2013.04.14
上田城からあんずの里に向かう途中で、新田醸造所に寄り味噌蔵を見学しました。
味噌は、4トンもしくは6トン入る大きな樽で一年間かけて熟成させるとのことでした。また、大きな樽は、100年ほど前に作られたものを使い続けていると言っていました。


宿泊は斑尾高原にあるホテルでした。スキーのリゾートホテルで周りには、まだまだ雪が残っていました。


宿泊した部屋の窓から眺めるホテルの裏はスキー場で、雪もしっかりと残っていました。標高は1,300mぐらいですが、まだまだ寒いのですね。


バスの中から、妙高(左)と黒姫(右)がよく見えました。


高遠城にある絵島の囲い屋敷です。33歳の若さで、八畳一間のみ与えられ、この部屋から厠と台所に行く以外は許されず、紙、筆も与えられない厳しい幽閉生活でした。日蓮宗に帰依し、お経を読んで過ごす毎日であったとのことです。そして61歳で病で亡くなります。


2つ目は、桜ではないのですが、3日後の15日に天皇皇后両陛下も訪れられる予定の「あんずの里」です。この千曲市のあんずの里が形成されたのは、元禄時代、伊予宇和島藩主伊達宗利候の息女豊姫が、松代藩主真田幸道候にお輿入れの折り、故郷の風情をしのぶよすがにと杏の種を持参したのが始まりといわれています。
今では、日本一のあんずの里です。






2013.04.13
東京、横浜などでは桜見物の時期が過ぎてしまいましたが、4月12、13日に長野県の桜の名所と新潟県の高田城を巡ってきました。最初に訪れたのは、真田昌幸の築城した上田城です。 40,000を有する徳川秀忠が3.000の真田軍にさんざん翻弄され、秀忠が関が原の戦いに間に合わない大失態をおかすこととなった上田城です。
東虎口櫓門から場内に入ります。入る前から一面に咲く桜が迎えてくれます。


城門右手の堀に立つ枝垂桜がことのほか見事です。
城門右の石垣には、真田石と呼ばれる大石があります。真田信之が松代城に移封となったとき持ち去ろうとしたが、不動であったとの伝説があるそうです。


城門を入るとすぐに真田神社があります。真田神社を後にして本丸跡の桜を右に見て進むと、堀の両岸に植えられた桜が見事な景観を示しています。


上田城の堀は素掘りのままなので、桜を植えるのには都合がよかったのではないでしょうか。



最後に西櫓を見て、その横の急な坂道を下って城外に出ました。


2012.10.17
仙台の青葉城は昨年の6月に訪れたときは、3.11の大震災のため石垣を修復中で大手門から入れなかったが、今回もまだ修復は終わっておらず入れなかった。
東北大の前を通り、大きく回りこむと青葉城址に行けるのでタクシーで行ってみた。大きな鳥居を潜って最初に訪れたのは、宮城県護国神社です。
日清戦争後の明治31年(1898)に組織された昭忠会を母体として、日露戦争中の明治37年(1904)8月27日、現在地に「招魂社」を建立し、大日本帝国陸軍・第二師団管下(仙台師管区:宮城県・福島県・新潟県)および山形県の戦死者の一部を祀ったのを起源とし、昭和14年(1939)の内務省令により内務大臣指定護国神社となり、「宮城縣護國神社」に改称しました。明治維新以降の諸事変、戦役における宮城県関係あるいは縁故のある戦死・殉難者、5万6千余柱の英霊を祀っています。


次には、やはり伊達政宗の騎馬像です。大手門口に修復された櫓が建つのみで、在りし日の青葉城をうかがわせるものは何もないので、騎馬像とその前の広場から仙台市街を見ると、もう終わりです。
奥州で最も覇を競った伊達藩のお城であるが、拍子抜けするぐらい何もなかったです。おみやげ屋やレストランはあり、賑わっていましたが。


実は、青葉城には10/15にタクシーで訪れ、16日に秋保温泉で一泊し、17日に仙台市観光の「るーぷる仙台」と称するバスに乗り、市街観光しました。
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最初に訪れたのは、明治4年(1871)生まれで、詩人、英文学者の土井晩翠が晩年を過ごした、「晩翠草堂」です。イーリアス、オヂュッセーアの翻訳の他「荒城の月」の作詞者としても有名で、島崎藤村とともに「晩藤時代」と称され、大きな足跡を残しました。
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次に訪れたのは、伊達家の菩提寺の瑞鳳寺です。瑞鳳寺(ずいほうじ)は、臨済宗妙心寺派の仏教寺院で山号は正宗山です。開山は清岳、開基は伊達忠宗、本尊は平泉の毛越寺より遷した釈迦三尊像で江戸時代初期の寛永14年(1637)、仙台藩2代藩主・伊達忠宗によって、藩祖・伊達政宗廟「瑞鳳殿」が造営された際に香華院として創建されました。


瑞鳳寺の山門前を通って進むと、進路は階段となり、伊達政宗公の霊廟の「瑞鳳殿」があります。政宗公は、この霊廟の地下に眠っているとのことです。本殿両脇には、殉死した家臣15名および陪臣5名の宝篋印塔が並んでいます。


瑞鳳殿を後にして進路にしたがって進むと、二代藩主忠宗の霊廟の感仙殿があります。
本殿両脇には、殉死した家臣12名および陪臣4名の宝篋印塔が並びます。
また、その右隣には、三代藩主綱宗の霊廟の善応殿があります。三代藩主の頃には殉死は禁止されていたので、替わって14名の家臣が剃髪して百日間の弔いを行い、うち1人が出家し、没後に遺骸が善応殿の南側に埋葬されたとのことです。


最後は、お世話になった「るーぷるバス」です。東北大学前を走っています。

2012.10.16
仙台駅から旅館の迎えのバスで約30分で仙台の奥座敷秋保温泉に着きます。
秋保温泉は古い温泉で、第29代・欽明天皇(531年?539年)が、小瘡(皮膚病)を患った時、秋保から運ばせた湯で湯浴みしたところ、それが完治したと云われている温泉です。
温泉のあたりで、名取川が急に狭くなり、磊々峡(らいらいきょう)と呼ばれる石英安山岩質・凝灰角礫岩の見事な峡谷があります。


畑山崇一の歌の石版(右の写真)





更にバスで30分ほど上流に向かうと、西光寺(秋保不動尊)と秋保大滝があります。
秋保不動尊の縁起は平安時代初期に慈覚大師が山形県の山寺へ行く途中、秋保大滝を眺めたとき、比例なき霊地と定め、1体の不動明王を安置し山寺の奥の院とした事が始まりだとされています。
また、秋保大滝は、落差55m、幅6mで「日本の滝百選」に選ばれています。



2012.08.02
妹夫婦が、いままでに尾瀬に行ったことがないので一度は行きたいと誘われ、2012/7/31に日帰りのバス旅行で尾瀬ヶ原に行って来ました。
私は、1965年とその4年後に訪れています。当時は便利なバスツアーもなく、テント、シュラフ、食料を担いで電車とバスを乗り継いでの旅でした。今は、出発して3時間ほどで鳩待峠まで一気にバスで到着です。

下のモノクロ写真は1965年の時のものですが、鳩待峠の標高は1615mとなっていて、現在の標識の1591mと異なります。表示板の立っている場所が少し移動されたのでしょうか。


出発して石畳の階段樣の道を下ると、直ぐに尾瀬のシンボルとも言える木道が現れ、山の鼻に向かって進みます。下り坂で樹林帯の中を通る道は、涼しく気持ちが良いです。名前は知らないが、可愛い花も咲いていました。


鐘が立っていました。「ご通行の皆様へ クマと出会わないために、人が通ることを知らせて鐘を鳴らしてください。」と書かれていました。今日はかなり大勢の人が訪れているので大丈夫でしょう。そして、澄んだ沢の水には魚が泳いでいました。ヤマメでしょうか。


1時間ほどで「山の鼻」に着きました。ここには、ビジターセンター、国民宿舎、キャンプ場があります。ちょうどお昼です。バスの中で配られたお弁当を食べ出発しました。少し進んで振り返ると「至仏山」が美しい山体を見せていました。


進行方向には「燧ケ岳」が見えます。歩行の木道を1965年当時と比べると、上下区分のない一般道が中央分離帯のある高速道路に変わったように思えます。


尾瀬ヶ原に点在する池には浮島が浮かび、スイレン科の「ヒツジグサ」が咲いていました。
なお、ヒツジグサの名は、未(ヒツジ)の刻(午後2時)頃に咲くから名付けられたとのことです。


尾瀬は、本当に癒される景色です。もう咲き終わった「ニッコウキスゲ」もわずかに残っていました。


竜宮小屋に到着して、休憩を取りました。午後1時を過ぎたので、ここから引き返すことにしました。鳩待峠の駐車場に15時40分までに帰る必要があります。
山の鼻には、14:10分に着き、14:30分まで休憩の後、無事15:40分には鳩待峠に帰って来ました。最後の10分の石畳の階段の上りは、かなり堪えました。歳は争えません。
16時にバスは出発して、途中ホテルでお風呂に入り、サッパリして帰りました。なかなかに充実した一日でした。
2012.06.25
2012/6/24、野島崎灯台を後にして、昼食です。
海の幸いっぱいの食事で、蓋の閉まったお重も中は刺身が乗っかったものでした。
食事のデザートは、枇杷(びわ)の食べ放題で、山盛り枇杷が積まれた大皿が2つ置かれ、少なくなると継ぎ足されました。流石に2回りで皆さん堪能したようです。


食事を終えて、袖ヶ浦公園に向かいました。花菖蒲を見るのが主目的でしたが、先日の台風でかなり傷んでしまったとのことでした。

それでも、絣の着物と赤い前掛けのお姉さんの花がら摘みが色を添えます。






小高い山陰には、紫陽花も植えられていて、風が遮られる地形であったためか、綺麗な写真が撮れました。




公園内では、花菖蒲、紫陽花の他にも黄色い百合の花、マリーゴールドなどが見られます。





後は、横浜に帰りましたが、アクアラインはかなり渋滞していました。
2012/6/24、日運寺で紫陽花の撮影を行った後は、房総半島最南端にある野島崎灯台を訪れました。


灯台の入口には、明治2年に作られ、震災による被害の改修を大正14年に行った旨のプレートが掲げられていました。
この灯台は開国の歴史を飾る慶応2年にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ヶ国と結んだ「江戸条約」によって建設を約束された八ヶ所の灯台の一つで、フランス人技師ウェルニーによって設計されたものです。関東大震災で倒壊し、大正14年に再建されたました。


らせん階段を上って行くと、最上部の電灯室には入れませんが、大きなレンズが透けて見えます。そして、外の回廊に出ると天気の良い日は伊豆七島まで見えるという眺望が広がっています。


灯台の脇には展示室があり、灯台設計者のフランス人技師ウェルニーの胸像、灯台の心臓部であるレンズ等が展示されていました。


灯台の手前には、厳島神社がありました。境内には、安房の生んだ幕末の優れた石工の武田石翁(本名:小滝周治)が19歳の時に刻んだという七福神の像がありました。何故か弁財天のみ社殿に入っています。また、子宝に恵まれると、巨大な木造の男根も祀られていました。

