時代まで、栄えては滅びるという歴史を繰り返し、トロイは全部で9層にわたる都市遺跡を形成しています。すなわち、新しい王朝が進出して来たとき、旧来の遺跡を壊して新しく造るのではなく、遺跡の上に堆積された土の上に、手っ取り早く新しい都市を造ったのです。この構造が見える場所がありました。(下の左の写真)

turkey_070.jpgturkey_071.jpg

さらに進むと、古代に動物を生贄にして神を祀った場所があり、丸い井戸のように見えるところに、動物の血が溜まったことが分かっているとのことです。
これで、遺跡は終わり後は、トロイの木馬の余興です。

turkey_072.jpg

ガイドのケレム氏によれば、シュリーマンはトルコ人から見れば、泥棒のようなもので、考古学者でもないのに、9層に重なった遺跡を宝物欲しさに、時代の積み重なりなど無視して、無茶苦茶に堀りまくり、遺跡を取り返しがつかないまでに破壊し、見つかった宝はドイツに持ち帰りました。第二次世界大戦後は、ロシアがドイツより持ち出しロシアの博物館が所蔵しています。現在では、トルコ人だけでなく、考古学者もシュリーマンを遺跡の発掘者でなく、遺跡の破壊者と見なしているとのことです。それでも、まだまだ西洋社会ではトロイはシュリーマンの功績との考えが根強く、遺跡としてもはや価値もさほどでないトロイを世界遺産に指定し、明日訪問するエフェスの遺跡の方がはるかに価値が上と思われるのに、世界遺産に認定されなていないと、憤っていました。

turkey_073.jpgturkey_075.jpg

turkey_076.jpgturkey_077.jpg

トロイの遺跡を後にして、バスは今日の宿泊地のアイワルクに向かって走ります。
2時間ほど走って、TOROI Olive Houseと書かれたお土産品店でトイレ休憩です。

turkey_079.jpgturkey_080.jpg

その後、1時間弱で今日の宿泊のGrand Temizel Hotelにつきました。まだ5時です。
キーを貰い、部屋でシャワーを浴びて、7時から夕食になりました。

turkey_082.jpgturkey_081.jpg

トルコとエジプトの旅(2日目:10/30)・・・(旅行)

二日目は、エジプトを発って、イスタンブールに着き市内観光です。
体内時計は、まだ日本時間のためか、遅く寝たにもかかわらず、5時のモーニングコールの前に目が覚め、2日目の朝が明けました。5時30分から朝食は可能で、スーツケースは6時までに部屋の扉の前に出しておくようにとのこと。日本人はせっかちだから、大半の人は5時30分にスーツケースを出して朝食に向かいます。まだ早いので、レストランは閑散としていましたが、直ぐに我々のグループが入ってきました。外はまだ暗いです。食事を終えるころには、外も明るくなり、ホテルのプールなどもハッキリと見えてきました。
turkey_014.jpgturkey_015.jpg
朝早く目覚めて、7時の出発時間には余裕があり、ロビーで時間を過ごしたり、昨日は暗かったホテルの正面の写真を撮ったりしました。外国ではトイレ事情が日本と比べて悪いので、出発前にトイレも済ませます。
turkey_016.jpgturkey_017.jpg
予定通り、7時にバスは出発して10分ほどで空港に着きました。エジプトでは、空港に着いたら、入り口でセキュリティーチェックで、スーツケースも手荷物も上着もエックス線検査トンネルを潜らせます。その後、配られた出国カードを立ったままで、スーツケースの上などの不安定な状態で記入し、航空券を貰ってエジプト航空のカウンターでチェックインです。飛行機の出発の9時45分には、余裕があるので免税店の並ぶ辺りをうろうろしますが、人が非常に多く人気のショッピングモールの中を歩いている感じです。時間が経過して搭乗ゲートに進むと、何だか狭くて廊下の壁際にベンチを並べただけの感じで落ち着けません。そして再度セキュリティーチェックです。シャトルバスで延々と走ってようやく搭乗します。機種は忘れましたがAirbus A320だったような気がします。飛び立って、地中海に出て1時間ほどで食事が配られ、やがてトルコが見えてきて、2時間ほどのフライトでイスタンブールに到着しました。
turkey_018.jpgturkey_019.jpg
トルコの入国は、入国カードもなくパスポートにスタンプを押すだけで簡単に済みます。その後、スーツケースをピックアップすると、ポーターが待機していて、直ぐに台車で駐車場で待っているバスに運んでくれます。これから6日間乗るバスはベンツ製で、ガイドはケレムさんと言う人です。バスの横でサングラスをかけている人です。
turkey_020.jpgturkey_021.jpg
バスで旧市街に向かいますが、右側にはマルマラ海が見え、時々コンスタンティノープル時代の城壁が残っています。
turkey_022.jpgturkey_023.jpg
ブルーモスクと呼ばれている、スルタンアフメト・モスクとビザンティン帝国時代に建てられたキリスト教の大聖堂のアヤソフィアの間のスルタンアフメット公園前にバスが停まりました。流石に人通りが多いです。
ブル?モスクは、逆光で写真は暗くなってしまいましたが、アヤソフィアは綺麗に撮れました。
turkey_024.jpgturkey_025.jpg
ブルーモスクは、オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造されました。世界で最も美しいモスクと評されていて、世界で唯一優美な6本のミナレットと直径27.5mの大ドームをもち、内部は数万枚の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られています。
ゲートを潜り、優美な壁に囲まれた前庭に入り、高いミナレット(尖塔)を眺め、一旦 前庭から裏庭に出て改めて、ドームに入ります。入り口では靴を脱いでビニール袋に入れ、女性は肌の露出度によっては布で覆う必要があります。今回の旅行では、覆うように言われた女性は居ませんでした。
turkey_026.jpgturkey_027.jpg
ドーム内部は、評判に違わず美しく、見事な紋様の飾りで装飾されています。また、メッカ方向には、最も色鮮やかなステンドグラスがはめられていて、人々が直ぐにメッカ方向を認識できるようになっています。
turkey_028.jpg

turkey_029.jpgturkey_030.jpg
入り口と反対側にあるドームの出口から出て、前庭からも出ると、先ほどと角度が変わって木立の間にブルーモスクが綺麗に見えました。
turkey_031.jpgturkey_032.jpg
ブルーモスクを見終わった後は、トプカプ宮殿を見学するため数百メートルの道を歩いて行きます。まず、トプカプ宮殿の「帝王の門」と呼ばれる門を潜り、第一庭園の木立に挟まれた道を進みます。
turkey_033.jpgturkey_034.jpg
第二の門は、「表敬の門」と呼ばれています。門の天井も美しく装飾されています。
turkey_035.jpgturkey_036.jpg
「表敬の門」の内部の第二庭園を進んで行くと、途中には地下貯水槽跡がありました。
そして、「幸福の門」と呼ばれる第三の門を潜ります。装飾も益々凝ったものになります。
turkey_037.jpgturkey_038.jpg
「幸福の門」を潜ると、スルタンの謁見の間のある小振りだが、豪華な建物があります。
turkey_039.jpgturkey_040.jpg
もちろん、天井の装飾も豪華です。
turkey_041.jpg

この謁見の間がある建物の周囲は第三庭園で、その庭園を取り囲むように宝物殿があります。宝物殿は、衣類、装飾品、聖遺物などの展示室に分かれています。装飾品の展示室には、有名なトプカプの短剣、スプンー屋のダイヤがあるはずでしたが、余りにも混雑していて、見逃しました。どこかに貸し出していたのかも知れません。
また、ヨハネのターバン、モーゼの杖などが、聖遺物の展示室にあり、厳かにコーランの祈りの声が聞こえていました。それにしても、出エジプト記に書かれているようにモーゼが振り上げて海を分けたその杖とは、とても思えません。なんだか新しい感じでした。
宝物館の見学を終え、幸福の門から出て左の方を見ると、屋根から煙突が突き出しているのが見えます。ここは厨房で、5,000人の食事を作っていたと言います。もちろん、優れた料理人も広く集められ、この宮廷料理故に、トルコ料理は世界3大料理と呼ばれるようになったとのことです。
turkey_042.jpgturkey_043.jpg
トプカプ宮殿を後にして、ブルーモスク近くまで引き返し、宮廷料理とは比べるべくも無いが、カジュアルなレストランで夕食です。
turkey_044.jpgturkey_045.jpg
シシケバブが皿に盛られ、大きなピーマン?とトマト、ポテト、ご飯がお皿に乗っかっています。それに、チーズとパンが盛られた皿が出てきました。
turkey_046.jpgturkey_047.jpg
食事を終え、暮れなずむブルーモスクを見ながら、バスに乗り込み今晩の泊まりの「Grand Cevahir(グランド ジェバヒル)」に向かいます。
5時30分(きょうの夜中まで夏時間で、その時刻に従えば、6時30分)にホテルに着きました。まだ早い時刻で、明日の朝のモーニングコールは冬時間の6時なので、今朝よりはだいぶ余裕があります。
turkey_048.jpgturkey_049.jpg

2010.11.08

トルコとエジプトの旅(1日目:10/29)・・・(旅行)

トルコとエジプトの旅に家内と2人で出かけます。
第一日目は、日本を発ってエジプトのホテルまでです。
トルコがメインでエジプト観光は、1日半ぐらいです。
10月29日、成田空港に11時10分集合なので、少し余裕を見て7時半にタクシーを呼び、YCATから8時40分発のリムジンバスに乗りました。
交通はスムーズに流れて、10時10分ぐらいに成田空港に着きました。まだ、集合時間に1時間もあるので、レストラン階に上がって軽く腹に入れ、うろうろしている内に集合時間が近づいて、人も集まってきました。
今回の旅行の参加者は、男性6人に対して女性23人とのこと。そして、熟年夫婦の参加が大多数と思っていたが、若い女性の参加が多いのも驚きでした。
エジプトのカイロまでの航空券を受け取り、各自チェックイン。エジプト航空は、始めて乗る航空会社です。
チェックインを終えて、円をドルに換え、セキュイティーを通りますが、ブーツを履いている女性は皆脱がされています。上着も男女の別なく脱がされます。私もカメラ2台と旅行用の小物を少し入れた持ち込みバッグを、全ての物を取り出して調べられました。本当に、塵(ちり)まで取り出す感じでした。APECが迫っているからか、これほど厳しいセキュリティチェックは初めてです。
turkey_001.jpgturkey_002.jpg
セキュリティチェックを過ぎると、出国審査ですが、これはスムーズに通過できました。
そして、シャトルに乗り、サテライトに向かいます。
免税店が並んでいる前を通り、搭乗口に向かいます。
turkey_003.jpgturkey_004.jpg
登場時間が来て乗り込みました。Boeing 777の機体です。前の座席の背に液晶ディスプレーがあり、映画を見たり、音楽を聴いたりできます。映画の字幕がアラビヤ語なのが、なんとも・・・。それにしても、エジプト航空のビジネスクラスの座席はジェラシイーを感じますね。
turkey_005.jpg
13時10分発で、カイロまで13時間30分の予定ですが、動き出したのは13時40分ぐらいでした。そして、日本海上空に達したころ、飲み物と食事が配られました。確か、ビーフ、魚、チキンのチョイスだったと思うのですが、私はビーフ、家内は魚を選択しました。思ったより美味しかったです。エジプトでは、生野菜を食べると洗う水に雑菌がいるので下痢になると聞かされていましたが、この野菜は成田近郊の調整なので大丈夫でしょう。水は木曽のもので、”KISO”と蓋に書かれています。
turkey_006.jpgturkey_007.jpg
飛行経路と現在位置ならびに速度、外気温度などがスクリーン表示されていますが、前の座席の背のディスプレーにも表示できます。北京の北側を飛び、タシケント、カスピ海を横切り、カイロに向かいます。モンゴルを過ぎたあたりで、サケのおにぎりとどら焼きのおやつが出ました。
turkey_008.jpgturkey_009.jpg
トルコの南に達した頃、2回目の食事がでました。
今度はチョイスは無くて、海老と蟹を使ったおじやのようなものでしたが、これも美味しい。それに煮物、蕎麦がついてデザートには、果物を配してあります。そして、30分ぐらい遅れるのではと思っていたのですが、ほぼ定刻(20:30)にカイロ国際空港に到着しました。
カイロ空港は、撮影禁止とのことで写真は撮れません。知らなくて撮っているいる人もいるようで、あまりうるさくはないらしいのですが。
ともかく、飛行機から降りて、成田で買っておいたUSドルの一部をエジプトポンドに変え、添乗員さんに予め払って買っていただいた15ドルのビザをパスポートに貼る。そして、予め記入しておいた入国カードとともに差し出して入国審査を通ります。
入国審査は、何も質問されることも無く簡単ですが、ビザは形式的かも知れないが受入国が、入国を許可しても良いか身元審査をして発行するもので、お金のみで発行とは、何だかおかしい気がします。観光収入を相当に当てにする国としては、お金を取りたいのは当然で、ビザと言っていても入国税の収入印紙みたいな考えなのでしょう。それでも、成田の施設使用料、保安サービス料の2,540円の半額ですね。
入国審査を済ませると、預けておいたスーツケースをピックアップして、税関をスルーパスで通れば、迎えのバスが外で待っていて、ポーターが荷物を運んでバスに積み込んでくれます。
turkey_010.jpgturkey_011.jpg
バスで向かうホテルは、空港から10分ぐらいの”Iberotel”というホテルです。入り口でまた、空港と同じセキュリティーゲートを通ります。なかなか良さそうなホテルでしたが、もう夜の11時で日本時間なら徹夜明けの朝の6時です。皆疲れて鍵を貰ったら、部屋に入ってシャワーを浴び直ぐに眠りにつきます。何せ、明日のモーニングコールは5時です。
turkey_012.jpgturkey_013.jpg

2010.09.22

興福寺、薬師寺、唐招提寺・・・(旅行)

奈良に立ち寄る機会があり、興福寺の国宝展、今年秋に解体され修復に10年を要するとされる薬師寺の東塔ならびに唐招提寺を訪れることにしました。
1. 興福寺とその周辺
宿泊に選んだホテルが「猿沢池」の近くでした。着いたのは9月21日でしたが、22日には、采女祭(うねめまつり)とのことで、池の周りには提灯が灯されていました。采女祭は、奈良時代に帝の寵愛が衰えたことを嘆いて猿沢池に身を投げた采女(後宮の女官)の霊を慰めるために行われる祭りです。
池の周りに配置されたベンチでは、若いカップルが提灯の照らす明かりの中の楽しい時間を過ごしています。
nara_01.jpgnara_02.jpg
猿沢池からは、ライトアップしている興福寺の五重塔が見えていました。階段を上って行くと、5人ばかりの人が撮影を試みていましたが、三脚を使っている人はともかく、夜間の撮影なのでうまく撮れません。何枚か試みて比較的良好なのが下の写真です。昨日は満月で、今日も丸い月が輝いてよい感じです。この塔は、天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后の建造ですが、その後5回の被災・再建をへて、応永33年(1426)頃に再建されたのが現存する塔で、高さは50.1mです。
nara_03.jpg
一夜明けました。今日は9月22日です。猿沢池も昨日夜とは違った姿を見せています。魚7分に水3分と言われる池です。
nara_04.jpgnara_05.jpg

nara_06.jpgnara_07.jpg
階段を上って興福寺の南円堂の前にでました。創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されたお堂です。堂内には本尊不空羂索観音菩薩像(ふくうけんさくかんのんぞう)、四天王像が安置されていていずれも国宝です。
nara_08.jpg

興福寺五重塔と東金堂です。なお、中金堂は、再建中で平成30年落慶予定とのことです。
nara_09.jpgnara_10.jpg

9時になり、食堂(じきどう)の跡地に建てられた国宝館の見学です。撮影は一切禁止ですが、高さ5.2mの千手観音の巨像をはじめ、乾漆十大弟子立像、乾漆八部衆立像などなど、おびただしい国宝もしくは重要文化財が展示されていて圧倒されます。特に乾漆八部衆立像の中の阿修羅像はひときわ有名です。これだけでも奈良に来た甲斐がありました。
nara_29.jpg
興福寺周辺でも、地面に草が生やされているところでは、鹿がのんびりと草を食んでいます。これも奈良を特徴付ける風景です。
nara_11.jpg

2. 薬師寺
nara_12.jpg
国宝館での余韻を引きずりながら、ホテルに戻り、チェックアウトして近鉄電車で西ノ京駅に向かい、薬師寺の興楽門に着きました。天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(710)に伴い718年に現在地に移されたとのことです。
最初に目に付く大きな建物は、大講堂です。修学旅行と思われる大勢の生徒が訪れていました。大講堂には、重要文化財の弥勒三尊が鎮座しています。また、仏像の裏手の方に回って行くと、国宝で天平勝宝5年(753)に刻まれたことがわかる日本最古の仏足石があります。さらに、中村晋也作の釈迦十大弟子が立っていますが、顔は仏像的でなく、アーリア人の骨格や、顔相、その当時の修行の様子などを、すべて現地に出向き、調査研究して、原形態に近付ける努力をしたものとのことでした。
nara_13.jpg
国宝の大講堂の次には、金堂です。金堂の両側には東塔と西塔が建っていますが、すっかり色が褪せてしまった東塔は、今年の秋には解体され、10年ほど掛けて修理再建されるとのことです。10年間は見られなくなるので、今のうちに見ておきたいと思ったのが訪れた最大の理由です。ともかく、現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもので、総高34.1メートル(相輪含む)です。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇るとのことです。
また、金堂の中には、国宝であり、美術史の本などに良く登場する薬師三尊像があります。薬師如来が中心に鎮座し、右に日光菩薩、左に月光(がっこう)菩薩が屹立しています。ブロンズ作りで黒光りした像で世界でも最高の仏像と云われています。
nara_14.jpg

nara_15.jpg講堂と金堂、東塔、西塔を見学した後は、少し離れた場所にある玄奘三蔵大伽藍に向かいます。途中、萩の花が咲いていましたが、満開には少し早いようです。
nara_16.jpgnara_17.jpg
玄奘三蔵院の回廊に囲まれて中央に八角形の玄奘塔が建っています。薬師寺は法相宗ですが、その始祖である玄奘三蔵の遺骨を真身舎利(しんじんしゃり)として奉安し、須弥壇には玄奘三蔵訳経像を祀っています。
また、回廊の裏面に当たるところには、大唐西域壁画殿があり、平山郁夫画伯が30年かけて完成させた玄奘三蔵求法の精神を描いた壁画が掲げられています。
nara_18.jpgnara_19.jpg
3. 唐招提寺

nara_19a.jpgnara_19b.jpg

薬師寺を後にして、唐招提寺に向かいます。狭い道路ですが車の通りが多く注意が必要です。それにしてもまだまだ残暑が厳しくこたえます。途中の蕎麦屋で昼食を取りしばし休憩を取りました。
唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)に天武天皇第7皇子の新田部親王(にいたべしんのう)の旧宅跡を朝廷から譲り受け寺としたもので、晩年を過ごしました。
南大門を入ると、正面に金堂が見えます。世界遺産登録の表示のある大きな寺名碑の前を通り金堂正面に達します。
nara_20.jpgnara_20a.jpg
金堂には、中央に本尊の盧舎那仏坐像が安置され、右に薬師如来立像、左に千手観音立像が配置されていますが、いずれも国宝で木心乾漆の作りです。
nara_20b.jpg

金堂の諸仏にお参りをして左手に回って行くと、舎利殿とその後方の長い建物の東室・礼堂(らいどう)が見えてきます。
また、金堂の後ろには講堂があり、中央に弥勒菩薩坐像、左右に持国天立像と増長天立像が配置されています。弥勒菩薩は鎌倉時代の作で左右の仏像は8世紀の作で、いずれも重要文化財です。

nara_21.jpgnara_22.jpg
東室の北側の旧開山堂の手前に松尾芭蕉の句碑があります。元禄元年(1688)ここで、鑑真和上坐像を拝した際に芭蕉が詠んだ「若葉して御目の雫拭はばや」の句が刻まれています。
また、旧開山堂の裏に回ると、北原白秋(1885-1942)が唐招提寺の開祖である鑑真和上像に感動した時に詠んだと云われる歌「水楢(なら)の柔き嫩葉(わかば)はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ」の歌碑があります。
nara_23.jpgnara_24.jpg
北原白秋の歌碑を過ぎて進むと、左手に鑑真和上の御廟があります。参道は苔が生していて厳かな雰囲気が漂い、一番奥に石造りの廟が建っています。
nara_25.jpgnara_26.jpg
鑑真和上の御廟から引き返す途上に土塀に囲まれた、非公開の御影堂があり鑑真和上坐像が安置されています。建物は興福寺の有力な子院であった一乗院(廃絶)の遺構で、慶安2年(1649年)の建立で、1962年までは地方裁判所の庁舎として使用され、1964年に唐招提寺に移築されたもので、重要文化財に指定されています。
nara_27.jpg

東室・礼堂の裏側に至る道を戻ると、正倉院より古い校倉造(あぜくらづくり)で国宝の宝蔵があります。
nara_28.jpg
ここから、東室と礼堂の間にある通り抜け通路の馬道(めどう)を通って講堂横に戻りました。
まだまだ暑くて、暑さに弱い家内はまいっています。タクシーで西大寺駅に行き、京都に出て15時32分の新幹線で帰宅しました。

2010.09.12

大内宿と会津の旅(2日目)・・・(旅行)

9月11日です。2日目の朝が明けました。山間の温泉場ということもあり、涼しい朝です。周囲の緑の山々が清々しく、良い気分です。
さて、食事を済ませて出発です。さほど時間も掛からず、若松城(鶴ヶ城)に着きましたが、天守閣は屋根を元の赤瓦に取り替える工事中で、すっぽり覆われています。
会津若松城は、時代ごとに城主が代わり、変遷を重ねてきましたが、1643年(寛永20年)出羽国山形より3代将軍の徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封し、以後、明治維新まで会津松平氏(保科氏から改名)の居城となったものです。
戊辰戦争の1868年(慶応4年)には、会津勢の立て篭もる若松城は1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢が薩摩の援軍の助けをかりても遂に城落には至らなかったのです。その後に開城されたが、戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、明治7年(1874)に取り壊されています。
現在の天守は1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されています。
なお、地元では「鶴ヶ城」と呼ばれることが多いのですが、これは秀吉からこの地を与えられた蒲生氏郷の幼名の「鶴千代」から来ています。
aidutrip_01.jpgaidutrip_02.jpg
工事中も、若松城天守閣郷土博物館としては見学可能ですが、種々の歴史的な遺構は、すべて撮影禁止で、最後に銀色の鯱(しゃちほこ)のみ撮影可能でした。若松城に鯱があったかどうかは、見解がわかれているそうですが、この鯱は、復元工事を担当したハザマの当時の会長より寄贈されたもので、全身の鱗は銀箔、牙は金製、瞳の中心に2カラットのダイヤモンドが埋め込まれているとのことです。ハザマは名古屋城天守の復元工事も受け持っており、名古屋城の金鯱と対になるように銀鯱としたそうで、金閣寺、銀閣寺に倣ったとのことです。
aidutrip_03.jpg

天守閣から干飯櫓、南走り長屋を通って、屋外に出てきます。
aidutrip_04.jpgaidutrip_04a.jpg
若松城を後にして、七日町通りで車を駐車場にいれ、レオ氏郷南蛮館に行きました。建物は明治時代に建てられた蔵を改造したもので、1階は民芸品を扱うお店で2階が氏郷関係の資料館になっています。レオとはキリスト教に改宗した氏郷の洗礼名で、資料館には氏郷が秀吉から貰った記念の品や、氏郷がキリシタンであったことを物語るマリア像などが展示されています。また復元された天主の間には、色鮮やかな「泰西王侯騎馬屏風図」や呂宋(ルソン)の茶壺が飾られています。
aidutrip_05.jpgaidutrip_07.jpg

aidutrip_06.jpg次に「野口英世青春通り」に向かいました。野口英世が書生時代に行き交った通りです。流石に暑くなってきました。レトロな感じの喫茶店があったので、休憩を取りました。注文したアイスコーヒーも美味しかったです。

aidutrip_08.jpgaidutrip_09.jpg
隣は、重厚な蔵造りの福西本店で、会津の種々な名品を販売しています。
aidutrip_10.jpg
さらに、隣の建物脇のガス灯風の街灯も良い感じです。
aidutrip_11.jpg

次に、大通りの神明通りを横切って、蒲生氏郷の墓所を訪れました。蒲生氏は藤原秀郷の流れをくむ名門でしたが、仕えていた近江の六角氏が信長に滅ぼされ、父の賢秀(かたひで)が信長に臣従するとき、人質として差し出されました。ところが、信長は氏郷の才を見抜いて、娘の冬姫と結婚させ、信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀(たださぶろうますひで)と名乗り織田氏の一門として手厚く遇せられました。その後幾多の変遷を経て秀吉時代に会津の地に92万石の大領を与えられましたが、これは秀吉が氏郷の才を恐れ、大領でも都から遠ざけて天下取りに関われないようにとの意図があったと言われています。秀吉の意図を知る氏郷は、涙を流して悔しがったと伝えられています。
40歳で急死し、毒殺説もありましたが現在では、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の残したカルテなどから肝臓癌、もしくは膵臓癌であったと推察されています。また、辞世の歌は、まだまだ働けるのにとの思いを込めた悔いを残こした辞世となっています。辞世の「限りあれば 吹かねど 花は散るものを 心みじかき春の山風」は、花の命は限りがあり、風など吹かなくても自然に散ってしまうのに、春の山風は何と気が短いものよ、とでも訳せばよいのでしょうか。
aidutrip_12.jpgaidutrip_13.jpg
また、墓石は空風火水地の五文字を刻した五輪塔です。
aidutrip_14.jpg
氏郷の墓所を訪れた後は、車で飯盛山に向かいます。かなり長い階段の上りが待ち構えています。女性陣は250円払ってのエスカレーターに対して男性陣は、意地で自分の足で上ります。
aidutrip_15.jpgaidutrip_15a.jpg
階段を上り詰めると広場になっており、左のほうには白虎隊以外の少年武士慰霊碑と墓石が立っていて、松平容保候の弔歌碑がありました。「幾人の涙は石にそそぐとも、その名は世々に朽じとぞ思う」と刻まれています。
aidutrip_17.jpgaidutrip_16.jpg
広場の右の方には、ポンペイの廃墟から掘り出した古代宮殿の柱で作ったという、ローマ市寄贈の碑が建っていて、イタリア語で「文明の母たるローマは白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」と書かれているとのことです。
aidutrip_18.jpgaidutrip_19.jpg
さらに、白虎隊士自刃の地の矢印表示に従い右の小道を進むと、白虎隊士でただ一人の生き残りの飯沼貞吉の墓所があります。15歳で年齢を16と偽って白虎隊に参加しましたが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及びましたが、死に切れず命を救われました。維新後は貞雄と改名して逓信省の通信技師として各地に勤務し、日本の電信・電話の普及に貢献し、日清戦争にも従軍しました。1931年(昭和6年)2月12日、77歳で生涯を終えましたが、白虎隊のことは一部の史家にしか話さなかったとのことです。
さらに進んで階段を下りると白虎隊の自刃の地で、自刃の址の碑、隊士の石の像、慰霊碑が建っています。確かに鶴ヶ城が見通せる場所です。そして、燃えている武家屋敷を鶴ヶ城が燃えていると見誤って、自刃を遂げたのです。隊士は16、17歳が中心で、まったく痛ましい出来事です。
aidutrip_19a.jpgaidutrip_20.jpg
写真中央付近に木立に囲まれた覆いの掛けられた天守閣が見えます。
aidutrip_21.jpg

飯盛山からの帰り道は階段を通らず、広場から下を見下ろした右側に坂道となって続いている方に進んで行きます。下って行くと、宇賀神のお堂があり白虎隊の自刃の様子を描いた額縁が架かっています。ここに描かれている白虎隊士の姿が最も実際の服装に近いものであるといわれているそうです。
aidutrip_22.jpgaidutrip_22a.jpg
さらに下りると「さざえ堂」と呼ばれる仏堂があります。中は二重螺旋になっていて、同じ通路を通らず、上って下りてこられるとのことです。中が螺旋にになってることから「さざえ堂」と呼ばれるのでしょう。
aidutrip_23.jpgaidutrip_24.jpg
成瀬櫻桃子(なるせおうとうし)の「天高し ピサの斜塔と サザエ堂」の句碑が建っていましたが、詠み人の心が、どうも理解できなくてスッキリしません。そして、最後は「厳島神社」です。両側に杉の大木が立っていました。
aidutrip_25.jpgaidutrip_26.jpg
直ぐ横の「戸ノ口堰洞穴」からは大量の水が流れ出しています。今から400年前の元和年間に猪苗代湖の水を会津地方に引くため、郷士八田氏が起工し、元禄年間まで工事が続けられ、飯盛山の山腹に150mの穴をうがって2,500ヘクタールの田圃に灌漑することができたとのことです。白虎隊士中2番隊は、戸ノ口原に布陣している味方軍応援のため派遣されましたが、戦いに利あらず、お城の安否を確かめようと帰城の途中隊士20名が通過した洞窟で、水を止めれば上半身を丸めて通れる大きさとのことです。
aidutrip_27.jpg
飯盛山から下りてきて、昼食を取り猪苗代湖湖畔の「野口英世記念館」に向かいました。
博士の生涯を年代順に分け、遺品や参考資料を展示した展示館と、生家が残されています。
aidutrip_30.jpgaidutrip_28.jpg
生家の中には、英世が一歳半のとき、運命の火傷をした囲炉裏や上京するとき決意を刻んだ床柱が当時そのままに保存されています。
aidutrip_29.jpg
記念館をでると、野口英世も子供時代に何時も眺めた、磐梯山が変わらぬ雄姿を見せていました。
その後、磐越自動車道で郡山JCTに向かい、東北自動車道に乗り換えて帰宅の途に着きました。
一度訪れたいと思っていた、大内宿を初めとして楽しい2日間でした。
aidutrip_31.jpg

« Previous | Next »