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2012.03.22

和歌山市内の名所を尋ねて・・・(旅行)

国民休暇村で一泊した次の日の3月20日は春分の日でした。10時頃にチェックアウトして、和歌山市の何箇所かを回ることにしました。意外に近場は、行ったことのない場所も多いものです。

1. 淡嶋神社

最初に訪れたのは、加太港に面して建っている「淡嶋神社」です。祭神 は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(おほなむじのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)神功皇后(じんぐうこうごう)を祀っています
淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りありますが、ここはその総本社であり、和歌山県内でも屈指の歴史を誇っています。社伝によれば、三韓出兵の帰途瀬戸の海上での突然の嵐に遭遇した神功皇后が、船中で祈りを捧げたところ、「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めるように」とのお告げにより友ヶ島に無事入港できたことを感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を先述の二神に奉納しました。その数年後、神功皇后の孫である仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来た際、その事実を聞くにおよび、島では不自由であろうと考え、社を対岸の加太に移し、現在のような社殿を建築したことが淡嶋神社の起こりとされるとのことです。
なお、苫(とま)とは、菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだむしろのことです。

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また、この神社は人形供養の神社としても有名で、境内には供養のために納められた、無数の雛人形や市松人形、はてはフランス人形までもが所狭しと並べられています。そのため心霊スポットとしてマスコミに取り上げられることがあり、髪の毛が伸びることで話題を集めたお菊人形も安置されているとのことです。

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2. 養翠園

次は、紀州藩第10代藩主徳川治寶(はるとみ)によって、文政元年(1818)から文政9年(1826)にかけて造営された西浜御殿内の広大な大名庭園である養翠園(ようすいえん)です。
和歌山湾沿いの立地を利用して、海水を引き込んだ「汐入り」の池が特徴的で、潮の干満に応じて細波が立ち、水面が上下する独特の風情があります。この池には、日本庭園としては珍しい直線状の三ツ橋を渡しており、背後の天神山と章魚頭姿山(たこずしやま)を借景としたこの構図は、中国の西湖を模したものと伝えられています。また、藩主は、舟を用いて来園し、そのための船着場が園内に設けられています。したがって正門はもっぱら客人のためであったようです。
なお、日本の大規模な庭園で汐入の池をもつものは、これらの他には東京都港区の浜離宮恩賜庭園だけとのことです。

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3. 和歌浦

次は、山部赤人が「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」と詠み、「万葉集」にも載せられていることで有名な「和歌浦(わかのうら)」です。現在の地名では「わかうら」と呼ばれていますが、子供の頃に親に連れられて訪れたときと比べても、あまりにも衰退して、廃屋となった旅館も多く、また跡地には老人ホームなどの施設が見られました。雑賀孫市で有名になった雑賀崎も有るところなのですが、和歌山市政の貧困さのためか、山部赤人の歌碑も、雑賀孫市に纏わる記述を見ることもなく、海岸べりの工場や商業施設などで景観を完璧に破壊し、折角の遺産を完膚なきまでに壊してしまっています。

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4. 和歌浦天満宮

延喜元年(901)に菅原道真が大宰府に向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊しました。その時、神社が鎮座する天神山から和歌の浦を望み、2首の歌を詠みました。
「老を積む身は浮き船に誘はれて遠ざかり行く和歌の浦波」
「見ざりつる古しべまでも悔しきは和歌吹上の浦の曙」
その後、村上天皇の康保年間(964 – 968)に参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされます。また、道真が立ち寄った際に、敷物がなく、漁師が船の艫綱を敷物(円座)にして迎えたといい、綱敷天神とも称せられています。天満宮は和歌浦天神山(標高約93m)の中腹に位置し、菅原道真を祀り、和歌浦一円の氏神として尊崇されています。もちろん、受験生も合格祈願に多く訪れることでしょう。また、和歌浦天満宮は、藤原公任卿の詠歌「和歌の浦の天満宮や日の本の三の名だる一つとぞきく」にもあるように、大宰府、北野と並んで、”日本の三菅廟”といわれているとのことです。

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5. 紀州東照宮

元和7年(1621)に徳川家康の十男である紀州藩祖・徳川頼宣により南海道の総鎮護として創建され、関西の日光とも称される。本殿は伝・左甚五郎作の彫刻や狩野探幽作の襖絵があるとのことです。

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元和5年紀州初代藩主として入国した徳川頼宣(1602?71)により、東照大権現を祀る東照社として建立されました。頼宣の紀州入国とともに計画され、元和6年(1619)起工、元和7年(1620)に竣工・遷宮式が行われました。『紀伊続風土記』によれば、境内は方八町で、宮山周囲50町余りであったといいます。現在は頼宣も合祀されています。

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6. 琴の浦 温山荘園

最後に訪れたのは、明治21年に日本で初めて動力伝動用革ベルトを製作し、その後、世界有数のベルトメーカーとなった新田帯革製造所(現 ニッタ株式会社)の創業者、新田長次郎翁により、この地に大正初期から造園された「温山荘園」です。
子供の頃、親に連れられて来た記憶がかすかにあるのですが、情景は完全に忘れていました。また、新田長次郎の造園なので大人達は「新田の別荘」と呼んでいて、長く「新田義貞」の別荘と思い込んでいました。

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紀州の名園として名高く皇族らがしばしば来訪し、随行した桂太郎、清浦奎吾、東郷平八郎、秋山好古らの扁額が主屋「温山荘」に掲げられているそうです。
造園は、大正初期から昭和初期にかけてで武者小路千家家元名代の木津宗泉により作庭された潮入式池泉回遊庭園です。この潮入り庭園は、先に紹介した「養翠園」にヒントを得たと思われ、個人の庭園としては日本最大です。
また、「温山荘」の名称は”温山”の雅号を持つ翁の求めに応じて、東郷平八郎元帥により命名されました。当初は翁の健康維持のために使用していましたが、在世中に一般人にも解放されるようになり、翁の没後はその遺志により、「財団法人 琴ノ浦 温山荘園」を設立し、その財団が管理にあたっています。

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なお平成10年には建造物が、文化庁文化財部より「登録有形文化財」の指定を受け、平成22年2月に庭園が国名勝の指定、平成22年6月に建物が重要文化財指定を受けています。

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駆け足で和歌山市内の名所を回りましたが、まだまだ和歌山城も紀三井寺もあります。
最近では、熊野古道のみが喧伝されていますが、もっと訪問客を誘う材料があると思えるのですが・・・。

紀州加太国民休暇村・・・(旅行)

春の彼岸も終えた3月19日に94歳の母と2人の妹と私の4人で、紀州加太国民休暇村に行きました。高齢の母を連れてなので、あまり遠くには行けないと選び初めての訪問でした。

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海に面した小高い丘の上に建っていて、部屋の窓からは「友ヶ島」とその向こうに「淡路島」がよく見えました。素晴らしい眺めです。
大阪湾への海路なので、第二次世界大戦の時には砲台が築かれ、その弾薬庫跡が保存状態もよく残っていました。

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目の前の友が島周辺は、鯛の良好な釣り場とのことです。
淡路島に沈む夕日を見ながらの夕食も、鯛を中心とした献立てで美味しくて堪能しました。

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2012.02.28

美術館(中川一政、MOA)訪問・・・(旅行)

今日は、真鶴にある「中川一政美術館」と熱海の「MOA美術館」を訪問します。寒い朝ですが、よく晴れています。途中、バスの窓から富士山が綺麗に見えました。
多少の渋滞がありましたが、中川一政美術館には、11:00ごろには着きました。

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観光バスが3台ほど停まっていて、美術館が混雑しているので、先に別の建家に移設された一政のアトリエなどを見学し、その後美術館に進みました。一政は、98歳の長寿を全うするのですが、晩年には白内障のためほとんど色が判別できなくなり、家政婦に絵の具の色の名を大きく書かせて描く時に見分けたとのことです。

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5つの展示室があり、油絵、新聞小説の挿絵、書などが展示されています。絶筆となった薔薇の絵も展示されていました。
当然ながら、写真撮影は禁止なので「絵葉書」を買い、何枚かをスキャナーで取り込みました。下は、福浦突堤と箱根駒ヶ岳です。

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一政が最も描くことを好んだ薔薇の絵と向日葵の絵です。

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お昼になり、12:20に磯料理を出すお店に着きました。いけすの魚を使ったお刺身は、流石に美味しかったです。

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食事のお店は岩忠と言い、場所は真鶴ブルーラインの橋が眼前に見える場所でした。

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今日の最後の訪問の「MOA美術館」に向かいました。山の斜面に建てられた美術館で、入り口から延々とエスカレータで上って行きます。エスカレーターは山の斜面に掘られたトンネル内に造られており、刻々と照明の色が変わるなど美しい空間になっています。

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エスカレーターで上り切ったフロアーに能楽堂があり、解説を含め1時間ほど狂言を鑑賞しました。その後、東洋美術を中心とした展示物を見学しましたが、モネの睡蓮の絵もありました。
この美術館の一番の展示物は国宝の尾形光琳の「紅白梅屏風図」ですが、CG技術で作られたレプリカも飾られていて、これは写真撮影が出来ました。

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高い山の上に造られた建物なので、眺望は素晴らしいものでした。初島もよく見えました。

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上のフロアーから見下ろしたときに見えた、王と女王のモニュメントも見に行きました。

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また、別のフロアーから外に出ると、尾形光琳の屋敷が復元されていました。宝永年間の数年の江戸滞在の後、正徳2年(1712)ころ京都新町通り二条下るの地に屋敷を新築するが、自ら書いた図面と大工の仕様帖(いずれも重要文化財)が現存しており、それを元に復元したものとのことです。軒先の紅梅も綺麗に咲いていました。

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本当に眺めの良い場所でした。

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午後4時30分に閉館なので、その後は帰路に向かいました。楽しい1日が過ごせました。

2011.11.24

中欧の旅(6,7日目:11/20,21)・・・(旅行)

6日目になりました。今日の午前中は、団体でブダペスト市内の観光で午後は自由行動、そして夜はドナウ川イルミネーションクルーズです。
いつもの通り、バイキングの朝食をホテルでとり、8:30にバスで出発です。今日の気温の予報は最高温度が+2℃、最低温度が-2℃で、寒いです。はく息が白いです。
まず、最初に国会議事堂に行きました。世界で一番美しいと言われる国会議事堂です。国会議事堂とエルジェーベト広場から英雄広場と、その間の2Kmのアンドラーシ通りも合わせて世界遺産です。なお、アンドラーシ通りの下を走る世界で一番古い地下鉄も世界遺産に含まれています。
国民議会は、1880年に新しい国会議事堂の建設を決議し、コンペチションを行い、シュタインドル・イムレの案が採用されました。建設は1885年から始まり1904年に完成しました。国会議事堂の建設にはおよそ1000人が従事し、4000万個のレンガ、50万の宝石と40kgの金が使われたそうです。あまりにも広大で、繊細な手仕事で作られた建物のため、常に補修工事が行われている状態にあるとのことです。

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英雄広場は、1896年に建国1000年を記念して造られました。ブダペスト最大の広場で、中央の一番高い塔の上の天使ガブリエルはハンガリーの最初の王、聖イシュトヴァーンに王冠を授けるようローマ法王の夢枕にたった天使です。その足元の騎馬像は、ハンガリーに最初にやってきた7つの部族の族長を示しています。
左右のモニュメントの柱の間には、ハンガリーの歴史上の英雄らの像が計14体あります。向かって左側が中世の王、右側が、近代以降の革命家などになっています。
そして、騎馬像の前には、これまでの戦争でハンガリーのために戦い死んで行った兵士達を称える「無名戦士の碑」があります。

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英雄広場で、塔に向かって右側に現在美術館(下の右の写真)があり、左側に西洋美術館があります。両館ともシッケンダンツ・アルベルトとヘルツォーグ・フェレップによる共同設計です。

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下の左の写真は、アンドラーシ通りで、道路下には地下鉄が走り、エリジェーベト広場まで2kmにわたって真っ直ぐに伸びています。建設は1872年に始まり、開通式は1876年8月20日に行われましたが、その後、貴族、銀行家、地主、歴史的な人物などが越してきました。現在では、多くの国が大使館を置いています。
英雄広場の後ろは市民公園となっており、右の方には、屋外スケート場があり、スケート場の立派な建物が見えています(下の右の写真)。

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アンドラーシ通りをバスで戻ると、途中に国立歌劇場が車窓から見えました。
その後、エルジェーベト橋を渡り、ツィタデラと呼ばれる、1854年にハプスブルク帝国によって建てられた要塞に行きました。張り出した円形の見張り台からは、ブダ側とペスト側の両方が良く見えます。市民の反オーストリア運動の監視にも用いられましたが、1867年のオーストリア=ハンガリー二重帝国の発足で、両国間の衝突もなくなり、1894年に市に譲渡され、現在はホテル、レストランもある場所となっています。

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この見張り台には、世界遺産登録のUNESCOのプレートが嵌めこまれていました。
長い幾多の時代を眺めてきた丸い要塞の壁を見ていると、遠い過去が想像されてきます。

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第2次世界大戦では、ハンガリーはドイツについたのですが、敵の進行を防ぐ目的で、くさり橋を破壊した写真が要塞の壁に取り付けられていました。ハンガリー市民は複雑な心境だったことでしょう。
周りの林は、かなりな割合で葉っぱが落ち、冬を迎える準備をしているように思えました。

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次に、漁夫の砦とマーチャーシュ教会のある丘に向かいました。途中までは、バスで行きますが、最後は、自分の足で階段を上って行きます。

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「漁夫の砦」とは、変わった名前の「要塞」です。建国1000年を記念して作られたそうで、完成は1902年です。比較的新しい建物で、実際に戦闘などには使われたことはありません。「漁夫の砦」という名前は、中世に魚市場があったとか、ドナウ川の漁師が要塞を守っていたからとかいわれていますが、ハッキリしません。とんがり屋根の7つの塔からなっていて、それぞれの塔にマジャール族の英雄の名前がつけられているそうです。また、塔の形はマジャール族が遊牧をしていた時の天幕住居の形を模しているのだそうです。
広場には、三位一体の塔が建っていました。

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川の方を漁夫の砦で囲まれるように、マーチャーシュ教会が建っています。磁器で有名なジョルナイ製のカラフルなタイルでモザイク屋根とした教会で、正面入口の右側に80mのマーチャーシュ塔、左側にベラ塔が建っています。13世紀半ばにロマネスク様式で創建され、14世紀にゴシック様式となり、15世紀のマーチャーシュ王の時代に80mノ塔が造られほぼ現在の形になりました。1867年のオーストリア=ハンガリーの二重帝国発足の折、オーストラリア皇帝フランツ・ヨーゼフのハンガリー国王としての戴冠式がここで行われました。

日本円も使えるお土産屋があり、皆でお買い物です。
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漁夫の砦からは、眼下に街並みが美しく見えます。ドナウ川の向こうには、国会議事堂が見えます。霧がかかっているので、色調を補正しましたが、それほど綺麗にはなりません。

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下の左の写真は、聖イシュトヴァーン大聖堂です。右の写真は、ドナウ川の上流方面です。

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漁夫の砦と聖マーチューシャ教会の間の広場には、イシュトヴァーン王の騎馬像があります。
後は、また漁夫の砦の階段を下って行きます。

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バスで昼食のレストランに向かう途中に、HOTEL GELLERTがありました。豊富な温泉の設備で有名なホテルです。 昼食は、ハラースレーでした。

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budapest_29a.jpg昼食を終え、ドナウベント方面にオプショナルツアーに行く人達と別れ、残りの人は解散して自由行動ですが、皆んなクリスマスマーケットを見たいというので、デアーク・テールでバスを降り、ジェルボーカフェの前の広場まで来て解散しました。
ジェルボーカフェは、エリザベートも愛し、リストも通ったという150年の伝統を誇るカフェとして有名で、ガイドさんも、寒かったり疲れたりして休むなら、ここがお勧めですと言っていました。外国人観光客にとって必見の観光スポットのようです。
もうクリスマスマーケットの店が開かれ、クリスマスツリーが飾られていました。

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まず、ヴァーツィ通りを歩きたいと家内が言っていたので、広場の南から通りを南に向かって歩き始めました。通り名は、ビルの壁に通り名を記したプレートがはめられいる(Vaci utca)ので分かりやすいです。まぁー、目抜き通りといったところです。

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ヴァーツィ通りは、途中でエルジェーベト橋の大通りを地下道で横切って、まだまだ続きます。地下道を抜けると、面白いモニュメントがありました。スケートをしている人でしょうか。ブラチスラバの路上のモニュメントを思い出しました。
同じヴァーツィ通りでも、ここからは店のレベルも下がり、店の前にまで商品を陳列して売っている店が多いです。

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カラフルな牛のモニュメントが、置かれていました。これはクリスマスのムードの持ち上げ用でしょうか。そして、ついに中央市場のカラフルな建物が見えて来ました。フォアグラを買おうと言っていたのですが、日曜日で市場が休みなのが本当に残念です。

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中央市場の前の通りで左折して、カルビン・テールの方に進みます。道なりに曲って、北に向かうと直ぐに、国立博物館が右側に見えてきました。ハンガリー最大の博物館で、1847年完成のネオクラシック様式です。8本のコリント様式の柱が特徴です。
さらに、30mほど北上して、ラコーツィ道路を地下道で渡り、その先のドハーニ通りに入ると、直ぐにシナゴーグ(ユザヤ教会)が見えてきます。入ろうと思ったのですが、入場料は、1人4,000Ftもするので、馬鹿らしくなって止めました。外から写真だけは撮って置きましたが、後で入った人に聞くと、入らないのが正解で入ってがっかりしたと言っていました。

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もう、聖イシュトヴァーン大聖堂が見えてきました。ともかく、大聖堂まで行って中を見学することにしました。入場料はないのですが、大聖堂の維持管理に200Ftまたは1€の寄付を払う必要がありましたが、日本円で100円程度なので、お寺のお賽銭ぐらいのものです。
中は、フラッシュを焚かなければ撮影もOKなので、中央祭壇を撮影しました。

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天井のドームもフレスコ画が描かれ綺麗です。

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主祭壇とは、別にサブの祭壇も幾つかありました。

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主祭壇のある場所の左側に奥に通じる通路があり、進むとイシュトヴァーンの手のミイラを収めた綺麗な容器が置いてあります。200Ft寄付すると、2分間だけ照明され、手のミイラを右の方から見ることができます。何か黒いものが見えましたが、本当に手のミイラなのかハッキリしませんでした。数ケ国語で書かれた説明文も置いてありました。

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まだ、時間がたっぷりあるので、エルジェーベト広場の方に歩いて行くと、日本地図の描かれた時計柱が立っていました。日本地図の下にも小さく時計が付いていて、日本時間を指していました。姉妹都市の小田原駅前・オシャレ横丁商店街からの寄贈のようです。
そして、再度クリスマスマーケットの開いている広場に行くと、なんだか賑やかな音楽が聞こえていて、見ると仮設の舞台で踊りが始まっていました。

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周りのビルも夜は電飾がなされていて綺麗です。
ジェルボーカフェで一服しました。流石に、伝統のあるカフェで内装もエレガントです。日本の青山にも支店ができたそうです。次は、セーチェイニくさり橋の方に歩きました。

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川べりに出ると、川向こうの王宮もライトアップされていました。くさり橋も既に電気が点灯されています。

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くさり橋でには、橋のたもとの左右にライオンの像(合計4頭)が1852年に設置されていますが、このライオン像に関して、舌がないので人々が彫刻家をからかい、彫刻家はドナウ川に投身自殺してしまったという逸話が有名です。しかし、実際は舌はあり(ただし像を見上げると見えない)、彫刻家は1890年代まで存命であったとのことです。

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くさり橋を渡って往復しました。戻ると、フォーシーズンズホテルの電飾も綺麗でした。
広場に戻ると、ジェルボーカフェも明るく輝いています。

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広場の片隅では、グラスを並べて音楽を演奏する人がいました。美しい音色でした。
夜のクリスマスマーケットは、益々盛り上がってきています。

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集合場所の聖イシュトヴァーン大聖堂に戻ると、ここもライトアップされていました。
ドナウベントに出かけた人達も合流して、夕食です。肉料理でした。

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ドナウ川のナイトクルーズに行きました。かなり寒いですが、覚悟の上です。街の建物ライトアップが綺麗でした。まずは、最も明るくライトアップされている国会議事堂です。

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漁夫の砦、マーチャーシュ教会(左の写真)とセーチェニくさり橋です。丘の上には王宮も見えます。

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これも「くさり橋」(左の写真)と最近になって電飾が始まったという「自由橋」です。

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    ドナウ川クルーズ(動画)    

「ドナウの真珠」といわれるブダベストの夜景を眺められるクルーズは、ほんとうに素晴らしかったです。
これで、中欧の旅はすべて終わりました。明日は帰国です。


11/21日の朝が明けました。
今日は、朝食の後ウィーンにバスで移動して、13:15発のオーストリア航空で東京に帰国します。
バスの移動で途中休憩は、まだハンガリー国内で、皆んな売店で使い残したフォリントを使うことに夢中でした。家内もパブリカの袋入りなどを買っていました。
今回の旅行で、国境を通るのに全てノーチェックでしたが、オーストリアの国境に達したとき初めて、バスを止められました。しかし、前の入口から入ってきた、気のよさそうな係官がにっこりと微笑み、そのまま降りで行ってしまいました。拍子抜けです。
そして、空港に着き出国手続き、セキュリティーチェックも済ませて、搭乗ゲートにたどり着きました。
飛び立って、水平飛行に移ったころ、食事がでました。

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東に向かう飛行で、みるみる外は暗くなってきました。
そして、夜明けの朝焼けが窓からきれいに見えました。到着の1時間30分ぐらいまえに、簡単な食事が出て、食べ終わってしばらくすると、成田到着でした。

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中欧の旅(5日目:11/19)・・・(旅行)

5日目になりました。今日は、プラハからスロバキアのブラチスラバに移動して観光の後、ハンガリーのブダペストまで行き宿泊です。
朝食の後、プラハを8:30に出発して、332Km移動してお昼にブラチスラバに着きました。
日本では、ほとんどの都市で路面電車はなくなりましたが、中欧の国々は、どこもトラムが走っていて便利に利用しているように見えます。
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まずは、昼食です。モッツァレラチーズとトマトにバジルの葉っぱを載せた前菜に、白身魚とじゃがいものメインでした。美味しかったです。
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歩き始めて直ぐに、スロバキア国立劇場がありました。なかなか立派な建物で、テラスの上には音楽家の胸像も飾られています。
その先の交差点では、杖一本で空中に浮かんでいるパフォーマンスのおじさんがいました。時々開いた傘をお尻の下に移して、体の下には何も無いことを示しています。どうやって浮かんでいるのか、話題になりましたが、後にパフォーマンスを止めて立ち去るところを見た人が居て、種が分かりました。
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同じ交差点の反対側には、マンホールから顔を覗かせている工事人がいます。通称「みつめる君」というそうです。大型トラックで壊され、3体目だそうです。チュミルという架空人物で、女の子をのぞき見しているらしいと書かれているガイドブックもあるそうです。
その先に進むと、道の傍らに「マジシャン」らしい像が立っています。皆んな、自分の帽子をマジシャンにかぶせ、マジシャンの帽子の下に立って写真を撮ったりしていました。
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街の中心の「フラヴネー広場」に来ました。広場の中心にある噴水は「ロランド噴水」と 呼ばれ、 1572年、当時のオーストリア皇帝マクシミリアン 2世の命を受けて作られたブラチスラバ最古の公共水汲み場です。その中心に立つ騎士像は皇帝マクシミリアンですが、騎士像は年に 1度大晦日の夜に回れ右をし、 6番地の屋敷に向かい、その屋敷の持ち主でブラチスラバを守って亡くなった議員に敬意を表してお辞儀をするという伝説があります。
クリスマスマーケットの店が建ち始めていて見難いですが、右の奥には日本大使館があり、日の丸が見えます。近づくと、入り口の上に菊の御紋も付いていました。ここは一等地です。一等地に日本大使館があるとは、蓮舫さんにいうべきだと言った人がいるとの説明に一同苦笑でした。
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広場の奥側には旧市庁舎があり、現在は市歴史博物館となっています。クリスマスツリー用の大きな樅の木が立てられていました。
広場のベンチの背もたれに腕を置いたナポレオンの像がありました。後ろにはフランス大使館があります。
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広場から道路に戻って進むと、道路に小さな「王冠のマーク」が埋め込まれていました。これは、戴冠式でのパレードのコースを示すものだそうです。フラヴネー広場から100m程先で右折して、ミハルスカー通りの先100mほどのところに、ミハエル門があります。かつては、城壁で囲まれていた旧市街の門の一つで、現在残っている唯一の門で、武器博物館として使われています。
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ミハルスカー通りをミハエル門と反対方向に歩くと、「フランツ・リスト」が9歳の頃住んでいた家があり、モニュメントが嵌めこまれていました。
ここで、少し自由時間があったので、カフェにでも入ろうかと、フラヴネー広場に戻り、その先の十字路で、左折してローリンスカ通りに入って行くと、レストラン「パパラッチ」の角でカメラを構えている像がありました。レストランのユーモアですね。
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結局、手頃なカフェが見つからず、最初に歩いた道に戻って入りました。
さて、またガイドの案内が始まりました。現在、オーストリア大使館になっているところが、モーツアルトが6歳の時に演奏した建物で、その旨を紹介するプレートが掲げられています。ガイドが6歳の時の演奏なのは、1762の表示の前にROKUと書いてあるでしょうと冗談を言います。
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最後に、聖マルティン教会の前を通り、バスの駐車場所に戻りました。聖マルティン教会は1452年の創建のロマネスク様式の教会で、1765年に造られた高さ85mの塔が遠くからも良く見えます。なお、1563?1830年の間に19回(内7回は女王)も戴冠式が行われたとのこです。
西の丘にはブラチスラバ城が見えますが、12世紀にロマネスク様式で建てられ、15世紀にゴシック様式の要塞に改築、後にオスマン・トルコの侵攻に備えて四隅に塔が付けられ現在の形になり、「ひっくり返したテーブル」と呼ばれ親しまれています。18世紀にはマリアテレジアの居城にもなりましたが、1811年の大火災で荒廃し廃墟となっていました。その後、第二次世界大戦後に復旧して博物館、展示館として使われています。
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バスの駐車場所に戻ると、ドナウ川に架かっている斜張橋(Nový most)の主塔の上の展望レストランが見えました。上るのはエレベータです。しかし、レストランは丸くても回転はしないそうです。画竜点睛を欠きますね。
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15:30にブラチスラバを出発して、ブダペストに向かい、18:30頃に着きました。
着いたら直ぐに、夕食です。ロールキャベツの料理で、ヴァイオリンとアコーディオンの音楽演奏がありました。我々の席の近くに来たときは、「故郷」を演奏してくれました。皆んな良い気分になって楽しかったのですが、バイオリンのおじさんの演奏のCDを取り出し、何人かが買わされていました。料理の味は、????
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2011.11.23

中欧の旅(4日目:11/18)・・・(旅行)

今日は、バスでドレスデンに向かいドレスデンを観光して、夜には再びプラハに戻ってきます。約3時間の距離を往復です。
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ドレスデンに着き、ドイツらしいソーセイジとじゃがいも、キャベツのコールスローの昼食を済ませ、オペラハウスのゼンパー・オーパー前の広場でバスを降りました。
道路を隔てた向こう側には、旧カトリック宮廷教会(左の写真)とドレスデン城が見えます。
ドレスデンの歴史的な建築物が、黒い色をしているのは、煤煙で汚れたわけではなく、多く用いられている「エルベ砂岩」には豊富に鉄分が含まれていて、長い年月で酸化が進み黒くなるためだそうです。
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そして、ゼンパー・オーパーの名で呼ばれるオペラハウスの前には、この劇場の発注者のザクセン王ヨハンの騎馬像があります。また、広場の東方向には、ツヴィンガー宮殿が見えています。
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最初に、まずツヴィンガー宮殿に入ります。この宮殿は、1694年にザクセン選帝侯となったフリードリヒ・アウグスト1世(アウグスト強健王)がバロック建築の巨匠ダニエル・ペッペルマンに命じて1711年に建築に着手した宮殿で、ドレスデンのシンボルとなっています。入り口の門となっている建物は、アルテ・マイスター絵画館になっています。ここを通り抜けると広い中庭があり、正面には「王冠の門」が見えています。
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正面の王冠の門から左右につながる回廊を覆うように建物がありました。
そして、広場の中心で左に向かうと、丸い建屋のカリヨンがあり、マイセン焼の鐘と時計が組み込まれています。内部には、マイセンの磁器の展示室があり、階段を上って、上のテラスに上ることができます。
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テラスから中庭を眺めると全体の規模がよく分かります。
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テラスの手摺にも石像が建てられ、優美さを醸し出しています。
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ツヴィンガー宮殿を出て、次にレジデンツ城(ドレスデン城)に向かいました。
歴代のザクセンの君主が住んだレジデンツ城は1945年の爆撃で大きな被害を受け、85年から修復が始まりました。
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2005年にオリジナル部分を組み込んだモダンな内部が完成し、2006年9月にはオリジナルに基づいて再現された歴史的な緑の丸天井(Historisches Grünes Gewölbe)がオープンしました。それに続いて2009年の1月31日、3連結した中庭のうち、中央の中庭が新しい入口のホワイエ(ロビー)としてオープンしました。
エルベ川方向の門から出て進みます。
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フリードリヒ・アウグスト1世(1750?1827)の座像のあるドレスデン地方裁判所の前を通り、ブリュールのテラスへの階段を上ります。なお、座像の王は、裁判所の前に相応しく、左手に「法」と書かれた本を持っています。
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旧王室芸術アカデミー校の円屋根のある建物の手前で、右に階段を降りおしゃれな店の並ぶ通りを進みます。
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フラウエン教会の前にでました。11世紀に創建され、18世紀に塔の高さが95mの大バロック様式の教会に建て替えられましたが、大戦で瓦礫と化し、そのまま放置されていたが、1994年から再建が始まり、全ての瓦礫に番号が付けられて整理され「世界最大のパズル」といわれた作業を経て元の場所に戻されました。
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内部は、教会の名前に相応しく、祭壇も内装も美しく素晴らしいものでした。
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再びレジデンツ城の城壁にでました。馬小屋の外側に得がれたアウグスト強健王の「君主の行列」と題される、マイセン焼のタイル25,000枚の長さ101mにもおよぶ壁画です。1200℃で焼かれたマイセン磁器なので、連合軍の空爆で城が炎上しても、この壁画だけは耐えたといいます。
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行列最後尾には壁画作者のW.ヴァルター自身が描かれています。
最後に旧カトリック宮廷教会の正面入口前を通りました。この教会は、1755年に建てられ、ザクセン州最大の教会で鐘楼の高さは85mです。壁には諸聖人の彫像が飾られています。
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これで、ドレスデン観光を終え、
プラハに戻り夕食です。
チキンがメインの食事でした。

中欧の旅(3日目:11/17)・・・(旅行)

3日目になりました。今日は、プラハに向かい、プラハの街を観光します。
朝食を済ませて、8:00にバスで出発してチェコのプラハに向かいます。プラハまで約5時間のバスの旅です。
途中の森の中では、霧氷が木々を飾っていました。とても寒そうです。
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森を過ぎて、田園地帯も霧で幻想的です。
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プラハの市街に着きました。気温は3℃で少し上がって、霧氷などは見られません。
まずは、レストランに向かい、昼食です。メインは牛肉とタマネギ、パプリカなどから作られるシチュー料理のグヤーシュです。美味しかったです。
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食事を済まし、プラハ城の北門に向います。聖ヴィート大聖堂の尖塔が見えてきました。
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北門も両側に衛兵が直立不動で立っています。中に入ると第二の中庭で、正面に1764年に建てられ、1856年に建て直した聖十字架の礼拝堂とコールの噴水があります。
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さらに、第三の中庭に進むと、大きな聖ヴィート大聖堂があります。大きくてカメラに収まりません。大きさは奥行き124メートル、幅60メートル、高さ96.6メートルもあり、14世紀のカレル4世の時代に現在のような堂々とした建物にする工事が始められ、最終的な完成は20世紀になってからというのも驚きです。
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中に入りました。入り口上部には丸い「バラ窓」と呼ばれる窓があります。
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大聖堂の入り口を出て、左にまわって行くと、聖ヤン・ネポムツキーの像がありました。聖ヤン・ネポムツキーの像は、プラハ市街のあちこちで見られるとのことですが、常に頭に5つの星を配して造られています。
南ボヘミアのネポムクの出身であったことから、聖ヨハネのネポムクとも呼ばれ、その殉教の背景には、当時のボヘミア王ヴァーツラフ4世とカトリック教会との対立があり、空席となっていた大修道院長の人選をめぐる問題があったとする説や、司祭として知りえた王妃の告解の内容を王に明かすことを拒んだからとする説などがあるそうです。いずれにせよ王を怒らせた聖ヨハネは拷問を受け、1393年3月20日に落命しました。その遺体はカレル橋の上から投げ捨てられましたが、同年4月17日、ヴルタヴァ川の川岸で発見されました。
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大聖堂と間に第三の中庭を挟んで建つ旧王宮は、現在はチェコの大統領府として使用さています。そのため国旗が掲揚されています。衛兵の交代がありました。
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プラハ城の正門に向かいます。正門の両側の門柱の彫刻は、戦う巨人たちでインパクトがあります。当然門柱には、衛兵が直立不動の姿勢で立っていて、観光客とよく一緒に写真撮影されます。
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正門を出て、左に進むと、プラハの街の赤い屋根が美しく見渡せます。そして、階段を下って行きます。
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下って行くと、英国大使館があって、チャーチルの胸像がありました。パイプをくわえていないのは、最近のご時世にならって禁煙したからでしょうか。
そして、トラムの走る道路に出て、さらに下るとカレル橋にでます。
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午後4時ですが、夕闇が迫ってきた気配です。カレル橋(カルルーフ・モスト)は、観光客は必ず訪れるところで、大勢の人が歩いています。、プラハを流れるヴルタヴァ川(モルダウ)に架かっている橋で、ヨーロッパに現存する最古の石橋です。神聖ローマ皇帝カール4世の治世下1357年に建設が始まり1400年に完成しました。最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていましたが1870年よりカレル橋と呼ばれるようになったとのことです。橋の長さは516mで、橋の欄干には15体ずつ、合計30体の彫刻が並んでいます。その中でも有名なのは聖ヤン・ネポムツキー像で、台座の左側のレリーフに刻まれた聖人をなでると幸運が訪れると信じられていて、皆が触るので金色に輝いています。
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聖人の像の傍らには、物乞いの乞食もいました。寒いので同じ姿勢を保つのは厳しいことだと思います。生活保護制度からも漏れる人が居るのでしょうか。橋の下では、今日もヴルタヴァ川が豊かに流れています。
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日本人には、馴染みの深い聖フランシスコ・ザビエルの像もあります。カレル橋を渡って行くと、向こう側の橋にも塔が建っています。
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516mのカレル橋を渡り終え、旧市街広場に急ぎます。ひときわ高くそびえているのは時計塔です。時計塔と西に続く建物が旧市庁舎で、世界遺産です。

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広場の東側にはティーン教会(正式にはティーン(税関)の前の聖母マリア教会)の2つの尖塔がライトアップされて美しく輝いて見えます。
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広場の中央には、ヤン・フスの銅像があります。ヤン・フスは、チェコの宗教改革の先駆者として知られていて、ローマ教会の堕落を厳しく批判したため、1415年に火あぶりの刑になりました。銅像は、1915年フス没後500年を記念して造られたものです。
広場の西北の隅には、聖ミクラーシュ教会があります。18世紀に完成した豪華で壮麗なバロック様式の教会で、1787年、モーツァルトがこの教会で演奏したオルガンが現存しているとのこと。
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カフカ( 1883 – 1924)が生まれた家が、聖ミクラーシュ教会の北側にあります。現在、カフカカフェが入っている建物です。
時間があるので、火薬塔を見に行きました。火薬塔は15世紀終わりごろにプラハの旧市街の入り口として建てられた門です。17世紀に火薬置き場として塔を使ったので塔はその時代から火薬塔と呼ばれています。19世紀に塔の建て直しが行われ、現在の塔の高さは65メートルです。
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火薬塔の隣には市民会館がありました。アールヌーヴォー様式の建物で1906年に建設が始まり、1912年11月22日に完成しました。
1918年チェコスロバキアの独立宣言した場所であり、今は、プラハの春音楽祭のメイン会場として有名で、音楽祭は、1946年より始まり、毎年スメタナの命日5月12日に開幕します。
この近くのレストランで魚料理の夕食をとり、今晩のホテルに向かいました。

2011.11.22

中欧の旅(2日目:11/16)・・・(旅行)

今日は、ウィーン観光です。
昨日は、ホテルに着いてお風呂に入ったら直ぐに眠ってしまいましたが、時差のため朝は早く目が覚めます。6:30からのバイキングスタイルの朝食も待ちかねるようにして済ませ、8:45のバスでの出発まで時間があるので、少しホテルの周りを歩いて見ました。気温は3?4℃程度でしょうか、かなり寒いです。
ホテルの前には小公園があり、冬枯れでほとんど葉の落ちた木立になっています。トラムの駅もあるので、ここで乗れば、ウィーン西駅まで行く事ができます。
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8:45になり、バスで世界遺産である、近くのシェーンブルン宮殿に向かいました。かなりな濃さの霧で、写真が綺麗に撮れません。今回の旅行中は、毎日が霧で太陽を見ることは有りませんでした。
1619年頃、狩猟の途中にこの地に足を踏み入れたハプスブルク家の皇帝マティアスが、良質の湧き水を発見し、「おお、美しき泉よ。」と言ったところから、この名前がついたといいます。シェーンは美しい、ブルンネンは泉です。
ハプスブルク家唯一の女帝にして最大の権力を誇ったマリア・テレジアと、彼女ゆかりの宮殿内には豪華な部屋があります。1740年に23歳の若さで即位したマリア・テレジアは、強靭な精神力と巧みな政治手腕で帝国に繁栄と安定をもたらし、夏の離宮だった宮殿を大改築して、1400室以上のロココ風の部屋と幾何学的な広大な庭園を持つ豪壮なものにしたのです。
外壁は、マリア・テレジア色といわれる黄色になっています。内部の豪華な装飾の部屋を見学しましたが、内部は、残念ながら撮影禁止でした。マリア・テレジアに招かれ、モーツアルトが6歳でチェンバロ演奏を披露し、床で転んで、後にルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットに助け起こされ、「将来君と結婚してあげる」と言ったのもこの宮殿です。
上層階の侍従たちが住み込んでいた部屋は、国営の賃貸アパートとして一般人が住んでいるとのことですが、世界遺産に住めるとは驚きです。シェーンブルン宮殿宛の手紙を貰うのは、さぞや良い気分だと思います。
正面入口前には、大きなクリスマスツリーが既に立てられていました。
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宮殿の右横の庭園を見ながら、宮殿裏に向かいました。広大な庭園です。
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裏側から見た宮殿です。
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裏庭を真っ直ぐ500mほど進むと、ネプチューンの噴水があり、さらにその先にはグロリエット戦勝記念碑があります。噴水の水は出ていませんでしたが、立派な噴水です 。写真を撮りに行って、集合時間に遅れそうになりました。
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正門前には石畳の広場があり、その四隅に支配者の象徴であるスフィンクスが鎮座しています。前足の先端近くまで女人像で胴体はライオン像です。さらに真っ直ぐに通りが伸びています。
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シェーンブルン宮殿を後にして、シュテファン大聖堂に向かいます。途中には、1784年から87年までモーツアルトが住居とした建物もありました。この家で「フィガロの結婚」を作曲したそうです。
シュテファン大聖堂は、ウィーン市街の中心にあり、ハプスブルク家の歴代君主の墓所であるほか、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとその妻コンスタンツェ・ウェーバーの結婚式と葬儀が行われた聖堂としても知られています。壮大な建物で、何処から撮影しても全体は収まりません。観光用の馬車が何台も停まっていました。
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シュテファン寺院から伸びるケルントナー通りを進みます。ウィーンの目抜き通りで、有名ブランド店が並んでいます。既にクリスマスの飾り付けも一部始まっていました。

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ケルントナー通りの最後には、ウィーン国立歌劇場があります。世界屈指の歌劇場であり、国際的な舞台で活躍するトップアーチストたちが出演しています。毎日演目を変えて上演されており、50のオペラとバレエが約300日間にわたって上演され、公演日数は世界でもっとも多い劇場です。ここで、一度ゆっくりとオペラでも鑑賞したいものです。

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次は、ホーフブルク(王宮)です。自然史博物館の前辺りから入って行くと、広い中庭が広がっています。ひときわ目に付くのは、カール大公とオイゲン公の騎馬像です。
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カール大公(左の写真)は1771年9月5日、オーストリアで神聖ローマ帝国皇帝の第三子として生を受けます。フランス革命戦争が勃発、その時期にカール大公は軍隊入りし頭角を現し、皇帝の弟でもお飾りの司令官ではなく、自ら作戦指揮をして一度はナポレオンを退却させるなどの活躍をした大公です。
一方、オイゲン公(右の写真)はフランス貴族でありながらオーストリア皇室に仕え、オスマン帝国のドナウ川中流域奪回の最後の試みを挫折に導くなどの活躍をしました。
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駆け足の観光で、ヘルデン門(ブルク門)から外に出ます。道路を跨ぐとマリア・テレジア広場で、クリスマスマーケットが始まりつつある感じで、何店舗か開かれていました。そして、マリア・テレジアの銅像があります。
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マリア・テレジア広場の左右には、自然博物館と美術史博物館が対象な形で建っています。
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自然博物館の隣は、国会議事堂です。1883年、アテネで教鞭をとっていたデンマーク人のテオフィル・フォン・ハンセンによってつくられた国会議事堂で、民主主義の象徴として、その発祥の地アテネにちなんで構想されたといいます。前面には、アテネの女神像まで建っています。
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昼食は愛想の良いおやじさんのいるレストランでシュニッツェルを食べ、その後、自由行動の人達と別れてウィーンの森に向かいます。ウィーンの森といってもウィーンの西側に広がる丘陵地帯で、広大な領域で、まずハイリゲンクロイツ(聖十字架)修道院に向かいました。到着して、バスを降り、クリーム色の建物の中央の入り口の門から中に入ります。バーベンベルク家レオポルト3世によって1133年に創設され、オーストリアでは一番古いシトー派の修道院です。回廊に取り囲まれた中庭の奥の方には聖母マリアの像があり、台座の周りは泉になっていて、その外側にはプラタナスの大木が立っていました。
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一方、中庭の出口に近い方には、三位一体の塔が建っていて、その塔と向き合うようにチャペルの建物が建っています。そして、他の建物と違い歴史を感じさせるものでした。
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帽子を脱いで、チャペルの中を見学します。フラッシュを使わなければ撮影も許されるとのことで、正面祭壇を撮らせてもらいました。
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次は、小さな街マイヤーリンクにある小さな修道院教会に向かいます。ここは、オーストリアの皇帝フランツ・ヨゼフ帝と皇后エリザベスの1人息子である皇太子ルドルフ(当時31歳)が、17歳の愛人のマ リー・ヴェッツェラ男爵令嬢と一緒にピストル自殺を遂げたところです。元々皇太子の別荘で狩猟の館であったのですが、事件の後、フランツ帝が2人が心中をした場所を祭壇として、2階をを取り除いて礼拝堂に作り変えてしまいました。「うたかたの恋」の題名の映画にもなりました。

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10人ほどの修道女の方がいらっしゃるそうです。
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祭壇は、可愛い造りで、入り口上部のステンドグラスも綺麗です。別室には、マリーが1889年から1959年まで眠っていた棺と、壁にはマリーの写真が飾られていました。
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次に向かったのは、温泉で有名な小さな街のバーデンです。バスから降りると、果物屋があり、思わずシャッターを押していました。リンゴとラ・フランスがいっぱいです。
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クリスマス用品などを売る店のショーウインドウを覗きながら歩いて行くと、シューベルトとリストのプレートが掲げられた建物がありました。温泉のあるこの地を良く訪れたそうです。また、その先で細い通りに入ってゆくと、この地を愛した音楽家のひとり、ベートーベンの暮らした家がありました。建物の入り口には、ベートーベンが1821年から18233年の間の夏にこの家に住み、「第九交響曲」を作曲したと書かれていますが、彼は既に耳は聞こえなくなっていました。ウィーンに住むようになって、2人の弟を呼び寄せたが、28歳の時から患っていた中耳炎が悪化し始め、殆ど耳が聞こえなくなり、絶望の淵に追い詰められて自殺を決意し、2人の弟へ宛てた手紙をしたためました(有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」です)。しかし、思い直し、こんな素晴らしい曲を作ったのです。 説明を聞いたグループから、思わず第9の合唱のメロディーの口ずさみが沸き起こりました。
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細い道路を進んで行くと、ペスト記念碑が見えてきます。町の中心地ハウプトプラッツ広場です。ペスト記念碑は、欧州で猛威を振るったペストが治まったのを記念して建てられた塔です。
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この広場に面して、市庁舎もあります。
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広場につながる通りを歩くと、有名ブランドの店が並んでいます。
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クリスマスの飾りを売る店は、覗いているだけで楽しくなります。
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だいぶ暗くなって来ました。ウイーンのホテルに戻り、夕食です。
メインは、チキンにお米を敷いたもので、美味しかったですが、デザートは甘すぎるとは皆さんの意見でした。忙しい2日目も終わりました。
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中欧の旅(1日目:11/15)・・・(旅行)

中欧(オーストリア、チェコ、ドイツ、スロバキア、ハンガリー)の旅に家内と出かけました。
宿泊は、ウィーンとプラハ、ブダペストにそれぞれ2泊づつで、毎日荷物のパッキングをしての移動よりは楽ですし、同じホテルに2泊なので下着類は洗濯もできます。
季節的には少し遅いのですが、出来ればクリスマスマーケットも観てみたいと、この時期を選びました。
11月15日、成田空港に10時15分集合なので、少し余裕を見て6時40分にタクシーを呼び、YCATから7時30分発のリムジンバスに乗りました。
交通はスムーズに流れて、9時10分ぐらいに成田空港に着きました。まだ、集合時間に1時間もあるので、とりあえずお金をユーロに替えたりしている内に集合時間が近づいて、人も集まってきました。
今回の旅行の参加者は、38人で少し多いグループで、添乗員さんは大変です。当然、熟年夫婦の参加が多いのですが、若い女性の一人旅に加えて、大学生(男)と父親、若い息子と両親の組み合わせもありました。
ウィーンまでの航空券を受け取り、チェックインを各自済ませて、皆が揃うの待って出国しますが、チェコのお金のコルナ(1Kc ≒ ¥5)とハンガリーのフォリント(¥1 ≒ 2Ft)も成田で替えて置く方が、レートが良いとのことなので替えることにしました。しかし、コルナ、フォリントは、逆に円に替えるのは大変なので、最小限にして足りなくなったら現地で追加で替えることにしました。どうせ、高額なものはクレジットカードで払えば良いことです。
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出国手続きをすませて、搭乗ゲートに進むとウィーンまで乗る、オーストリア航空の飛行機が駐機しています。オーストリアのフラグ・キャリアですが、資本的には、ルフトハンザドイツ航空の傘下にあるそうです。ウィーンと成田の便ということで、日本人のフライト・アテンダントも乗っています。また、フライト・アテンダントは洋服のみならず、ソックスも靴もカバンさえ赤で統一されています。
これから、ウィーンまで12時間のフライトです。
出発して水平飛行に移った頃、飲み物サービスに続いて、食事がでました。鮭かチキンのチョイスで、私は鮭を、家内はチキンを選びました。オーストリアの頭文字のAを型どった容器に入ってきて、日本蕎麦も付いています。味は、よかったですが、野菜サラダ、デザートがなく、他社と比べて少し劣る感じでしたが、私には十分でした。家内が「有名なマンナーのウエハースがついている」と喜んでいました。
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いよいよウィーンが近づいてきて、着陸まで1時間半ぐらいの所で、2回目の食事がでました。
下にご飯を敷き、とろみを付けてシーフドを煮たものをかけてあります。これは美味しかったです。
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ようやく、ウィーンに着きました。バスでシェーンブルン宮殿近くのホテルに向かいましたが、空港出口からバスの駐車場所に向かう僅かな間でも日本に比べて、相当に寒いのが感じられました。ホテルに着くと、夜食として紙袋に、パンにシュニッツェルを挟んだものと、チーズを挟んだものにリンゴを添えたものを入れて、配られました。ホテルの前にはトラムが走っていて、地下鉄の駅も遠くはないのですが、疲れてホテルの外に出る気も起こらず、お風呂に入って、パンをひとつだけ齧って、寝てしまいました。

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2010.11.11

トルコとエジプトの旅(9,10日目:11/6,7)・・・(旅行)

今日は、カイロ歴史地区のオールドカイロを見学した後、エジプト考古学博物館を見学して昼食をとり、カイロ空港に向かい午後4時55分発のエジプト航空で成田に向かい帰国します。
6時起床で窓の外を見ると、今日も霧が出ています。今日は帰国なので6時30分ころスーツケースをドアの外に出し、朝食に行きました。トルコでコーヒーを頼むと驚くことに、レストランでも、ホテルでもネスカフェのインスタントコーヒーなので、コーヒー中毒の私も手が出なくて我慢していたので、今日はゆっくりとコーヒーを飲みました。上等なコーヒーでなくてもインスタントコーヒーより、はるかに良いです。
出発は8時なので、ロビーに座り込んで時間を持て余しぎみでした。
出発して、バスの窓から見ると、トルコより一段と貧しさが伺われます。GDPで見るとトルコの五分の一程度で、日本の三十分の一です。トルコはG20メンバーですから差があるのは当然かも知れませんが。
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オールドカイロ地域に入って行きます。歴史地区と言われ、歴史的に意味があると思える建物が見られますが、事前に勉強もしておらず、ガイドさんが説明してくれても頭に残りません。
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途中で、大勢の人が佇んでいるのを見かけました。ガイドの話では、今日の仕事にあり付こうと待っているとのことでした。日本も大変ですが、もっともっと大変な国があります。
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スルタンハッサンモスクに着きました。オバマ大統領も訪れたモスクで、マムルーク朝の1356年から1363年にかけてスルタン・ハッサンが建てたものです。マムルーク建築の傑作といわれています。建物の石材は、ギザのピラミッドのものを使っていて、高さ81mの尖塔(ミナレット)が立っています。建築を指揮したスルタン・ハッサンの治世は短く、完成を見ずにこの世を去ったそうです。
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9時20分にエジプト考古学博物館に着きました。収蔵点数が20万点のぼると言われています。事前に見たい物を系統別に決めておかないと、漠然と見ても限(きり)がない感じです。
誰でも見たい人気のあるものは、ツタンカーメンの黄金のマスク、人型棺、首飾りなどの装飾品であると思われます。ガイドがの後ろに付いて説明を聞き、ガイドは入れないというツタンカーメンの展示室をゆっくりと見てきました。特に、黄金のマスクは、日本に来たときに見逃していました。
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当然ながら博物館内は撮影禁止なので、博物館の外で、エジプトの若いお嬢さん方にカメラを向けました。皆にっこりと微笑んでくれました。
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この後、金のアクセサリーを売る店に行きました。ここでも巧みな日本語で講釈してくれます。
エジプトの象形文字で名前を刻んだペンダントヘッドがお勧めのようですが、刻む文字数によって値段も変わるようです。
エジプトで最後の食事の昼食を取るため、直ぐ隣にあるレストランに向かいました。ここで食事をしている間に、名前を刻んだペンダントヘッドが出来上がって届くという仕掛けです。
バイキングの昼食でしたが、なかなか美味しかったです。しかし、混んでいて席は少々窮屈でした。
昼食の後、車窓から街の風景を眺めながら、空港に向かいました。
道中色々と、歴史的な建物を見せてくれますが、解説を聞いても頭に残りません。
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厄介なセキュリティーチェックも慣れてきて、エジプト航空にチェックインして、時間があるので免税店をうろうろしましたが、ちょっとした小物のお土産を買ったぐらいで、特に欲しいものも見当たりません。そして、いよいよ搭乗して飛び立った頃には、日本は11月7日になっています。しばらくして食事が出て、その後は疲れのためか、ほとんど寝ていました。
日本時間の12時に無事成田に到着して、流れ解散のため入国審査、荷物ピックアップ、税関と通り抜けて、リムジンバスでYCATに向かい帰宅しました。
少し長かったが、楽しい旅行でした。参加したメンバーにも恵まれたと思っています。
11月になれば、トルコは雨が多くなり、雨が降れば内陸部は相当に寒くなると聞かされていて、旅行の時期を間違えたかと思ったりしましたが、全行程を通じてほとんど雲もない快晴にも恵まれました。

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