2013.05.27
四季の森公園は、神奈川県立の公園であり、横浜の南武線の中山駅から徒歩で20分ほどの場所にあります。期待を込めて行ったのですが、規模においては藤沢の新林公園(しんばやしこうえん)より小さいものでした。また、花が咲いている季節を外していたので、ほんの僅かに菖蒲が咲いていただけで、いささか物足りなさを禁じ得ないものでした。しかし、林の中の道は、新緑にあふれ心地良い散歩道の風情でした。


「かわせみ」を狙って、カメラの砲列が敷かれていました。


進むと、「不動の滝」の表示杭が立っていましたが、水は僅かに染み出している程度でした。
気持ちの良い林間の道が、延びています。


趣のある水車小屋がありました。菖蒲園は、まだ花はごくごく僅かしか花は咲いていません。
典型的な、谷戸の風景です。


僅かに咲いていた、貴重な菖蒲です。


カワセミの撮影ポイントとなっている、池の中の枯れ枝です。皆さん、気長に待っています。




2013.05.09
友人のブログで「新林公園」の写真を見つけ、行って見たくなり訪れました。
新林公園は、藤沢駅から南東方向で、駅から15分程度で、小さな尾根に挟まれた典型的な谷戸の情景を見せてくれます。
子供たちの賑やかな声を聞きながら進むと、茅葺の長屋門が建っていました。藤沢市渡内(ふじさわしわたうち)の旧家で江戸時代には名主を務めた福原家の長屋門を移設したものです。市指定文化財となっています。


福原家の長屋門を潜って進むと、今度は藤沢市柄沢(ふじさわしからさわ)で江戸時代に名主を務めた小池家の家屋が建っていました。立派な建物で、これも市指定文化財です。庭には鯉のぼりの鯉が泳いでいました。



古民家の先には、小さな池があり、その奥は、かつて水田であった湿地帯です。典型的な谷戸の風景です。


水田地帯を通り抜けた突き当たりには、川名大池があります。農業用水の溜池として作られた池です。池から少し引き返すと、池の東側の尾根への上り口があります。急な上りの坂道です。


尾根を巡るハイキングコースが整備されていて、フィトンチッド浴を楽しみながら歩いて行きます。
途中には、見晴台があり、江ノ島から茅ヶ崎海岸あたりまで見通せます。


また、「獣落し」も残っていました。小動物を捕らえるために掘られた落とし穴で、人の背丈より深かったとのことですが、今は土砂で埋まり、浅い穴となっていました。


公園内には、子供用に遊具などが備えられた、「冒険の氷広場」と呼ばれる広場もありました。
2013.04.20
今日は、4月19日で、夕方には元の職場のOB連中による年2回の懇親会です。残念ながら昨日とうって変わって曇りで風も強く肌寒い天気ですが、少し早めに出かけて、以前より一度歩いてみたと思っていた二ヶ領用水(にかりょうようすい)を訪れました。
二ヶ領用水は、江戸期に農業用の用水路として造られた川崎市内を流れる人工河川で、当時の「稲毛領」と「川崎領」のふたつの領にまたがって造られたのでその名が付いています。南武線の稲田堤近傍の多摩川にある上河原堰と登戸近傍にある宿河原堰から取水していますが、今回は、距離が短い登戸近傍の宿河原堰から歩くことにしました。
南武線の登戸駅で降り、多摩川の土手に出て下流方面に進むと宿河原堰の取水口があります。

取水口から進むと、かつての農業用水としての二ヶ領用水は、両岸に桜が植えられ水辺の遊歩道として整備され快適な場を作り出しています。用水路の流れの中には、たくさんの鯉が泳いでいます。用水路の全長に渡って鯉が見られました。


既に桜の季節は終わり誰も歩いていませんが、桜の咲く季節は賑わったことでしょう。でも、桜の花は終わっても瑞々しい緑もまた心地よいものです。人が居ないのも静かで良いですね。
宿河原堤桜保存会の「桜」と書かれた立派な記念碑も立っていました。


2Kmほど進むと、前方に東名高速が見えてきます。快適な遊歩道はここで終わりです。
徒然草の115段の宿河原の石碑が立っていましたが、調べると「宿河原」とは、今で言うホームレスが集まった場所を指す当時の一般名詞で、必ずしもこの地を指すものかは疑問のようです。


東名高速を過ぎると、単なる都会地の中を流れる用水路の様相となりますが、250mほどで上河原堰から流れてきた用水が合流します。写真で、右からが宿河原堰からの流れで、左からが上河原堰からの流れです。
合流点から1.5Kmほど進むと、西から流れて直交する平瀬川の下をくぐるために、 ここで堰を設けて水を溜めています。二ヶ領用水の水は平瀬川の下を潜り抜け、余剰水は堰から流れ出て平瀬川に放流され、多摩川へと戻されています。


さて、平瀬川をトンネルでくぐってきた二ヶ領用水の水は、円筒分水の中央からサイフォンの原理で噴出してきます。
2つの円筒の水路は、水面下でつながっており、中心の円筒の下部に噴出した水は流速を抑えられ緩やかに外側の円筒に導かれるようになっています。そしてもう1つの本来の重要な役割、正確な分水です。外側の円筒の 円の弧に沿って流れ出る水を、それぞれの弧の長さによって正確に分水して います。これにより、水の流量の増減があっても正確に分水の比率が保たれます。

この分水設備は、多発していた水争いを解決しようと、多摩川右岸農業水利改良事務所長の平賀栄治氏の設計で昭和16年に完成されたもので、一挙に水争いが解決したとのことです。
ずいぶんと手の込んだ設備をつくったものですが、国の有形文化財にも指定されています。


円筒分水から田園都市線の高津駅方面に向かう水路は、やはり桜の木が植えられた心地よい道で、途中で国道246号をくぐり、1Kmほどで高津駅に着きました。


2012.11.25
最後は、海蔵寺です。ここも、紅葉する木は多くはありませんが、山門付近には紅葉(もみじ)が植えられています。紅葉より底抜けの井、十六井が有名です。






浄智寺は鎌倉五山の第4位のお寺ですが、紅葉する木は、僅かに1本、あとは垣根の傍に植えられたドウダンツツジの数本だけです。






2012.11.14
今日は、亀ヶ谷坂(かめがやつさか)切通しと巨福呂坂(こぶくろざか)切通しを歩きます。
これで、鎌倉七口と言われる切通しを全て歩き尽くすことになります。加えて鎌倉七口ではないですが釈迦堂口切通しも印象深い切通しでした。
何時もは、鎌倉駅で鶴岡八幡宮側の東口に出るのですが、今日は西口を出て「寿福寺」に向かいました。寿福寺は、源頼朝が没した翌年の正治2年(1200)に妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建したお寺で鎌倉五山第3位の寺院です。創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院でしたが、宝治3年(1247)に火災にあい、正嘉2年(12568)の火災で全て消失しました。今は、山門を潜って長い参道を進むと中門、仏殿、庫裏、鐘楼がありますが、中門から中には入れませんでした。


仏殿の裏手に回ると、やぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)があり、源実朝(左の写真)と北条政子の墓と伝わる五輪塔があります。


寿福寺を後にして、横須賀線のガードを潜って「亀ヶ谷坂切通し」に向かう丁字路に向かうと、岩船地蔵があります。堂内には源頼朝の息女・大姫の念持仏と伝えられる白顔の地蔵が安置されています。日本三大岩船地蔵の一つです。大姫は、人質で鎌倉へ来ていた木曽義仲の嫡男・義高の妻として馴染んでいましたが、木曾義仲が近江粟津で源頼朝の追討軍に殺害された後、頼朝は人質であった義高も殺害しました。義高が殺害された後、大姫はノイローゼになり頼朝、政子の祈願も空しく、建久8年(1197)、20歳の若さで亡くなりました。哀れな死をいたむ北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺の送りをしたと伝えられています。

岩船地蔵の先に進むと左手に薬王寺があります。この地には、元真言宗に属していた梅嶺山夜光寺がありましたが、日像聖人が時の住僧を論難し改宗して法華経受持の寺院となりました。
日達聖人は有力な外護者の援助を得て、衰微していたこのお寺を忽ちにして七堂伽藍完備の立派な寺院となし、山号寺号を大乗山薬王寺と改称しました。
寛永年間、非業の最期を遂げた駿河大納言徳川忠長公の追善供養の為、奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)は莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に立派な諸堂を造営するも享保5年(1720)ことごとく焼失しています。徳川忠長公供養塔の存在により、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていた為、一般住民の埋骨を許さない格式由緒ある寺でした。本堂裏には、松孝院殿と12歳で死去した娘の梅嶺院の宝篋印塔があります。


薬王寺を過ぎると、亀ヶ谷坂切通しです。現在の鎌倉市扇ガ谷から山ノ内を結ぶ坂道です。「亀も登れないほどの急坂」ということで亀ヶ谷坂という名がついた切通しと言われています。今も急坂ですが、昔はもっと急だったとのことです。新田義貞が鎌倉に討ち入った際は、激戦地のひとつとなりました。


亀ヶ谷坂切通しを越えて行くと鎌倉街道にぶつかります。左側には「長寿寺」があります。ここで、右折して「建長寺」の前を通り、巨福呂坂洞門を潜ります。現在では、この洞門ができ「巨福呂坂切通し」は損なわれて、痕跡を残すのみとなっています。その痕跡を訪ねて、鶴岡八幡宮の横の県立近代美術館を通り過ぎて、右の道を入って行きます。


進むと、正面に「巨福呂坂送水管路ずい道」の出口があり、その右の急坂を上って行きます。

右の坂道を上って行くと、左側に「青梅聖天社」の急な階段があります。聖天とは正しくは歓喜天といい、インドに由来する神様です。病気になった将軍が季節はずれの「青梅を食べたい」というので、家臣が社で祈願すると梅の木に実がついた。それを食べた将軍は快癒し、以来、青梅聖天と呼ばれるようなったといわれています。歓喜天は、男神と女神が「相抱き正立」し、顔を見つめあう姿をされていることから、一般的には夫婦和合のご利益があると信仰を集めています。ここの聖天社も峠を往来する人々の安全を願って祀られたという由来から、旅行安全の祈願に訪れる参拝者も多いとのことです。


「青梅聖天社」を通り過ぎて進むと、左側に石碑群があり、これがかつての切通しの道であった唯一の名残と言えます。進むと、民家の先が私有地で進めなくなり、少し先で行き止まりのようです。


これで、鎌倉七口と言われる全ての切通を訪れました。七口には入らないが「釈迦堂口切通し」も圧巻でした。
2012.11.05
今日は、以前から行こうと思っていた鎌倉の釈迦堂口切通しを歩くことにしました。
まず、鎌倉駅から小町通を通って鶴岡八幡宮の方に向かいます。


鶴岡八幡宮に寄りたかったのは、台風で倒れた大銀杏のその後がどうなっているか気になっていたからです。
切り株からは、ひこばえ(若芽)が1本だけ見られました。切断した太い幹にも僅かに緑の葉らしいのが見られましたが、いずれも厳しい状況のように思えます。倒れた年には、沢山のひこばえが出ていたのですが。
なお、七五三の親子連れがちらほら見受けられました。


鶴岡八幡宮の前を東に進み、岐れ路(わかれみち)の信号の手前で左折して頼朝の墓所に寄り道をしました。真っ直ぐな道が墓所のある丘に続いていて、200mほど進むと墓所への石段があります。


階段の上は法華堂跡です。源頼朝が聖観音像を本尊として持仏堂を建立し、頼朝の死後この堂に葬られ「法華堂」と呼ばれるようになったものです。法華堂は後に廃絶されましたが、江戸時代に島津氏によって、高さ186cmの五層の石塔が建てられました。
また、平治の乱で頼朝が13歳で伊豆に流され、頼朝と同母で3歳の稀義(まれよし)は土佐に配流されましたが、2人は生きて再会することは叶わなかったのです。そこで近年、両者の墓所の石と土を交換して再会としたとのことです。


元の道路に戻って進み、「大御堂橋」の信号で右折すると、橋の袂に「釈迦堂口切通」の道標が立っていました。橋を渡って左折して進むと再び道標が立っていて、通行禁止と書かれていましたが、ともかく道標にしたがって進みました。


進んで行くと、通行禁止と書かれて柵が設けられていましたが、柵の横を通る踏み跡道が通じていたので進みました。自己リスクで進むしかありません。柵を過ぎると、急に山道同然の道となり、切り通しが見えてくると、また2重に通行禁止の柵が設けられていました。ここまで来て諦める気にはなれず、かなり乱暴と思えたのですが柵の横をすり抜けました。全くお勧めできません。


ようやく、切通しを前にしましたが、切通しというより「洞門」の様です。確かに落石の危険があるのかも知れませんが、それほど危険なようにも見えません。
無事通り過ぎましたが、通り抜けてからの2重の柵の方が、前の柵より越すのは大変でした。絶対に通さないとの意思を持って設置したように思えました。切通しの落石より、柵を超える方が危険です。本当にお勧めできません。
事故を恐れるあまりに通行禁止としているのでしょうが、歴史的な遺構であり、何とか見学できるようにできないものかと思いました。


なお、この切通しは、鎌倉の外の地域とを結ぶ切通しではないため鎌倉七切通し(七口)には数えられてはいません。 後は、鎌倉駅まで歩き、お昼時であったので食事をして帰りました。